田中宏輔 2021年3月19日1時32分から2021年10月18日0時08分まで ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年3月19日1時32分] 二〇一五年十一月一日 「海に戻る。」  ぼくはまだ体験したことがないのだけれど、おそろしい体験だと思うことがある。自分がどの時間にも存在せず、どの場所にも存在せず、どの出来事とも関わりがないと感じることは。どんなにつらい体験でさえ、ぼくはその時間にいて、その場所にいて、そのつらい出来事と遭遇していたのだから。  詩があるからこそ、季節がめぐり春には花が咲くのだ。詩があるからこそ、恋人たちは出合い、愛し合い、憎み合い、別れるのだ。詩があるからこそ、人間は生まれ、人間は死ぬのだ。詩があるからこそ、事物や事象が生成消滅するように。つまり、詩が季節をつくり、人間をつくり、事物や事象をつくるのだ。  奪うことは与えること。奪われることは与えられること。与えることは奪うこと。与えられることは奪われること。若さを失い、齢をとって、健康を損ない、うつくしさを失い、みっともない見かけとなり、若いときには知ることのなかったことを知り、そのことを詩に書くことができた。  ぼくが天才だと思う詩人とは、遭遇の天才であり、目撃の天才であり、記述の天才である。遭遇と目撃は同時時間的に起こることだが、遭遇と目撃から記述に至るまでは、さまざまな段階がある。さまざまな時間がかかる。ときには、いくつものことが合わさって書かれることもある。何年もかかることもある。  純粋な思考というものは存在しない。つまり、あらゆる思考には、きっかけとなるものがあるのだ。たとえば、偶然に目にした辞書の言葉との遭遇であったり、読んでいた本に描かれた事柄とはまったく違ったことを自分の思い出のなかで思い出したものであったりするのだ。きっかけがなく、思考が開始されることはない。なぜなら、人間の脳は、思考対象が存在しなければ、思考できないようにつくられているからである。したがって、遭遇と目撃と記述の3つの要素についてのみ取り上げたが、解析には、その3つの要素で必要十分なのである。  そうだ。詩が書くので、太陽が輝くことができるのだし、詩が書くので、雨が降ることができるのだし、詩が書くので、川は流れることができるのだし、詩が書くので、ぼくが恋人と出合うことができたのだし、詩が書くので、ぼくは恋人と別れることができたのだ。  そうだ。詩が書くので、ぼくたちは生まれることができるのだし、詩が書くので、ぼくたちは死ぬこともできるのだ。もしも、詩が書くことがなければ、ぼくたちは生まれることもできないし、詩が書かなければ、ぼくたちは死ぬこともできないのだ。  こんなに単純なことがわかるのに、ぼくは54歳にならなければならなかった。あるいは、54歳という年齢が、ぼくにこの単純なことをわからせたのだろうか。たぶん、そうだ。単純なことに気がつかなければならなかった。気がつかなければならないのは単純なことだった。  さっき、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、読むのを途中でやめたのだった。自分でもドキドキするようなことを書いていて、自分だからドキドキするのかな。でも、完全に忘れてることいっぱい書いていて、ことしの2月のことなのにね。すごい忘却力。  ディキンスンやペソアのことを、さいきんよく考える。彼女や彼がネット環境にあったら、どうだったかなとも考える。まあ、なんといっても、ぼくの場合は、詩は自分自身のために書いているので、発表できる場所があれば、それでいいかなって感じだけど。詩集も出せてるしね。  目を開かせるものが、目を閉じさせる。こころを開かせるものが、こころを閉じさせる。意味を与えるものが意味を奪う。喜びを与えるものが喜びを奪う。目を閉じさせるものが、目を開かせる。こころを閉じさせるものが、こころを開かせる。意味を奪うものが意味を与える。喜びを奪うものが喜びを与える。  小学校の3年生のときくらいに好きだった友だちのシルエットが、いまだに目に焼き付いて離れない。あしが極端に短くて、胴が長い男の子だった。あのアンバランスさが、ぼくの目には魅力的だったのだ。当時は、うつくしいという言葉を使うことはなかった。逆光で、真っ黒のシルエット。顔は記憶にない。  これからお風呂に入って、レックバリの『人魚姫』を読もう。ペソアの『ポルトガルの海』かなりお気に入りの詩集になりそうだ。いまのところ、はずれの詩がひとつもない。よく考えてつくってある。ペソアは自分自身のことを感じるひとだと思っていたかもしれないが、考えるひとだったと思う。徹底的に。  お風呂から上がった。ペソアの『ポルトガルの海』のつづきを読もう。財布にはもう58円しか残っておらず、ドーナツひとつも買えない。あした銀行に行こう。  詩が、ぼくの目が見るもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの目は、ぼくが見るもののことを見ることができるのだ。詩が、ぼくの耳が聞くもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの耳は、ぼくの耳が聞くもののことを聞くことができるのだ。詩が、ぼくの手が触れるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの手は、ぼくの手が触れるものを触れることができるのだ。詩が、ぼくのこころが感じるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくのこころは、ぼくのこころが感じるものを感じることができるのだ。詩が、ぼくの頭が考えるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの頭は、ぼくの頭が考えるもののことにについて考えることができるのだ。詩が、ぼくに、目を、耳を、手を、こころを、頭を与えてくれたのだ。詩がなければ、ぼくは、目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、こころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、頭を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、見ることができる目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、聞くことができる耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、触れることができる手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、感じることができるこころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、考えることができる頭を持たなかっただろう。 ナボコフの『アーダ』の新訳はいつ出るんだろうか。  休みがつづくと、油断してしまうからか、クスリの効きがよくて、お昼も何度か眠ってしまった。つぎの日が仕事だと思うと、あまり眠れないけれど。眠れるクスリがなければ、ぼくなんか、とっくに死んじゃってると思う。まあ、詩がなかったら、精神的に死んじゃってるだろうけれど。詩があってよかった。  ペソアか。はやってるときに、名前は知ってたけど、はやってるって理由で避けてたけど、いいものは避けつづけることはできないみたいね。平凡社から出てる新編『不穏の書、断片』もよかったけど、思潮社の海外詩文庫の『ペソア詩集』も『ポルトガルの海』も、とってもいい。あと1冊、いちばん高かった『不安の書』が本棚にあって、これも楽しみ。『ポルトガルの海』に収録されているもの、いくつも、海外詩文庫の『ペソア詩集』で澤田 直さんの訳で読んでてよかったと思っていたけど、翻訳者が変わって、訳の雰囲気がちょっと違っててもいいものなんだなって思った。『不安の書』の訳者は、高橋都彦さんで、ラテン・アメリカ文学も訳してらっしゃったような気がする。リスペクトールだったかな。透明な訳だった記憶がある。まあ、リスペクトールのモチーフ自体、無機的なものだったけど。言葉が肉化していない、でもいい感じだった。  ぼくの詩が、ぼくに教えてくれるって、変かなぁ。ぼくの詩が、だろうか。ぼくの書いた詩句が、ぼくに、ほらね、その言葉の意味は、この言葉とくっつくと、ぜんぜん違ったものになるんだよとか、こういうふうに響くと、おもしろいだろとか、いろいろ教えてくれるのだ。あ、そうか。いま、わかった。自分の書いたもので学ぶことができるようになったんだ。めっちゃ、簡単なことだったんだ。というか、いままでにも、自分の書いた詩句から学んでいたと思うけれど、いまはっきり、それがわかった。わかって、よかったのかな。いいのかな。いいんだろうね。主に翻訳を通してだけど、世界じゅうのすばらしい詩人や作家たちから学んでいたけど、ぼく自身からも、いや、ぼくじゃないな、ぼくが書いた言葉からも学べるんだから、めっちゃお得なような気がする。これまで、めっちゃお金、本代に費やしたもんね。『ポルトガルの海』に戻ろう。海に戻ろうって、まるでウミガメみたいだな。ウミガメは、しばらくのあいだ、ぼくのこころをそそるモチーフの1つだった。ウミガメ、カエル、コーヒー、ハンカチーフ、バス、花、猿、海。ここに、こんど、思潮社オンデマンドから出る3冊の詩集で、サンドイッチが加わる。  あ、電話を忘れてた。電話を忘れるっていいな。しなきゃいけない電話を忘れるのは、シビアな場面もあるけど、しなきゃいけないような電話じゃない電話を忘れるのは、いいかも。しなくていい電話を忘れる。ここ5、6年。恋人がいなくて、そんな電話のこと、忘れてた。恋人には、電話しなきゃいけないのかな。でも、ぼくは自分から電話をかけたことが一度もなくって。こういうところ、消極的というか、感情がないというか、感情がないんだろうな。相手の気持ちを優先しすぎて、そうしちゃってるんだろうけれど、逆だったかもしれない。 海に戻る。 二〇一五年十一月二日 「あの唇の上で、ほろびたい。」  銀行に行こう。財布に58円しかなくって、朝ご飯も食べていない。きょうも一日、ペソアの詩を読もう。  えっ、えっ、あした休日だったの? 知らなかった。知らなかった。知らなかったー。ペソアの詩集、ゆっくり読めるじゃんかー。カレンダー見ても信じられない。あしたが休日だったなんて。ツイートにあした祝日だと書いてらっしゃる方がいらっしゃったから気づけたけど、もしそのツイート目にしなかったら、明日、学校行ってたわ。もうちょっとで、バカしてた。なんか一日、得したような気分。5連休だったんだ。どこにも出かけず、原稿のゲラチェックと詩集の読みとレックバリ読んだだけ。 言うことなく言う。 伝えることなく伝わる。 することなくする。 見ることなく見る。 合うことなく合う。 聞くことなく聞く。 噛むことなく噛む。  理想が理想にふさわしい理想でないならば、現実が現実にふさわしい現実である必要はない。  きょうは、CDを2枚、Amazon で買った。soul II soul の2枚だ。ファーストが42円。5枚目が1円だった。送料が2つとも350円だったけれど。 誰に言うこともなく言う say half to oneself 誰にともなく言う ask nobody in particular say to nobody in particular 誰言うともなく of itself The rumour spread of itself. その風説は誰言うとなく広まった。  ほんのちょこっと違うだけで、ぜんぜん違う意味になってしまうね。日常、自分が使っている言葉も、しゃべっているときに、書いているときに、微細な違いに気がつかないでいることがあるかもしれない。時間はふふたび廻らないのだから、ただ一度きり、注意しなきゃね。  その詩句に、その言葉に意味を与えるのは、辞書に書いてある意味だけではない。また、その言葉がどのような文脈で用いられているのかということだけでもない。読み手がその詩句を目にして、自分の体験と照らし合わせて、その詩句にあると思った意味が、そこにあるのである。  ルーズリーフ作業をしていると、書き写している詩句や文章とは直接的には関係のない事柄について、ふと思うことが出てきたり、考えてしまうようなことになったりして、楽しい。書き写すことは、ときには煩雑な苦しい作業になるけれど、自分の思考力が増したなと思えるときには、やってよかったと思う。  このあいだゲーテのファウストの第一部を読み直したときにメモをしたものをまだルーズリーフに書き写してなくて、そのメモがリュックから出てきたのだけれど、ゲーテすごいなあって思うのは、たいてい、汎神論的なところだったり、理神論的なところだったりしたのだけれど、次の詩句に驚かされた。 あの唇の上で ほろびたい (ゲーテ『ファウスト』第一部・グレートヒェンのちいさな部屋、池内 紀訳) 二〇一五年十一月三日 「いまが壊れる!」  悪徳の定義って、よくわからないけど、いまふと、ドーナツを1個買ってこよう。これはきょうの悪徳のひとつだ。と思った。BGMはずっとギターのインスト。高橋都彦さんの訳された『不安の書』のうしろにある解説や訳者の後書きを読んでいた。この解説によると、ペソアもそう無名ではなかったみたい。新聞にも書いていたっていうから、無名ではないな。無名の定義か。なんだろ。生きているあいだにまったく作品が世のなかに出なかったということでいえば、たしか、アメリカの画家がいて、部屋中にファンタジーの物語にでてくる人物たちを描いてた人がいたと思うけど。名前は忘れてしまった。その人が亡くなってはじめて、その絵が発見されたっていう話を、むかし読んだことがある。その人は、描くことだけで、こころが救われていたんだね。なんという充足だろう。きっと無垢な魂をもった人だったんだろね。ぼくはドーナツ買いに行く。  ドーナツを買いに行くまえに、来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、驚いた。とても美しい詩句を書いていたのだ。 こんなの。 二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」 かわいた 泥のついた ひしゃげた紙くずが 一つの太陽を昇らせ 一つの太陽を沈ませる。 「一つの」を「いくつもの」にした方がいいかな。ドーナツ買ってきてから、ドーナツ食べてから考えよう。 冒頭の「かわいた」は、いらないな。取ろうかな。  いつも買ってるドーナツ、チョコオールドファッションなんだけど300カロリー超えてたのね。いま買った塩キャラメル200カロリーちょっとで、カロリー低いの、びっくりした。見かけは、もっとカロリーありそうなのに。ドーナツ食べたら、お風呂に入って、レックバリの『人魚姫』のつづきを読もう。  なるべくカロリーの低そうなおやつを買いに行こう。とうとう、高橋都彦さんの訳された『不安の書』に突入。高橋都彦さんの訳文は、リスペクトールの翻訳以来かな。  やさしいひとは、手の置き方もやさしい。FBフレンドの写真を見ていて、友だち同士で写ってる写真を何枚か見ていて、友だちの肩のうえに置く手の表情をいくつか見ていて、気がついたのだ。やさしいひとは徹頭徹尾やさしくて、手の指先から足の爪先まで、全身にやさしさが行き渡っているのだと思った。  雨の音がする。ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の表紙絵を拡大して、プリントアウトして、ルーズリーフのファイルの表紙にしている。透明のファイルで、自分の好きな絵や写真をカヴァーにできるものなのだ。本とか、文房具とか、美しくなければ、こころが萎える。美が生活の多くを律している。  いま、FBフレンドの画像付きコメントを自動翻訳して笑ってしまった。画像は、ヨーグルトを手に、困った顔つきのドアップ。「今日病欠日下痢、リズは密かに私の食べ物に唾を吐き 80% だか分からない! 道に迷いました! 食べることができない! ハンサムなが惨めです」(Bingによる翻訳)もとの文章を推測してみよう。「きょう、下痢で欠勤した。リズが、密かに、ぼくの食べ物のなかに唾を吐いたのだ。これは、80パーセントの確率で言っている。道に迷い子がいた。食べることができなかった。ハンサムな男の子だったけど、見なりがみすぼらしかった。」あ、80パーセントを入れるのを忘れていた。友だちのリズが下痢で欠勤したのだが、ばい菌だらけの唾を吐きながら道を歩いていると、かわいらしい男の子が迷い子になっていたので、80%食べた。でもリズの食べ方は汚らしくて、食べ残しの残骸が道に散らばっていた。まるで詩のような情景だ。友だちだか恋人かわからないけれど、その子に自分の食べ物のうえに、ばい菌だらけの唾を吐かれて、下痢になってしまって、道を見ると、迷い子の男の子がいて、魅力的だったのだが、食べることができないくらいに汚らしかったというのである。いいね!して、get better soon って、コメントしておいた。FBフレンド、はやく下痢が治まって食欲が戻ればいいな〜。リズくんの唾のばい菌も、はやくなくなってほしい。80%食べられた迷い子の男の子も、そのうち生き返ってくればいいかもね〜。  目が壊れるよりさきに、目が見るものが壊れる。口が壊れるよりさきに、口が食べるものが壊れる。鼻が壊れるよりさきに、鼻が嗅ぐものが壊れる。耳が壊れるよりさきに、耳が聞くものが壊れる。手が触れるよりさきに、手が触れるものが壊れる。頭が壊れるよりさきに、頭のなかに入ってくるものが壊れる。  目に見えるものよりさきに、目が壊れる。口に入ってくるものよりさきに、口が壊れる。鼻に入ってくるものよりさきに、鼻が壊れる。耳に聞こえてくるものよりさきに、耳が壊れる。手が触れるものよりさきに、手が壊れる。頭のなかに入ってくるものよりさきに、頭が壊れる。 壊れるのなら、いま! いまが壊れる。  そろそろクスリのもう。さいきん、クスリの効きがよくない。あと、数十分、起きていよう。5連休、ほとんどペソアの詩集を読んでいた。詩集のゲラチェックをしていた。ギャオで、いくつか映画を見た。これくらいか。きのう、友だちとマンションの玄関で顔を合わせたけど、挨拶しなかった。なぜだろう?  ドイルの『シャーロック・ホームズ』もののパスティーシュを書いてみたい。詩人の探偵と、詩人の探偵助手と、詩人の犯人と、詩人の被害者と、関係者がみんな詩人のミステリーだ。ホームズ作品からの引用による詩論の準備はしてあるので、詩論は、そのうちいつか、いっきょに書き上げたいと思っている。  40年以上もむかし、子どものころに好きな遊びに、ダイヤブロックがあった。いろいろな色の透明のものが美しかった。それらを組み合わせて、いろいろなものをつくるのが好きだった。ときどき新しいダイヤブロックを買い足していた。ぼくの詩のつくり方だと思っていた。ぼくの自我の在り方だったのだ。 あくびが出た。寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月四日 「詩人賞殺人事件」  あさ、お風呂に入りながら、シャーロック・ホームズのパスティーシュ『詩人殺人事件』のことを考えていた。引用をむちゃくちゃたくさん織り込んでつくりたい。犯人と動機は考えた。場所も考えた。殺し方も二つ考えた。無名の詩人の殺人をテーマにした詩篇通りに殺されていくことにしたらいいと思った。実名は、「田中宏輔」のみ。その殺人詩篇の作者として登場させればいいかなと思う。ノイローゼで自殺した詩人として登場させようかなと思っている。まず、殺人詩篇を完成させよう。10人くらい死なせようかな。死なせる詩人の名前がむずかしいな。すでに亡くなった詩人の名前を使えばいいかな。いや、遺族から文句がくるから、有名なミステリーの犯人や探偵の名前を使って変形しようかな。悪路井戸さんとか。ひゃはは。おもしろそう。持ってるミステリーで、犯人や被害者の名前を調べよう。あ、時間だ。これから仕事に行く。『詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日』に入っている、指をバラバラに切断して、首を切断する「切断喫茶」を真っ先に思い出した。指を切断して違う指につけて回転させて会話させたり、首をつけかえるの。ぜひ、殺人詩篇に入れたい。というか、入れるつもり。通勤時間に、殺される詩人の数を4人に減らして、ひとりひとりのプロフィールを考えてた。ひとりは東京人で、詩の雑誌の会社の近くに住んで編集者と密に連絡を取り合い、お酒などもいっしょに飲むフランス文学者で、代表作品が、村野四郎の『体操詩集』ならぬ、『ダイソー詩集』で、100円ショップで買った品物についての感慨に、フランス思想家の名前とジャーゴンをちりばめたもので、その東京の詩人の詩集はたいてい、そういうもので、あと、代表的な詩集に、『東京駅』とか、『三越デパート』とかがある。あとの3人のうちの一人は三河出身の詩人で、語尾に、かならず、「だら〜」という言葉をつける。あ、さきの東京人の詩人は、しゃべるときに、かならず、「おフランスでは〜」をつけてしゃべる。あと2人の詩人だが、あとの2人は女性詩人で、ひとりは広島出身の詩人で、語尾にかならず「〜け」をつける。残ったひとりの詩人は、京都の詩人で、語尾に、かならず「〜どすえ」をつける。じっさいの詩の雑誌の編集者には、3人ほどの方と会っているが、その3人の方は、詩に対して真摯な方たちだったと思うが、ぼくが書く予定のものに出てくる編集者は、まったく詩に関心のない編集者たちにしようと思う。あと、殺人現場は、詩の賞が授与される詩の賞の授賞式会場のあるホテルの部屋で、連続殺人が起こることにする。殺され方は、2つまで考えた。ひとつは、けさ書いたように指を関節ごとに切断して首を切断するもの。あとひとつは毒殺なのだけれど、毒が簡単に手に入らないので、食塩を食べさせて殺そうとするのだけれど、まあ、コップに半分くらいの量で致死量になったかなと思うのだけれど、じっさい、むかし、京都の進学高校で、体育競技のさいに、コップに入った食塩を飲ませるものがあって、病院送りになったという記録を、ぼくは毒について書かれた本で読んだことがあって、そこには、ほとんどあらゆるものに致死量があると書かれてあったのだけれど、食塩を毒にしようとして飲ませようとするのだが、詩人が抵抗するので、指を鉛筆削りのようにカッターで肉をそぎ落としていって、食塩を飲み込ませるというもの。これで、2つの殺し方は考えた。あと、2人の殺し方を、きょう、塾から帰ったら考えよう。殺人者は、編集者のひとりである。自殺した無名の詩人「田中宏輔」の弟である。4人の詩人のプロフィールや、各詩人の作品も考えようと思う。連続殺人ができるのは、殺人者が編集者だったからである。殺された詩人たちは、まさか編集者が殺人者だとは思わずに部屋に入れてしまって、殺されてしまったというわけである。殺人を犯す編集者の名字も田中であるが、ありふれた名前だし、母親が違っていて、顔がまったく似ていなかったので、『殺人詩篇』の作者と編集者とを結びつけることができなかったのだということにしておく。一日で考えたにしては、かなり映像が見えてきている。もっとはっきり見えるように、より詳細に詰めていきたい。探偵と探偵助手のことも考えよう。  地下鉄烏丸線:京都駅で乗客がごそっと減るのだが、まんなかあたりに座っていた女性の両隣とその隣があいたのに驚いたような表情を見せた彼女の顔が幽霊の役をする女優のような化粧をしていた。表情も生気のない無表情というものだったが、電車が動き出すと、まるで首が折れかねないくらいの勢いで首を垂れて居眠りしだした。あさに遭遇する光景としたら、平凡なものなのだろうが、ぼくの目にはマンガのようにおもしろかった。地下鉄の最終駅までいたら、まだ観察できるかもしれないと思ったのだが、最終の竹田ではなく、そのまえのくいな橋で降りた。降り方は、べつにふつうだった。駅名がアナウンスされると、目覚めたかのように顔を上げ、目を見開いて窓のそとに目をやり、電車がとまるまで目を見開いたまま、電車がとまるとゾンビが動き出すような感じで腰を上げてドアに向かって歩き出したのである。竹田駅で降りてほしかったな。 『詩人連続殺人』にするか、『詩人賞殺人事件』にするか迷ってるんだけど、まあ、あと、ふたつの詩人の殺し方は、塾への行きしなと、塾からの帰りしなに考えてた。撲殺と溺死がいいと思う。ひとを殴ったこともないので、どう表現すればいいのかわからないけれど、とりあえず殴り殺させる。詩の賞のトロフィーを見たいと言った詩人に、トロフィーを持って行った編集者の犯人が殴りつけるということにしたい。トロフィーに詩人が愛着を持つ理由も考えた。自分自身がその賞を以前に受賞したのだが、以前に家が火事になり焼失したことにする。手で直接殴ると、たぶん、手の骨というか、関節が傷むので、手にタオルを巻いた犯人がトロフィーを、詩人の頭にガツンガツンとあてて殴り殺させようと思う。溺死は、ヴァリエーションがあればいいかなと思って考えたのだけれど、溺死はかなり苦しいらしいので、ひとの死に方を描く練習にもなると思う。どれもみな、経験はないけれど、がんばって書きたい。そだ。指の切断はかなりむずかしそうなので、祖母の見た経験を使おう。祖母から直接に聞いた話ではないけれど、生前に、父親が語ってくれた話で、戦前の話だ。祖母の、といっても、父親がもらい子だったので、ぼくとは血のつながりがないのだけれど、祖母の兄がやくざのようなひとで、じつの妹を(祖母ではない妹ね)中国に売り飛ばしたりしたらしいのだけれど、妹のひとりが間男したらしくって、その間男を風呂場に連れていって、指をアルミ製の石鹸箱にはさませて、踵で、ぎゅっと踏みつけて、指を飛ばした(こう父親が口にしてた)のだという。指がきれいに切断されていたらしい。たしかに、ペンチかなにかで切断しようと思うと、手の指の力でやるしかないけれど、足の踵で踏みつけるんだったら、手の指の力の何倍もありそうだものね。指の切断もむずかしくはなさそうである。きょうは、殴り殺す場面をより詳細に頭に思い描きながら寝るとしよう。被害者の詩人は、女性詩人よりも男性詩人のほうがいいかな。溺死は女性詩人が似合うような気がする。髪の毛が濡れるというのは、なんとも言えない感じがする。そいえば、お岩さんとか、髪の毛、濡れてそうな感じだものね。濡れてないかもしれないけど。撲殺は男性詩人、溺死は女性詩人がいいかな。男女平等に、4人の詩人たちのうち、男女2人ずつである。指と首の切断を、どちらにするか。あと毒殺をどちらにするか。とりあえず、きょうは撲殺のシーンを思い浮かべながら寝よう。ぼくが唯一、知ってるのは、知ってると言っても、文献上だけれど、『ユダヤの黄色い星』というアウシュビッツなどで行われた拷問や虐殺の記録写真集だけれど、死刑囚にユダヤ人たちを殴り殺させたものだ。あ、人身売買だけれど、戦前はふつうにあったことなのかな。父親からの伝聞で確証はないんだけれど、あったのかもしれないね。しかし、貴重な伝聞事項であった。犯人にアルミの石鹸箱を用意させよう。祖母の遺品とすればいいかな。むかし付き合ってたヒロくんといっしょに見た『ヘル・レイザー』がなつかしい。血みどろゲロゲロの映画だった。きょうの朝、きょうの昼、きょうの夜と、頭のなかは、『詩人連続殺人』または『詩人賞殺人事件』のことで、いっぱいだった。あとは、探偵役の詩人と、探偵助手役の詩人の人物造形だな。作品の語りは編集長にさせる予定だ。犯人はその編集長にいちばん近い編集者である。あ、東京人の詩人に知り合いがおらず、東京人の喋り方がわからないので、語尾に、「〜ですますます」をつけることにした。頭に思い描く撲殺シーンに飽きたので、ペソアの『不安の書』のつづきを読んで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月五日 「濡れた黒い花びら」 2015年10月22日メモから  詩には形式などない。あるいは、こう言った方がよいだろう。詩は形式そのものなのだ。  仕事帰りに、四条のジュンク堂に寄って、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドルー航宙記』を買った。店員が本を閉じたまま栞をはさんだので、本のページが傷んでしまった。激怒して注意した。もちろん、本の本体は交換してもらった。本を閉じたまま栞をはさむなんて正気の沙汰ではない。  エズラ・パウンドの『地下鉄の駅で』という詩は、もう何度も読んだことのあるものだった。つぎのような詩だ。 人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし 濡れた黒い枝の花びら (新倉俊一訳)  トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を授業の空き時間に読んでいると、その141ページに、?黒く濡れた枝についた花びら?(エズラ・パウンドの短詩)と割注が付いた詩句が引用されていて、パウンドの詩集を調べて確認した。(自分の詩集ではなく、仕事場で確認するために勤め先の図書館で借りた詩集で)すっかり忘れていた。何度も読んでいた詩なのに。  こんど11月10日に思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかに、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』から「濡れた黒い枝の先の花びらなどなし」(黒丸 尚訳)という言葉を引用しているのだが、この言葉のもとには見た記憶があったのだが、禅の公案か、なにかそういったものだと思っていたのだったが、公案で検索したが探し出せなかったのであるが、そうか、パウンドだったのだと、自分の記憶力のなさに驚かされた次第である。めちゃくちゃ有名な詩なのにね。  ところで、帰りの電車のなかで、「濡れた黒い」と「黒く濡れた」では意味が違うのではないかと思った。木の枝が雨に濡れたかなんかして、水をかぶると、灰色だった枝まで黒く見えることがあるけれど、さいしょから黒い枝もある。濡れて黒いのか、黒くて濡れたのか、どっちなんだろうと思って、帰って部屋で原作の英詩を調べた。 IN A STATION OF THE METRO The apparition of these faces in the crowd; Petals on a wet, black bough. さて、どっちかな? さて、これから塾。  いま塾から帰った。パウンドのものだ。もとから黒い枝のような気がするけど、濡れるともっと黒くなるよね。どだろ。  ニコニコキングオブコメディを見てる。塾の帰りに今野浩喜くんに似ている青年がバス停にいるのを目にする。しじゅういるけれど、ぼくの塾の行帰りの時間に。かわいい。西大路五条の王将で皿とか洗ってる男の子だ。まえに王将で食べてたら、奥で皿を洗ってた。 二〇一五年十一月六日 「soul II soul」  apprition には、出現のほかに、幽霊、おばけという意味があるので、新倉さんは後者に訳されたんでしょうね。どちらの訳も可能ですから、どちらもありうる訳なんでしょうね。きのう地下鉄で見た女性の表情は幽霊に近かったです。パウンドの目にもそう映ったのでしょうか。言葉が豊富な語彙を持っているので、多様な訳というのがあるのでしょうね。このことは翻訳のさいには逃れられないことであると同時に、文化を豊かにするものでもあると思っています。たくさんのひとの同じ原作の英詩の訳が読んでて楽しい(ときには腹立たしい)理由でもあります。イメージがはっきりしてそうで、じつはそうでないかもという気もしてきました。というのも、パウンドが見た顔が、どんな顔たちだったかはっきりしないからです。こうして、顔のところはわかりませんが、花のところは、原文より日本語訳の方が、ハッとする感じのような気がしますね。  きょうは塾がないので、数日ぶりに、ペソア詩集(高橋都彦訳)を読もう。そのまえに、ニコニコキングオブコメディをもう一回、見よう。  圧力をかけて、人間を重ねて置いておくと、そのうち混じり合う。吉田洋一と高山修治と原西友紀子と川口篤史をぎゅっと重ねて置いておくと、二日ほどすると、吉山口修と山子原史と篤田友紀治と洋西史高になる。四日ほどすると、‥‥‥  16世紀に現われた絶対王政の国王で、最盛期の大英帝国の基礎を築いたのはだれか、つぎの?から?のなかから選びなさい。 ?吉田洋一 ?高山修治 ?原西友紀子 ?川口篤史  吉田洋一と高山修治は同じ日に死んだ。飛び降り自殺である。二人は恋人同士だった。心中である。 原西友紀子は吉田洋一の3週間前に死んだ。吉田洋一は川口篤史ともいっしょに死んだ。交通事故である。二人の運転していた車が正面衝突したのだった。なぜ、原西友紀子が一人で死んだのか答えなさい。  食べるママ。お金を入れると食べるママ。しゃべるママ。お金を入れるとしゃべるママ。比べるママ。お金を入れると比べるママ。食べないママ。お金を入れないと食べないママ。しゃべらないママ。お金を入れないとしゃべらないママ。比べないママ。お金を入れないと比べないママ。  ママを食べる。お金を出してママを食べる。ママにしゃべる。お金を出してママにしゃべる。ママを比べる。お金を出してママを比べる。ママを食べれない。お金を出さないとママを食べれない。ママにしゃべれない。お金を出さないとママにしゃべれない。お金を出さないとママを比べられない。  来週、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』を読み直してたのだけれど、ほんとうにくだらないことをいっぱい書いていた。詩はくだらないものでいいと思っているので、これでいいのだけれど、ほんとうにくだらないことばっかり書いてた、笑。生きていることも、ほんとうにくだらないことばっかだ。  soul II soul のアルバムが届いて、そればっか聴いてる。soul II soul も、くだらない音だ。だらしない、しまりのない、くだらない音だ。でも、なんだか、耳にここちよいのだ。瞬間瞬間、いっしょうけんめいに生きてるつもりだけど、くだらないことなんだな、生きてるって。  soul II soul のアルバムを Amazon で、もってないもの、ぜんぶ買った。といっても、もってるものと合わせても、ぜんぶで5枚だけど。いまのぼくの身体の状態と精神状態に合うのだろう。身体の節々が痛いし、身体じゅうがだるい。ずっと頭がしびれている。死んだほうがましだわ。  トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)がとてもおもしろいのだけれど、主人公が探している女性の姿がなぜ現われたのか、読んでる途中でわからなくなって、数十ページ戻って読み直すことにした。記憶障害かしら。一文字も抜かさずに読んでいるのに、重要なことが思い出せないなんて。  トマス・スウェターリッチの『明日と明日』150ページまで読み直して、ようやく思い出せた。おもしろい。ペソアは、あと回しにしよう。  月曜日は、えいちゃんと焼肉。あとは、ずっと本が読める。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。エリオット、パウンドの詩句とか、話とか、英語圏の現代詩人の詩句が続出(でもないかな、でも、すごいSF)。ぼくもこんなの書きたいな。  数の連続性の話は微分と絡んでいるのだけど、微分では納得できないことがいくつもあって、もう一度、数の連続性について勉強し直そうと思う。ごまかされている感じが強いのだ。  大谷良太くんちに行ってた。学校の帰りに、大谷くんとミスドでコーヒーとドーナッツ食べて、くっちゃべって、そのまま大谷くんちで、お茶のみながら、くっちゃべって、晩ご飯にカレーうどんをいただいて、くっちゃべってた。  帰りにセブイレでサラダを買ってきたので、食べて寝よう。あしたは、『明日と明日』のつづきを読もう。 二〇一五年十一月七日 「20円割引券」  雨がすごい。むかし雨が降ったら、ああ、恋人が通勤でたいへんだなと思ったものだが、別れたいまでも、たいへんだなと思ってしまう。別れたら、そんな感情はなくなるのがふつうのことみたいに聞くけれど、どうなんだろうか。ぼくのような気持ちの在り方のほうが、ぼくにはふつうのような気がするけど。  ようやく起きた。これからフランスパンを買いに行く。帰ったら、スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。一文字も見逃せない作品だ。すごい。  コーヒーとドーナッツを買ってこよう。20円引きのレシート兼割引券を持っていこう。貧乏人には、こういうのが、うれしい。  トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)における誤植:280ページ1行目「両目も切り開かれていて、網膜レンズがとたれていた。」 これは、「網膜レンズもとられていた。」の間違いだろう。ハヤカワ文庫の仕事は、岩波文庫と同様に一流の校正係の人間に見せなきゃいけないと思う。 これからスーパーに晩ご飯を買いに行く。終日、soul II soul 聴いてる。  そいえば、きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する予定の新しい『詩の日めくり』も、soul II soul みたいな感じかもしれない。 二〇一五年十一月八日 「明日と明日」  トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読み終わった。すばらしい小説だった。スウェターリッチが参考にしたという、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を、これから読む。買い置きしてる小説がいっぱいあるので、当分、なにも買わないでおきたい。買うだろうけれど、笑。 きょうは、これから、えいちゃんと焼肉屋さんに行く。雨、やんでほしい。  えいちゃんとの焼肉から帰ってきたら、電話があって、M編集長かしらと思ったら、先週、道で声をかけてくれた前に付き合ってた子からだった。で、いっしょに部屋で映画見て、お互い、体重が重いから減らそうねって話をして、いまお帰り召された。きょうの残りの時間は読書しよう。  あしたは夕方から塾だけど、それまでは時間があるから、たっぷり読書できる。しかし、きょう読み終わったトマス・スウェターリッチの『明日と明日』はよかった。帯に書いてあった、ディックっぽいというのは、『暗闇のスキャナー』の雰囲気のことかな。たしかに、読後感は近い感じがする。  スウェターリッチの『明日と明日』が、あまりによかったので、いま、amazon レビューを書いた。あしたくらいには反映されるだろう。 もう反映されてた。 http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%9%A5%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%97%A5-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4150120242/ref=cm_cr-mr-img… 二〇一五年十一月九日 「hyukoh」  疲れがたまっているのかもしれない。さっきまで起きれなかった。塾に行くまで、ペソアの『不安の書』を読もう。  hyukoh って、アーティストのアルバムを買おうと思って、Amazon ぐぐったら、再入荷の見込みが立たないために、現在扱っていないとのこと。ありゃ、ひさびさに本物のアーティストを見つけたと思ったのだけれど、まあ、こんなものか。欲しいものが手に入らないというのも、どこかすてき。  よい音楽を聴くと、思い出がつぎつぎと思い出されて、詩句になっていく。ぼくの初期の作品も、中期の先駆形も、さいきんの作品もみな、音楽がつくったようなものだ。きょう、チューブを聴きながら、20代のころの記憶がつぎつぎと甦ってきた。ただ、ぼくの記憶を甦らせた音楽は売ってなかったけれど。  詩はとても個人的なものが多いからかもしれないけれど、自分がよいなと思うものが、ほかのひとのよいと思うものと重なることがほとんどない。このあいだ大谷良太くんちで晩ご飯を食べたとき、半日いっしょにいて詩の話をいっぱいしたけれど、二人が同時に好きな詩はひとつもなかった。それでよいのだ。  hyukoh のアルバムは韓国でも生産中止らしい。よい曲がいっぱい入ってるのに、残念だ。憶えておこう。いつかアルバムが再発売されるかもしれないから。欲しい本はすべて手に入れたのだけれど、CDは、hyukoh のように、Amazon で探しても見つからないものがある。よいけれど。 これから塾に。そのまえにブックオフに寄ろうかな。 寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月十日 「BEENZINO」  カヴァーをはずして、ペソアの『不安の書』を、床に就きながら読んでいるのだが、メモをとるのに、表紙のうえでメモを寝ながらとっていたために、ペンをすべらせてしまい、表紙のうえに、インクのあとを5,6センチ走らせてしまった。さいわい、表紙が黒だったので、それほど目立たないが。死にたい。ヴォネガットの本に次いで、二度目だ。ぼくくらい本の状態に神経質なひとは、めったにいないだろうに。うかつだった。死にたい。ひたすら、死んでしまいたい。5000円以上した本なのに。まあ、値段の安いものなら、だいじょうぶってわけじゃないのだけれど。  そうか、睡眠薬の効きが関係しているのだろう。電気けして横になる。二度目のおやすみ、グッジョブ! 父の霊が出てきて、目がさめた。最悪。 大声で叫びながら目が覚めた。最悪。隣の住人がどう思っているか。最悪。  人間は事物と同様に外部に自己を所有する。内部と似ても似つかぬ外部を所有することもある。無関係ではないのだ。ただ似たものではない、似ても似つかぬということ。外部から見れば、内部が外部になる。外部とは似ても似つかぬ内部を外部が所有しているのだ。内部は外部を所有し、外部は内部を所有する。しかし、現実にはしばしば、内部は内部と無関係な外部を所有することがある。外部は外部と無関係な内部を所有することがある。所有された無関係な外部や内部が、その内部や外部に甚大な被害をもたらすことがある。ときとして、運命論者は、それを恩寵として捉える。人間も事物も、偶然の関数である。いや偶然が人間や事物の関数であるのか。人間と事物の定義域とはなんだろう。偶然の値域とはなんだろう。あるいは、偶然の定義域とはなんだろう。人間や事物の値域とはなんだろう。そこに時間と場所と出来事がどう関わっているのか。  それはそこに存在するものなのだが、見える者には見え、見えない者には見えないのだ。それはそこに存在するものではないのだが、見えない者には見えず、見える者には見えるのだ。  人間だからといって、魂があるものとは限らない。人間ではないからといって、魂がないものとは限らない。  ぼくというのは、ぼくではないものからできているぼくであって、ぼくであることによって、ぼくではないものであるぼくである。ぼくはつねにぼくであるぼくであると同時に、つねにぼくではないぼくだ。  現実に非現実を混ぜ込む。これは無意識のうちにしょっちゅうしていることだ。ましてや、しじゅう、詩や小説を読んだり、書いたりしているのだ。意識的に現実に非現実を混ぜ込んでいるのだ。日常的に、現実が非現実に侵食されているのだ。あるいは、逆か。日常的に、非現実が現実に侵食されているのか。  きのう、BEENZINO という韓国アーティストのアルバムが2500円ちょっとだったので、11月23日くらいに入荷すると Amazon に出てたので、買ったのだが、即効なくなってた。前日までなかったので、一日だけの発売だったのか。いま10000円を超えてて、まあ、なんちゅうごとざましょ。  hyukoh これから毎日、Amazon で検索すると思うけど、はやくアルバム出してほしいわ。 二〇一五年十一月十一日 「ぼくを踏む道。ぼくを読む本。」 ぼくを踏む道。ぼくを読む本。  ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていたのか。ぼくがいったい何を考えていたのか。ぼくがいったい何について学んだのか。  人間というものは、それぞれ違ったものに惑い、異なったものに確信をもつ。逆に考えてもよい。違うものがそれぞれ人間を惑わせ、異なるものがそれぞれ人間に確信をもたせる。人間というものが、それぞれ違った詩論を展開するのは、異なる詩論がそれぞれ人間というものを展開していくものだからである。  ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていなかったのか。ぼくがいったい何を考えていなかったのか。ぼくがいったい何について学ばなかったのか。  きょうは塾がないので、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。だいぶ退屈な感じになってきたが、まあ、さいごまで読もうか。600ページを超えるなか、今、160ページくらい。 二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」  言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。 ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。  よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。  毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。 強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。  soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。  きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ〜。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った〜い。  ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。  高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。論理的に詰めが甘いところが多々ある。記述の矛盾も、文学的効果というより、うっかりミスかなと思われるところも少なくない。全訳読むと、ちょっと、ぼくのなかでのペソアの評価がさがってしまった。 二〇一五年十一月十三日 「ケイちゃん」 あめがしどいなあ。しごとだ。いってきます。  レックバリの『人魚姫』あと少しで読み終わる。不覚にも、涙が出てしまった。レックバリ、そりゃ売れるわと思った。読み捨てるけど。本棚に残して、ひとに見られたら一生の不覚という類の作家。  そうとう飽きてきたけれど、これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。あしたは、バーベQ。 田中宏輔は童貞で純粋でビッチでホモでオタクでヘタレです。 https://shindanmaker.com/495863 「田中宏輔」がモテない最大の理由 【 い ち い ち セ コ い 】  https://shindanmaker.com/323387 田中宏輔さんのホモ率は… 74% 平凡より少し上です https://shindanmaker.com/577787  いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。  シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』 (創元推理文庫) これは買わなければならない。  記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。  ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。 二〇一五年十一月十四日 「バーベQ」  きょうは、えいちゃん主催のバーベQだった。炭になかなか火がつかなくって、みんな苦労して火を熾してた。お肉がおいしかった。お酒もちょびっと飲んだ。禁酒してたけど。 セブイレにサラダを買いに行こう。  バーベQから帰ってきたら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のPDFが送られていた。これからプリントアウトしてチェックする。 ゲラチェック、つらすぎ。  ゲラチェックはスムーズに行くようになった。『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻に比べたら、めっちゃ楽。基本、ぼくの詩句だから、間違ってても、どってことない。引用部分だけに気をつけていればいいのだから。あしたじゅうに、ゲラチェック終えられると思う。だいぶ精神的に立ち直った。よかった。 もうそろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!  あした、病院に行くの、おぼえておかなきゃ。ついでに、ジュンク堂で、S・ジャクスンの新刊を買おうっと。 二〇一五年十一月十五日 「だまってると、かわいいひと。」  だまってると、かわいいひと。しゃべってると、かわいいひと。だまってても、しゃべってても、かわいいひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいいひと。だまってると、かわいくないひと。しゃべってると、かわいくないひと。だまってても、しゃべってても、かわいくないひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいくないひと。  朝から、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックをし終わって、手直ししたところをワードにコピペした。あと、もう一度、点検したら、送ろう。『全行引用詩・五部作』のことを思ったら、ぜんぜんちょろいものだった。あー、ちかれた。ちょっと休憩して、サラダ買いに行こ。 『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェック、2回目完了。これから病院に。帰ってきたら、3回目の再校のゲラチェックして、訂正部分をPDFにして、メール添付して送ろう。  いま帰ってきた。シャーリイ・ジャクスン1冊、ジーン・ウルフ2冊で、6500円ちょっとだったかな。まあ、ぼくの一日の労働に対する給金分くらいである。いつ読むか、わからんけど、買っておいた。ジーン・ウルフのは、棚に平置きされてるのがごっそり数が少なくなってたから、売れているのだろう。  きょうは、晩ご飯を食べよう。これからイーオンに買いに行く。お弁当にするか、フランスパンにするか。  再校の直しを書いたワードを見直しているのだが、何度、見直しても、その見直しに直すべき個所が出てくる。ぼくのテキストが異様なのか、ぼく自身が異様なのか。それとも、これがふつうなのかな。ちょっと球形して、もう一度、見直して、PDFにして送ろう。  ようやく、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックしたものを送付した。全行引用詩は3週間かかったけれど、これは24時間以内にできた。楽チンだった。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出すことにしている。ゲラチェックに時間をとられないように、目を鍛えておこう。  きょうの残りの時間は、きょう買った、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の表紙をじっくり眺めて、解説を読んで眠ろう。本のきれいなカヴァーを見ると、幸せな気分に浸れる。基本的にきれいなものが好きなのだ。音楽も、詩も、絵画も、映画も。そこに奇妙さが加わると、たまらない。 二〇一五年十一月十六日 「ちょっとしたことが、すごく痛かった。」  仕事に。詩集のことがほとんど終わったので、気分が楽。数学と読書に集中できる。  きょうからお風呂場では、20TH-CENTURY POETRY & POETICS をのつづきを読む。きょうは、ロバート・フロストの DEPARTMENTAL。ひさびさにフロストの原詩を読む。  退屈な読み物になってしまっているペソアの『不安の書』だけど、惰性で読みつづけることにした。まだ218ページ。あと、この2倍ほどの分量がある。シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』のなかのエッセイや短篇をつまみ食いしてるけど。ミエヴィルの『都市と都市』は中断してしまっている。  仕事帰りに日知庵に寄って、てんぷらとご飯を食べて、その帰りにジュンク堂に寄って、本棚を見てたら、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を見つけて、びっくりして買った。第3短篇集だけど、昨年に出てるの、知らなかったのだ。ケリー・リンクも、ぼくの文学界でのアイドルである。クスリのんで横になって、ペソアを読む。おやすみ、グッジョブ!  歯磨きチューブを足の指の先に落として、めっちゃ痛くって泣きそうになった。泣かなかったけれど。こんなに痛くなるんだ、歯磨きチューブのくせに。どんな角度で落ちたんだろう。あした、指の爪のところが変色していませんように。寝るまえの出来事としては衝撃的だった。 二〇一五年十一月十七日 「午後には非該当する程度には雨が降るとより良い」 『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の三校が送られてきたので、即行チェック、5分でチェックが終わった。3カ所の直しで、終わり。即行、ワードに直しの箇所を書いて、送付した。この間、わずか30分ほど。念校は秒単位でチェックができると思う。チェックの能力がひじょうに高くなった。  これからセブイレに行って、サラダとドーナッツを買ってこよう。それからお風呂に入って、塾だ。サイボーグゼロゼロナインのように、加速装置でも付いてるかのよう。きょうは仕事が速い。BEENZINO のミニアルバムが届いた。すばらしい音だ。hyukoh のアルバムがほしい。いま一番ほしい。  午後には非該当する程度に雨が降るとより良い気分にされたスパイシーな射撃のためになる近所の増加が非常に安全保障のこれら4つの黒い子供の電子免れた写真は撮影しようとするいくつかの3つが入って失敗の笑顔は笑顔でも撮ると脇もないトイレを検索し、そう、私は真のライブは私の精神はないようだ。  これからお風呂に、それから塾に。お風呂場では、ロバート・フロストの『DESERT PLACES』、『NEITHER OUT FAR NOR IN DEEP』、『DESIGN』を読む。3つとも短詩だけど、どだろ。3つ読めるかな。 二〇一五年十一月十八日 「ペンギンは熟さない。」 ペンギンは熟さない。 二〇一五年十一月十九日 「どうせ痛いんだったら、痛みにも意味を見つけないとね。」  いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。  西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。  あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのまま留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。  そろそろクスリをのんで寝る。身体はボロボロになっていくけれども、まだまだ脳は働いているようだ。より繊細になっているような気がする。より神経質に、と言ったほうがよいかもしれないけれど。おやすみ、グッジョブ!  齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。  睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。 二〇一五年十一月二十日 「足に髭のあるひと。髭に足のあるひと。」 足に髭のあるひと。 髭に足のあるひと。 二〇一五年十一月二十一日 「記憶」  なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。  目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。  きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。 『13の過去(仮題)』のさいしょの作品になるかもしれないものを、ワードに書き込んだ。14日のツイートと、きのうのツイートを合わせて、手を入れただけのものだが、じつはほかのものを、さいしょのものにしようとしていたのだったが、ぼくの文体では、いつでもさいしょの予定のものを組み込める。 これからお風呂に、それから日知庵に行く。  さっきまで竹上さんと、パフェを食べながらオースティンの話とかしてた。また記憶について話をしていて、ぼくと竹上さんの記憶の仕方について違いがあることを知った。もしかしたら、ひとりひとり記憶の仕方が違うのかもしれない。あした京都詩人会で、大谷くんととよよんさんにも訊いてみようと思う。 二〇一五年十一月二十二日 「理不尽。理不の神。」  きょうは、これから京都詩人会の会合。夜は雨だそうだから、カサを持っていかなくちゃね。行くまえに、どこかで、なんか食べよう。  京都詩人会の会合が終わって、隈本総合飲食店に、とよよんさんと、竹上さんと行って、食事した。12月の京都詩人会の会合はお休みで、つぎは1月の予定。身体がきついので、いろいろ後回しにするけれど、ごめんなさい。元気になれば、動きます。  竹上さんと、大谷くんは、自分の後ろから自分が見た感じの映像の記憶のよう。とよよんさんは、自分が目にした映像の記憶のよう。前方や横からぼく自身を見るぼくの記憶の仕方は、作品化を無意識のうちに行っている可能性がある。大谷くんから、「現実の記憶」ではなく「記憶の現実」という言葉を聞く。  とよよんさんに、かわいらしい栞をいただいた。さっそく、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』に挟む。ペソアの詩集というか論考集というか散文集『不安の書』に挟む。ミエヴィルのSF小説というかミステリー小説『都市と都市』に挟む。コーヒーもいただいた。あした、仕事場で飲む。  きょうは、もうクスリをのんで寝る。楽しい夢を見れるような本を読めばいいのだろうけれど、本棚にあるすべての本が、楽しい夢を見れるような本ではない。クスリをのんだ。効いてくるのは1時間ほどあと。きのう竹上さんに話したことのひとつ。スウェターリッチの『明日と明日』をすすめたのだが、まったく物語を憶えていなかったのだった。ジェイムズ・メリルの詩集をまったく憶えていなかったようにだ。傑作だと思っていたのだが、記憶にないのだった。いま、シャーリイ・ジャクスンの短篇集の読んでいたページを開いても、同じように記憶がないのだった。まえのページを開けて、読むと、ようやく思い出された。ペソアは寝るまえに読んでも、ほとんど記憶できないと思うので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読もう。きのう竹上さんとディックの話もした。ディックが不遇だったことと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルのよさ。同じディックでも、ディック・フランシスの作品のタイトルの味気無さについて。ディケンズ、ジョージ・エリオット、ゾラ、バルザックの作品について話を聞いてた。なつかしいものも知らないものもあった。そうだ。オースティンの『高慢と偏見』の話でも盛り上がったのだが、竹上さんに、P・D・ジェイムズを以前にすすめたのだが、さっそく、『正義』の上下巻を読んでくれたらしい。これまた傑作だと思ってすすめたのだが、聞くと、ぼくが記憶していた物語ではなかった。20代から起こっていたのだが、作品を取り違えたり、融合させてしまったりして、これまた偽の記憶を持ってしまっていたのだった。「そして、だれもがナポレオン」の話を以前に『詩の日めくり』に書いたが、いまだに、だれの言葉だったか、ぼくのだったかわからない。マイクル・スワンウィックの『大潮の道』も、竹上さんに以前にすすめたと思うのだが、きのう、読んでよかったとの感想が聞けてよかった。いま Amazon で、いくら? と尋ねると、調べてくれた。1円だった。傑作なのに、1円である。「理不尽。理不の神である。」(キングオブコメディのコント、今野浩喜くんのセリフから引用) 眠気が起こった。PC消して横になる。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月二十三日 「ユルい体型」 起きた。お風呂に入って、学校に。  夕方から塾。塾に行くまえに晩ご飯を食べよう。イーオンに行って、フランスパンを買ってこよう。あと、コンビニで、レタスのサラダとスライスチーズとお茶を。 塾へ。  塾から帰ってきたら、カードの請求書が来てて、今回はたくさんCDを買ったのだけれど、安いものが多かった。4000円を超えてるのは、本だと思うのだが、どの本を買ったのか、すぐにはわからず。ああ、ペソアだな。違うかな。違うか。ペソアは、5000円を超えてたな。なんだろう、記録を見よう。  彩流社のペソア本2冊『ポルトガルの海』と『ペソアと歩くリスボン』が一回の請求になってて4428円だった。まぎらわしい。soul II soul のCDの記録を見ると、3つほど、1円で買ってる。流れのいいアルバムで、イージー・リスニングにいいのにね。ペソア本では、平凡社の『新編・不穏の書・断章』がいちばんよかったと思うのだけれど、思潮社海外文庫の『ペソア詩集』も、いま読んでる、『不安の書』もよいと思う。ただし、もう、「不穏の書(不安の書)』を読むのは、3冊目なので、既視感バリバリなのだけれど。  郵便ボックスには、カードの請求書といっしょに、校了になる雑誌のゲラも届いてたのだけれど、きょうは、もう自分の原稿のチェックをする体力がないので、あしたの朝にすることにして、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!  寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』。ようやく300ページ超えた。これで半分ほど。ぼくも600ページほどの詩集をつくりたい。あ、つくってるか。『Forest。』が500ページを超えてた。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出す予定だが、合わせて、1000ページを超えさせるつもり。  ふと、ユル専という言葉を思いついた。ユルい体型が好きな人たちのことだけど、デブ専とポチャ専のあいだくらいかな。デブ専のDVDをちらっと見たら、ほんとすごくて、考えられない体型してるけれど、ポチャ専だと、まだかわいらしい。でも、ユルい体型だということは、精神的にもユルいんだろうな。  でも、ぼくの知ってるおデブさんはみな繊細。どうして、中身と外見が違っちゃうんだろうな。クスリがちょっと効いてきた。PC切って寝る。二度目のおやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月二十四日 「ぼくの身体の半分は、かっぱえびせんからできている。」 これから仕事に。  Amazon で買ったCDが、きょうくらいに届く予定だったのだが、メールで、入荷もできない可能性があると連絡してきた。どういうことだろう? 事情がさっぱりわからない。  BEENZINO のアルバムなのだが。 晩ご飯を買いにコンビニまで行く。サラダとカッパえびせんかな、笑。 どん兵衛とカッパえびせんだった。 塾へ。  塾の帰りに赤飯と穴子の天ぷらを買った。ダイエットは、1週間ちょっと忘れることにした。とよよんさんがリツーイトしていた切手があまりにきれいで、しばし、うっとり。でも、もう手紙など書く習慣がなくなったので、買わないけれど、眺めることは、眺める。おいしそうだなあ。すごい発想だなあ。すばらしい発想の切手を見てると、なぜか、ウルトラQが見たくなったので、DVDを見ることにした。蜘蛛男爵がいちばん好きだけど、1/8計画も好き。両方、見ちゃおうかな。見ながら、食べようっと。 「このときのぼくの気持ちは、どんなものだったのだろう? わからない。」というのが、このあいだ書いた、『13の過去(仮題)』のキーワードだろうか。と、塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった弁当を買って、それぶら下げて歩きながら考えていた。12月から、英語も教えることに。 二〇一五年十一月二十五日 「なんでもない一日」  学校の帰りに、大谷良太くんとミスドでコーヒー飲みながら、くっちゃべってた。ぼくは聞き手に回ることが多いけれど、話を聞きながら、ぼく自身はなんとなく哲学の方向に行くような気がした。まあ、知識がないから素人哲学になっちゃうんだろうけれど。そいえば、詩も素人だけど、ずっと素人だろうな。 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読みふけっている。  きょうは、ドーナッツを朝と昼と夜に食べた。ダイエットを忘れてた。あしたから、またダイエットする。どうして忘れてしまうのだろうか。しかし、きょうは、疲れていたし、ここ数週間、体調、まったくダメだったし、ストレスすごかったし、ドーナッツ、ばかばか食べたのだと思う。あしたから自重する。  帰りにセブンイレブンでサラダを買って食べたので、これからかっぱえびせんを買いに行く。きょうは、食べまくって死んでもいいような気がしている。左手が右手よりずっと冷たい。左半分が腐って落ちてしまうかもしれない。半分だけ死ぬってことなのかもしれない。なんでこんなに体温が違うのだろうか。  あした一日中、数学するので、きょうは、もう寝る。12月になったら、英語の勉強もする。勉強して教える。これを過去形にすると、ぼくの人生を要約した言葉になる。「勉強して教えた。」句点を入れて、8文字だ。「どうにか生きた。」でも、8文字だ。「なんとか生きた。」でも、8文字だ。うううん。  FBフレンドの方があげてらっしゃる食べ物の写真がとてもおいしそうで、いいなあと思った。ぼくが食べるものって、10種類もないんじゃないかな。何十年も同じようなものを食べてる。さっきツイートに、トマト鍋なるものをあげてらっしゃる方がいらして、ぼくもやってみようかなって思った。あした。  おとついかな。とよよんさんがツイッターで書いてらっしゃったのだけれど、ぼくの『全行引用詩』の表紙画像の上巻と下巻の時間が逆だった。ビールの入ってる量を比較してわかった。とよよんさん、鋭い。いま表紙画像をあらためて見てわかった。二度目のおやすみ、グッジョブ! PC切って、寝まする。ドボンッ↓ PCつけた。  もう夜はぼくのものじゃなくなった。クスリをのんで眠るようになったからだ。20代、30代のときは、夜中まで起きてた。朝まで起きてたこともよくあった。下鴨や北山に住んでたころだ。ジミーちゃんと夜中までうろうろしてた。いつか、自販機を蹴り倒そうとしている少年に出合ったことがある。真夜中だ。だれも警察に通報しなかった。なぜだか知らないけれど。府立資料館のまえの道を歩きながら、その少年が自販機を蹴りまくっていたことを憶えている。ぼくたちは、ぼくとジミーちゃんは、居酒屋からの帰り道、ヨッパの状態で、それを見てた。不思議だった。月明かりのしたで、ぼくと、ジミーちゃんと、その少年しか道にいなくて、その少年が自販機を蹴りまくる音が道路に響き渡っていたのだった。バンバンという大きな音がしているのに、だれも外に出てこず、警察にも通報せず、という状態だった。ぼくと、ジミーちゃんは、そのあと、たぶん、ぼくの部屋で、飲みのつづきだったと思う。このエピソードは、『13の過去(仮題)』に入れるほどのものではないかな。そうでもないか。なにしろ、いまでは、もう夜が、ぼくのものではないということの意味のひとつを書いたのだから。 二〇一五年十一月二十六日 「ぼくは画家になりたかった。」  お昼を買いに行く。トマト鍋をつくろうと思ったけれど、フランスパンとチーズとサラダとミルクにしようと思う。『ジェニーの肖像』に出てくる貧しい画家の食事だ。というか、フランス・ロマン派の作家が描く貧しい詩人や画家の食事である。ぼくのあこがれでもある。ぼくはいちばん画家になりたかった。ジャック・フィニイはフランスの作家ではないけれど。そいえば、O・ヘンリーの作品に出てくる貧しい建築設計家の食事も(と、パン屋の女性経営者は思っていたが)古くなって半額になった固いフランスパンだった。貧しさを楽しんでる部分も会って、自分がわからない。10年、20年、同じ服を着て、無精ひげで、さえない顔をして、古本をリュックにいっぱい入れて、公園で本を読んでたり、マクドナルドやミスドでコーヒー飲みながら本を読んでたり、まあ、よく言えば、知的なコジキ、悪く言えば、少し清潔なコジキといったところか。25才で、家を出て、10年ほど、親に会っていなかったのだけれど、久しぶりに再会したとき、継母が、ぼくの姿がコジキみたいになっていると言って泣いた。河原町のど真ん中で泣かれて困ったけれど、そういう継母とぼくの姿を、ドラマのようだなと見てるぼくがいた。  パンを買いにイーオンに行く。きょう、あすは数学のお仕事をしなければならない。頭がはっきりしないけれど。まだはっきり目覚めていないのかもしれない。  バケット半分151円とバナナ5本100円と烏龍茶106円を買ってきた。これを、きょう一日の食事にしたい。  バケット食べてて口のなかを切った。パンを口もとから離して見てみたら、パンに血が付いてた。どうやら歯で口のなかの肉を噛んでしまったらしい。たしかに口のなかの肉に痛みを感じる。神経系がおかしくなっているのかもしれない。はやく死ねばいいのにグズグズしてる。ちょっと球形して、お仕事する。  寝てた。仕事せず。コンビニにサラダを買いに行こう。帰ってサラダを食べて、また寝そう。それくらい、しんどい。しんどいときは、寝てもいいと思う。  イーオンでチゲ定食を食べた。790円。帰りに、セブンイレブンでかっぱえびせんを買った。薄弱な意志力が強固である。仕事まったくせず。ここでも、薄弱な意志力を発揮している。とにかく、しんどいので、寝よう。  きょう、セブンイレブンからの帰り道、住んでるところのすぐ近くで、スポーツやってそうな少年に、「こんにちは!」って声をかけられてびっくりしたけれど、ぼくも、こんにちは、と返事した。知らない男の子だったのだけれど、あいさつされると気分がよい。しつけのいい家の子なのだろうと思う。  きょうは、仕事をいっさいせずに、音楽をずっと聴いてた。Brown Eyed Soul のアルバムを買おうかどうか迷っている。カセット付きのCDなんだけど、カセットなんか再生する装置がないんだけど。  ぼくが21才で、彼も22、3才だったと思うけど、Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(のアルバム)を聴いてて思い出したのだけれど、彼んちに泊まって、つぎの日の朝の喫茶店で、って彼の実家の喫茶店なのだけど、窓の外を見てた光景が思いだされた。それと同時に、滋賀県の青年のことが思い出されたのだけれど、ぼくのことも、あるひとにとっては、何人かの思い出と同時に思い出されてる可能性もあるってことかな。ぼくの知らないだれかといっしょに思い出されてるって。そういうこともあるだろうな。そのだれかて、ぼくとはぜんぜん似てなかったり。ぜんぜんぼくとは違うだれかと、ぼくがいっしょに思い出されてるって思うと、おもしろい。けど、もう54歳にもなると、だれかを愛することってないけれど(少なくとも、ぼくにはもうね)ぼくが愛さなくなると同時に、ぼくも愛されないと考えると、いっしゅ、すがすがしい思いでいられるのは、事実だ。だけど、そう、だけど、だけど、愛した子の顔は、しっかり覚えてて、その子たちも、ぼくの顔は覚えててくれて、この地上ではもう二度と会うことはなくっても、あの世っていうのかな、天国では、「やあ!」とか「ひさしぶりぃ。」とか「元気にしてる?」とかって声はかけ合うような気はする。  今晩、いい夢が見れるかな。見れるような気がする。Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(アルバムかな)を何回も聴いてて、そんな気がしてる。ありがとう、魂、か。ノブユキ、歯磨き、紙飛行機。ありがとう、魂か。もっとたくさん、もうたくさん。  うつくしい曲を聴くと、むかしあったことがつぎつぎと思い出される。大阪の彼の喫茶店は、彼と、彼のお姉さんがやってて、ぼくたちは、窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲んでた。朝だった。流れる川と、小さな黒い点々がちらつく川岸。ってことは、朝までいっしょにいたんだ。ここまで思い出した。  名前が思い出せない作曲家の子と付き合ってたことがあって、その子の頬が赤かったことは憶えてる。大坂の子の頬も赤かった。ぼくは若かったから、なんか、その頬の赤い色って、田舎者って感じがして、ちょっとばかにしてた。いまなら、その赤い頬を見て、健康的で、かわいいなって思うんだろうけれど。ああ、小倉●●くんだ。その作曲家の子の名前、4、5年も付き合ったのに、名前を忘れてた。お金持ちで、ぼくが別れたいって言ったとき、いろいろなものをくれるって言ってたけれど、ぼくはなにもいらないと言ったのだった。さいごに会った日、とっておきの服を着てきたのに、ってバカなことを言ってた。ぼくの『陽の埋葬』を読んで、「売れないものを書く意味があるの?」って言ってた。彼の曲は売れてるものもあって、「ひとを幸せにするのが芸術だよ。ひとを幸せにする芸術だけが売れるんだよ。あっちゃんのは、いったいだれを幸せにしてるの?」って言われた。返事もしないで、顔をそむけてたと思う。それももう、10年も、20年もむかしの話だ。彼は音楽的にも成功して、ますますお金持ちになっているらしい。どうでもよいことだし、彼の芸術観は、ぼくのものとはまったく違っていたし。もう愛していた記憶もなくなっている。いっしょに食事をした記憶くらいしかない。きょう、居酒屋さんで飲んでて、ひとりのお客さんが、「人生は成功しなくちゃ意味がない。」とおっしゃられて、ぼくは、すかさず、「成功するとかしないとかじゃなくて、そのひとが幸せに感じて生きているかどうかではないのですか」と言った。ぼくより年上の方に言って、少し申し訳なく思ったけれど。  朝、目が覚める。ノブユキは、朝、目が覚めなかったらって考えたら怖いって言ってた。ぼくが28才で、ノブユキは20才だった。ぼくは何度も自殺未遂してたくらいに、中学生のときから自殺して死にたいって思ってたひとだから、朝、目が覚めないことほど幸せなことはないと思ってた。それも、もう昔。  自殺しないですんでいるのは、世界には、まだぼくの知らないうつくしい音楽や詩や小説があるからだと思う。ぼくのまだ知らない音楽や詩や小説がなければ、ぼくが生きている意味がない。  そろそろ、クスリのんで寝る。クスリが効くのが1時間後くらいだから、ちょっと遅いかな。はやく効きますように。 二〇一五年十一月二十七日 「ユキ」  すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。 二〇一五年十一月二十八日 「コンピューター文芸学」  コンピューター文芸学については、ほとんど知らないのだが、はやりはじめのころ、もう4分の1世紀以上もむかしのことだが、ドイツ文学者の河野 収さんに、いくつか論文の別刷をいただいて読んだくらいなのだが、さいしょは、聖書にどれどれの文字が何回出てくるかとかいったことに使っていたようだ。やがて、詩や小説のなかに出てくるキーワードの出現頻度を調べたりして、文体研究に使ったり、作者の同定に使ったりするようになったのだろうけれど、シロートのぼくが言うのもおこがましいだろうけれど、たとえば、「目」という言葉でも、文脈によって意味が変わる。たとえば、さいころのようなものの「目」であったり、眼球の「目」であったり、こんな目にあったの「目」であったり。ということは、同じ言葉でも意味が異なるので、同じ言葉ではなくなっているのではないかということである。どうなのだろうか。そこらへんのところ。 二〇一五年十一月二十九日 「エイジくん」  日付けのないメモ「スウェットの上下、ジャージじゃなく」 たぶん、これは、京大のエイジくんのことだと思う。紫色のゴアテックスの上等そうなスウェットを着てたんだけど、ぼくはスウェットという言葉を知らなくて、だれかに聞いたんだと思う。ペラペラの白い紙の端切れに書いてあった。捨てよう。 二〇一五年十一月三十日 「バカ2人組」  きょうは、晩ご飯を食べた。昼に、数か月ぶりに天下一品に行って、チャーハンセットを頼んだのだが、あとから来た2人組の肉体労働者風の男のまえに先に店員がチャーハンを置いたのだった。ぼくはラーメンを半分食べたところだった。二人組がにやにやして「返そうか」と言ったが無視して、ぼくのチャーハンになるはずだったチャーハンを男が食べるのを視界に入れないようにしていた。すぐにぼくのほうのものがつくられて出てきたので、ラーメン残り3分の1をおいしくチャーハンと食べれた。肉体労働者風の男たち二人には、ぼくが食べ終わるまでラーメンは来ず、葬式のような雰囲気で、一つのチャーハンを一方の男が食べておった。真昼間のクソ忙しい時間の天下一品でのヒトコマである。いい気味であった。しかし、悪いのは、ぼくのまえに置くべきだったチャーハンを、あとから来て注文した男に先に出した中年女の店員であった。一つのチャーハンしか目のまえに置かれていない葬式のような暗い雰囲気になった、隣のテーブルに坐った肉体労働者風の二人の男たちをあとにして、ぼくは、おいしくラーメンとチャーハンをいただいて、勘定を払って店を出たのであった。どれくらいの時間、ラーメンが二人の目のまえに出されなかったのか、想像していい気持だった。一生、来なければ、おもしろいのに、とかとか思った。神さま、ごめんなさい。たとえ、愚かな男たちが、ぼくのチャーハンが間違えて置かれたことで、ぼくを愚弄しても、ぼくがその男たちの不幸を笑うようなことがあってはいけませんね。神さま、ごめんなさい。反省します。このことを反省して、きょうは寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月三十一日 「隣の部屋に住んでるバカ」  ぼくの隣の部屋に越してきたひと、ほとんどずっとテレビつけてるの。バカじゃないかしら。引っ越してきたときに顔を見たけど、それほどバカじゃなさそうだったけど、ぼくが部屋にいるときは、ほとんどずっとテレビの音がしてるの。いったい、どんな脳みそしてるんやろか。むかし、ノブユキに、テレビを見るなんて、バカじゃないのって言ったら、「テレビにも、教養のつくのがあるよ。選択の問題じゃない?」って言われたのだけど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音はバラエティー番組とか、ドラマのとか、そんなのばっかり。こっちは、プログレで対抗してるんだけど。プログレやジャズでね。まあ、12時近くなると、テレビ消してくれるんで、まだましだけど。でも、ぼくがいる時間、ずっといるって、ぼくは非常勤だし、時間がいっぱいあって、部屋にいまくりなんだけど、隣の男もずっといてる。仕事してないのかな。まあ、いいけど。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年3月27日0時21分] 二〇一五年十二月一日 「毛布」  きのうのうちに終えるべき仕事をいま終えて、これからイーオンに毛布を買いに行く。クローゼットに毛布が1枚もないのだ。捨ててしまったらしい。これまた記憶にないのだが、ないのだから衝動的に捨ててしまったのだろうと思う。  あったかそうな毛布を買ってきた。3200円ちょっとかな。こんなものか。お弁当を買ってきたので、これを食べたら、お風呂に入って塾に行く。  きょう買った毛布、めっちゃぬくい。寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを。塾の帰りに、ブックオフに寄った。日本人のSF作家の短篇のアンソロジーが108円なので買おうかどうか、ちょっと迷ったけれど、さいしょの短篇を読んで、買うのをやめた。 二〇一五年十二月二日 「極光星群」  これから西院のブレッズ・プラスでモーニング食べながら、数学の問題を解く。ランチもブレッズ・プラスで食べようと思う。全部解ければいいんだろうけど、半分くらいかな。  仕事、半分終わった。ちょっと休憩して、塾に行くまでに、もう半分しよう。できるかな。がんばろう。  少しずつ、やらなければならない仕事をこなしてる。塾に行くまで、あと3時間、どれだけやれるか。塾から帰ったら、お風呂に入ってすぐに床に就くつもり。時間との闘いだ。  これから塾へ。塾へ行くまえに、ラーメンを食べよう。数か月ぶりにラーメンを食べる。  塾の帰りに、きのう文句を言って買わなかった年刊日本SF傑作選『極光星群』を、五条堀川のブックオフで108円で買った。日本のSFを読むのは、20年ぶりくらいかも。あ、数年前に、山田正紀さんの『チョウたちの時間』を読んだか。ぼくも、来年、思潮社オンデマンドから、長篇のSF詩集を出す。『図書館の掟。』というタイトルだけど、それには、『舞姫。』も同時収録する予定。あと、詩論集『理系の詩学』と、『詩の日めくり』と、『カラカラ帝。』 できれば、4冊を同時に刊行したいと思っている。『カラカラ帝。』をのぞく、3冊になるかもしれないけれど。  きょうするべき仕事をすべて終わった。あした、あさってが超ハードなスケジュールなので、お風呂に入って寝る。あしたの朝は、お風呂に入る時間もとれなさそうなので、寝るまえに入っておく。  あるいは、『理系の詩学』をのぞく3冊になるかもしれないけど。『詩の日めくり』は一年ごとに出したい。何百ページになるかわからないけれど。いまはこわいので考えない。来年の3月に原稿を書き直す(翻訳は権利関係の対応に時間がかかるのではずす)ときに考える。 二〇一五年十二月三日 「マイノリティ・リポート」  これから仕事に。夢を見た。悪い夢じゃなかったような気がする。左腕がまだ痛みで不自由だが、かなりましである。あと二日、もってくれればいい。新しく買った毛布が、ほんとにここちよい。行ってきまする。  これから、仕事帰りにコンビニで買ったサラダを食べたら、お風呂に入って、それから塾に行く。きょうと、あした、超ハード・スケジュールだけど、あさってから、ゆっくり読書する時間がもてそうだ。それも、塾の冬期講習までだと思うけど。  きょうからお風呂場では、ディックの『マイノリティ・リポート』を読む。古いカヴァーのほうの本体が傷んでいるので、古いほうのものをお風呂場で読んで捨てることに。お風呂、ゆっくり浸かろう。 あしたもめっちゃ早いから、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十二月四日 「少年の頃の友達」  完全に目を覚ました。着替えたら、仕事に行く。きょうと、あしたがすめば、ことしは、あとは塾だけだ。きのう、きょうと、かなりのストレスだった。きょうがすめば、あした、あと一日。がんばろう。  結崎 剛さんから、氏の第一歌集『少年の頃の友達』を送っていただいた。とてもかわいらしい、きれいなご本で、氏の短歌にふさわしい、矩形の、はじめて目にする特殊な直方体で、また表紙のデザインもキュートなご本である。きょうから読書と数学ざんまいな日々を送る予定だった。タイミングばつぐん!  ニコニコキングオブコメディ、やってたんだ。きのうは恐ろしくハードなスケジュールだったから知らなかった。これから見る。  ぼく、妊娠したの。えっ。ぼく、妊娠したんだ。さっきまで読んでいた本を見た。本が言ったのか? さっき、テーブルのうえに置いたままだ。変わったところはなかった。ぼく、妊娠したんだよ。またその本から声がした。指の先で、本の真ん中に触れると、かすかに膨れていた。指の腹に鼓動が感じられた。 二〇一五年十二月五日 「ヴェルレーヌ」  ストレスで身体がボロボロだけど、まえに付き合ってた子が、これから部屋に遊びにくると電話が。うれしいし、顔をみたいので、おいでよと言ったが、左腕が動かせないほど痛いのだった。ストレスって怖いね。部屋も片付けてないし、最悪。でも、くるまでに1時間ほどあるから、ちょっと片付けようかな。  晩年のヴェルレーヌの生き方を読んでて、憧れをもってたけれど、才能の話ではなくて、身体がボロボロになっているところまでは自分でも体験していて、ちっとも、よいものではない。ストレスと加齢による身体の痛みが激しすぎて、憧れの「あ」の字にもあたらない感じである。現実とは、そういうものか。  おデブの友だちが帰った。筋肉痛と関節痛でめっちゃつらいぼくに、「リハビリにマッサージさせてあげる。」というので、彼の足や腰をマッサージさせられまくった。「これ、いい曲やろ?」と言って聴かせた曲に、「ふつうかな。」という返事だったので、「ぼくら、感性が違うんやろうなあ。」と言った。  いろんなもの、途中でほっぽって、きょうは、通勤のときに、ディックの短篇集『マイノリティ・リポート』を読んでいた。なんか、これくらいのが、ぼくの頭には、ちょうどいいかな。いまのぼくの頭の状態にはってことだけど。でも、そのうち、ペソア、ミエヴィル、ジーン・ウルフ、ラファティにも戻る。 きょうは、ディック読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十二月六日 「辛ラーメン」  朝とお昼兼用のご飯を買いに行く。きょう一日の食事にしよう。やっぱフランスパンかな。肩こりを解消する塗り薬でも買おう。死ぬレベルの肩こりだ。  むかし売りとばしたCDの買い直しをした。2枚。ジェネシス。後期のジェネシスは、ときどき捨てたくなる。しかも売り飛ばした記憶がなくなっているし。  簡単に生えるカツラ。簡単に生えたって、カツラじゃねえ、笑。ぼく自身が坊主頭だから、ハゲには偏見がないけれど、おとついラーメン横綱に行ってラーメン食べてたら、かわいらしいおデブの髪の毛がまばらにすけた二十歳すぎくらいの男の子が思いっきり唐辛子をラーメンに入れてた。そら、ハゲるわな。  バケット半分259円とスライスチーズとヨーグルトとレタスサラダだけでは我慢できないので、これからコンビニに夜食を買いに行く。きのうカップヌードル食べたし、辛ラーメンひさしぶりに食べようかな。あったまりたいし。Brown Eyed Soul いい感じ。CD買うかどうか迷っている。  辛ラーメン、売り切れてた。人間って、考えることがいっしょなのかな。寒いし、あったまろうって。かっぱえびせんと、サラダ買ってきた。  ジャズやボサノバを聴きながら、ディックを読んでいる。違和感がない。むかしはプログレやハードロックがメインやったのだが、さいきん、プログレもハードロックも聴いておらん。あした、ひさびさに聴くか。いや、聴かないやろな。どだろ。齢をとってこころと身体がボロボロになること。大切なことだ。  辛ラーメンがどうしても食べたいので、これからスーパーに買いに行く。ひじょうに寒いのだが、かっぱえびせんで、おなかもふくれたのじゃが、辛ラーメンがどうしても食べたくなったのじゃ。買いに行く。 これから辛ラーメンつくって食べる。  笹原玉子さんから、オラクル用の作品が送られてきた。そうだった。うっかり、ぼくもオラクルのこと、忘れてた。きょう、あしたじゅうにアップしよう。  短篇集『マイノリティ・リポート』のさいごに載ってる『追憶売ります』を読み直した。2回のどんでん返し。さいごのシーンになるまで思い出せなかった。笑えるシチュエーションだったが、これが映画になると、あの『トータル・リコール』のようなものになってしまうのだな。さいしょだけが原作通りだ。 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。 二〇一五年十二月七日 「なんでもない一日」  シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の241ページ3行目に脱字を見つけた。「だった違いない。」→「だったに違いない。」有名な作家の作品に誤字や脱字があるのは、ほんとに腹立たしい。創元推理文庫の編集長は、この『なんでもない一日』を担当した校正係をクビにするべきである。 昼ご飯を食べにイーオンに行こう。  ありゃ〜、GはGスポット、FはFuck、Aはキッスでしょうか。そうなると、ほとんどすべてのアルファベットが、笑。そうでもないかもしれませんが、妄想がどんどん。Jはすぐには思いつきませんね。形はそれっぽいのですが。  お昼に、イーオンでラーメンと小さい焼き飯を食べた。これからセブイレにサラダを買いに行こう。きょうの夜食も、サラダと辛ラーメンだな。食べ終わったら、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。  友だちが遊びにきてくれてたんだけど、クスリの時間だからって言ってクスリのんだら、帰ってった。あと1時間くらい起きてると思う。1時間でできることって、やっぱり読書かな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読みながら寝よう。 二〇一五年十二月八日 「サンドキングズ」  きょうから、お風呂場では、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『サンドキングズ』を読む。古いほうのカヴァーのほうがよいので、新しいカヴァーのヴァージョンを読む。中身はいっしょかなと思って、いま調べたら、新装版の方が文字が大きくて、ページ数で言うと、40〜50ページくらい増えてた。  塾の帰りにブックオフに寄って、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を108円で買った。むかし読んだけど、まったく憶えていなかったのと、お風呂場で読むつぎの本の候補にと思って買った。開けたページ、258ページに栞が挟んであって、「あなた、なにがいやなの?」というセリフがあった。  2週間ほどまえに目をつけていて、ぱら読みして、「あなた、なにがいやなの?」というセリフが引用詩に使えるかなって思って、違うページに挟んであった栞を、そのページに挟み直しておいたのだった。だから、偶然ではないけれど、偶然のように、おもしろかった。それは、自分が2週間まえに、どういった言葉を使おうとして挟んでおいたのかを忘れていたからだし、それよりもっと偶然なのは、だれもその本に挟んであった栞をほかのページに移動させなかったことを思い出させてくれたからであった。ほら、こんなつまらないことにもこころは動かされるって知るのは、楽しいことだし、こんなつまらないことを書きつけて喜ぶことができる自分自身を、なにか、とてもバカな生きもののようにも思えてきて、また、人間というものの、そのはかない存在について考えさせられて、感動すら覚えるのであった。  帰りに、スーパー「マツモト」で買った巻きずし半額140円を食べよう。フィリピン産のバナナも4本で88円だった。「も」は、おかしいな。「は」だ。これから食べて寝よう。ダイエットはしばらく中止しよう。仕事のストレス+ダイエットのストレスで、身体がボロボロになるより食べる方がましだよ。  少なくとも、こういった感慨を催させるのに、2週間という日にちが必要であったのだろうとも思われるし、時間というものに挟み込まれた偶然というか、偶然というものが挟み込んでいる時間というものについても、なにか考えさせられるところがあったのだった。2週間。  メモ代わりに、あしたしなきゃいけないこと書いておこう。Genesis の Three Sides Live の代金を郵便局に払いに行かなきゃ。ヤフオクの件。おやすみ。寝るまえは、きょう買った岩波文庫の解説を読んで寝る。それでもまだ起きてたら、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』を読んで寝る。  数日まえに、通勤の帰りの電車のなかで、知らないうちに、人間でも食べてそうな感じのひとが隣に坐っていて、悲鳴をあげそうになった。という嘘を思いついた。ただ、人間でも食べてそうなひとというのは、さっきFB見てて、画像に写ってる、FBフレンドじゃないひとの顔を見て、思いついたのだった。うううん。でも、よく考えたら、ふだんから、人間は人間を食べているような気がする。人間に食べられている人間もよく目にするし、人間を食べている人間もよく目にするもの。ぼくだって、しじゅう食べているような気がするし、しじゅう食べられているような気もする。  あ、解説を読んで寝るんだった。おやすみ、グッジョブ! 歯を磨くのも忘れてた〜。 二〇一五年十二月九日 「オムライスとビビンバ」  きのう、寝るまえに読んだ、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』の「インディアンはテントで暮らす」をまったく憶えてなかった。そのまえに収録されてた「喫煙室」がとてもおもしろかったので、忘れたのか、寝ぼけてて、忘れてたのだと思うけれど、「喫煙室」から読み直して寝ることにする。  いま起きた。高校の仕事がことしはもうないので、塾だけだから、こんな時間に起きれる。お昼に、大谷良太くんとミスタードーナッツでコーヒー飲みながらくっちゃべる。ぼくはちょこっとルーズリーフ作業をするかな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきも読もう。 塾へ。  きのう寝るまえに読んだシャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』所収の「インディアンはテントで暮らす」の内容がさっぱりわからなかった。読み返してもわからないような気がするので、つぎのを読む。読んで意味がわからないものは、ひさしぶり、というか、もしかしたら、はじめてかもしれない。  お昼にオムライスとビビンバを食べたので、晩ご飯はサラダとかっぱえびせんだけにしておこう。お昼からずっとポール・マッカートニーのアルバムを聴いている。天才だけど、芸術家である。天才なのに芸術家でないひととか、芸術家なのに天才でないひととかが多いのに、ひとりポールは、天才で芸術家だ。 二〇一五年十二月十日 「O・ヘンリーのOって?」  シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読み終わった。自伝的なエッセーのようなものがいくつか入っていて、そのこまやかな観察力と、ユーモアには、さすがだわと思わせられた。ほかお気に入りの短篇は2作。どちらもユーモアのあるもの。ぼくはユーモアのあるものが好きなようである。  これからセブイレに行って、サラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きょうの夜の読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。いま、350ページを過ぎたとこらへん。塾の冬期講習に入るまでに読み終わりたい。ナボコフの全短篇集もできたら、冬休み中に読みたいんだけど、それはぜったい無理っぽいな。  記憶が違っていた。ペソアの『不安の書』350ページあたりだと思っていたのだが、444ページだった。  ほとんど同じものと思われるほどにそっくりに似たものが遠く離れたところにあることもあれば、まったく似ていないものがすぐそばにあることもある。目のそばには耳があるが、目と耳とはまったく異なるものである。手の指の爪と足の指の爪は離れているところにあるものだが、よく似ているものである。  つまらない風景なのに、忘れられないものがある。峠の茶屋で、甘酒を飲んでいる恋人たちの風景。冬だったのだろう。ふたりの息が白く煙っていた。井戸水で冷やした白玉を黒蜜で出す老婆の手。井戸水だったのだろうか。湧き出て零れ落ちていく水玉の輝き。このふたつの風景が二十年以上も木魂している。  お風呂につかりながら本を読むのが趣味のひとつになっているのだが、きょうは、マーティンの短篇集『サンドキングズ』のつづきを読もう。きのう読んだ「龍と十字架の道」は、つまらなかった。表紙がすばらしいので旧装版は手放さないが、タイトル作しか記憶にない。そのタイトル作もおぼろげな記憶だ。  1時間近く入ってたのか。『サンドキングズ』収録2作目の「ビターブルーム」を読んだ。SF(サイエンス・ファンタジー)だった。レズビアンものという点では、ジャネット・A・リンの「アラン史略」三部作(4分冊)と趣向が同じ。ただし、リンの作品の方が描写は細かい。きょうのも及第点に届かず。  寝るまえの読書は、あまり神経を使わなくてすみそうな岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を読もう。さいしょの作品は、O・ヘンリーの『平安の衣』 さて、O・ヘンリーのOって、54歳になるまで調べなかったけれど、調べたら、これはペンネームで、Oがなにの略か諸説あるらしい。ふううむ。 二〇一五年十二月十一日 「〈蛆の館〉にてって」  セブイレで朝ご飯にサラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きのう、ペソアを55ページ読んでた。きょうもそれくらい、いや、それ以上読みたい。ルーズリーフ作業がすごそうだけど。そしたら、ナボコフの全短篇集のつづきに移れる。ジーン・ウルフやラファティやジャック・ヴァンスも読みたいけれど。  寝るまえにお風呂に入りながら、マーティンの『サンドキングズ』収録3作目の「〈蛆の館〉にて」を読んだ。これまた、SF(サイエンス・ファンタジー)であった。むかし読んだ記憶がよみがえった。ウェルズの『タイムマシン』のモーロック族とエロイ族の話をモロにヒントにした気持ち悪い作品だった。 二〇一五年十二月十二日 「開き癖」  ペソアの『不安の書』のページを開けたまま眠っていたら、開き癖がついてしまっていた。朝は、パスタのスープのはねを表紙につけてしまった。きょうは呪われているのかもしれない。どこにも出かけず、読書していよう。きのうは友だちと会って話をしてた。お父さんが脳卒中で入院なさり、毎日、病院に行って、父親の動かなくなった指をもんでいるということだ。丸く固まってしまうからだという。指を伸ばすようにしてもんでいるらしい。ぼくには父親がもういないけれど、動かなくなった父親の指を毎日もむだろうか。考えさせられた。 これからパスタを食べる。朝はペペロンチーノだった。お昼はナポリタン。 晩ご飯はペペロンチーノ。 サラダとかっぱえびせんも買ってきた。  マーティンの短篇集『サンドキングズ』に入っている4作目以降、まったく読むに耐えないものだったので、さいごに収録されてるタイトル作品を読んで、『サンドキングズ』を読むのは終わりにしよう。読み終わったら、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。 「サンドキングズ」読み終わった。「<蛆の館>にて」と同様、えげつない話だった。「フィーヴァードリーム」上下巻は傑作だった記憶があるのだけど、再読するのがためらわれるくらいに、ジョージ・R・R・マーティンの評価が、ぼくのなかで落ちた。『翼人の掟』を高い値段で買って、まだ読んでない。  これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。生前に発表した作品は少ないのだが、未発表のものの方がよいような気がする。生前に発表したもののうち、2作品をきのう読んだが、レトリカルなだけで、ぼくが学べることはなにもなかった。新プラトン主義が厭世観と結びついたらそうなるのかもしれない。  きょう見た夢は、大きな塾のCMで、見たことのない人物たちが出ていて、塾長だというおじさんが管楽器を吹くシーンで終わったのだが、笛を口から離すとよだれが落ちて、「汚い」とかいう子どもの声が聞こえたのだが、「仕方ないんじゃない?」とかいう別の子どもの声もした。そこで夢から覚めたのだ。夢は、ぼくの潜在意識がつくっているものだが、これは、ぼくになにを教えようとしたのか、わからない。あるいは、ただ、潜在意識は、こんな夢をつくってみただけで、意識領域のぼくには、なにも伝える気はなかったのかもしれないけれど。それでも、夢がなにを意味しているのかは興味深い。ぼくの不安だろうか。不安を投影させることはよくあると思う。仕事の不安。仕事の内容の困難さもある。3学期は幾何を教えるのだが、代数に比べて幾何は教えるのが難しい分野である。万全の準備をしておくつもりだが不安がないわけではない。物語を物語るように、プリントをつくっておこうと思う。論理を物語る。これは、ぼくが、詩で実践してきたことなので、詩を書くつもりで、プリントをつくろう。もしかしたら、ぼくの幾何のプリントが、ぼくの書いたもっともうつくしい詩になったりして、笑。  思考とイマージュ。比較することでしか思考は生まれないのだが、イマージュは比較対象する複数の事物を必要とはしない。なにものかとべつのなにものか、だれかとべつのだれかを比較検討することで思考は開始され進行される。イマージュは、ただそれそのもの自体を対象として想起すればよいだけである。図形だと補助線をいくつか描き入れるだけで容易に解ける問題が、人間が対象だと容易に補助線が書き込めないために解くことができない。あるいは、不要な補助線だらけで、解けなくなってしまっている。その不要な補助線を取り除いていくと、最後には、思考の対象とするその人間自身も消え去ってしまう。  長く使っていると、自分がその道具のように考えていることに気がつかなくなってしまう。言葉も道具である。思考の幅が狭いのは、同じような言葉の組み合わせ方しかしないで思考しているのだ。それを避けるためには、異なる道具を使うこと。あるいは、異なる道具を扱うように、いつもの道具を扱うこと。 あしたは病院。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十二月十三日 「不安の書」  これから病院に。待ち時間にペソアの『不安の書』を読み終えられるような気がする。  神経科に行って、そのあと、大谷良太くんたちとお鍋をして、おしゃべりしてた。病院では、お昼の2時まで待合室で、ペソアの『不安の書』を読んでいた。さいごまで読み切って、読み終わって、20分くらい、待合室に置いてある写真雑誌を見ていた。きょうから、クスリが一錠、増えた。これで眠れる。  きょうから寝るまえの読書は、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』。前作『マジック・フォー・ビギナーズ』が大傑作だったので、楽しみ。ジーン・ウルフ、ラファティ、ミエヴィル、ジャック・ヴァンスらの未読の本を退けて、ケリー・リンクにしたのだけど、どうかな。おもしろいかな。 二〇一五年十二月十四日 「貧乏詩人」  ようやく起きた。詩集制作代金を支払いに銀行に行ってくる。これでまた文無しになるわけである。貧乏な詩人は貧乏なまま一生を終えるというわけである。まあ、それでいいのだけれど。詩人とか芸術家というものは、生きているうちに、その芸術で報われてはいけないと思う派だから。自分のこころのため以外に。編集部の方に、電話で、詩集代の振込完了のお知らせをして、また、来年も思潮社オンデマンドから3冊の詩集を出させていただこうと思っていますと話した。銀行の帰りに、イーオンに寄って、バケット半分、セブイレで、ミルクとサラダを買ってきた。ギャオで、『ウィルス』を見ながら食べよう。 マクドナルドに寄ってコーヒー飲んだら、塾へ。  塾の帰りに、スーパー「マツモト」で、半額になった塩サバのお弁当を買った。寝るまえの読書は、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』。まださいしょの作品だが、切ない。お墓に行って、一年前に死んだ恋人のお墓を掘って、自分が彼女に捧げた詩篇の束を取り戻そうとした青年の話である。間違った墓をあばいて、違う女性の死体が、「あなた、間違ってるわよ」と言うくだりから、笑えるシチュエーションに移行するのだけれど、まあ、詩を書いて彼女に捧げる男子高校生というのも、いまの日本では考えられないシチュエーションである。寝るまえの読書が楽しみ。楽しみといえば、あさって、塾の忘年会がある。禁酒をやめたので、お酒を飲むけれど、焼酎にしておこう。きのう、お鍋を食べているときに、左手で持った小さなビアグラスを何度か、こかしそうになった。筋肉の状態がかなり悪いみたいだ。 お弁当を食べよう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十二月十五日 「負の光輪」 サラダとかっぱえびせんを買いに、セブイレに。  これから、髪の毛を刈る。それからお風呂に。お風呂場では、日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』を読む。  日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』、けっこうおもしろいので、塾に行くまで読む。  ふと思いついて、検索してみたら、20年以上もむかしに、ぼくがはじめて書いたSF小説『負の光輪』が、ネット上に存在していた。引用癖は、ぼくが詩や小説を書きはじめたときからのものであることがわかる。  soul II soul のアルバムをすべて売っちゃって、また買い戻したけれど、ぼくの詩作と連動しているのかもしれない。それぞれのメロディはしっかりしているのだけれど、ゆるいつくりをしているかのように見せる曲の配列の仕方に共感する。いま、売っちゃったDVDを買い直そうとしている。  レンタル落ちしかなかった。たぶん、ないだろうけれど、自分が売ったブックオフに、あした行ってみよう。  おなかがすいて気が狂いそうなので、セブイレにサラダを買いに行く。こんなにも食欲というものは、ぼくを支配していたのかと、あらためて振り返る。きょう、すでに、サラダ4袋食べてるんだけど。非現実の情報が脳を通過すると満足するように、非現実の食べ物が咽喉を通過すると満足できればいいのに。  ぼくは、食べ物に殺されるような気がする。とりあえず、サラダを買いにコンビニに行こう。 二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」 田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる https://shindanmaker.com/585407 二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」 『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。  場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。  頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。  玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。  目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。  偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。  2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。  書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。  文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。 二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」  2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。 きょうは塾の忘年会。楽しみ。  いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!  あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」  Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。 FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。  ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。  その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!  どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。 二〇一五年十二月二十日 「違う人生」  これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。  コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。 二〇一五年十二月二十一日 「月長石」  きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。  コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。  きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。 なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?  子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。  けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。  一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。  これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?  自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。  ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。 二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」  繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。  あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。  セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。  夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。  むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。  溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。  自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。 聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。  つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。  私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。  二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。  以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。  じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。  ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。 二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」  ひぃえ〜、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?  作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。  リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。  別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。 二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」  ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。  あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。  きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。  ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。 クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。 二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」  これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。  詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を Amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。 二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」  台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (??ω??)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。 二〇一五年十二月二十七日 「15分」  起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。  ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。 辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。 キングオブコメディ、残念。  やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。 二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」  夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。  雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。 人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。  それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』?、?の続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?  10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。 虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。  病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。  精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。  ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。  何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。  イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。  ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。 二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」  きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。  再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。  寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。 二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」  きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。  四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』?、?と、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。  本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。 とりあえず、タバコ吸って考えよう。 きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。  ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。  めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→  ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。 二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」 これは、ぼくとスーとの約束だった 彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった 彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ 1、2、3は会えないね それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで 缶コーヒー きみは、ぼくに出合った休暇だった ベイビー メイ・メイ・スー  もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。  弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年4月3日2時48分] 二〇一五年十三月一日 「芸術は自己表現はない」  自己の表現と、自己表現は違う。2015年9月29日のメモ「いまだに芸術を自己表現だと思っている連中がいる。きょう、職場で哲学の先生たちがお話されているのを小耳にはさんだのだが、お知り合いの詩人が、詩は自己表現だと言ってたらしい。詩や小説は言語表現だし、音楽は音楽表現だし、映画は映画表現だし、演劇は演劇表現なのだ。それ以外のなにものでもない。自己表現は単なる自己表現であり、それは日常、日ごろに行われる生活の場での、他者とのコミュニケーションにおける表現活動のことである。芸術活動とは、いっさいの関係などないものである。 二〇一五年十三月二日 「高慢と偏見とゾンビ」  P・D・ジェイムズの『高慢と偏見、そして殺人』を読むために、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』上下巻を読み直したのが1年ほどまえで、読み直してよかったと思う。いま本棚にその3冊を並べてあるのだが、ここに、きょう買った、『高慢と偏見とゾンビ』を並べようと思う。パスティーシュ、大好き! 二〇一五年十三月三日 「こんな瞬間の美しさを」  フロイドの『対』を聴きながら、付箋の長さが気になってて、その先っちょをハサミでチョキチョキしていたのだけれど、その切り取ったあとのものが、クリアファイルを取り上げたときに落ちて、その落ち方の美しさにはっとした。こんな瞬間の美しさを作品に定着できたらいいなと思った。いらないものの美しさ。 二〇一五年十三月四日 「隣の数」  2015年10月22日のメモを、これから打ち込んでいく。BGMはナイアガラ・トライアングル1。メモにタイトルをつけてた。めずらしい。「隣の数」整数ならば、隣の数といえば、たとえば、2の隣の数は1と3である。ところが連続した実数においては、2の隣の数というのは存在しない。ある実数を2にもっとも近い数であると仮定しても、その数と2の間の数を無限に分割できるので(分割する数を0以外の実数とする)さきに2にもっとも近い数であると仮定した数よりもさらに2に近い数を求めることができるのである。ここで気がついたひともいるかもしれない。連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効であるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである。それを指摘し、それに名前を与えた者はまだいない。ぼくが名づけよう。数と数のあいだの空席を占めるものを「非数」と。ところで、この非数であるが、これは数ではないので個数を数えられるものではない。数に対応させて考えることができるものならば、数ではなくても、個数を数えることができるのだが、この非数は、たとえば、集合論で用いられる空集合Φのように、あるいは、確率論で用いられる空事象Φのように、いくつのΦとかと言ってやることができないものなのである。したがって、たとえば、1という数と2という数のあいだの非数の個数と、1という数と100という数のあいだの非数の個数の比較もできないのである。非数は、いわば、無限(記号∞)のように、状態を表すものとして扱わなければならないのである。この状態というのも比喩である。この非数の概念に相応しい形容辞が存在しないからである。ところで、この非数というものが存在することで、じつは、数というものが存在するとも考えられるのである。この非数というものがあるので、非数と非数のあいだの数を、われわれは取り出してやることができるのである。隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされた本棚から本を取り出すことが不可能であるように、もしも実数が隙間なく連続していれば、われわれは実数を取り出すことができないのである。したがって、実数が連続しているというときには、この非数の存在を無視するならば、という前提条件を抜かして言及している、ということになるのである。実数が連続しているなどというのは誤謬である。数学者たちの単なる錯覚である。ところで、話はずぶんと変わるが、1や2や3といった数は、もうどれだけの数の人間たちによって、じっさいに書きつけられたり口にされたことであろうか。数え上げること不可能であろう。それと同時に、まだ人間によって書きつけられたこともなく、口にされたこともない数も無数にあるであろうが、それもまた数え上げることが不可能であろう。永遠に。永遠と言う言葉が辞書通りの意味の永遠であるとしてだが。しかし、その個数は、確実に時代とともに減少していくことだろう。しかし、無数のものから無数のものを引いても無数になることがあるように、無数であるという状態自体は変わらないであろう。といったことを考えたのであるが、無数というのもまた、数ではなく、状態を表す概念なのであった。紫 式部の『源氏物語』の「竹河」のなかに、「無情も情である。」といった言葉があったのだが、無数という概念は、数の概念のうちに入るものではなかったのであった。非数というものの概念が、数の概念のうちに入るものではなかったように。非数という概念について、10月22日は考えていた。おもしろかった。非数を考えることによって、数自体についての考え方も変わった。このように、ぼくはぼくの意識的な領域の自我のなかで、さまざまな事物や事象の意味概念を捉え直していくことだろう。あとのことは、無意識領域の自我のする仕事だ。 二〇一五年十三月五日 「魂を合んだ本」  思潮社海外詩文庫『ペソア詩集』誤植 116ページ下段13行目「魂を合んだ本を」→「魂を含んだ本を」 二〇一五年十三月六日 「ホープのメンソール」  ホープのメンソール、めっちゃきつい。もうじき文学極道に投稿する『詩の日めくり』のことを考えてた。これはアナホリッシュ國文學編集長の牧野十寸穂さんのアイデアからできたものなのだが、ぼくの半分くらいの作品は、ジミーちゃんと、えいちゃんと、牧野十寸穂さんのおかげでつくれたのだと思った。ひととつながっていなければ、ひととかかわっていなければ、ぼくの作品のほとんどすべての作品はつくれなかった。全行引用詩でさえそうだ。孤独がすぐれた作品をつくるとリルケは書いていた。ぼくもそう思っていたけれど、どうやら、それは完全な錯誤であったようだ。ギャオで「あしたのパスタはアルデンテ」を見てる。ゲイだからって、どってことないっしょ? って感じの映画かな。人生は滑稽な芝居だ。ぼくのママも(実母も、継母も)ぼくがゲイだって言っても、信じなかった。父親はわかってくれていたようだが、母親たちは信じなかった。そんなものかもしれない。  くちびるにしたら嫌がられるかもしれないと思って、首筋にキッスしたら、首の後ろにおしゃれなタトゥーが入ってた。一度しか会わなかったけれど、かわいらしい男の子だった。「そこに存在するから」山に登る。山などないのに。一度だけだからいいのだと、むかし、詩に書いた。  完璧な余白を装って、言葉が詩に擬態する。℃の言葉も空白の意味と空白の音をもつ言葉だ。「めっちゃ気持ちいい。」魂から魂のあいだを完全な余白が移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」℃の言葉もだ。完璧な余白を装って。  PCのCを℃にすること。階段席の一番後ろからトイレットに移動する。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。しゃがみかけたけど、しゃがませないで。首の後ろにキッスした。PCのCを℃にすること。  本にお金を使いすぎたような気がしたので、セブイレでホープのメンソールを買った。きつい。一度しか会わなかったけど、首の後ろのタトゥーがおしゃれだった。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。ラブズ・マイ・ライフ。  経験は一度だけ。一度だけだから経験だ。階段席の一番後ろからトイレットに。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動した。人生は滑稽な芝居だ。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」。  人生は意味である。無意味の意味である。人生は無意味である。意味の無意味である。意味は人生でもある。意味の人生である。無意味は人生でもある。無意味の人生である。意味が無意味であり、無意味が意味なのである。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす意味と無意味。  PICTURE の C を℃にすること。FACT の F を°F にすること。FUTURE の T を°Tにすること。KISS の I を°I にすること。SOUL の S を°S にすること。EVERYWHERE の W を°W にすること。BEATIFUL の B を °B にすること。WE の W を °W にすること。JOY の J を °J にすること。MESSAGE の M を °M にすること。SEX の X を °X にすること。LOVE の L を °L にすること。GOOD の G を °G にすること。GOD の G を °G にすること。 二〇一五年十三月七日 「大量のメモが見つかった。」  晩ご飯は食べない予定だったが、夕ご飯は食べることにする。スーパーに餃子でも買いに行こう。部屋を少し片付けたら、大量のメモが見つかった。 非数について (メモ)  そもそものところ、数自体が、じっさいに存在するものではないのだ。紙に書かれた数字やワードに書き込まれた数字やエクセルに書き込まれた数字は、現実に存在する数を表現したものではないのだ。ぼくが指に挟んで紙に文字を書き込むペンのことをペンと呼べるもののようには。愛という言葉の意味は広くて深いが、愛という言葉が人間のこころに思い浮かばせる情景というものがある。愛が表象として実感されうるものであるからだ。そういう意味で、愛というものは存在している。しかし、数は表象として人間のこころに実感されうるものだろうか。プラスチックでできた数字をかたどったものがあるとしよう。そういうものがテーブルのうえに置かれたとする。絵のなかに描かれた数字でもいい。そういうものは、数そのものをかたどったものであろうか。数そのものではない。数が表している値を表現したものである。テーブルのうえに置かれた、プラスチック製の2という数字をかたどったオブジェは、2という数そのものをかたどったものではないのだ。数というものもまた、非数と同様に、概念として創出されたものであって、現実の存在する事物ではないのであった。 2015年10月27日のメモから  ひとつの時間はあらゆる時間であり、ひとつの場所はあらゆる場所であり、ひとつの出来事はあらゆる出来事である。また、あらゆる時間がひとつの時間であり、あらゆる場所がひとつの場所であり、あらゆる出来事がひとつの出来事である。 2015年10月20日のメモから  いったん、ぼくのなかに入ってきた事物や事象は、ぼくのなかから消え去ることはない。ぼくが踏み出した足を引っ込めても、その足跡が残るように、それらの事物や事象は必ず、ぼくのなかに痕跡を残す。ときには、焼印のようにしっかりとした跡を残すものもある。額に焼印されたSの文字が、それが押し付けられた瞬間から、それからの一生の生き方を決定することもあるのだ。slave。事物や事象の奴隷であることを示すアルファベットのさいしょの文字だ。ぼくの額のうえには、無数のSの文字が焼きつけられているのだった。 2015年10月24日のメモから  ディキンスンやペソアという詩人の活動とその後の評価を知って、つぎのようなことを考えた。詩人にとって、無名であることは、とても大切なことなのではないか。名声がないということは、名声が傷つけられて、こころが傷むことがない。生きているときに尊敬されていないということは、傲慢になりがちな芸術家としての自我が慢心によって損なわれることがないということだ。生きているときに権威がないのも、じつに好都合だ。権威をもつと、やはり人間のこころには、驕りというものが生ずる可能性があるからだ。生きているときに、名声を得ることもなく、尊敬されることもなく、権威とも無関係であること。これは、詩人にとって、とても大切なことであると思われた。少なくとも、ぼくにとっては、とても大切なことだ。ぼくの場合は、きっと死ぬまで人様に名前が知られることなどないので大丈夫だ。 2015年7月16日のメモから  朝、通勤の途中で、まえを歩いていたおじさんが、道に吸い込まれて片方だけの靴を残して消えた。年平均6人くらい、ぼくの通るこの道で人間が道に巣込まれるらしい。気を付けると言ったって、気の付けようがないことだけれど。 2015年5月28日のメモから 『図書館の掟。』のさいごのシーンのつづき。図書館長が死者である詩人の口から話を聞くところから、『13の過去(仮題)』をはじめてもいい。 2014年12月8日のメモから 詩のアイデア 本来、会話ではないところに「 」をつける。散文詩でやると効果的だろう。 2015年5月28日メモ 詩のアイデア ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! ・・・ ・・・ 爆発! 2015年10月20日から27日までにしたと思うメモから 詩のアイデア  さまざまな詩人が詩に用いたオノマトペを抽出、引用して、オノマトペだけの詩をつくる。タイトルは、トッド・ラングレンの曲名、 ONOMATOPEIA からとって、『 ONOMATOPEIA。』にするとよい。 二〇一五年十三月八日 「ユキ」  晩ご飯を食べないつもりだったけど、まえに付き合ってた子といっしょにセブンイレブンで買い物して(「いつもおごってもらってるから、きょうは、ぼくがおごるよ」と言ってくれて)おにぎり一個と、トムヤンクンの即席麺と、肉ジャガコロッケ一個と、おやつを食べながら、二人でギャオの映画を見てた。本を買い過ぎて、金欠ぎみ〜と、ぼくが言うと、タバコ2本を置いていってくれて、やさしい子だ。金欠ぎみと言うか、まあ、基本、ぼくは貧乏なので、貧乏人から見えることというのがあって、それはお金に余裕のあるひとには見えないものだと思う。健康を損なってはじめて見えるものがあるように。生涯、無名で、貧乏でって、まあ、詩人としては、理想的な状態である。寝るまえの読書は、『ペソアと歩くリスボン』じつは、きのうも、きょうも、レックバリの『人魚姫』のつづきを読んでいて、『ペソアと歩くリスボン』をちっとも読んでいなかったのである。きょうは少しは読もうかな。 二〇一五年十三月九日 「オノマトピア」  きょうは、オノマトペだけの引用詩をつくろう。詩集とにらめっこだな。楽しそうだ。いや、きっと楽しい一日を過ごすことになるだろう。きょうも、きのうも、毎日、なんかあって、ジェットコースターのようだ。 オオ ポ ポ イ オオ パ パイ おお ポポイ ポポイ オオ ポポイ オオ!ポポイ! (西脇順三郎『野原の夢』) タンタン タンタン たんたん オーポポーイ オーポポーイ (西脇順三郎『神々の黄昏』) ゆらゆら ジヤアジヤア (北川冬彦『共同便所』) もくもく げらげら (北川冬彦『街裏』) くるりと じーんと ふらふらと (北川冬彦『昼の月』) ぽとりと (北川冬彦『椿』) ひらひらと (北川冬彦『秋』) ゆらり ゆらり ゆらり ぴんと ゆらり ゆらり ゆらり (北川冬彦『呆けた港』) ぶるると かーんと ピキピキ (北川冬彦『鶏卵』) がらんとした (北川冬彦『絶望の歌』) ははははははは ははははは (北川冬彦『腕』) ぶくぶく (北川冬彦『風景』) ぶっつぶっつ (北川冬彦『春』) くるりくるりと (北川冬彦『梢』) コクリコクリと (北川冬彦『陽ざし』) ひよつくり (北川冬彦『路地』) ぐるぐる ぐるぐる (北川冬彦『スケートの歌』) ダラリと (北川冬彦『行列の顔』) ゲヘラ ゲヘラと (北川冬彦『大陸風景』) ボーボーと めりめりと (北川冬彦『琵琶湖幻想』) ばあ ばあ (北川冬彦『水鏡』) さらさらと (北川冬彦『処刑』) ぱったり ぱっと はたと (北川冬彦『日没』)  ちょっと休憩。イーオンに行って、フランスパンでも買って、早めのお昼ご飯にしようかな。オノマトペを取り出しただけで、なにかわかるとは思わなかったけれど、2つばかりのことがわかった。1つめは、個性的なオノマトペはむずかしいということ。2つめは、有名な詩人もオノマトペが凡庸なことが多い。  フランスパンとコーンスープのもとを買ってきた。19世紀、20世紀のフランスの貧乏画家のようだ。まあ、ぼくはあくまでも、21世紀の日本の貧乏詩人だけど。 うつうつと (安西冬衛『軍艦茉莉』) グウ (安西冬衛『青春の書』) ポカポカ (安西冬衛『春』) とつぷりと (安西冬衛『定六』) ぼつてりと (安西冬衛『旧正の旅』) さらさらと (安西冬衛『二月の美学』) ちよこなんと (安西冬衛『水の上』) しんしんと (安西冬衛『秋の封印』) バリバリ (北園克衛『スカンポ』) ハタと (春山行夫『一年』) ぽつりと (竹中 郁『牝鶏』) ぴいぴいと (竹中 郁『旅への誘ひ』)  オノマトペの採集作業が退屈なものになってきたので、中断することにした。モダニストの詩だけから抽出したのだけれど、むかしの詩人はオノマトペを多用しなかったようだ。いまの詩人は、金子鉄夫を筆頭に積極的に多用する詩人もいるのだけれど。ぼくも使うほうかな。 二〇一五年十三月十日 「ぼくは言葉なんだ。とても幸せなことなんだ。」  ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど。でも、なんといっても、はじめての出会いって、いいものなんだよ。相手の意味も変わるし、ぼくの意味も変わるんだ。出合った瞬間に、なんでいままで、だれもぼくたちを出合わせてくれなかったんだろうなって思うこともよくある。しじゅう顔を合わせる連中とだけなんてぜんぜんおもしろくないよ。出合ったことのない言葉と出合って、ぼくの言葉の意味も深くなるっていうかな、広くなるっていうかな、鋭く、重くなるんだ。ぼく自身が知らなかったぼくの意味を、ぼくに教えてくれるんだ。それは、相手の言葉も同じだと思うよ。同じように感じてるんじゃないかな。ぼくという言葉と出合うまえと出合ったあとで、自分の意味がすっかり変わってるっていうのかな、まるで新しく生まれてきたように感じることだってあるんじゃないかな。ぼくがそう感じるから、そう言うんだけどさ。それはとても幸せなことさ。 二〇一五年十三月十一日 「自動カメラ」 ヒロくんが 自動カメラをセットして ぼくの横にすわって ニコ。 ぼくの横腹をもって ぼくの身体を抱き寄せて フラッシュがまぶしくって 終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた ぼくは立ち上ろうとした ヒロくんは人前でも平気でキッスするから イノセント なにもかもがイノセントだった 写真に写っているふたりよりも 賀茂川の向こう側の河川敷に 暮れかけた空の色のほうが なんだか、かなしい。 二〇一五年十三月十二日 「あるスポンジタオルの悲哀」 わたしはいや。 もういや。 シワだらけのジジイの股間に なんで、顔をつっこまなけりゃいけないの。 もういや。 ジジイは、わたしの身体を つぎつぎ 自分の汚れた身体になすりつけていくのよ。 もういや。 死んでしまいたい。 はやく傷んで ゴミ箱に捨てられたい。 二〇一五年十三月十三日 「洗濯機の夢。」 洗濯機も夢を見るんだろうか。 いっつも汚い ヨゴレモノを口に突っこまれて ガランガラン まわしてヨゴレを落として ペッと吐き出してやらなきゃならないなんて 損な人生送ってるわ。 あ 人生ちゃうわ。 洗濯機生送ってるわ。 でも 洗濯機のわたしでも 夢は見るのよ。 それは きれいな洗濯機を口に入れて ガランガラン 洗ってやること。 いつか この詩を書いてる詩人の父親が 飼っているプードルをかごに入れて そのかごをわたしの口の縁にひっかけて わたしの口のなかの洗濯水を回したことがあるわ。 犬を洗った洗濯機なんて わたしが最初かしら。 ああ わたしの夢は 新しい きれいな洗濯機を わたしの口に入れて ガランガランすること。 まっ それじゃ、 わたしのお口がつぶれてしまいますけどねっ! フンッ 二〇一五年十三月十四日 「タレこみ上手。」 タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。 二〇一五年十三月十五日 「ストローのなかの金魚。」 ストローのなかを行き来する金魚 小さいときに ストローのなかを 2,3センチになるように ジュースを行き来させて 口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして 遊んだことがある。 とても小さな食用金魚が 透明なストローのなかを行き来する。 二〇一五年十三月十六日 「食用金魚。」 さまざまな食感の食用金魚がつくられている。 グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。 金魚バーグに金魚シェイク 食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。 ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。 金魚処理された不安や恐怖や怒りは 感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。 金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして 加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。 国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを 配送されてきた金魚鉢に入れておいて コンビニから送り返すだけでいいのだ。 すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の 金魚券が送られてくるという仕組みである。 その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。 二〇一五年十三月十七日 「金魚蜂。」 金魚と蜂のキメラである。 水中でも空中でも自由に浮遊することができる。 金魚に刺されないように 注意しましょうね。 転んでも、起きない。 掟たまるもんですか 金魚をすると咳がでませんか。 ぶりぶりっと金魚する。 二〇一五年十三月十八日 「金魚尾行。」 ひとびとが歩いていると そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。 二〇一五年十三月十九日 「近所尾行。」 地下金魚。 金魚サービス。 浮遊する金魚。 金魚爆弾。 近所備考。 近所鼻孔。 近所尾行。 ひとが歩いていると そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。 近所尾行。 ありえる、笑。 二〇一五年十三月二十日 「自由金魚。」 世界最強の顕微鏡が発明されて 金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。 これまで、自由電子と思われていたものが じつは金魚だったのである。 自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け いわば、金属全体を金魚鉢とみなして まるで金魚すくいの網を逃れるようにして ひょいひょいと泳いでいたのである。 電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり 物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。 ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。 単純なモデルだとね。 すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。 二〇一五年十三月二十一日 「絵本 「トンでもない!」 到着しました。」 一乗寺商店街に 「トン吉」というトンカツ屋さんがあって 下鴨にいたころ また北山にいたころに 一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど ほんとにおいしかった。 ただ、何年前からかなあ 少しトンカツの質が落ちたような気がする。 カツにジューシーさがない日が何度かつづいて それで行かなくなったけれど ときたま 一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか おされな書店「啓文社」に行くときとかに なつかしくって寄ることはあるけれど やっぱり味は落ちてる。 でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい。 山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。 トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして ふだんは大将と長男が働いてらして で その長男が、チョー・ガチムチで 柔道選手だったらしくって そうね 007のゴールドフィンガー に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて その彼を見に行ってるって感じもあって トンカツを食べるってだけじゃなくてね。 不純だわ、笑。 次男の男の子も ぼくがよく行ってたころは まだ高校生だったのかな ころころと太って ほんとにかわいかった。 その高校って むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で すごい荒れた高校で 1年契約でしたが 1学期でやめさせていただきました、笑。 だって、授業中に椅子を振り上げて ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。 身の危険を感じてやめました。 生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし 日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので アホらしくて 初日にやめようとも思った学校でしたが つぎの数学の先生が見つかるまで というのと、紹介してくださった先生の顔もあって 1学期だけ勤めましたが あの学校にいたら ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。 生徒は、かわいかったけど。 偏差値の低い学校って 体格がよくて 無防備な子が多いのね。 夏前の授業では ズボンをおろして 下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。 あ、見えてるんだけれど。 って、思わず口にしてしまった、笑。 ぼくも20代だったから ガマンのできないひとだったんだろうね。 いまだったら、どうかなあ。 つづけてるかなあ。 二〇一五年十三月二十二日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」 はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜! 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や 六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや 何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや 何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 円は演技し渦状する。 円は縁起し過剰する。 風のなかで回転し 水のなかで回転し 土のなかで回転する もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる 冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる 真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 その円のなかから さまざまなものが現われる。 しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。 笑。 二〇一五年十三月二十三日 「追想ね、バカ。」 六波羅小学校。 運動場の そと 路地だった。 彼は 足が3分の1で ハハ 小学校だった のではなかった 中学校だった そいつも不良だった ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど 学校や 家では あ 親のいる前では バカ そいつのことが好きだったけど 好きだって言わなかった そういえば ぼくは 学校では だれのことも好きだって言わなかった 中学のとき 塾で 女の子に 告白されたけど ぼくは好きだって言わなかった かわいい子だったけど 好きになるかもしれないって思ったけど 3分の1 足 みじけえ でも なんか まるまるとして でも ぜんぶ筋肉でできてるみたいな バカ ぼくも デブだったけど、わら このとき考えたのは なんだったんだろう。 遡行する光 ぼくの詩は 詩って言っていい? わら きっと 箱のなかの 頭のなかに 閉じ込められた光 さかのぼる光 箱のなかで 反射し 屈折し 過去に向かって遡行する光 ぼくの見たものは きっと ぼくの見たものが ぼくのなかを遡行する光だったんだ ぼくのなかで 遡行し 走行し 反射し 屈折する光 考える光 苦しんだ光 笑った光 きみの手が触れた光だった 先輩が触れた ぼくの手が見てる ぼくの光 光が光を追いかける 名前も忘れてしまった ぼくの光 光が回想する 光にも耳があってね 音が耳を思い出すたびに ぼくは そこにいて 六波羅小学校の そばの 路地 きみのシルエットはすてきだった 大好きだった 大好きだったけど 好きだって言わなかった きみは 遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて 遡行する光 反射し 屈折する光 光が思い出す 顔 声 道 壁 何度も 光は 遡行し 反射し 屈折し 思い出す。 あんにゃん 一度だけ きみの腰に手を回した 自転車の後ろに乗って 昼休み 堀川高校 いま すげえ進学校だけど ぼくのいたときは ふつうの高校で 抜け出して 四条大宮で パチンコ ありゃ 不良だったのかな、わら バカ 意味なしに、バカ。 どうして光は思い出すんだろう どうして光は忘れないのだろう 光はすべてを憶えてる 光はなにひとつ忘れない なぜなら、光はけっして直進しないからである。 二〇一五年十三月二十四日 「どろどろになる夢を見た。」 焼死と 変死と 飢え死にとだったら どれがいい? って、たずねたら 魚人くんが 変死ですね。 って、 と ぼくも。 と 言うと アラちゃんが 勝手に 「ぼく安楽死」と名言。 じゃない 明言。 フンッ。 目に入れたら痛いわ。 そこまで考えてへんねんけど どなると フェイド・アウト 錯覚します 割れた爪なら そのうち、もとにもどる どろどろになる夢を見た 目にさわるひと 耳にさわるひと 鼻にさわるひと 手にさわるひと 足にさわるひと 目にかける 耳にかける 鼻にかける 手にかける 足にかける 満面のお手上げ状態 天空のごぼう抜き 乳は乱してるし ちゃう 乳 はみだしてるし そんなに はみだしてはるんですか 抜きどころじゃないですか? そんな いきなり乳首見せられても なんで電話してきてくれへんの? やることいっぱいあるもの。 あんまり暇やからって あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの! ディッ ディルド8本? ちゃうわよ。 ビデオとディルドと同じ金額やのね。 あたし、ほんとに心配したんだから ワシントン条約でとめられてるのよ あんたが? ビデオがよ ビデオが? ディルドもよ ロスから帰るとき あなたがいなくなってびっくりしたわ 16年前の話を持ち出さないで! ビデオ7本とディルド1本で 合計16万円の罰金よ 空港の職員ったら DCまでついてくんのよ カードで現金引き出すからだけど なによ さいしょ、あんたディルド8本で つかまったのかしらって思ったのよ は? 8本の種類って あんた どんだけド淫乱なのかしらって、わら 大きさとか形とかさ、わら それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう それは 必要 かつ 美しいものであった それは ほかのものたちに したたる黄金の輝きと 満たされていないものが いっぱいになるという 充溢感をもたらせるもの 生き生きとしたライブなものにすることのできる イマージュ 太字と 細字の 単位は不明の イマージュ 読みにくいけれど、わら ふんで 二〇一五年十三月二十五日 「神は一度しか死なない。悪魔は何度も死ぬ。」 創世記で 知恵の木の実を食べたことはわかるけど その味がどうだったのか書いてなかったね 書いてなかったから 味がしなかったとは言えないけれど どんな味がしたんやろうか 味覚はなかったのかな 知恵の木の実を味わったあとで 味覚を持ったのかな 二〇一五年十三月二十六日 「こんな詩があったら、いいな。」 内容がなく 意味がなく 音も声もなく 形もない詩。 あるいは 内容があり 意味があり 音も声もあり 形がない詩。 あるいは 内容がなく 意味がなく 音も声もなく 形がある詩。 二〇一五年十三月二十七日 「いっしょに痛い。」 ずっと、いっしょに痛い。 ポンポンと恩をあだで返すひと。 するすると穴があったら入るひと。 サイズが合わない。 靴は大きめに買っておくように言われた。 どもどものとき。 死んだ●と●●するのは恥ずかしい。 誤解を誤解すると 誤解じゃなくなる なんてことはないね。 すぐに通報します。 二〇一五年十三月二十八日 「詩について。」 詩と散文の違いは 改行とか、改行していないとかだけではなくて 根本的には 詩は 鋭さなのだということを 考えています。 それを 狭さ という言葉にしてもよいと思います。 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは 具体物 と言いました。 経験を背景としない詩は まずしい。 しかし、経験だけを背景にした詩も けっして豊かなわけではないのですね。 才能というものが たくさん知っていることでもなければ たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが たくさん知っていて そんなところはうっちゃっておいて書く ということが大事なのかなあって思います。 二〇一五年十三月二十九日 「人間違い」 人間・違い 人・間違い どっちかな。 後者やろうな。 近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。 「日曜もお仕事なんですね。」 ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから あいまいに、うなずいた。 ぼくと似てるひとと間違えたのかな。 でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。 なぞやあ。 おもろいけど。 こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。 あごひごの短髪の体格のいい、童顔の子やった。 二〇一五年十三月三十日 「100人のダリが曲がっている。」 のだ。 を。 連続 べつにこれが ここ? お惣菜 眉毛 詩を書く権利を買う。 詩を買う権利を書く。 そんなお茶にしても また天国から来る 改訂版。 グリーンの 小鉢のなかの小人たち 自転車も とまります。 ここ? コロ ぼくも 「あそこんちって  いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」 お土産ですか? 発砲しなさい。 なに? アッポーしなさい。 なになに? すごいですね。 なになになに? 神です。 行け! 日曜日には、まっすぐ タトゥー・サラダ 夜には、まさかの タトゥー・サラダ ZZT。 ずずっと。 感情と情感は間違い てんかんとかんてんは勘違い ピーッ トコロテン。 「おれ?  トラックの運転してる。」 毎日もとめてる 公衆の口臭? 公衆は 「5分くらい?」 「おととい?」 ケビン・マルゲッタ。 半分だけのあそ ピーッ 「八ヶ月、仕事なかったんや。  そんときにできた借金があってな。  いまも返してる。」 「じゃあ、はじめて会うたときは  しんどいときやったんやね。」 たんたんと だんだん もうすぐ だんだんと たんたん 一面 どろどろになるまで すり鉢で、こねる。 印象は、かわいい。 「風俗には、金、つこたなあ。  でも、女には、よろこばれたで。  おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)  糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから  おれの方が口でしたるねん。  あそ  ピーッ  めっちゃ、じょうずや言われる。」 イエイッ! とりあえず、かわいい。 マジで? 梅肉がね。 発砲しなさい。 あそ ピーッ お土産ですか? 説明いりません。 どれぐらいのスピードで? 前にも あそ ピーッ 見えてくる。 「選びなさい。」 曲がろうとしている。 間違おうとしている。 見えてくる。 「選びなさい」 まさかの トコロテン。 ピーッ あそ ピーッ 見えてくる。 「上から ピーッ 見えてくる  下から。」 のだ。 を。 連続 ピーッ 唇よりも先に 指先が のだ。 を。 連続 ピーッ 行きます。 「選びなさい。」 「からから。」 「選びなさい」 「からから。」 たまに そんなん入れたら なにかもう ん? 隠れる。 指の幅だけ ピーッ 真っ先に あそ ピーッ みんな ネバネバしているね。 バネがね。 蟻がね。 雨が モモンガ 掲載させていただきました。 二〇一五年十三月三十一日 「正しい書き順で書きましょう。」 電 飛 という漢字が、むかし、へたやった。 で 書き順を間違ってて マスミちゃんに正しい書き順を教えてもらって 正しい書き順で書いたらきれいに書けるようになった。 でも 電気の電は、あかんねんね。 雲も。 露も。 雪も。 雷も。 って話を 勤め先のお習字の先生に たまたまランチタイムに お席が、ぼくの近くに座ってらっしゃって ご挨拶することになって そのときに そういう話をしたら 雨 という字を横に広げて書いてみてくださいと言われて いま その通りにしたら 前よりずっときれいに書けるようになった。 ジェイムズ・メリルのルーズリーフ作業中に 何度か 雷とか 電気とか書いて たしかになあって思った。 さすが お習字の先生やなあ。 確実に、きれいになるように教えてくださった。 48才で、もしかしたら遅いのかもしれへんけど、笑。 まだまだ上達することがあるのかと思うと たいへん面白い。 さっき シンちゃんと電話していて 「いま何してたの?」 って訊かれて 詩の勉強って答えたら 「まだ、あきらめてないの?  あきらめるのも、才能だよ。」 と言われてカチン。 「みんな、きみのことが好きだった。」 の前半を、そのうちに書肆山田さんからと思っている。 あれは、ほとんど認められなかったけれど ぼくのなかでは、最高に霊的な作品やった。 とてもくやしい思いがいっぱい。 あまりにも洗練されすぎていたのだと自負している。 ほんとにくやしい。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年4月10日11時04分] 二〇一六年一月一日 「20世紀アメリカ短篇選」 『20世紀アメリカ短篇選』は、むかし上下巻読んだんだった。でも、ひとつも憶えていない。きのう、スピンラッドの短篇集だと思っていた『星々からの歌』をちら読みしたけど、これまたひとつも憶えていなかったのだった。憶えているものが少ない。これは得な性分なのか。  いい詩を書こうと思ったら、いい人生を送らないと書けない。あるいは、ぜんぜんいい人生じゃない人生を送らないと書けないような気がする。ぼくは両方、送ってきたから、書ける、笑。いい詩しか書けないのは、そういう理由。 『20世紀アメリカ短篇選』上巻の最後から2つめの「スウェーデン人だらけの土地」という作品を読み終わった。ウッドハウスを読んでるような感じがした。作者のアースキン・コールドウェルについて、あとで検索しよう。『20世紀アメリカ短篇選』上巻、あと1つ。上巻は、このアースキンの作品と、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の2つの作品がお気に入りだ。この2作品だけでも、この短篇集を再読してよかったと思う。とりわけ、「ローマ熱」など、若いときには、ピンと来なかったものである。これを読み終わったら、ハインリヒ・ベルの短篇集をおいて、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻を読もう。アースキン・コールドウェル、めっちゃたくさん翻訳あるし、古書でも、そう難しくなく手が届きそうな値段だし。でも、しばらくは我慢しよう。というか、下巻を読んでる途中で忘れるかな。持ってない本が欲しくなるのは、こころ根がいやしいからだと思う。自戒しよう。まだ眠れず。下巻、いきなりナボコフで、まったくおもしろくない短篇だった。書き方のいやみったらしさは、好みなのだけど。ハインリヒ・ベルの短篇集にして寝よう。 二〇一六年一月二日 「宮尾節子さんの夢」  宮尾節子さんの夢を見た。すてきなご飯家さんで朗読会をされてたんだけど、宮尾さんの朗読のまえに、小さな男の子がバスから降りてきて、なんか物語をしゃべってくれるんだけど、意味はわからず、でも、なんかしゃべりつづけて、聞き耳を立てているうちに目が覚めてしまった。おいしそうな料理が出た。 二〇一六年一月三日 「読書とは何か?」  さっき塾から帰ってきたところ。きょうは、朝の9時から夜の10時まで働いた。休憩時間に、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のうち、2番目のものと3番目のものを読んだ。1作目のナボコフと違って、「ある記憶」も「ユダヤ鳥」もよかった。悪意に満ちたグロテスクな笑いを感じた。帰りに、スーパー「マツモト」で、餃子を20個買ってきて食べたのだが、油まみれで、もたれる。きょうは、もうこれくらいで、クスリのんで寝ようかな。寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のつづきを。きょう読んだ「ユダヤ鳥」は、ぜひパロディーをつくってみたいと思ったのであった。  バカバカし過ぎて、読むのを途中でやめた、ボリス・ヴィアンの『彼女たちには判らない』をもって、湯舟につかろう。さいしょから棄てるつもりで、表紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げ入れた。ゴア・ヴィダルの『マイラ』のような感じのものだ。躁病状態の文学だ。 「きみの名前は?」(ボリス・ヴィアン『彼女たちには判らない』第十二章、長島良三訳、99ページ)  96ページにもこのセリフはある。死ぬまで、「きみの名前は?」という言葉を収集するつもりである。ボリス・ヴィアンのこの作品はやっぱりカスだった。詩人や作家は最良の作品だけを知ればよい。まあ、ひとによって、最良の作品が異なるし、最良の作品を読むためには、最良でない作品にも目を通さなければならないが。そういえば、ロバート・F・ヤングなどは、全作品を読んだが、『たんぽぽ娘』以外すべてカスという駄作のみを書きつづけた恐るべき作家だった。  小学校の3年くらいかな、友だちのふつうの笑い顔が輝いてた。中学校の1年のときに、友だちが照れ笑いしたときの顔が忘れられない。どんなにすごいと思った詩や小説にも見ることができない笑顔だ。ぼくがまだ、それほどすごい詩や小説と出合っていないだけかもしれない。読書はそれを探す作業かもね。 二〇一六年一月四日 「本の表紙の絵」  本棚の前面に飾る本の表紙を入れ替えた。やっぱり、マシスンの『縮みゆく人間』、ヴォークトの『非Aの世界』『非Aの傀儡』、ハーバートの『砂丘の大聖堂』第1巻、第2巻、第3巻は、すばらしい。アンソロジーの『空は船でいっぱい』、テヴィスの『ふるさと遠く』、ベイリーの『シティ5からの脱出』とかは仕舞えない。さいきんのハヤカワSF文庫本や創元SF文庫本の表紙には共感できないのだが、ハヤカワのスウェターリッチの『明日と明日』とかは、ちょっといいなと思ったし、創元のSF映画の原作のアンソロジーの『地球の静止する日』みたいな、ほのぼの系もいいなとは思った。数少ないけれども。スピンラッドの『鉄の夢』とか、プリーストの『ドリーム・マシン』とか、シマックの『法王計画』とか、ウィンダムの『呪われた村』とか、アンダースンの『百万年の船』第1巻、第2巻、第3巻とか、もう絵画の領域だよね。内容以上に、本を、表紙を愛してしまっている。まるで、すぐれた詩や小説を愛する愛ほどに強く。気に入った表紙の本が数多くあるということ。こんなに小さなことで十分に幸せなのだから、ぼくの人生はほんとに安上がりだ。単行本の表紙も飾っているのだけれど、ブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』と『町でいちばんの美女』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』がお気に入り。アンソロジーの『太陽破壊者』と、クロウリーの『ナイチンゲールは夜に歌う』と『エンジン・サマー』も飾っている。単行本の表紙って、意外に、よいのが少ないのだ。表紙で買うって、圧倒的に、文庫本のほうが多いな。LP時代のジャケ買いみたいなとこもある。 二〇一六年一月五日 「言葉を発明したのは、だれなんだろう?」  モーパッサンの『ピエールとジャン』を暮れに捨てたが、序文のようにしてつけられた小文のエッセー「小説について」は必要な文献なので、アマゾンで買い直した。これで買うの3回目。いい加減、捨てるのやめなければ。文献を手元に置くだけのための600円の出費。バカである。捨てなければよかった。今週はずっと幾何の問題を解いていた。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。翻訳がいいという理由もあるだろうけれど、アンソロジストでもある翻訳者の選択眼の鋭さも反映しているのだなと思う。すばらしいアンソロジーだ。じっくり味わっている。  千家元麿の詩を読んでいると、当時の彼の家族のこととか、彼の住居の近所のひとたちのこととか、また当時の風俗のようなものまで見えてきて、元麿の人生を映画のようにして見ることができるのだが、いまの詩人で、そんなことができるのは、ひとりもいない。『詩の日めくり』を書いてる、ぼくくらいだろう。もちろん、ぼくの『詩の日めくり』は、ぼくの人生の断片の断片しか載せていないのだけれども、それらの情報で、ぼくの現実の状況を再構成させることは難しくはないはずだ。生活のさまざまな場面の一部を切り取っている。きれいごとには書いていない。事実だけである。六月に、『詩の日めくり』を、第一巻から第三巻まで、書肆ブンから出す予定だが、『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけていくつもりだ。死んでから、ひとりくらい、もの好きなひとがいて、ぼくという人間を、ぼくの人生を、映画を見るようにして見てくれたら、うれしいな。  齢をとり、美貌は衰え、関節はガタガタ、筋肉はなくなり、お腹は突き出て、顔だけ痩せて、一生、非常勤講師というアルバイト人生で、苦痛と屈辱にまみれたものではあるが、わりと、のほほんとしている。本が読めるからだ。音楽が聞けるからだ。DVDが見れるからだ。  言葉を発明したのは、だれなんだろう。きっと天才だったに違いない。原始人たちのなかにも天才はいたのだ。 二〇一六年一月六日 「吉田くん」  冬は、学校があるときには、朝にお風呂に入るのはやめて、寝るまえに入ることにしている。きょうも、千家元麿の詩を読みながら、湯舟につかろう。ほんと、まるでウルトラQのDVDを見てるみたいに、当時のひとびとの暮らしとかがわかる。詩には、そういう小説のような機能もあるのだな。元麿のはね。  きょうも吉田くんは木から落っこちなかった。だから、ぼくもまだ生きていられる。それとも、もう吉田くんはとっくに落っこちているのかしら? いやいや、それとも、あの窓の外に見える吉田くんって、だれかが窓ガラスに貼りつけた吉田くんなのかしら?  吉田くんといっしょに、吉田くんちに吉田くんを見に行ったけど、吉田くんは、一人もいなかったぜ、ベイビー!  寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。ジーン・スタフォード(詩人のロバート・ローウェルの最初の妻)の『動物園』を、もう3日も読んでいるのだが、なかなか進まない。読む時間も寝る直前の数十分だからだけど、じっくり味わいたい文体でもある。翻訳家の大津栄一郎さんのおかげです。きょうと、あしたの二日間は、読書に専念できる。きょうじゅうに、『20世紀アメリカ短篇選』下巻を読み切りたい。しかし、冒頭のナボコフを除いて、傑作ぞろいである。学校の帰りに、サリンジャーの短篇を読み終わった。おもしろかった。ぼくは単純なのかな。単純なものがおもしろい。音楽と同じで。 二〇一六年一月七日 「竹中久七」  ずっと寝てた。腕の筋肉がひどいことになっていて、コップをもっても、しっかり支えられず、コーヒー飲むのも苦痛。病院で診てもらうのも怖いしなあ。ただの五十肩だと思いたい。  本を読む速度が極度に落ちている。読みながら、夢想にふけるようになったからかもしれない。途中で本を置くこともしばしばなのだ。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、まだ読み終わらず、である。味わい深いので、じっくり味わいながら読んでいるとも言えるのだが、それにしても読むのが遅くなった。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻。フラナリー・オコーナーの全短篇集・上下巻が欲しくなった。いかん、いかん。持ってるものをまず読まなくては。でも、Amazon で買った。単行本のほうが安かったので、フラナリー・オコナーの全短篇集を単行本で上下巻、買った。送料を入れて、3500円ちょっと。本の買い物としては、お手頃の値段だった。ああ、しかし、本棚に置く場所がないので、どうにかしなきゃならない。  竹上さんから入浴剤やシュミテクトや歯ブラシをたくさんいただいて、いま入浴剤入りのお風呂につかってた。生き返るって感じがした。歯を磨いて、横になろう。お湯につかりながら、千家元麿の詩を読んでたのだけれど、さいしょのページの写真を見てて、竹中久七というひとの顔がめっちゃタイプだった。いまネットで検索したら、マルキストだったのかな。そういう関係の本を出してらっしゃったり。でも、写真はなかった。お顔がとてもかわいらしくて、ぼくは大山のジュンちゃんを思い出した。のび太を太らせた感じ。文系オタク的な感じで、かわいい。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、あと1作。フィリップ・ロスの『たいへん幸福な詩』 これを読んだら、『20世紀イギリス短篇選』上巻を読もう。 二〇一六年一月八日 「神さまがこけた。」  お風呂場で足をひっかけたのだけれど、神さまがこけた。それが、ぼくを新しくする。 二〇一六年一月九日 「ヤツのは小さかった。」  けさ、思いっきりエロチックな夢を見て、そんな願望あったかなって変な気持ちになった。あまりにイカツすぎるし、ぜったいにムリだって思ってた乱暴者だった。誘われて無視した経験があって、その経験がゆがんだ夢を見させたのだと思うけど、じっさいは知らんけど、夢のなかでは、ヤツのは小さかった。 二〇一六年一月十日 「カナシマ博士の月の庭園」  きのう、エロチックな夢を見たのは、お風呂に入って読んだアンソロジーの詩集についてた写真で、「竹中久七」さんのお顔を見たせいかもしれない。現代のオタクそのものの顔である。かわいらしい。ぼくもずいぶんとオタクだけれど。ミエヴィルの『都市と都市』236ページ。半分近くになった。読んでいくにつれ、おもしろい感じだ。『ケラーケン』上下巻では、しゅうし目がとまる時間もないほどに場面が転換して、驚かされっぱなしだったから、こうしたゆっくりした展開に、いい意味で裏切られたような気がする。塾に行くまで読む。  やった。塾から帰ってきたら、ヤフオクに入札してた本が落札できてた。ひさびさのヤフオクだった。あの『猿の惑星』や『戦場に架ける橋』のピエール・プール『カナシマ博士の月の庭園』である。800円だった。日本人が主人公のSFである。カナシマ博士が切腹するらしい。長い間ほしかった本だった。 「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第13章、日暮雅通訳、253ページ)  ミエヴィル『ジェイクをさがして』タイトル作がつまらない。なぜこんなにつまらない作品を冒頭にしたのだろう。読む気力がいっきょに失せた。プールの『カナシマ博士の月の庭園』が到着した。ほとんどさらっぴんの状態で狂喜した。クリアファイルのカヴァーをつくろう。でも、読むのは、ずっと先かな。ミエヴィルの短篇集『ジェイクをさがして』を読んでいるのだが、これは散文詩集ではないかと思っている。散文詩集として出せばよかったのにと思う。SFというより、純文学の幻想文学系のにおいが濃厚である。読みにくいのだが、散文詩としてなら、それほど読みにくいものとは言えないだろう。  思潮社から出る予定の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の出版が数か月、遅れている。ぼくの記号だけでつくった詩が、アマゾンのコンピューターが、どうしても、それをエラーとして認識するらしい。家庭用のパソコンでOKなのに、なぜかはわからない。それゆえ、記号だけの作品は削除して詩集を編集してもらっている。 二〇一六年一月十一日 「恋する男は」  Brown Eyed Soul のヨン・ジュンがとてもかわいい。声もいい。むかし付き合った男の子に似てる子がいて、その子との思い出を重ねて、PVを見てしまう。ぼくたちは齢をとるので、あのときのぼくたちはどこにもいないのだけれど、そだ、ぼくの思い出と作品のなかにしかいない。  かっぱえびせんでも買ってこよう。きょうは、クリアファイルで立てられるようにした、ピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』をどの本棚に飾ろうかと、数十分、思案していたが、テーブルのうえに置くことにした。いまいちばんお気に入りのカヴァーである。白黒の絵で、シンプルで美しい。  ポールのレッド・ローズ・スピードウェイのメドレーを聴いてるのだけれど、ポールの曲のつなぎ方はすごい。ビートルズ時代からすごかったけど。どうして、日本の詩人には、音楽をもとにして、詩を書く詩人がいないんだろうね。ぼくなんか、いつも音楽を聴いてて、それをもとにつくってるんだけれどね。  このあいだ読んだ岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上下巻の話を思い出そうとしたが、作者名が思い出せない『ユダヤ鳥』と、作品名が思い出せないフラナリー・オコナーのものくらいしか思い出されなかった。強烈な忘却力である。いま読んでるミエヴィルの短篇集も、いつまで憶えているか覚束ない。  恋する男は幸福よりも不幸を愛する。(ウンベルト・エーコ『前日島』第28章、藤村昌昭訳、384ページ) 二〇一六年一月十二日 「めぐりあう言葉、めぐりあう記号、めぐりあう意味」  塾に行くまえに、お風呂に入って、カニンガムの『めぐりあう時間』を読んでいた。さいしょにウルフの自殺のシーンを入れてるのは、うまいと思った。文章のはしばしに、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』に出てきた言葉づかいが顔を出す。まだ33ページしか読んでないが、作家たちが登場する。  自分を拾い集めていく作業と、自分を捨てていく作業を同時進行的に行うことができる。若いときには、できなかった作業だ。自分が55年も生きるとは思っていなかったし、才能もつづくとは思っていなかったけれど、齢とって、才能とは枯れることのないものだと知った。幸せなことかどうかわからないけど、詩のなかでぼくが生きていることと、ぼくのなかで詩が生きていることが同義であることがわかったのだ。若いときには思いもしなかったことだ。ぼく自身が詩なのだった。ぼく自身が言葉であり、記号であり、意味であったのだ。 二〇一六年一月十三日 「詩について」  どういった方法で詩を書くのかは、どういった詩を書くのかということと同じくらいに重要なことである。 二〇一六年一月十四日 「嘔吐」 いったん 口のなかに 微量の反吐が こみあげてきて これは戻すかなと思って トイレに入って 便器にむかって ゲロしようと思ったら 出ない。 大量の水を飲んでも 出ない。 出したほうがすっきりすると思うんだけど。 飲んでかなり時間が経ってるからかなあ。 じゃあ、微量の 喉元にまで 口のなかにまで込み上げたゲロはなんだったのか。 ああ もしかして 牛のように反芻してしまったのかな。 ブヒッ じゃなくて モー うううううん。 微妙な状態。 指をつっこめば吐けそうなんだけど 吐くべきか、吐かないべきか それが問題だ おお、嘔吐、嘔吐、嘔吐 どうしてお前は嘔吐なのか 嘔吐よ、お前はわずらわしい 嘔吐にして、嘔吐にあらず 汝の名前は? はじめに嘔吐ありき 神は嘔吐あれといった、すると嘔吐があった 宇宙ははじめ嘔吐だった、嘔吐がかたまって陸地となり海となり空となった 嘔吐より来たりて嘔吐に帰る みな嘔吐だからである オード ではなくて 嘔吐という形式を発明する 嘔吐と我 嘔吐との対話 嘔吐マチック 嘔吐トワレ 嘔吐派 嘔吐様式 嘔吐イズム 嘔吐事典 嘔吐は異ならず 鎖を解かれた嘔吐 嘔吐集 この嘔吐を見よ 夜のみだらな嘔吐 嘔吐になった男 嘔吐を覗く家 殺意の嘔吐 もし神が嘔吐ならば あれ? ゲオルゲの詩に、そんなのがあったような記憶が。 違う。 神が反吐を戻して それが人間になったんやったかなあ。 それとも逆に ひとが反吐を戻したら それが神になったんやったかなあ。 岩波文庫で調べてみよう。 なかった。 でも、見たような記憶が どなたか知ってたら、教えてちゃぶだい。 ぼくもこれから いろいろ詩集見て調べてみよう。 持ってるのに、あったような気が。 追記 わたしは神を吐き出した。 これ、ぼくの「陽の埋葬」の詩句でした。 うううん。 忘れてた。 二〇一六年一月十五日 「今朝、通勤電車のなかで、痴漢されて」 ひゃ〜、朝、短髪のかわいい子が目の前にいたのですが 満員状態で ぎゅっと押されて彼の股間に、ぼくの太ももが触れて ああ、かわいいなって思ってたら その男の子 組んでた腕を下ろして ぼくのあそこんところを 手の甲でなではじめたんで ひゃ〜 と思って その子の手の動きを見てたら 京都駅について その子、下りちゃったんです。 残念。 明日、同じ車両に乗ろうっと。 で あんまりうれしいから きょうは うきうきで 仕事帰りに河原町に出たら 元恋人と偶然再会して その子のことを言って で そのあと 前恋人の顔を見に行って 今朝の痴漢してくれた男の子のことを再現して 前恋人の股間にぎゅって 触れたら、「何すんねん、やめてや!」 と言われて いままで 飲んだくれてました、笑。 その子の勇気のあること考えたら 自分がなんて小心者やったんかなって思えて 情けない感じ。 組んでた腕がほどけて 右手の甲が ぼくの股間に近づいていくとき なんか映画でも見てるような感じやった。 むかし 学生の子に 通勤電車のなかで 触られたときも ぼくには勇気がなくて 手を握り返してあげることもできひんかった。 きょうも、勇気がなくって。 なんて小心者なのやろうか、ぼくは。 相手の子の勇気を考えると 手を握り返すくらいしなきゃならないのにね。 反省です。 二〇一六年一月十六日 「二〇一四年八月二十一日に出会った青年のこと」 メモを破棄するため、ここに忠実に再現しておく。 ?マンションのすぐ前まで来てくれた。車をとめる場所がないよと言うと、「適当にとめてくる」と言う。 ?部屋に入ると、テーブルの下に置いていた、ぼくの『詩の日めくり』の連載・2回目のゲラを見て、「まだ書いてるの?」と訊いてきた。「セックス以外しないつもりだったけど、ちょっと見てくれるかな?」と言って、アイフォンというのだろうか、スマホというのだろうか、ぼくはガラケーで、新しい電子機器のわからないのだが、そこに保存している彼が自分で書いた詩をぼくに見せた。 ?だれにも見せたことがないという。 ?たくさん見せてもらった。記憶しているものは「きみがいるおかげで、ぼくは回転しつづけられるのさ」みたいなコマの詩くらいだけど、よくあるフレーズというのか、そういうリフレインがあって、おそらくJポップの歌詞みたいなものなのだろうと思った。ぼくの目には、あまりよいものとは思えなかったのだけれど、セックスというか、あとでフェラチオをさせてもらうために、慎重に言葉を選んで返事をした。 ?メールのやり取りで、キスの最長時間やセックスの最長時間の話をしていて、それが7時間であったり、11時間であったりしたものだから、「ヘタなの?」と書いてこられてきたけれど、どうにかこうにか、ヘタじゃないということを説明した。 ?えんえんと1時間近くも彼の書いた詩を読ませられて、これはもう詩を読ませられるだけで終わるかもしれないと思って、「そろそろやらへん?」と言うと、「そうやな」という返事。「いくつになったん?」と訊くと、37才になったという。はじめて映画館で会ったのはもう10年くらい前のことだった。「濡れティッシュない?」と言うので、「ないよ」と返事すると、「チンポふきたいんやけど」と言うので、タオルをキッチンで濡らして渡した。「お湯で濡らしてくれたんや」と言うので、「まあね」と答えた。暗くしてくれないと恥ずかしいと言うので電気を消すと、ズボンとパンツを脱いで、チンポコを濡れタオルでふいている気配がした。シャツは着たまま布団の上に横たわった。ぼくは彼のチンポコをしゃぶりはじめた。 ?30分くらいフェラチオしてたと思うのだけれど、相性が合わなかったのだろう、「もう、ええわ」と言われて、顔を上げると、「すまん。帰るわ」と言って立ち上がって、パンツとズボンをはいた。部屋の扉のところまで見送った。 ?ちょっとしてから、ゲイのSNSのサイトを見たら、彼はまだ同じ文面で掲示板に書き込みをしてた。「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い・短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」 二〇一六年一月十七日 「言葉」  言葉には卵生のものと胎生のものとがある。卵生のものは、おりゃーと頭を机のかどにぶつけて頭を割ると出てくるもので、胎生のものはメスをもって頭を切り開くと出てくるものである。 二〇一六年一月十八日 「夢」  夜の9時から寝床で半睡してたら、夢を見まくり。ずっといろいろなシチュエーションだった。いろいろな部屋に住んでた。死んだ叔父も出てきたり。ずっと恋人がいっしょだったのだけれど、顔がはっきりわからなかった。ちゃんと顔を見せろよと言って、顔を上げさせたら、ぼくの若いときの顔でびっくりした。暗い部屋で、「見ない方がいいよ」と言って抵抗するから、かなり乱暴な感じで、もみくちゃになって格闘したんだけど、ぜんぜん予想してなかった。髪が長くて、いまのぼくではなくて、高校生くらいのときのぼくだった。無意識領域のぼくは、ぼくになにを教えようとしたのか。けっきょく自分しか愛せない人間であるということか。それとも高校時代に、ぼくの自我を決定的に形成したものがあるとでもいうのか。もうすこし、横になって、目をつむって半睡してみようと思った。しかし、無意識領域のぼくが戻ってくることはなかった。意地悪な感じで含み笑をして「見ない方がいいよ」と言った夢のなかのぼくは、意識領域のぼくと違って、ぼく自身にやさしさを示さないのがわかったけれど、いったん意識領域のぼくが目覚めたら、二度と無意識領域には戻らないんだね。その日のうちには。ふたたび眠りにつくことがなければ。 二〇一六年一月十九日 「吉田くん」 吉田くんを蒸発皿のうえにのせ、アルコールランプに火をつけて熱して、蒸発させる。 二〇一六年一月二十日 「胎児の物語」 めっちゃ、すごいアイデちゃう? そうですか? 書き方によるんとちゃいます? ううん。 西院の「印」のアキラくんに そう言われてしまったよ。 いま ヨッパだから あしたね〜。 胎児が 二十数世紀も母親の胎内で 生きて 感じて 考えて って物語。 生きている人間のだれよりも多くの知識を持ち つぎつぎと 異なる母胎を行き渡って 二十数世紀も生きながらえている 胎児の物語。 詳しい話は あしたね。 これ 長篇になるかも。 ひゃ〜 二〇一六年一月二十一日 「ラスト・キッド」  学校の帰りに、大谷良太くんちでコーヒー飲みながら、1月20日に出たばかりの彼の小説『ラスト・キッド』をいただいて読んだ。2つの小説が入っていて、1つ目は、ぼくの知ってるひとたちがたくさん出てて興味深かったし、2つ目は、観念的な個所がおもしろかった。大谷良太は小説家でもあったのだ。  きょうは、日知庵で、はるくんと飲んでた。「あつすけさんの骨は、おれが拾ってあげますよ」という言葉にきゅんときて、グッときて、ハッとした。つぎの土曜日に、また飲もうねと約束して、バイバイ。そのあと、きみやさんで、ユーミンの「守ってあげたい」を思い出して、フトシくんの思い出で泣いた。フトシくんが、ぼくのために歌ってくれた「守ってあげたい」が、はじめて聴いたユーミンの曲だった。もしも、もしも、もしも。ぼくたちは百億の嘘と、千億のもしもでできている。もしも、フトシくんと、いまでも付き合っていたら? うううん。どだろ。幸せかな? 二〇一六年一月二十二日 「soul II soul」  ふだんの行為のなかに奇蹟的なうつくしい瞬間が頻発しているのだけれど、ふつうの意識ではそれを見ることができない。音楽や詩や絵画といった芸術というものが、なにげないふだんの行為のなかのそういった美の瞬間をとらえる目をつくる。耳をつくる。感覚をつくる。芸術の最重要な機能のひとつだ。  ぼくはほとんどいつも目をまっさらにして、生きているから、しょっちゅう目を大きく見開いて、ものごとを見ることになる。ふだんの行為のなかに美の瞬間を見ることがしょっちゅうなのだ。これは喜びだけれど、同時に苦痛でもある。その瞬間のすべてを表現できればいいのだけれど、言葉によって表現できるのは、ごくわずかなものだけなのだ。まあ、だから、書きつづけていけるとも思うのだけれど。  ジーン・ウルフの短篇集、序文だけ読んで、新しい『詩の日めくり』をつくろうと思う。いまツイートしているぼくと、いくつかのパラレルワールドにいる何人ものぼくが書きつづっている日記ということにしてるんだけど、自分の書いたものをしじゅう忘れるので、何人かのぼくのあいだに切断があるのかもしれない。でも、それは表現者としては、得なことかもしれない。なにが謎って、自分のことがいちばん謎で、探究しつづけることができるからだ。自分自身が謎でありつづけること。それが世界を興味深いものにしつづける要因だ。  BGMを soul II soul にしたので、コーヒー飲みながら、キッチンで踊っている。soul II soul って、健康にいいような気がする。きょうじゅうに、2月に文学極道に投稿する『詩の日めくり』を完成させよう。なんちゅう気まぐれやろうか。やる気ぜんぜんなかったのに、笑。  つくり終えた。チキンラーメン食べて、お風呂に入ろう。お風呂場では、ダン・シモンズの『エデンの炎』上巻を読んでいる。たぶん、名作ではないのだろうけれど、読ませつづける力はあって、読んでいる。  シモンズの『エデンの炎』上巻がことのほかおもしろくなってきたので、お風呂からあがったけど、つづきを読むことにした。 『エデンの炎』棄てる本として、お風呂場で読んでたのだけれど、またブックオフで見つけたら買おう。ぼくの大好きなマーク・トウェインが出てくるのだ。そいえば、ファーマーの長篇にもトウェインが出てきてたな。主人公のひとりとして。リバーワールド・シリーズだ。 「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第一部・5、日暮雅通訳、81ページ)  豚になれるものなら豚になりたい。そうして、ハムになって、皿の上に切り分けられて飾りもののように美しく並べられたい。 二〇一六年一月二十三日 「選ばれなかった言葉の行き場所」  昼に学校で机のうえを見たら、メモ用紙が教材のあいだに挟まれてあって、取り上げると、何日もまえに書いた言葉があって、それを読んで思い出した。選ばれなかった言葉というものがある。いったんメモ用紙などに書かれたものでも、出来上がった本文に書き込まれなかった言葉もあるだろう。また、メモ用紙に書き留められることもなく、思いついた瞬間に除外された言葉もあるだろう。それらの言葉は、いったいどこに行くのだろう。ぼくによって選ばれなかったひとたちが、他のひとに選ばれて結びつくことがあるように、本文に選ばれなかった言葉が、別の詩句や文章のなかで使われることもあるだろう。しかし、けっして二度と頭に思い浮かべられることもなく、使われることもなかった言葉たちもあるだろう。それらは、いったいどこに行ったのだろう。どこにいて、なにをしているのだろう。ぼくが選ばなかった言葉たち同士で集まったり、話し合ったりしているのだろうか。ぼくの悪口なんか言ってたりして。ぼくが使わなかったことに腹を立てたり、ぼくに使われることがなくってよかったーとか思っているのだろうか。そういった言葉が、ぼくが馬鹿な詩句や文章を書いたりしているのを、あざ笑ったりしているのだろうか。ぼくの頭の映像で、とても賢そうな西洋人のおじさんが、たそがれときの窓辺に立っている。目をつむって。ぼくは、ぼくが使った言葉たちのほうを向いているのだが、表情のわからない、ぼくが使わなかった言葉たちのほうにも目を向けたいと思って、目を向けても、窓辺に立っているその西洋人のおじさんの映像はそれ以上変化しない。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくの使わなかった言葉が目をつむり、腕をくんで、窓辺で黄昏ている。その映像が強烈で、ぼくがどんな言葉を使わなかったのか、まったく思い出すことができない。その西洋人のおじさんは、ハーフに間違われることがある、ぼくそっくりの顔をしているのだけれど。 二〇一六年一月二十四日 「流転が流転する?」  2016年1月2日メモ。太った男性を好む男性がいること。いわゆるデブ専。ぼくは、大学に入って、3年でゲイバーに行くまで、ゲイっていうのか、当時は、ホモって言ってたと思うけど、顔の整った、きれいな男性ばかりだと思っていて、ぼくが魅かれるようなタイプのひとって、ふつうにどこにでもいるような感じのひとばっかりだったから、きっと、ぼくは特殊なんだなって思ってたのだけれど、ゲイバーに行って、いちばんびっくりしたのは、みんなふつうの感じのひとばかりだったってこと。でも、ぼくの美意識はまだ、文学的な影響が強くて、デブというか、太っているのは、うつくしくなくて、高校時代に社会科のデブの先生に膝を触られたときに、ものすごい嫌悪感があって、デブっていうだけで、うつくしくないと思っていたのだけれど、ゲイバーに行き出してすぐに付き合ったひとがデブで、石立鉄夫に似たひとで、とてもいいひとだったので、そのひとと付き合って別れたあとは、すっかりデブ専になってしまって、そういえば、高校時代にぼくの膝を触った社会の先生も、かわいらしいおデブさんだったなあと思い返したりしてしまうのであった。いまのぼくはもうデブ専でもなくなって、来る者拒まず状態である。といっても、みんな太ってるか、笑。ダイエットもつづかず、また太り出し、洋梨のような体型に戻ったぼくが、収容所体験のあるツェランの詩を、翻訳で読む。飢えも知らず、のほほんと育って、勝手気ままに暮らしている、太った醜いブタのぼくが、とてもうつくしいお顔の写真がついたツェランの詩集を読む。なにか悪い気がしないでもない。 「万物が流転する。」━━そしてこの考えも。すると、万物はふたたび停止するのではなかろうか?(パウル・ツェラン『逆光』飯吉光夫訳) 『ラスト・キッド』収録作・2篇目のなかにある、大谷良太くんの考えのほうが、ぼくにはすっきりするかな。「万物が流転する。」という言葉自体が流転するというものだけれど、ツェランのように、「停止する」というのは、ちょっと、いただけないかな、ぼくには。でも、まあ、ひっかかるというのは、よいことだ。考えることのきっかけにはなるので。ツェランの詩集は、もう借りることはないだろうな。ぜんぜん刺激的じゃないもの。 二〇一六年一月二十五日 「ある特別なH」 「ある特別な一日」から「一一一」を引いたら、「ある特別なH」になる。 二〇一六年一月二十六日 「ぼくは嘘を愛する。」  ぼくは嘘を愛する。それが小さな嘘であっても、大きな嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。それがぼくにとってもどうでもいい嘘でも、ぼくを故意に傷つけるための嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。嘘だけが隠されている真実を暴くからだ。 二〇一六年一月二十七日 「詩人殺人事件」 ひとつの声がきみの唇になり きみのすべてになるまで チラチラと チラチラと きみの身体が点滅している グラスについた汗 テレビの走査線のよう よい詩を読むと 寿命が長くなるのか短くなるのか どっちかだと思うけど どっちでもないかもしれないけど この間 バカみたいな顔をしてお茶をいれてた 玉露はいい 玉露はいいね と ジミーちゃんと言い合いながら 詩人殺人事件 って どうよ! 詩の鉱脈を発見した詩人がいた その鉱脈を発見した詩人は ほんものの詩を書くことができるのだ ところがその詩の鉱脈を発見した詩人が殺されてしまった 半世紀ほど前の話だ 容疑者は谷川俊太郎 真犯人は吉増剛造 刑事は大岡信 探偵は荒川洋治 弁護士は中村稔 村の娘に白石かずこ こんな配役で ミステリー小説なんて うぷぷ 笑 彼らの詩行を引用してセリフを組み立てるのよ 笑 二〇一六年一月二十八日 「キクチくん」 キクチくん。 めっちゃ かわいかった。 おとつい ずっと見てたんだよ って言ったら はずかしそうに 「見ないでください」 だって そのときの 表情が これまた かわいかった。 大好き。 たぶん 惚れたね〜 ぼく。 キクチくん もう 二度と会いたくないぐらい好き! 二〇一六年一月二十九日 「目は喜び」 Ten。 こうして見ますと、美しいですね。 TEN。 これも、美しいですね。 どうして、目は こんなもので、よろこぶことができるのでしょう。 不思議です。 二〇一六年一月三十日 「たこジャズ」  人生の瞬間瞬間が輝いて、生き生きとしていることを、これまでのぼくは、その瞬間瞬間をつかまえて、その瞬間瞬間を拡大鏡で覗き込んで、その瞬間瞬間をつまびらかにさせていたのだが、いまは、その生き生きと輝いている瞬間が生き生きと輝いている理由が、その生き生きとした瞬間の前後に、それみずからは生き生きとしてはいなくても、それ以外の瞬間を生き生きと輝いた瞬間にさせる瞬間が存在しているからである、ということに気がついたのであった。  むかし、ぼくが30代のときに、千本中立売(せんぼんなかだちゅうり)に、「たこジャズ」っていう名前のたこ焼き屋さんがあって、よく夜中の1時とか2時まで、そこでお酒とたこ焼きをいただきながら、友だちと騒いでたんだけど、アメリカ帰りのファンキーなママさんがやってて、めっちゃ楽しかった。  ひとり、ひとり、違ったよろこびや、違った悲しみや、違った苦しみがあって、その自分のとは違ったよろこびが、悲しみや、苦しみが、詩を通して、自分のよろこびや、悲しみや、苦しみに振り向かせてくれるものなのかなと、さっきキッチンでタバコを吸いながら思っていました。 二〇一六年一月三十一日 「きょうは、キッス最長記録塗り替えたかも、笑。」 むかし、付き合いかけた子なんだけど 前彼と付き合う前やから6年ほど前かな きょう会って 「ああ、ぜんぜん変わってないやん。」 「そんなことないわ、ふけたで。」 「そうかなあ。」 「しわもふえたし。」 「デブってるから、わからへんやん。」 目を合わせないで笑う。 「やせた?」 「やせたよ。」 出会ったころは、ぼくもデブだったのだけれど この6年で、体重が15キロほど減ったのだった。 しかし、さいきん、また顔が太ってきたのだった、笑。 あ、おなかも。 おなかをなでられて、苦笑いする。 「まだ、付き合う子さがしてんの?」 「うん。」 「いるやろ?」 「どこに?」 「どこにでもいるやん。」 「それが、いないんやね。」 「マッサージ師になれるんちゃう?」 ずっと手のひらをもんであげていたのであった、笑。 表情がとてもかわいらしかったのでキッスした。 そしたら目をつむって黙って受け入れたので 抱きしめたら抱きしめ返されたので そこからずっとチューを、笑。 6時間くらい。 ほとんど、チューばかり。 かんじんなところは、パンツの上から ちょこっとだけ、笑。 チューの時間 前の記録を超えたかも。 とてもゆっくりしゃべる子なので ぼくもゆっくり考えながら いろいろなことを思い出しながらしゃべった。 電話番号の交換をしたけど ぼくは、ほとんどいつもここで終わってしまう。 キッスは真剣なものだったし 握り返してくれた手の力はつよかったし 抱き返してくれた力もつよかったのだけれど やはり、しあわせがこわいひとみたい。 ぼくってひとは。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年4月17日0時08分] 二〇一六年二月一日 「アルファベットの形しかないんかいな、笑。」  何日かまえに、FBフレンドの映像を見て、いつも画像で、ストップ画像だから、ああ、素朴な感じでいいなあと思っていたら、映像では、くねくねして、ふにゃふにゃで、なんじゃー、って思った。ジムで身体を鍛えているのだろうけれど、なんだろ、しっかりしてるんだろうけど、くねくね、ふにゃふにゃ。  Aの形のひと。Bの形のひと。Cの形のひと。Dの形のひと。Eの形のひと。Fの形のひと。Gの形のひと。Hの形のひと。Iの形のひと。Jの形のひと。Kの形のひと。Lの形のひと。Mの形のひと。Nの形のひと。Oの形のひと。Pの形のひと。Qの形のひと。Rの形のひと。Sの形のひと。Tの形のひと。Uの形のひと。Vの形のひと。Wの形のひと。Xの形のひと。Zの形のひと。  寝るまえの読書は、チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻。一流の作家の幻視能力って、すごいなあって思わせられる。 二〇一六年二月二日 「お兄ちゃんのパソコンであ〜そぼっと、フフン。」 オレ、178センチ、86キロ、21歳のボーズです。 現役体育大学生で、ラグビーやってます。 ──って、書いておけばいいわよね。 ──あたしが妹の女子高生だって、わかんないわよね。 好みの下着は、グレーのボクサーパンツみたいなブリーフです。 ぽっちゃりしたオヤジさんがタイプです。 未経験なオレですが、どうぞよろしくお願いします。 ──お兄ちゃんのそのまんまの条件で ──どんな人たちが連絡してくるのか、楽しみだわ。 二〇一六年二月三日 「ジョナサンと宇宙クジラ」  ぼくのライフワークのうちの1つ、『全行引用による自伝詩』を試みに少し書こうとしたのだが、2つめの引用で、すでにしてあまりにも美し過ぎて、手がとまってしまった。この作品以上の作品を、ぼくが書くことはもうできないような気がする。詩は形式であり、方法であり、何よりも行為である。  肘関節の痛みが左の肩にのぼって、左のこめかみにまで電気的な痺れを感じるようになってしまった。身体はますますボロボロに、感覚はますます繊細になっていく感じだ。とても人間らしい、すばらしい老化力である。まっとうな老い方をしているような気がする。ワーキングプアの老詩人にも似つかわしい。  そだ。『全行引用による自伝詩』も『13の過去(仮題)』も、章立てはなく、区切りのないもので、ぼくが死んで書かなくなった時点で途中終了する形で詩集として出しつづけていくつもりだ。『13の過去(仮題)』は、●詩で、改行もいっさいしないで、えんえんと書きつづけていくつもりだ。  塾の帰りにブックオフに。半年ほどまえに売りとばしたC・L・アンダースンの『エラスムスの迷宮』を買い直した。なにしてるんやろ。それと、カヴァーと大きさの違うロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』と、トバイアス・S・バッケルの『クリスタル・レイン』を買った。みな、108円。  カヴァーを眺めて楽しむためだけに買ったような気がする3冊であるが、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』は、文字が大きくなって読みやすくなってるから、読むかも。『エラスムスの迷宮』は読んだから、読まないかも。『クリスタル・レイン』は読むと思う。いつか。 二〇一六年二月四日 「こんなん食べたい。」 指を切り落としたリンゴ。首を吊ったオレンジ。複雑骨折したバナナ。 二〇一六年二月五日 「TOMMY」 『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻、いまようやく400ページ目。あしたには下巻に突入したい。  寝るまえに、ロック・オペラ『TOMMY』を見た。『TOMMY』、音がCDとぜんぜん違う。ロック・オペラ『TOMMY』って、CDのほうがずっと音がいいんだけど、ちゃらちゃらしたDVD版の音のほうもいいね。アメリカでは、国がすべてのウェブサイトを記録として残すって話だったけど、日本はどうなんだろね。 個人的な手帳、手記ってのはものすごく重要な歴史資料なんだけども、いまや、それがケータイ本体やWebサービスに行っちゃって。TOMMYっていうと、ゲイの男の子たちのあいだでも人気のブランドだったと思うけど、そのTOMMYのTシャツをものすごくたくさん持ってる子のブログがあって、そこにある画像を見てて思ったんだけど、等身大の着せ替え人形用の服みたいって。あれ、逆かな。TOMMYっていうと、ピンボールの魔術師の役をどうしようって相談したロッド・スチュアートを裏切ったエルトン・ジョンのことを思い出すけれど、裏切りって、けっこう好きだったりする。裏切るのも裏切られるのも。むごい裏切り方されたときって、「ひゃ〜、人生の色が濃くなった。」って思えるからね。 二〇一六年二月六日 「モーリス・ホワイト」  きょうは早めに寝る。きょうから寝るまえの読書は、『ペルディード・ストリート・ステーション』の下巻。時間がかかるようになってきた。仕方ないか。ヴィジョンを見るのに、時間がかかってるんだと思う。若いときよりずっと緻密なような気がする。 言葉によって ぼくが、ぼくのこころの有り様を知ることもあるが それ以上に 言葉自体が、ぼくのこころの有り様を知ることによって より言葉自身のことを知るのだということ。 それを確信している者だけが 言葉によって、違った自分を知ることができるであろう。 『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻、200ページまで読んだ。5匹の怪物の蛾のうち、1匹をやっつけたところ。『クラ―ケン』並みのおもしろさである。魔術的な世界を的確な描写力で、現実のように見せてくれる。こんな作品を読んでしまったら、自分の作品『図書館の掟。』を上梓するのが、ためらわれる。 出すけど、笑。 モーリス・ホワイトが亡くなったんだね。EW&Fを聴こう。 二〇一六年二月七日 「そして誰かがナポレオン」  投票会場に行ってきた。本田久美子さんに入れたけど、アイドルみたいなお名前。 わさび茶漬けを食べて、あまりの辛さに涙。  読んでない詩集が2冊。寝るまえに読む。ボルヘス詩集とカミングズ詩集である。  ボルヘス詩集は1600円くらい、カミングズ詩集は4000円で買ったので、カミングズ詩集を読んでいたのだが、びっくりした。「そして誰かがナポレオン」ってカミングズの詩で、「肖像」というタイトルで、伊藤 整さんが訳してたのだね。ぼくは「そして誰もがナポレオン」って記憶してたのだけど、ツイッターで、どなたかご存じの方はいらっしゃらないかしらと呼びかけたのだが、いっさいお返事はなくて、もしかしたら、ぼくのつくった言葉かしらんと思っていたのだが、記憶とちょっと違っていたけど、カミングズの詩句だったのだね。案外、記憶に残ってるものだ。ここ数年の疑問が氷解した。カミングズ詩集、持ってて、手放しちゃったから、捜してた時に見つからなかったのだけれど、もう二度と手放さない。カミングズの詩、じっくり味わいながら読もう。 二〇一六年二月八日 「カミングズ詩集」  神経科の受診の待ち時間にカミングズの詩集を読んでた。詩は読むの楽でいいわ。ミエヴィルの小説とか辛すぎ。これから寝るまで、カミングズとボルヘスの詩集を読む。 EW&F聴いてたら元気が出てきた。  ぼくが買ったときには、4000円だったカミングズの詩集が、いま Amazon 見たら、18000円だった。海外の翻訳詩集、もうちょっとたくさんつくっておいてくれないのかしらん。  EW&Fのアルバムで持っていないもの(売りとばしたため)を買い直そうと思って、アマゾン見たら、1円だったので、逆に買いたい意欲がなくなってしまった。買ったけど。EW&F『ヘリテッジ』  きょう、むかし付き合ってた男の子が遊びにきてくれてたんだけど、話の中心は、ぼくの五十肩。30代の彼には想像できないらしい。そうだよね。ぼくだって、自分が若いときには、存在しているだけで苦痛が襲ってくる老化現象など想像もできなかったもの。いまなら年老いた方の苦痛がわかる。遅すぎるかな。  カミングズ詩集、半分くらい読んだ。きょうは残りの時間もカミングズ詩集を読む。小説と違って、さくさくと読める。やっぱり、ぼくは詩が好きなのだと思う。  きょうから睡眠薬が1つ替わる。ラボナからフルニトラゼバムに。むかしは服用したら5分で気絶する勢いで眠れたのだけど、さいきんは眠るまで1時間くらいかかっているので、その時間を短くしてほしいとお医者さんに頼んで処方していただいたクスリの1つだ。11時にのむ。気を失うようにして眠れるだろうか。  あした、あさっては学校の授業がないので、カミングズとボルヘスの詩集を読み終えられるかも。翻訳詩集の棚をのぞいたら、読んでないものは、この2冊だけかな。 ゾンビ恋人たちは、互いに春を差し出す。 ひび割れた頬にいくつもの花を咲かせ、 枯れた指に蔓状の葉をつたえ這わす。 ゾンビ恋人たちの胸は、つぎの春を待つ実でいっぱいだ。 血のように樹液を滴らせながら、ゾンビ恋人たちは抱き締め合う。 ゾンビ恋人たちのあいだで、無数の春が咲きほこる。  寝るまえにクスリのチェックしたら、2つ替わってた。どんな状態で眠るのかわからないので、11時ジャストに服用することにした。1錠だけじゃなかったのね。ドキドキ。 二〇一六年二月九日 「哲学の慰め」  12時に眠った。3時半に起きた。腕の痛みで。痛みがなければ、もう少し寝れたと思う。  ようやくカミングズの詩と童話を読み終わった。肘の関節痛で、お昼から横になって、苦しんでいて、なかなか本を手にできなかったため。これから塾に行くまでに、カミングズの芸術論などを読む。カミングズの童話を読んで、こころがなごんだ。現実の苦痛のなかにあっても。  ボエティウスが『哲学の慰め』をどういう状況で書いたのかに思いを馳せると、ぼくの肘の激痛も烈しい頭痛も、なんてことはないと思わなければならない。もう左手いらんわと思うくらいに痛いのだけれど、それでも詩集を開き、詩を読み、自分の新しい詩作品の構想を練る自分が本物の奇人に思えてしまう。 これも1円やったわ。EW&F『Millennium』  ヤフオクとAmazon のおかげで、欲しいものが簡単にすべて手に入る。ラクチンである。ネット時代に間に合ってよかった。ネット時代にいなかった芸術家には悪いけれど、芸術家にとって、こんなにラクチンな時代はないように思う。他者の芸術作品を手に入れるのも、自分の作品を見せるのも超簡単。 寝るまえの読書は、カミングズの散文。 二〇一六年二月十日 「いちびる。にびる。さんびる。」  むかし売ったやつね。新品で、612円だった。EW&F『Last Days & Time』  きょうは塾の給料日で、遊びに出かけたいのだが、体調がきわめて悪くて、たぶん、塾が終わったらすぐに帰って寝ると思う。塾に行くまでに、ミエヴィルとカミングズのルーズリーフ作業を終えたい。  ぼくは、カミングズの詩を読みながら、自分がしたことを思い出し、自分がしなかったことも思い出していた。  いちびる。にびる。さんびる。にびるは、いちびるよりいちびること。さんびるは、にびるよりいちびること。  鳥の囁く言葉がわかる聖人がいた。動物たちの言葉がわかる王さまがいた。さて、事物の言葉を解する者って、だれかいたっけ? 寝るまえに、ボルヘス詩集を読もう。 二〇一六年二月十一日 「闇の船」 きょうは体調が悪いので、京都詩人会の会合は中止します。  ご飯を買いにイーオンに。きのう、塾の給料日だったから、上等の寿司でも食べよう。  きのうブックオフで、サラ・A・ホワイトの『闇の船』を108円で買ったけど、以前に自分が売り飛ばしたやつだった。なにしてるんだろ。  ボルヘスの詩も飽きたので、ヤングの短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』を拾い読みして寝る。  けさ、京大のエイジくんの夢を見た。いっしょに大阪で食べもん屋で食べてたんだけど、エイジくんは常連さんだったみたいで、ドラッグクイーンのほかの客に話しかけられてて親しそうにしてたからちょっと腹が立った。齢とって40才くらいになってたかな。なんで夢みたんやろ。しょっちゅう思い出すからかな。 二〇一六年二月十二日 「ありゃりゃ。」 ボルヘスの詩を読んでいて、メモをとるのを忘れていた。 二〇一六年二月十三日 「理解の範囲」  苦労したり頑張ってつくったものに、あまりいい作品はなかったように思う。楽しみながらつくったものに、自分ではいいのがあるような気がする。『The Wasteless Land.』とか、ほんとに楽しみながらつくってた。まあ、どれも、楽しみながらつくってるけど。でも、思うんだけど、「こんなに苦労する」なんてのは、若いときだけの思いなんじゃないかな。ぼくも、若いときには、生きてること自体が苦痛に満ちていたように思うもの。いまは、苦痛なしの人生なんて考えられないし、苦痛をさけるなんていうのは怠け者の戯言だと思ってる。齢をとると、ひとには、自分の気持ちが伝わることなど、けっしてないのだという確信に至ると、まあ、たいてい、他人の言葉は、気分を害することのないものになるしね。ヴァレリーが書いてたように、ひとは自分の忖度できないことには触れ得ないんだしね。たくさんの詩人が、他の詩人の詩の評を書いているけれど、自分の理解の範囲がどれだけのものかを語っていることに気がつけば、そうそう、他人の詩について語ることはできないような気がするのだけれど。あれ? ずれてきたかな。ああ、ぼくは、こう書こうと思っていたのだった。「苦労して作品をつくる」などということは、創造的な人間にはあり得ないことなのだと。楽々と、楽しくつくってるんじゃないかな。しかも、実人生が与えてくれる苦痛をも、ある程度、おもしろがって味わっているような気がするしね。ずいぶん離れたこと書いてたなあって、いま気がついてしまった。ごめんなさい。思いついたら、なかなか言葉がとまらなくて。 二〇一六年二月十四日 「ロキソニン」  リハビリのひとつとして、SF小説のカヴァーをつくった。呼吸しているだけで、上半身の筋肉が電気的な痛みを帯びるような症状である。ストレスのあるときにこうなったことがあるが、いまストレスの原因はないはずなのだが。ペソアが47歳で死んだことを考えれば、55歳のぼくがいつ死んでもおかしくはない。このあいだ出した『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』と、もうじき出るはずの『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』がさいごの詩集になってもおかしくはないのだが、ことし3月に編集する詩集『図書館の掟。』もぜひ出して死にたい。  きょうつくったクリアファイルカヴァーでは、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いちばんかわいい。  痛みに耐えながらでも、ボルヘス詩集を読もう。苦痛を忘れさせてくれる読書というものはないのかな? 『歯痛を忘れる読書』とかいうタイトルで本を書けば、売れるかもね。  スピーカーの横からロキソニンが10錠見つかった。ためしに2錠のんでみる。いつの処方だったかはわからないくらいむかしのクスリ。  きょう、どこかで、ぼくの詩集が紹介でもされたのかしら? ぼくの楽天ブログ「詩人の役目」のきょうの閲覧者数が280人を超えてて、いつも30人から40人のあいだくらいなんだけど。  ロキソニンが効いているのか、腕を上げられるところまで上げても痛くない。とはいっても、肩くらいの高さだけど。しかし、痛みをとるクスリというのは、考えたら怖い。根本治療をしないで、痛みを感じさせないものなのだから。まるで音楽のようだ。  きょうは、もう寝る。クスリをのんだ。そいえば、きのう日知庵に行くまえに乗った阪急電車で、フトシくんに似た子が乗って、向かいの席に坐ったのだけれど、その記憶が残っていたのか、日知庵からの帰り道、フトシくんが、ぼくのために歌ってくれたユーミンの「守ってあげたい」が頭のなかに流れた。  書いておかなければ、日常のささいなことをほとんどすべて忘れてしまうので書いておいた。きのう書こうと思って忘れていた。思い出したのは、音楽の力だ。適当にチューブを流していたら、とてもファンキーな音楽と出合って、思い出したのだった。 二〇一六年二月十五日 「モーム、すごいおもしろい。」  ボルヘスの詩集を読みながら寝てしまった。きょうは、もうボルヘスの詩集を読み終わりたい。ルーズリーフ作業も終えたい。コーヒーのんだら、さっそく読もう。  きのうまでの無気力が嘘みたい。痛みどめが効いているのだろう。気力が充実している。ボルヘス詩集を読み終わり、あまつさえ、ルーズリーフ作業も終わったのだった。きょうは、これから、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻を読む。良質の文学作品によって、霊感を得るつもりだ。  痛みどめで、こんなに気力が変わるなら、もっと早くのめばよかった。きょう、あとでイーオンに五十肩専門の痛みどめを買いに行こう。 キップリングを読んでいる。  きょうはまだ痛みどめを服用していないのだが、関節の痛みはないわけではなく、痛みどめをギリギリまで服用しないでおこうと思っただけであった。  岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻2作目、アーノルド・ベネットの作品、えげつない。ベネットといえば、有名な格言があったけれども、それも、えげつない。たしか、こんなの、「とにかくお金を貯めなさい。それだけが確実に、あなたを守ってくれるものだから。」だったかな。うううん。それとも、「一にも二にも、お金を貯めなさい。お金を持っていないことは、お金がないことと同様に無価値だからである。」だったかな。なんか、お金に関する格言だった。イギリス人の作家の意地悪なところが大好きである。 半端ない寒さなので暖房をつける。ふだんは、けちってつけていない。  岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻、3つ目に収録されているモームの『ルイーズ』を読んでいるのだが、あまりにもおもしろくて、声を出して笑ってしまった。ああ、そうか、こんな書き方もあったんだなって思った。笑けるわ〜。  イギリス人のユーモアは、えげつなくて大好き。ウッドハウスのも収録されてたと思うけど、モーム、集めようかな。創元から出てるエラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』に入ってるモームの『園遊会まえ』も笑いに笑った作品だったが、モームって、こんなにおもしろかったなんて知らなかった。『ルイーズ』も『園遊会まえ』も、女性をひじょうに嫌っている感じがしたのだけど、ウィキを見ると、モームはゲイだったんだね。知らなかった。大先輩だったんだ。ぼくもゲイだけど、べつに女性が嫌いではないし、作品のなかで、女性にひどい扱いをしたことなんかもないけど、そういうひとはいるかな。  クリスティやP・D・ジェイムズのように、えげつない女性を書く女性の作家もいるし、性はあまり関係ないのかもしれない。まあ、もともと作家の性なんて、あまり指標にはならないものかもしれないしね。ティプトリーのような例もあるしね。そいえば、ぼくも、レズビアンものを書いたことがあったっけ。というか、一人称の女性として書いたものもあるしなあ。そいえば、蠅になって書いたこともあるし、同時にさまざまな人物(これまたイギリス出自のぬいぐるみキャラ含め)になって書いたこともある。性も、性的志向も、作品とは、あまり関係がないものかもしれない。 二〇一六年二月十六日 「ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!」 ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!  わっ。どなたか買つてくださつたみたい。ぼくには、お金が入らないけど、ありがたいことだとこころから思ふ。ありがたうございました。このやうに、ぼくの詩集がぜんぶ100円だつたらいいのだけれど。  きのう眠るまえに、ウッドハウスの『上の階の男』を読んだことになっている(栞でわかる)のだけれど、いま読み返したら、ぜんぜん憶えていなかったので、もう一度読んで寝る。また憶えてなかったら、あしたも読む(かな)。  きょうも暖房をつけて寝る。貧乏人がどんどん貧乏になっていく冬。はやく終わりなさい。 二〇一六年二月十七日 「確定申告」 確定申告に行ってきた。  塾の帰りに、ブックオフで2冊買ったけど、1冊は本棚にあったものだった。そうだよね。本をめくってみて読んだ記憶がなかったから買ったんだけど、ぼくが買わないわけはない本だった。岩波文庫の『ギリシア・ローマ名言集』記憶がないのは、ただ忘却しただけだったのだ。お風呂場で読み直して捨てる。  あと1冊は、これもむかし読んだかもしれないけれど、確実に本棚にはないことを知っている本だった。荒俣宏監修の『知識人99人の死に方』 ぼくもじきに死ぬことになると思うから、つい買ってしまった。一人目が手塚治虫で、60歳で胃がんで亡くなっていたのだった。有吉佐和子は享年53歳である。  痛み止めをのんで、お風呂に入ろう。『ギリシア・ローマ名言集』をもって入るけれど、読むのが怖い。読んだ記憶がないのが、とても怖い。  きょうジュンク堂に寄って、見つからなかったから、Amazon で、注文した。『モーム語録 (岩波現代文庫)』  お湯をバスタブに入れるまえに鏡で自分の顔を見てびっくりした。真白である。目のしたに隈ができていて、ほとんどゾンビのような顔である。じきに死ぬどころか、とっくに死んでいる顔である。記憶力が低下していることも怖いけれど、顔のほうが、もっと怖い。 二〇一六年二月十八日 「バッド・ベッティング」 彼女の手のひらのサイズの 郵便切手 ゾーン フィールド ルルドの泉 そして free be free 思いがけない バッド・ベッティングで ドライブ 「この近くに風呂屋ってないの?」 「いっしょに行く?  ぼくもいまから行くところやから」 彼は 彼女とカーセックスするために ぼくにきいたのだった。 彼女の手のひらのサイズの 郵便切手 ゾーン フィールド ルルドの泉 そして free 「ぼく、この曲  好きなんだよね。  いいでしょ?」 大黒のマスターが苦笑い。 「はいはい。  あっちゃんの好きな曲ね」 メガネの奥が笑ってないし、笑。 be free 「これって  スクリッティ・ポリティも歌ってなかったっけ?」 彼女の手のひらのサイズの 郵便切手 エナジーにみなぎる カーセックス ぼくは、彼が 彼女とカーセックスするって知らなかった。 「なんで同じシーンが繰り返されるの?」 大学でもそうだった。 友だちは 彼女のことよりも ぼくのことのほうが好きだって 思い込んでた。 ゾーン フィールド ルルドの泉 そして 街は 思い出の プレパラート Mea Culpa 二〇一六年二月十九日 「あいつらのジャズ」  これからお風呂に。お風呂から上がったら、『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業をして、下巻を読む。  55歳という齢になって若さも美しさも健康も失ったのだけれど、そのおかげで、ぼくへの評価はただ作品の出来によるものだけであることがわかる。なんの権威もなく、後ろ盾となってくれるひともいないので、ただ才能のみによって、ぼくへの評価がなされる。あるいは評価などされないということである。  ルーズリーフ作業。楽しい苦しい作業。苦しい楽しい作業。日々の積み重ね。才能も、努力があってこそ発揮されるものなのである。  岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻に入っているハクスリーの「ジョコンダの微笑」は、創元推理文庫の『犯罪文革傑作選』では、タイトルが「モナ・リザの微笑」になっていたが、同じものだ。訳者が違って、翻訳の雰囲気がぜんぜん違う。創元のほうを先に読んでいたのだが、岩波のも軽くて好きだ。若い愛人の女が、38歳の男にむかって、「ねえ、小熊ちゃん」と何度も呼びかけるのが岩波のほうの訳で、なんともコミカルである。創元のほうの訳では「ねえ、テディー・ベア」と呼びかけるのだが、「ねえ、小熊ちゃん」と呼びかけられる太った男の姿の方がかわいい。いずれにしても、複数のアンソロジーに入るのだから、大したものだ。たしかに傑作だ。ぼくのこんど出した『全行引用詩・五部作・上巻』にも、引用した箇所がある。創元の龍口直太郎の訳の方だけど。岩波文庫を先に読んでたら、小野寺 健の訳の方を引用してたかもね。  時間とは、すなわち、ぼくのことであり、場所とは、すなわち、ぼくのことであり、出来事とは、すなわち、ぼくのことである。  本質的なものが失われることなどいっさいない。それが言葉の持つ霊性の一つだ。ぼくが描写した言葉のなかに、その描写した現実の本質がそっくりそのまま含まれているのだ。そうでなければ、ぼくが言葉にして描写することなどできるわけがないではないか。 ぼくは彼に惹かれた。彼がぼくに惹かれた様子はまったく見えなかった。  選ばれなかった言葉同士が結びついていく。選ばれなかった人間たちが互いに結びついていくように。  きょうもお風呂から上がったら、両肩、両肘にロキソプロフェンnaテープ100?というシップをして、痛みどめにしている。3回か4回、自殺未遂したけど、死なずによかった。齢をとって、こんなに身体が痛いなんてことを知ることができてよかった。苦痛が、ぼくの知的な関心を増大させるからである。  齢をとって、身体がボロボロになって、苦痛に襲われて、こんなに愉快なことはない。この苦痛のなかで、ぼくは本を読み、笑い、考え、反省させられ、詩句のアイデアを得ることができるのである。おそらく、ぼくは、どのような苦痛のなかであっても、その苦痛をさえ糧とするだろう。詩を生きているのだ。いや、詩を生きているのではない。詩が生きているのだ。ぼくという人間の姿をして。  岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業が終わったので、読書をする。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻である。楽しみである。  ジーン・リースの「あいつらのジャズ」よかった。不条理だと思うけれど、人生って不条理だらけだものね。納得。まあ、刑務所というところには入ったことはないけれど、描かれているようなものなのだろうなとは思う。イギリスで差別されてた有色人種の側から見たものだったけれど、訳がよかった。 二〇一六年二月二十日 「星の王子様チョコ」 夕方から日知庵に。それまで『モーム語録』でも読んでいよう。  いま帰った。竹上さんから、星の王子様のチョコレートをいただいた。包装もおしゃれだし(本のように出し入れできる)紙袋もおしゃれだった。やっぱり、かわいいものを、女子は知ってるんだな。 竹上さんにいただいた星の王子様チョコ、めっちゃ、おいしい。 二〇一六年二月二十一日 「こころの慰め」  きょうは一行も読んでいない。数学もまったくしていない。ただただ傷みに耐えて、横になっていた。こころを癒してくれたのは、SF小説の本のカヴァーの絵たちである。ぼくの部屋の本棚に飾ってある本は、安いものだと、300円くらいだ。高くても、文庫なら、せいぜい1000円くらいだ。ブコウスキーの単行本『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』は、両方ブックオフで105円で買ったものだ。また、アンソロジーの『太陽破壊者』も105円だった。もちろん、値段ではないのだ。絵のセンスなのだ。写真のセンスなのだ。しかし、その多くのものが安かったものだ。おもしろい。ぼくは安い値段のものを見て、こころおだやかに、こころ安らかに生きている。ぼくのこころをおだやかにさせるのに、何万円も必要ではない。  神さまに、こころから感謝している。ぼくに老年を与えてくださり、身体をボロボロにして苦痛を与えてくださり(左手は茶碗を持っても傷みと麻痺でブルブルと小刻みに震えるのだ)、そうして、大切な大切な読書という貧乏な者にでも楽しめる楽しみを与えてくださって。  ぼくは絵描きになりたかった。でも、部屋の本棚に飾ってある美しい絵の一枚も、きっと描く才能はなかったと思う。神さまはそのかわりに、ぼくに絵を楽しむ才能を授けてくださった。ぼくには、『ふるさと遠く』『発狂した宇宙』『幼年期の終り』などの初版の絵がある。『空は船でいっぱい』『神鯨』『呪われた村』『ユービック』『世界のもうひとつの顔』『法王計画』『シティ5からの脱出』『窒素固定世界』『キャメロット最後の守護者』『ガラスの短剣』『縮みゆく人間』などの素晴らしい初版の絵がある。まことに幸福な老年である。 二〇一六年二月二十二日 「ノブユキ」 これから幾何の問題をつくる。きょうは一日中、数学だな。 きょうやるべきことがすべて終わったので、これから飲みに行く。  いま、きみやさんから帰った。おしゃべりしていて、とても楽しい方がいらっしゃった。三浦さんという方だった。また、同志社の先輩で、とてもかわいらしい方がいらっしゃった。年上の方でも、ごくたまに、かわいらしいと思える方がいらっしゃる。ごくごく、たまだから、ほんとにごく少ないのだけれど。  ほんとにいやしいんだと思う、本に対して。『Sudden Fiction』をブックオフで108円で見つけて、また買った。お風呂に入って、読もうという魂胆が丸見えである。お風呂に入りながら見るのに、ちょうどいいんだよね。また、ぼくの忘却力もすごいから、再読したくもなるわけだ。うにゃ〜。  人間には2種類しかいない。愛というものがあると思っているひとと、愛という観念があると思っているひとの。  ぼくが1年1カ月1週間1日1時間1分をどう過ごすかよりも、1年1カ月1週間1日1時間1分が、ぼくをどう過ごすかの方により興味がある。  きみの1分は、ぼくの1時間だった。きみの5分は、ぼくの1週間だった。きみの1時間は、ぼくの1か月だった。きみの1日は、ぼくの永遠だった。 愛が永遠だというのは嘘だと知った。永遠が愛だったのだ。 愛については何も知らない。ときには、何も知らないことが愛なのだ。  愛があると思って生きていると、そこらじゅうに愛が見つかる。愛というものがどんなものか、くわしく知らなくても、ともかく、愛というものが、そこらじゅうにあることはわかるようだ。  特別な名前というものがある。それは愛と深く結びついた言葉で、その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。その熱で楽に呼吸することができないくらいに。 Nobuyuki。歯磨き。紙飛行機。  きみは最高に素敵だった。もうこれ以上、きみのことを書くことは、ぼくにはできない。  2年のあいだ、付き合ってた。きみはアメリカに留学してたから、いっしょにいたのは数か月だったけど。なにもかもが輝いていた。その輝きはそのときだけのものだった。それでいいのだと、齢をとって悟った。そのときだけでよかったのだ。その輝きは。そのときだけのものだったから輝いていたのだ。 二〇一六年二月二十三日 「われわれはつねに間違っている。たとえ正しいときでさえも。」  岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻を読んでいて、帰りに、エリザベス・テイラーの『蠅取紙』を読んでたら、これを読んだ記憶があったので、帰って、ほかのアンソロジーを見たけどなかったので、この岩波文庫自体で過去に読んでいたことを忘れていたようだ。まあ、いい作品だからいいのだけど。  先週、ひさしぶりに会った友だちが、横に太ったねと抜かすので、頬を思い切りひっぱたいてあげた。太ったって言われることは、べつにどうでもいいんだけど、たまにひとの顔面を思い切りひっぱたきたくなるのだ。みんなMの友だちを持つべきだと思う。すっきりするよ。 時間を経験する。 場所を経験する。 出来事を経験する。 逆転させてみよう。 経験を時間する。 経験を場所する。 経験を出来事する。 経験を時間するという言葉で 時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 経験を場所するという言葉で 場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 経験を出来事するという言葉で 出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 あるいは 経験が時間する。 経験が場所する。 経験が出来事する。 経験が時間するという言葉で 時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 経験が場所するという言葉で 場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 経験が出来事するという言葉で 出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。 時間の強度。場所の強度。出来事の強度。 時間の存在確率。場所の存在確率。出来事の存在確率。 時間の濃度。場所の濃度。出来事の濃度。 この現在という、新しい過去である古い未来。 過去と未来が互いの周りをめぐってくるくると廻っている。 現在は、どこにも存在しない。 回転運動をさして現在と言っているが それは完全な誤謬である。 われわれはつねに間違っている。 たとえ正しいときでさえも。 最後の2行は、ガレッティ教授の言い間違いの言葉の一部を逆転させたもの。 二〇一六年二月二十四日 「もっと厭な物語」 『20世紀イギリス短篇選』下巻、あと2篇。これが終わったら、『フランス短篇傑作選』を読もうと思う。これまた過去に読んだような気もするが、かまいはしない。読んだ記憶がないのだもの。さすがに、アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、ほかのアンソロジーにも入ってて知ってるけど。 田中宏輔は80歳で亡くなります。亡くなる理由は暗殺です。 https://shindanmaker.com/263772 田中宏輔に関係がありすぎる言葉 「妄 想」 https://shindanmaker.com/602865  田中宏輔さんの3日後は、深夜1時頃、人通りの少ない場所を歩いていると、田中宏輔さんの性的欲求を満たしてくれる消防士に出会い、殴られるでしょう。 #3日後の運勢 https://shindanmaker.com/603086  塾の帰りに、ブックオフで、文春文庫『もっと厭な物語』を108円で買った。エドワード・ケアリーの作品のタイトルだけで笑けた。「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」というのだ。日本人作家が4人も入っているのが気に入らないが、外国人作家の方が多いから、まあ、いいか。表紙がグロくてよい。 二〇一六年二月二十五日 「戦時生活」 シェパードの『戦時生活』、まだ読み切れない。 こんなに時間のかかった小説ははじめてかもしれない。 実験的な手法も、きれがいいし マジック・リアリズムそのものの表現もいいし 作品価値については いっさい文句はないんだけど 読む時間がかかりすぎ〜。 文章を目で追うスピードと ヴィジョンが見えるスピードに 差があって とても時間がかかっている。 内容がシリアスすぎるのかなあ。 それとも ぼくが齢をとったのか。 「心がつくりだすものを、精神がうち壊すことはできない」(小川 隆訳) という言葉が、347ページ3,4行目に出てくる。 おびただしく、ぼくはマーキングして、メモを書いている。 そのため、もう1冊、ネット古書店で買った。 二〇一六年二月二十六日 「たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。」  たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。赤ん坊のときでさえ、そのブサイクさに母親があきれ果て、育児放棄をしたくらいですから。家には、ぼくのようなブサイクな赤ちゃんの面倒を見るような家族は一人もいませんでした。必然的に乳母となる女性を、親は雇ったのですが、その乳母の顔がまたブサイクで、ぼくは赤ん坊ながら、そのブサイクさにびっくりして、乳母がぼくの顔を見るたびに痙攣麻痺したそうです。ぼくのブサイクさと乳母のブサイクさを合わせると、カメラのレンズでさえすぐに割れたそうです。ですから、ぼくの赤ん坊のときのブサイクな写真は存在しておりません。伝説的な乳母のブサイクさは、ぼくが幼稚園に通う頃の記憶からすると、顔面しわだらけのお化けでした。幼稚園では、ぼくくらいのブサイクな子がほかにも一人いたので、そのブサイクな子と、いつもいっしょに遊んでいました。小学校、中学校と、そのブサイクな子とずっと同じ学校に通っていたのですが、高校にあがるときに、学力の違いから、別々になりました。でも、幸いなことに、ぼくが劣等な高校で上位になると、彼は優等な高校の下位になり、同じ大学で再会することができたのでした。しかし、世のなかには、変わった嗜好をしているひとたちがいて、ブサイクなぼくにも、ブサイクな彼にも、ブサイク専の彼女ができたのでした。ぼくの彼女も、彼の彼女もそこそこの美人でした。「あなたたちは、わたしたちのペットなのよ。」と、彼女たちに言われたことがありますが、まさしくペットの飼い主のように、ぼくたちにやさしく接してくれていました。大学を出て就職して、それぞれの彼女たちと結婚したのですが、ぼくの子どもも、彼の子どももとてもブサイクで、彼女たちの容姿を遺伝することはなかったようでした。でも、ぼくの子どもと、彼の子どもがとても仲がよくて、将来、結婚させようか、などと話したことがあるのですが、彼女たち二人ともが絶対にだめだわよと言うのでした。ブサイクならかまわないのよ、ブサイクの2乗は、もう人間ではなくってよ。と、二人の女性は同じことを言うのでした。ブサイクと、ブサイクの2乗に違いがあるのか、よくわからないのですが、ぼくも、彼も、女性陣にはかなわないので、ぼくたちの子ども同士の交際は、結婚にまで至らせることはできないものだと思っております。 ラクダが針の穴を通るのは難しいが、針の穴がラクダを通るのは難しくない。  ぼくは傑作しか書いたことがないから、傑作でない作品を書いているひとの気持ちは想像することしかできないけれど、よりよい作品ができたら、その作品以前の作品は、できたら、なかったことにしたいのではなかろうか。しかし、詩句や文章がそうなのだが、書いてきたものをなしにすることはできない。しかし、じっさいの生活のなかでは、こういうことはよくある。ある一言で、あるいは、ある一つの振る舞いで、その言葉を発した相手のことを、そのような振る舞いをした相手のことを、さいしょからいなかったことにするのである。じっさいの生活では、しじゅうとは言わないが、よくひとが、いなくなる。  岩波文庫の『フランス短篇傑作選』おもしろすぎ。イギリス人の意地の悪さも相当だけれど、フランス人の意地の悪さも負けてはいないな。意地の悪さというより、気持ち悪さかもしれない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝る。痛みどめを入れると10錠である。わしは、クスリを食っておるのだろうか。  きのう、10年ぶりくらいに、うんこを垂れた。おならだと思って、ブッとしたら、うんこが出たのだった。すぐにトイレに駆け込んで、パンツを脱いで、クズ入れに捨てて、ビニールの口をふさいだのだ。もちろん、パンツを脱ぐまえにズボンを脱いだ。下半身丸出しだった。まあ、個室トイレのなかだけど。 二〇一六年二月二十七日 「柔道部の先輩」 以前に書いたかな。愛の2乗はわかるけど、愛の平方根はわからないって。  10年くらい前、京大生の男の子に、あまり考え方が拡げられなくてと言われて、「読むもの変えれば?」と答えたらびっくりしてたけど、そのびっくりの仕方にこちらのほうがびっくりした。読む本が変われば、見る映画が変われば、食べる食べものが変われば、ひとは簡単に変われるものだと思ってたから。  これから、むかし付き合ってた子とランチに。けっきょく、お弁当買って、部屋でいっしょに食べただけ。あとは、腰がだるいと言うので、腰をマッサージしてあげただけ。ぷにぷにした身体をさわるのは大好きなので、いいよいいよって言って、揉んであげた。高校時代の柔道部のかっこいい先輩にマッサージさせられたときのことが、ふと思い出された。 二〇一六年二月二十八日 「目が出てる。」  目が出てる。あごが出てる。おでこが出てる。おなかが出てる。指が出てる。足が出てる。  目が動いてる。あごが動いてる。おでこが動いてる。おなかが動いてる。指が動いてる。足が動いてる。 二〇一六年二月二十九日 「なにげない風景」  きみやさんに行くまえに、オーパのブックオフで、新潮文庫の『極短小説』というのを買った。108円。浅倉久志さんが選んだ極端に短い話(55字以内)が載っていて、ぼくがいま『詩の日めくり』で1行や2行の作品も書いてるけれど、なんかおもしろそうだと思って買った。オーパのブックオフの帰りに乗ったエレベーターで、ボタンのそばにいた男の子がかわいいお尻をしていたので、ずっと見ていて、1階に降りたときに、「ありがとう」と言うと、ぼくの顔を見て、きょとんとしていた。 二〇一六年二月三十日 「点の、ゴボゴボ。」 病院には直属の上司はきませんでした。 きてくれたのは 今年の教育係のひとと 今年いっしょに入ったひとの二人だけです。 うれしかったです。 でも ひとりは 教育係のひとですけど 最後のほう 時計をチラチラ見て その病院の近くにある会社に 会社の用事があって そのついでに寄っただけだと言ってました。 ─それってもしかしたら、女性? ええ どうしてわかったんですか。 ─だって、女のひとに多いじゃん。  相手のこと、いい気持ちにさせといて  あとで突き落とすの  言わなくてもいいこと、へいきで口にできるんだよねえ  そゆひとって  いやあ  いるいる  いるわ〜  前に  西院の王将でさ  スープをかき混ぜてた女の子の定員が  鍋からね  レンゲが出てきたんだけど  そんなの口にしなきゃ  客にはわからないのに  声を張り上げてさ  なんでレンゲが入ってるの  なんて言うんだよね。  それって  客が食べ残したスープ  もどしたってこと?  って、ぼくなんか思っちゃって  注文したのが定食だったんで  出てきたスープ  まったく飲まなかったよ  なんちゅうバカだろね。  きっと、バカは一生バカだよね。  気分わるかったわ。 二〇一六年二月三十一日 「みつひろ(180センチ・125キロ。ノブユキ似のおデブさん)」 「三か月くらいになるよね、前に会ってから。」 「それぐらいかな。」 「ちゃんと付き合おうよ。」 「それはダメ。」 「どうして?」 「ほんとうになってしまうから。」 「彼女に悪いと思ってるんだ。」 「器用じゃないから。」 「もっと長い時間、いっしょにいたいんだけど。」 「ごめん。」 「35だっけ?」 「36になった。」 「何座?」 「しし座。」 「じゃあ、なってまだ2か月くらい?」 「うん。」 「胸毛、なかったっけ?」 「そってる。」 「なに、それ?」 「半年に一度くらい、そってる。」 そいえば、ノブユキも胸毛をそってた。 「彼女がそうしてって言うの?」 「・・・」 あんまり腹が立つから 一時間以上キッスしつづけて 口がきけないようにしてやった。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年4月24日1時21分] 二〇一六年三月一日 「ブロッコリー」 いま、阪急西院駅の前のビルに自転車をとめたら めっちゃタイプの男の子が近づいてきて わ〜 さいきん、ぼく、めっちゃ、もてるわ〜 ってなこと考えてると その子が言いました。 「このビルのどこかに行かはるんですか?」 「そだよ。本屋にぃ」 「じゃあ、すぐに戻ってこられますね」 「すぐだよん」 その子はシャツのエリがとてもきつそうだった。 20歳すぎかなあ。 ぼくの目をじっと見ながら、しゃべってた。 ガチムチの彼は お巡りさんの制服のよく似合う子だった。 惚れられたかもね。 お昼に、ピザ、思いっきり食べた。 ブロッコリーといくらといっしょに。いつ死んでもよい。 いくらと違って、おくらと、笑。 きょうは、夕方に、2年ぶりに会ったかわいい男の子とチューをしたので、 もういつ死んでもよい。  寝るまえの読書は、『極短小説』か、『フランス短篇傑作選』か、どちらかにしよう。 二〇一六年三月二日 「幸福」 いま日知庵から帰った。よっぱ〜。きょうは、学校が終わって、 大谷良太くんちでお昼寝させてもらって、夕方から飲みでした。ぐは〜。ねむ〜。 one of us であること。one of them であること。 これ以上に、ぼくたちが、彼ら彼女たちが忘れてはならないことはないと、 詩人のぼくは断言する。 『極短小説』をあと少しで読み終わる。ぼくは『詩の日めくり』で、1行や2行の詩を書いているのだが、ぼくのものよりゆるいと思われる作品がほとんどだった。ぼくは、ぼくの道を歩む。過ちではないと思う。過ちではなかったと思うと思う。ぼくは幸福だなと思う。ぼく自身のことを信じることができて。 二〇一六年三月三日 「極短小説」  あまりの苦痛に、痛みどめと、睡眠薬のあまっているもの(以前に処方されてあまってたもの)を飲んでたら、幻覚と幻聴を起こした。さいしょ、夢のような幸せな場所、映画館で映画を見るようにして、自分のタイプの子と話をしてたら、そいつがいきなり首だけの化け物になり、ぼくを宮殿に連れて行き、ぼくに、ぼくの文学的歴史の系図を見せた。ぼくはロビンソン・クルーソーのように孤立して生きるらしい。生きているあいだはまったくの無名で、ぼくの作品が評価されるのは死んでからだという。でも、まあいいよと言った。死んでからでも評価されないよりずっといいし、というと目が覚めた。ぼくは泣いて目が覚めたのだが、痛みはまだきつい。塾があるまで時間があるので、もう一度、クスリを追加して飲んでみる。幻覚が異常に生々しかった。ぼくは、違う世界とコンタクトしていたのだと思う。生きているあいだは孤立するというのは、ぼくらしくていい。  浅倉久志訳の『極短小説』レベル低くて、捨ててもよい本だが、挿絵がかわいいので本棚に残すことにした。話はレベルが、ほんとに低い。お風呂場では、『Sudden Fiction』を読んでいるのだが雲泥の差である。これから塾に行くまで、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読む。 きょうも、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読みながら寝よう。 二〇一六年三月四日 「モーム」  きょう、医院の待ち時間にジュンク堂に行って、モームの『サミング・アップ』と、『モームの短篇選(上)』と『モームの短篇選(下)』を買った。2900円くらい。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』のさいごを読んでるときに、医者に呼ばれた。『フランス短篇傑作選』さすが傑作選だわ。とてもよい。数日前に買って読んだ『極短小説』あまりにしょうもないので捨てるわ。やっぱり、本棚には傑作しか置いておく必要性がないもの。そいえば、岩波文庫から、ゲーテのファウストの新訳が出てるのだけれど、困るわ。森鴎外以外のすべてのファウスト訳をそろえている身にとっては。『モーム語録』を半分くらい読んだ。おおよその思考のパターンはつかんだ。 二〇一六年三月五日 「寄せては返す彼。」 寄せては返す彼。? 寄せては返し 返しては寄せる彼。 彼の身体は巌に砕け 血飛沫をあげる。 月が彼の上に手をのばして 彼の身体をゆさぶる 星が彼の身体に手をさしのべて 彼の身体をゆさぶる 彼の身体は 百億の月の光にあふれこぼれ 千億の星の光に満ちあふれる。 彼は砕け 彼は散る 寄せては返し 返しては寄せる彼。 百万の彼が 昼も 夜も やすみなく たえまなく 寄せては返し 返しては寄せる 百万の彼が 岸辺を コロコロと転げまわる 百万の彼は 背広を砂まみれにして 白いシャツを 砂まみれにして 岸辺を コロコロと コロコロと 転げまわる 巌に 砕ける 百万の彼 彼の 無数の 手の指が 顔の皮膚が 血まみれの巌の上にへばりついている 巌にへばりついた 血まみれの指 巌にへばりついた 血まみれの顔 こぼれ落ちる歯や爪たち コロコロと転げまわる 百万の彼 寄せては返し 返しては寄せる彼の身体 彼の身体がひくと残る 無数の手の跡 彼の手が引っ掻く砂の形 壊れては修復される 無数の傷跡 寄せては返す彼。? 寄せては返し 返しては寄せる彼 お目当ての彼女のマンションの駐輪場で 彼は寄せては返し 返しては寄せる 駐輪場の小さい明かりの下で 百万の彼の身体が コロコロと転がる 自転車やバイクのあいだの狭いところを コロコロと転げまわる百万の彼の身体 彼女を待つ一途な気持ちが 百万の彼の身体を 駐輪場の上にコロコロと転がせる 百万の彼の身体は ざらついたコンクリートの上で 擦り傷だらけ 寄せては返し 返しては寄せる 百万の彼の身体 彼女のマンションの駐輪場 寄せては返す彼。? お目当ての彼女が帰ってきた 寄せては返し 返しては寄せる彼 お目当ての彼女をマンションの入り口で 寄せては返し 返しては寄せる 百万の彼 お目当ての彼女を囲んで 寄せては返し 返しては寄せる 百万の彼 彼の身体が 彼女の身体に砕け 彼女の身体が 彼の身体に砕け 血まみれになる 彼女と彼 寄せては返し 返しては寄せる彼 百万の彼の身体が 倒れかける彼女の身体を支え あっちに傾き こっちに傾いた 彼女の身体を支える 寄せては返し 返しては寄せる 百万の彼の身体 彼女のマンションの入り口 二〇一六年三月六日 「一日に、2時間か、3時間くらいしか働いていないよ。」  きのう、日知庵で、65歳のレディーたちお二人と、竹上さんと、はるくんと飲んだのだけれど、齢をいくことほど人間をおおらかにしていくものはないのかもしれない。55歳のぼくは、まだとがっている。  平日に、1日に、2時間か3時間しか働いていないという人生を55歳までずっとやってて、って、きのう、日知庵で、はるくんと、竹上さんに、そう言うと、びっくりしてたんだけど、ぼくのほうもびっくりしたよ。非常勤講師で、塾の講師なんだから、そんなに労働時間あるわけないやんかと思うのだけど。  目が覚めているあいだの、人生のほとんどの時間を、読書と思索に使うというのが、ぼくの人生設計の基本なのだから、そんなに働いてはいられないのだ。  あさ9時に、かっぱ寿司まえに集合します。近くのラブホテルのサービス時間にセックスするために。とにかく長いセックス。やたらと長い時間のセックス。ふとももとか、女性だから、あざだらけになるんです。1週間前にセックスしたばかりなのに、またセックスするんです。彼って、ケダモノでしょう?  お風呂に入って、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。少なくとも、これで3度目。というか、3冊目。 あしたは、えいちゃんと、隈本総合飲食店で食事をする。なに食べようかな。  きゃは〜。ハヤカワから、コードウェイナー・スミスの全短篇集が出る。ぜんぶで、3巻だって。既訳されたものは、ぜんぶ持ってるけど、買うよん。それから、マイクル・コーニイの『プロントメク!』が河出から出てる。これは名作だった。ボブ・ショウは出さないのかしら?  きょうは、昼間にマクドナルドで、ベーコンバーガー食べて、あとで、コンビニで豆腐とサラダを買って食べたけど、いまちょこっとおなかがすいている。ちょっと遠いけど、ライフに行こうかな。 二〇一六年三月七日 「愛とは軽さのことだ」  愛とは軽さのことだと思うことがある。どれだけ気楽に接することができるかっていう軽さのことだけどね。愛とは早さのことだと考えることがある。どれだけ素早く、ぼくがきみの立場になって考えられるかっていう早さだよ。ああ、愛は、そうだよ。軽さと早さのことなんだよ。それ以外のなにものでもない。  これから河原町に。まずブックショッピングして、それから、えいちゃんと隈本総合飲食店に。  えいちゃんと、隈本総合飲食店と、きみやさんに行ってきた。ジュンク堂では、ティプトリーの新刊を買った。ティプトリーは、『輝くもの、天より堕ち』以来だから、数年ぶりかな。短篇集だった。楽しみ。  a  Amazon で、自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、最新刊の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』(思潮社オンデマンド・2016年2月刊)が、そこそこ売れているので、うれしい。表紙に撮らせていただいた「まるちゃん」の画像効果だと思う。すてきだものね〜。  これからも友だちがつぎつぎに表紙になってくれる予定だ。まず、つぎに思潮社オンデマンドから出す予定の『図書館の掟。』では、強烈なインパクトのある画像を「はるくん」からいただいている。ぼくが極右翼と間違われるかもしれない危ない画像だが、とても美しい。 こんなのだ。→@atsusuketanaka https://pic.twitter.com/nO02kUzu6d 二〇一六年三月八日 「ユダヤ警官同盟」  長時間にわたって幻覚を見ていた。それは現実の記憶を改変するほどのものだった。もうちょっとで、たいへん失礼なことをひとにすることになっていたかもしれない。文学作品を読んでいると、非現実のできごとを現実に取り込んでしまうことがある。気がついてよかった。よく知っている方の親戚で、厭なことを言われて憤慨したのだが、目が覚めて、そのような人物が存在しないことに気がついたのだった。しかし、シチュエーションは生々しかった。  塾に行くまえにブックオフで、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上下巻を買った。未読の本が増えていく。本棚がまだ埋まる。死にたい。というか、寝るわ。クスリのんで。おやすみ、グッジョブ! あ、まえに付き合ってた子からうれしいメールが。チュって、さいごに。そうか、キスしたいのか。 二〇一六年三月九日 「目の見えないひと」  きょうは、朝に3つの幻覚を見たので、あしたの朝は、どかな。楽しみ。学校の授業がないと、幻覚じみた夢を見まくり。やっぱり緊張感がないと、幻覚を見やすいのだろう。きょう見た3つ目の幻覚は現実を反映しまくりなので、無意識領域のぼくの自我からのメッセージは意識領域のぼくの自我に伝わった。  これからきみやさんに。きみやさんのお客さんで、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』を買ってくださった方に詩集をもっていく。その方は目が不自由なので、Amazon でポチできないから、ぼくが代わりにポチして買ったのだった。ぼくのポートレートをつけて差し上げようと思っている。 二〇一六年三月十日 「引力の法則」  きょう、日知庵に行くまえに、四条大宮で、このあいだチューした男の子と会ったのだけれど、声をかけられなかった。向こうは、携帯に夢中で気がついてなかったみたいだった。まあ、いいか。クスリのんだ。学校の授業がないから、めっちゃノンビリ。  引力の法則について考えてみた。ぼくたちが引き合う力なんて、地球がぼくたちを引っ張る力に比べたら、限りなくゼロに近いんだよ。だから、ぼくたちが引き合っていないように見えるときがあっても、それはあたりまえのことで、じつは引き合ってて、引き合ってることに気がついてないだけなんだよ。 二〇一六年三月十一日 「木になってしょうがない。」  いま、ティプトリーの『あまたの星、宝冠のごとく』と、岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』と『モーム語録』を変わりばんこに読んでいる。意外と話はまじわらない。『Sudden Fiction』は読み終わった。本棚に再読用のものがあるので、お風呂場で読んだものは捨てる。  きょうのあさは、引っ越しをしている夢を見た。上りにくい2階の部屋で、使いにくい部屋だった。無意識層のぼくの自我は、意識層のぼくの自我になにを伝えたかったのか。伝えるつもりはなかったかもしれないけれど。  サンドイッチを6切れ食べて、おなかいっぱい。ティプトリーの短篇集のつづきを読みながら寝よう。 木になってしょうがない。 二〇一六年三月十二日 「ぼくね、友だちに素数がいてね。」 素数ってね 自分のほかに正の約数が一つしかなくってね それを、ぼくの友だちの素数は とても気にしててね イヤなんだって でもさあ おじさんを、おばさんで割ると 雪つぶて サイン・コサイン・タンジェント ぼくの父が死んだのが 平成19年の4月19日だから 逝くよ 逝く になるって、前に言ったやんか で それが 朝の5時13分だったのね あと2分だけ違ってたら ゴー・逝こう 5時15分でゴロがよかったんだけど そういえば ぼく 家族の誕生日 ひとりも知らない。 前恋人の誕生日だったら覚えてるのに バチあたりやなあ。 まるで太鼓やわ。 太鼓といえば 子どものとき よく 自分のおなかをパチパチたたいてた たたきながら 歌を歌ってたなあ ハト・ポッポーとか 近所でもバカで有名で うんこ がまんして がまんしきれなくって 家のまん前で ブリブリブリッて それが 小学校6年のときのことだから まあ 父親が怒ってね でも ガマンできなかったんだもーん ブリブリブリッて 思いっきり 引きずり回されたこと 覚えてる あ ちゃんと きれいにしてからね うんこまみれのまま ひきずらへんわなあ ぼくが親やったら 怒ってるかなあ それより 傷ついてる子どものこと 気遣うやろなあ わからんけど 教室で おしっこたれたのが いくつのときのことか 忘れた たぶん 高学年、笑。 おととし 自分の部屋の トイレの 前で うんこ たれたの 恋人に言ったら あきれられて まあ それも原因かもね。 ぜんぶ そのせいちゃうやろうけど。 もしも逆の立場やったら? まあ、ぼくが相手の立場やったら 笑うぐらいかなあ。 あきれはせんやろうなあ。 どこが違うんやろう? わからん 二〇一六年三月十三日 「詩の材料」  チャールズ・ブコウスキーの「詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなものなんだよ」(『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)というのと、W・B・イエイツの「完璧であるからこそ傲慢なこれらのイメージは/純粋な精神のなかでそだった。だがその始まりは/何であったか? 屑の山、街路の塵あくた、/古いやかん、こわれたブリキの罐、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱の番をしている/あの口喧しいばいた。おれの梯子(はしご)がなくなったからは/あらゆる梯子が始まる場所に寝そべるほかはない。/穢らわしい心の屑屋の店さきに寝そべるほかはない。」(『サーカスの動物は逃げた』出淵 博訳)とのあいだには、文学作品の材料そのものとその材料の処理の仕方において、共通しているところと、共通していないところがある。材料は同じだ。人生のなかで見聞きしたこと、感じたことなどが材料だ。もちろん、単純に二分はできないが、こういう分け方はできるだろう。つまり、イエイツはそれを詩語に変換していたと。ブコウスキーは、糞溜めのようなものをそのまま糞溜めとして書いたのだった。イエイツも、晩年はかなり詩語から離れることができたのではあったが。そしてその二つのあいだにあって、どちらともいえないようなものも数多くある。というか、じっさいのところ、ぼくなどもそうだが、見聞きしたことそのままに書くことと、ただ頭の中で考えただけのものを書くこととのあいだで、いろいろと組み合わせて書いてきたのだ。  文学極道の詩投稿掲示板で、Migikataさんの「驚くべきこと」というタイトルの作品を読んで、こんなことを、ふと考えたのであった。 『芸術=フランケンシュタインの怪物』説を唱えたのが、ぼくがさいしょではないと思いますが、あるものをつなぎ合わせて、これまでに存在しなかったものを生成させるのが芸術のひとつの機能だと思っているのですが、もちろん、同時に、これが芸術のひとつの定義の仕方だとも思っているのですが、電流が流れて怪物が起き上がったような気がしました。固有名詞の使い方、さいごの2行の断定命題も効果的に配されていると思いました。J・G・バラードの『夢幻会社』をふと思い出しました。飛翔している男が身体じゅうからフラミンゴやさまざまな鳥たちを吐き出すのですが、そのまえに鳥たちを吸収する場面があったと思うのですが、ぼくが思い出すのは、男が肩からフラミンゴを奇怪な様子で分離するシーンです。すみません。好きな作家の作品を思い出して、つい書き込み過ぎました。おゆるしください。 という感想文を、さきに、Migikataさんの作品に書かせていただいていました。  コードウェイナー・スミスの短篇全集・第1巻の『スキャナーに生きがいはない』を買うのを忘れてた。水曜日に河原町に行くので、水曜日に買おう。初訳の短篇が入っているらしい。第1巻に入っているのかどうかは知らないけれど。SFがセンス・オブ・ワンダーだということがわかる貴重な作家のひとり。 二〇一六年三月十四日 「チューしてる恋人たち」  FBで、チューしてる恋人たちの画像を見てると、ぼくも幸せ。ぼくにもチューできる男の子がいるからかな。もしも自分にもチューできる男の子がいなかったら、幸せかどうかは、わかんないけど。いや、きっと、幸せなんだと思う。何と言ったって、美しいのだもの。(少なくとも、FBに写ってる彼らは) トランクスを買いに出る。  ジュンク堂では、コードウェイナー・スミスの『スキャナーに生きがいはない』(ハヤカワSF文庫)が売り切れていたので、ブックファーストで買った。そのあと、きみやさんに行って、三浦さんと、名前を憶えていない、でも、鴨川の夜景がきれいに見えるお店に行った。きょうも、ヨッパ。楽しかった〜。  これから、『スキャナーに生きがいはない』の解説を読んで寝る。なんだか、ウルトラQのDVDを見るような感じだなあ。 二〇一六年三月十五日 「言語も体験である。」 言語も体験である。 想像されたものではあるが それもまた現実である。 現実である以上、存在するものである。 したがって 虚無もまた現実であり 存在するものであり あるいは 存在する状態なのである。 二〇一六年三月十六日 「要素」  何年かぶりで、ぎっくり腰になってしまった。痛みどめをのんで塾に行く。ひさしぶりに、エニグマを聴く。ヒロくんと出合ったときの曲。「Return To Innocence」  荒木時彦くんから詩集『要素』を送っていただいた。秀逸なアイデアと、そのアイデアを支える確実な叙述力。使われているアイデアは、ぼくがはじめてお目にかかるものだ。ここにまで到達した詩を書く詩人は、これまで日本のなかには一人もいなかった。  いま日知庵から帰った。腰がめっちゃ痛くって、涙が出そうなくらい痛い。でも、帰りに、セブイレで買った「ペヤング超大盛」食べようかどうか思案中、笑。  コードウェイナー・スミスの短篇集、読みながら寝る。きのう冒頭の短篇の途中で寝た。ソビエト人科学者夫妻の物語だ。おおむかしに読んだ記憶がかすかにするのだが、まったく思い出せず。ペヤング、あしたに持ち越し。 二〇一六年三月十七日 「自転車で」 自転車で角を曲がるときに こけてもうた、笑。 きっついこけ方して 右の手のひらのところ すりむいて、血が出た。 目の前に、若いカップルがいて めっちゃ、恥ずかしかった。 けど、あわてず 悠然として、立ち上がって、笑 自転車をおこして さっそうと走り帰りました。 二〇一六年三月十八日 「太もも」 きのう話をした青年が言っていたことで とても興味深いことがあった。 太ももが感じるというのだけれど 小学校の3年のときに 女性の先生が担任だったらしいのだけれど その先生に放課後に教室に呼び出されて 横に坐るように言われて坐ったら 太ももを、なめられたというのだ。 しかし、一瞬で、帰されたのだという。 しかも、ただ一度だけ。 親には言わなかったらしい。 友だちには言ったらしいのだけれど 「そんなん、ふつうにあることやん」 と言われたらしい。 たしかに ぼくも 高校生のとき 社会の先生に呼び出されて 太ももをなでられたことがあったけれど。 ううううん。 みんな、そんな体験してるのかなあ。 二〇一六年三月十九日 「図書館の掟。」  きょうは、つぎに思潮社オンデマンドから出す詩集『図書館の掟。』の編集をしていたのだけど、体調めっちゃ悪し。これからお風呂に入って、身体をほぐす。 二〇一六年三月二十日 「きのうのぼくと、きょうのぼくは別人なのかな。」  10分ほどまえに、日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったカップヌードルをいま食べた。きのうのぼくと、きょうのぼくが別人のようだと、日知庵でえいちゃんが言ってたけれど、そうなのかもしれない。『図書館の掟。』に入れる詩篇はすべて死と死者にまつわる作品だけだもの。自分でも、めげるわ。でも帰りがけに日知庵でお会いしたお嬢さんが、めっちゃ陽気なひとで、ひとを元気にさせる力があるみたいで、めっちゃ暗かったぼくでさえ元気をいただいた。ありがたい。というか、そういうひとのもつエネルギーを、ぼくも持ちたい。というか、仕事柄、持たなければならない。  いま自分のツイッターを振り返って見たのだけれど、ぼくの身体の半分以上は、セブンイレブンでできているようだ。  コードウェイナー・スミスの短篇集『スキャナーに生きがいはない』を、きのう、読んでて眠った。きょうもそのつづき読みながら寝る。  日本現代詩人会のHPで詩投稿欄を4月初旬にオープンするらしいが、選者が野村喜和夫、高貝弘也、峯澤典子なので、どうかなと思う。詩誌の選者と同じような選者をもってきて、どうすんのよ、と思う。 二〇一六年三月二十一日 「死亡した宇宙飛行士」  きょうは、夜に竹上さんと飲みに出る。J・G・バラードのコレクションをすべてプレゼントする。『死亡した宇宙飛行士』や『22世紀のコロンブス』といった入手困難な作品も多くて、よろこんでもらえると思う。 二〇一六年三月二十二日 「形のないキャベツ」 2009年4月13日メモ 形のないキャベツ 部屋に戻ると 鼻の奥にあるスイッチを押した。 プシューッ 身体がシュルシュルと縮んだ。 2009年4月13日メモ 形は形であることを ちっとも恥ずかしいことだとは思っていなかったのだけれども ときどき 形であることをやめたいなと思うことはあった。 形をやめて なにになるのかは、まったくわからなかったのだけれども。 2009年4月14日メモ 詩人の役目は 意味をなさなくさせるほどまでに言葉を酷使することではない。 2009年4月15日メモ おそらく無意識はさまざまなことを同時にすることができるのであろう、 身体でリズムを取りながら、口が歌を歌い、手が熱したフライパンのなかに 殻を割った卵の中身を落とすように。 しかし、意識はさまざまなことを同時にすることができない。 すくなくとも、どのことも同じぐらい集中して意識することはできない。 二〇一六年三月二十三日 「poke」  とてもすてきな方から poke が毎日のようにある。彼はストレートだと思うのだけれど。どう思えばいいのかな? なんか高校生のときのような気持ちを持ってしまう。すてきな方じゃなければ、なにも感じないし、考えないのだろうけれど、笑。 すてきなんだよね。妄想してしまう。頭おかしくなる。そのひとの画像は見まくりだから、お顔ははっきりしてる。きょうは、そのひとのこと考えて寝ようかな。夢に出てきてくださりますように!  そいえば、高校のとき、柔道部の先輩が腕をもんでくれとおっしゃったとき、その先輩を好きだったから、めっちゃ恥ずかしかったのを憶えている。たぶん顔を真っ赤にして、もんでたと思う。人生なんて100年足らずのものだけれど、すてきな一瞬がいっぱいあったし、いまもあるのだろう。すごいことだ。 妄想全開で寝ます。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年三月二十四日 「幻覚」  朝、幻覚を3つ見た。さいごのが、強烈で、部屋の壁に手をあててたら、右から手が出て、ぼくの手にその手が溶け入ってきて、えっと思っていると、裸のぼく、20代の若いときのぼくがでてきて、ぼくに、「ぼくを分解して」というのだ「どういうこと?」と訊くと、「いまの詩は高次すぎて」「ぼくは音でやりたいんです。」という。言っているうちに、ぼくの若いときって、かわいいと思ってチューしようとしたら、彼の身体が顔を中心に青あざだらけになって、チューできる寸前で、ぼくも目がさめた。  それからまたすぐに、3つほど幻覚を見てて、ヘロヘロになっていたら、弟が部屋に入ってきて、「あっちゃん、どうしたん、なんかしんどそうやん」と言いながら坐ると、外国人女性の姿に変化していてナイフを手に持っていたので、すかさず「目が覚めればいいんや」という言葉を呪文のように口にしたら、目が覚めた。 二〇一六年三月二十五日 「図書館の掟。」  詩集『図書館の掟。』の編集をしていた。300数十ページになる予定。電子データにしていない作品が2作。ひとつは、「ヨナの手首。」もうひとつは、「もうすぐ百の猿になる。」という散文の哲学的断章。入力済みの作品もルビ処理をしていないので、相当にめんどくさい。しかし、つくらねばならない。少なくとも、きょうは、「ヨナの手首。」と「もうすぐ百の猿になる。」をワードに打ち込もう。 『ヨナの手首。』のワード打ち込み完了。あと、きょうじゅうに、『もうすぐ百の猿になる。』を入れたい。それと、私家版の詩集の『陽の埋葬』のさいごにいれた、『百葉箱のなかの祈?書。』も、『図書館の掟。』のなかに入れたいと思う。これ以上入れると350ページを超えるので、ここくらいまでかな。 『引用について』という論考も入れる。それぞれの作品が照応しているので、入れなくてはならなくなった。『もうすぐ百の猿になる。』文章を直しながら入力しているのだが、長い。きょうじゅうに打ち込みたいが無理かもしれない。にしても、完全に理系の人間の文章だ。 『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み、A4サイズで、7枚のうち、2枚完了。なぜこんなに遅いかと言うと、散文詩だからである。しかも文章いじっているから、こんなにノロい。しかし、なぜ、この作品があることに気がつかなかったのだろう。あまりにむかしに書いたものだから書いたことも忘れてた。 『もうすぐ百の猿になる。』いまで、4ページ目の半分まで、打ち込み。ちょうど半分。ぼくの詩の原点ではないだろうかと文章中に書いていたが、そういう感じがする。見つけてよかった。晩ご飯を食べてこよう。きょうは目が覚めてから、ずっと文学してる。えらい。誰のためでもなく自分のためだけれど。  あと1ページ半。『もうすぐ百の猿になる。』も傑作だった。そのうち、文学極道に投稿しよう。 『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み終了した。あと『百葉箱のなかの祈?書』の打ち込みが残っているけど、少なくとも30分間は横になろう。腰が痛い。『図書館の掟。』の収録作品数が27篇で、3の3乗である。たいへんうれしい。330ページをちょい超えである。333ページになればいいなあ。 『百葉箱のなかの祈?書』の打ち込みが終わって、詩集の総ページ数を見たら331ページやった。惜しい。あと2ページ。ぼくが30代のころの作品が半分、残る半分が40代、50代の作品ということになる。きょう一日、ワードに打ち込んでいたのは、30代の作品だった。『陽の埋葬』の雰囲気が濃厚。  というか、長篇の『陽の埋葬』をいくつも収録しているから、当然、そうなるか。あしたの朝に元気があったら、目次をつくろう。そろそろクスリをのんで寝る。 二〇一六年三月二十六日 「詩集の編集」 目次つくったら、収録作品29作品だった。  入力するのが面倒なのでほっておいた『陽の埋葬』があったので、これから入力する。  本文の入力に一時間か。総ルビなので、これからルビ入れを。しかも、歴史的仮名遣い。神経質になる。  ルビ打ちにも一時間かかったか。総ルビ4ページ分で、これだけど、総ルビ50ページくらいの作品があって、まだルビ打ちをやってない。怖い。できれば、学校の授業のない春休み中にやっておきたい。いままで、どうして読書ばかりしていたのか。逃げてたんだな。やっぱり詩集の編集って、しんどいもの。 二〇一六年三月二十七日 「花見」  これから、きみやさん主催のお花見に。夜は竹上さんと日知庵で飲むので、お昼過ぎにいったん帰るかもしれない。きょうは、竹上さんに、ミシェル・トュルニエの全コレクションと、ヴァージニア・ウルフ関連の本をすべてプレゼントする。ああ、それでも、ぼくの本棚はまだまだギューギューだ。床積みの本が! 笑。 二〇一六年三月二十八日 「ニムロデ狩り」  日知庵に行くまえに、オーパ!のブックオフで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』と、創元のアンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を108円で買った。 『The Marks of Cain°』の3分の2のルビ打ちをやった。めっちゃしんどかったけど、あと3分の1やったら、あしたじゅうにできるかなと思う。どだろ。まあ、とにかくがんばった。えらい。そだ。牛丼の吉野家で野菜カレー食べた。 二〇一六年三月二十九日 「夜は」 太陽だけでは影ができない。 夜は地球と太陽との合作である。 二〇一六年三月三十日 「ビタミン・ハウス」 大学院生のときに 四条大橋の東側に ビタミン・ハウスって ショウ・パブでバイトしてたことがあって ちょっとのあいだ、女装してました、笑。 ええと、お客は、半分が坊主と金融屋さんでした、笑。 バブルのころで、すごかった。 お坊さんで いまから考えると ぽっちゃりとして かわいいひとがいて ぎゅっと手を握られて うぶだったぼくは 顔がほてりました。 当時は、太ったひとがいけなかったので それだけだったのですが いまから考えると そのお坊さんも20代のなかばで ぽっちゃりとしたかわいい感じのひとだった。 京大のアメフトやってるひととすこし付き合って すぐに別れました。 がさつに見えて けっこう繊細で ぼくの言葉によく傷ついていたみたいで 別れるとき 思いっきり文句言われました、笑。 さいきん、これまでに書かなかったことを よく書いてるような気がします。 もうじき、50歳になりますから (2年後ね) もう怖いものが、そんなになくなってきたのかもしれません。 とはいっても、これはブログに貼り付けられないと思うけど、笑。 あ でも、いいのかな。 そんなバイトしたの学生時代だし。 時効だよね、笑。 当時のぼくの顔は 詩集の「Forest。」の本体のカヴァーをはずすと見れるようになっています。 化粧したら、どんな顔になるか、だいたい想像つくと思いまする。 しかし、まあ、48歳で、まだまだ、いっぱいカミング・アウトできるって けっこう、ぼくの人生、めちゃくちゃなのかもね。 それとも、ほかのひともめちゃくちゃだけど だまってるだけなのかなあ。 わかんないけど。 ふにゃ。 だから、ぼくが付き合った京大の学生だったエイジくんが ぼくの部屋にはじめてきたとき 無断でパッとクローゼットをあけて 「女物の服はないな。」 と言ったのは、彼の正しい直感がさせた行為だったわけだ。 「なに言ってるの? バカじゃない。」 「女装してるかもしれへん思うてな。」 「そんな趣味ないよ。」 そんな会話の応酬がありました。 二〇一六年三月三十一日 「非喩」 いつもなら朝ご飯を食べるのだが、食べない。検診の日なのだ。  組詩にしていた長篇の『陽の埋葬』を5つの『陽の埋葬』にバラしたら、詩集『図書館の掟。』の総ページ数が337ページになった。  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』 誤字・脱字 223ページ2行目「事実もものかは、」 意味がわからないだけではなく、どういう誤字・脱字を起こしているのかもわからない。  塾からの帰り道、「非喩」という言葉を思いついたのだが、もしかしたら前にも思いついたかもしれない。直解主義者のぼくだから。比喩に凝ってるもの読むと、ああ、このひと、頭わるいと思うことがよくある。なんで、そのまま書かないのだろうと思うことがよくある。事実そのままがいちばんおもしろい。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日/田中宏輔[2021年5月10日22時20分] 二〇一六年四月一日 「愛のある生」 愛のある生 それが、ぼくのテーマだ。 「生」とは いのちの輝きのことだ。 しかし、嘘は、すばらしい。 人生を生き生きとしたものにしてくれる。 詩も、小説も、映画も、すてきな嘘で、 ぼくたちの生を生き生きとしたものにしてくれる。 最高にすばらしい嘘を、ぼくも書いてみたいものだ。 詩で、かなり自分のことを書き込んでいるけれど、 まだまだ上等な嘘をついていない気がする。 二〇一六年四月二日 「本って、いったい何なのだろう?」  詩集『図書館の掟。』の紙原稿チェックが終わった。ワードを直したら、一日おいて、もう1回、紙原稿をチェックしよう。来週中には、完成原稿が出来上がる感じだ。  いま日知庵から帰った。きょうは、何を読んで寝ようかな。買ったばかりの未読の本、数年前に買った未読の本、十年くらい前に買った未読の本。本、本、本。ぼくの人生は、本にまみれての人生だ。それでよいと思う。ぼくの知らないことを教えてくれる。ぼくの感じたことのないことを感じさせてくれる。 本って、いったい何なのだろう? 二〇一六年四月三日 「Here Comes the Sun°」 自分の右足が 自分の右足を踏めないように ぼくのこころは けっして、ぼくのこころを責めることはない。 千本中立売通りの角に お酒も出す タコジャズってタコ焼き屋さんがあって 30代には そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。 よく酔っぱらって 店の前の道にひっくり返ったりして ゲラゲラ笑ってた。 お客さんも知り合いばっかりやったし だれかが笑うと ほかのだれかが笑って けっきょく、みんなが笑って 笑い顔で店がいっぱいになって みんなの笑い声が 夜中の道路の そこらじゅうを走ってた。 店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。 朝までやってることもしばしば。 そこには アメリカにしばらくいたママがいて ジャズをかけて 「イエイ!」 って叫んで 陽気に笑ってた。 ぼくたちの大好きな店だった。 4、5年前かなあ。 店がとつぜん閉まった。 1ヶ月後に 激太りしたママが 店をあけた。 その晩は、ぼくは 恋人といっしょにドライブをしていて ぐうぜん店の前を通ったときに ママが店をあけてたところやった。 なんで休んでたのかきいたら ママの恋人がガンで入院してて その看病してたらしい。 ママには旦那さんがいて 旦那さんは別の店をしてはったんやけど 旦那さんには内緒で もと恋人の看病をしていたらしい。 でも その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。 陽気なママが泣いた。 ぼくも泣いた。 ぼくの恋人も泣いた。 10年ぐらい通ってた店やった。 タコ焼きがおいしかった。 そこでいっぱい笑った。 そこでいっぱいええ曲を知った。 そこでいっぱいええ時間を過ごした。 陽気なママは いまも陽気で 元気な顔を見せてくれる。 ぼくも元気やし 笑ってる。 ぼくは 自分の右足に 自分の右足を踏まないように命じてる。 ぼくのこころが けっして、ぼくのこころを責めないように命じてる。 笑ったり 泣いたり 泣いたり 笑ったり なんやかんや言うて その繰り返しばっかりやんか 人間て へんな生きもんなんやなあ。 ニーナ・シモンの Here Comes the Sun タコジャズに来てた 東京の代議士の息子が持ってきてたCDで はじめて、ぼくは聴いたんやけど ビートルズが、こんなんなるんかって びっくりした。 親に反発してた彼は 肉体労働者してて いっつもニコニコして ジャズの大好きな青年やった。 いっぱい いろんな人と出会えたし 別れた タコジャズ。 ぼく以外のだれかも タコジャズのこと書いてへんやろか。 書いてたらええなあ。 ビッグボーイにも思い出があるし ザックバランもええとこやったなあ。 まだまだいっぱい書けるな。 いっぱい生きてきたしな、笑。 二〇一六年四月四日 「風が」 風が鉄棒にかけられていた白いタオルを持ち上げた。 影が地面の上を走る。 舞い落ちてくるタオルと影が一つになる。 二〇一六年四月五日 「詩集『詩の日めくり』の表紙のための写真を撮ってもらう。」  お昼、大谷良太くんちの近くのミスタードーナツに行く。詩集用の写真をいくつか撮ってもらうために。けっきょく、大谷良太くんちに行って、大谷良太くんとミンジュさんに撮ってもらった。6月に書肆ブンから出る『詩の日めくり』第一巻から第三巻までの3冊の詩集用の写真をこれから選ぶ。 二〇一六年四月六日 「図書館の掟。」  きょう『図書館の掟。』のタイトル作を見直して、3回目の見直しだけど、大きく変える個所が出たので、自分でもびっくりした。3回目の見直しで大きく変えるのは、はじめてだけど、テキストがだんぜんよくなるのである。こういうこともあるのだなと思った。単にアラビア数字を漢数字にするだけだけど。 二〇一六年四月七日 「パースの城」  思潮社オンデマンド詩集用の『図書館の掟。』の原稿を思潮社の編集長の高木真史さんにワードで送った。表紙用の写真もいっしょに。  きょうから、また読書の日々に戻る。そいえば、ティプトリー・ジュニアの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』を途中でほっぽってた。きょう、塾に行くまえに、お風呂につかりながら読んだ、ブラウリオ・アレナスの『パースの城』の42ページに、つぎのようなセリフがあって、それが、ぼくを喜ばせた。 「おや、ぼくだ」と叫んだ。「いったいどうなっているんだ? この部屋にどうしてぼくがふたりもいるんだ?」(ブラウリオ・アレナス『パースの城』第五章、平田 渡訳) 二〇一六年四月八日 「はじめて知ったこと」  ページレイアウトをクリックして、区切りをクリックして、次のページから開始をクリックすると、次のページからはじめられるということを、きょう、はじめて知った。いま試してみた。55歳、はじめての体験。20冊以上、詩集を出してて、この始末。いや、いい方にとろう。自分の知識が増したのだと。 二〇一六年四月九日 「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」  日知庵から帰った。めっちゃかわいい男の子が知り合いの子といっしょに来てて、ドキドキした。植木職人の青年だ。26才。日知庵のえいちゃんにお店に置いてもらっているぼくの『ツイット・コラージュ詩』を彼が読んでくれて、「言葉が深いですね。」と言ってくれたことがうれしかったけど、自分の言葉が深いと思ったことなど一度もなかった。 「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」とか、ぼくには、ふつうの感覚だし。と思ったのだけれど、彼は、ぼくの詩集を手にしながら、あとからきた女性客のところにふわふわと行っちゃった。ありゃま、と思って、ぼくは憤然として帰ってきたのであった。あしたは、遊び倒すぞ、と思いながら、きょうは寝る。  彼が、ぼくがむかし付き合ってた男の子に似ていたので、日知庵にいたときは、ぼくはドキドキ感覚で、チラッチラ見ながら、頭のなかでは、聖なるジョージ・ハリスンの曲がリピートしていたのであった。至福であった。日常が、ぼくにとっては、劇なのだ。しゃべり間違ったり、し損なったりする劇だけど。  日知庵にいた男の子のことを思い出しながら、寝ようっと。いや、むかし付き合ってた男の子のことを思い出しながらかな。たぶん両方だな。なんだかな〜。でも、やっぱり日常が最高におもしろい劇だな。それとも、おもしろい劇が日常なのかな。笑っちゃうな。ちょっぴり涙しちゃうな〜。それが人生かな。  あ、その男の子、植木職人だって言うから、こう言った。「きみが使ってる鋏から学ぶこともあるやろ? 人間って、なにからでも、学ぶことができるんやで。」って。55歳にもなると、こんな、えらそうなことを口にするのだと、自分でも感心した。えらそうなぼくだったな。 二〇一六年四月十日 「大谷良太くんのおかげで」  きょうも、大谷良太くんには、たいへんお世話になった。彼のおかげで、ぼくの作品が日の目を見ることができることになった。思潮社オンデマンドからは、これからは、年に1冊しか出せないと思潮社の編集長の高木真史さんに言われて、詩集用に用意してた『詩の日めくり』の原稿のことを大谷良太くんに相談したら、書肆ブンで出しますよと言ってくれて、ほんとうにありがたかった。捨てる神あれば、拾う神ありという言葉が脳裏をよぎった。ぼくが生きているあいだは、ぼくの作品なんかは、ごく少数のひとの目にとまるだけだと思うと、その思いも、ひとしおだった。 二〇一六年四月十一日 「きみの名前は?」  チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』これ人名を覚えるのがたいへんだけど、おもしろい作品だ。いま202ページ目のさいしょのところ。140ページのうしろから4行目にひさしぶりに出合った言葉があった。「きみの名前は?」(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』9、山高 昭訳) 「きみの名前は?」という言葉を、いまも収集しつづけているのだ。『HELLO, IT'S ME。』という作品のロングヴァージョンをつくっているのだ。いつ発表できるかどうかわからないけど。それは読書というものをやめたときかな。死ぬときか。ファイルにだけ存在することになるかもしれない。 二〇一六年四月十二日 「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」  ティプトリーの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』、救いのない作品が多い。彼女、こんなにネガティブだったっけ? と思うくらいネガティブ。でも、あまり、ひとのことは言えないかもしれない。ぼくのもネガティブな感じがするものね。『図書館の掟。』に、ぼく自身が出てくるけれど、唯一、そこだけは、ポジティブかもしれない。ティプトリーは何を持っていたっけ? と思って本棚をさがしてみた。けっきょく、部屋には4冊のティプトリーがあったのだった。『老いたる霊長類への賛歌』、『故郷から一〇〇〇〇光年』、『輝くもの天より堕ち』、そして読み終わったばかりの『あまたの星、宝冠のごとく』。タイトルだけでも、すごいいい感じだな。持っていないものを Amazon で注文した。『星ぼしの荒野から』と『愛はさだめ、さだめは死』と『たったひとつの冴えたやりかた』と『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』の4冊。到着したら、ティプトリーでまとめて並べておこうかな。  さっき、ふと、バッド・カンパニー、セカンドしか残ってないから、ボックスで買おうかなと思った。あかんあかん。飽きては売り、また聴きたくなると買っては聴き、またまた飽きては売ってるバンドだ、笑。カンパニーで思い出したけど、増田まもるさんが訳したバラードの『夢幻会社』の会社って、カンパニーの訳だけど、この場合は、「友だち」の訳のほうが内容とぴったりくるんだけど、タイトル、誤訳じゃないのかな。ベテランだから、だれもなにも言わないのか、ぼくが間違ってるのか、わからないけどね。 二〇一六年四月十三日 「さいごの詩集」  塾に行くまで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読もう。ぼくのさいごの詩集三部作の、『13の過去(仮題)』は●詩、『全行引用による自伝詩』は全行引用詩、『詩の日めくり』はコラージュである。好きな本を読んで、好きに詩をつくる。じっさいの人生で好きなことしなきゃ、意味がない。じっさいの人生でできることのなかに自分の好きなことがあると思おうとしているのではないかという疑念はあるけれど。どだろうね。55歳。まだ一日でも多く、本を読みたい。作品をつくりたいという欲求がある。その欲求が、ぼくのことを生かしているのかもしれない。  塾から帰った。雨で、リュックが濡れた。本はジプロックに入れてたから大丈夫。これからシェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読む。ようやく半分読めた。  いま、Amazon で自分の本が売れてるかどうかのチェックをしてたら、『ツイット・コラージュ詩』(思潮社オンデマンド・2014年)が売れてた。セール中でもないのに。だれが買ってくれたんだろう。もしかしたら、先週、日知庵で手にとってくれた男の子かな。どうかな。とってもチャーミングな青年だった。まあ、生身の男の子だから、生身の女の子が誘ったら、ほいほいついてっちゃってたけど、笑。日知庵で飲んでると、めっちゃ人間観察できる。父親が糖尿病で失明したけど、どうか、神さま、ぼくから目だけは取り上げないでください。ありゃりゃ、『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・2014年)も、最近になって売れてたみたい。売れ行き順位が上がってる。まだ買ってくださる方がいらっしゃるんだ。ありがたい。というか、ぼくが無名なので、最近、文学極道かどこかで発見してくださったのかもね。これは、無名の強みだわ。 二〇一六年四月十四日 「i see your face.」 これから塾に。塾の帰りに、日知庵に寄ろう。こころおだやかに生きていきたい。  i see your face. i see your face. とメロディーをつけて頭のなかで歌いながら、日知庵から帰ってきた。だれの音楽に近いかな。エドガー・ウィンター・グループかな。ぼくは音楽家にもなりたかった。いちばんなりたかったのは画家かな。音楽家かな。 二〇一六年四月十五日 「ノブユキとカレーを食べてた風景」  作家は、なりたかったものの一つだった。詩人というものになってしまったけれど、詩人は、子どものときのぼくのなりたいもののなかにはなかった。だって、詩人なんて、子どものぼくのときには、死んだひとばかりだったもの。生きている詩人がいるなんて知らなかった。  おやすみ、グッジョブ! きょうは、のぶゆきのこと、たかひろのこと、ともひろのこと、こうじくんのこと、じゅんちゃんのこと、えいじくんのこと、えいちゃんのこと、いっぱい思い出してた。ぜんぶむかし、でも、ぜんぶいま。ふっしぎ、ふしぎ。ぜんぶ、いまなんだよね。思い出すっちゅうことは。  きょうは学校の授業もないし、塾もない。シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わろう。さっき、ご飯を食べに外に出るまえ、クローゼットの下の本棚を整理して未読の本をまえに出して並べた。もっていることを知らない本が2冊ばかりあった。ジャック・ヴァンスの本もコンプリートに集めていた。  いま1冊のティプトリーが届いた。ぼくが唯一、読んでなかった『星ぼしの荒野から』であった。満足な状態の古書だった。カヴァーの絵が、どうしても購買意欲を刺激しなかったものだが、内容とは関係がないものね。出たときに買っておくべきだった。『ニムロデ狩り』あと55ページ。読んでしまおう。 『ニムロデ狩り』あと40ページ。これを読み終わったら、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』を読もう。きょうは、お昼に、吉野家で、ベジ牛を食べた。帰りにセブイレで買ったサラダ2袋をこれから食べる。  シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わった。ハインラインとかゼラズニイとかの小説を読んでるような感じがした。ぼくが10代後半から20代のはじめころに読んでたSFのような雰囲気だった。悪くはなかった。というか、よかった。  焼きシャケのり弁当20ペーセント引き334円を買ってきた。これ食べたら、ティプトリーの未読の短篇集『星ぼしの荒野から』を読もう。  55歳にもなると、20年まえのことなのか、30年まえのことなのか、わからなくなるけれど、何度か書いたことがあると思うけれど、友だちんちのテレビで見たのかな、峠の甘酒を売ってる店で、恋人同士が甘酒をすすって飲んでいる場面があって、なぜかその場面がしきりに思い出されてくるのであった。仲のよい二人の人間が、向かい合って、あったかい甘酒をすすっている光景が、ぼくには、こころおだやかにさせるなにかを思い起こさせるのだと思うけれど、こうした光景が、ぼくのじっさいの体験のなかにもあって、それはノブユキとカレーを食べてたときの光景だったり、えいちゃんと、イタリヤ風に調理してあった大きな魚をいっしょに食べたりしたときの光景だったりするのだった。ぼくの脳みそがはっきりと働いてくれるのが、あと何年かはわからないけれど、生きて書いているうちに、そんな光景のことなんかも、ぜんぶ書いておきたい。 二〇一六年四月十六日 「詩の日めくり」  学校の帰りに、大谷良太くんの引っ越し先に行って、飲んでた。で、その帰りは、日知庵に行ってた。きょうは、めちゃ飲んでたけれど、意識ははっきりしている。書肆ブンから出る詩集『詩の日めくり』の第一巻から第三巻までの見本刷があしたくる予定。ネットで発表したものとちょこっと違う個所がある。  きょうも、授業の空き時間にティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読んでた。コンプリートしてもよいと思った作家の一人であるが、読んでよかった。でも、まあ、寝るまえの読書は、気分を変えよう。ひさびさに、きのう寝るまえに、『モーム語録』のつづきを読んでいた。 二〇一六年四月十七日 「ゲラチェック」 『詩の日めくり』の第一巻から第三巻まで見本刷りがきた。活字の大きさを間違えてた。自分でもびっくり。一回、第一巻から第三巻まで目を通した。改行部分で間違っていた箇所があったり、英文部分の記号処理がうまくいってなかった箇所もあった。ルビの大きさを変える必要があると思うので、ルビの箇所にすべて付箋した。もう一度、見直そう。見本刷の二度目の見直しをしている。自分の作品でも、ええっと思うくらい、ノリのいいフレーズがいっぱいあって、見直ししているのか、詩を読んでいるのか、一瞬、わかんないときがあった。55歳にもなって、自分の詩作品を読んで、こころ動かされるというのは、そうとう脳がイカレテいる様子である。二度目の見直しが終わった。3度目の見直しをして、きょうは終わろう。3度目の見直しで、まだ見つかるミス。まあ、合計で、800ページあるからね。 二〇一六年四月十八日 「ゲラチェック」 4度目の見直し。まだミスが見つかる。  いま『詩の日めくり』の見本刷、第二巻を読みながらチェックしているのだけれど、わずか10か月前のことなのに、いまのぼくが記憶していない数字が出てきて(ジュンちゃんの年齢、ぼくの8つ下だから、すぐ計算できちゃうのだけど)びっくり。「46才になりました。オッサンです。」という彼の言葉。  文学極道に『詩の日めくり』を投稿してなかったら、記憶していなかったことばかり。作品にしないと読み返さないひとだからかもしれないけど。でもまあ、作品にしてよかった。『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけよう。そのときにしか見られなかった光景があるのだ。 『詩の日めくり』の見本刷・第二巻の4回目の見直しが終わった。第一巻の方がバラエティーに富んでるけど、第二巻の読みやすさは半端ではない、笑。これから第三巻の4回目の見直しをする。まだミスが見つかると思う。第二巻でさえ2か所あった。今週の金曜日まで繰り返し見直す予定だ。何回するかな。 『詩の日めくり』の見本刷の第三巻を読んでいるのだが、読んでいるというのは、もはや見直しというよりも、知らない詩人の作品を読んでいるような気がするからなのだが、随所にでてくる書いた記憶のないフレーズが新鮮で、まさに自分自身を驚かせるために、ぼくは書いているのだなと再認識した。 二〇一六年四月十九日 「省略という技法について」 バラはバラ と書くと この助詞の「は」はイコールで 「だ」とか「である」という言葉を 読み手は補う。 「だ」や「である」は、文法的には動詞ではないのだが なんだったかな 形容動詞だったかな 忘れた まあ、しかし たとえば バラは切断 あるいは バラを切断 バラに接木 と書くと 「する」という動詞を 読み手は思い浮かべる。 では バラはヒキガエル だったら、どうか。 道を歩いていると、フェンスの間から バラのように咲いているたくさんのヒキガエルがゲコゲコと鳴いている。 あるいは ヒキガエルのように、ピョンピョン跳ね回るバラの花が川辺のそこらじゅうにいる みたいなことを、思い浮かべる読者がいるかもしれない。 ぼくが、そんなタイプの読み手だけど 省略技法が発達している俳句や短歌や詩では この暗示させる力がものをいう。 隠喩ですな。 あまりに頻繁な省略は 読み手に心理的な負荷を与えることにもなるので てきとうに「省略しない書き方」もまぜていくことにしている。 そんなことを いま、五条堀川のブックオフからの帰りに 自転車に乗りながら考えていた。 二〇一六年四月二十日 「拡張意識」 時間感覚が拡張されると それまで見えていなかったものが見えるようになる。 最初は誘導剤によるものであったが、訓練することによって 誘導剤なしでも見えるようになる。 ゴーストや、ゴーストの影であるさまざまな存在物が見えるようになる。 人柱に使われているホムンクルスも、それまで見えていなかったのに ベンチのすぐそばに瞬時に姿を現わした。 詩人は第一の訓練として、音の聞き分けをすすめていた。 川のせせらぎと、土手に植わった潅木の茂みで泣く虫の声。 集中すると、どちらか一方だけになるのだが やがて、双方の音が同じ大きさで、 片方だけ聞こえたときと同じ大きさで聞こえるようになる。 つぎにダブルヴィジョンの訓練であった。 ぼくは詩人に言われたように 夜のなかに夜をつくり、世界のなかに世界をつくった。 夜の公園のなかで ベンチに坐りながら、一日前のその場所の情景を思い浮かべた。 詩人は目を開けながら、頭のなかにつくるのだと言っていた。 電車のなかで 一度、ダブルヴィジョンを見たことがある。 仕事が昼に終わった日のことだった。 ダンテの『神曲』の原著のコピーをとらせてもらう約束をしていたので 近衛通りだったかな吉田通りだったかな 通りの名前は忘れたけれど 京大のそばのイタリア会館に行くことになっていたのだが そこに向かう電車のなかで 向かい側のシートがすうっと透けて イタリア会館のそばの道路の映像が現われたのだった。 その映像は、イタリア会館のそばの道路と歩道の部分で 人間が歩く姿や車が動く様子が映っていた。 居眠りをしているのではないかと思って、目をパチクリさせたが 映像は消えず、しばらくダブルヴィジョンを見ていたのだった。 電車が駅にとまる直前にヴィジョンが消えたのだが 意識のほうなのか それともヴィジョンのほうなのか 弁別するのは難しいが、明らかにどちらかが あるいは、どちらともが 複数の時間のなかに存在していたことになる。 ぼくは夜のなかに夜をつくった。 河川敷の地面がとても明るかった。 ぼくは立ち上がった。 見上げると二つの満月が空にかかっていたのだ。 ふと、ひとのいる気配がして振り返った。 そこには、目を開けてぼくを見つめる、ぼくがベンチに坐っていたのだった。 右のようなシーンは前にも書いていたけれど このあいだ読んだ、だれだったかな イアン・ワトスンだ 彼の言葉をヒントにして なぜ、ホムンクルスやゴーストが見えなかったのに 見えるようになったか説明できるような気がする。 存在とは 出現すると瞬時に(ワトスンは、同時に、と書いていたが)消失するものだから 時間感覚が誘導剤で あるいは 訓練によって拡張されると この「拡張」という言葉は改めたほうがいいかもしれないけれど 視覚的に見えなかったものが見えるようになる つまり 意識のなかに意識されることになるということなのだけれど ううううん。 どうだろ。 二〇一六年四月二十一日 「メガマフィン、桜、ロミオとジューリエット、光華女子大学生たち」 朝からマックでメガマフィン。 大好き。 ハッシュド・ポテトも好き。 それからアイス・カフェオレ。 歩きながら桂川の方向へ。 光華女子大学のまえを過ぎると 花壇に植わった桜が満開やった。 桂川をわたって 古本市場で 新しいほうの『ロミオとジューリエット』の岩波文庫を買う。 105円。 あしたぐらいにつく岩波文庫の『ロミオとジューリエットの悲劇』は旧訳。 帰りに光華女子大学のまえを通ると お昼前なのか 女子大生たちがいっぱいバス停に並んでた。 彼女たちの群れのなかを通ると 化粧品のいいにおいがいっぱい。 いいっっぱい。 だいぶ汗をかいたので これからお風呂に。 マックには、朝の7時30分から9時15分までいて 『未来世紀ブラジル』のサントラを聴きながら、詩集のゲラの校正をしていた。 校正箇所、3箇所見つかった。 天神川通りの交差点で 信号待ちしていると タンポポの綿毛が ズボンのすそにくっついちゃって パッパッてはらったけれど 完全にはとれなくって それで洗濯中。 めんどくさい。 きょうも2度の洗濯。 これから暑くなっていくから しょっちゅう洗濯しなきゃならなくなる。 二〇一六年四月二十二日 「無名性」  きょうもヨッパ。日知庵→きみや→日知庵のはしごのあと、以前にかわいいなと思っていた男の子と偶然、電車で乗り合わせて、駅の近くのバーでいっしょに飲んだ。人生というものを、ぼくは畏れているし、嫌悪しているけれど、愛してもいる。嫌悪すべき日常に、ときたまキラキラ輝くものがあるのだもの。  しじゅう無名性について考えている。無名であることによって、ぼくは自由性を保てているような気がしている。『詩の日めくり』の見本刷を何日か読み返してみて、実感している。芸術家は生きているあいだは無名であることが、たいへん重要なことだと思っている。死後も無名であるのなら、なおさらよい。  ああ、つまり、ふつうのひとということだ。詩人であるまえに、一個の人間なのだ。人間としての生成変化が醍醐味なのだ。人間であること。それは畏れざるを得ないことであり、嫌悪せざるを得ないことだし、愛さざるを得ないことでもある。詩人は、言葉によって、そのことを書いておく役目を担っている。  ティプトリー、コンプリートに集めてよかった。きょうきたトールサイズの文庫本2冊、1冊はなつかしい表紙だった。もう1冊は新しい表紙だけど、かわいらしい。こんなに本を愛しているぼくのことを、本もまた愛してくれているのかしら? どうだろう? まあ、いいか。一方的な愛で。ぼくらしいや。  朝から夕方まで、大谷良太くんに、ずっと『詩の日めくり』第一巻から第三巻の校正をしてもらってた。書肆ブンから出すことができることになって、ほんとによかった。二回目の見本刷が5月に届くことになっている。きっちり見直しますね、150か所ほど直しを入れてもらって申し訳なかったです。 二〇一六年四月二十三日 「黄金の丘」 ついに黄金の丘に行きます. 古い通り鴨肉を食べた. まだ買ってない問"クラスト"たこ焼き 隣の女性が買うのはゲストに聞け 女性のゲスト :" そこにはもっとパリパリした?" ボス :" えい..........." 女性のゲスト :" はとてもサクサク??" ボス :" それは私のために一生懸命に説明することは, あなたを知るのみで食べたわ" 女性のゲスト :" 以上がサクサク鶏の胸肉もサクサク??" ボス& me &小さな新しい :" .....................( 何も言えない)" だから何か正確にはサクサク  これ、FBフレンドの言葉を、中国語を日本語に自動翻訳したものだけれど、ぼくには詩に思える。というか、笑えた。 二〇一六年四月二十四日 「クリポン」  いま日知庵から帰ってきた。竹上さんと栗本先生と、3人でホラー話やなんやかで楽しく飲んでいた。詩や小説もおもしろいけれど、実人生がおもしろいなと再確認した。それは人生が困難で苦痛に満ちたものだからだろうとも思う。簡単で楽なものだったら、おもしろさも何十分の1のものになってしまうだろう。 二〇一六年四月二十五日 「ミニチュアの妻」  食事のついでに、西院の書店で新刊本を見ていたのだけれど、とくに欲しいと思う本はなかった。イーガンのは、未読のものが2冊あるし、もういいかなって感じもあって、買わなかった。バチカルピ(だったかな)は、前作がひどかったので、もういらないと思ったし、唯一、知らない作家の本で、手が動いたのは、ずっとまえから気になってた『ミニチュアの妻』という短篇集だけだった。裏表紙の解説を読んで購買意欲がちょっと出て、迷ったあげくに、本棚に戻したけれど、とくにいま買う必要はないかなという感じだったので、何も買わなかった。創元から出てる『怪奇小説傑作集』全5巻を古いカバーのもので持っていて、ぜんぶ読んだのだけれど、新しいカバーのものは、字がちょっと大きくなっているのかな。これを買い直して、古い方は、もう一度、お風呂場で読んで捨てるという方向も考えた。しかし、あまり健全な読書の仕方ではないなと思って、いまのところ思いとどまっている。欲しい本が出ればいいのだけれど。と書いて、パソコンのうしろから未読の単行本たちの背表紙が覗いた。『翼人の掟』『宇宙飛行士ピルクス物語』『モッキンバード』『ジーン・ウルフの記念日の本』『第四の館』『奇跡なす者たち』『フラナリー・オコナー全短篇』上下巻、『ウィザード』?、?『ナイト』?、? 一段だけの未読本だけど、読むの途中でやめた『ゴーレム』とかも読んでおきたい。そいえば、クローゼットのなかの本棚にしているところには、『ロクスソルス』『暗黒の回廊』『さらば ふるさとの惑星』などといった単行本も未読だった。ソフトカバーの『終末期の赤い地球』などもある。壁面の本棚の岩波文庫、ハヤカワSF文庫と銀背や創元文庫も、未読の棚が2段ある。読んでいない洋書の詩集や、書簡集もたくさんある。なんで、まだ本を買いたいと思うのだろうか。病気なんだろうな。『ミニチュアの妻』買いたくなってきた。西院の書店に行ってくる。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』と、アン・レッキーの『反逆航路』と『亡霊星域』を買ってきた。5500円台だったけれど、図書カード5000円分があったので、自分で出したお金は500円ちょっと。どうだろ。おもしろいだろうか。というよりも、いつ読むだろうか、かな。きょうは、これから寝るまで、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』のつづきを読む。 二〇一六年四月二十六日 「緑の柴田さん。」  学校から帰ってきた。夜は塾。塾に行くまで、ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』のさいごの1篇を読む。これが終わったら、せっかくきのう買ったのだから、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。設定がおもしろい。  ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読み終わった。この中の短篇は、どんでん返しのものが多いような気がする。しかも、後味のよいものよりも悪いもののほうが多い。これから、ルーズリーフ作業に入る。そのあと時間があるようだったら、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。  ルーズリーフ作業が終わった。これから、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読む。どんな新しい感覚をもたらせてくれるのか、あるいは、くれないのか、わからないけれど、数多くの賞を獲得した作品なので、読むべきところはあるだろう。なかったら、続刊といっしょに捨てる。  基本的な文献は読んでおかなくてはいけないと思って、きのう Amazon で、『象を撃つ』の入っている短篇集『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』(柴田元幸編訳)を買っておいた。スウィフトの例の話も載っている。貧乏人の子どもは食糧にしちゃえってやつ。『信号手』や『猿の手』も入っているのだけれど、これらは創元の『怪奇小説傑作集』のさいしょのほうの巻に入ってたりして読んでるけど、『猿の手』はたしかに傑作だと思うけど、『信号手』はいまいち、よくよさがわからない。ぼくの感性や感覚が鈍いのかもしれない。 これから塾へ。そのまえに、なんか食べよう。塾の帰りは日知庵に飲みに行く。  吉野家でカレーライスを頼んで食べたのだが、そのカレーライスに、綾子と名前をつけて食べてみた。味は変わらなかったけれど、自分が気が狂っているような雰囲気が出てスリリングだった。こんどからは、むかし付き合った男の子たちの名前をつけて、こころのなかで、その名前をつぶやきながら食べよう。  レッキーの『反逆航路』ちょっと読んだだけだけど、これは、言語実験したかったのかなと思う。その実験のためにSFの意匠を借りたのではないかと思われる。どかな。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 隣の部屋のひとのいびきがすごくて怖い。  塾から帰った。コンビニでかっぱえびせん買おうと思ったらなかったので、ねじり揚げなるものを買ってきた。108円。レッキーの『反逆航路』38ページ6行目に「詩は文明の所産であり、価値が高い。」(赤尾秀子訳)とあったが、どうやら、古代・中世の中国あたりの歴史を意識した未来世界のようだ。しかし、単なる皮肉ととらえてもよいかもしれない。  これから寝るまで、レッキーの『反逆航路』を読む。いま68ページだけれど、物語はほとんどはじまってもいない感じ。むかしのSFとは違うのだな。枕もとに積み上げた10冊以上の本を見たら、溜息がでた。ここ数週間のうちで、読みたいと思って買った本だけど、いつ読むことになるのか、わからない。  2014年に思潮社オンデマンドから出た『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』が、さいきん売れたみたいで、うれしい。自分の詩じゃないけれど、自分の詩のように愛しい詩ばかりだ。いや、もしかしたら、自分の作品以上に愛しているかもしれない。  クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! しかし、『叛逆航路』いま112ページ目だが、流れがゆるやかだ。退屈してきた。  いま気がついた。『叛逆航路』中国じゃなくて、インドが参考になってるのかもしれない。  いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。帰り道、『詩の日めくり』にも出てくる「緑がたまらん。」の柴田さんに会った。 二〇一六年四月二十七日 「俳句」 携帯折ってどうしようというの われは黙したり そもそものところ あなたが悪い 母は黙せり 二〇一六年四月二十八日 「短歌」 大きい子も小さい子も 首が折れて折れてしようがない夏 二〇一六年四月二十九日 「それだけか?」 何年前か忘れたけれど マクドナルドで 100円じゃなく 80円でバーガーを売ってたときかな 1個だけ注文したら 「それだけか?」 って、バイトの男の子に言われて しばし きょとんとした。 で 何も聞こえなかったふりをしてあげた。 その男の子も 何も言ってないふりをしてオーダーを通した。 このことは むかし 詩に書いたけれど いま読んでる『ドクター・フー』の第4巻で 「それだけか?」 って台詞が出てきたので 思い出した。 二〇一六年四月三十日 「ヤフオク」 きょうは、たくさんの本を ヤフオクで入札しているので 部屋から出られません、笑。 で 運動不足にならないように 音楽を聴きながら 踊っています。 二〇一六年四月三十一日 「トップテン」 むかし 叔父が所有していた 河原町のビルの10階に トップテン というディスコがあったんですけれど そこには 学生時代 毎週踊りに行ってました。 あるとき カップルの女性のほうから 「わたしの彼が、あなたと話がしたいって言ってるの」 と言われて カップルに誘惑されたことがあって ぼくが20歳かな ちょっとぽちゃっとして かわいかったころね。 で その女性の彼氏が またすっごいデブだったの、笑。 笑っちゃった。 あ ちゃんとお話はしてあげたけれど。 それだけ。 そういえば 東山丸太町のザックバランでは やっぱり女の子のほうからナンパされて 朝までのみつぶれたことがあった。 女の子とは20代に何人か付き合ったけれど どの子もかわいかったんだけれど。 いま55歳になって もうそんなことはなくなってしまったけれど そんな思い出を言葉にして もう一度 自分の人生を 生きなおすことは たいへん面白い。 老年というものは もしかしたら そんなことのためにあるのかもしれない。 ある種のタイムマシーンやね。 この叔父って 河野せい輔っていって (せい、ってどんな漢字か、忘れた) ぼくの輔は そこからきてるって話で この叔父の所有してた有名なビルに 琵琶湖の おばけビルがあって まあ この叔父 醍醐にゴルフ場も持ってたんだけれど 何十年か前に 50億円くらいの借金を残して死にました。 げんが悪いわ、笑。 ぼくの名前。 輔は 神社でつけてもらったっていう話も 父親はしていて まあ 両方やったんやろね。 どっちが先かっていえば 叔父の名前が先だろうけれど。 あ おばけビルじゃなくて おばけホテルね。 仮面ライダーとかの撮影で使われたりしてたんじゃないかな。 むかし 恋人とドライブしていて 見たことあるけど まあ ふつうの廃墟ビルやったね。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日/田中宏輔[2021年5月17日0時07分] 二〇一六年五月一日 「叛逆航路」  お昼から夕方まで、『The Wasteless Land.』の決定版の編集を大谷良太くんとしていて、そして、大谷くんと韓国料理店に行って、居酒屋に行って、そのあと、ひとりで、きみやに行って、日知庵に行って、いま、帰ってきた。帰りに、ぼくんちの近くのスナックのまえで八雲さんに会った。  きみやさんでは、元教え子の生徒さんにも遭って、ああ、京都に長く住んでいると、こういうこともあるのだなと思った。そいえば、王将で、元教え子から、「田中先生でしょう?」と言われて、ラーメン吹き出したこともあったよなあ。悪いこと、できひん。しいひんけど。いやいや、してる。している。  アン・レッキーの『叛逆航路』あと80ページほど。進み方がゆるやかだ。むかしのSFのおもしろさとは異なるおもしろさがあるが、むかしのSFを知っている者の目から見ると、物語の進行が遅すぎる。きょうじゅうに読めたら、あしたから続篇の『亡霊星域』を読むことにしよう。  あしたは、学校の授業が終わったら、大谷良太くんと、ふたたび、『The Wasteless Land.』決定版の編集をいっしょにする。きょうは、夜になったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。  アン・レッキーの『叛逆航路』おもしろかった。展開が遅かったけれど、終わりのほうがスコットカードを思い起こさせるような展開で楽しめた。この作品のテーマは、「人間には感情があり、恩情を受けた者はそれを忘れることができない。」一言でいえば、こう言い表し得るだろうか。さっそく続篇に目を通す。  きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり」ができた。これから、アン・レッキーの『亡霊星域』を読もう。冒頭だけ読んだ。翻訳者が赤尾秀子さんで、前作『叛逆航路』と同じなので、安心。前作は誤字・脱字が一か所もなかったように思う。さいきんの翻訳では、めずらしい。 二〇一六年五月二日 「さつま司」 いつもは 白波っていう芋焼酎を飲むんやけど これ飲んでみ と言われて出された アサヒビールからだしてる さつま司っていうヤツ ちょっとすすったらオーデコロンの味が オーデコロンなんか、じっさいにすすったことないけど そんな味がした。 匂いはぜんぜんなくって こんなん注文するひといるのって訊いたら いるよって ああ、ぜったい、変態やわ。 味のへんなヤツ好きなのっているんだよね。 ってなこと言ってると 美男美女のカップルが入ってきて へしこ 頼んだのね ひゃ〜 臭いもの好きなひともいるんやなあって話をしたら そのカップルと 臭い食べ物の話になって ぼくが、フィリピン料理で ブタの耳のハムがいちばん臭かったって話をしたら 女性のほうが カラスミのお茶漬けとか いろいろ出してきて うわ〜、考えられへんわ って言った。 きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。 あんまりきれいやから笑ってしもうた。 きれいなもの見て笑ったんは たぶん、生まれてはじめて。 いや、もしかすると ちっちゃいガキんちょのころには そうやったんかもしれへんなあ。 そんな気もする。 いや、きっと、そうやな。 いっつも笑っとったもんなあ。 そや。 オーデコロンの話のあとで 頭につけるものって話が出て いまはジェルやけど むかしはチックとかいうのがあってな 父親が頭に塗ってたなあ チックからポマードに ポマードからジェルに だんだん液体化しとるんや。 やわらかなっとるんや。 二〇一六年五月三日 「キプリングみたい。」  大谷良太くんちから。帰ってきて、自分の詩集の売れ行きを Amazon で見て、またきょうも売れてたので、うれしい。思潮社オンデマンドの詩集がいま40パーセント引きなので、そのおかげもあるかな。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と、『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻が売れてた。  アン・レッキーの『亡霊星域』おもしろい。イギリスっぽい。キプリングみたい。とか思ってたから、前作『叛逆航路』の解説を読んで、アメリカ人の作家というので、びっくり。書き込みが、イギリス人の作家のように、意地が悪いと思うのだけれど、たんに作家のサーヴィス精神が豊かなだけかもしれない。 二〇一六年五月四日 「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」  ええっ。きょうも Amazon での売り上げ順位が上がってた。思潮社オンデマンドから出た詩集『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』。ぼくの作品集のなかでも傑作たちだからよかった。そうでなかったら、買ってくださった方に申し訳ないものね。ありゃ、2014年に出した『ツイット・コラージュ詩』も売れてた。『ゲイ・ポエムズ』や『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』も売れてほしいなあ。 きょうも、これから大谷良太くんとミスドに。  ぼくにとって、詩は単なる趣味である。生きていくことは趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、生きていくことは苦しいことである。しかし、その苦しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である詩が人生というものに相応しい理由なのだ。  ぼくにとって、人生は単なる趣味である。詩は趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、詩を読み書きすることは楽しいことでもある。そして、その楽しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である人生が、詩というものに相応しい理由なのだ。  アン・レッキーの『亡霊星域』あと20ページほど。柴田元幸訳の『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読もう。  きのうは一食だけのご飯だった。きょうも、そうしよう。読書とゲラチェックに専念。そいえば、来週に投稿する『詩の日めくり』もつくらなければならない。文学、文学、文学の日々だけれど、ひとから見れば、ただ趣味に時間を使っているだけ。そっ。じっさい、趣味に時間を費やしているだけなのである。  セブイレで、サラダとサンドイッチ2袋買ってきた。BGMは、リトル・リバー・バンドのベスト。アン・レッキーの『亡霊星域』誤字・脱字ゼロだった。純文学の出版社より、創元やハヤカワのほうが優秀な校正家を抱えているようだ。高い本で、誤字・脱字に気がついたときの気落ちほどひどいものはない。  これから、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読む。きょう、あすじゅうに読み切りたい。  スウィフトの『アイルランド貧民の‥‥‥』を読んだ。ひとを食べちゃう話は、ぼくもいくつか書いているけれど、スウィフトみたいに実用的な用途で子どもを食べるという案は、じつに興味深い。というか、この1篇が読みたくて、この単行本を買ったようなものである。コーヒーを淹れて、つぎのシェリーのを読もう。  シェリーの『死すべき不死の者』は、なんだかなあという感じ。傑作ちゃうやんという思いがする。つぎにディケンズの『信号手』を読むのだけれど、まえにも読んだとき、どこがいいのかぜんぜんわからなかった。きょうは、どだろ。BGMはジェネシス。ディケンズを読み終わったら、コーヒーを淹れよう。 9時半に日知庵に、竹上 泉さんと行くことに。  ディケンズの『信号手』を読み終わった。どこがいいのか、まったくわからない。以前にアンソロジーで読んだときにも、まったくおもしろくなかった。つぎは、ワイルドの『しあわせな王子』だけど、そろそろお風呂に入って、日知庵に行く準備をしないと。 二〇一六年五月五日 「超大盛ぺヤングの罪悪感」 超大盛のペヤングを食べて、罪悪感にまみれている。  しあわせな気分で眠るには、どうしたらいいだろう。とりあえず、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。たしか、ワイルドの「しあわせな王子」からだった。ワイルドといえば、フランスでの彼の悲惨な最期を思い出す。その場面の一部を作品化したことがあるけれど。  ワイルドの「しあわせな王子」を読んで、ちょびっと涙がにじんだ。ぼくはクリスチャンじゃないけど、やっぱり神さまはいらっしゃるような気がする。おやすみ、グッジョブ! ジェイコブズの「猿の手」を読んで明かりを消そう。ほかのひとの訳で読んだことがあるけど、これは傑作中の傑作だった。  ようやく起きた。これからプリンスを追悼して、プリンス聴きながら、新しい『詩の日めくり』をつくる。そのあと、詩集の校正をもう一度する。 二〇一六年五月六日 「グースカ・ポー!」 木にとまるたわし 気にとまるたわし 木にとまる姿を想像する やっぱりナマケモノみたいにぶら下がってるって感じかな。 職場のひとたちや 居酒屋の大将や 近所のスーパー大国屋のレジ係りのバイトの男の子や女の子や 買い物してるオバサンや子どもも みんな、とりあえず、木にぶら下がってもらう。 で、顔をこちらに向けて。 やっぱ、きょとんとした感じで。 歩いてるひとは そうね 突然飛び上がって 丸くなってもらって 空中に浮いて そのまま、やってきてもらおうかな。 車を運転してるひとは とりあえず、ハンドルから手を離してもらって 両手を広げて 車から透けて足をのばして 空中に舞い上がってもらって そのままずっと上っていってもらおうかな。 ぼくは 仏さまのように 半眼で 横向きになって 居眠りしようかな。 グースカ・ポーって。 行きますよ。 二〇一六年五月七日 「思い出せない男の子」  詩は、ぼくにとって、記憶装置の一つなのだけれど、こんど投稿する新しい『詩の日めくり』に、名前(したの名前だけ)も、身長も、体重も、年齢も、そのときの状況も、そのときの会話も書いてあるのに、まったく顔が思い出せない男の子がいて、ノブユキ似って書いてるんだけど、まったく思い出せない。 これから大谷良太くんちに。  大谷良太くんちから帰ってきた。見直さなきゃならない個所があって、見直したら、ぼくが直したところが間違ってた。とんまだわ。 これからお風呂に、それから日知庵に。 いま日知庵から帰った。帰り道で、柴田さんと会って、あいさつした。 二〇一六年五月八日 「ミニチュアの妻」  ようやく身体が起きた。なんか食べてこよう。帰ったら、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。  あと、4、50ページで、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終える。傑作は、さいしょのスウィフトのもののみ。あとはワイルドのくらいか。「猿の手」は、ほかの方の訳のほうが怖かった。これからオーウェルの「象を撃つ」を読む。有名な短篇だけれど、はじめて読む短篇だ。  ジョイスの抒情は甘すぎる。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上下巻のほうがはるかに優れた作品を収録していた。きょう、さいごに飲むコーヒーを淹れて、オーウェルを読もう。 『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終わった。スウィフトとオーウェルのだけが傑作であった。ジェイコブズの『猿の手』もよかったかな。さいごのディラン・トマスのクリスマスの話はよくわからなかった。詩人の書いた散文って感じなだけで、感動のかけらもなかった。  これから、寝るまで、マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』を読む。翻訳者のお名前がはじめて拝見するものだったので、翻訳の文体が心配だけど。それはそうと、ケリー・リンクの訳はよかったけど、マスターピースの柴田元幸さんの訳文、ぼくはあまり好きじゃなかった。  ゴンザレスの短篇2篇を読んだ。完成度の低さにびっくりするけれど、読めなくもない。きょうは、ゴンザレスの短篇を読みながら床に就く。 二〇一六年五月九日 「歯痛を忘れるためのオード」  学校から帰ってきた。夜に塾に行くまで、ゴンザレスの短篇集を読む。きのう寝るまえの印象では、あまりつくりこみがよくないように思えたのだけれど、きょう通勤で読んだ短篇でわかったのだけれど、基本、奇想系のものは、つくりこむのがむずかしいのだと。発想の段階でもうほとんどすべてなのだと。  悪くない。十分に楽しめる作品たちである。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』 再読するかどうかはわからないけれど、本棚に置こう。  わ〜。きょう塾がなかったの、忘れてた〜。時間がある。ゴンザレスの短篇集のつづきを読みつづけよう。それとも、6月に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくる準備をしようか。両方しよう。塾の授業がないだけで、気分がぜ〜んぜん違う。 きょうは塾がなかったのだった。 こんどの土曜日に、河村塔王さんと、日知庵で、ごいっしょすることになった。  きのう文学極道に投稿した自分の『詩の日めくり』を読んでて、ふと思いついた。『歯痛を忘れるためのオード』とかいったタイトルで作品を書こうかな、と。まあ、オードという形式について知識がゼロだし、無知丸出しだけど、ちょっと勉強しようかな。頭痛を忘れるためのオードとか、腹痛を忘れるためのオードとか、腰痛を忘れるためのオードとかも書けるかも。あ、五十肩を忘れるためのオードちゅうのもいいかもしれへん。首を吊ったばかりのひとも耳を傾けたくなるオードとか、飛び込み自殺しようとして飛び込んで電車にぶつかる直前にでも耳を傾けたくなるオードとかも考えられる。死んだばかりのフレッシュな死体さんにも、死を直前にしたひとにも、朗読されて気持ちがいいなって思ってもらえるような詩を書いてみたい。 二〇一六年五月十日 「塾の給料日」  いま帰ってきた。詩集3冊の見本刷りを郵便局に6時に着くように取りに行く。それから塾だ。これからカレーパンと胡桃パンの晩ご飯を食べる。とりあえず、コーヒー入れよう。きょうも、前半戦でくたくた。塾、きょう給料日だ。うれしい。  マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』に、一か所だけ誤字・脱字があった。216ページさいごの1行「なだめすかしたりしなくてもを小屋から出すことができたので」 「を」が間違って入ったのか、「そいつを」の「そいつ」が抜けているのか、どちらかだと思うのだが、しっかり校正しろよ。  きょうは、塾の給料日だったので、帰りに、スーパー「マツモト」で半額になった握り寿司340円を買った。きょうから寝るまえの読書は、『ジーン・ウルフの記念日の本』何度か読もうかなと思っていたが、手にとっては本棚に戻し手にとっては本棚に戻した本だった。さすがに、きょうからは読もうかな。 二〇一六年五月十一日 「ジーン・ウルフの記念日の本」  ジーン・ウルフの短篇集、きのう寝るまえに2篇読んだのだけど、2篇目の作品がまったく意味がわからなくて、2回読んだけど、もう1度読んでみる。 『ジーン・ウルフの記念日の本』に2番目に収録されている「継電器と薔薇」、3度読んで、ようやく内容がわかった。ジーン・ウルフはわりと、ぼくにはわかりやすいと思っていたのだが、そうでもない作品があるのだなと思った。理解を妨げた原因には、書かれた時代を現代がとっくに超えてることもある。 これから王将に。それから塾へ。 塾から帰った。ジーン・ウルフの短篇集のつづきを読む。 二〇一六年五月十二日 「Love Has Gone°」 それ、どこで買ってきたの? 高島屋。 えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの? エイジくんが笑った。 たなやん、雪合戦しよう。 はあ? バカじゃないの? 俺がバカやっちゅうことは、俺が知ってる。 なにがおもしろいん? ええから、雪合戦しようや。 それからふたりは、真夜中に 雪つぶての応酬。 俺が住んでるとこは教えへん。 こられたら、こまるんや。 たなやん、くるやろ。 行かないよ。 くるから、教えたらへんねん。 バカじゃないの? 行かないって。 木歩って俳人に似てるね。 たなやんの目から見たら、似てるんや。 まあ、彼は貧しい俳人で、 きみみたいに建設会社の社長のどら息子やないけどね。 似てるんや。 ぼくから見てね。 姉ちゃんがひとりいる。 似てたら、こわいけど。 似てへんわ。 やっぱり唇、分厚いの? 分厚ないわ。 ふううん。 俺の小学校のときのあだ名、クチビルお化けやったんや。 クチビルおバカじゃないの。 にらみつけられた。 つかみ合いのケンカは何度もしていて 顔をけってしまったことがあった。 ふたりとも柔道してたので 技の掛け合いみたいにね、笑。 でも、本気でとっくみ合いをしてたから あんまり痛くなかったのかな それとも、本気に近いことがよかったのか エイジくんが笑った。 けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど いまだったら、わかるかな。 こんどの詩集にでてくるエイジくんのエピソード。 日記をつけてたんだけれど 捨ててしまった。 二〇一六年五月十三日 「31」  いま日知庵から帰った。奥のテーブル席に坐っていた男の子がかわいいなと思って(向かいの席には女の子がいたけど)帰りに声をかけた。「いまいくつ?」「31です。」「素数じゃん!」「えっ?」「みそひと文字で短歌だよ。三十一は短歌で使う音数だよ。」と言ったら、そうなんすかと笑って返事した。  男からも女からも好かれるような、かわいい顔をしてた。ぼくがあんな顔をして生まれていたら、きっと人生ちがってただろうな。ぼくはブサイクだから、勉強したっていうところがあるもの。まあ、ブサイクだから詩を選んだっていうことは、かくべつないんだけどね、笑。  あした、大谷良太くんちに行く。『詩の日めくり』の第一巻から第三巻の最終・校正をするために。そろそろ寝よう。日知庵にいた、めっちゃ、かわいい男の子が、きっと夢に出てきてくれると思う。ハーフパンツで、白のポロシャツ。女の子にも受けるけど、ゲイ受けもすごいと思うくらいかわいかった。ベリ・グッド! あの男の子が夢に出てきてくれますように、祈りつつ…… 二〇一六年五月十四日 「きみの名前は?」 きみの名前は?  (ジーン・ウルフ『養父』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』170ページ後ろから4行目) きみの名前は?  (ジーン・ウルフ『フォーレセン』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』181ページ5行目)  ひさしぶりにウルトラQを見よう。「宇宙指令M774」「変身」「南海の怒り」「ゴーガの像」 『ジーン・ウルフの記念日の本』を読み終わった。まあ、車が妊娠して車を生む短篇以外は、凡作かな。あの「新しい太陽の書」シリーズの作者とは思えないほどの凡作が並んでいた。『ナイト』と『ウィザード』の?、?を買ってあるけれど、読む気が失せた。代わりに、きょうから寝るまえの読書は、ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』にしよう。ヴァンスは、コンプリートに集めた作家の一人だが、これまたコンプリートに集めた作家にありがちなのだけど、持っている本の半分も読んでいない。さすがに、「魔王子」シリーズは読んだけど。  いま日知庵から帰った。河村塔王さんと5時からずっとごいっしょしてた。現代美術のエッジにおられる方とごいっしょできてよかった。ぼく自身は、無名の詩人なんだけど、といつも思っている。謙虚なぼくである。 二〇一六年五月十五日 「ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥」  いま、まえに付き合ってた子が、ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥をもってきてくれた。朝から飲むことに。  きょうやらなければならないと決めていた数学の問題づくりが終わった。休憩しよう。きのう、河村塔王さんからいただいたお茶を飲もう。見て楽しめる、香りも楽しめるお茶らしい。  自分でも解いてみたが。OKだった。夜は、あしたやるつもりだった数学の問題をつくろうかな。そしたら、あしたは、ワードに打ち込むだけで終わっちゃうし。河村塔王さんからいただいたお茶、めっちゃおいしい。花が咲いてて、見た目もきれい。きのうは、作品も2点いただいた。聖書の文章がタバコの形に巻いてあるものと、詩作品がタバコの形に巻いてあるもので、どちらも、じっさいに火をつけて吸うことができるようになっているのだが、おしゃれな試験管に入っていて、コルクの栓で封印されている。もったいなくて火はつけませんでした。  ジャック・ヴァンスの短篇集のつづきを読もう。きのう4ページくらい読んだけど、さっぱり物語が頭に入らず、びっくりした。  あしたしようと思っていた分の数学の問題つくりとワード打ち込みも終えられたので、五条堀川のブックオフまで散歩ついでに出かけよう。持っている未読の本を読めばいいのだけれど、本に対して異常な執着心があるためにブックオフ通いはやめられない。読みたいと思える未読の古いものもよくあるからである。  文春文庫の『厭な物語』『もっと厭な物語』なんてのは、ブックオフで見かけなかったら、知らなかったであろう本だし、創元文庫エラリー・クイーン編集の『犯罪文学傑作選』も知ることはなかったと思う。クイーン編集の『犯罪は詩人の楽しみ』を後でアマゾンで買った。  ちなみに、『厭な物語』も『もっと厭な物語』もまだ読んでいない。『厭な物語』は目次を見て、半分くらいの作品を知っていたがために読まず。『もっと厭な物語』は『厭な物語』を読んでからと思っているため読まずにいるのだが、近々にでも、読む日はくるのだろうか。  バラードの短篇集『時の声』が108円なので買っておいた。このあいだ、竹上 泉さんに、持ってるバラードをぜんぶ差し上げたので、手もとになかったのだ。よかった。やっぱり、タイトル作と「音響清掃」は再読するかもしれないからね。再読する価値のある短篇は、これら2作と「溺れた巨人」くらいかな。 二〇一六年五月十六日 「きょうは雨らしい」  起きた。きょうは雨らしい。通勤で読む本は文庫にしよう。『モーム語録』がまだ途中だった。これにしよう。 『モーム語録』読み終わった。マリー・ローランサンとチャップリンの逸話がとても印象的だった。この2つの逸話は忘れないだろう。ローランサンは、女性のかわいらしさを、チャップリンは人間の悲哀を感じさせられる話だった。とても魅力的な人間だった。ぼくもほかの読み物や自伝や映画で知ってるけど。モームは直接会っての、逸話だからね。そら違うわ。ぼくの『詩の日めくり』にもたくさんの人たちが登場するけれど、ローランサンとかチャップリンとかいった一般のひとびとも知ってるような有名なひとはいないなあ。ほとんどのひとが、無名のふつうの友だちか知り合い。  雨の日は、通勤に単行本を持って行くのは危険なので、文庫本を持って行ってるんだけど、これから雨の日がぼちぼちくるだろうから、用心のために、単行本は部屋で読むことにしよう。あしたから通勤には、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を持って行こう。トールサイズで読みやすいかな。  きょうは塾がないので、読書三昧。ジャック・ヴァンスの短篇集を読もう。読みにくくてしょうがないんだけど、ヴァンスって、こんな読みにくい作家だったかな? アン・レッキーとか、めちゃくちゃ読みやすかったのだけれど。さっき Amazon で、自分の詩集の売り上げ順位を見たら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』が売れてた。いったい何冊売れてるのかは、思潮社さんからは教えてもらっていないのだけれど、売り上げ順位が変わっているから、きのうか、きょうくらいにまた売れたと思うのだけれど、自分の詩集が売れると、うれしい。 『愛はさだめ、さだめは死』は再読。ふつうサイズの文庫本を持っていて、本棚のどこかにあったかなって思って、このあいだ探してなかったので、amazon で新たに購入したもの。収録されている物語は一つも記憶がない。まあ、そのほうがお得な気はするかな、笑。  メールボックスを開けると、海東セラさんから、個人誌『ピエ』16号が入っていた。拙詩集をごらんくださったとのお便りもうれしく、お人柄がしのばれる手書きの文字に魅入っていた。詩は、海東セラさんの散文詩、これは、イタリアに旅行したディラン・トマスをぼくは思い起こしたのだけれど、ほかには岩木誠一郎さんの詩と、支倉隆子さんの詩と、笠井嗣夫さんが翻訳されたディラン・トマスの散文が掲載されていて、個性のまったく異なる方たちの作品が、本田征爾さんという画家の方が描かれた表紙や挿絵に挟まれて、よい呼吸をしているように思えた。きれいな詩誌を送っていただけて、こころがなごんだ。海東セラさん、北海道にお住みなんだね。遠い。ぼくは、いちばん北で行ったことがあるのは、山梨県だったかな。大学院生のときに学会があって、行ったのだけれど、夜に葡萄酒をしこたま飲んだ記憶しかないかな。海東セラさんの「仮寓」という詩に書かれた「道が違えば」という言葉に目がとまる。目だけがとまるわけじゃない。ぼくのなかのいろいろなものがとまって、動き出すのだ。詩を読んでいると、目がとまって、いろいろなものが動き出すのだ。けっきょく、詩を読むというのは、自分を読むということなんだろうな。いや、いろいろなことが、ぼくの目をとまらせるけれど、その都度、ぼくのなかのいくつものものがとまって、動き出すんだな。そのいろいろなことが、ひとであったり、状況であったり、詩であったり、映画であったりしてね。  ジャック・ヴァンスの短篇、ようやく冒頭のもの読めた。なんだかなあ。古いわ。まあ、古い順に収録されている短篇集らしいのだけれど。書き込み具合は、ヴァンスらしく、実景のごとく異星の風景を見事に描き出してはいたものの、古いわ〜。まあ、レトロものを楽しむ感覚で読みすすめていけばいいかな。 すごい雨音。神さまの、おしっこ散らかしぶりが半端やない。  ジャック・ヴァンス短篇集『奇跡なす者たち』誤訳 「ときには顔を地べたすれすれに顔を近づけ」(『無因果世界』浅倉久志訳、131ページ3行目) 「顔を」は、1回でいいはず。浅倉さん、好きな翻訳家だったのだけれど、2010年に亡くなってて、このミスは、出版社おかかえの校正家のミスだな。 二〇一六年五月十七日 「半額になった焼きジャケ弁当216円」  ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』 悪くはなかったが、古い。バチガルピの『ねじまき少女』や、ミエヴィルの『クラーケン』とか、R・C・ウィルスンの『時間封鎖』三部作や、レッキーのラドチ戦史シリーズなどを読んだ目から見ると、決定的に古い。まあ、雰囲気は悪くなかったのだけど。  あしたから、通勤で読むのは、R・A・ラファティの『第四の館』にしようかな。 これは長篇なのかな。おもしろいだろうか。 これから塾に。そのまえに、王将で、みそラーメン食べよう。  塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった焼きジャケ弁当216円を買って、部屋で食べる。塾の生徒さんの修学旅行のおみやげのむらさきいもスイーツを2個食べる。満腹である。寝るまえの読書は、ひさびさのラファティの『第四の館』。ラファティの本は1冊も捨ててないと思うけど、どだろ。 二〇一六年五月十八日 「昭夫ちゃんか。」 ラファティ、ちょこっとだけ読んだ。わけわからずだった。 これから晩ご飯。ご飯たべたら、頭の毛を刈って、お風呂に入る。 これから塾へ。帰りは日知庵に。 いま日知庵から帰った。寝る。 昭夫ちゃんか。 二〇一六年五月十九日 「人間がいるところには、愛がある。」  満場はふたたび拍手に包まれた。人びとがこのように拍手を惜しまなかったのは、モーリスが卓越していたからではなく、ごく平均的生徒だったからである。彼を讃えることは、すなわち自分たちを讃えることにほかならなかった。   (E・M・フォースター『モーリス』第一部・4、片岡しのぶ訳)  ひとをあっといわせるような効果はどれも敵をつくるものだ。人気者になるには凡庸の徒でなくてはならない。 (ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十七章、西村孝次訳) ことさらに、だからってことはないのだけれど ぼくの作品を否定するひとがいても、 それはいいことだと、ぼくは思っているのね。 それに、案外と、感情的な表現をするひとほど 根がやさしかったりするものだからね。 ぼくはクリスチャンじゃないけれど、 すべてを見ている存在があって、ぼくのいまも過去も そして未来も見られていると思うのね。 ぼくは、ジョン・レノンのことが大好きだけど ジョンが、愛について、つぎのように、堂々と言っていたからだ。 愛こそがすべてだと。 たしかに、そうだと、ぼくも思う。 そうして、愛のあるところには、人間がおり 人間がいるところには、愛がある、と。 二〇一六年五月二十日 「とても気もちがよかったのだけれど。」 けさ、5時くらいにおきて また二度寝していたのだけれど そしたら ぼくの部屋じゃないところにぼくが寝ていて 布団は同じみたいなんだけど 部屋の大きさも同じなんだけど そしたら ぼくの身体の下から ゆっくりと這い上がってくる人間のようなものがいて 重さも細い人の重さがあって ああ、これはやばいなあって思っていると その人間のようなものが ぼくの耳に息を吹きかけて それを、ぼくは気もちいいと思ってしまって これは夢だから、どこまでこの実感がつづくかみてみようと思っていると ぼくの右の耳たぶを舌のようなぬれたあたたかいもので舐め出したので ええっ っと思っていたんだけど ものすごくじょうずに舐めてくるから どこまで〜 と思って目を開けたら 人影がなかったのね でも、ぼくの上にはまだ重たい感じがつづいているから 立ち上がろうとしてみたら 立ち上がれなくって 明かりをつけようとしたら 手のなかでリモコンが その電池のふたがあいて、電池が飛び出して、ばらけてしまって でも、めっちゃ怖くなってたから 重たい身体を跳ね上げて 立ち上がって 明かりをつけられなかったので カーテンを開けようとしたら カーテンが、針金で縫い付けてあったの。 で わ〜 って声をだして カーテンをその縫い目から引き千切って 左右に開けたの。 手には、布の感触と、針金の結びつづけようとする強い力の抵抗もあった。 で ようやく開けたら 部屋のなかで、なにものかが動く気配がして振り返ったら 玄関が開いていたの。 見たこともない玄関だった。 えっ と思うと その瞬間 ぼくは自分の部屋の布団のなかにいたのね。 ひと月くらい前にも、こんなことあったかな。 日記に書いたかもしれない。 でも、きょうのは 15年くらい前に見たドッペルゲンガーぐらいしっかりした実体だったので また少し頭がおかしくなっているのかもしれない。 15年前は 自分の年齢もわからず 自分の魂が、自分の身体から離れていることもしばしばあったので 今回も、そうなる予兆の可能性はある。 二〇一六年五月二十一日 「第四の館」  ラファティの『第四の館』半分くらい読めた。会話がほとんどキチガイ系なので、なんの話かよくわからないが、随所にメモすべき言葉があって、そのメモは貴重かな。物語はめちゃくちゃ。このあいだ出たラファティの文庫『昔には帰れない』の表紙はよかったなあ。飾ろうかな。 シャワーを浴びた。これから河原町に。日知庵に行く。夜の街の景色が好きだ。  いま帰った。きょうは「日知庵→きみや→日知庵」の梯子。帰りに、セブイレでカップヌードル買った。食べて、寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年五月二十二日 「茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について」  きのう、日知庵からの帰り、阪急電車に乗ってたら、ヒロくんに似てる男の子がいて、うわ〜、ヒロくんといまでも付き合ってたら、どんなおっちゃんになってるんやろうと思った。その男の子は二十歳くらいで、ぼくがヒロくんと合ってたとき、たぶん、ヒロくんは21歳くらいやったと思う。みんな、思い出の話だ。  アレアのファーストをかけながら、ラファティの『第四の館』を読んでいる。あと60ページほどだが、さっぱり内容がわからない。  FBフレンドの方のアップされたホットケーキのうえにのっかった茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について、だれかと話し合いたい。 二〇一六年五月二十三日 「ヴァニラ・セックス」 ヴァニラ・セックス 裸で抱き合うこと 甘いこと ヴァニラ・セっクスに、張形は使わんな、笑。 「張形」 ダンの詩に出てきた言葉だけれど まあ、ゲイ用語で言うと、ディルドっていうのかな チンポコの形したやつね いまのはシリコン製なのかな シリコン製だと硬くて痛いと思うんだけど そうでもないのかな ゴムみたいにやわらかいのもあるけれど それはシリコン製じゃなかったかも。 ぼくは、こんどの詩集で、ピンクローターって出したけど ダンの詩句も、そうとうエッチで、面白かった。 このあいだ、シェイクスピアを読みなおしたら チンポコを穴ぼこに突き入れるみたいなことが書いてあって 17世紀の偉大な詩人たちの作品ってけっこう、いってたのねって思った。 すごい性描写も、偉大な詩人が書くと、おおらかで とっても淫らで気持ちいいくらい大胆な感じ。 きのう書いた 弧を描いて飛ぶ猿の千切れた手足のことを思い浮かべていたら 公園のベンチに座ってね そしたら、梅田の地下の 噴水で 水の柱が ジュポッ ジュポッ って、斜めに射出される まるで 海面を跳ね飛ぶイルカのように あれって さかってるのかしら あ その 海面を斜めに跳ね飛ぶイルカのように 水の柱が ジュポッ ジュポッ って射出されるんだけど これって またタカヒロのことを ぼくに思い出せたんだよね これは、自転車に乗って公園から帰る途中 コンビニの前を通ったときに 向かい側にはスタバがあって 何組ものカップルたちが 道路の席に座っていた 斜めに射出される水の柱が 弧を描いて跳ね飛ぶイルカの姿が タカヒロの射精のことを ぼくに思い出させた タカヒロのめちゃくちゃ飛ぶ精液のことを思い出しちゃった。 彼の精液って、彼の頭を飛び越えちゃうんだよね。 もちろん、仰向きでイクときだけど。 このタカヒロって、「高野川」のときのタカヒロじゃなくって 彼女がいて 34歳で むかし野球やってて いまでも休みの日には 野球やってて 彼女とは付き合って5年で 結婚してもいいかなって思っていて でも、男のぼくでもいいって言ってたタカヒロなんだけど 彼の出す量ってハンパじゃなくて はじめてオーラル・セックスしたとき 口のなかで出されちゃったんだけど 飲むつもりなんてなかったんだけど そのものすっごい量にむせちゃって しかも、鼻の奥っていうか なかにまであふれちゃって 涙が出ちゃった。 あ ぼくが付き合った子って おなじ名前の子が何組かいて 詩を書くとき 異なる人物の現実を ひとつにして描写することがよくあって ぼくにしか、それってわからないから 読み手には きっと ふたりじゃなくて ひとりの人間になってるんやろうね ひとりの人間として現われてるんやろうね まあ 自分でも まじっちゃうことがあって 記憶のミックスがあって ふと思い出して 違う違う なんて思うことあるけど、笑。 五条堀川のブックオフにも立ち寄って あ 公園を出てすぐにね 帰るとき 村上春樹訳の キャッチャー・イン・ザ・ライ があって 105円だったから買おうかなって思ったんだけど むかし読んだのは野崎さんの訳やったかな で パッとページを開くと 「まだ時刻がこなかった。」 みたいな表現があって 「時刻」やなくて 「時間」やろうって思った。 あらい訳や。 センスないわ。 やっつけ仕事かいな。 たんなる金儲けやね。 で 買わんと 出た。 二〇一六年五月二十四日 「すべての種類のイエス」  寝るまえの読書は、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』 冒頭の作品「すべての種類のイエス」を断続的に昼から読んでいるのだが、初期のティプトリーはあまり深刻ではなかったのかもしれないと、ふと思った。違ってたりして。 二〇一六年五月二十五日 「It's raining.  雨が降っている。」 東寺のブックオフに置いてあったのだけれど ナン、俺は が入ってるかどうか、帰ってきてからお酒を飲みながら パソコンで調べてたら ナン、俺は が入っていることがわかり またまた東寺のブックオフまで 自転車でサラサラっと行ってきました ナン、俺は が、やっぱりいい 帰りに聴きながら 京大のエイジくんのことを思い出してた 雪つぶて 雪の夜の 夜中に アパートの下で 雪を丸めて たったふたりきりの雪合戦 「俺のこと  たなやんには、そんなふうに見えてるんや」 俳人の木歩の写真を見せて エイジくんに似てるなあ って言ったときのこと 関東大震災の 火の なかを 獅子が吠え いっせいに丘が傾いたとき 預言者のダニエルは まっすぐに ぼくの顔を見据えながら歩いてきた 燃える火のなかで 木歩を背負ったエイジくんは すすけた顔から汗をしたたらせながら ぼくの前から姿を消す 預言者のダニエルは 燃える絵のなかで 四つの獣の首をつけた 回転する車の絵とともに姿を消す 雪つぶて ディス・アグリー・ファイス 酔っぱらった ぼくには 音楽しか聞こえない 「俺のこと  たなやんには、そんなふうに見えてるんや」 雪つぶて ふたりきりの雪合戦 燃える火のなかを 預言者ダニエルが ぼくの顔を見据えながら歩いてきた エイジくんの姿も 木歩の写真も 消え 明かりを消した部屋で 音楽だけが鳴っている 二〇一六年五月二十六日 「ミスドで、コーヒーを飲んでいた。」 さいきん、体重が減って 腰の痛いのがなくなってきた。 もう一個ぐらいドーナッツ食べても大乗仏教かな。 カウンター席の隅に坐っていた女の子の姿がすうっと消える。 ぼくの読んでいた本もなくなっていた。 テーブルの下にも どこにも落ちていなかった。 ぼくはコーヒーの乾いた跡を見つめた。 口のかたちのコーヒーの跡も、ぼくのことを見つめていた。 ひび割れ。 血まみれの鳩の死骸。 二〇一六年五月二十七日 「巨大なサランラップ」  巨大なサランラップでビルをくるんでいく男。なかのひとびとが呼吸できなくなって苦しむ。ぼくはなかにいて、そのサランラップが破れないものであることをひとびとに言う。ぼくも苦しんでいるのだが、そのサランラップは、ぼくがつくったものだと説明する。へんな夢みた。 ここだけが神のゾーン。エレベーター。  隣の部屋のひと、コナンだとか、2時間ドラマばかり見てる音がする。バカなのかしら?  ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』をまだ読んでいるのだけれど、SFというよりは、散文詩の長いものって感じがする。SF的アイデアはたいしたことがなくて、叙述が評価されたのだろう。いま読むと、最新の作家たちの傑作と比べて申し訳ないが、古い感じは否めない。でも、まあ、これ読みながら寝ようっと。 二〇一六年五月二十八日 「いつもの通り」 ひとりぼっちの夜。 二〇一六年五月二十九日 「一日中」 ずっと寝てた。 二〇一六年五月三十日 「カレーライス」  ティプトリーの初期の作品は、SFというよりは、散文詩かな。「接続された女」もSFだけど、なんだかSFっぽくない感じがする。これは、「男たちの知らない女」を読んでいて、ふと思ったのだけれど、ヴォネガット的というか、SFは叙述のためのダシに使われてるだけなのかなって。どだろ。  まだ、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を読んでいるのだけれど、「男たちの知らない女」の途中のだけれど、叙述がすばらしい。いつか、ぼくの書いたものも、だれかに、「叙述がすばらしい」と思われたい。まあ、叙述など、どうでもいいのだけれど。  きょう、塾で小学校の6年生の国語のテキストを開いて読んでみた。冒頭に、重松清の『カレーライス』という作品が載っていて、読んだけど、中学生が作った作文程度の文章なのだった。びっくりした。たしか、なんかの賞を獲ってたような気がするのだけれど、ますます日本文学を読む気が失せたのであった。 ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』誤植 318ページ3行目「昨夜の機械は」(『男たちの知らない女』伊藤典夫訳) 二〇一六年五月三十一日 「発語できない記号」  たいていの基本文献は持っているのだが、どの本棚にあるのかわからないし、文庫の表紙も新しくなっていて、きれいだったので買った。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(福田恒存訳)108円。「すべて芸術はまったく無用である。」 これ、ぼくのつぎのつぎの思潮社オンデマンド詩集に使おう。  ようやく、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』の再読が終わった。『全行引用詩・五部作・上巻』で引用していたところに出合って、なつかしい気がした。塾に行くまでに、ルーズリーフ作業をしよう。きょうの夜から、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を再読するつもりだ。  お風呂から上がった。これから塾だ。ミンちゃんにもらった香水、つけていこう。匂いがさわやかだと、気分もさわやかだ。  存在しない数(定義されない数)として、ゼロのゼロ乗が有名だけれど、存在しない言葉というものを書き表すことができるのであろうか。数学は究極の言語学だと思うのだが、そういえば、ディラン・トマスの詩で、ネイティブの英語学者でも、その単語の品詞が、動詞か形容詞かわからないものがあるという話を読んだことがあるのだが、そんなものは動詞でもあり、形容詞でもあるとすればいいんじゃないのって思うけどね。詩人は文法なんて無視してよいのだし、というか、万人が文法など無視してよいのだし。  ガウス記号を用いた [-2.65] をどう発語したらよいのかわからず、困った。しかし、数学記号を用いた表記には発語できないものも少なくなく、数学教師として、少々難儀をしている。たとえば、集合で用いる のなかの、要素と要素の説明の間の棒ね。あれも発語できない記号なんだよね。  きょうはホイットマンの誕生日だったか。アメリカの詩人で好きな詩人の名前を5人あげろと言われたら、ぜったい入れる。いちばんは、ジェイムズ・メリルかな。にばんは、エズラ・パウンドかな。さんばんに、ホイットマンで、よんばん、W・C・ウィリアムズで、ごばんは、ウォレス・スティヴンズかな。ああ、でも、エミリー・ディキンスンもいいし、ロバート・フロストもいいし、エイミー・ローエルもいいし、ぼくが数年まえに訳したアメリカのLGBTIQの詩人たちの詩もいい。そいえば、きょう読んだティプトリーの本に、ロビンソン・ジェファーズの名前が出てた。  レコーダーは、ロビンスン・ジェファーズの詩を低く吟じている。「?人間の愛という穏健きわまりないものの中に身をおくこと……?」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳、短篇集『愛はさだめ、さだめは死』415ぺージ、6─7行目)  めっちゃ好きで、英語でも全集を持ってるエドガー・アラン・ポオを忘れてた。というか、ぼくの携帯までもが、そのアドレスがポオの名前を入れたものだった。(なのに、なぜ忘れる? 笑) ぼくも山羊座で、むかしポオに似ているような気がずっとしていたのだけれど。  ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ! ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日/田中宏輔[2021年5月24日0時08分] 二〇一六年六月一日 「隣の部屋の男たち」  お隣。男同士で住んでらっしゃるのだけれど、会話がゲイじゃないのだ。なんなのだろう。二人で部屋代を折半する節約家だろうか。香港だったか、台湾では、同性で部屋を借りるっていうのはよくあるって、なんかで読んだことあるけど。まあ、ゲイでも、ゲイでなくてもよいから、テレビの音を小さくして。とくにコマーシャルの音がうるさい。というか、テレビしかないのか。音楽が流れてきたこと、一度もない。会話は、会社のことなのか、だれだれがどうのこうのとかいった情報、ぼくが聞いて、どうすんのよ。と思うのだけれど。とにかく、テレビの音を小さくしてほしい。 二〇一六年六月二日 「たったひとつの冴えたやりかた」  ティプトリーの短篇集『たったひとつの冴えたやりかた』、タイトル作品、記憶どおりの作品。さいごまで読もう。残る2つの物語にはまったく記憶がない。これはSFチックだ。作家がすごいなと思わせられる理由のひとつとして物語がある。ぼくには物語が書けない。じっさいにあったことにしろ、なかったことにしろ、言葉についてしか書けない。 二〇一六年六月三日 「人生の速度」  きょうは、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』を読もう。『たったひとつの冴えたやりかた』の第二話と第三話はまったく記憶に残っていなかったものだった。読書で、ぼくの記憶に残っているものって、ごくわずかなものなのだなってことがわかる。まことに貧弱な記憶力だ。『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』も、むかし読んだのだけれど、まったく記憶がない。記憶に残らない可能性が高いのに、むさぼるようにして、ほぼ毎日、読書するのはなぜだろう。たぶん、無意識領域の自我に栄養を与えるためだと思うのだけれど、読むことでより感覚が鋭くなっている。感覚が鋭くなっているというよりは、過敏になっているというほうがあたっているような気がする。齢をとると、身体はボロボロになり、こころもボロボロになりもろくなっていくということなのかもしれない。ちょっとしたことで、すぐに傷ついてしまうようになってしまった。弱くもろくなっていくのだな。でも、それでよいとも思う。毎日がジェットコースターに乗っている気分だと、むかしから思っていたけれど、齢をとって、ますますそのジェットコースターの速度が上がってきているようなのだ。瞬間を見逃さない目をやしなわなければならない。瞬間のなかにこそ、人生のすべての出来事があるのだから。 二〇一六年六月四日 「2009年4月28日のメモ」 芝生を拡げた手のひらのような竹ほうきで、掃いていた清掃員の青年がいた。 頭にタオルをまいて、粋といえば粋という感じの体格のいい青年だった。 桜がみんな散っていた。 散った花は、花びらは少し透明になっていて 少し汚れて朽ちていて芝生の緑の上にくっついていた。 たくさんの桜の花びらが散っていた。 枝を見たら、一枚ものこっていなかった。 日が照っていて、緑の芝生が眩しかった。 でも、桜の花びらは、なんだか、濡れていたみたいに 半透明になっていて、少し汚れていた。 校舎の前のなだらかな坂道が、緑の芝生になっていて ところどころに植えられた桜の木が 通り道のアスファルト舗装された地面や緑の芝生の上に 濃い影を投げかけていた。 ぼくは、立ち止まってメモを書いている。 桜の花びらが、みんな散っているな、と考えながら 芝生の上に目を走らせていると 校舎の2階や3階からなら見える位置に 百葉箱があるのに気がついた。 いまの勤め先の高校には、もう20年くらい前から勤めているのだけれど まあ、途中9年間、立命館宇治高校や予備校にも行っていたのだけれど この百葉箱の存在は知らなかった。 百葉箱がこんなところにあるなんて、はじめて知った。 百葉箱は白いペンキが少し変色した感じで 4、5年は、ペンキの塗り替えがされていないようだったが ペンキの剥げは、まったく見当たらなかった。 4、5年くらいというのは適当だけど、4、5年くらいって思った。 二〇一六年六月五日 「風邪を引いた。」  風邪をひいたのでクスリのんで寝てる。本を読んでるから、ふだんと変わんないけど。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』古い題材なのは仕方ないな。まあ、ゴシック怪奇ものをふつう小説とまぜまぜで読んでる感じ。買ったから読んでるって義務感的な読書だな。なぜか読みたい本はほかにあるのだけれど。いま、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻を読んでいる。緻密だ。あきたら、また『ウィーン世紀末文学選』に戻ろう。咽喉が痛い。きょうは早めに寝よう。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』に載ってるシャオカルという作家の「F伯爵夫人宛て、アンドレアス・フォン・バルテッサーの手紙」(池内 紀訳)がおしゃれだった。さいごのページの「以上すべて私の作り話です。」って構成は、ぼくも真似をしたくなった。岩波文庫の短篇選に外れはない感じだ。 二〇一六年六月六日 「髪、切ってないから、こんどにする。」  これから河原町へ。5時に、きみやさんで、えいちゃんと待ち合わせ。早めに行って、ジュンク堂にでも寄ろう。  いま、きみやから帰ってきた。ちょこっと本を読んだら、クスリのんで寝よう。きのう、信号待ちしてたら、めっちゃタイプの子が自転車に乗ってて、まえに付き合ってた男の子に似ていて、ドキドキした。ああ、まだ、ぼくはドキドキするんだって、そのとき思った。そのまえに付き合ってた男の子から電話があって、「いま、きみやにきてるから、飲みにおいでよ。」と言うと、「髪、切ってないから、こんどにする。」との返事。いわゆるブサカワ系のおでぶちゃんなのだけれど、髪切ってるか切ってないか、だれもチェックせえへんちゅうの。ぼくはチェックするけど、笑。西院駅からの帰り道、「ひさしぶりです。」と青年から声をかけられたのだが、タイプではないし、ということは元彼の可能性はゼロだし、仕事関係でもないし、と思ってたら、ああ、ぼくはヨッパのときの記憶がないし、そのときにでもしゃべったひとかなって思った。酔いは怖し、京都は狭し。  秋亜綺羅さんから、ココア共和国・vol.19を送っていただいた。体言止めが多い俳句というものを久しぶりに見た。基本、ヘタなんだな。松尾真由美さん、相変わらず、意味わからない。ほかのひとの作品も、ぼくにはさっぱりわからない。これから岩波文庫『ウィーン世紀末文学選』を読みながら寝る。 二〇一六年六月七日 「オバマ・グーグル」  山田亮太さんから詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)を送っていただいた。きれいな装丁。タイトル作は、発表時、だれかが批判的に批評していたけれど、その評者のことをバカじゃないのって思ったことを思い出した。詩というより、言語作品。方法論的に、ぼくと似ているところがある。抒情は違うけど。  いま塾から帰ってきた。朝からこの時間まで仕事だけど、実質労働時間は3時間半。いかに、通勤と空き時間が多いことか、笑。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、いま、94ページ目。読みにくくはないけど、読みやすくもない。でも、まあ、なんというか、犯人をまったく追わない警官だな。 二〇一六年六月八日 「ぼくの卑劣さ」  マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、3分の2くらいのところ。緻密だけれど、P・D・ジェイムズほどの緻密さではない。読みやすくはないが、ユダヤ人の宗教分派について勉強もできる。人間の書き込みが深い。なぜ日本の作家には深みがないのだろうか。  まえに付き合ってた男の子が、きのう、あっちゃんちに泊まりに行っていい? と訊いてきたのだけれど、「いま風邪ひいてるから、あかんわ。」と返事した。付き合い直してる相手がいるとは、けっして言わないところが、ぼくの卑劣さかな。あした、その相手が泊まりにくるんだけど、風邪が治っていない。  ちゃんと、うがいとかして、風邪がうつらないようにしてよ、と言ってあるのだけれど、横で寝てたら、うつるわな。あしたには、風邪が完治していますように祈ってる。というか、風邪ひいてる相手のところに、ぼくなら泊まりに行かないかな。感覚のビミョウな違いかな。 二〇一六年六月九日 「2009年5月某日のメモ(めずらしく、日にちが書いていないのだった。日付自体ないものはあるけど。)」 女装のひとから、花名刺なるものをもらう。 その女装の人とは、もう20年以上前から顔を知っていて ときどき、話をする人だった。 ぼくより6才、上だって、はじめて知った。 その人は、男だから、本来は花名刺って 芸妓が持つものなのだそうだが 花柳界ではその花名刺なるもの 細長い小さな紙に 上に勤め先の場所 たとえば祇園とか 店の名前とかが書いてあって 下に名前を書いた簡単なものなのだけれど 客が喜ぶのだという。 芸妓からもらうと。 芸妓って、もと舞妓だから 「お金が舞い込む」というゲンかつぎに もらった花名刺を財布に入れておくのだという。 「なくさへんえ。」 とのこと。 ぼくもなくさず、いまも部屋に置いてある。 そのひとは宮川町出身で まあ、お茶屋さんの町やね。 ぼくもそばの大黒町(字がこうだったか、記憶がないんだけれど)に 住んでたこともあったから、そう言った。 祇園に引っ越したのは、小学校の高学年のときだった。 ぼくの父親はもらい子だったのだけれど もらわれた先の家が大黒町にあって その家はせまい路地の奥のほうにあって 路地の入り口近くの魚屋が大家さんだったみたいで 長屋と呼ばれる、たくさんの世帯の貧乏人がいたところで 父親がもらわれた家の女主人は被差別部落出身者だった。 ぼくのおばあちゃんになるひとだけれど 血はつながっていないのだけれど ぼくの実母も、高知の窪川の被差別部落出身者なので なにか因縁を感じる。 ぼくは、おばあちゃん子だった。 花名刺をくれた女装のひとは 水商売をしていたのだけれど あんまりうまくいかなかったわ、と言ってた。 九紫の火星やから水商売に向いてへんのよ、と言う。 だから、6年前から、花名刺をつくって 名前を「みい子」から 「水無月染弥」に替えたのだという。 6月生まれやから水無月という名字にして 下の名前の「弥」は 芸妓がよく使う名前やという。 男の名前に使われる「也」とは違うのよ、と言っていた。 替えてから、多少はうまくいくようになったという。 いまは、三条京阪のところにある友だちのところに勤めているという。 着物姿の女装のイメージが強くて この日会ったときのワンピース姿は意外やった。 でも、シャキッとして、一本、筋の通った女装って感じで お話をするのは、大好きなタイプ。 もらった花名刺って、いま長さを測るね。 横2.4センチ 縦7.5センチ のもので 赤いインクで 鳥となんか波頭みたいなものが書かれていた。 これ、波ってきくと 「そうよ、鴨川の浪よ」 「この鳥は、じゃあ、水鳥なの?」 「これ、千鳥よ。  千鳥って、縁起がいいのよ。  だから描いてもらったのよ。  ほら  新撰組の歌にあるでしょ。  鴨の川原に千鳥がさわぐ〜って」 このあとのつづきも、歌ってくれたのだけれど 血が、どうのこうのってあって 不吉なんと違うかなと思ったのだけれど 黙って聞いていた。 ぼくが目の前でメモをとるのも不思議がらずに ぼくに一所懸命に説明してくれて めっちゃ、うれしかった。 共通の敵の話も、このときにしたのだけれど それは後日に。 お笑いになると思います。 あ 花名刺 名刺屋さんでつくってもらって まんなかを自分で切り抜いているのだという。 ふつうのサイズの名刺の大きさに印刷してもらって。 あ 女性の名刺が 男性の名刺よりも小さいことも教えてもらった。 はじめて知った。 花名刺はもっと小さい。 二〇一六年六月十日 「文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。」 文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。とてもうれしい。→http://bungoku.jp/award/2015.html  文学極道の詩投稿欄にはじめて投稿した作品から、もう何年たつのだろう。この文学極道の投稿欄の巨大なカンバスがあったからこそ、ぼくの長大な作品も発表の機会を持てた。  文学極道にはじめて投稿した作品は、『The Wasteless Land.V』の冒頭100ページの詩になった。ここ1年くらい投稿している「詩の日めくり」のアイデアは、元國文學の編集長の牧野十寸穂さんによるものだが、継続してつくって発表できたのは、やはり、文学極道の詩投稿欄の巨大なカンバスがあったからだと思われる。おかげで、詩集にもまとめて出すことができた。詩集にまとめて出すことができたのは、大谷良太くんのおかげでもある。彼が発行者になっている書肆ブンから、『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが明日、Amazon で発売される。『詩の日めくり』はライフワークとして継続して詩集にまとめて出しつづけていくつもりだ。ただし、一部分、文学極道で発表したものとは違う個所がある。今回出したもので言えば、第一巻の一部がネット発表のものとは異なっている。 二〇一六年六月十一日 「記憶力がかなり落ちてきた。」  きょうはほとんど一日中ねてた。記憶力がかなり落ちてきた。きのう、なにか忘れてることがあったのだけれど、そのなにかをさえ、きょうは忘れてしまっていた。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻もおもしろいのだが、読んでて、途中読んだ記憶がなくなっていて、これから戻って読むことに。 二〇一六年六月十二日 「カレーライス」  きょうの夜中に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日』を読み返していたら、このあいだ、ぼくが批判した『カレーライス』を書いた重松 清みたいだなって思った。まあ、単純な文章。というか、むずかしそうに書く能力が、ぼくには、そもそもないのかもね。あ、でも、重松 清の文章を批判した要点は、文章の簡素さにではなくて、感情のやりとりの形式化というか、こころの問題を、ひじょうに単純な関係性で語っていたことにあったのであった。こう書けば、こう感じるだろうと推測させる幅がめっちゃ狭くて浅いということ。見かけは、重松 清さん、めっちゃタイプなんだけど、笑。  きょう日知庵で、FBフレンドの方とお会いしたら、開口一番に、「あっちゃん、なんか詩の賞もらったって、おめでとう。で、いくらもらったの?」と訊かれて、ぼくじゃなくって、えいちゃんが、「ネットの詩の賞やから、お金なんかになってへんで。」って、なんで、ぼくより先に答えるのよ、と思った。  そうなのだった。お金になる賞をいただいたことは、一度もなかったのであった。けっこういい詩集を出してるというか、傑作の詩集をじゃんじゃん出しているのだが、どこに送っても、賞の候補にすらならなくて、30年近く、無名のままなのであった。  しかし、無名であるということは、芸術家にとって、ひじょうに大切なことだと思っている。芸術家で無名であるということは、世間では、ふつう、軽蔑の目で迎えられることが多くて、そのことが、芸術家のこころにおいて、戦闘的な意欲をもたらせることになるのである。 まあ、ぼくの場合は、だけどね。  さっき、セブンイレブンでペヤングの超大盛を買ってきて食べたら、おなかいっぱいになりすぎて、吐き気がしてきたので、大雨のなか、となりの自販機でアイスココアを買ってきて部屋で飲んでたら、またおなかいっぱいになって、ぼくはどうしたんだろうと思って、おなかいっぱいだよ。 二〇一六年六月十三日 「箴言」  なかったことをあったことにするのは簡単だけれど、あったことをなかったことにするのは簡単じゃない。 二〇一六年六月十四日 「血糖値」  3月31日の健康診断の結果を、きょう見た。血糖値が正常値に近くなっていた。セブンイレブンのサラダのおかげだと思う。きのう、ペヤング超大盛を食べたことが悔やまれる。ぼくは運動をまったくしないからね、食べ物の改善だけで血糖値が80も下がったのであった。もう血糖値が230もないからね。  ということで、きょうの夜食は、セブンイレブンのサラダ2袋のみなのであった。お昼にいっぱい食べたしね。夜は抜くつもりで。でも抜くのはつらいから、サラダだけにしたのであった。  帰りの電車のなか、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読んでいた。途中で乗ってきた二十歳くらいのノブユキに似た少しぽっちゃりした青年が涙をためた目で、隣に坐ったのだった。青年はときどき洟をすすっていたが、明らかに泣いた目だった。恋人と悲惨な別れ方でもしたのだろうか。  ぼくは、ときどき彼の表情を観察した。貴重な瞬間だもの。涙が出るくらいの恋愛なんて、一生のあいだに、そう、たびたびあるものではない。少なくともぼくの場合では、二度だけ。抱きしめてなぐさめてあげたかった。でも、まあ、電車のなかだしね。観察だけしていた。  マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻さいしょの方で、ようやく被害者がゲイだったことがわかる。ここからまた、どうなるのかわからないけれど。まあ、書き込みのすさまじい小説である。きょう、仕事場で、机のうえにあった日本の作家の本をひらいて、ぞっとした。会話だらけで、スカスカ。  きょう、学校からの帰りの通勤電車のなかで見た、泣いてた男の子、いまくらいの時間にも、まだ悲しいんやろうか。他人のことながら、切ない。洟をすすり上げながら窓の外をずっと見てた。涙がこぼれるくらいに、目に涙をためて。かわいらしい、美しい景色だった。人生で最高の瞬間だっただろうと思う。  マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻のつづきを読みながら寝よう。読みやすくはないけど、よい作品だと思う。まわりで、読んだってひと、ひとりもいないけれど。というか、ぼくのまわりのひとって、5人もいないのだった。すくな〜。大谷良太くんと竹上 泉さんとは共通してるもの多いかな。大谷くんとは詩で。竹上さんとは小説で。  きょう、Amazon の自分のページをチェックしていたら、『The Wasteless Land.』と『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが1冊ずつ売れてた。買ってくださった方がいらっしゃるんだ。励みになる。 二〇一六年六月十五日 「ブラインドサイト」  五条堀川のブックオフで、ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を買った。ともに108円。108円になったら買うつもりの本だった。吸血鬼や平和主義者の軍人や四重人格の言語学者や感覚器官を機械化した生物学者や脳みそを半分失くした男たちが異星人とファーストコンタクトする話だ。  だけど、まだ、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』の下巻を読んでいる。ワッツの小説も、つぎに読むかどうかは、わからない。  いま日知庵から帰った。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読み終わった。重厚な作品。つくり込みがすごかった。こんなん書くの、めっちゃしんどいと思う。ぼくも小説を書いてたけど、詩みたいにつぎつぎと情景が浮かぶわけでもなく、1作を書くのに数年つかってたりしたものね。  これから書くことになる『13の過去(仮題)』が●詩の予定だから、これが小説っぽいと言えば、小説っぽいかも。でもまあ、小説とも、また詩とも言われず、ほとんどスルーで、それでも、一生のあいだ、書きつづけていくのだなあと思う。それでいいか。それでいいや。  そだ。日知庵で、男の子が泣いてる姿がめずらしいと言ったら、女性客がみな、「女はふつうにたくさん泣くのよ。」と言うので愕然とした。そうか。男と女の違いは、ストレートか、ゲイか以前の問題なのか、と、ちらっと思った。ぼくは2回しか泣いたことがなかったから、自分の体験と照らし合わせてた。 二〇一六年六月十六日 「ようやく、コリン・ウィルソンの「時間の発見」をルーズリーフに書き写し終わる。」 右脳と左脳の違い。 ちいさい頃からダブルヴィジョンに驚かされていた自分がいて それが、そんなに不思議なことではないと知って ちょっと安心。 つまり、ふたりの自分がいるということね。 いつも、自分を監視している自分がいると感じていたのだけれど ほんとにいたんやね。 左脳という存在で。 きのう 日記に書かなかったことで ひとりのマイミクの方には直接、言ったのだけれど 西大路五条の交差点で 東寺のブックオフからの帰りみち トラックに轢かれそうになったんやけれど 横断歩道にいた歩行者の顔がひきつっていたり トラックの運転席の男の顔がじっくりと ゆっくりと眺めていられたのだけれど 時間の拡大というか 引き延ばされた時間というのか それとも意識が拡大したのか おそらく 物理時間は短かったんやろうけれど 意識の上での時間が引き延ばされていて 何年か前にも 背中を車がかすって 服が車に触れたのだけれど 車に轢かれるときの感じって おそらく、ものすごく時間が引き延ばされるんやろうね。 だから、一瞬が永遠になるというのは こういった死そのものの訪れがくるときなんやろうね。 じつは トイレがしたくて (うんち、ね、笑) 信号が変わった瞬間に渡ったのだけれど トラックがとまらずに突進してきたのね。 きのう、轢かれてたら いま時分は、ぼくのお葬式やね。 何度か死にかけたことがあるけど 何度も、か なかなか、しぶとい、笑。 二〇一六年六月十七日 「こぼれる階段」 唾液の氷柱。 二〇一六年六月十八日 「彼は有名な死体だった。」 真空内臓。 死体モデル。 液化トンネル。 仕事はいくらでもあった。 彼の姿が見かけられない日はなかった。 彼はひとのよく通る道端に寝そべり ひとのよくいる公園の河川敷のベンチに腰かけていた。 しょっちゅう、ふつうの居酒屋に出入りもしていた。 いつごろから有名なのかも不明なのだけれど いつの間にか人々も忘れるのだけれど ときどき、その時代時代のマスコミがとりあげるから 彼は有名な死体だった。 彼とセックスをしたいという女性や男性もたくさんいたし じっさいに、多くの女性や男性が彼とセックスした。 彼とセックスした女性や男性はみんな 死体と寝てるみたいだと当たり前の感想を述べた。 したいとしたい。 死体としたい。 しないとしたい。 液化したトンネルの多くが彼の喉に通じていて 彼の喉は深くて暗い。 彼の喉をさまざまなものが流れていった。 腐乱した牛の死骸が目をくりくりと動かしながら流れていった。 巻紙がほぐれて口元のフィルターだけがくるくると旋回しながら流れていった。 パパやママも金魚のように背びれや尾びれを振りながら流れていった。 真空内臓の起こす幾つもの事件のうちに いたいけな少女や少年が手を突っこんで 金属の歯に食いちぎられるというのがあった。 寝ているだけの死体モデルの仕事がいちばん楽だった。 寝ているだけでよかったのだから。 真空内臓をときどき裏返して 彼は瞑想にふけった。 瞑想中にさまざまなものが彼にくっついていった。 よくある質問に よくある答え。 中途半端な賛美に 中途半端な悪評。 そんなものはいらないと真空内臓はのたまう。 彼は有名な死体だった。 彼が死体でないときはなかった。 彼は蚊に刺されるということがなかった。 なんなら、蚊を刺してやろうかと ひとりほくそ笑みながら 宙を行き来する蚊を眺めることがあった。 しかし、彼は死んでいた。 ただ、死んでいた。 いつまでも死んでいたし 彼はいつでも死んでいたのだが 死んでいるのがうれしいわけではなかった。 しかたなしに死んでいたのだが けっして、彼のせいではなかったのだ。 二〇一六年六月十九日 「わたしたちは一匹の犬です」 わたしたちは一匹の犬です 彼らは一匹の犬です あなたたちは一匹の犬です Wir sind ein Hunt. Sie sind ein Hunt. Ihr seid ein Hunt. ドイツ語が貧しいと 日本語が笑けるわ 基本をはずすと えらい目に遭うわ ううううんと苦しむわ ということは塩分の摂りすぎ? けさ 住んでるところの すぐ角で ごみ袋を漁ってた鴉が 「あっちゃん天才!」って啼いて けらけら笑って飛んでいったので びっくりしました だれがあの鴉を飼っているのかしら まあ 「1000円貸してくれ」 って言われないだけましやけどね まったくバイオレンスだわ 太陽の中心の情報を引き出そうとして その引き出し方を忘れてしもたって? この役立たず! 二〇一六年六月二十日 「ブラインドサイト」  ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を読んだ。さいきん読んだ本のなかで、もっともつまらなかった。 二〇一六年六月二十一日 「優れた作品の影響」  少し早めに着くと思って、塾には、岩波文庫の『ハインリヒ・ベル短篇集』を持って行ってた。15分くらいあったので、短篇、2つ読めた。「橋の畔で」と「別れ」である。前者のアイデアはよいなと思った。後者の抒情もよい。寝るまえに、つづきを読んで寝よう。たぶん、この短篇集を買ったのは、ハインリヒ・ベルのすばらしい短篇が『Sudden Fiction 2』に入っていたからだという記憶があるのだが、どうだろう。目のまえの本棚にあるので調べてみよう。あった。「笑い屋」という作品だった。きょう読んだ「橋の畔で」もわずか4ページ、「別れ」も6ページきりの作品だった。  ハインリヒ・ベルの「知らせ」という短篇を読んで思いついたコントである。このように、すぐれた著者は、読み書きする人間に、よいヒントを与えるのである。ちなみに、「知らせ」は、戦友の死を遺族に知らせに行く男の話である。  マンションの5階では、独身者たちが大いに騒いでいた。自分の酒の量を知らない者がいて、気分が悪くなってソファにうずくまる者もいれば、はしゃぎすぎて、周りの人間が引いてしまう者もいた。わたしはマンションを見上げた。バルコニーで、男が何かを拾おうとして身をかがめた。女が彼に抱きつこうとして虚空を抱き締めて落ちてきた。わたしの到着とちょうど同時に、わたしの足元に。わたしは、いつも必要な時間にぴったりと到着する律儀な死神なのである。肉体から離れていく彼女の手をとって立たせた。裁きの場に赴かせるために。 二〇一六年六月二十二日 「内心の声」  授業の空き時間に、ハインリヒ・ベルの短篇「X町での一夜」「並木道での再会」「闇の中で」の3作品を読んだのだが、どれもよかった。どの作品も、知識ではなく、経験がある程度、読むのに必要かなと思える作品だった。大人にしかわからないものもあるだろうと感じられた。これこそ、岩波文庫の価値。  きょうは、ハインリヒ・ベルの短篇集のつづきを読みながら寝よう。いま読んでいるのは、「ローエングリーンの死」。もっと早く読むべき作家だったと思うが、ふと、ひとや本とは出合うべきときに出合っているのだ、という声をこころのなかで発してた。 二〇一六年六月二十三日 「カレーライス」  きょう、大谷良太くんちに行った。カレーライスをごちそうになった。おいしかったよ。ありがとう。これからお風呂に入って、それから塾へ。塾が終わったら、日知庵に行く予定。 二〇一六年六月二十四日 「齢か。」  いま日知庵から帰った。ここ数週間、体調が悪い。いまだに風邪が治らない。齢か。 二〇一六年六月二十五日 「ああ、京都の夜はおもしろいな。」  数学のお仕事より詩を書く方がずっと簡単なので、きょうの夜はつぎの文学極道に投稿する「詩の日めくり」をつくろう。日知庵からきみやに行く途中、むかし付き合った子と出合ったけれど、その子はいま付き合ってる子といっしょだったので、目くばせだけして通り違った。ああ、京都の夜はおもしろいな。 二〇一六年六月二十六日 「ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。」  いちごと人間のキメラを食べる夢を見ました。蟻人間を未来では買っていて、気に入らなければ、簡単に殺していました。ロシアが舞台の夢でした。いちごを頭からむしゃむしゃ食べる姿がかわいらしい。齢老いたほうの蟻人間が、「ぼく、冬を越せるかな。」というので、「越せないよ。」とあたしが言うと情けない顔をしたので、笑って、ハサミで首をちょんぎってやった。ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。 数学の仕事、きょうやる分、一日中かかると思ってたら、数時間で終わった。  7月に文学極道に投稿する新しい「詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日」をつくっていた。 二〇一六年六月二十七日 「受粉。」  猿であるベンチである舌である指である庭である顔である部屋である地図である幸福である音楽である間違いである虚無である数式である偶然である歌である海岸である意識である靴である事実である窓である疑問である花粉。  猿ではないベンチではない舌ではない指ではない庭ではない顔ではない部屋ではない地図ではない幸福ではない音楽ではない間違いではない虚無ではない数式ではない偶然ではない歌ではない海岸ではない意識ではない靴ではない事実ではない窓ではない疑問ではない花粉。  猿になるベンチになる舌になる指になる庭になる顔になる部屋になる地図になる幸福になる音楽になる間違いになる虚無になる数式になる偶然になる歌になる海岸になる意識になる靴になる事実になる窓になる疑問になる花粉。  猿にならないベンチにならない舌にならない指にならない庭にならない顔にならない部屋にならない地図にならない幸福にならない音楽にならない間違いにならない虚無にならない数式にならない偶然にならない歌にならない海岸にならない意識にならない靴にならない事実にならない窓にならない疑問にならない花粉。 二〇一六年六月二十八日 「Gay Short Film The Growth of Love」  きょう、日知庵での武田先生語録:恋愛結婚というルールができると、恋愛結婚できない人間が出てくる。  2016年6月18日メモ 日知庵での別々のテーブルで発せられた言葉が、ぼくのなかでつながった。「食べてみよし。」「どういうことやねん。」  チューブで10時くらいから連続して再生しているゲイ・ショート・フィルムがあって、10回くらい見た。9分ちょっとの映画。猥褻とは無縁。切なさがよいのだ。ぼくも、「夏の思い出。」とか書いたなあ。チョーおすすめです。 Gay Short Film The Growth of Love 二〇一六年六月二十九日 「Gay Short Film The Growth of Love」  Gay Short Film の The Growth of Love を、きのうはじめて見て、それから繰り返し、きょうも何度も見てるのだけれど、いま、ふと、ジョー・コッカーのユー・アー・ソー・ビューティフルを聴いているときの感覚に似ているかなと思った。繰り返し見てる理由かな。 『ハインリヒ・ベル短篇集』を読み終わった。よかった。今夜から、岩波文庫の『モーム短篇選』上巻を読む。  きょうは塾だけ。それまでに数学の問題をつくっておこう。きのう、寝るまえに、モームの短篇、一つだけ読んだ。まあ、わかるけれど。という感じ。モームの意地の悪さは出ていない。ぼくはモームの意地の悪さが好きなのだ。時間的に、きょう、読めるかどうかわからないけれど、期待している。 二〇一六年六月三十日 「Gay Short Film The Growth of Loveの続編」  マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻の178ページに、「煙草の袋に」という言葉がでてくるのだが、この「袋」を、さいしょ、「姿」だと思って、「煙草の姿」って、なに? 煙のこと? と思って、読み返したら、「姿」ではなく「袋」だったので、ふと、「袋」と「姿」が似てるなと思った。  塾の往復一時間、とぽとぽ歩きながら、Gay Short Film の The Growth of Love の魅力について考えていた。ささいなこと、ちいさなことでも、そこにこころがこもっていれば、大きな力になる、ということかな。それを見せてくれたのだと思う。ふたりが付き合うきっかけも、ささいなことだったし、ふたりが別れることになったのも、ちいさなことがきっかけだったのだと思う。日常、起こる、すべてのことに気を配ることはできないものだし、また気を配るべきでもないことだと思うが、しかし、日常のささいなことの大きさに、ときには驚きはするものの、そのじっさいの大きさについては、あまり深く考えてこなかった自分がいる。ということなど、つらつらと考えていたのだが、もう55歳。深く考えてこなかった自分がいるということが、とてつもなく恥ずかしい。ああ、でも、深く考えるって、ぼくにはできないことかもしれないと、ふと思った。Gay Short Film の The Growth of Love に登場するふたりのぎこちない演技がとても魅力的だった。ぎこちなさ。ぎこちないこと。ありゃ、この言葉を使うと、ぼくの詩に通じるか。52万回近くも視聴されている短編映画と比較なんかしちゃだめなんだろうけれど。続編があったらしいのだけれど、いまは削除されている。残念。見ることができなかった。9分ちょっとの短編映画だけれど、ぼくの感覚に、感性に確実に残って影響するなって思った。というか、もともと、ぼくのなかにあったセンチメンタルな部分を刺激してくれる、たいへんよい映画だったってことかな。あのぎこちなさも演技だったとしたら、すごいけど。いや、演技だったのだろうね。きっと。でなきゃ、52万回も、ひとは見ないだろうから。  Gay Short Film の The Growth of Love の続編をネットで検索して、探し出して見たのだけれど、さいしょの作品だけ見てればよかった、というような内容だった。役者がひとり替わっていたのだが、その点がいちばんひどいところだと思う。その男の子のほうがタイプやったからね、笑。 二〇一六年六月三十一日 「すべての実数を足し合わせると、……」 すべての実数を足し合わせると、ゼロになるのであろうか。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年七月一日─三十一日/田中宏輔[2021年5月31日10時34分] 二〇一六年七月一日 「ヴィーナスの腕」 コンクリート・鉄筋・ボルト・ナットなどなど 構造物の物質的な素材と 温度や重力や圧力や時間といった物理的な条件や 組み立てる技術や出来上がりの見通しや設計図 といったもので建物が出来るとしたら さしずめ 概念は物質的な素材で 自我は物理的な条件や組み立てる技術や出来上がりの 見通しといったものだろうか 言葉が言葉だけでできているわけではないといわれるとき 後者の物理的な条件や技術や見通しなどのことを 考慮に入れてのことなのだろう その言葉に個人の履歴が またその言葉の歴史的な履歴があって そういったもののほかに その言葉を形成したときの個人の状況(部屋の様子など)も 大いに反映されてる ヴィーナスの彫刻の腕のない有名なものがあるけれど その彫刻について 「腕がないから  想像し  美しいというように思えるのだ」 みたいな文章を 綾小路くんが読んだことがあって って ぼくが たくさん本を読んでいると驚くことがあんまりなくなるんだよねえって 一般論を口にしたときに言って しばらくお話 不完全なものが完全なものを想起させるという骨子の文章だったかな ヴィーナスだからうつくしい だから ない腕も あった状態でうつくしいはずっていう 常識論でもあると思うんだけど 人間て あまのじゃくだから Aについては非Aを思いつくんじゃないのって言った でもさらに人間は Aでありかつ非Aであるという矛盾律に反するものや Aでもなく非Aでもないっていうのまで Aという内容を見たら頭に思い浮かべるんじゃないのって言ったら 森くんが 人間って そんな論理構造で捉えられるものばかりじゃないものまで 捉えるんじゃないのかなって言うので まさしく ぼくもそう思っているよと言った そしたら 綾小路くんが (ヴィーナスの話をはじめたときには 彼は  はっきりと言わなかったのだけれど ということは話の途中で思いついたと思うのだけれど) (その腕のないヴィーナスの話を書いた人は きのう大谷くんから その文章は清岡卓行のものだと教えてもらった) たぶんその思いつきに自分でこれはいけるぞって 思って書いたのではないかと思います とのこと 作者がうまく説明できることだからという理由で その文章を書いた可能性があるということ というのも 綾小路くん曰く 「ぼくはその腕を頭に思い浮かべることができなかったんです」 と ふううむ それに思いついたことひとつ 腕のある状態を ぼくらはふつうの状態としているが そのふつうの状態も 具体性にかけることがあるということなのね またまた思いついたことひとつ 事柄だけをAと捉えず 文章全体をAと捉えて 非A Aかつ非A Aでもなく非Aでもなく エトセトラ・エトセトラと考えると わたしたちは文章を書くことに過度に敏感になるのではないか 臆病になるのではないか 海 と書かれてあるだけで ほかのいっさいのものの意味まで ひきよせて考えてしまう 句点 。 だけで あらゆる意味概念の 言葉 文脈 文章をあらわすとなると 文学が とても 書くのが いや 解釈も むずかしいものになる 意味概念が Aかつ非A といったことはあるかもしれんが 現実の物事が Aかつ非Aということはないかものう しかし 解釈論としては 事物に対しても Aかつ非Aはありえる そいつは まあ 解釈が 現実の事物そのものではないからじゃが しかし 神秘主義の立場でなら たとえば イエスが 神であると同時に人間であるというのは 何十億という クリスチャンたちが (何億かな) 信じてるんだから 事物でも Aかつ非Aはあると 考えることについては 意義がある 意義がない 二〇一六年七月二日 「人間自体が一つの深淵である。」 わたしたちのこころには 自分でも覗き込むことの出来ない深い淵があってね それは他人にもぜったいに覗き込むことのできない深い淵でね 自分でも じゃなくて 自分だからこそかな その深い淵にはね 近づこうとすると 遠回りをさせて その淵から引き離そうとさせる力が自分のなかに存在してね 無理に近づこうとすると しばしば躓いてしまって まったく違った場所を淵だと思ったり ひどいときには あやまった場所で 二度と立ち上がれなくなったりするんよ もしかすると 他人の方が近くに寄れるのかもしれないけれど でもね その近さってのは ほんのわずかのものでね 淵からすれば ぜんぜん近くなってないのね ひとがいくら近いと思っても そうじゃないってわけ 人間自体が一つの深淵である 二〇一六年七月三日 「朗読会」  きょう、京阪浜大津駅近くの旧大津公会堂に行くことにした。ジェフリーさんと久しぶりにお会いする。方向音痴で、交通機関の乗り方もあまり知らないので、早めに出ることにする。三条京阪から30分くらいのところらしい。(いま、ネットで調べた。)  伊藤比呂美さん、平田俊子さん、新井高子さん、川野里子さん、田中教子さん、ジェフリー・アングルスさん、キャロル・ヘイズさんの朗読らしい。  個性的な強烈な詩の朗読だった。新井高子さんとは、何年振りかでお会いした。相変わらずチャーミングな方だった。また平田俊子さんの詩のユーモアは、ぼくにはないものだった。そして、伊藤比呂美さんは、朗読も迫力があり、人間的な魅力にもあふれた方だった。とりわけ、伊藤比呂美さんは、人間の器が違い過ぎる。巨大だ。ぼくの書いているものが弱弱しい糸で縒り合わせられたものであることが実感された。生の朗読会、行ってみるものだなって思った。  きのう、モームの『サミング・アップ』を読んでいて、それがあまりに自然に自分の胸に入ってくる文章なので驚いた。きょう、ジェフリーに、「さいきん、何を読んでいるの?」と訊かれ、即座に、「モーム。」と答えた。「あとSFと。」と付け足した。「ルイーズは、げらげら笑っちゃった。」と言った。  ううん。撚り合わせる糸を太くしなければならない。55歳。だいぶ経験もしていると思うのだけれど、どこか弱弱しいのだな。もしかしたら、経験していないのかもしれない。経験していないのかもしれない。きちんと。 二〇一六年七月四日 「優れた作家の凡庸さ」  いま、きみやから帰ってきた。これから、モームの『サミング・アップ』を読みながら寝る。さくさく読める。メモはいっさいしていない。書かれてあることに異論もなく、新しい見解も見出せなかったからである。成功した作家というものの凡庸さに驚きはしたけれど、常識がなければ小説も書けないのだから、そう驚くべきことではないのかもしれないとも思った。まあ、それでも短篇選は読むけど。むかし、長篇の『人間の絆』を読んだけれど、よかったと思うのだけれど、記憶がまったくない。読んで栄養にはなったと思う類の本だった。とにかく体調が悪い。本を読みながら床に就く。 二〇一六年七月五日 「マンリケちゃん」 ハイメ・マンリケの『優男たち』太田晋訳・青土社 編集を担当なさった郡 淳一郎さんからいただいたのですけれど いま100ページくらい読みました プイグがなさけないオカマとしてではなく こころある人間として書かれてあると思いました キャンプなオカマとしてのプイグ 鋭く 繊細で 力強いプイグ マンリケも ぼくのいちばん好きな『赤い唇』をもっとも高く評価していたので うれしかった レイナルド・アレナスのことが書かれた章を読み終わったところ アレナスの本はすべて読んでいたので アレナスがどんなものを書くか知ってはいたが 最期に自殺したことは記憶になかった その作品があまりに強烈な生命力を持っていたからか 自殺するような作家だったとは思いもしなかったのだ で 持ってる本で 一番手近なところにおいてある 『夜明け前のセレスティーノ』に手をのばして 解説を読むと自殺したことが書いてあった 読んだのは そんなに前ではなかったし ユリイカの特集号も持っているし読んだのに やっぱり生命力のずばぬけて傑出した作家だったから 自殺したことを読後に忘れさせてしまったのだろうか 47歳だった ぼくも2008年1月で47歳だ アレナスはカストロを死ぬまで憎んでいた それは死ぬまで自由を愛していたということなのだと思う 同性愛がただたんに愛の一つであること ただそれだけのことを世界に教えることのために 死ぬまでカストロを憎んでいたのだと思う ただ同性愛者というだけで 数多くの人間を拷問し虐殺したキューバ革命の指導者を マンリケの本を読んでよかった 怒りや憎しみが人を輝かせることもあるのだ 愛だけがふれることのできる変形できるものもあるかもしれないが 愛だけではけっして到達できない場所やできないこともあるのだ ロルカの章を読んだ スペインの内乱時に 銃殺されたという悲劇で有名な ジプシー歌集と同性愛を歌った詩を 読んだことがあったのだが それほどいいとは思われなかった しかしマンリケという作家の力だろうか いままでそれほどよいと思われなかったフレーズが えっこんなにこころによく響く言葉だったんだ って思わせられてしまった (といっても二箇所だけ) まあしかしこのマンリケという作家 いままで耳にしたこともなかったけれど 言葉の運び具合がじつにいい 適度に下品でそこそこ品もよい 笑 しかし訳文で一箇所 これはいやだなって訳があった 萌え って言葉が使ってあるところ キャンプなオカマってことは わかってるんだけど この言葉は 当時の文化状況を説明するときには 合ってないような気がする いまの文化状況ならわかるけれど ここんところ 異論はありそうだけど ロルカが巨根だったって へえええええええ マンリケが人から聞いた話でだけど そんなこともマンリケの本には書いてあった ぶひゃひゃ そんな話題もうれしい いい薬です いやいい本でした マンリケの本の最後はマンリケ自身のことをつづったものだった ただしそこに自分と同じ名前の人間を探すというのがあって これっていま たくさんの人がしてるけど ネットで自分の名前を検索するってやつ マンリケの場合は人名帳だったけれど 笑 ぼくと同じ名前のひともたくさんいて そのひとたちが嫌な思いをしなければいいなって思うんだけど いやな思いをしてたらごめんなさいだす あ マンリケの本に戻ります 自己分析してるところで シモーヌ・ヴェイユやリルケの引用をしてたんだけど どちらの引用も ぼくの大好きなところだったから マンリケのことを これからはマンリケちゃんと呼ぶことにするね で それらの引用は とてもいいって思うから ここに引用しとくね 「苦しんでいる人に注意を向けるという能力は 非常に稀にしか見られないばかりか きわめて困難なことでもある それはほとんど奇蹟に近い いや 奇蹟にほかならないのである」 「おそらく恐ろしいものというものはすべて その存在の深みにおいて 私たちの救いの手を求めている 救われない何かなのである」 二〇一六年七月六日 「品詞」 形容詞とか 名詞とか 動詞とか 副詞とか 助詞とか 言葉というものを一括して品詞分類しているが どれも「言葉」としての範疇で列記されている しかし おなじ「言葉」としてカテゴライズされてはいても じつは 身長とか体重とか温度とかくらいに、それぞれが異なる別の範疇のものかもしれない 二〇一六年七月七日 「詩人」  塾の空き時間に、『モーム短篇選』上巻で、「ジェーン」を読んでいた。まだ途中だけど、モームがうまいなあと思うのは、とくに女性を意地悪く描いているところが多い。ぼくのエレクトラ・コンプレックスを刺激するのかな。これ読みながら、きょうは寝る。おやすみ、グッジョブ!  いま日知庵から帰ってきた。『モーム短篇選』下巻のつづきを読もう。「詩人」の落ちは予想がついてた。予想通りだったけど、笑った。 二〇一六年七月八日 「「モーム短篇選」上巻の脱字」  むかしから学生映画とか好きだったからショート・フィルムをよく見るんだけど、演技者も無名、ぼくも無名ってのが、よいのかもしれない。ぎこちなさを以前に書いたけど、ぎこちなさというのが、ぼくには大事なポイントかな。芸術が芸術であるための一つの指標かな。ぎこちなさ。大事だと思う。クロートっぽいというのは、どこか、うさん臭いのである。とりわけ、芸術において、詩は、シロートっぽくなければ、ほんものに見えないのである。というか、ほんものではないのである。ぎこちなさ。  岩波文庫『モーム短篇選』上巻の脱字 203ページ 3行目 「好きなだけ歌っていのよ」 「い」が抜けている。 岩波文庫に間違いがあると、ほんとに嫌気がさす。やめてほしい。間違ったまま、7刷もしているのね。うううん。  読書を可能ならしめているのが、個々の書物に出てくる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」「おれ」が、異なる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」であっても構わないという約束があって、たとえば、同じ映画を見ても、見る者によって、見られた人物が異なってもよいというところにある。 二〇一六年七月九日 「ひさしぶりの梯子」  学校の帰りに、大谷良太くんちによって、そのあと、きみや、日知庵のはしご。きょうは、ビール飲みまくり。あしたは、遊びに出かけよう。 二〇一六年七月十日 「投票」 鉄橋のアザラシ バナナな忠告 疑問符な梨 さらにより疑問符なリンゴ  投票してきた。共産党候補と共産党とにである。帰りに、スーパー「ライフ」で、サラダと穴子弁当を買ってきた。 二〇一六年七月十一日 「文学経験」  20代と30代は、世界文学全集を、いろいろな出版社で出ているものを読みあさっていた。40代になり、SFの文庫本の表紙がきれいなことに気がついて、SFにのめりこんだ。ミステリーとともに。50代になって、純文学とSFの比重が同じくらいになった。 二〇一六年七月十二日 「煉獄効果なのだろうか?」 転位 一つの象徴からまた別の一つの象徴へ 夜がわたしたちを呼吸する わたしたちを吐き出し わたしたちを吸い込む 夜が呼吸するたびに わたしたちは現われ わたしたちは消滅する これは比喩ではない 夜がわたしたちを若返らせ わたしたちを年老いさせる 転位 一つの象徴からまた別の一つの象徴へ 不純物が混じると 結晶化する速度が大きくなる 純粋に近い結晶性物質であればあるほど 不純物の効果は絶大である 記憶に混じる偽の記憶 もしも事実だけの記憶というものがあるとしたら それは記憶として結晶化するには無限の時を要することになる もしかしたら 記憶として留めているものは すべて不純物である偽の記憶を含有しているものなのではないだろうか 無数の事実ではないもの 偽の記憶 偽の記憶ではあるが それは不必要なものであるかといえば そうではない むしろ 事実を想起せしめることが可能であるのは その偽の記憶が在るがためであろうから 絶対的に必要なものなのである 偽の記憶がなければ いささかの事実も明らかにされないのであろうから 虚偽がなければ記憶が想起され得ないという わたしたちのもどかしさ 自分のものであるのに どこか他人ごとめく わたしたちの記憶 しかし そうであるがゆえに わたしたちは逆に 他者の記憶を わたしたちのなかに取り込んで わたしたちの記憶のなかに織り込み わたしたちの生のよろこびを わたしたちの事実を わたしたちの真実を 横溢させることができるのである 偽の記憶 すべての営みが 与え合い 受け取り合う 真偽もまた 二〇一六年七月十三日 「顔面破裂病」 通勤電車に乗っていると 前の座席に坐ってる 女子高校生の顔が ピクピクしだした いそいで ぼくは 傘をひらいた ぼくの顔が破裂した ぼくはゆっくりと 傘をしぼませて 傘の内側にくっついてる 顔の骨や目ん玉や鼻や唇や ほっぺたの肉など みんなあつめて 顔のあったところでくっつけていった 女子高校生の顔面のピクピクは 顔面破裂病の初期症状を はっきりと示していた 彼女は おぞましいものを見るような目つきで ぼくの顔をちらちらと見ていた ぼくもむかしはそうだったんだよ ひざを持ち上げて 傘を盾にしていた向かいの席の人たちも ぼくが顔の骨と骨をくっつけているときには すでにみんなひざを下ろして 傘をしまっていた 突然 床が顔に衝突 と思ったら 両目が顔から垂れたのだった もう何度も顔から飛び出しちゃってるんで ゆるゆるになっちゃってるのね ぼくは もう一度 目ん玉を元に戻して 額の上に 顔面破裂病のシールを貼った 二〇一六年七月十四日 「さぼっている。」  7月になって、本を読まなくなったのだけれど、自分でも理由がわからない。ぼうっとしているだけの時間が多くて、無駄に過ごしている。まあ、そんなときがあってもいいかなとは思うけれど。 二〇一六年七月十五日 「「わたくし」詩しか存在していない。」 けっきょくのところ、 あらゆる工作物は自我の働きを施されたもので形成されているので、 詩もまた「わたくし」詩しか存在していないような気がします。 また、「非わたくし」性を呼び込むものが 歴史的事実であったり、科学的事実であったり 他者の個人的な履歴や言動であったりするのでしょうけれど それをも「わたくし」にするのが表現なのでは と、ぼくは思っています。 引用という安易な方法について述べているだけなのではなく 引用以外の部分の一行一句一文字のことをも、 ぼくは、「わたくし」化させているような気がしています。 でも、これは、自我をどうとるかという点で 見方が異なるということなのだと思います。 ぼくは、すべての操作に自我が働くという立場ですから そういうふうに捉えています。 「客観的」というのはあるとしても表現の外での話で 「他者」も表現の外でなら存在するかもしれないのですけれど。 どちらも、完全な「客観性」や「「他者性」を持ち得ないでしょうね。 ぼくは、そういう見方をしています。 「わたくし」について書かなくても「わたくし」になってしまう。 公的な部分というのは言語が持つ履歴のようなものだと考えています。 読み手のなかで形成されるものでもあると考えています。 あくまでも表現されたものは、表現者の自我によって形成されていると思うのです。 どんなに自分の自我を薄くしようとしても、その存在は消せないでしょう。 表現する限りにおいては。 言葉から見ると、人間は道具なのですね 言葉の意味を深めたり拡大したり変形したりするための。 あるいは、餌といってもいいでしょう。 物書きはとりわけ 言葉にとって、大事な餌であり、道具なのです。 詩人の役目は 言葉に奉仕すること ただこの一つのことだけなのですね。 できることは。 そして 言葉に奉仕することのできたものだけが ほんとうの意味での詩人なのだと思います。 そういう意味でいうと 「私を語る」ことなどどうでもよく 「詩の署名性」のことなどもどうでもいいことなのですね。 ただ、人間には自己愛があって まあ、動物のマーキングと似たものかもしれませんが 「私を語る」欲望と 「自分が書いた」という「署名性」にこだわるものなのかもしれませんが 言葉の側から見ると 「私を語る」ことが、言葉にとって有益ならば、それでよいし 「私を語る」ことが、言葉にとって有益でなければ、語ってくれるなよ ということなのだと思います。 人間の側からいえば 言葉によって、自分の人生が生き生きしたものに感じ取れればいいのですね。 読む場合でも、書く場合でも。 二〇一六年七月十六日 「全行引用による自伝詩。」  パウンドも生きているあいだは、その作品をあまり読まれなかったのかもしれない。ダン・シモンズの文章に、「生きていたときには、あの『詩篇』なんて、だれも読まなかったのに。」(『ハイペリオンの没落』上巻・第一部・14、酒井昭伸訳、215ページ)とあった。 『全行引用による自伝詩。』のために、10分の1くらいの量のルーズリーフを処理していた。どうやら、『全行引用詩・五部作』上下巻より、よいものになりそうにないので、計画中止するかもしれない。何年もかかって計画したものもあるけれど、すべて実現してきた。計画中止にするかどうかはわからないけれど、こんなの、はじめての経験だ。 二〇一六年七月十七日 「詩人」 詩人とは、言葉によって破滅されられた者のことである。 二〇一六年七月十八日 「1つのアイデア」  1つのアイデアが、ぼくを元気づけた。1つのアイデアが、ぼくの新しい全行引用詩に生き生きさを与えてくれた。引用の断片を見つめているうちに、ふと思いついたのだ。引用自体に物語を語らせることを。言葉は、ぼくを使役するだろう。言葉は、ぼくを酷使するだろう。言葉は、ぼくを破滅させるだろう。  きのうのぼくの落ち込みは、ほんとうにひどかったけど、いま5つの断片を結びつけてみて、おもしろいものになっているので、ひと安心した。きのうから、韓国アーティストの Swings の曲をずっと聴いている。まえに付き合ってた男の子にあまりに似ているので、なんか近しい感じがする、笑。  きょう一日でつくった部分、3メートルくらいの長さになった。休日なのに、ずっと部屋にこもって作業してたぼくの咽喉に、これからコンビニに行って、ビール買ってきて飲ませよう。  これが、2、30メートルになると、1冊の詩集になる。これから、サラダとビールをいただく。  短篇のゲイ・フィルムをよくチューブで見るのだが、その1作に出てた、てらゆうというアーティストの「ヤッてもないのに君が好き〜easy〜」って曲を、これまたチューブで聴いてて、なんだか癒された。彼のチューブを見てたら、トゲトゲした自分の感じがちょこっとでもなくなってくような気がした。  イマージュを形成しつつ、そのイマージュを破壊するコラージュをつくっていると、どうしてもトゲトゲしくなってしまう。ああ、これかもしれない。ぼくの恋愛がすぐに終わってしまう理由は。未成熟。55歳で。歯を磨いて、クスリをのもう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年七月十九日 「全行引用による自伝詩。」  いま、てらゆうという名前のアーティストのチューブに、彼の曲の感想を書いたのだけど、芸術のなかで、ぼくは、ユーモアがもっとも高い位置にあると思っているのだが、きょう、つくっていた全行引用詩も、ユーモアのあるものにしたいと思って、ハサミで切った紙片をセロテープで貼り付け合わせていた。  すべての紙片の順序を決めた。あとは、セロテープでくっつけていくだけ。きょうじゅうにくっつける。ふう、これで、8月に文学極道に投稿する新しい作品『全行引用による自伝詩』ができた。シリーズの第一作品だけど、たぶん、これだけで詩集1冊分あると思う。『全行引用詩・五部作』の補遺みたい。  終わった。晩ご飯を食べに行こう。セロテープも、ダイソーで買っておこう。あと、ちょっとでおしまいだから。ワードへの打ち込みは、今晩からはじめよう。恋人がいないと、こんなに作業がスムーズ。(負け惜しみ〜、笑)  これからさっき出来上がったばかりの『全行引用による自伝詩』をワードに打ち込んで行こう。理想とはかけ離れたものだけれど、現実につくれたものに限界があっても、あたりまえだものね。自分の発見していない美が、どこかにひっそりと潜んでいるかもしれないしね。まあ、レトリック例文集みたいな詩。  1メートル分くらい打ち込んだ。きちがいじみた内容だったので、お祝いに、コンビニに行って、ビールを買ってきて飲んでいる。55歳にもなって、まだ、きちがいじみたものが書けることがうれしい。  いいものが書けたときって、なんというか、過去に何度か死のうと思ったことがあったのだけれど、ああ、死ななくてよかったなって感じかな。自分がここに存在しているという実感が、ぼくにはつねにないのだけれど、その予感みたいなものは感じ取れるって感じかな。  腕の筋肉が痛くなるまでワードに打ち込んでいこうと思う。並べてみて、はじめて発見したことがある。ぼく以外のひとにも発見の喜びを知ってほしいので書き込まないけれど、ラテンアメリカ文学者同士の影響って、言葉のレトリック上にも見られるのだなと思った。ヒント書き過ぎかな。まあ、いいや。  2メートルほど入力した。しんど〜。まえにつくった『全行引用詩・五部作』上巻・下巻をどうやって入力したのか記憶がない。もとのルーズリーフを切り刻んでいないので、書き写したことになるのだが、そうとうな労力だったろうなと思う。もう二度と、できない。今回のは、書き溜めたルーズリーフの半分ほどを処分するつもりで、半分くらいしか読み直しをせずにつくったのだけれど、これは、ライフワークにするつもりだったけれど、今回でやめるかもしれない。ここ数日の苦痛はたいへんひどかった。きちがいじみた、笑けるものができたのでよかったけれど、打ち込みもたいへん。 二〇一六年七月二十日 「全行引用による自伝詩。」  きょう、ワードの打ち込み、A4で、14ページまでだった。あと半分ちょっと。これだけで、薄い詩集ができる。このあと、全行引用詩はしばらくつくらないことにした。あまりに精神的な労力が激しくて。というか、ぼくは、ふつうの詩を、ここしばらくつくっていない。つくれなくなったのかな。  きみやからの帰り道、ぼくの頭のなかは、ピンクフロイドの「あなたがここにいてほしい」がずっと鳴ってた。15年の付き合いのあった友だちとの縁が切れて1年。ぼくは、人間にではなく、芸術に、詩に、自分のほとんどの精力を傾けているのだなとあらためて思った。人間が好きだと思っていたのだけど。  たくさんのことを手にすることは、ぼくにはできないと知っていた。20代、30代、40代と、何人もの恋人たちと付き合って別れた。付き合いつづけられなかったのは、ぼくの人間に対する愛情が、詩に対する愛情より高くなかったと思える。いま、全行引用による自伝詩を書いていて、そう思った。  1つのことを得ることも、ぼくにはむずかしいことかもしれない。でも、まあ、もう、死もそんなに遠いことではなくなって、少なくとも、詩だけは、得ようと思う。  Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を聴いている。もう5回か、6回目。これくらい美しい曲のように美しい詩が、1つだけでもつくれたら、死んでもいいような気がする。ぼくは、もう、つくっているような気がするのだけれど、つくっていないような気もする。  まあ、いいや。ぼくの詩は、ぼくが生きているあいだは、ほとんど読まれないような気がする。それでよいという声も、ぼくの耳に聞こえる。おやすみ、グッジョブ!  Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を、もう10数回は聴いてる。美しい曲。すてきな恋人たちとは何人も出合ってきた。美しい曲もたくさん知っている。でも、ぼくのこころは、どこかゆがんでいるのだろう。詩をつくろうとしている。はやく死が訪れますように。  たぶん、死ぬまで、詩を書きつづけるのだろうから。これでいいや、と思うのが書けたら、死んでもよい。 二〇一六年七月二十一日 「あなたは私を愛した甘い夢」 昨日の夜でした. 悪夢だ. 悪夢から逃れる方法は, 目を覚まして真ん中に しかし睡眠を開始します. 別のブランドの新しい悪夢. 起きてまた寝て, 起きて, 寝ます. 起きて夜の外に, 沈黙や沈黙. 目に失敗して暗くなる前に適応. 目を開けて. それは落ちるようにブラックホール. なぜ, また目を閉じた. 見ないであろうタバコを吸いに素敵な夢を あなたは私を愛した甘い夢. いま見た中国人のFBフレンドのコメントの機械翻訳 これは詩だよね。 「あなたは私を愛した甘い夢.」 すばらしい言葉だ。 「みんな夢なんだよ。」 って引用を、きょう、ワードに打ち込んでた。 ぼくと付き合ってた恋人たちも みんな夢だったのだ。 ぼくも、だれかの夢であったのだろうか。 たぶんね。 そこにいて 笑って 泣いてた 夢たちの記憶が きっと ぼくに詩を書かせているのだな。 「みんな夢なんだよ。」 「みんな夢なんだよ。」 「あなたは私を愛した甘い夢.」 二〇一六年七月二十二日 「あいまいに正しい」 「あいまいに正しい」などということはない。 感覚的にはわかるが 「正確に間違う」ということはよくありそうで よく目にもしてそうな 感じがする 。 二〇一六年七月二十三日 「孤独な作業」  ワードを打ち込みながら、作品つくりって、こんなに孤独な作業だったっけと、再認識してる。うううん。  いま日知庵から帰ってきた。塾に行く途中、てらゆうくんに似た男の子が(22、3歳かな)自転車に乗ってて、かわいいなと思った。こういう系に、ぼくは弱いのだな。日知庵では、帰りがけに、かわいいなと思ってた男の子(31歳)がそばに寄ってきて、しゃべってくれたので、めっちゃうれしかった。  きょうはワード打ち込み、2ページしかしなかった。なんだかつながりがおもしろくなくって、というのもあるんだけど、だけど、ぼく的におもしろくないってだけだから、ひとが読んだらどうなのかは、わからない。思いついて数分で書いた「水面に浮かぶ果実のように」が、ぼくの代表作になってるものね。  ぼく的には、『全行引用詩・五部作』が、いちばん好きなんだけど、これが評価される見込みは、ほとんどゼロだ〜。まず、さいごまで読むひとが、ほとんどいなさそうだし、ぜったい、どこか飛ばし読みしそうだし、笑。  あかん。Swings の曲を聴いて、ジーンとして、きょうも目にした、かわいい男の子たちを思い出して、自分の若いときのことを思い出してる。夢を見たい。むかし付き合った男の子たちの。えいちゃん、えいじくん、ノブユキ、ふとしくん、ケイちゃん、名前を忘れてしまった、何人もの男の子たち。 二〇一六年七月二十四日 「書くことはたくさんある。」  いま日知庵から帰った。あしたはワード打ち込み、何時間やれるだろう。がんばろう。さいきん、本を読んでいない。『モーム短篇選』下巻の途中でストップしている。  今週は、『全行引用による自伝詩』の制作にかかりきりだったのだが、まあ、まだ数日かかるだろうけど、さっき、ふと思いついた。この引用に関するノートを付け加えようと。『The Wasteless Land.』と同じ構造だが、膨大な量のノートになると思う。『全行引用による自伝詩』の本文で、8月に文学極道に投稿したあと、その注解ノートを何か月か、場合によっては、一年くらいかけて書こうと思う。さっき冒頭の3行ほどの引用について考えた部分だけで、数ページ分くらい思いついていたので、どこでやめるか、あるいは、やめないか、自分自身にいたずらを仕掛けるような感じで書こうと思う。ぼく自体はからっぽな人間なのに、書くことはたくさんある。どしてかな。 二〇一六年七月二十五日 「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」  きょうは、ずっと横になって音楽を聴いてた。これから大谷良太くんとコーヒーを飲みに出る予定。『全行引用による自伝詩。』の入力は夜にしよう。音楽を聴いて、ゲイの短篇映画を見てたら、ハッピー・エンドって少なくて、たいていは苦い終わり方。ふつうに生きてるだけでも苦しそうなのにね、この世界。  いま、きみやから帰ってきた。大谷くんと、モスバーガー、ホルモン焼きや、日知庵のはしご。きょうは、入力ゼロ、笑。帰りに、阪急電車のなかで、途中から乗ってきた男の子がチョーかわいくって、隣に坐ってきたからドキドキだった。まあ、毎日が、奇跡なんだよなって思う。美しい、悲しい、味わい深い、この人生。  ロジャー・ゼラズニイの引用で、「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」というのがあったと思うのだけれど、これ、『引用による自伝詩。』に入れてなかった。あした入れておこうと思う。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』のさいしょのほうの作品に引用してたと思う。  この1行の引用について、えんえんと何ページにもわたって注解を書くことになると思う。好きになった子にはかならず聞くことにしているのだが、みんな、「そんなん考えたこともない。」と言うのだった。ぼくはいつも考えているので、そう聞くたびに眉をひそめるのだった。 二〇一六年七月二十六日 「作業終了」 『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。 二〇一六年七月二十七日 「蛙。」 同じ密度で拡散していく。 二〇一六年七月二十八日 「イタリア語では」 イタリア語で Hのことは アッカっていうの でも イタリア語では発音しないから ハナコさんはアナコさんになります ヒロシくんはイロシくんになります アルファベットで ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ ヘンタイと書けばエンタイと読まれ フツーよと書けばウツーよと読まれます 二〇一六年七月二十九日 「因幡っち」  韓国のアーティストのCDを買いたいと思ってアマゾンで検索しても買えないことがわかって悲しい。Hyukoh と Swings の音楽がすごく好きなんだけど、手に入らない。これって、どうして? って思うんだけど。いまいちばん美しい音楽を手に入れられないって、どうしてなの? って思う。  きょう、因幡っちとカラオケバーで朝5時まで歌った。かわいかった。人間は、やっぱ、かわいい。かわいいというのが基本だわ。 そう、かわいいというのが基本。人間は、基本、かわいいわ。 二〇一六年七月三十日 「TED」 マイミクのTEDさんの「sometimes」という詩を読みました。 sometimes we love sometimes we sad sometimes we cry sometimes sometimes life is it it is life とても胸がキュンとしたので i think so. a lot of time has us a lot of places have us a lot of events have us so we know ourselves so we love ourselves so we live together と書き込みました。 同じような喜びと 同じような悲しみを わたしたちが体験しているからでしょうね うれしい顔はうれしい顔と似ています 悲しい顔は悲しい顔と似ています 二〇一六年七月三十一日 「文学極道投稿準備完了」 『全行引用による自伝詩。』の本文の見直しが終わった。ぼくの全行引用詩のなかでは、不出来なものだ。しかし、注解をつけて、その不出来さを逆手にとろうと思う。できるかどうかはわからないが、もちろん、できると思っているから着手するのだ。全行引用による本文はきょうの夜中に文学極道に投稿する。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日/田中宏輔[2021年6月7日0時01分] 二〇一六年八月一日 「胎児」 自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?    (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳) 二〇一六年八月二日 「胎児」 神の手にこねられる粘土のように わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか? いったい、わたしを胎のなかで 数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか? また、胎のなかで 数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか? それは、わからない。 わたしは、人間ではないのかもしれない。 この胎は 人間のものではないのかもしれない。 しかし、この胎の持ち主は 自分のことを人間だと思っているようだ。 夫というものに、妻と呼ばれ 多くの他人からは、夫人と呼ばれ 親からは、娘と呼ばれ 子たちからは、母と呼ばれているのであった。 しかし、それもみな、言葉だ。 言葉とはなにか? わたしは、知らない。 この胎の持ち主もよく知らないようだ。 詩人というものらしいこの胎の持ち主は しじゅう、言葉について考えている。 まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし 言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。 この物語は 数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり 数十世紀にわたって、 わたしを胎内に宿しているものの物語であり 言葉と 神の物語である。 二〇一六年八月三日 「胎児」 時間とは、なにか? 時間とは、この胎の持ち主にとっては なにかをすることのできるもののある尺度である。 なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。 この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。 時間がない。 時間がある。 時間がより多くかかる。 時間が足りない。 時間がきた。 時間がまだある。 時間がたっぷりとある。 いったい、時間とは、なにか? わたしは知らない。 この胎の持ち主も、時間そのものについて しばしば思いをめぐらせる。 そして、なんなのだろう? と自問するのだ。 この胎の持ち主にも、わからないらしい。 それでも、時間がないと思い 時間があると思うのだ。 時間とは、なにか? 言葉にしかすぎないものなのではなかろうか? 言葉とは、なにか? わからないのだけれど。 二〇一六年八月四日 「胎児」 わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを いつ知ったのか、語ることができない。 そして、わたしのいる場所が ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。 そうして、そもそものところ わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。 そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。 意識とは、なにか? それを意識が知ることはできない、と。 なぜなら、袋の中身が 袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。 しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。 袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが たんなる言葉で考えたものの限界であり 言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。 そして、 言葉でないものについて、 この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。 そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。 言葉とは、なにか? それは、この胎の持ち主にも、わたしにもわからない。 二〇一六年八月五日 「胎児」 生きている人間のだれよりも多くのことを知っている このわたしは、まだ生まれてもいない。 無数の声を聞くことができるわたしは まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。 無数のものを見ることができるわたしは まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。 無数のものに触れてきたわたしなのだが そのわたしに手があるのかどうかもわからない。 無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし 無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが そのわたしに足があるのかどうかもわからない。 無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが そのわたしが存在するのかどうかもわからない。 そもそも、存在というものそのものが 言葉にしかすぎないかもしれないのだが。 その言葉が、なにか? それも、わたしにはわからないのだが。 二〇一六年八月六日 「胎児」 数学で扱う「点」とは その言葉自体は定義できないものである。 他の定義された言葉から 準定義される言葉である。 たとえば線と線の交点のように。 しかし、その線がなにからできているのかを 想像することができるだろうか? 胎児もまた 父と母の交点であると考えることができる。 しかし、その父と、母が、 そもそものところ、なにからできているのかを 想像することができるだろうか? 無限後退していくしかないではないか? あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。 二〇一六年八月七日 「胎児」 この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。 そして意識が朦朧としたときに ときおり閃光のようなものが その脳髄にきらめくことがあるようだ。 つねづね 意識は、意識そのものを知ることはできない、と。 なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると この胎の持ち主は考えていたのだけれど いま床に就き、意識を失う瞬間に このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。 地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。 かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる 船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。 空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて 太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと 考えたギリシア人もいたわ。 これらは、意識が、意識について すべてではないけれど ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら? わからないわ。 ああ、眠い。 書き留めておかなくてもいいかしら? 忘れないわね。 忘れないわ。 そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から 言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって つぎつぎと言葉が解けていき この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。 二〇一六年八月八日 「胎児」 わたしは、つねに逆さまになって考える。 頭が重すぎるのだろうか。 いや、身体のほうが軽すぎるのだ。 しかし、わたしは逆さまになっているというのに なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。 なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。 わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば 母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。 違うだろうか。 二〇一六年八月九日 「チェンジ・ザ・ネーム」  アンナ・カヴァンの新作が出るらしい。コンプリートに集めてる作家なので買うと思うけど、ハヤカワから出るコードウェイナー・スミス全短篇の2作目は、すべて既読なのだが、せめて、まだ訳してないのを1作でも入れておいてほしかった。バラード全短篇集など、創元は出してほしくない。読んだのばっか。  アン・レッキーのレベルの作家は、そうそういないと思うけれど、SFかミステリーにしか、ほとんど未来の文学はないと思うので、ハヤカワ、創元、国書にはがんばってほしい。 二〇一六年八月十日 「詩は個人の文学である」  ぼくは、もうぼく自身のことについてしか書かないので、ぼくの詩は、個人の文学だと思っている。そして、もう個人の文学しか、詩にはないと思っているのだが、30代から、そう思って書いているのだが、そう、もう、だれも個人には興味がないのだった。まあ、それでいいと思うけれど。 二〇一六年八月十一日 「現代詩文庫」  ぼくの知らない名前のひとのものが『現代詩文庫』にたくさん入ってる。もう何人もそうなんだけど、ずいぶん以前から、そんな文庫には意味があるとは思えなくなっていた。思潮社、どういう編集方針なんだろう? 二〇一六年八月十二日 「世界は滅びなくてよい。」  日知庵でも、かわいい男の子(31歳)と話をしていたけど、世のなかにかわいい男の子がいるかぎり、世界は滅びなくてよい。  アレナスもペソアも47歳で死んでいる。47年組なんやね。ぼくは、47歳までに、よい詩を書いたかと自分に問えば、どうだったかなと答えるしかない。その齢に応じたよいものを書いてきたと思っているから。昨年、思潮社オンデマンドから出た『全行引用詩・五部作・上巻』とその下巻がいまのところ、ぼくの最高傑作だ。  きょうは日知庵でバイトだったのだけれど、だいぶ飲んできた。バイト中にもお客さんからビールを3杯いただいて飲んだけど、バイト上がりにも1杯飲んだ。タバコ吸ったら、クスリのんで寝よう。鏡みたら、顔がゾンビだった。まあ、もともとゾンビ系の顔をしてるけれども。 二〇一六年八月十三日 「芸術」  人間が生きるためには、芸術などは必要のないものの最たるものの一つであろう。しかし、芸術がなければ、人間が人間である必要のないものの最たるものの一つである。 二〇一六年八月十四日 「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」  何年か前、ヤリタミサコさんの朗読会でお会いしたときに、平居 謙さんから、こう言われたことが思い出された。「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」 そのときのぼくの返事、「まだウンコみたいな詩を書いてますよ。」 「ウ」じゃなくて、「チ」か「マ」だったら、最高の褒め言葉だったんだろうな。 二〇一六年八月十五日 「人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのだ」  人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのに、なぜ人間以外の芸術作品を求めてやまないのか。  恋をしているときに、なぜ、ぼくは、それがうつくしい芸術作品の一つだと思わなかったのだろうか。恋が終わってからしか、そのときのことが書けないのは、ぼくが、その恋を作品として見ていなかったからだろうけれど、いまから思うと、もったいないことをしたなあと思う。うん? そうじゃないのかな? 二〇一六年八月十六日 「字数制限」  俳句や短歌が文芸作品であるのは、用いられる語の音節数の制限があるからである。道路に制限速度があるように、詩にも制限語数というのがあってもよいのかもしれない。まあ、ぼくなんかは、違反ばかりしているだろうけれども。 二〇一六年八月十七日 「偶然」 偶然が怖いけれど、偶然がないのも怖い。  いま日知庵から帰ってきた。日知庵に行くまえに、ジュンク堂で新刊本を5冊買った。合計9000円ほど。アンナ・カヴァンの『鷲の巣』、『チェンジ・ザ・ネーム』そして、彼女の短篇が入っている『居心地の悪い部屋』、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻の『アルファ・ラルファ大通り』、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』である。いったい、いつ読むのかわからないけれど、いちおう、これらを買っておいた。そういえば、カヴァンをイギリス文学の棚で探していたが見つからず、ジュンク堂の店員に訊いたら、フランス文学の棚に並べられていた。 「アンナ・カヴァンはイギリスの作家ですよ。」と言うと、「あとで確認しておきます。」という返事が返ってきた。いや〜、びっくりした。どこで、どうなって、フランス文学の棚に行ったのか知らないけれど、商品については知っとけよ、と、こころのなかでつぶやいた。  きのう、寝るまえに、『恐怖の愉しみ』上巻のさいしょの作品を読んで、つぎの作品の途中で寝てしまった。 二〇一六年八月十八日 「図書館の掟。」  けさ、つぎにぼくが上梓する思潮社オンデマンド詩集『図書館の掟。』のゲラが届いた。やらなければならないことがたくさんあるのだけれど、このゲラチェックを最優先しよう。350ページ分のゲラチェックである。何日でできるかな。  詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、書肆ブンより復刊されることになりました。すべての先駆形の詩が収載されます。(思潮社オンデマンドから既発売の『ゲイ・ポエムズ』、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』、来年発売予定の『図書館の掟。』に分載されているものすべてを含む)きょう、再刊の話をいただいたところで、いつごろ発売になるのか、わかりませんが、ぼくが30代の後半から40代の初めまでに書いた、すべての先駆形の詩を収録する予定です。『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド)とともに、ぼくのベスト詩集になると思います。電子データのない作品があって、その打ち込みで、●詩の長篇の散文があって、しかも、その●詩が全行引用詩でもあるので、本文5ページ・参考文献、超小さい字で5ページを打ち込まなければならず、めっちゃ憂鬱でしたが、あらためて自分の詩を読んで、へえ、こんなの書いてたのとか思ったりしてます。  ●詩の散文詩の全行引用詩の本文の打ち込みが終わった。参考文献のところは一日では終わりそうにないけれど、いまではもう読んだ記憶のない本がいっぱいあって、そういう興味でもって眺めながら、あしたから打ち込んで行こうと思う。しんど〜。 二〇一六年八月十九日 「全行引用詩・五部作・序詩」  澤あづささんが、ぼくの『全行引用詩・五部作・序詩』を、ご紹介くださっておられます。新作です。ぼくの望んでいた通りの理想的なレイアウトで、ご紹介くださってます。こころから感謝しております。 こちら→http://netpoetry.blog.fc2.com/blog-entry-17.html 二〇一六年八月二十日 「福武くん」  いま日知庵から帰った。日知庵では、Fくん(31歳のぽっちゃりしたかわいい男の子)と、プログレ、カルメン・マキ、ビートルズの話で盛り上がった。いっしょにカラオケしたかったなあ。こんど誘ってみよう。 二〇一六年八月二十一日 「しんどかった〜。」  やったー。あと数日は確実にかかると思っていた●詩の参考文献の打ち込みが終わった。朝の9時からこの時間までのぼくの集中力は半端じゃなかった。孤独な作業だったけれど、すべての芸術行為が孤独なのであった。ひとりでお祝いをするために、これからスーパーに行って、お酒を買ってきて飲もうっと。  ヱビスビールを飲んでいる。BGMは、2、3日まえに、Fくんにすすめた「四人囃子」の『ゴールデン・ピクニックス』である。日本でさいこうのプログレバンドだった。1曲目はとばして聴いたほうがいいと思うけど、ぼくはとばさずに聴いてる。いまかかってるのは「泳ぐなネッシー」 プログレである。  クリムゾンの『ディシプリン』にかけ替えた。脳みその半分がビールのような気がする。錯覚だろうけど。  あしたは神経科医院に。ここ数日の平均睡眠時間が極端に短い。神経症がひどくなっているのかもしれない。クスリをかえてもらう頃合いなのかもしれない。いまのんでるクスリ、さいしょはのんで数分で気絶する勢いで眠ったけれど、いまじゃ眠るまでに1時間以上かかってしまっているものね。  プリンスの『MUSICOLOGY』にかけ替えた。「CALL MY NAME」のすばらしさ。プリンスはやっぱり天才だった。  ぼくは自分の詩のタイトルに、海外アーティストの作品の曲名をつけることが多いのだけれど、「DESIRE。」の出所がようやくいまわかった。ツエッペリンだった。コーダに入ってたから、長いあいだわからなかったのだった。手放したCDだったから。これで、タイトルの出所のわからないものがなくなった。 二〇一六年八月二十二日 「きょう何年かぶりかで」  きょう何年かぶりかで痴漢された。数年まえに痴漢されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。  きょう何年かぶりかで置換された。数年まえに置換されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。 二〇一六年八月二十三日 「鈴木さんご夫妻」  いま日知庵から帰った。Sさんご夫妻と遭遇。そこで、ぼくの出自の半分が判明した。ぼくは半分、高知で、半分、兵庫だったのだ。ずっと半分、京都人だと思っていたのだけれど。丹波の笹山が京都だと思っていたのだった。55歳まで。  こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』のゲラチェックばかりで、本が読めていない。きょうは寝るまえに、なにか読もう。ぼくは詩をつくるために生まれてきたんじゃなくて、人生を楽しむために生まれてきたのだ。人間との出合いが、いちばん楽しいけれど、読書は2番目に楽しい。あ、2番目は、お酒かも、笑。  チューブでよい曲を聴くために Swings の曲をクリックしたら、いきなり不愉快なCMが出てきて、ああ、人生もそうだけど、ほんと、しょうがないなと思った。  きょう、夜の10時ころに日知庵に行くときに、河原町を歩いてた女の子が、隣の女の子に、「ちゅーしたい〜。」というと、「してもいいよ〜。」と言って、道端で歩きながら、ちゅーしてたのだけれど、20代前半の学生かな、OLかな。わからへんけど、めっちゃいいものを見たような気がした。得々〜。 二〇一六年八月二十四日 「図書館の掟。ゲラチェック終了。」  ブレッズプラスで、こんど思潮社から出る『図書館の掟。』のゲラチェックをすまして、いま郵便局から思潮社の編集長の?木真丈さん宛にお送りした。あさってに到着する予定だ。で、部屋に戻ると、さっそく、書肆ブンの大谷良太くんから、こんど復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラが。ゲラチェックの地獄はつづくのである。ワード原稿でゲラがきたので、ぼくがプリントアウトしなければならない。これからA4のコピー紙を買いに行こう。  これから書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』の電子データをプリントアウトする。240ページである。まあ、ぼくの詩集では、短いほうである。ぼくの詩集は300ページがあたりまえのようになっている。もちろん、この先に出る予定のものはみな300ページ超えてるのだ、呪。 バッジーを聴きながらプリントアウトをしている。 二〇一六年八月二十五日 「きょうも、ゲラチェック終了。」  書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラチェックをしたものを、いま郵便局から、大谷良太くんに送った。これで、しばらくは、といっても、数週間から1か月くらいは再校のゲラチェックはこないはずだ。ふう。ようやく、9月に文学極道に投稿する作品に取り組むことができる。  ぼくの『全行引用による自伝詩。』を詩集にするときには、女性の知り合いに表紙になってもらおうかなと思っている。同じタイトルで何冊も出すと思うけれど、すべての詩集において違う女性に表紙になってもらおうかなと思う。「自伝」に他人のしかも異性の画像を使うのは、世界でも、ぼくくらいだろう。  こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』の表紙デザインができあがって、送っていただいたのだけれど、ぼくの詩集のなかでも、もっともポップで大胆なものになっていると思う。ぼくのつぎのつぎのつぎの詩集はまだ表紙を決めていないけれど、人間の顔がいちばん興味深い。  そだ。こんど書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』も320ページをこえていたのだった。ゲラは240枚で済んだのだけれど。 二〇一六年八月二十六日 「ネギは、滅びればいい。」  いま日知庵から帰ってきた。きょうも、来られた方と楽しくお話しできたし、おいしいお酒も飲めて、うれしい。ネギは、滅びればいいと思っているけれども。 二〇一六年八月二十七日 「あれはゲラじゃなくって、」  イーオンで中華弁当を、セブイレで麦茶を買ってきた。きのう、新しい『全行引用による自伝詩。』の引用をだいたい決めた。きょう、塾にいくまえに完璧に選んでおくつもりだ。打ち込みが地獄になるほどの引用量なのだが、いつものことだ。がんばる。  ブレッズプラスでルーズリーフを眺めていたら、8月に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』に、ぜひ追加したいものがあったので、これから投稿した作品を書き改めようと思う。きょうは、そのあと、髭を剃って、頭の毛を刈って、お風呂に入って塾に行こう。  物がいつ物でなくなるのだろうか?(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)  けっきょく、ワードいじってたら、こんな時間に。ヒゲを剃ったり、頭の毛を刈ったりできなかった。しかも、ワード直しが不完全に終わらせなければならなかったし。これからお風呂に。それから塾に。  いま日知庵から帰った。帰ってFB見たら、元アイドルの方から友だち承認がきてて、びっくり。ぼくとアイドルのつながりなんて、まえに付き合ってた青年が作曲家で、アイドルの曲をつくってたくらいだから、なんでかなと、はて〜。でも、もちろん、承認した。なんのつながりなんだろう。おもしろ〜い。  その方のページにとんで、お顔を見たら、おかわいいので、二度目のびっくり。なんのつながりかは、まったく不明。でも、天然のかわいらしさをそなえてらっしゃる方みたいで、よかった。人間の世界って、おもしろいね。どこで、どうつながるのか、まったくわからない。  きょう、大谷良太くんに、「ゲラ直し、届いた?」って訊くと、「届きましたよ。でも、あれはゲラじゃなくて、まだワード原稿の段階ですよ。」と言われて、なるほどと思った。そっか。ゲラは、出来上がりまえのものを言うんだね。というところで、詩集を出して20年以上になるが、まだ知識不足だった。  あしたはビアガーデンだ。あしたで夏休みが終わった感じがある。月曜から、文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード原稿の打ち込みをする。膨大な量なので、何年かかるかわからないけれど、やることにした。1000枚以上のルーズリーフ、100分の1は打ち込みたい。 二〇一六年八月二十八日 「天罰」  もうちょっとで持ってるCDを買うところだった。デヴィッド・ボウイ、けっこう揃えていたのだ。ひさしぶりに、『Station To Station』が聴きたくなって。アルバム的には、『ダイヤモンドの犬』がいちばん好きかな。やっぱ、プログレ系になってしまう。  いま、Hyukoh のCDを買った。15000円だった。2014年の秋に出た新品を保管していたものらしい。もうしばらくCDは買わないでおこう。2BICのも、さっき2枚買った。ああ、Amazon なんかなければいいのに〜。あ、そしたら自分の詩集も売れないか、笑。うううん。  Hyukoh のCDは、しょっちゅうチェックしていたから買えたのだけれど。届いたって、どうせ数日で飽きちゃうんだろうな。部屋にあるCDの棚を見て、ふと、そう思った。まあ、いいか。  Hykoh もう1枚、CDを出してたみたいで、そちらも買った。それも15000円した。もうね、ファンだからね。仕方ないよね。ぼくはね、もうね、バカだからね〜、ああ、Amazon なんかなくなればいいのに。いや、なくなったら、さっきも書いたけど、自分の詩集が売れない。ふにゃ〜。  Hyukoh さいしょに買ったのはアルバムで、つぎに買ったのは、アルバムに先だって発売されたEPらしくって、2曲ダブルらしい。まあ、いいけどね。CD、4枚で、合計 33600円以上もした。まあ、本だって、過去に、1冊 50000円くらいの買っちゃったことがあるけどね。ううん。  でも、まあ、いいや。欲しかったものだから。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!  あ、さいしょに買ったのが、アルバムだったけど、それは2015年に出たものらしい。あとで買ったのが EPで、2014年に出たものらしい。ぼくのツイート、5つか、6つまえの情報が間違ってた。まあ、2つとも手に入ったから、いいんだけどね。あ、クスリのまなきゃ。二度目のおやすみ。  あ、ぼくの出身中学の弥栄中学が廃校になってたことを、きょう知った。よい思い出は、悪い思い出よりはるかに少ないけど、というのは、運動のできないデブだったからで、めっちゃいじめられっ子だったから、殴られたり蹴られたりばかりしていた思い出があって、ああ、でも、廃校か。ちょっとさびしい。  高校に入って柔道部に入ったけど、中学では理科部だった。高校に入ってから身長が伸びたけど、中学では前から数えたほうがはやかったくらいの身長だった。で、デブだったので、いじめっ子たちの標的だったのだ。思いっきり空中両足蹴りをされたことがある。ぼくがサッカーで動きがすごく鈍かったとき。  神さまは、みんな、ごらんになっておられるので、連中には天罰がくだってると思うけれど、ぼく自体は、彼らに天罰がくだることは願っていない。天罰がくだるのは神さまが設定された宇宙の摂理であたりまえのことだからである。  2年まえに、ぼくにLGBT差別したアメリカ人の男が、昨年、アメリカに帰って心筋梗塞で亡くなった。まあ、こういうのって、天罰なんかじゃないのかな。神さまは、みんなごらんになっておられるのだ。おもしろいことに、この男自体がゲイだったのだ。ぼくはオープンリーのゲイだから、差別したのだろうけど。  いま、きみや主催のビアガーデンから帰ってきた。おなかいっぱい。じつはビアガーデンに行くまえに、森崎さんとごいっしょに、アイリッシュ・バーで、ビールを飲んでいた。どんだけヒマジンやねん、という感じ。  あしたから、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』をワードに打ち込んでいくけど、きょうのうちに、打ち込む順番を決めておこう。けっきょく、語の選択と配列しかないのだ。言語表現には。  ネットで曲数とか調べたら、きのう買った Hyokuoh のCD、2枚ともEPみたいで、どちらも、6曲ずつの収録作らしい。到着したら、正確にわかるけれど、まだ到着していないので、ネットでの情報だけだから、わからないけれど。  基本的には、天才的な書き手のものしか引用していないので、ルーズリーフを並べ直しているだけで、脳機能が励起されているような気がする。日本人の詩人や作家の文章では脳機能が励起されないのは、単なるぼくの好みだけではないようなものがあるような気がする。ぼく自体が日本人的ではないのかもね。 二〇一六年八月二十九日 「こころのない子ども。こころのない親。」  こころのない子ども。こころのない親。こころのない教師。こころのない生徒。こころのない医師。こころのない患者。こころのない上司。こころのない部下。こころのない男の子。こころのない女の子。こころのない男の子でもあり女の子でもある子。こころのない男の子でもなく女の子でもない子。楽な世界かもしれない。こころがあると面倒だものね。でも、面倒だから、ひとは工夫する。こころがあると痛いものね。でも、痛いから、痛さから逃れる工夫をする。こころがあると、こころが折れる。でも、こころが折れるから、折れたこころを癒してくれるものを求めるのだ。  もう順番を決めた。あとは打ち込むだけ。この打ち込み予定のペースだと、『全行引用による自伝詩。』の文学極道の詩投稿欄への投稿には、確実に10年以上はかかりそう。まあ、いいや。  Fくんのツイートを見て、自分もカップ麺が食べたくなったのだけれど、やめておこう。寝るまえの読書は、なし。ルーズリーフを眺めながら、よりよい順番になるかどうか考えながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!  あかん。欲望には忠実なぼくやった。これからセブイレに行って、カップ麺を買ってきて食べようっと。まだクスリのんでなくて、よかった。 大盛の天ぷらそばを食べた。  FB見てたら、ある詩人が「えらくなって自作解説したい」と書いていて、びっくりした。詩人って「えらくなる」ことのできるものなのかしら? ぼくなら、ぜったい、えらくなりたくないけどなあ。そんなん思うてるひと、詩人とちゃうやん。と思ってしまった。こわいなあ。詩でえらくなるという考え方。  詩なんて、ただの言葉遊びで、せいぜい、ものごとを見るときのフィルターになるくらいで、詩を書いたからって、それで、えらくなったり、逆に、えらくならなかったりするものなんかじゃないと思うんだけどなあ。ぼくと同じくらいの齢の詩人だったけど、ほんと、しょうもないひとやなあと思った。  ぼくの詩歴について嘘っぱちを書いてる者が、「ネット詩の歴史」というタイトルのHPをつくっている。調べもせずに、間違った知識で書いていたのだ。こんな者の書いた「ネット詩の歴史」なんてHPには嘘がいっぱいなんじゃないか。嘘をばらまくなよ。間違った知識というか、思い込みかな。しかし、調べもせずに、ひとの詩歴をでっちあげるっていうのは、どういう神経しているのだろう。そして、それをネット上の詩投稿掲示板に書き込んでいたのだ。だれでも見れるところに嘘を書き込む神経って、なに? 二〇一六年八月三十日 「きょうはずっと雨だった。」  きょうはずっと雨だった。塾が休みなので、部屋にいた。外に出たのは、コンビニに2回行ったくらいかな。きょうは酒も飲まず、タバコも吸わず、禁欲的な一日だった。ワードの打ち込みがA4で5ページというのが、ちょっとくやしいけれど。きょうは、はやく寝れるかな。クスリのんで寝よう。おやすみ。  けさ、4枚のCDが到着した。2枚で30000円した Hyukoh のもののほうは大したことがなかった。あとの1600円ほどのと2000円ほどの 2BiC のもののほうがよい。まあ、たいてい、そんなもの。  うわ〜。2BiC の Unforgettable を聴いてたら、涙が出てきちゃったよ〜。You are unforgettable to me. というのだ。ぼくにも、そういう子がいたのだと思うと、涙が出てきちゃった〜。  きょうも朝から、ワードA4に5ページ、打ち込んだので、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みは、きょうは、これでやめて、ちょっと休憩しよう。6時半にお風呂に入ったら、塾へ行こう。  いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。かなり、ベロンベロンである。服を着替えて、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! それにしても、夏休みは、毎日が日知庵帰りだったなあ。 二〇一六年八月三十一日 「嘔吐、愛してるよ。」  サルトルの『嘔吐』とは認識の嘔吐だと思っていたが、もしかしたら、自己嫌悪の嘔吐かもしれない。 愛してるよ。愛されていないのは知ってるけど。ブヒッ。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日/田中宏輔[2021年6月14日0時06分] 二〇一六年九月一日 「断酒」  FBで、しじゅう poke される方がいらっしゃるのだけれど、正直、返事が面倒。すてきな方なので、「poke やめて」と言えないから言わないけど。  9月のさいしょに文学極道に投稿する予定の『全行引用による自伝詩。』かなりよい出来だけど、あまりに長いので、投稿が来週か再来週になりそう。  きょうのワード打ち込みは2ページ半くらいだった。いまの状態で、A4で15ページ。あしたは、フルに休みだから、できたら、あしたじゅうに、新しい『全行引用による自伝詩。』を完成させたい。まあ、無理でも、来週か再来週には完成させて、文学極道の詩投稿掲示板に投稿したいと思っている。  これから王将に行って、それから塾へ。きょうから、しばらく断酒して、通常の生活リズムに戻すつもり。がんばろう。  いま日知庵から帰った。帰りに、いま70円均一セール中のおでんを、5つ、セブイレで買った。お汁大目に入れてよと言うのが恥ずかしかったから、言わなかったら、お汁、ほとんどなくって、ひいたわ。お茶といっしょにいただく。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年九月二日 「天国・地獄百科」  塾から帰ってきて、届いていた郵便物を見ると、ホルヘ・ルイス・ボルヘス&アドルフ・ビオイ=カサーレスの『天国・地獄百科』が入っていた。先日、ぼくの全行引用詩に体裁がそっくりと言われて、Amazon ですぐに買ったものだったけれど、体裁がまったく違っていた。花緒というお名前のおひとだが、はたして、ぼくに嘘をつく理由がどこにあったのかしら?  あしたには、文学極道の詩投稿掲示板に、新しい『全行引用による自伝詩。』を投稿できるように、一生懸命にワード入力しよう。あしたは一日オフだから、なんとか、あしたじゅうには……。あとルーズリーフ16枚にわたって書き込んだもののなかから選んだものを打ち込めばいいだけ。今夜も寝るまでやろう。 二〇一六年九月三日 「あしたから学校の授業がはじまる。」  来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』の下準備が終わった。きょうじゅうに出来上がりそうだ。あとはコピペだけだものね。マクドナルドでダブルフィッシュを食べてこようっと。  あしたから学校の授業がはじまる。心臓バクバク、ドキドキである。なんちゅう気の弱い先生だろう。まあ、いまから顔をこわばらせても仕方ない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝よう。  4時に目が覚めたので、きのう、文学極道に投稿した新しい『全行引用による自伝詩。』のチェックをしていた。7カ所に、誤字があった。すべて直しておいた。2回チェックしたので、だいじょうぶだと思う。きのうも、寝るまえにチェックしたときの誤字を含めて、7カ所だよ。まあ、長い作品だしね。 二〇一六年九月四日 「きょうは言えた」  きょうは、2カ月ぶりの学校の授業。がんばらなくっちゃ。コンビニに行って、おでんと、お茶を買ってこようかな。いま、セブイレでは、おでんが70円。これが朝ご飯だ。コンビニに行くと、おでんは、しらたき4つ、大根6つ、玉子4つしか残っていなかった。売れているんですねと言うと、鍋をもってきて買う人もいはりましたよとのこと。ぼくは、しらたき2つ、大根2つ、玉子1個を注文した。お汁を多めに入れてくださいと言った。このあいだ言えなかったから。麦茶と。  これからお風呂に。それから学校に。ちょっと早めに行って、教科書読んでいようっと。 ブリンの『知性化戦争』の上巻を読んでいる。  きみの名前は?(デイヴィッド・ブリン『知性化戦争』下巻・第四部・54、酒井昭伸訳、99ページ・7行目) 二〇一六年九月五日 「詩の日めくり、完成。」  また4時起きで、コンビニでおでんと、おにぎりを買って食べた。さすがに、おでん8つは、おなかに重い。おにぎりは1つだけ。7時くらいまで、横になって休んでいよう。それが終わったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。 腕の痛みがすごいので、作品つくりはやめて、横になっていた。  やった〜。きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』が完成した。さいしょの方の日付けのところで、びっくりされると思うけれど、ぼくの『詩の日めくり』のなかでも、かなりよい出来のものだと思う。お祝いに、セブイレでも行こう、笑。  じっしつ、2時間でコピペは終わったんだけど、『詩の日めくり』は下準備に時間がかかる。まあ、そんなこと書けば、『全行引用による自伝詩。』も半端ない時間を費やして書いてるもんなあ。まあ、作品の出来と、かかる時間とは、なんの関係もないけど。思いついて数分で書いたものでもいいものはいい。  きのうは、分厚い本を2冊、飛ばし読みして読んだけど、けさは、一文字一文字ていねいに、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻を読んでいた。すでに読んだことのある短篇だけど。まだ途中だけど、冒頭の「クラウン・タウンの死婦人」ってタイトルのもの。スミスの文章にはまったく無駄がない。  自分へのお祝いに、酒断ちをやめて、日知庵に行こう。えいちゃんの顔を見て、ほっこりしよう。酒断ちは2日で終わった〜、笑。5時から行こう。  いま日知庵から帰った。きょうは、日知庵で、Fくんといっぱいしゃべれて、しあわせやった。やっぱ、いちばん、かわいい。これから、お風呂に入って寝る。おやすみ。グッジョブ! 二〇一六年九月六日 「9回のうんこ」  けさ、いい感じの夢を見て(夢自体は忘れた)目がさめた。きのう、Fくんと日知庵で楽しくしゃべることができたからやと思う。学校からの帰り道、電車に乗りながら、Fくんは、ぼくにとって、福の神かなと思っていた。  きょうは、えいちゃんと、きみやに行く約束をしてて、いまお風呂からあがったところ。きのうはビールを飲みまくって、けさ起きられるかどうか心配だったのだけれど、目覚ましが起こしてくれた。きょうも飲むんやろうなあ。ビールの飲み過ぎなのかわからないけど、きょう8回も、しっかりうんこをした。  えいちゃんと、きみやで飲んでた。帰ってきたら、メール便が届いていた。近藤洋太さんから、現代詩文庫231「近藤洋太 詩集」を送っていただいた。一読して、言語を虐待するタイプの書き手ではないことがわかる。用いられている語彙も難解なものはなさそうだ。あしたから通勤のときに読もう。  いまさっき、9回目のうんこをした。しっかりしたうんこだった。どうして、きょうに限って、こんなに、うんこが出るのか、理由は、わからないけれど、なにか精神状態と関係があるのかもしれない。 きょう、2回目の洗濯をしているのだが、干す場所がないことに気がついた。 二〇一六年九月七日 「そこにも、ここにも、田中がいる。」 豊のなかにも、田中がいる。 理のなかにも、田中がいる。 囀りのなかにも、田中がいる。 種のなかにも、田中がいる。 束縛のなかにも、田中がいる。 お重のなかにも、田中がいる。 東のなかにも、田中がいる。 軸のなかにも、田中がいる。 竹輪のなかにも、田中がいる。 甲虫のなかにも、田中がいる。 二〇一六年九月八日 「警報解除」 これから学校へ。警報解除で授業あり。  いま学校から帰ってきた。これからお風呂に入って、塾へ。帰りに、日知庵によろうかな。きょうが、いちばん忙しい日。あした休みだけど。土曜には学校がある。連休がないのだ。今年度は、それがつらい。連休でないと、疲れがとれない年齢になってしまったのだ。 二〇一六年九月九日 「きみやの串カツデイ」  さっき、きみやから帰った。えいちゃんといっしょ。また、佐竹くんと、佐竹くんの弟子ふたりといっしょに。きょうは、きみやさん、串カツデイやった。ぼくは、えび串2尾とネギ串を食べた。佐竹くんの弟子ふたりのはっちゃけぶりが、かわいかった。えいちゃんは、途中で席をはずしてたけど、笑。 二〇一六年九月十日 「きみの思い出。思い出のきみ。」  自分自身がこの世からすぐにいなくなってしまうからか、この世からすぐにいなくなってしまわないものに興味を魅かれる。音楽、文学、美術、映画、舞台。まあ、現実の人生がおもしろいと云えばおもしろいというのもあるけれど。 きみの思い出。 思い出のきみ。  きょうは、夜に日知庵に行く。Fくんもくるっていうから、めっちゃ楽しみ。それまで、来月に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』を、ワードに打ち込んでいよう。  いま打ち込んでいる『全行引用による自伝詩。』が素晴らしすぎて、驚いている。今月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿した『全行引用による自伝詩。』が飛び抜けて素晴らしい出来だったのに、それを確実に超えているのだ。ぼくはきっと天才に違いない。  来月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。脳機能があまりにも励起され過ぎたため、それを鎮めるために、お散歩に出ることにした。フフンフン。  いま日知庵から帰ってきた。Fくんと、ずっといっしょ。しあわせやった〜。こんなに幸せなことは、さいきんなかった。きょうは、Fくんの思い出といっしょに寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年九月十一日 「キーツ詩集」  きょう、日知庵に行くまえに、ジュンク堂書店で、岩波文庫からキーツの詩集が出ているのを知ったのだった。原文で全詩集をもっているのだけれど、書店で岩波文庫の詩集を読んでいて、数ページ目で、えっ、と思う訳に出くわしたのだった。現代語と古語が入り混じっている感じがした。どちらかに統一すべきだったのでは、と思う。  キーツの詩集、岩波文庫だから、買うと思うけれど、訳をもっときっちり訳する人に訳してほしいなと思った。パウンドの詩集がそのうち、岩波文庫に入ると思うけれど、訳者は、新倉俊一さんで、お願いします。 二〇一六年九月十二日 「20億の針」  近藤洋太さんの「自己欺瞞の構造」を読んだ。小山俊一という一知識人の思索の跡を追ったものだった。こころ動かされるのだが、そこにも自己欺瞞がないわけではないことを知ってしまうと、世界は嘘だらけであたりまえかと腑に落ちる部分もある。これから晩ご飯を買いに行く。食欲も自己欺瞞的かな、笑。  けっきょく、イーオンに行って、カレーうどん(大)510円を食べてきた。この時間に、ゲーム機のあるところに子どもの姿がちらほら。保護者はいなさそうだった。危なくないんかいなと思う、他人の子どものことながら。さて、これからふたたび、ワードの打ち込みをする。  きのうジュンク堂で、ハル・クレメントの『20億の針』を10ページほど読んで、おもしろいなあと思ってたところで、店員のゴホンゴホンという声がしたので、本を本棚に戻した。続篇の『一千億の針』との二冊合わせの以前のカヴァーがよかったのだけれど、Amazon で探そうかな。 二〇一六年九月十三日 「魂についての覚書」  魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。 二〇一六年九月十四日 「久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から引用。」  集英社のラテンアメリカ文学全集がすばらしくて、なかでも、フエンテス、サバト、カブレラ=インファンテ、コルターサルからの引用が多いぼくである。すべて学校の図書館で借りて読んだのだけど、あとで欲しいものを買った。いま本棚を見たら、1冊、買い忘れてた。リスペクトールだ。Amazon で探そう。  リスペクトール、読み直す気はほとんどゼロだが、買っておいた。奇跡的な文体だったことは憶えている。考えられる限り無機的なものだった。  きょう、久保寺 亨さんという方から、詩集『白状/断片』を送っていただいた。本文に、「ういういしい0(ゼロ)のように」という言葉があるが、ほんとに、ういういしかった。奥付を見てびっくり。ぼくより10年長く生きてらっしゃる方だった。ういういしい詩句をいくつか、みなさんにご紹介しよう。 白状しよう。 ぼくが詩を遊んでいると、 詩の方もぼくを危なっかしく遊んでいて、 遊び遊ばれ、 遊ばれ遊び、 この世に出現してこなければならない詩像があるかのように、そのように…… (久保寺 亨「白状/断片」?より引用) ざあざあ降る雨の中で、 さかさまに、じぶんの名を呼んでみようか、 ラキアラデボク、ラキアラデボク、 いったいそこで何をしている、 ざあざあ降る雨の中で一本の樹木にもたれて、 雨のざあざあ聞きながら、 この世界を全身で読み解くことができないで、 ……ラキアラデボク、ラキアラデボク…… (久保寺 亨「白状/断片」?より) 「そもそも哲学は、詩のように作ることしかできない」 とヴィトゲンシュタインは語ったが              ぼくは「哲学するようにしか詩を作ることができない」 (久保寺 亨「白状/断片」?より) ぼくがどこに行こうと、そこにはぼくがいて、 ある日の0(ゼロ)流詩人としてのぼくは、堤防の上にしゃがみこんで、 ぼくがぼくであることの深いツカレを癒そうとしているのだった。 (久保寺 亨「白状/断片」?より) 樹齢七百年の大きな樹木の前に立って、 ぼくは、七百年前の「影も形もないぼく」のことを 切々と思っていたのだった。 ああ、七百年前の「影も形もないぼく」がそこにいて、 そして、そのぼくの前に、ういういしい新芽が一本、 風に吹かれてゆれていて…… (久保寺 亨「白状/断片」XVより) 白状しよう。 「空(くう)の空(くう)、いっさいは空(くう)の空(くう)なり」 という響きに浸されつづけてきたのだった。 そして今さらのようにぼくは、 「空の空」なる断片を、 輝かしく散らしていこうとしている、 「空の空」なるただのぼくとして。 (久保寺 亨「白状/断片」XVIより)  久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から、とくに気に入った詩句を引用してみた。とても共感した。思考方法が、ぼくと似ているということもあるだろう。しかし、10歳も年上の方が、こんなに、ういういしく詩句を書いてらっしゃるのを知って、きょうは、よかった。  久保寺さんの詩句を引用してたら、40分以上たってた。クスリのんで、寝なきゃ。おやすみなさい。グッジョブ! 二〇一六年九月十五日 「そして、だれもいなくなったシリーズ」 そして、だれもいなくなった学校で、夕日がひとりでたたずんでいた。 そして、だれもいなくなったホームで、電車が自分に乗り降りしていた。 そして、だれもいなくなった公園で、ブランコが自分をキコキコ揺らしていた。 そして、だれもいなくなった屋根の上で、雲が大きく背をのばした。 そして、だれもいなくなった寝室で、雪がシンシンと降っていた。 そして、だれもいなくなった台所で、鍋がぐつぐつと煮立っていた。 そして、だれもいなくなった玄関で、プツがプツプツと笑っていた。 そして、だれもいなくなった玄関で、靴がクツクツと笑っていた。 そして、だれもいなくなった会社で、課長がひとりで踊っていた。 二〇一六年九月十六日 「怨霊」  きのう同僚の引っ越しがあって、手伝ったのだが、引っ越し先の床の上に悪魔の姿のシミがあって、そこに近づくと、鍵が置いてあった。家が山手にあって、洞窟までいくと、人食い鬼が現われて追いかけられたが、鬼の小型の者がでてきて、互いに争ったのだが、そこで場面が切り替わり、幼い男の子と女の子が玄関先で互いに咬みつき合っていたので引き離したが、お互いの腕に歯をくいこませていて全治2カ月の噛み傷だという話だった。怨霊がとりついていたのだ。という夢を見た。ドラマみたいだった。「子どもたちも戦っていたのだ。」という自分の呟き声で目が覚めた。 二〇一六年九月十七日 「ダイスをころがせ」  日知庵に行って、帰りに、岡嶋さんご夫妻とカラオケに行って、いま帰ってきた。ひさしぶりに、ストーンズの「ダイスをころがせ」を歌った。気持ちよかった。きょうから、クスリが一錠変わる。いま8錠のんでるんだけど、なかなか眠れない。きょうは、帰りに道で吐いた。くだらない人生してるなと思った。まあ、このくだらない人生が唯一の人生で、愛さなくては、情けなくなってしまう、哀しいものだけれど。 二〇一六年九月十八日 「ヤリタミサコさんの朗読会」  7時から9時まで、河原町丸太町の近くにある誠光社という書店でヤリタミサコさんの朗読会がある。恩義のある方なので、京都に来られるときには、かならずお顔を拝見することにしている。大雨だけど、きょうも行く。  朗読会から、いま帰ってきた。朗読されるヤリタミサコさんが出てくる詩集をつくるのだけれど、その表紙に、ヤリタさんのお写真が欲しかったので、きょう、バンバン写真を撮ってきた。もちろん、表紙に使ってよいという許可も得た。ヤリタさんの詩の引用も多量に含まれる詩集になる。来年か再来年かな。 二〇一六年九月十九日 「詩集の編集」  きょうは、朝から夜まで大谷良太くんちに行ってた。お昼ご飯と晩ご飯をごちそうになった。ありがとうね。ごちそうさまでした。  自分の原稿のミスに気がついたときほど、がっくりくることはない。雑誌に掲載されたときもだけど、とくに詩集にして出したあとに気づくことは。これって、自分で自分を傷つけてるんやろうか。 二〇一六年九月二十日 「大根とは」 大根とはまだ一回もやったことがない。 二〇一六年九月二十一日 「黒いアリス」  このあいだ、1枚15000円で買った Hyukoh のミニアルバム2枚が、11月に日本版が2枚ともリリースされることが決まったらしい。1枚2000円くらいかな。まあ、いいや。ちょこっとだけ意外だったけど、というのは、アーティストの意向で日本版が出ないと思ってたからなんだけどね。長いこと、出なかったからね。  そういえば、むかし古書で、絶版で、なかなか手に入らないものをバカ高い値段で買ったのだが、数か月後に復刻版が出て、びっくりしたことがあるが、復刻されるという情報を、持ってたひとが知ってたのかもしれない。しかし、トム・デミジョンの『黒いアリス』は復刻しないと思う。するかなあ。8888円で、ヤフオクで落札した記憶がある。フレデリック・ブラウンの『さあ、きちがいになりなさい』も復刻したくらいだから、『黒いアリス』も、いつか復刻するかもしれない。レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』は、どうだろう。復刻するかな。これも高かった記憶がある。まあ、このネット時代、お金を出せば、欲しいものは、ほとんど手に入る世のなかになったので、ぼくはいいと思っている。ブックオフもいいなあ。自分の知らなかった傑作に出合えるチャンスもあるからね。本との偶然の出合い。あと何年生きるのかわからないけど、ネット時代に間に合ってよかった。ちなみに、トム・デミジョンは、二人の作家の合作ペンネームで、トマス・M・ディッシュと、ジョン・T・スラデックの共作筆名。 二〇一六年九月二十二日 「実在するもの」  実在するものは関係をもつ。実在するとは関係をもつことである。関係するものは実在する。それがただ単なるひとつの概念であってさえも。 二〇一六年九月二十三日 「言葉のもつエネルギーについて」  言葉にはそれ自体にエネルギーがある。ある並べ方をすると、言葉は最も高いエネルギーを引き出される。そう考えると、全行引用詩をつくるとき、あるいは、コラージュ詩をつくるときに文章や言葉の配置が大事なことがわかる。言葉のもつポテンシャルエネルギーと運動エネルギーについて考えさせられる。 二〇一六年九月二十四日 「真に考えるとは」  詩人というものは、自分のこころの目だけで事物や事象を眺めているわけではない。自分のこころの目と同時に、事物や事象を通した目からも眺めているのである。真に考えるとは、そういうこと。 二〇一六年九月二十五日 「僥倖」  大谷良太くんちの帰りに、いま日知庵から帰った。日知庵では、東京から来られた方とお話をしてたら、その方が、ぼくの目のまえで、ぼくの詩集を Amazon で、いっきょに、3冊買ってくださって、びっくりしました。『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上下巻です。翻訳は、もとの詩人たちの詩が一等のものなので、ぼくの翻訳がそれに見合ってたらと、全行引用詩は、もとの詩人や作家たちの言葉が活かされていたらと、こころから願っています。 二〇一六年九月二十六日 「花が咲き誇る惑星」  花が咲き誇る惑星が発見された。それらのさまざまな色の花から絵具が取り出された。その絵具を混ぜ合わせると、いろいろな現象が起こることが発見された。まだ世間には公表されてはいないが、わが社の研究員のひとりが、恋人に一枚の絵を送ったところ、その絵が部屋にブリザードをもたらせたという。 二〇一六年九月二十七日 「カサ忘れ」 あ、日知庵に、カサ忘れた。どこか抜けてるぼくなのであった。 二〇一六年九月二十八日 「言葉についての覚書」  ある書物のあるページに書かれた言葉は、その書かれた場所から動かないと思われているが、じつは動いているのだ。人間の頭がほかの場所に運び、他の文章のなかに、あるいは、ほかの書物のなかに運んで、もとの文脈にある意味と重ねて見ているのである。そうして、その言葉の意味を更新し拡張しているのである。しばしば、時代の潮流によって、ある言葉の意味が狭められ、浅い薄っぺらなものとされることがある。これをぼくは、負の伝搬性と呼ぶことにする。人間にもいろいろあって、語の意味を深くし拡げる正の伝搬性をもたらせる者ばかりではないということである。 二〇一六年九月二十九日 「メモ3つ」 2016年9月16日のメモ 言葉が橋をつくり、橋を架けるのだ。 言葉が仕事をし、建物をつくるのだ。 言葉が食事をつくり、食卓を整えるのだ。 言葉が子どもを育て、大人にするのだ。 言葉が家庭をつくり、国をつくるのだ。 言葉がなければ橋は架からないし 言葉がなければ建物は築かれないし 言葉がなければ食卓は整えられないし 言葉がなければ子どもは大人になれないし 言葉がなければ国はないのだ。 2016年9月18日のメモ 言葉が種を蒔き、穀物を育て、収穫する。 言葉が網を張り、魚を捕えて、調理する。 言葉が、子どもを生み、育て、老いさせる。 言葉が、酒を飲ませ、笑い泣かせる。 言葉が、酒を飲ませ、ゲボゲボ戻させる。 言葉こそ、すべて。 2016年9月21日のメモ 詩のワークショップが 東京であって ジェフリーも、ぼくも参加していて 発泡スチロールで ジェフリーは飛行機を ぼくは潜水艦をつくってた。 ふたつとも模型のちょっと大きめのサイズで 発泡スチロールを 両面テープで貼り合せていったのだった。 ただそれだけの夢だけど。 つくってる途中で目がさめた。 ジェフリーは完成してた。 二〇一六年九月三十日 「接続」  ネットが20分前にぷつんと切れたので、電話して聞いたら、言われたとおりに、いちばん下のケーブルを一本抜いてしばらくしてつけたら、直った。ケーブルのさきが蓄電していることがあって、放電すれば直ることがありますと言われた。機械も、人間のように繊細なんやね。直ってよかった。憶えておこう。 二〇一六年九月三十一日 「人生の縮図」  寝るまえに、お風呂に入って、お風呂から出て、パンツをはいて、シャツを着て、台所の換気扇のそばでタバコを一本吸ったら、うんこがしたくなって、うんこをした。なんか、ぼくの人生の縮図をそこに見たような気がした。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日/田中宏輔[2021年6月21日0時19分] 二〇一六年十月一日 「至福の二日間」  きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。  あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。 二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」  投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」  10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある。  12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。  きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。 「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。  郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。 あるパーティの日 百人の瞳の大きな人間が選ばれ 皿を配られる そして鳥にされることになる  怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分、 ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか 水飴も売っていたかもしれない だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ こぶなのだろうか 頭の一部が妙に大きく膨らんでいた  なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。  草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc  もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田のゲイサウナの北欧館に行ったとき、階段に入れ歯が落ちてて、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女の子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。のぶちんは、ぼくが28才のときに付き合ってた男の子。名字がぼくと同じ田中だった。  収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれって、編集者の意向かな。 二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」  きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。 二〇一六年十月五日 「邪眼」 悪意を持って眺めると 相手を不幸にならしめることができる 対抗するには 淫らな思念を相手のこころに投射すること あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること って 書いてると ミスター・ジミーから電話があって 老子の うらみに対しては徳をもって報いよ といわれた まあねえ 笑 ファレル 百枚の葉が耳を澄まして ぼくを見ている グリム童話のなかで 森の木々が見てる といったような描写があったような ぼくの思考が 川のなかの鳥のくちばしのように 夜の 水草のなかを 何度もつついている そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか ファレル ぼくの思考は ぼくのからだを包む百枚の葉のように つめたくあたたかい わかくて老いているころから わかっていた 流れながらとどまり とどまりながら流れていた ファレル ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ ぼくの手は アクアポリスの背景をなぞる なぜなぞるのだろう 百枚の葉はじつは百羽の鳥だった 百羽の鳥の喉を通して ぼくは考えていたのだ ファレル きみも気がつくべきだった ぼくにやさしくつめたい どうしたのかしら そんなところで ゴミ箱が隠れてた ぼくにはわからないんだけど いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない ゴミ箱が人間の形をしてた にょきにょきと手足を生やして ぼくのところにきた ぼくは ぽこんとゴミ箱をたたいた ゴミ箱は痛がらなかった 比喩じゃない 比喩は痛くない 人間じゃないから 人間かも 人間なら蹴ったら痛いかも 蹴ってみたら ぼくはまだ人間を蹴ったことがない 人間以外のものも蹴ったことがない 蹴る勇気をもつことは大切だ 手で殴るということもしたことがない ものも殴ったことがない 勇気のない者は永遠に報われない ま それもいいかもにょ 苦痛がやってきて ぼくの鼻から入ってくる 苦痛がぼくを呼吸し やがてぼくの神経に根を下ろす 鈴の音が鳴る 財布につけた鈴の大きさに 月が鳴っている ゼノサイド 月を血まみれの両の手がつかんでいる 月の大きさの眼球が 地球の海を見つめている 海は縛りつけられた従兄弟のように 干からびていく 宇治茶もいいね 宇治茶もおいしいね ジミーちゃんと話してるとホットするよ そてつ そうでつ お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える 緊急輸出 脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません 冷凍怪獣バルゴンっていたな 人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら 冷凍ママ 冷凍パパ なんてスカンジナヴィアで売っていそう アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし ペロペロペロッチ 冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし 体以上に固い 体も硬いけどね 冷凍パパが飛行機で到着 到着うんちが便器のへりを駆け巡る 飛行うんちが飛び交う男子用トイレで マグロフレークが 未消化のレタスと千切り大根の 指令書がファックスで送られてくる そてつ そうでつ 冷凍パパと記念写真 携帯でパシャ パシャ 冷凍ママも パシャ パシャ ハロゲンヒーターのハロゲン 行くのね ゼノサイド ちゃうちゃう おとついジミーちゃんに ホロコーストの語源って知ってる って訊かれた 覚えてなかった うかつだった 焼き殺す うううん 焼き殺しつくすのね ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉 螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね 新体操のリボンのように 笑 二〇一六年十月六日 「Fくん」  いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月七日 「脱字」  カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。  アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼(はがね)砥(と)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。 二〇一六年十月八日 「られぐろ」 拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。  郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。 森の。 雪で遊ぶ人人 めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、 じつはただ一人が居るだけなのだが。 (武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」) この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと おびんずるさまになるのかもしれない この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと (武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めて引用した。) 午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる こんなときだ ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。 (武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」) なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が (武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)  とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。 https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK  ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。 二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」  頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。  文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。  毎日のように、Amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。 https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5…  11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。 マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。  11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。 https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8…  アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。 二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」  加藤(かとう)思何理(しかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。 さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。 たとえば、受難室。 逃避室。 遡行室。 転調室。 反復室。 分岐室。 寓意室。 逆説室。 あるいは蛹化室。 (加藤思何理「赤いスパナの謎」)  一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。 https://pic.twitter.com/9jxrhdMero  もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。  カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。 二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」  きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。  このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。  いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。  アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。 二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」 楽天のフリマで 高い本って どんなのがあるのかしらと思って さがしていたら 10万円のがあったのよ マニアスイゼンノマトね って思った そのときふとした疑問がわきおこった 日本語って難しい スイゼンってどう書くのかしら スイはわかる 垂れるって漢字 でもゼンはわからない 辞書で見てみたら 涎 よだれとも読むのね そういえば あったわ バナナの涎 そうよ バナナよ バナナ バナナなのよねー バナナの涎なのよ 口から垂れたわ バナナの涎が バナナ味の涎なのよ 子供のころ 朝 歯を磨いてるときに 口から垂れたのよ バナナ味の練り歯磨きの涎が 自分の傷口に溺れて アップアップ 電話のシャワーを浴びて シャワーを電話に向ける 新しい電話だと思ってたら 昔の電話だった 電話から離れる フンフン それでも返事だけはあって 離れられない ススメ学問 福澤アナ きょうカキツバタを太田神社に行って 見てきた なんてことはなかった 帰りに アイスコーヒーを飲んだ ネットカフェに寄ると 犬をつれた婦人が そばを通った よく見ると どの席にも 犬がたたずんでいた ぼくはひとりで帰った 二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」 帰ってすぐに 実母から電話があった 「きょう 母さん 死んだのよ」 「えっ」 「きょう  母さん  車にぶつかって死んでしまったのよ」 気の狂った母親の言葉を耳にしながら お茶をゴクリ 「また何度でも死にますよ」 「そうよね」 「またきっと車にぶつかりますよ」 「そうかしらね」 母親の沈黙が一分ほどつづいたので 受話器を置きました 母親も病気なのですが ぼくよりもずっと性質が悪くて 悪意のない悪意に満ちていて ぼくのこころを曇らせます まあ こんな話はどうでもよくて 郵便受けのなかには 手紙もあって 文面に 「雨なので……」 とあって からっと晴れた きょう一日のなかで 雨の日の 遠い記憶をいくつか 頭のなかで並べたりして 読書をさぼってしまいました キリンはりんごで グレープはあしかだった 二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」  いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。  いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。  ジーン・ウルフ『ナイト』? 脱字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。  ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻のつづきを読もうかな。 二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」  きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。 二〇一六年十月十六日 「キッス」  青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。  あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。 二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」  きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。  きみやに寄る前にジュンク堂の詩集のコーナーで、いろいろな詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなあと思って帰ったら、Amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。  きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。  というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。  ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年ほどまえの写真です。 https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8…  ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。  そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個入ってて、サービス満点だった。 二〇一六年十月十八日 「20億の針」  ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。 二〇一六年十月十九日 「一千億の針」 『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしろくなくちゃね。 『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」 吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った 吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど 話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ むかしは電話というものがあって すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが 冷凍庫が普及するにつれて みな沈黙する間 そこに自分が入るか 相手に入ってもらうかして 沈黙にお時間をやりすごすことにして コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである 冷凍庫から出てすぐには 頭がはたらかないので コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている 吉田くんの前にコーヒーを置いて 完全解凍するのを待った 三時間ほどして 吉田くんの意識がはっきりしてから ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた アフガニスタンの青年のペニスは ユリのめしべにそっくりだった トイレで爆発 ホモフォビアの連中の仕業 スカンクのからだを けりつづける 骨が砕けて 水枕のようにやわらかくなった スカンク ヤンキー風の青年は といっても二十歳にはまだなっていない 少年は はじめてのセックスは犬とだった まじめな顔をして言う青年に唖然とする ドラッグブルーとドラッグレッドのために キッズがドクターを襲う トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年 「どうでもいいじゃないか  あいつらのことなんて  なんで  おれがこんなことをしなきゃならないんだ  それに  いくらゲイだからといって  こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし  ああ……」 その青年の意識から叙述する 犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち ゴーストの意識から叙述する ゴーストには違って見える 一枚一枚の葉っぱが人間の目に 藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に テロ トイレで爆発 すぐにニュースが流れる ハンカチが新聞になる 新聞が語る そうだ 凍結地雷が トイレのなかに仕掛けられていた 凍りついた人間犬 犬のように四つんばいになっている奴隷人間 その奴隷人間にしがみついている主人 奴隷人間の首からぶら下がったプラカード 「こいつは犬です  犬野郎です  虐げてやってください  辱めてやってください  小便を飲ませてやってください」 能の舞をする貴族の子孫 真剣の刀を振り回す九条家の御曹司 ホモフォビアのテロ攻撃 ドクター ちんぴらキッズ テロの爆発のすぐあとに 対話型ニュースペーパーで 犬奴隷が凍結地雷で 凍りついた姿で トイレの前にいるのを知る 凍りついた犬奴隷に 小便をかけるキッズたち 小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が じょじょに解凍されていく ニュースペーパーで その画像をみる青年 二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」 疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。 二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」  ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。 「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。  でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。  とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。  FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。  ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、『時のないホテル』と『REINCARNATION』。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。  チューリップのアルバムも買った。タイトルは、『Someday Somewhere』。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。  クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。  あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」  言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。  きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。 https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8…  ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。  いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。  ひさびさに、『VERY BAD POETRY』と『The World's WORST POETRY』のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月二十四日 「騙る」  ジーン・ウルフ『ナイト ?』 脱字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」  「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。  国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。  ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。  きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、Amazon で、『MISSLIM』を買った。 あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト ?』を読み終わる。  ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。  ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。  現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。 二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」  ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。 野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。  ジーン・ウルフ『ナイト ?』 誤字 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。  2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものを見た。」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。 「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。 ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。 二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」  これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。  塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。  四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、Amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。  いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一六年十月二十七日 「脱字」  ジーン・ウルフ『ナイト ?』 脱字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。 二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」  いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう。」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。  あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト ?』あともうちょっとで終わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。  竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。 二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」  森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。  いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!  毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第三巻が1冊、売れたようだ。うれしい。 https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8… 二〇一六年十月三十日 「竹田先生」  きょう日知庵で、武田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。 二〇一六年十月三十一日 「誤字」 今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!  ジーン・ウルフ『ウィザード ?』 誤字 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年十一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年6月27日14時54分] 二〇一六年十一月一日 「いやならいやって言えばいいのに。」 えっ まだ高校生なの そういえば なんだか 高校生のときに好きだった 友だちに似てる あんにゃん って呼んでた 同じ塾に通ってた あんにゃんが行ってるって聞いて あとから ぼくが入ったんだけど 高一の夏休みから高二の夏休みにかけて 昼休みには 高校を抜け出して 何人かの友だちと パチンコ屋に行って 五時間目にはよく遅刻してた あんにゃんの自転車の後ろに乗っけられて ぼくは あんにゃんの腰につかまってたんだけど ときどき腕を前にまわして そしたら 腕の内側で あんにゃんのお腹の感触を 恥ずかしいぐらいに感じちゃって 服を通してだけど 自転車がガタガタ上下するたびに あんにゃんのお腹に力が入って あんにゃんの腹筋がかたくなったことを ぼくは覚えてる ああ むかし かなわなかった夢が いまかなう あんにゃんとは なにもなくって でも 奇跡ってあるんだね あんにゃんとは なにもなかったからかな キラキラと輝いてた たまらなく好きだった あんにゃんの手は 鉄の臭いがした 体育の時間だった あんにゃんは鉄棒が得意だった 背はちっさかったけど 筋肉のかたまりだったから ぼくは逆上がりもできないデブだった あっ いまもデブだけど うん あっ でね あんにゃんは 逆上がりのできないぼくに 手を貸してくれて できるようにって いっしょうけんめい手助けしてくれてね あっ この公園には よく来るの たまに ふうん みんな そう言うけど どうかなあ ほんとに ふうん あっ あれ 見て あのオジン 蹴飛ばされてやんの 誰彼かまわず声かけまくって ひつこく迫るからだよね 相手がいやがってるの わかんないのかなあ きみのさわってもいい かたくなってきたね じかにさわっていい やっぱり 高校生だよね このかたさ ヌルヌルしてきたね どう イキそう まだ 目をつぶった顔がまたかわいいね ほんと あんにゃんにそっくり えっ 突然立ち上がって どしたの えっ えっ どしたの どこ行くの 二〇一六年十一月二日 「ぼくの詩の英訳」  友だちのジェフリー・アングルスさんが、ぼくの詩を英語に訳して紹介してくださいました。 http://queenmobs.com/2016/11/22392/  思潮社オンデマンドから出した田中宏輔の『ゲイ・ポエムズ』が、きのうあたり1冊、売れたみたいだ。うれしい。ジェフリーが一部を英訳して紹介してくださったおかげだろうと思う。ありがたい。 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%BA-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4783734070/ref=sr_1_14?s=books&ie=UTF8&qid=1478327320&sr=1-14&keywords=%E6%80%9D%E6%BD%AE%E7%A4%BE%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89… 二〇一六年十一月三日 「『フラナリー・オコナー全短篇』上巻」 『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいるのだが、おもしろくなくはないんだけれど、なんか足りない感じがする。いや、足りないんじゃなくて、読んでて共感できない部分が多いって感じかな。でもまあ、読みかけたものだから、きょうは、つづきを読んで寝よう。 二〇一六年十一月四日 「切断」  人間には男性と女性の二つの性があって、どこで人間を切断しても、男性に近いほうの切断面は女性に、女性に近いほうの切断面は男性になる。切断喫茶に行くと、テーブルのうえで指を関節ごとに切断してくれる。指と指はその切断面が男性になったり女性になったり、くるくるとテーブルのうえで回転する。 二〇一六年十一月五日 「悲鳴クレヨン。」  クレヨンにも性別年齢があって、1本1本異なる悲鳴をあげる。さまざまな色を使って絵を描くと、その絵のクレヨンから、小さな男の子の悲鳴や幼い女の子の悲鳴や声変わりしたばかりの男の子の悲鳴や成人女性の悲鳴や齢老いた男の悲鳴や齢とった女性の悲鳴が聞こえてくる。壮絶な悲鳴だ。 二〇一六年十一月六日 「『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』」  きょうは、読書が、すいすいと進んだ。読みはじめたばかりの『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』も、もうさいごから2番目の作品、デイヴィッド・I・マッスンの「旅人の憩い」のさいごのほうである。あとひとつ、ジョン・ブラナーの「思考の{ルビ谺=こだま}」を読み残すばかり。きょうの寝るまえの読書は、ジョン・ブラナーの『思考の谺(こだま)』 イギリスの作家かなと思えるほど、描写がえげつない。ああ、いま確認すると、イギリス人だった。『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』に収録されているものの前半はいかにもアメリカSFって感じだったけれど。しかも、さいしょのルイス・パジェットの「ボロゴーヴはミムジイ」って、つぎに収録されている、レイモンド・F・ジョーンズの「子どもの部屋」と、ほとんど同じような設定で(ぼくにはね)なんで同時収録したのだろうかと疑問に思えるほどに似た雰囲気の作品だった。ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み終わった。ハッピー・エンドでよかった。物語はせめてそうでないと、笑。ほっぽり出してるフラナリー・オコナーの全短篇・上巻をいま手にしてるのだが、まあ、これはほとんど救いのない物語ばかり。 二〇一六年十一月七日 「旧敵との出逢い」  とりあえず、いま、『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいる。ちょうど、半分くらいのところ、「旧敵との出逢い」という短篇。100歳を越えたおじいさんが主人公のよう。語り手は、その孫という設定。いろんなタイプの作品を書いたひとなのだとは思うし、うまいけど、厭な感じが付きまとう。厭な感じって嫌いじゃないんだけどね。というか、好きかもしれないのだけど。アンナ・カヴァンといい、P・D・ジェイムズといい、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといい、フラナリー・オコナーといい、厭な感じの作品を書くのは、女性作家が多いような気がする。 二〇一六年十一月八日 「死の鳥」  ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』2篇目を読んで、クズだと判断して、本を破って、クズ入れに捨てた。こんなことするの久しぶり。それくらい質が低い短篇集だった。何読もうかな。『フラナリー・オコナー全短篇』下巻にしよう。 二〇一六年十一月九日 「磔台」 ある朝 街のある四つ辻に 磔台が拵えてあった 道行く人はみな知らん顔を装っていたが それでいて 磔木の影さえ踏まないよう 用心しながら通り過ぎて行った そして ある朝 ある見知らぬ人がひとり 磔になっていた 道行く人はみな知らん顔を装っていたが それでいて 磔木の影さえ踏まないよう 用心しながら通り過ぎて行った やがて ある朝 その人が亡くなり 代わりに ぼくが磔台に上った 道行く人はみな知らん顔を装っていたが それでいて 磔木の影さえ踏まないよう 用心しながら通り過ぎて行った 二〇一六年十一月十日 「『フラナリー・オコナー全短篇』下巻」 『フラナリー・オコナー全短篇』の下巻を読んでいたのだが、黒人が出てこない作品がほとんどない。まだ差別のある時代に書かれたものだからかもしれないが、それにしても黒人の言及が多い。逆にいえば、モチーフにそれ以外のものを扱うことができなかったのかもしれない。 二〇一六年十一月十一日 「死刑制度に反対する人たちに対する死刑制度賛成論者たちに提言。」 犯罪者を遺族たちに殺させるというもの 被害者がされたことと同じ方法で いわゆる 『同害報復法』ってヤツ 『仇討ち』とも言うのかな さらに犯罪抑止力にもなって 被害者の遺族たちの感情も十分考慮されていると思うけど どうかしら おまけに その様子をテレビ中継でもしたら もっと犯罪抑止力になるってーの どうかしら モヒトツ オマケに 遺族たちが犯人の死体と記念撮影までするってーの どかしら 二〇一六年十一月十二日 「見ないでブリブリ事件」 これは ごく最近 シンちゃんが ぼくに話してくれた話 京極にある八千代館っていうポルノ映画館の前に 小さな公園がある 明け方近くの薄紫色の時間に その公園のベンチの上で 男が一人 ジーンズを おろしてしゃがんでいたという シンちゃんが近寄ると 丸出しのお尻を突き出して 「これ抜いて」と言ったらしい 見ると ボールペンの先がちょこっと出てたらしい すると すごくさわやかな感じのその青年は もう一度 恥ずかしそうに振り返って 「これ抜いて」って言ったらしい 抜いてやると 「見ないで」って言って そこに ブリブリ うんこをひり出したという シンちゃんが見てると また 「見ないで」って言って また ブリブリッと うんこをたれたという これを 「見ないでブリブリ事件」と名づけて ぼくは何人かの近しい友人たちに 電話で教えまくった 「見ないで」 ブリブリッ 二〇一六年十一月十三日 「39歳」 『フラナリー・オコナー全短篇」下巻を読み終わった。上巻も通して全篇、黒人問題が絡んでいた。バラエティーが豊かなのだが、狭いとも思われる、奇妙な感触だ。39歳で亡くなったというのだけれど、若くて死ぬ詩人や作家は、ぼくには卑怯な面があると思われる。才能のある時期に死んだという面でだ。 二〇一六年十一月十四日 「白い紙。」 空っぽな階段を 人の形に似せた 長方形の紙に切り目を入れてつくっただけの 白い紙が ひとの大きさの半分くらいの 一枚の白い紙が ゆっくりと降りてくるのが見えた ぼくは 机に向かって坐っていたのだけれど ドアもしまっていて 見えないはずなのだけれど なぜだか、ぼくには 階段のところも見えていて 人の形をした白い紙が 階段を降りてくるのが見えた 軽い足取りのはずだけど しっかり踏み段に足をつけて 白い紙が降りてくる ぼくは、机の上のカレンダーと 階段の人の形をした紙を同時に見てた だれでもない その日 帰りしな 駅のホームのなかで ひとの大きさの白い紙がたくさん寄って 同じ大きさの一枚の白い紙を囲んで ゆらゆらゆれているのを見た 二〇一六年十一月十五日 「名前」 ぼくは ふと 手のひらのなかの小さな声に耳を傾けた それは名前だった 名前は死んでいた なぜ そのひとときを 彼は ぼくといっしょに過ごしたいと思ったのか。 そして その疑問は 自分自身にも跳ね返ってくる。 なぜ そのひとときを ぼくは 彼といっしょに過ごしたいと思ったのか。 それが愛の行為だったのだろうか。 彼のよろこびは ぼくのよろこびのためのものではなかった。 ぼくのよろこびもまた 彼のよろこびのためのものではなかった。 彼のよろこびは 彼のためのものだったし、 ぼくのよろこびは ぼくのためのものであった。 彼は ぼくのことを愛していると言った。 ぼくはうれしかった どんなにひどい裏切られ方をするのかと 思いをめぐらせて。 二〇一六年十一月十六日 「見事な牛。」 見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく 見事な牛。 二〇一六年十一月十七日 「死んだ四角だ。」 さあ きみの手を 夏の夕べの浜辺と取り替えようね。 わたしに吹く風は きみの吐息のぬくもりに彩られて あまい眩暈だ。 きみの朝の空は四角い吐息で 窓辺にいくつも落ちていた。 死んだ四角だ。 そうやって 四角は わたしにいつだって語りかけるのだ。 おばあちゃん子だったぼくは ドレミファソラシド。 どの家の子とも遊ばせてもらえなかった。 二つの風景が一つのプレパラートの上に置かれる。 しばしば解釈の筋肉が疲労する。 二〇一六年十一月十八日 「まるで悲しむことが悪いことであるかのように」 まるで悲しむことが悪いことであるかのように πのことを調べていると ケチャップと卵がパンの上からこぼれて コーヒーめがけてダイブした ショパンの曲が流れ出した 世界一つまらないホームページという ホームページにアクセスすると 3万5540桁あたりで 7という数字がはじめて5つ並んでいるのを ジミーちゃんが見つけた あと 28万3970桁あたりと 40万1680桁あたりと 42万7740桁あたりにも 7が5つ並んでて 7が7つ並んでいるのを 45万2700桁あたりに見つけたっていう話だ ぼくはジミーちゃんを友だちにもてて たいへんうれぴーのことよ すてきなことよ この間なんて 花見小路の場外馬券売り場に行ったら もう時間が過ぎてたから 生まれてはじめて買うはずの馬券が買えなかった っていう すてきなジミーちゃん 花見小路に 造花の桜の花が飾ってあったけど すぐそばの建仁寺に突き当たったところには ほんとの桜が咲いていた という 豚汁がおいしかった 彫刻刃で削ったカツオの削り節が よくきいていた ジャンジャンバリバリ ジャンジャンバリバリ 詩に飽きたころに 小説でオジャン あれを見たまえ 二〇一六年十一月十九日 「文学ゲーム・シリーズ ギリシア神話2 『アンドロメダ』新発売!」 どうしてわたしが語意につながれて こんな違和の上に立たされているのかわからない 差異が打ち寄せる違和の上 同意義語が吹きすさび 差異の欠片が比喩となって打ちかかる きつい差異が打ち寄せるたび ぐらぐらと違和が揺れる どうしてわたしが語意につながれて こんな違和の上に立たされているのかわからない 差異が打ち寄せる違和の上 意味崩壊の前触れか 語意につながれたわたしの脳髄に 垂れ込める語彙が浸透してゆく わたしはこの違和の上で待つ わたしの正気を食らおうとする 意味の怪物を退治してくれる ひとつの文体を 二〇一六年十一月二十日 「地下鉄御池駅の駅員さんにキョトンとされた」 烏丸御池の高木神経科医院に行って 睡眠誘導剤やら精神安定剤を処方してもらって 隣のビルの一階にあるみくら薬局で薬をもらったあと いつもいく河原町のバルビル近くの焼き鳥屋にいくために 地下鉄御池駅から地下鉄東西線を使って 地下鉄三条に行こうと思って 地下鉄御池駅から切符を買って 改札を入ったんだけど べつの改札から出てしまって 自動改札機がピーって鳴って あれっと思って べつの改札口から出たと自分では思ってなくて 駅員さんに「ここはどこですか?」って きいたら キョトンとされてしまって 「すいません、ぼく、病院から出たばかりで  そこの神経科なんですけれど  ここがどこかわからないんですけれど」って言ったら 「御池駅ですよ、どこに行かれるんですか?」 って訊かれて 「あ、すいません、三条なんです  電車って、ここからじゃなかったんですよね」 「改札から改札に出られたんですよ」 ううううん。 たしかに頭がぼうっとしてた ちょっと涙がにじんでしまった 55歳で こんなんで生きてるって とても恥ずかしいことやなって思った でも 帰ってきたら とてもうれしいメッセージをいただいていて ぼくみたいな人間でも 見てくださってる方がおられるのだなって知って また涙がにじんでしまった あ 洗濯が終わった これから干して たまねぎ切って スライスにして 食べて 血糖値を下げます 二〇一六年十一月二十一日 「角の家の犬」 きょうは恋人とすれ違ってしまった さて どっちに取る? この家の子 そんな言い方しなくてもいいじゃない 頭が痛いよ ぼくが悪いの? この家が悪いの? ぼくの耳に きみの言葉が咲いた 咲いたけど 咲いたから 散る 散るけど 散ったから またいつか 違ったきみになって 咲くだろう もっときれいな もっとすてきな きみは こんな詩を いや詩じゃないな いっぱい むかし書いてたような気がする きょう ふと そんな時期のぼくに もどったのかな 角の家の犬 後ろに自分の家の壁があるときは とてもうるさく吠えるのに 公園の突き出た棒につながれたら おとなしい 二〇一六年十一月二十二日 「狂気についての引用メモ」 同じ感情がずっと持続することがないように 自我も同じ状態がずっとつづくわけではない 感情が変化するように自我も変化するのだ 同じことを考えつづけるのは狂気だけだと ショーペンハウアーだったかキルケゴールだったか だれかが書いてたような気がする むかしメモした記憶はあるのだけれど メモを整理したときにそれを捨てたみたいで だれだったかしっかりと憶えていない 狂気についての引用メモがいっさいなくなっている これは自衛のために捨てたのかもしれない そんな気持ちになったことが何度かあって そのたびに本やメモがなくなっている 安定した精神状態がほしいけれど そうなったらたぶんぼくはもう詩を書かない 書けないのだろうなあと思う 二〇一六年十一月二十三日 「シロシロとクロクロ」 天国に行きたいなあ みかんの皮を乾かして漢方薬になるはず もしだめだったら 東京ディズニー・ランドでもいいわ 千葉だけどね シロクマ・クロクマ・シロクログマ シロクログマって、パンダのこと? ゲーテは、ひとりっきりで天国にいるよりは みんなといっしょに地獄にいるほうがましだと言ってたけど 経験上、地獄はやっぱり地獄だわ シロゴマ・クロゴマ・シロクロゴマ えっ! シロクロゴマって そんなん どこで売ってるの? みんなといっしょにいても地獄だわ て いうか みんなといると地獄だわ ひとりでいても地獄だけど みんなのこと 考えるとね ディズニー・ランドでひとりっきりで はしゃいで遊んでも たしかに つまらなさそう みんなのこと 考えるとね (はしゃいでへんけど) シラユリ・クロユリ・シロクロユリ。 シロシロはユリで シロクロやったら ヘテロだわ そろそろ睡眠薬と安定剤のんで寝まちゅ プシュ 二〇一六年十一月二十四日 「立派な批評家」 明瞭に語られるべきものを曖昧に語るのが おろかな批評家であり 曖昧であるものの輪郭を 読み手が自分のこころのなかに明確に描くことができるようにするのが 立派な批評家であると わたしは思うのだが な に を に を に して 立派に批評家であると わたしは思うのだが いかがなものであろうか 二〇一六年十一月二十五日 「桜の木の下には」 京大で印刷だった キャンパスにある桜の木の下で ちょっとした花見を 桜の木の下には 吉田くんと吉田くんたちが埋まっている 桜の木の下には たくさんの吉田くんたちがうまっていて 手をつないで お遊戯してた ぼくたちは 吉田くんたちは桜の木のしたで 土のなかで盛り上がっていた 地面から 電気のコードをひいてきて 桜の木の下で コタツに入って プーカプカ しめて しめて 首に食い入るロープのきしむ音が しめて しめて 桜の木の下で ぼくたちは 吉田くんたちはポテトチップを むしゃむしゃ むしゃむしゃ 桜の木の下で ぼくたちは 吉田くんたちは ぼくたちを見下ろしながら ぎしぎしと ぎしぎしと ひしめきあっていた この際 二〇一六年十一月二十六日 「セーターの行方」 きょうはぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきました いつも行く居酒屋で 作家の先生といっしょになって 3軒の梯子をしました いつも行く居酒屋には 俳優の美木良介が女連れでいました ぼくはカウンターにすわっていたけど その後ろのテーブル席 ぼくの真後ろに坐っていて 作家の先生の奥さんがおっしゃるまで 気づかなかったのでした オーラがないわ という奥さんの言葉に ぼくも「そうですね」と言いました この居酒屋には 言語実験工房の荒木くんや湊さん Dionysosの大谷くんともきたことがあって 料理のおいしいところです で 奥さんが セーターを先生に作られたのだけれど 大きすぎたみたいで 田中さんにあげるわ とおっしゃったので いただきますと言いました 先生との話で一番印象に残っているのは 「見落としたら終わりやで」 奥さんがそのあと 「タイミングがすべてよ」 でした。 いちご大福を持って 女優の黒木 瞳さんもくるという話だけれど 彼女にはまだ会ってないけれど この居酒屋さんって ふつうの焼き鳥屋さんなんだけど 半年くらい前のとき アンドリューって名前だったかな オーストラリアから来た 日系の すっごいかわいい 20代半ばのカメラマンの青年に ひざをすりすり モーションをかけられたことがあって なんだか ぐにゃぐにゃ むにむにむに〜って 感じでした。 そんときは ぼく じつは恋人といっしょで 彼には いい返事ができなかったのだけれど こんど会ったら ぼくもひざをすりすりして チュってしちゃおうって思っています ああ 薬が効いてきた もう寝ます。 おやすみなさい みんな 大好き! 二〇一六年十一月二十七日 「小説家の先生の奥さまのお話」 デザインの専門学校で その学院の院長先生のお話で いまもこころに残っている言葉があって それは ギョッとさせるものではなくて ハッとさせるものをつくるべき っていうものだという ギョッとさせるものなんて簡単にできるわ いくらでもつくれるわ ハッとさせるものはむずかしいのよ とのことでした 先生のためにつくられたセーターが 先生にはちょっと大きめだったので 田中さん 着てくれないかしら からし色のセーターなんだけど ええ ありがとうございます 着させていただきます あらそう じゃあ こんどお店に持っていっとくわね 預けておきますから着てちょうだいね 合わないと思ったら返してくださっていいのよ いえいえ 着させていただきます 先生もお勤め人だったことがあるらしく 10年ほど広告会社でコピーを書いてらっしゃったそうで そのときのお話をうかがっていて ぼくがやめるときに あれはバブルの時代でしたね 杉山登志というコピーライターがいましてね 資生堂のコマーシャルとか手がけてた人でね その彼が自殺したことがショックでした 原因は不明でね わたしがコピーライターをやめたのはそのすぐあとです 帰ってGoogleしました ウィッキーに 「本名は、杉山 登志雄(すぎやま・としお)  テレビ草創期から数多くのテレビCMを製作し、  国内外の賞を数多く受賞。  天才の名を欲しいままにしたが、  自らのキャリアの絶頂にあった1973年12月12日、  東京都港区赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺。  享年37」 とあった さらにGoogleで検索してたら 2007年の12月に このひとのことを題材にしたテレビ番組をやってたらしくって 有名なひとだったのね 分野が違うと ぜんぜん名前がわからない はしご一軒目の居酒屋さんでのお話でした ぼくが二度の自殺未遂の話をすると 奥さまが携帯の番号を書いてくださって なにかのときには電話してちょうだい と渡してくださったのですが たぶん しないだろうなあと思いながらも はい と言いながら その電話番号に目を落として 書かれた紙を静かに受け取りました そしたら先生が わたしが死んだら この人が追悼文を書いてくれますが 田中さんが亡くなったら わたしが書きましょう とおっしゃって ぼくが ええー と言うと 奥さまが わたしも書くわ とおっしゃって またまた ええー と ぼくが言い 大声で笑うと 奥さまが わたしの追悼文は だれが書いてくれるのかしら とおっしゃって そこでぼくが 奥さまは死なれませんから というと そこでまた大笑いになって (酔ってたら  こんなことでも  笑えるのよ) で そこでチェックされて はしご二軒目の きゅうり というお店に向かったのでした 誰が変わらぬ愛など欲しがろう? (このメモ  奥さまが電話番号を書かれるときに  ちらりと見てもらったんですけれど  奥さまは  変わらない愛が  みんな欲しいんじゃないの  と  おっしゃって  ぼくは  首をかしげて  そうでしょうか  と  にやっとして笑い返しました  奥さまの目が  どことなしか  笑っているのに笑ってなかったのが妙に印象的でした  笑)  二〇一六年十一月二十八日 「gossamer くもの糸(草の葉にかかったり空中に浮遊している)」 なめくじ人間の夢を きのうとおとついの 連続二日見ました 続き物の夢を見るなんて珍しい 乾いた皮膚にはくっつかない そういう信念があった 夏なのに 冷たい夜だった さっきまで雨が降っていたのかもしれない でもいまは雲が切れていて そこに大きくてまるい白い月がドーンとあって その月の光が 路面の敷石にきらきらこぼれ落ちていた 事実 半透明のなめくじたちが 街のいたるところからにゅるにゅるじわぁーと湧き出して そこらじゅうを這い進むあいだ ぼくはその半透明のなめくじを観察した ぼくは完全にかわいていたので一瞬触れても大丈夫だったのだ なめくじたちは夜の街に 月の光を浴びてきれいに輝きながら 家々の壁や戸口に湧き出て 家から出てきた人間たち 歩いている人間たちに触れていったのだ 触れられた人間たちは たとえ、その触れられた箇所が靴でも そこから全体に すうっと半透明になってしまって なめくじ人間になっていったのだ なぜなら、彼らはみんな多少とも濡れていたからなのだった 女性のなめくじ人間も少しいた なぜかしらエプロンをした肉屋の女房だったり ベイカリーショップの女将さんだったりした なめくじ人間というのは 人間の大きさのなめくじなのだ だから時間が経つにつれて 街じゅうはなめくじ人間たちが徘徊する 恐ろしい街になっていったのだ ぼくはそれを観察していた 危ういところで 半透明のなめくじの体をかわして 逃れていたのだ 半透明になって徘徊するなめくじ人間たち ぼくは夜の街で唯一の人間だった 街並みは小説や映画に出てくる ロンドンの街並みだった 夢を見る前の日に ロボット物のSFを読んだあとで シャーロックホームズ物のパロディの本を読むことにしていたからかもしれない なめくじが、どこからきたものかはわからないけれど もう何十年も目にしていない生き物だ 二〇一六年十一月二十九日 「幽霊がいっぱい。」 マンションでは猫や犬を飼ってはいけないというので 猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて もうたいへん だって、壁や閉めた窓を素通りして やってくるのですもの うちの死んだ祖父が アルツでいろいろな部屋に行って 迷惑かけてることがあって 文句を言えないんだけど 隣の死んだ和幸ちゃんの幽霊はひどいわ。 どんなに遅くっても必ず起きてて 一晩じゅう ほたえまくるんですもの わたしが持ち帰りの仕事を夜中にやっていても 勝手に机の下からにゅ〜って顔を出すし うちの一番下の子の横に寝て 眠ってるうちの子の腕をさわりまくるし それで うちの子が夜泣きしちゃいだすし ああ もうこのマンション引っ越そうかしら あれあれ おじいちゃん 勝手に出歩いちゃダメでしょ 生きてるときでも怖がられてたのに そんな死人のような顔をして いや 死人なのかしら 幽霊って 死人なのかしら わかんないわ わかんないけど 出てかないでよ せめてこの部屋から出てかないで〜 ひぃ〜 もういや 二〇一六年十一月三十日 「速度が誤る。」 買って来た微小嵐を コップのなかに入れておいたら 仮死状態のジジイが勝手に散歩につれていきやがって おのれ ド バルザック 完全無欠の夜は調べたか ああ なにもかも ぼくが人間をやめたせいで 頭のなかの鐘が鳴りっぱなし で 興奮状態の皮膚が ぴりぴり震えがとまらないのだっちゃ よかったね 最高傑作 見事に化けて出てくる夜毎の金魚の幽霊が あ 人間やめますか ぼくの箱庭 紅はこべ 驚いたふりをして 人間やめました 手には触れるな 速度が誤る サン・テグジュペリ 二〇一六年十一月三十一日 「レンタル屋さんがつぶれたので、山ほどDVDもらってきました。」 さきに、若い子たちが 有名なものを持って行ったので ぼくは、あまりもののなかから ジャケットで 選んで、いただきました。 ラックとか 椅子とか かごとかも 持って行っていいよというので かごをいただきました。 ま、それで、DVDを運んだんだけどね。 でも、見るかなあ。 ぼくがもらったのは サンプルが多くて サンプルってなんなんだろうね。 何か忘れたけど 一枚手にとって見てたら 店員さんが それ、掘り出し物ですよって なんでって訊くと まだレンタルしちゃいけないことになってますからね だって。 ううううん。 そんなのわかんないけど ぜったい、これ、B級じゃん ってのが多くて 見たら、笑っちゃうかも。 でも、ほんとに怖かったら、やだな。 怖い系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど 怖いから、一人では見れないかも。 とぎれとぎれで見ました。 明日、はやいしね。 いろんなタイプのDVDだから いろんな感性にさらされて いい刺激になればいいんですけど。 ヒロくん 近くだったら いっしょに見れたね。 あ、店員さん 「アダルトはいらないんですか?」 「SMとかこっちにありますけど」 だって。 アダルトはもらってません。 もらってもよかったのだけれど どうせ見ないしね。 ぼくが帰ったのが 10時すぎでしたが まだいっぱいありました。 アニメは興味なかったですけれど 知らないアニメがたくさん残っていました。 でも、もうこの時間だし ラックも 椅子も たぶん、ないでしょうね。 自宅のCDケースが傷んでるのがあるので CDケースもらっておけばよかったかなあ。 でも、欲張ると ロクでもないし ラッキーだったんだから これでいいんでしょうね。 ふと 古本を買いに 遠くまででかけたのです。 そしたら 若い子が ここ、きょうで店じまいですから これ 何枚でも持って帰っていいみたいですよ って言ってくれて。 その子 ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく みんな、がばっとかごごと持って帰るのに 珍しいですね。 近くにお住まいですか。 一人暮らしですか。 とか 笑顔で訊いてくるので (魅力的な表情をした若者でした) ちょっとドキドキしましたが ときどき ぼくのこと 不思議に思って興味を持ってくれる子がいるのですが 勘違いしてしまいます。 前に 日知庵で 24才だと言ってた オーストラリア人のエリックにひざをぐいぐい押し付けられたときは うれしかったけど 困りました。 恋人といっしょにいたので。 で きょうの子も 明日はお仕事ですか とか 早いんですか とか訊いてきたので あ、もう帰らなかや って言って、逃げるようにして帰りました。 いま ぼくには、大事な恋人がいますからね。 間違いがあっちゃ、いけません、笑。 あってもいいかなあ。 ま、人間のことだもの。 あってもいいかな。 でも、怖くて帰ってきちゃった。 うん。 ひさびさに 若い子から迫られました。 違うかな。 単に かわったおっさんだから興味を示したのかな。 ま、いっか。 ああ、きょうは、バロウズ本もうれしかったし DVDもうれしかった。 クスリが効いてきたみたい。 もう寝ます。 おやしゅみ〜 エリック かわいかったなあ。 ぼくも 恋人にわからないように ひざでも、ぎゅっとつまんであげればよかったんだけど。 さすがに、ね。 恋人にばれちゃ、怖かったしね。 春の日のクマは好きですか? きょう、もらったDVDです。 とても単純な物語だったけれど 主人公たちがひじょうに魅力的だったので 最後まで見れました。 詩も 同じかな。 内容がよければ、形式がださくてもいいのかも。 いや、逆に キャシャーンのように だれがやっても、設定があんなふうにすごかったら すごい映画だっただろうからな。 詩も同じかな。 形式がすごかったら 内容なんて、どうでもよくってね。 両方、いいなんてことは ほとんど奇跡! ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年十二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年7月4日11時23分] 二〇一六年十二月一日 「不安課。」 きょうは、朝から調子が悪くて、右京区役所に行った。 なぜ、調子が悪いのか、わからなかったので、とても不安だった。 入り口に一番近いところにいた職員に、そう言うと 二階の不安課に行ってください、と言われた。 雨の日は、ひざが痛いのだけれど 階段しかなかったので、階段で二階にあがると 最初に目にしたのが、不安課の部屋のプレートだった。 振り返ると、安心課という札が部屋の入り口の上に掲げられていた。 ただ事実の通り、不安の部屋の前が安心の部屋なのか、と思った。 不安課の部屋に入ると、 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。 「不安か?」 ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。 「はい、不安です。」 繰り返し、何度も同じやり取りをしているうちに とうとうぼくは、朝に食べたものを、ぜんぶ吐いてしまった。 職員のひとが、ぼくの顔も見ずに、右手を上げて 向かいの部屋をまっすぐに指差した。 「あり・おり・はべり・いまそかり。」 「あり・おり・はべり・いまそかり。」 「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」 「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」 「ら・り・る・る・れ・れ。」 「ら・り・る・る・れ・れ。」 「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」 「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」 二〇一六年十二月二日 「栞。」  栞って、恋人の写真を使ってるひともいると思うけれど、ぼくは総体としての恋人の姿が好きってわけじゃないから、恋人の目だとか唇だとか耳だとか部分部分を栞にしている。 二〇一六年十二月三日 「年上の人間。」 若い頃は、年上の人間が、大キライだった。 齢をとっているということは、醜いと思っていた。 でも、齢をとっていても美しいひとを見ることができるようになった。 というか、だれを見ても、ものすごく精密につくられた「もの」 まさしく造物主につくられた「もの」という感じがして ホームレスのひとがバス停のベンチの上に横になっている姿を見ても 美的感動を覚えるようになった。 朔太郎が老婆が美しいだったか だんだん美しくなると書いてたかな。 むかしは、グロテスクな、ブラック・ジョークだと思ってた。 二〇一六年十二月四日 「おでん。」  きょうは、大谷良太くんちで、おでんとお酒をいただきました。ありがとうね。おいしかったよ。ごちそうさまでした。 二〇一六年十二月五日 「与謝野晶子訳・源氏物語で気に入った言葉 ベスト。」 「長いあいだ同じものであったものは悲しい目を見ます。」 この目を、状況ととるのがふつうだけれど ぼくは、ひとの目としてとっても深い味わいがあると思う。 つまり「悲しい眼球」としてね。 二〇一六年十二月六日 「平凡な一日。」  まえに付き合ってた子が部屋に遊びにきてくれた。コーヒーのんで、タバコ吸って、チューブを見てた。平凡な一日。でも、大切な一日だった。 二〇一六年十二月七日 「睡眠時間が伸びた。」 いま日知庵から帰った。学校が終わって、毎日、よく寝てる。 二〇一六年十二月八日 「モッキンバード。」  ウォルター・テヴィスの『モッキンバード』を読み終わって、ジョージ・R・R・マーティン&リサ・タトルの『翼人の掟』を読みはじめた。SFが子どもの読むものだと、ふつうの大人は思っているようだが、そうではないということを教えてくれそうな気がする。読む速度が遅くなっているけど、がんばろ。 二〇一六年十二月九日 「ゴッホは燃える手紙。」 ゴッホは燃える手紙。 二〇一六年十二月十日 「漂流。」 骨となって 教室に漂流すると 生徒たちもみな 骨格標本が腰かけるようにして 骨となって 漂着していた 巨大な蟹が教卓を這い登ってきて 口をかくかくした。 目を見開いてそれを見てたら 巨大な鮫が教室に泳いで入ってきて 口をあけた するとそこには 吉田くんの首が入っていて 目が合った 二〇一六年十二月十一日 「想像してみた。」 長靴を吐いたレモン。 二〇一六年十二月十二日 「ジキルとハイジ。」 不思議のメルモちゃんのように クスリを飲んだら ジキルがハイジになるってのは、どうよ! (不思議の国のハイジだったかしら?  あ、不思議の国のメルモちゃんだったかしら?) 大きな大きな小さい地球の イギリスにあるアルプスのパン工場でのお話よ。 ジャムジャムおじさんが作り変えてくれます。 首から上だけ〜。 首から下はイギリス紳士で 首から上は 田舎者の 山娘 ちひろちゃん似の アルプスの ぶっさいくな 少女なのよ。 プフッ。 なによ。 それ。 そのほっぺただけ、赤いのは? 病気かしら。 あたし。 こまったわ。 うんとこ、とっと どっこいしょ。 流動的に変化します。 さあ、首をとって つぎの首。 力を抜いて 流動的に変化します。 さあ、首をとって つぎの首。 力を抜いて 首のドミノ倒しよ。 いや 首を抜いて 力のダルマ落としよ。 受けは、もうひとつなのね。 プフッ。 ジミーちゃん曰く 「それは、ボキャブラリーの垂れ流しなだけや。」 ひとはコンポーズされなければならないものだと思います。 だって。 まあね。 ミューズって言われているんですもの。 薬用石鹸。 ミューウーズゥ〜。 きょうの、恋人からのメールでちゅ。 「昨日の京都は暑かったみたいですね。 今は長野県にいます。 こっちは昼でも肌寒くなってきました。 天気は良くて夕焼けがすごく綺麗でした。 これから段々と寒くなるみたいで 田中さんも風邪などひかないように気を付けて お仕事頑張って下さいね。」 でも、ほんまもんの詩はな。 コンポーズしなくてもよいものなんや。 宇宙に、はじめからあるものなんやから。 そう、マハーバーラタに書いてあるわ。 あ、背中のにきび つぶしてしもた。 詩人はみな 剽窃詩人なんや。 ド厚かましい。 厚かましいのは あつすけさんちゃう? と 言われました。 笑。 逆でも、かわいいわあ。 首から下がハイジで 首から上がジキルなの。 ひゃ〜、笑。 ちょーかわいい。 恋人にもはやく相対。 プフッ。 はやく相対。 じゃなくて はやく会いたい。 ぶへ〜 だども あじだば いっばい 詩人だぢどあえるど。 ヤリダざんどもあえるど。 アラギぐんどもあえるど。 みなどぐんどもあえるど。 もーごぢゃんどもあえるど どらごぢゃんどもあえるど。 ばぎばらざんどもあえるど。 ぐひゃひゃ。 おやすみ。 プッスーン。 シボシボシボ〜。 あいたい あいたい あいたい あいたい あ いたい あ いたい あいた い あいた い あい たい あい たい あ いた い あ いた い あ い た い あ い た い いた いあ いた いあ いい たあ いい たあ いいあ た いいあ た たいあい たいあい たいあい たいあい たあいい たあいい たあいい たあいい あたいい あたいい いいたあ いいたあ いいたあ いいたあ 二〇一六年十二月十三日 「めくれまくる人々への追伸。」 カーペットの端が、ゆっくりとめくれていくように 唇がめくれ、まぶたがめくれ、爪がめくれて指が血まみれになっていく すべてのものがめくれあがって わたしは一枚のレシートになる。 階級闘争。 契約おにぎり。 拉致餃子。 すべてのものが流れ去ったあとにも、残るものがある。 紫色の小さな花びらが4枚 ひとつひとつの細い緑色の茎の先にくっついている たくさん が ひとつ ひとつ ひとつ が たくさん の 田んぼの刈り株の跡 カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる 地面はでこぼことゆれ コンクリートの陸橋の支柱がゆっくりと地面からめくれあがる この余白に触れよ。 先生は余白を採集している。 「そして、機体はいつの日も重さに逆らい飛ぶのである。」 太郎ちゃんの耽美文藝誌「薔薇窗」18号の編集後記にあった言葉よ。 自分の重さに逆らって飛ぶのね。 ぼくは、いつもいつも、自分の重さに逆らって飛んできたような気がするの。 木が、機が、記が、気が、するの。 それで、こうして 一回性という意味を、わたしはあなたに何度も語っているのではないのだろうか? いいね。 詩人は余白を採集している。 めくれあがったコンクリートの支柱が静止する。 わたしは雲の上から降りてくる。 カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる 道徳は、わたしたちを経験する。 わたしの心臓は夜を温める。 夜は生々しい道徳となってわたしたちを経験する。 その少年の名前はふたり たぶん螺旋を描きながら空中を浮遊するケツの穴だ。 あなたの目撃には信憑性がないと幕内力士がインタヴューに答える。 めくれあがったコンクリートの陸橋がしずかに地面に足を下ろす。 帰り道 わたしは脚を引きずりながら考えていた 机の上にあった わたしの記憶にない一枚のレシート めくれそうになるぐらいに、すり足で 賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけながら、ぼくのほうに近づいくる。 ジリジリジリと韻を踏みながら そこは切符が渡されたところだと言って 賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけ踏みつけ ぼくのほうに近づいてくる。 (ここで、メモを手渡す。) 賢いひとが、長い手を昆虫の翅のように伸ばす。 その風で、ぼくの皮膚がめくれる。 ぼくの皮膚がめくれて 過去のぼくの世界が現われる。 ぼくは賢いひとの代わりのひとになって 昆虫の翅のような手を やわらかい、まるまるとした幼いぼくの頬に伸ばす。 幼いぼくの頬は引き裂かれて 冷たい土の上に 血まみれになって 横たわる。 ぼくは渡されたレシートの上に ボールペンで数字を書いている。 思いつくつくままに 思いつくつくままに 数字が並べられる。 幼いぼくの頬でできたレシートが 釘のようなボールペンの先に引き裂かれる。 血まみれの頬をした幼いぼくは 賢いひとの代わりのぼくといっしょに レシートの隅を数字で埋めていく。 レシートは血に染まってびちゃびちゃだ。 カーペットの隅がめくれる。 ゆっくりと、めくれてくる。 スツール。 金属探知機。 だれかいる。 耳をすますと聞こえる。 だれの声だろう。 いつも聞こえる声だ。 カーペットの隅がめくれる。 ゆっくりと、めくれてくる。 幼いぼくは手で顔を覆って 目をつむる。 賢いひとの代わりのぼくは その手を顔から引き剥がそうとする。 おにいちゃん 百円でいいから、ちょうだい。 二〇一六年十二月十四日 「ほんとにね。」 ささいな事柄を書きつける時間が 一日には必要だ。 二〇一六年十二月十五日 「バロウズ。」 バロウズのインタヴュー 面白い ぼくが考えてきたことと同じことをたくさん書いてて そのうちの一つ テレパシー バロウズはテレパシーって言う ぼくはずっと 同化能力と言ってきた 國文學での論考や、詩論でね で つぎのぼくの詩集 The Wasteless Land.?「舞姫」の主人公の詩人は テレパス うううん バロウズ ことしじゅうに、全部、読みたい。 二〇一六年十二月十六日 「みんな、死ぬのだと、だれが言った?」 時間を逆さに考えること。 事柄を逆さに書くこと。 理由があって結果があるのではない。 結果しかないのだ。 理由など、この世のどこにもない。 みんな、死ぬのだと、だれが言った? 二〇一六年十二月十七日 「ルーズリーフに書かない若干のメモ。」 どの作品か忘れたけど、スティーヴン・バクスターの作品に 「知的生物にとっての目標とは、情報の獲得と蓄積以外にないだろう」 とある。 またバクスターの本には 詩人はどう詠ったか──「知覚の扉が洗い清められたら、すべてが ありのまま見えるようになる、すなわち無限に」 という言葉を書いていたのだが、これってブレイク? 数行ごとに そこで電話を切る。 という言葉を入れる。 わたしは、なにかを感じる。 わたしは、なにかを感じない。 わたしは、なにかを知っている。 わたしは、なにかを知らない。 わたしは、なにかを恐れる。 わたしは、なにかを恐れない。 わたしは、なにかを見る。 わたしは、なにかを見ない。 わたしは、なにかを聞く。 わたしは、なにかを聞かない。 わたしは、なにかに触れる。 わたしは、なにかに触れない。 MILK カナン 約束の地 乳と蜜の流れる土地よ わたしの青春時代 ぼくはきみの記憶を削除する ぼくはぼくの記憶を変更し はじめて会った彼のことを新規に記憶する ところが、きみの記憶はコピーが残っていたので ジミーちゃんに指摘されて、きみのそのコピーの記憶が 間違った記憶だったことを指摘されたので まったく違う人物の記憶にしていた、きみの正しい記憶と差し替える。 急勾配、訪問、真鋳、房飾り、パスポート、爪楊枝、ギプス、踏み段、スツール 生物検査、検疫処置、沼沢地、白子、金属探知機 二〇一六年十二月十八日 「「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。」 自然は窓や扉を持たない わたしたちは自然のなかにいても 自然が語る声に耳を傾けない わたしたちは自然を前にしても 自然に目を向けない わたしたちは自然そのものに接していても 自然に触れていることに気がつかない 芸術作品は 自然とわたしたちの間に窓や扉を設ける それを開けさせ 自然の語る声に耳を傾けさせ 自然が見せてくれる姿かたちに目を向けさせ 自然そのものに触れていることに気づかせてくれる 真の芸術は 新しい自然の声を、新しい自然の姿を、新しい自然の感触を わたしたちに聞かせてくれる わたしたちに見せてくれる わたしたちに触れさせてくれる 新しい知覚の扉 新しい感覚の扉 新しい知識の扉 新しい経験の扉 これまで書いてきた「自然」という言葉を「体験」という言葉に置き換えてもよい。 「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。 二〇一六年十二月十九日 「かさぶた王子。」 どやろか、このタイトルで、なんか書けへんかな。 きょうはもう寝るかな。 そういえば、「もう寝る。」って 言い放って寝る恋人がいたなあ。 「もう寝る。」って言って くるって、むこう向いて寝るやつ。 ふうん。 なつかしいけど、なんか、さびしいなあ。 おわり。 二〇一六年十二月二十日 「TUMBLING DICE。」 この曲をはじめて耳にしたのは 中学一年のときで 女の子の部屋でだった。 いや、違う。 ぼくんちにあった。 女の子もストーンズが好きだった。 ぼくと同じ苗字の女の子だった。 大学生のときに リンダ・ロンシュタッドも この曲を歌っていて 耳が覚えてる。 中学のときに ぼくの友だちはみんな不良だったから ぼくんちにあつまって 夜中にベランダに出て みんなでぺちゃくちゃおしゃべりしてた。 そんなこと 思い出した。 日曜日にがんばったせいか、肩が痛い。 腰ではなく、きょうは肩にシップして仕事。 46だから、四十肩なのか五十肩なのか 四捨五入すると五十肩。 二〇一六年十二月二十一日 「私が知りたいのは、」 ちなみに トウェインの言葉でいちばん好きなのは 深く傷つくためには 敵と友人の協力が必要だ ──ひとりがあなたの悪口を言い、 もうひとりがそれを伝えにくる。 コクトーは そんな友だちを まっさきに切る と書いていたけれど、笑。 トウェインの言葉ですが つぎのようなものもあります。 ひねりが2回ありますね、笑。 私は人種的偏見も、階級的偏見も、宗教的偏見も持っていません。 私が知りたいのは相手が人間であるかということだけです。 それがわかれば十分なのです。 それ以上悪くなりようがないのですから。 二〇一六年十二月二十二日 「吐き気がした。」 キッスを6時間ばかりしていたら 吐き気がした 胸の奥から喉元まで 吐き気がいっきょに駆け上がってきた 彼の唇も6時間もキッスしてたら なんだか 唇には脂分もなくなって しわしわで うすい皮みたいにしなびて びっくりしちゃった キッスって 長い時間すると 唇の感触がちがってくるんだね キッスはヘタなほうが好き ぎこちないキッスが好き ヘタクソなほうがかわいい 舌先も チロチロと出すって感じのほうがいい さがしてあげる きみが好きになるもの さがしてあげる きみが信じたいもの なおレッド 傷つけることができる いくらでも ときどき捨てるから厭きないんだね みんな ジジイになれば わかるのにね 時間と場所と出来事がすべてなんだってことが すなおに言えばいいのに なおレッド 略式恋ばっか で、もうジジイなんだから はやく死ねばいいのに もうね ふうん それに 人生なんて 紙に書かれた物語にしか過ぎないのにね イエイ! 二〇一六年十二月二十三日 「まことに、しかり。」 (…)世界の広いことは個人を安心させないことになる、類がないと思っていても、それ以上な価値の備わったものが他にあることにもなるのであろうなどと思って、(…) (紫式部『源氏物語』紅梅、与謝野晶子訳) 「世界の広いことは個人を安心させないことになる」 まことに、しかりと首肯される言葉である。 二〇一六年十二月二十四日 「息。」 息の根。 息の茎。 息の葉。 息の幹。 息の草。 息の花。 息の木。 息の林。 息の森。 息の道。 息の川。 息の海。 息の空。 息の大地。 息の魚。 息の獣。 息の虫。 息の鳥。 息の城。 息の壁。 息の指。 息の手。 息の足。 息の肩。 息の胸。 息の形。 息の姿。 息の影。 息の蔭。 二〇一六年十二月二十五日 「ひさしぶりのすき焼き。」  きょうは森澤くんと、キムラですき焼きを食べた。そのあとタナカ珈琲で、BLTサンドとパフェを食べて、日知庵に行った。食べ過ぎ飲み過ぎの一日だった。 二〇一六年十二月二十六日 「田村隆一にひとこと。」 言葉がなければ ぼくたちの人生は たくさんの出来事に出合わなかったと思う。 言葉をおぼえる必要はあまり感じないけど ヌクレオチドとかアミラーゼとか、どうでもいい 言葉があったから、生き生きしていられるような気がする。 もしかしたら 生き生きとした人生が 言葉をつくったのかもね。 二〇一六年十二月二十七日 「これから、マクドナルドに。フード・ストラップ、あつめてるの。」 きのう、シンちゃんに 「おまえ、いくつじゃ〜!」 と言われましたが コレクションするのに 年齢なんて関係ないと思うわ。 「それにしても  幼稚園児のような口調はやめろ!」 と言われ はて そだったのかしら? と もう一度 「あつめてるの。」 と言って 自分の声を分析すると たしかに。 好きなものあつめるって 子どもになるんだよね〜。 なにが、あたるかな。 二〇一六年十二月二十八日 「原文。」 シェイクスピア鑑賞について。 もう十年以上もまえのことだけど アメリカ人の先生と話をしていて ちょっとひっかかったことがある。 「シェイクスピアをほんとうに知ろうと思ったら  原文で読まなきゃいけませんよ。」 はあ? という感じだった。 部分的に原文を参照したりしていたけれど 全文を原著で読んでなかったぼくだけれど すぐれた翻訳があって、それで楽しんでいるのに ほっといてくれという思いがした。 あなた、聖書は何語で読んだの? って感じだった。 まあ、そのひとだったら、アラム語やギリシア語で読んでそうだったけど。 もちろん、原文を読んだほうがいいに決まってるけれど 語学が得意ではない身にとって まずは翻訳だわな。 そういう意味で、原文主義者ではないぼくだけれど できるかぎり原文を参照できる用意はしておかなくてはならないとは思っている。 二〇一六年十二月二十九日 「死。」  ジョージ・マイケルは53歳で死んで、キャリー・フィッシャーは60歳で死んで、ええって感じ。あと2週間足らずで、56歳になるぼくだって、いつ死ぬかわかんないけど。 二〇一六年十二月三十日 「死。」 ことしは偉大なアーティストたちが亡くなった年だったのだな。 http://www.rollingstone.com/culture/lists/in-memoriam-2016-artists-entertainers-athletes-who-died-w457321/david-bowie-w457326… 二〇一六年十二月三十一日 「芸能人。」  そいえば、きのう芸能人を電車で見たのだけれど、口元に指一本をくっつけて合図してきたから、見ちゃダメなんだと思って、駅に着くまで違う方向を見ていた。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一六年十三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年7月11日1時01分] 二〇一六年十三月一日 「廃語霊。」 な〜んてね。 二〇一六年十三月二日 「こんな科目がある。」 幸福の幾何学 倫理代数学 匿名歴史学 抒情保健体育 愛憎化学 錯覚地理 電気国語 苦悩美術 翻訳家庭科 冥福物理 最善地学 誰に外国語 摩擦哲学 無為技術 戦死美術 被爆音楽 擬似工作 微塵哲学 足の指天文学 二〇一六年十三月三日 「後日談」 大失敗、かな、笑。 ネットで検索していて 『ブヴァールとペキュシェ』が品切れだったと思って 何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって 本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。 ううううん。 560円、500円、460円だから 新品の方が安かったわけね。 日知庵によって、バカしたよ〜 と言いまくり。 ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。 ひさびさのフロベール体験。 どきどき。 きょうは、これからお風呂。 あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。 で このあいだ、ヤフオクで買ったの 届いてた。 ヤケあるじゃん! ショック。 で いまネットの古書店で見たら 4200円とかになってるしな〜 思い違いするよな〜 もうな〜 足を使って調べるということも 必要なのかな。 ネット万能ではないのですね。 しみじみ。 古書は、しかし、むかしと違って ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。 古書好きにとっては、よい時代です。 こんなスカタンなことも ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。 キリッと 前向き。 二〇一六年十三月四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」 横にあった ボディー・ソープの容器の 後ろに書いてあった解説書を読んでいて ふと、ううううん これはなんやろ なんちゅう欲求やろかと思った。 読書せずにはいられない。 いや 人間は 知っていることでも 一度読んだ解説でもいいから 読んでいたい より親しくなりたいと思う動物なんやろか。 それとも、文字が読めるぞということの 自己鼓舞なのか。 自己主張なのか。 いや 無意識層のものの 欲求なのか。 そうだなあ。 無意識に手にとってしまったものね。 二〇一六年十三月五日 「エリオットの詩集」 2010年11月19日のメモ  岩波文庫のエリオットの詩「風の夜の狂想曲」を読んでいて 42ページにある最後の一行「ナイフの最後のひとひねり。」(岩崎宗治訳)の解釈が 翻訳者が解説に書いてあるものと ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。 ぼくの解釈は直解主義的なものだった。 訳者のものは、隠喩としてとったものだった。 まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど おもしろくない。 エリオットの詩は 直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。 ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。 むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど ぼくの性には合わない。 批評がやたらとりっぱなものを散見するけど なんだかなあ。 バカみたい。 二〇一六年十三月六日 「ぼくたち人間ってさ。」 もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。 知性とか感情っていうものね。 (知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから) それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。 お互いに荷物を背負ってるんだから ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。 減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。 自分でも、それは学ぶんだけど。 ひとの荷物、増やすひといるでしょ? ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの? って感じ。 そだ。 いま『源氏物語』中盤に入って めっちゃおもしろいの。 「そうなんですか。」 そうなの。 もうね。 矛盾しまくりなの。 人物描写がね、性格描写か。 しかし、『源氏物語』 こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。 物語って、型があるでしょ。 あの長い長い長さが、型を崩してるのね。 で、その型を崩させているところが 作者の制御できてないところでね。 その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。 芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって いちばん大事じゃない? いまのぼくの作風もそうで もう、計画的につくられた詩や小説なんて ぜんぜんおもしろくないもの。 よほどの名作はべつだけど。 で 『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を 一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。 で それが、ぼくには、おもしろいの。 それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。 ふつうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。 一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。 政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。 たとえば、政党のスローガンね。 でも、もともと、人間って、政治的でしょ? 職場なんて、もろそうだからね。 それは、どんな職場でも、そうだと思うの。 ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ? 「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」 でしょ? まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。 あ、話を戻すけど 芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか 減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだと思うんだけど だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。 ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。 (だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに) 芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど 見せてくれてることね そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。 フロベールの『紋切型辞典』に 文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど その閑人がいなけりゃ 人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。 世界もね。 きのう、あらちゃんと 自費出版についてディープに話したけど この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。 つぎには、きのうメモした長篇を。 エリオットに影響されたもの。 (ほんとかな。) 二〇一六年十三月七日 「あなたがここに見えないでほしい。」 とんでもない。 けさのうんこはパープルカラーの やわらかいうんこだった。 やわらかいうんこ。 やわらかい 軟らかい うんこ 便 軟らかい うんこ 軟便(なんべん) なすびにそっくりな形の 形が なすびの やわらかい うんこ 軟便 なすびにそっくりのパープルカラーが ぽちゃん と 便器に 元気に 落ちたのであった。 わしがケツもふかずに ひょいと腰を浮かして覗き込むと 水にひろがりつつある軟便も わしを見上げよったのじゃ。 そいつは水にひろがり 形をくずして 便器がパープルカラーに染まったのじゃった。 ひゃ〜 いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと 不安で不安で いっぱいになりおったのじゃったが しっかと 大量の水をもって パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。 これで不安のもとは立ち去り 「言わせてやれ!」 わしはていねいにケツをふいて 「いてっ、いててててて、いてっ。」 手も洗わず 顔も洗わず 歯も磨かず 目ヤニもとらず 耳アカもとらず 鼻クソもとらず 靴だけを履いて ステテコのまま 出かける用意をしたのじゃった。 公園に。 「いましかないんじゃない?」 クック、クック と幸せそうに笑いながら 陽気に地面を突っついておる。 なにがおかしいんじゃろう。 不思議なヤカラじゃ。 不快じゃ。 不愉快じゃ。 ワッ ワッ ワッ あわてて飛び去る鳩ども じゃが、頭が悪いのじゃろう。 すぐに舞い戻ってきよる。 ワッ ワッ ワッ 軟便 違う なんべんやっても またすぐに舞い戻ってきよる。 頭が悪いのじゃろう。 わしは疲れた。 ベンチにすわって休んでおったら マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。 なんじゃ、なんじゃと思とうったら 女の子たちが わしを囲んでけりよったんじゃ。 ひゃ〜 「いてっ、いててててて、いてっ。」 「いましかないんじゃない?」 こりゃ、かなわん と言って逃げようとしても なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが わしの息子と娘がきて わしをたすけてくれよったんじゃ。 「お父さん  机のうえで  卵たちがうるさく笑っているので  帰って  卵たちを黙らせてくれませんか。」 たしかに 机のうえでは 卵たちが クツクツ笑っておった。 そこで、わしは 原稿用紙から飛び出た卵たちに 「文字にかえれ。  文字にかえれ。  文字にかえれ。」 と呪文をかけて 卵たちが笑うのをとめたんじゃ。 わしが書く言葉は すぐに物質化しよるから もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。 しかし、クツクツ笑うのは 卵じゃなくって 靴じゃなかったっけ? とんでもない。 「いましかないんじゃない?」 「問答無用!」 そんなこと言うんだったら にゃ〜にゃ〜鳴くから 猫のことを にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は リンリンじゃなくって あ もうリンリンじゃないか でんわ、でんわ って 鳴きゃなきゃならない。 なきゃなきゃならない。 なきゃなきゃ鳴かない。 「くそー!」 原稿用紙に見つめられて わしの独り言もやみ 「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」 吉野の桜も見ごろじゃろうて。 「なんと酔狂な、お客さん」 あなたがここに見えないでほしい。 「いか。」 「いいかな?」 二〇一六年十三月八日 「このバケモノが!」 いまナウシカ、3回目。 「このバケモノが!」 「うふふふ。」 「不快がうまれたワケか。  きみは不思議なことを考えるんだな。」 「あした、みんなに会えばわかるよ。」 引用もと、『風の谷のナウシカ』 「以上ありません。」 二〇一六年十三月九日 「切断された指の記憶。」 ずいぶんむかし、TVで ルーマニアだったか、チェコだったか ヨーロッパの国の話なんだけど 第二次世界大戦が終わって でも、まだその国では 捕虜が指を切断されるっていう拷問を受けてる 映像が出てて 白黒の映像なんだけど 机の上が血まみれで たくさんの切断された指が 机の上にボロンボロン ってこと 思い出した。 十年以上前かな。 葵公園で出会った青年が 右手の親指を見せてくれたんだけど 第一関節から先がなくなっていたのね。 「気持ち悪いでしょ?」 って言うから 「べつに。」 って返事した。 工場勤務で、事故ったらしい。 これまた十年ほども、むかし、竹田駅で 両方とも足のない男の子がいて 松葉杖を両手に持っていて 風にズボンのすそがひらひらしていて なんだかとてもかわいらしくて セクシーだった。 後ろ姿なんだけどね。 顔は見ていないんだけどね。 ぎゅって、したいなって思った。 だからってわけじゃないけど 指がないのも 美しいと思った。 じっと傷口を眺めていると 彼は指を隠した。 自分から見せたくせにね。 胃や腸がない子っているのかな。 内臓がそっくりない子。 そんな子は内面から美しくて きっと、全身が金色に光り輝いてるんだろね。 脳味噌がない子もすてきだけど 目や耳や口のない子もかわいらしい。 でも、やっぱり 手足のない子が、いちばんかわいらしいと思う。 江戸川乱歩の『芋虫』とか ドルトン・トランボの『ジョニーは戦場に行った』とか 山上たつひこの『光る風』とか 手足のない青年が出てきて とってもキッチュ・キッチュだった。 あ、日活ロマンポルノに、ジョニジョニ・ネタがあってね。 第二次世界大戦で負傷したダンナが帰ってくると そのうち布団のなかで芋虫になっちゃうのね。 違ったかな、笑。 でも、映像のレベルは高かったと思うよ。 二〇一六年十三月十日 「切断された指の記憶。」 指。 指。 指。 指。 指。 二〇一六年十三月十一日 「切断された指の記憶。」 切断された指っていうと ヒロくんの話。 ヒロくんのお父さんの 年平均5、6本という話を思い出した。 それと ウィリアム・バロウズも。 バロウズは自分で指を切断しちゃったんだよね。 恋人への面当てに。 そういえば 弟の同級生が 度胸試しに、自分の指を切断したって言ってた。 なんて子かしらね。 そうだ、カフカのことも思い出される。 労働省だったか保健省だったか 労務省だったかな。 そんなとこに勤めていたカフカのことも思い出される。 労働災害ね。 きょう、これから見る予定の『薬指の標本』 労災の話ね。 嘘、笑。 でも、タイトルがいいね。 楽しみ。 あとの2枚のDVDは ちと違う傾向かもしれないけれど 怖そうだから チラ見のチェックをしてみようっと。 ニコラス・ケイジは好きな俳優。 スネーク・アイだったかな。 いい映画だった。 8ミリも。 だから、ニコちゃんの映画、ちゃんと見るかも。 あ、 晩ご飯、買ってこなきゃ。 ご飯食べながら 血みどろゲロゲロ。 って あ、 だから、寝られないのかな、笑。 ブリブリ。 さっきブックオフに行ったら サンプルで見た映画があって 2980円していたので なぜか、気分がよかった。 あのキョンシーもののタイムスリップものね。 田中玲奈のめっちゃヘタクソな演技がすごい映画でした。 最後まで見ることができなかった映画でした、笑。 二〇一六年十三月十二日 「ノイローゼ占い。」 ノイローゼにかかっている人だけで ノイローゼの原因になっていることがらを お互いに言い当て合うゲームのこと。 気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。 なぜかしら? で、言い当てた人から抜けていくというもの。 じっさい、最初に言い当てた人は 次の回から参加できないことが多い。 兵隊さんと団栗さん。 二〇一六年十三月十三日 「2010年11月12日のメモ」 読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。 二〇一六年十三月十四日 「これまた、2010年11月12日のメモ」 首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが 個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。 二〇一六年十三月十五日 「これまたまた、2010年11月12日のメモ」 書くという行為は、ひじょうに女々しい。 いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。 意味の逆転が起こっている。 男のほうが潔くないのだ。 美輪明宏の言葉が思い出される。 「わたしはいまだかつて  強い男と弱い女に出会ったことがありません。」 しかり、しかり、しかり。 ぼくも、そう思う。 あ、フロベールの『紋切型辞典』って おもしろいよ。 用語の下に 「よくわからない。」 って、たくさんあるの。 読者を楽しませてくれるよね。 ぼくも 100ページの長篇詩のなかで 「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」 って、何度も書いたけど、笑。 二〇一六年十三月十六日 「愛は、あなたを必要としている」 愛は、あなたを必要としている あなたがいなければ、愛は存続できない あなたが目を向けるところに愛はあり あなたが息をするところに愛はあり あなたが耳を傾けるところに愛はある あなたがいないと、愛は死ぬ 愛は、あなたに生き あなたとともに生きているのだ あなたがいないところに愛はない 愛は、あなたがいるところにある あなたそのものが愛だからだ 二〇一六年十三月十七日 「愛は滅ぼす」 愛は滅ぼす ぼくのなかの蔑みを 愛は滅ぼす ぼくのなかの憎しみを 愛は滅ぼす ぼくのなかの躊躇いを そうして、最後に 愛は滅ぼす きみとぼくとのあいだの隔たりを 二〇一六年十三月十八日 「きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ ?」」 きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ ?」 イマジン 1050円 ドクトル・ジバゴ ? 105円 イマジンは、買いなおし。 リマスターやから、いいかな。 でも、これ、オマケの曲がないんやね。 ふううん。 パステルナークのほうは I 持ってないんやけど ? のおわりのほうをめくったら 詩がのってて、その詩にひきつけられたから ああ、これは縁があるって思って買った。 105円だし、笑。 さいきん、105円で、いい本がいっぱい見つかって なんなんやろ、魂のチンピラこと 貧乏詩人あつすけとしては、よろこばしいかぎり。 あ その詩を引用しておきますね。 つぎの4行が目に、飛び込んできたんだわ。 ぼくといっしょなのは名のない人たち、 樹木たち、子供たち、家ごもりの人たち。 ぼくは彼らすべてに征服された。 ただそのことにのみ ぼくの勝利がある。                  (「夜明け」最終連、江川卓訳) 本文では、誤植で「だた」になっていた。 たぶん、文庫だと直ってると思うけれど。 どこかで文庫で、Iを見たような記憶がある。 そのうち、Iも買おう。 しかし なんで、イマジン むかし売ったんやろ そんなにお金に困ってたんかなあ あんまり記憶にないなあ 二〇一六年十三月十九日 「こころ」 思えば、こころとは、なんと不思議なものであろうか かつては、喜びの時であり、場所であり、出来事であった いまは、悲しみの時であり、場所であり、出来事であった。 その逆のこともあろう。 さまざまな時であり、場所であり、出来事である この、こころという不思議なもの。 二〇一六年十三月二十日 「ぼくはこころもとなかった」 ぼくはこころともなかった 二〇一六年十三月二十一日 「言葉」 ひとつの文章は まるで一個の地球だ 言葉は ひとつひとつ 読み手のこころを己れにひきよせる引力をもっている しかし、それらがただひとつの重力となって 読み手のこころを引くことにもなるのだ 二〇一六年十三月二十二日 「句点。」 彼は O型 なにごとにも さいごには句点を置かずにはいられなかった。 二〇一六年十三月二十三日 「やめる庭」 もう、や〜めたっ! って言って 庭が 庭から駆け出しちゃった。 二〇一六年十三月二十四日 「木や石や概念は、孤独ではない。」 木や石や概念は、孤独ではない。 それ自らが、考えるということがないからである。 人間は、じつに孤独だ。 もちろん、しじゅう、考える生きものだからだ。 しかも、どんなに上手く考えるコツを習得していても孤独である。 むしろ、考えれば考えるほど 考えることに習熟すればするほど、孤独になるのである。 考えるとは、ひとりになること。 他人の足で、自分が歩くわけにはいくまい。 他人の足で、自らが歩いていると称する輩は多いけれども、笑。 二〇一六年十三月二十五日 「この人間という場所」 胸の奥でとうに死んだ虫たちの啼くこの人間という場所 傘をさしてもいつも濡れてしまうこの人間という場所 われとわれが争い勝ちも負けもみんな負けになってしまうこの人間という場所 高校生のときに、 高校は自転車で通っていたんだけど 雨の日にバスに乗ってたら、 視線を感じて振り向いたら 同じ町内にいた高校の先輩が、 ぼくの顔をじっと見てた ぼくが見つめ返すと、 一瞬視線をそらして、 またすぐに ぼくの顔を見た。 今度はぼくが視線を外した。 そのときの、そのひとの、せいいっぱい真剣な眼差しが 思い出となってよみがえる。 いくつかの目とかさなり。 「夏の思い出」という、 ぼくの詩に出てくる同級生は 高校2年で、 溺れて死んじゃったので、 ぼくのなかでは 永遠にうつくしい高校生。 あの日の触れ合った手の感触。 ぼくは、ぼくの思い出を、ぼくのために思い出す。 二〇一六年十三月二十六日 「2008年6月26日のメモより」 不眠症で、きのう寝てないんですよ、という話を授業中にした翌々日 一人の生徒に 「先生、きのう、寝れた?」 って、訊れて、その前夜は寝れたので(いつもの薬に、うつ病の薬を加えて) 「寝たよ。」というと にっこり笑って 「よかった。」 って言ってくれた とてもうれしかった ごく自然にきづかってくれてるのが伝わった ごく自然に伝わるやさしさの、なんと貴重なことか。 ぼく自身を振り返る ぼくには、自然に振るまえるやさしさがない ぼくには、自然にひとにやさしくする気持ちがない ぼくにはできないことを、ごく自然にできる彼が その子のようなひとたちのことを思い出す いたね、たしかに、遠い記憶のなかにも ごく最近の記憶のなかにも この人間という時間のむごさとうつくしさ  この人間という場所のむごさとうつくしさ この人間という出来事のむごさとうつくしさ 二〇一六年十三月二十七日 「奇想コレクション」 それはたとえば、そうね、灰色の猫だと思っていたものが そうではなくて、コンクリートで作られたゴミ箱だったことに気がついて そのまわりの景色までが一変するような、そのようなことが起こるわけ 一つの現実から、もう一つ別の現実への変化なのだけれど こんなことは日常茶飯事で ただ、はっきりと認識していないだけでね はっきりと認識する方法は、意識的であるようにつとめるしかないのだけれど それって、生まれつき、そういう意識が発達しやすいようにできてる人は別だけれど そうでない人は、そうとうに訓練しないとだめみたいね ぼくなんかも、ボケボケだから、それを意識するっていうか そうして、言葉にしないと意識できないっていうか で やっぱり認識なわけで 現実をつくっているのが ということで 『舞姫』のテーマ、決まりね。 このあいだ読んだタニス・リーの短篇集には、何も得るものがなかったけれど いまも読んでいるスタージョンの短篇集には、数ページごとに こころに響く表現があって これはなんだろうなって思った。 何だろう。 現実をより実感できるものにしてくれる表現。 これまでの現実を、ちょっと違った視点から眺めさせてくれることで これまでの現実から、違った現実に、ぼくをいさせてくれる そんな感じかな。 書かれていることは、とっぴょうしもないことではなくて ごく日常的なことなのに 解釈なんだね それを描写してくれているから スタージョンの本はありがたい感じ。 タニス・リーのは、破り捨てたいくらいにクソの本だった。 奇想コレクション・シリーズの一巻で、カヴァーがかわいいので、捨てられないけれど、笑。 二〇一六年十三月二十八日 「意識と蒸し器」 意識と蒸し器 無意識とうつつもりで 蒸し器とうつ でも、こうした偶然が 考えさせるきっかけになることもある。 常温から蒸し器をあっためていると そのうち湯気が出てきて 沸点近くで沸騰しはじめると やがて、真っ白い蒸気が細い穴からシューと出てくる。 二〇一六年十三月二十九日 「偶然」 うち間違い という偶然が面白い。 これって、ワープロやワードが出現しなかったら 起こらなかった事柄かもしれない。 日常では 言い間違いというのがあるけれど それってフロイト的な感じがあって 偶然から少し離れたところにあるものだけれど このあいだ書いた 喫茶店なんかで 偶然耳にした 近くの席で交わされてる話し声のなかから単語をピックアップして 自分の会話に 自分の考えに取り入れるっていうほうが 近いかもしれない。 偶然 詩集にも引用したけれど 芥川が書いてたね 「偶然こそ神である」 って ニーチェやヴァレリーも 「偶然がすべてである」 ってなこと書いてたような記憶があるけれど 偶然にも程度があって フロイト的な言い間違いのものから ぼくが冒頭に書いたキーボードのうち間違いなど さまざまな段階があるって感じだね。 詩を書いていて いや、大げさに言えば 生きていて この偶然の力って、すごいと思う。 生きているかぎり 思索できるかぎり 偶然に振り回されつつ その偶然の力を利用して 自分の能力の及ぶ限り 生きていきたいなって思う 恋もしたいし、 うふふ。、 ね。 二〇一六年十三月三十日 「あいまいに正しい」 「あいまいに正しい」などということはない 感覚的にはわかるが 「正確に間違う」ということはよくありそうで よく目にもしてそうな 感じがする 二〇一六年十三月三十一日 「『象は世界最大の昆虫である』ガレッティ先生失言録(池内 紀訳)を買う。」 そこから面白いものを引用するね。 「もしこの世に馬として生まれたのなら、もはや、やむをえない。死ぬまで馬でいるしかない。」 「この個所はだれにも訳せない。では、いまから先生がお手本をおみせしましょう。」 「古代アテネの滅亡はつぎの命題と関係する。すなわち─「これ、静かにしなさい!」 「アレキサンダー大王軍には、四十歳から五十歳までの血気盛んな若者からなる一隊があった。」 「ペルシャ王ペルゼウスは語尾変化ができない。」 「女神は女であるとはいえないが、男であるともいえない。」 「いかに苦難な船旅をつづけてきたか、オデュッセウスは縷々として物語っている。むろん、羅針盤がなかったからである。」 「カンガルーはひとっ跳び三十二フィート跳ぶことができる。後脚が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう。」 「ここのこのSは使い古しである。」 「イギリスでは女王はいつも女である。」 「アラビア風の香りなどとよくいわれるが、近よっても何も見えない。」 「湿地帯は熱されると蒸発する。」 「雨と水は、たぶん、人間より多い。」 「以上述べたところは、ローマ史におなじみとはいえ、まったく珍しいことである。」 「高山に登るとめまいがする。当然であろう。目がまわるからだ。」 「今日、だれもが気軽にアフリカにいき、おもしろ半分に殺される。」 「ナイル川は海さえも水びたしにする。」 「以上述べたのが植物界の名士である。」 「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる。」 「一日三百六十五時間、一時間は二十四分、そのうち学校で勉強しているのはたった六時間にすぎない。」 「牛による種痘法が発見されるまでは、多くの痘瘡が子供にかかって死んだものだ。」 「何であれ、全体はいつも十二個に分けられる。」 「古代ローマでは、一日は三十日あった。」 「ハチドリは植物界最小の鳥である。」 「ホッテントット族の視力は並はずれている。はるか三時間かなたの蹄の音さえ聞きつける。」 「先生はいま混乱しているのです。だから邪魔をして、かき乱さないでください。」 「君たちが世界最大の望遠鏡で火星を眺めるとすると、そのとき火星は、十メートルはなれたところから先生の頭を見たときと同じ大きさに見えます。しかし、むろん君たちは、十メートルはなれたところからでは、先生の頭に何が生じているかわかるまい。だから、同様に、火星に生物がうごめいていたとしても、とても見えやしないのです。」 「この点について、もっとくわしく知りたい人は、あの本を開いてみることです。題名は忘れましたが、第四十二章に書かれています。」 「もう何度も注意したでしょうが。ペンはいつも綺麗に髪で磨いておきなさい。」 「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」 「どうも席替えの必要があるようだ。前列の人は、先生が後列組をよく見張れるように席につきなさい。」 「そう、三列目が六列目になる、そして十列目まで、全員二列ずつ前に移りなさい!」 「きみたちは先生の話となると、右の耳から出ていって、左の耳から入るようだな。」 「紙を丸めて投げつけて、どこが芸だというのです。芸のためには、もっと練習に励まなくてはなりますまい。」 「いま君に訳してもらったところだが、一、教室のだれ一人として聞いていなかった。二、構文がまるきりまちがっている。」 「雨が降ると、意味はどうなりますか?」 「君たちは、いったい、椅子を足の上において靴でインキ壺を磨きたいのかね?」 「筆箱はペン軸に、カバンは筆箱に入れておくものです。」 「最上級生には、下等な生徒はいないはずです。」 「カント同様、私は思考能力に二つのカテゴリーしか認めない。 すなわち、鞍と馬である。いや、つまり、丸と菱形だ。」 「私にとって不快なことが、どうして私に出会いたがるのか、さっぱりわけがわからない。」 「私の本の売れゆきをうながす障害があまりに大きい。」 「私はあまりに疲れている。私の右足は左足を見ようとしない。」 「立体化するには音が必要だ。」 「なかでも、これがとりわけ重要なところです。─価値は全然ないにせよ。」 「夜、ベッドのなかで本を読むのはよくない習慣である。明かりを消し忘れたばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」 ああ 面白かった。 ブックオフで見つけて買ったのだけれど 詩のように感じられた。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年7月18日16時34分] 二〇一七年一月一日 「なんちゅうことやろ。」 きょうはコンビニで買ったものしか食べていない。 二〇一七年一月二日 「恩情」  なにが世界を支配しているのだろう。お金だろうか。愛だろうか。ぼくは恩情だと思いたい。恩情こそがお金も愛も越えた唯一のものだと思うから。 二〇一七年一月三日 「大地くん」  時代劇の夢を見た。地下組織のとばくを見た。むかし好きだった男の子が出てきた。びっくりの夢だった。彼はとばくしていたヤクザ者で、ぼくは役所の密偵だった。 二〇一七年一月四日 「痛〜い!」  足の爪が長かった。そのためけつまずいたときに、右足の第二指の爪さきがひどいことになった。足の爪はこまめに切らなくてはと、はじめて思った。 二〇一七年一月五日 「曜日」  月曜日のつぎは木曜日で、そのつぎが火曜日でしょ、で、そのつぎが土曜日で、そのつぎのつぎが水曜日、で、つぎに金曜日で、そのつぎに日曜日、日曜日、日曜日、日曜日……が、ずっとつづくってのは、どう? あつかましいわ。 二〇一七年一月六日 「一人でさす傘は一つしかない。」 一人でさす傘は一つしかない。 たくさんのことを語るために たくさん言う言い方がある。 たくさんのことを語るために 少なく言う言い方がある。 たくさんのことを語ってはいるが 言いたいことを少なく言ってしまっている言い方がある。 また少なく語りすぎて たくさんのことを言い過ぎている言い方がある。 一人でさす傘は一つである。 しかし、たくさんの人間で、一つの傘をさす場合もあれば ただ一人の人間が、たくさんの傘をさす場合もあるかもしれない。 ただ一人の人間が無数の傘をさしている。 無数の人間が、ただ一つの傘をさしている。 うん? もしかしたら、それが詩なんだろうか。 きょう、恋人に会ったら ぼくはとてもさびしそうな顔をしていたようです。 たくさんのひとが、たくさんの傘をさしている。 たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。 同時にただ一つの傘をさしている。 それぞれの手に一つずつ。 ただ一つの傘である。 たくさんの傘がただ一つの傘になっている。 ただ一つの傘がたくさんの傘になっている。 たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。 同時にただ一つの傘をさしている。 二〇一七年一月七日 「56歳」  ぼくは、しあさって56歳になります。ぜんぜんしっかりしてへんジジイだわい。 二〇一七年一月八日 「地球に落ちて来た男」  ウォルター・テヴィスの『地球に落ちて来た男』が1月11日に本として出るんや。 二〇一七年一月九日 「いつか使うかもしれない記憶のための3つのメモ」 自分のために2人の男の子が自殺したことを自慢する中年男                     (1980年代の記憶) 建築現場に居残った若い作業員二人がいちゃついている光景 一人の青年が、もう一人の青年の股間をこぶしで強くおす 「つぶれるやろう」 「つぶれたら、おれが嫁にもろたるやんけ」                     (1980年代の記憶) 庭の雑草を刈り取ってもらいたいと近所にすむ学生に頼む 「どういうつながりなの?」 「近所の居酒屋さんで知り合ったんだけど  電話番号を聞いてたから、電話して頼んだら  時給1000円で刈り取ってくれるって  自分で鎌を買いに行ったけど  自分で行ったところは2軒ともつぶれていて  その子たちの方がよく知っていて  鎌を買ってきてくれたよ  いまの子のほうが、世間のこと、よく知ってるかもしれないね。」 「そんなことないと思うけど。」                     (つい、このあいだの記憶) 二〇一七年一月十日 「誕生日」  これから近くのショッピングモール・イーオンに。きょうは、ぼくの誕生日だから、自分にプレゼントするのだ。  服4着と毛布を1枚買った。20000円ほど。服を買ったのって2年ぶりくらいかな。 二〇一七年一月十一日 「ヴァンダー・グラフ」 ヴァンダー・グラフを聴いているのだが、やはりずば抜けてすばらしい。 二〇一七年一月十二日 「過去の書き方」 まえ付き合ってた子のことを書く。 いっしょにすごしていた時間。 いっしょにいた場所。 いっしょにしていたこと。 楽しいことがいっぱい。 しばしば 誤解し合って つらいこともいっぱい。 ふたりだけが世界だと思えるほど。 さいごに もう一度、冒頭から目を通す。 すべてを現在形にして。 二〇一七年一月十三日 「現在の書き方」 いま付き合ってる子のことを書く。 いっしょにすごしている時間。 いっしょにいる場所。 いっしょにしていること。 楽しいことがいっぱい。 しばしば 誤解し合って つらいこともいっぱい。 ふたりだけが世界だと思えるほど。 さいごに もう一度、冒頭から目を通す。 すべてを過去形にして。 二〇一七年一月十四日 「誕生日プレゼント」  いま日知庵から帰った。えいちゃんと、きよしくんから服をプレゼントしてもらって、しあわせ。あした、さっそく着てみよう。 二〇一七年一月十五日 「ユキ」  まえに付き合ってた子にそっくりな子がFBフレンドにいるんだけど、ほんとそっくり。もう会えなくなっちゃったけどね。そんなこともあってもいいかな。人生って、おもしいろい。くっちゃくちゃ。ぐっちゃぐちゃ。 二〇一七年一月十六日 「マイ・スィート・ロード」  FBで、ジョージ・ハリスンの「マイ・スィート・ロード」に「いいね」をしたら、10000人以上のひとが「いいね」をしていた。あたりまえのことだと、ふと思ったけれど、10000人以上のひとが「いいね」をしたくなる曲だってことだもんね。ぼくがカラオケで歌う曲の一つでもある。名曲だ。 二〇一七年一月十七日 「夢から醒めて」  夢のなかの登場人物のあまりに意外な言動を見て、これって、無意識領域の自我がつくり出したんじゃなくて、言葉とか事物の印象とかいったものが無意識領域の自我とは別個に存在していて、それが登場人物に言動させているんじゃないかなって思えるような夢を、けさ見た。 二〇一七年一月十八日 「カルメン・マキ&OZ」  日知庵では、カルメン・マキ&OZの「私は風」「空へ」「閉ざされた街」を、えいちゃんのアイフォンで聴いていた。あした、昼間は、カルメン・マキ&OZをひさしびりに、CDのアルバムで聴こうと思った。カルメン・マキ&OZは、ぼくにとっては、永遠のロック・スターだ。すばらしすぐる。 二〇一七年一月十九日 「ぼくの詩の原点」  ぼくの詩の原点は、ビートルズ、ストーンズ、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、アレア、アトール、ホーク・ウィンド、ラッシュ、グランドファンク、バッジー、ケイト・ブッシュ、トッド・ラングレン、バークレイ・ジェイムズ・ハーベスト、そして、カルメン・マキ&OZ、四人囃子だったと思う。 T・REXを忘れてた。 ヴァンダー・グラフを忘れてた。 二〇一七年一月二十日 「自分には書けない言葉」  日知庵から帰って、郵便受けを見たら、平井達也さんという方から『積雪前夜』という詩集を送っていただいていた。「ダイエット」「47と35」「51と48」「飽きない」「グミの両義性について」といった作品を読んで笑ってしまった。数についての粘着度の高さにだ。ぼく自身が数にこだわるからだ。  先日、友人の荒木時彦くんに送っていただいた『アライグマ、その他』というすばらしい詩集とともに、ぼくの目を見開かさせてくれたものだと思った。こんなふうに、見知らぬひとから詩集を送っていただくと、ありがたいなという気持ちとともに、知らずにいればよかったなという気持ちがときに交錯する。  すばらしいものは知る方がよいに決まっているのだけれど、ぼくに書くことのできない方向で、すばらしいものを書かれているのを知ると、ぼくの元気さが減少するのだ。これは、ぼくがいかに小さな人間かを表している指標の一つだとも思えるのだけれど。まあ、ひじょうに矮小な人間であることは確かだが。  四人囃子の「おまつり」を聴きながら、平井達也さんからいただいた詩集を読んでいる。詩集の言葉がリズミカルなものだからか、ビンビン伝わる。ぼくは、自分のルーズリーフを開いて、自分のいる場所を確かめる。読まなければよかったなと思う詩句がいっぱい。自分には書けない言葉がいっぱいだからだ。 二〇一七年一月二十一日 「『恐怖の愉しみ』上巻」  ようやく、アンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を読み終わった。きょうから、これまたアンソロジーの『居心地の悪い部屋』を読もうと思う。 二〇一七年一月二十二日 「UFOも」  UFOも万歩計をつけて数十万歩も一挙に走っている。UFOもダイエット中なのだ。 二〇一七年一月二十三日 「稲垣足穂は」 稲垣足穂はUFOより速く一瞬で数万光年を駆け抜けていく。 二〇一七年一月二十四日 「七月のひと房」  帰ってきたら、井坂洋子さんから『七月のひと房』というタイトルの詩集を送っていただいてた。10年以上にわたって書かれたものを収めてらっしゃるようだ。タイトルポエムをさいしょに読んだ。つづけて、冒頭から読んでいる。言葉がほんとにコンパクト。良い意味で抒情詩のお手本みたいな感じがする。 二〇一七年一月二十五日 「あらっ。」  きょう、仕事帰りに、自分の住所の郵便番号が思い出せなくて、帰ってきて郵便物を見て、ああ、そうだったと確認して、なんか自分が痴呆症になりつつあるんかなと思った。住所はすらすらと思い出せたのだけれど。さいきん寝てばっかりだったからかな。もっと本を読んで、もっと勉強しなきゃいけないね。 二〇一七年一月二十六日 「『居心地の悪い部屋』」  アンソロジー『居心地の悪い部屋』半分くらい読んだ。いくつかの短篇は改行詩に近かったし、散文詩のようなものもあった。気持ちの悪い作品も多いが、読まされる。日本では、詩人が書いていそうな気がする。たとえば、草野理恵子さんとか。さて、つづきを読みながら布団に入ろうか。 二〇一七年一月二十七日 「ジミーちゃん。」  きのう、えいちゃんと話をしてて、ぼくの友だちのジミーちゃんが、ぼくから去っていったことが大きいねと言われて、ほんとにねと答えた。20年近い付き合いだったと思うのだけれど、ぼくの作品にもよく出てきてくれて、ぼくに大いに影響を与えてくれたのだけれど。もう、そういう友人がいなくなった。 二〇一七年一月二十八日 「ソープの香り。」  いま日知庵から帰った。えいちゃん経由で、佐竹さんから外国製のソープをプレゼントしていただいた。めっちゃ、うれしい。とってもよい香り。きょうは、このよい香りに包まれて、眠ろう。 二〇一七年一月二十九日 「レイ・ヴクサヴィッチ」  アンソロジー『居心地の悪い部屋』を読み終わった。よかった。ひとり、気になる作家がいて、彼の短篇集を買おうかどうか迷っている。レイ・ヴクサヴィッチというひと。奇想のひとみたい。読んだ「ささやき」が不気味でよかった。ホラー系の作品なのに、理詰めなのが、ぼくには読みやすかったのかな。 二〇一七年一月三十日 「Tyger Tyger, burning bright,」  いま日知庵から帰った。きょう、はじめて会ったんだけど、ブレイクの『虎』を知っている大学院生の男の子がいた。理系の子で、ぼくが詩を書いてるって言うと、とつぜん、「Tyger Tyger, burning bright,」ってくちずさんじゃうから、びっくりした。海外詩(読者)は滅んだと思っていたからだけど、滅んではいなかったのだった。 二〇一七年一月三十一日 「ゼンデギ」  きのうから、いまさらながら、イーガンの『ゼンデギ』を読んでいる。頭の悪いぼくにでもわかるように書いてある。きょうも、佐竹さんからいただいたソープの香りに包まれながら、『ゼンデギ』を読んで眠ろう。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年7月25日12時09分] 二〇一七年二月一日 「ゼンデキ」  徹夜で、イーガンの『ゼンデギ』を読み終わった。うまいなあと思いつつ、もう少し短くしてよね、と思った。まだ眠れず。デューンの『砂漠の神皇帝』でも読もうかな。このあいだカヴァーの状態のよいのがブックオフにあったので、全3巻を買い直したのだ。表紙と挿絵に描かれた神皇帝がかっこいいのだ。 二〇一七年二月二日 「月の部屋で会いましょう」  レイ・ヴクサヴィチの『月の部屋で会いましょう』(創元海外SF叢書)が届いた。ケリー・リンク並の作家だと、1作品しか読んでいないけれど、思っている。きょうから読もう。解説を読むと、まるで詩人が書きそうな短篇ばかりのようだ。奇想の部類だね。 二〇一七年二月三日 「得も損もしてないんだけどね。」  きょう、吉野家で「すき焼き」なんとかを食べたのだが、「大」を注文したのだが、しばらく食べていなかったので、これが「大」かと思って食べ終わって、レシート見たら「並」だった。金額が100円違うだけだけど、なんか得したような損したような複雑な気持ちになった。得も損もしてないんだけどね。 二〇一七年二月四日 「ふだんクスリは9錠」  日知庵から帰ってきて、ゲロったからいいかと思って、いつもは9錠だけど、いまクスリを10錠のんだ。痛みどめを1錠多くしたのだ。あした、何時に起きるかわかんないけど、あしたは仕事ないし、いい。あしたは音楽聴きまくって一日すごす予定。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月五日 「最終果実」  いま日知庵から帰った。レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』のつづきを読んで寝よう。これから読むの、「最終果実」だって、へんなタイトル。やっぱり詩人みたいな感性だな。 二〇一七年二月六日 「夢を見て、はっきりと目を覚ますとき」  きのう見た夢のなかで、おもしろいのがあった。イギリスのことわざに、樹から落ちる虫は丈夫に育つというのがあってっていうので、そんなことわざがほんとにあるのかどうかは知らないけど、目のまえで、虫が木から何度も落ちるのを見てた。夢のなかで、散文詩が書かれてあって、その一部分なんだけどね。目を覚ましてすぐにメモをしたらはっきりと目が覚めてしまった。 二〇一七年二月七日 「いろんなものが神さまなのだ」  サンリオ文庫・ラテンアメリカ文学アンソロジー『エバは猫の中』を読みました。 傑作短篇がいくつもあった。 サンリオ文庫のなかでは、ヤフオクでも安く手に入るもの。 あ コルターサルの『追い求める男』のなかに 「ハミガキのチューブを神様と呼ぶ」という言葉があって、驚いた。 ぼくがこのあいだ出した●詩集に 「神さまはハミガキ・チューブである」ってフレーズがあるんだけど こんな偶然もあるんだなと思った。 まあ、いろんなものが神さまなんだろうけれど。 二〇一七年二月八日 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」 ふと思いついた言葉でした。 利き腕が左手のひとは「右の手が触れたもの」を思い出してみましょう。 二〇一七年二月九日 「鯉もまた死んでいく」 鯉もまた死んでいく 鯉もまた死んでいく 東山三条に 「はやし食堂」という大衆食堂があって そこには セルの黒縁眼鏡をかけた大柄なおじさんと とても大柄なその奥さんがいて 定食類がおいしかったから パパと弟たちといっしょに よく行ったのだけれど その夫婦は お客の前でも 口喧嘩することがあって いやな感じがするときもあったけれど だいたいは穏やかな人たちだった 「○○院に出前を届けたら  そこの坊さんの部屋には  日本酒の一升瓶がころがっていて云々」 といった話なんかもしてくれて へえそうなんやって子供のときに思った 大学院のときに 女装バーでちょっとアルバイトしたことがあって そこで その○○院の若いお坊さんに 手をぎゅっと握られたことが思い出される まだ20代の半ばくらいの コロコロと太った童顔のかわいらしいお坊さんだった あ で その「はやし食堂」の夫婦には息子が二人いて 長男がぼくと中学がいっしょで 同級生だったこともあるのだけれど 彼は洛南高校の特進で ぼくは堀川高校の普通科で 彼は現役で神戸大学の医学部に受かって ぼくは一浪で同志社に行ったんだけど 彼のお母さんには ぼくが大学院に進学するときに 「大学院には行かないで働いたら」なんてことを言われた記憶がある 自分の息子が医者になるから 自分の息子のほうが偉いという感じで そんな顔つきをいつもしてたおばさんだったから ぼくが大学院に進んだら いばることがあまりできなくなるからだったのかもしれない そのときには ぼくも博士の後期まで行くつもりだったから あ こんな話をするつもりはなかって ええと そうそう 三条白川に 古川町商店街ってのがあって そこに林くんの実家があって お店は東山三条でそのすぐそばだったんだけど 中学3年のときかなあ 何かがパシャって水をはねる音がして 見ると 白川にでっかい鯉が泳いでいて なんで白川みたいに浅い川に そんな大きさの鯉がいるのかな って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど ぼくが 「あっ、鯉だ」って叫ぶと 林くんが 学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて その鯉の上から学生服をかぶせて 鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど 学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの これまたお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった 今でもはっきり覚えている 上気した誇らしげな顔 林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに 鯉の出現よりもずっと驚かされた ふだん見えないことが 何かがあったときに見えるってことなのかな これはいま考えたことで 当時はただもうびっくりしただけだけど ああ でももう ぼくは中学生ではないし 彼ももう中学生ではないけれど もしかしたら あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね 二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで さっと自分のなかに飛び込んできたことを あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで 鯉を抱えた少年の後姿を見つめていたことを 二〇一七年二月十日 「地球人に化けた宇宙人のリスト」 地球人に化けた宇宙人のリスト 正岡子規   火星人  もっと努力して人間に似せるべき 夏目漱石   アンドロイド  これは宇宙人じゃないかも、笑  大岡 信    少なくとも地球人ではなさげ 水のなかで呼吸していると見た 梅図かずお  あの干からび度は、地球の生物のものではない 志茂田景樹  宇宙的ファッションセンス そのままスタートレック 二〇一七年二月十一日 「パンドラの『芸術/無料・お試しセット』」 パンドラのところには じつは、もうひとつ箱が届けられていて その箱には『芸術/無料・お試しセット』と書いてあった あらゆるつまらない詩や小説や戯曲や 音楽や舞台や映画なんかが詰まってる箱であった この箱が開けられるまで 世界には素晴らしい詩や小説や戯曲や 音楽や舞台や映画しかなかったのだけれど パンドラがこの箱を開けてしまったのだった は〜あ 歴史に「もしも」ってないのだけれど もしも…… 二〇一七年二月十二日 「花緒さんのおかげで」  いま、学校から帰ってきた。これから友だちの見舞いに。ぼくの新しい詩集の表紙をかざってくれた青年だ。あした手術なのだ。きのう新しい詩集が届いたので、きょう持って行くことにしたのだ。  友だちの病院見舞いの帰りにユニクロでズボンを2本買って帰りに西院の牛丼の吉野家で生姜焼き定食を食べて、部屋に戻ってカルメン・マキ&OZのサードを聴いていたら突然エリオットが読みたくなって岩波文庫の『荒地』を読み出したらゲラゲラ笑っちゃって、詩ってやっぱり知的な遊戯じゃんって思った  そしたら急に作品がつくりたくなってカルメン・マキの声を聞きながらワードに向かっていた。過去に自分が書いた言葉をコラージュしているだけなのだけど、ときにぎゃははと笑いながらコラージュしている。ぼくが詩を放棄したいと思っても、詩のほうがぼくのことを放棄しないってことなのかもしれない。というか、花緒さんのお励ましのツイートを拝見したことがずっと頭にあって、エリオットの詩句を見て、脳内で化学結合を起こしたのだと思う。花緒さん、ありがとうございます。きょうじゅうに、3月に文学極道に投稿する2作品ができそうです。BGMをムーミンに切り替えた。ぼくの大好きな「RIDE ON」風を感じて〜フフンフフンと、ぼくもつぶやきながら、ワードにコピペしてる。流れるリズム感じながら自由でいようってムーミンが歌うから、ぼくも自由に詩を書くのだ。現実に振り回されて生きてるけど、それでいいのだと思うぼくもいる。フフン。3月に文学極道に投稿する作品を1つつくった。あともう1つ、きょうじゅうにつくろう。こういうものは、勢いでつくらなくちゃね。ムーミンあきたし、なにかべつのものかけよう。そだ。ユーミンなんか、どうだろう。  3月に文学極道に投稿する作品のうち、2つ目をいまつくり終えた。1つ目はA4版で44ページ。2つ目はわずか14ページ。2つ目のは、これまでつくった『詩の日めくり』のなかで、もっとも短い。でも、できはぜんぜん悪くない。44ページある1つ目はめちゃくちゃって感じで笑けるし。2つ目はひじょうにコンパクト。ありゃま。まだ8時20分だ。時間があまった。3月に文学極道に投稿するのは、2つとも『詩の日めくり』だけど、4月のも、そうなりそう。  花緒さんのおかげで、短時間で2つの『詩の日めくり』ができあがりました。お励ましのお言葉で、こんなに簡単に回復してしまうなんて、ほんとに単純な人間です。お励ましのお言葉をくださり、ほんとうにありがとうございました。拙詩集、おこころにかないますように。  サバトの『英雄たちと墓』は、ぼくのお気に入りの小説だけど、ぼくのルーズリーフのページの相当分を占めちゃってて、ルーズリーフを開くたびに、ラテンアメリカ文学に集中していた30代後半のぼくの青春がよみがえる。自分の詩だけではなくて、文学そのものが、いわゆる記憶装置なのだろうね。  森園勝敏の『JUST NOW & THEN』をかけながら、部屋のなかでちょこっと踊っている。元気になった。けさまでは死んだ人間のように無気力だったのに。言葉って、すごい力を持っているのだなと、あらためて感じさせられた。 二〇一七年二月十三日 「源氏物語のなかの言葉で」  源氏物語のなかで、源氏がいうセリフにこんなのがありました。「わたしたち貴族というものは、簡単にひととの縁を切らないのですよ」と。ぼくにとっては、印象的な言葉で、記憶に残っています。 二〇一七年二月十四日 「売る戦略のために」  授業の空き時間に、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』を3分の1くらい読んだ。もしかしたら、きょうじゅうに読み終えられるかもしれない。とてもおもしろい短篇集だけれど、詩人の散文詩みたいな気がする。なぜ、こんなに短いのに、小説として扱われるのだろう。売る戦略かな。  忘備録:キムラのすき焼きについて、あした書こうと思う。思い出といま。大学時代のサークルの話をさいしょにもってきて、子どものころの思い出と、このあいだ森澤くんと行ったときのプチ衝撃の話。きょうは、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集のつづきを読みながら床に就きます。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月十五日 「キムラのすき焼き」  大学の1年生のときに、イベントを主催するサークルに入ってて、1980年のことだけどさ、サークルのコンパが八坂神社のとこにあるすき焼きをする宴会場に決まって、そこって、ぼくんちが祇園だったから、すぐのところだったんだけど、そんなとこに宴会場があったんだってこと思ったこと思い出した。20人くらいいたかなあ。で、ぼくと同席した先輩が関東出身で、すき焼きをしきり出したんだけど、なんと、タレから鍋に入れだしたんだよね、というか、そのまえに、そのすき焼き、もやしが入っていて、びっくりしてたんだけど、でね、その先輩、タレのつぎには、野菜を入れて、さいごに肉を入れたの。もう最低って感じで食べた記憶がある。こどものころ、家が裕福だったので、週に一度、高いところで外食してたんだけど、すき焼きって言えば、キムラだった。キムラでは、牛脂を熱した鍋に入れて鍋底前面に塗り倒してから、肉を焼いて、砂糖にまぶしてから、タレを入れて、それから野菜なんかを入れていったから、その順番が正しいとずっと思っていて、3、40年ぶりに森澤くんとキムラに行って、すき焼きを食べたんだけど、二人でキムラに行くまえに日知庵で、すき焼きのつくり方の話をしていて、やっぱり肉を焼いて砂糖をまぶしてからタレを入れて野菜なんかをさいごに入れますよねって話をしていたんだけど、二人でキムラで、牛脂を鍋底に塗り塗りしていたら、仲居のおばさんが急に出てきて、「わたしがしましょうか?」って言ってくれたので、お願いしたら、大学時代の先輩のように、野菜を入れてタレを入れて砂糖を入れて、さいごに肉を入れたのだった。ぼくと森澤くんは、仲居のおばさんが野菜を手にした瞬間に目を見合わせたのだけれど、抗議する暇もなく、つぎつぎと関東風のつくり方を繰り出す仲居のおばさんのすき焼きのつくり方に目をうばわれた、つうか、あきれて、ふたりとも、口をぽかんと開けて、すき焼きが出来上がるのを待ったのだった。キムラは靴脱で靴を脱いで座敷に上がるスタイルの店で、メニューの横に、「関西風」のすき焼きのつくり方が写真付きのものが置いてあったのにもかかわらずだ。あとで、仲居のおばさんがぼくらの席から離れた瞬間に、ぼくは森澤くんの目を見ながら、「ええっ。」と言って、「こんなことってある?」って言葉をついだ。まあ、でも、関東風でもべつにまずくはなかったのだけれど、関西風だともっとおいしかったはずで、みたいな話を森澤くんとしてて、後日、日知庵でも、このプチ衝撃事件の顛末をえいちゃんに語っていたのであった。あーあ、こんどキムラに行ったら、ぜったい関西風のすき焼きのつくり方でつくろうっと。むかし、ぼくがまだ20代のころに、親切そうな顔をして近づいてくる人物にいちばん注意しなさいと、仕事場で、ぼくに言ってくれたひとがいて、その通りに、ひどい目に遭ったことのあるぼくは、こんどキムラに行ったら、いくら仲居のおばさんが親切そうに近づいてきて、すき焼きをつくってくれようとしても断ろうと決意したのであった。二十歳すぎまで祇園に住んでて、親が貸しビルをしていたから裕福だったんだけど、で、子どものころは贅沢だったんだけど、ぼくが大学院に入ったころから親が賭博に手を出して財産をすっかり使い果たしてから、ぼくも貧乏人になってしまって、自分のお金でキムラに行ったのは、冒頭に書いた通り、親と行ったとき以来、3、40年後。子どものときに行ったことのあるところを、めぐって行こうと思うのだけれど、なくなった店もある。25歳で大学院を出たあと、北大路通りに一人住まいをしていたんだけど、北大路橋のたもとに、グリル・ハセガワってあって、こんど、そこ行こうかって、このあいだ日知庵で、森澤くんと話してたんだけど、ぼくは北大路通りに15年、北山に5年住んでいて、グリル・ハセガワには、しょっちゅう行ってて、思い出もいっぱい。エビフライがとくにおいしかった。 二〇一七年二月十六日 「言語都市」  きのうから、たびたび中断していたチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読んでいるんだけど、まだ38ページ目なんだけど、ちっともおもしろくないのね。このひとのも、途中からおもしろくなるタイプの書き手だから読んでいるけれど、ミエヴィルを読むのは、これでさいごにすると思う。  チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 48ページ下段3、4行目「時間を要するもある。」→これは「時間を要するものもある。」ではないだろうか。 二〇一七年二月十七日 「言語都市」  ミエヴィルの『言語都市』、132ページ目に入るところで、脳がいっぱいいっぱいになってしまった。それにしても、1950年代や60年代のSFは読みやすかったなあ。シマックの『都市』が未読なのだが、本棚にあるので、これ読んで寝よう。少なくとも解説だけでも。きょうは、ミエヴィルに疲れた。むかしのSFの表紙はすばらしいものがたくさんあった。さいきんは、買いたいなあと思う表紙が少ない。ヴクサヴィッチの短篇集も表紙はクズだった。内容がいいので買ったけど、書店で見かけただけなら、ぜったい買わなかっただろうなあ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!  チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 120ページ下段10行目「すばやく質問ぶつけたら」→これって、「すばやく質問をぶつけたら」だと思うけど、どだろう。 二〇一七年二月十八日 「言語都市」  いま日知庵から帰った。『言語都市』いま226ページ目に突入って感じだけど、あした、どれだけ読めるのか。きょうは、もうクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年二月十九日 「吐けるだけ吐いた。」  いま日知庵から帰った。きょう眠れるだろうか。あしたは一日中、数学をしていていると思うけれど、お昼に目が覚めてたら(さいきん、日曜日のお昼は寝ているのだ)友だちのお見舞いに行きたい。行きたい。おやすみ、グッジョブ! きょうも、酒浸りの一日だった。えいちゃん、森ちゃん、ありがとうね。  いまトイレでゲロを吐いた。やっぱり焼酎は3杯が限度みたい。指を喉に突っ込んで吐けるまで吐いた。血痰が出た。咽喉をちょこっと破いちゃったみたい。あ〜あ、酒が弱いのに飲むのだな。文章がおかしかった。「吐けるまで吐いた。」じゃなくて、「吐けるだけ吐いた。」だ。もう一度、電気を消して横になって気がついた。 二〇一七年二月二十日 「言語都市」  ミエヴィルの『言語都市』268ページ目だけど、おもしろくない。よくこんな作品でローカス賞をとったなと思う。もってるミエヴィルはすべて売ろうと思う。1冊として残す価値のあるものはない。あと200ページほどある。読むけれど、できたら飛ばし読みがしたいけれど、飛ばし読みしたら、わからない作品だから精読してるけれど、苦痛だ。でも、もしかすると、読書で苦痛なのは、しじゅうかもしれない。好きな詩人の詩でも読んで、頭をやすめようかな。いや、きょうは、寝るまで、ミエヴィルの『言語都市』のつづきを読もう。かつて、ぼくのお気に入りの作家だったのだけれど、『クラーケン』がよかったからだけど、あれがピークかもしれないな。どだろ。 これがすてきでかったら、なにがすてきなのか、わからないじゃない? Maxwell - This Woman's Work https://youtu.be/gkeCNeHcmXY @YouTubeさんから 二〇一七年二月二十一日 「ウェルギリウスの死」  きょう、職場で、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を再読していたら、「現実とは愛のことなのだ」(だったかな)という言葉があって、あれ、これ、引用に使ったかなと心配になったのだけれど、怖くて確認できない。『全行引用詩・五部作』には使わないといけない引用だったと思われたのだった。怖い。正確な言葉を知りたいし、紐栞を挟んでおいたから、あした職場の図書館で、もう一度、確認しよう。部屋にもブロッホの『ウェルギリウスの死』があるんだけど、ページがわからないし、きょうは、もう遅いし、探すのは時間がかかりそうなので、あした職場で確認しよう。そういえば、きょうは詩人のオーデンの誕生日だったらしいんだけど、授業の空き時間には、イエイツの詩と、エリオットの詩と論考を読んでいた。オーデンは苦手なぼくやけど、部屋にもあるけど、一回、読んだだけだ。イエイツとエリオットの詩は、なんべん読んでもおもしろい。岩波文庫は、はやくパウンドの『詩章』を新倉俊一さんの訳で入れなさいよと思う。『ピサ詩篇』すばらしかったし、エリオットを入れたんだから、岩波文庫はパウンドの『詩章』を出す義務があると思う。 二〇一七年二月二十二日 「ウェルギリウスの死」 (…)おそらく窮極の現実を現わすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう……わたしは詩を作った、軽率なことばを……わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、じつはそれは美だった……詩は薄明から生じる……われわれが営み作りだす一切は薄明から生まれる……だが現実の告知の声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように……さらに深く、さらに高く、そう、さらに暗く、しかもさらに明るいのが真実なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第?部、川村二郎訳、211ページ)  ルキウスがいった。「真実ばかりが問題だとはいえまい。狂人でさえ真実を語る、あらわな真実を告げることができる……真実が力をもつためには、それは制御されねばならない、まさしく制御されてこそ、真実の均斉が生ずるのだ。詩人の狂気のことがよく語られる」━━ここで彼は、わが意を得たりといわんばかりにうなずいているプロティウスを見やった━━、「しかし詩人とは、みずからの狂気を制御し管理する力をそなえた人間のいいにほかならないのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第?部、川村二郎訳、211ページ)  愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ。若い詩人たちはそのことを知っている、それだのにここにいるふたりは、死がすでにこの室内の、彼らのすぐわきにたたずんでいることさえ気づかない━━、彼らを呼びさましてそのような現実認識へみちびくことがまだ可能だろうか?(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第?部、211頁) 「現実とは愛なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第?部、川村二郎訳、204ページ)  ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は………)』澁澤孝輔訳)  学校の授業の合間に読んだブロッホの『ウェルギリウスの死』はやはり絶品だった。どのページを開いても、脳裡に届く知性のきらめきが感じられる。プレネの入っている『現代詩集』もよかった。読んで楽しくて、知的になれる読書がいちばん、ぼくには最適なような気がする。だからSF小説を読むのかな。  ミエヴィルの『言語都市』あと100ページほど。苦痛だ。会話が極端に少ないのも、その理由のひとつだろう。  いま、Amazon で、1977年版のブロッホの『ウェルギリウスの死』を買った。もってるのは1966年度版で、漢字のルビが違っているので買い直した。  きょう、ツイートしたのは、1977年度版の訳で、学校の図書館にあるほうのものの訳。ぼくのもってる1966年度版だと、「制御」にルビが入っているのだ。翻訳者の川村二郎さんが、版をかえるときに、手を入れられたのだろうね、と思って、1977年度版を買った次第。無駄な出費かなあ。どだろ。  そいえば、この集英社の全集シリーズ、『現代詩集』って、1966年度版と1977年度版ではまったく別のものって感じで、文字の大きさから選ばれた詩までも違うからね。1977年度版のほうがはるかに優れているからね。買うなら、1977年度版のほうがいいよ。  歯をみがいて、クスリをのんで寝よう。今週中に、ミエヴィル読み終わって、来週には、これまた読んでる途中でほっぽりだしたイーガンの『白熱光』を読もうかなって思っている。めっちゃ読みにくい小説だった。 二〇一七年二月二十三日 「言語都市」  チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読み終わった。読む意義のある作品だと思うけれど、とにかく読むのが苦痛だった。イーガンの『白熱光』をきょうから読むけど(ちょこっとだけ、以前に読んだ)これも相当ひどい読書になりそうだ。スコルジーのように、わかりやすい作家もいるけどつまらないしね。 原曲より好きなんだよね。 D'angelo - Feel Like Makin' Love https://youtu.be/mcQ83tOZ4Wk @YouTubeさんから  いま日知庵から帰ってきた。やっぱり、イーガンの『白熱光』さっぱり、わからない。そのうち、おもしろくなるのかな。その気配が希薄なんだけど、せっかく買った本だから読むつもりだ。ハーラン・エリスンの短篇集は読んでる途中で破り捨てたけれど。ひさびさに本を破いて捨てた経験だったけれど。もったいないという気持ちより、読んでて愚作であることに気がついて破いて捨てて正解だったという気持ちのほうが強い。本棚の未読本のうち、また破いて捨てるものがありませんようにと祈っておこう。きょうは、『白熱光』のつづきを読みながら寝る。おやすみ。 二〇一七年二月二十四日 「白熱光」  数学の仕事が順調に終わったので、神経科医院に行くことにする。担当医に、1月と2月は自殺願望が強烈だったので、その報告をしなければならない。記憶障害も起こしていた。極めて危険な状態であったが、今回もなんとか乗り切った。しかし、いま現在も精神状態は不安定なので、わからないけれど。  いま医院から帰ってきた。24人待ちで、こんな時間までかかったのだけれど、待ち時間が長いのを知っていたので、そのあいだ日知庵に行って、ジンジャーエールを2杯と焼き飯とイカの姿焼きを飲み食いしてた。イーガンの『白熱光』も読んでいたが、100ページを超えても、話の内容さっぱりわからず。  寝るまえの読書は、わかりやすいのがいいと思うので、ディックの短篇集にしようと思う。単行本で、『人間狩り』を持っているのだけれど、まだページを開けたこともなかった。文庫の短篇集で、まあ、たぶん、ほとんど収録されているものはすでに読んでると思うので手にしなかっただけだけど。しかし、チャイナ・ミエヴィルといい、グレッグ・イーガンといい、なんで、こんなに読みにくいものを書くんだろうか。ゲーテの『ファウスト』や、ブロッホの『ウェルギリウスの死』や、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、エリオットの『荒地』なんかのほうが、ぜえったい、百万倍、読むのがやさしい。まあ、そういう表現でしか見られないものがあると、感じられないものがあるということなんだろうけれど。そういえば、はじめてニュー・ウェーブやサイバー・パンクやスチーム・パンクを読んだときにも、読みにくいなって感じたな。そうか。そのうち、もっと読みにくい作家が出てくるかもしれないな。 二〇一七年二月二十五日 「福ちゃん」  いま日知庵から帰った。帰りに、Fくんの男っぽい姿をみて、あらためて好きになった。まあ、まえからずっと好きだったのだけれど。もしも、ぼくが若くてかわいい女だったらなあ。ぜったい放さない。 二〇一七年二月二十六日 「すぐに目が覚めた。」  1977年度版のブロッホの『ウェルギリウスの死』が郵便受けに届いてた。とてもいい状態だったのでうれしい。1966年度版は捨てます。おやすみ、グッジョブ。  いまトイレで、指を喉に突っ込んでゲロを吐いた。お酒好きなんだけど、弱いんだ。ああ、でも、ゲロも慣れてきたから、いいか。ぼくみたいにお酒に弱い詩人って、いままでいたのかなあ。指を喉に突っ込んではゲロを吐く詩人。ありゃ、またゲロしたくなった。トイレに入って、指を突っ込んできます。  クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! クスリのんだあと、吐くかなあ。どだろ。微妙。基本、ぼくののんでるクスリ、お酒だめなんだけどね。まあ、いいか。吐いても、あした、日曜日だし、休みだし。もう一回、指突っ込んで吐いてからクスリのもうかな。どうしよう。おやすみ、グッジョブ!  すぐに目が覚めた。一時間くらいしか寝ていない。まだ目がしばしばしてるけど。  イーガンの『白熱光』読みにくさでは、ミエヴィルを上回る。150ページ読んでも、さっぱりわからない。ミエヴィルもイーガンも二度と買うことはないと思う。タバコ吸ったら、なんか短篇集でも本棚から物色して読もう。  体験とその体験がこころにもたらせたものが、最初に、ぼくに詩を書かせたのだと思っていた。じっさい、そうだったのだ。しかし、人間というものよりも、言葉のほうをより愛している自分がいることに気がついたとき、言葉こそが真の動機であったことに思い当たったのであった。言葉というものの存在が。 二〇一七年二月二十七日 「詩とはなにか。」 詩とはなにか。言葉だ。言葉以外のなにものでもない。 二〇一七年二月二十八日 「詩は」 詩はもっともよく真実に近づいたとき、もっともよく騙しているのだ。 二〇一七年二月二十九日 「生きるというのは」 他者に欺かれていたことを知るのは単なる屈辱でしかない。 生きるというのは、自分自身を欺きつづけることにほかならない。 二〇一七年二月三十日 「白熱光」  携帯に知らないひとからメールがきてるんだけど、ぼくの名前を間違えてるので返信しなかった。音楽仲間というか、バンド関係者と間違えてるふうを装っているところが巧妙だなと思うのだが、56歳のおっさんがそんな詐欺にひっかかるわけがないだろうと思うのだが。ガチでバカなやつらがおるんやな。  寝るまえの読書は、フランク・ハーバートの『神皇帝』第2巻のつづき。イーガンの『白熱光』は、152ページでとまった。 二〇一七年二月三十一日 「現代詩集」  集英社の世界文学全集の『現代詩集』を、きょうも読んでいたのだが、レベルが高い詩が多くて、なぜ、日本の詩にはよいものが少ないのか、情けない気持ちがする。たくさんよいものを書きつづけていたのは西脇順三郎か、吉増剛造くらいしかいない。吉岡 実も『薬玉』くらいしかよいものを書いていない。「僧侶」も、さいしょはおもしろいと思ったが、構造が単純すぎることに気がついてから、読み直したことがない。繰り返し読めるのは、『薬玉』くらいである。吉増剛造さんも、身ぶりにわざとらしさが出てくるようになってからは、まったくつまらなくなってしまったし。しかし、ところで、そうして、だから、日本の詩がおもしろくなければ、自分がおもしろいものを書けばいいのである。ということで、ぼくは書きつづけているのだなと思う。『全行引用詩・五部作・上下巻』など、ぼく以外のだれにも書けなかった作品集であったなと思う。  これから王将に行く。遅い時間には、日知庵に行く。きょうは、ゲロを吐かないように、お酒の量を調節したい。数日前は記憶が吹っ飛んでしまったからね。お酒の量がわからなくなるなんて、バカみたいだけど、バカだし、しようがない。ただいま現在、56歳、かしこくなる年齢はやってくるのでしょうか。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年8月2日0時10分] 二〇一七年三月一日 「ツイット・コラージュ詩」  ブックオフで、ぼくの持っている状態よりよい状態のカヴァーで、フランク・ハーバートの『神皇帝』第一巻から第三巻までが、1冊108円で売っていたので、買い直して、部屋に帰ってから、持っているもののカヴァーと取り換えた。本体は、持っているもののほうがよかったので、カヴァーだけを換えたのだった。持っていたものは、本体だけ残してカヴァーは捨てた。持ってたもののほうの本体は、お風呂場ででも読もうかと思う。  きょうは、ユーミンを聴いてた。「海を見ていた午後」は、何回繰り返し聴いてもよいなと思える曲だ。歌詞が、ぼくの20代のときのことを思い起こさせる。アポリネールの「ミラボー橋」の「恋もまた死んでいく」のリフレインがそれに重なる。もしも、もしも、もしも。人間は、百億の嘘と千億のもしもからできている。  いま日知庵から帰った。行くまえに、Amazon で自分の詩集の売れゆきをチェックしていたら、日知庵のえいちゃんといっしょに詩集の表紙になった『ツイット・コラージュ詩』(思潮社2014年刊)が売れてたことがわかって、へえ、いまでも買ってくださる方がいらっしゃるんだってこと、えいちゃんに話してた。 二〇一七年三月二日 「発狂した宇宙」  きょう見た夢のなかの言葉、枕もとのメモパッドに書きつけたもの。「あっちゃんが空を見上げると、太陽が2つずつのぼってくるんやで」 意味はわからず。しかし、これは、メモしなきゃと思って夢からさめてすぐにメモした言葉だった。もうどんな情景での言葉だったのかも忘れてしまった。 けさから、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を読んでいる。 二〇一七年三月三日 「退院祝い」  これから日知庵に。友だちの退院祝いで。先月、思潮社オンデマンドから出た、ぼくの詩集『図書館の掟。』の表紙になってくれた友だちだ。2月の14日に、脳腫瘍の手術をしたのだった。もちろん、手術は成功だった。10万人に3人の割合でかかる部類の脳腫瘍だったらしい。  いま日知庵から帰った。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を半分くらい読んだけれど、筒井康隆が絶賛した気持ちがわからない。まあ、発表された当時としては、おもしろかったのかもしれない。ぼくが傑作というのは、時代を超えたシェイクスピアとかゲーテの作品とかだからかもしれない。  Amazon で、フレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を買った。旧版のカヴァーだからだけど、むかし読んで捨てたやつだけど、カヴァーがかわいらしくて、再購入した。いい状態のカヴァーだったらうれしいな。中身は読んだから、本体の状態はどうでもよい。  寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづき。はてさて、さいごまで読めるだろうか。このあいだ、イーガンの『白熱光』を152ページでやめてしまった。これは、どうかな。あと半分。読みやすいけれど、ドキドキ感はなし。 二〇一七年三月四日 「いつもと変わらない宇宙」  いま、きみやから帰ってきた。5軒めぐり。きょうもヨッパである。つぎの日曜日にはカニ食べまくりの予定である。まじめに生きて行こうと思う。つぎの日曜日までは。今週は、何冊読めるかな。きょうは、寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづきを読む。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年三月五日 「フトシくん」  いま日知庵から帰ってきた。かなりヨッパ〜。でもまあ、寝るまえに、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻のつづきを読んで寝るつもり。詩人も作家も、死ぬまでに傑作を1つ書いたら、役目は終わってると思うのである。ぼくのは、どれかな。「Pastiche」かな。どだろ。  ユーミンのベスト聴いていて、「守ってあげたい」を歌ってくれたフトシくんのことが思い出された。ぼくが22、3才で、フトシくんが20才か21才だったと思う。どれだけむかしのことだろう。そのときのことがいまでも生き生きとして、ぼくのなかで生きているって、ほんとに人間の記憶って不思議だ。きのうのことでも、はっきり覚えていなかったりするのにね。 二〇一七年三月六日 「ぼく以外、みんな中国人だった。」  日知庵から帰って、セブイレでシュークリーム2個買って食べて、ミルク1リットル飲んで、これから寝る。きょうもヨッパであった。さいご、ぼく以外、お客さんがみな中国人だった。10人以上いたな。たしか、15人はいたと思う。日知庵も国際化しているのだった。 二〇一七年三月七日 「火星人ゴーホーム」  いま日知庵から帰って、帰りにセブイレで買ったペヤング焼きそば大盛りを食べた。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』あと10ページほど。このあと、なにを読もうかな。きょう Amazon から到着したフレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』はいい状態だった。これを再読しようかな。 二〇一七年三月八日 「きょうは日知庵で一杯だけ」  きょうは一杯だけ飲んで帰ってきた。調子が悪い。こんどの土曜日には大谷良太くんがくる。  きのうは、文学極道で、ぼくの詩を読んでくださってた方が、ぼくのベスト詩集『ゲイ・ポエムズ』(思潮社2014年刊)を買ってくださってたし、なんだか、いい感じ。詩を書きはじめたとき、生きているあいだに、ひとに認められることはないと思っていたぼくとしては、ひじょうにうれしい。  きょうは、ハインラインの『宇宙の戦士』をブックオフで買った。もう3回以上、買ってる気がする。読んでは捨ててる部類の小説だ。まあ、カヴァーの絵が好きなだけのような気もするが、仕方ありませんな。ほんと好みですからね。  いま、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻を数十年ぶりに読み直してるんだけど、フランク・ハーバートのような、わかりやすいSFは、もう二度と書かれないような気がする。古いもののよさもある。というか、ぼくは、もう古いものにしか目が向けられないような気がする。  本棚にある書物を処分しているのも、その兆候のひとつだろう。SFとしては、50年代から60年代に書かれたものが、ぼくにはいちばん合っているような気がする。文学全体で眺め渡すと、シェイクスピア、ゲーテ、19世紀初頭から20世紀末までの詩人たちかなあ。おもに欧米の詩人たちだけど。 『神皇帝』の第3巻のつづきを読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年三月九日 「ほんとに酒に弱い」  いま日知庵から帰ってきた。きょうヨッパだけど、いつもの2倍くらいかも。もう寝る。おやすみ、グッジョブ!  朝、6時すぎにゲロった。いま二度目だったけど、からえずきだけだった。お酒に弱い。 二〇一七年三月十日 「けっきょく、エビフィレオ」  きょう、夜は八雲さんとこで、森澤くんとカニを食べる。そのまえに、今日のお昼は、マクドナルドにしよう。フィレオフィッシュのセットにしよう。 エビフィレオにした。  八雲さんとこから帰った。カニ、そんなに感動しなかった。まあまあのおいしさだったけれど、もう旬ではないものね。やっぱ旬のものがいいね。 二〇一七年三月十一日 「なぜかこわい」 お風呂場から、水の滴る音がする。こわいから、とめてこよう。 二〇一七年三月十二日 「ぼくのは難しい?」  チューブで70年代ポップスを聴いている。ここちよい。わかりやすい。きょう、ぼくの詩集を2ページ読んで、わからないから読むのをやめたと、ひとりの青年に言われて、それは作者の責任だねと答えた。『THe Pooh on the Hill。』だったのだけれど、ぼくのは難しいのかな。  ぼく自身は、笑っちゃうくらい、おもしろい作品だったのだけれど。すると、もうひとりの青年からも、「あっちゃんの詩は難しいよね。」と言われて、ちょっと、しゅんとなった。ぼくくらい、わかりやすい作品を書く詩人はいないと思っていたので。そういえば、むかし、大岡 信さんに、「あなたの使う言葉は易しいけれど、詩自体は難しい。」と言われたことや、ヤリタミサコさんに、「田中宏輔の詩は難解であると思われているが……」と書かれたことが思い出された。ぼくの作品ほど単純な作品はないと思うのだけれどね。どこが難しいのか、ぼくには、ぜんぜんわからない。  しかし、こんど思潮社オンデマンドから出した『図書館の掟。』のタイトルポエムにも書いた詩句にもあるけれど、無理解や無視というものが、当の芸術家にとっては、いちばんよい状態であるとも思えるので、まあ、いいかなと思える。無名性というものが大事なこともしじゅう書いているが、まあ、その無名性が、自分にとっては大切な要素なのかもしれないとも思うしね。また死ぬまで詩集を出しつづけると思うけれど、どの1冊も同じフォルムのものはないので、採り上げる人も面倒くさいし、採り上げづらいだろうしね。しょうがないね。  本来、詩は少数の読者でいいものかもしれないしね。ぼくの詩集も、どなたか知らないけれど、Amazon で見たら、全部、買ってくださってらっしゃる方がいらっしゃって、もちろん、その方とは面識もないし、お名前も存じ上げないのだけれど、どういった方なのかなってのは思う。 二〇一七年三月十三日 「原曲を超えること」  ジョン&オーツの『シーズ・ゴーン』をいま聴いてる。原曲よりいい。原曲を超えるのって、むずかしいと思うけれど、ときどき、ハッとするアレンジに出くわすよね。リンゴの『オンリー・ユー』にも、むかし、びっくりした。最近では、デ・アンジェロの『フィール・ライク・メイキング・ラブ』かな。 二〇一七年三月十四日 「大量処分」  日本語の未読の本を大量に処分した。これで、日本語の未読の本は10冊くらいになった。これからの人生は、シェイクスピアの戯曲とか、ゲーテの作品とか、イエイツやT・S・エリオットやディラン・トマスやD・H・ロレンスやジェイムズ・メリルやエミリー・ディキンスンやウォルト・ホイットマンやウォレス・スティヴンズやW・C・ウィリアムズやエズラ・パウンドといった大好きな詩人たちの詩の再読に大いに時間を費やそうと思う。  再読したいと思っている小説もたくさん残しているので、ぼくの目は、もう傑作しか見ないことになる。それは、たいへんここちよいものであると思われる。どう考えても、ぼくの脳みそはもう、ここちよい傑作しか受け付けなくなってしまっているのであった。サンリオSF文庫も8冊しか残していない。  時間があれば、それらの詩などを手にするであろう。そうして、それらの再読が、ぼくにインスピレーションを与えることになるであろう。いままで大量の本を読むことに時間を費やしてきたが、大事なことは、大量の本を読むことではなく、読むことでインスピレーションを与えられることであったのだった。  本棚の本を大きく入れ替えて整理し、目のまえの棚はすべてCDで埋め尽くした。本はその両横とその横、向かい側の本棚に収めた。2重になっているのは、聖書関連の資料だけだ。聖書を題材にした作品はたくさん書いてきたが、散文で1冊、聖書を題材にしたものを書きたくて、それらは残したのであった。  中央公論社の『日本の詩歌』も、好きな詩人たちのものがそろっているので、きっと再読するだろう。ぼくがはじめて詩を書いた『高野川』のころのぼくには、もう戻れないと思うけれど、ぼくの作品は、これからますます単純化していくような気がしている。おそらく、それは、『詩の日めくり』に反映されるだろう。  齢をとって、この詩人はろくなものしか書けなくなったと言われるだろうと思うけれど、ひとの言葉に耳を傾けることをしたことがなかった詩人なので、そんなことはどうでもよい。いまは単純化に向かって歩んでいきたいと思っている。まあ、もともと、ぼくは、難しい言葉を使う書き手ではなかったけれど。  いったん脳みそをまっさらにしたいと思ったのだった。ひさしく英詩の翻訳もしていなかったが、それも再開したいと思っている。英詩の翻訳は、日本語で詩を書く場合よりも、言葉と格闘している感じがして、脳みそをたくさん動かしてる気がするからである。とにかく脳みそをまっさらな状態で動かしたい。  以前に Amazon で買った イエイツの全詩集は、ペーパーバックで1500円ほどだったが、いま Amazon で買った T・S・エリオットのは、全詩集+全詩劇のペーパーバックで、2562円だった。外国では、古い詩人ほど安いのだろう。ジェイムズ・メリルのはずいぶん高かったものね。  まあ、ページ数が違うのだけれども。ジェイムズ・メリルは書いた詩の量が多かったから仕方ないのだろうけれど。ぼくも書く量が多いので、死んでから全詩集をだれかが出してくれるとしても、たいへんな作業になると思う。ヴァリアントがいくつもあって、「反射光」だけでも、4つのヴァリアントがある。ぼくが20数冊出した詩集のうち、4冊の詩集に収録しているのだった。  げっ。以前に原著のシェイクスピア全集があったところを見たらなくなっていた。と思ったら、背中のほうの棚にあった。よかった。いくら古典でも、これは安くなかったからね。あと4冊、日本語の本の本棚から出さなくてはバランスが悪い。古典と傑作しか残していないので、その4冊を選ぶのがたいへん。  迷ってたんだけど、いま Amazon で、Collected Poems of William Carlos Williams の第一巻と第二巻を買った。合計5700円ちょっと。そいえば、John Berryman の THE DREAM SONGS を買ってたけど 読んでない。読みやすいやと思って、ほっぽってた。いま見たら、385個の詩が載ってるんだけど、すべての詩が1ページに収まる長さで、しかも、すべての詩篇が、6行で一つの連をつくっていて、それが3連つづくのだけれど、そういうスタイルの定型詩なのかな。ジョン・ベリマン、彼もまた自殺した詩人のひとり。  ふう、いままで Amazon で本を買ってた。でも、20000円は超えなかったと思う。もしかしたら超えたかもしれない。T・S・エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ホイットマン、ディラン・トマス、エミリー・ディキンスン、ウォレス・スティヴンズ。もう寝よう。ぜんぶ全詩集。そいえば、OXFORD UNIVERSITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS の読みも中断していた。まだ、ロバート・フロストだ。  いま、Amazon のアカウントサービスで注文履歴を見て、電卓で合計したら、14584円だった。計算ミスがなければ、安くてすんだな。ディラン・トマスのものが入荷未定なので、もしかしたら、購入したものが手に入らないかもしれないけれど。もう一度、アカウントサービスで注文履歴を見よう。  もう一度、計算しても、同じ金額だったので、ひと安心。クスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!  そいえば、このあいだ、森澤くんとふたりでカニを食べたときに支払った金額が15000円ジャストだったので、それよりも、きょうの買い物のほうが安かったってことだな。なんちゅうこっちゃろか。まあ、本代と食事やお酒代をいっしょにしたら、あかんのだけれどもね。クスリのんだしPCのスイッチ切ろうっと。 二〇一七年三月十五日 「夢」  ぼくが高校一年生で、高校を転校する夢を見た。一時間目の授業は、体育の時間であったにも関わらず、教室で授業だった。先生の名前は中村私(わたしと読む)という名前で、困ったことがあったら、私のところに相談しにきなさいと言っていた。二時間目は理科の授業で、女の先生で、「きょうは授業はしません。おしゃべりします。」と言われたので、教室中が大喜びであった。と、そこで目が覚めた。これからマクドナルドに行く。帰ってきたら、きのうメモしたものを書き込んでいく。体育の先生は、ぼく好みで、ガチムチの若い先生(30歳いってない)であった。かわいらしいお顔をしてらっしゃった。 二〇一七年三月十六日 「驚くべきことに」 恋人の瞳に映った自分の顔ほどおぞましいものはない。 目は2つもあるし 鼻は1つしかない。 耳にいたっては 頭の両端に1つずつもあるのだった。 二〇一七年三月十七日 「いくつかのメモ」 2017年3月21日メモ 鳥には重さがない もしも重さがあったとしたら 飛べないからである 翼を動かしているのは あれはただたんに 空気をかき混ぜているのである 鳥が鳴くとピーッという音になる 音が鳴りやむと 鳥の姿に戻る 鳥は物質であり音でもある 鳥は音が物質化した一例である 2017年3月21日メモ 空間は時間が存在するところでは曲がるが 時間の存在しないところでは直進するか静止している。 時間は空間が存在しないところでは曲がるが 空間が存在するところでは直進するか静止している。 2017年3月2日のメモ  白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。しかし、ぼくはまだ白いひとも、黒いひとも見たことがない。白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。 日付けのないメモ 砂でできた葉っぱ 夕日でできた蟻 日付けのないメモ 本の本 秘密の秘密 毒の毒 先の先 洗濯機の洗濯機 言葉の言葉 自我の自我 穴の穴 空白の空白 二〇一七年三月十八日 「STILL FALL THE RAIN。」  きょうは、お昼の2時に大谷良太くんが部屋にきてくれるので、それまで、来年、思潮社オンデマンドから出す予定の詩集『STILL FALL THE RAIN。』の編集でもしてようかな。収録作品は、「STILL FALL THE RAIN。」前篇と後篇の2作品のみ。もちろん、どちらも長篇詩。そいえば、ぼくの大恩人であるヤリタミサコさんに捧げる、『STILL FALL THE RAIN。』 ぼくは、前篇はすこし憶えているのだが、後篇にいたってはまったく何を書いていたのか記憶しておらず、ふたたびワードを開くのが楽しみだけれど、怖くもある。 二〇一七年三月十九日 「洋書の全詩集は安い。」  いまロバート・フロストの全詩集も、Amazon で買った。洋書は安い。1620円だった。まあ、これで、ここ何日かのあいだに買った洋書の全詩集は、日曜日のふたりのカニ代より多くなったわけだが、まあ、よい。フロストの詩は読んでても訳してても、ここちよい。たいへんみずみずしいのだ。 二〇一七年三月二十日 「接触汚染」  いま日知庵から帰ってきて、帰りにセブイレで買ったインスタントラーメンを食べたばかり。本棚を整理したので、どこになにがあるか、だいたいわかった。日本語の小説を読む機会はあまりなくなったけれど、翻訳された英詩は読む機会が多くなったと思われる。日本語で本棚に残っているのは、表紙の絵がお気に入りのもので、かつ傑作であるものか、古典か、シリーズものだけである。デューンのシリーズは手放せなかった。リバーワールドものも手放せなかった。ヴァレンタイン卿ものも手放せなかった。ワイルドカードものも手放せなかった。その他、お気に入りのシリーズ物は手放せなかったし、傑作短篇集の類のものも手放せなかった。また単独のもので、表紙の絵が良くなくても、内容のよいもの、たとえば、スローリバーなども手放せなかった。本棚に残った日本語の小説は、どれも再読に耐えるものである。一方、詩に関しては、研究書も含めて、1冊も手放していない。  詩に関しては、自負があるのだろう。あしたからは、英詩に集中しよう。日本語の詩や小説は、通勤時間や、授業の空き時間や、寝るまえの時間に読むことにしようと思う。いま気になっているのは、SFの短篇で、同じ顔の美男しかいない惑星に到着した宇宙船の話で、手放していないかどうかだけである。のちに女性も同じ顔になる伝染病的な話で、宇宙船の乗組員の女性がそのことに気づいて怖気づくというところで終わっていた話である。手放した短篇集もあるので、それだけが気がかりで、これから、その作品が本棚に残っているかどうか、調べてから寝る。手放していなければよいのだけれど、どかな。探し出せれば、ツイートする。その作品は、だれが書いたのかも憶えていないし、どの短篇集に載っていたのかも忘れたのだけれど、「冷たい方程式」と同様に、その作品ひとつで、SF史に残ってもいいくらいに、よくできた作品だったと思う。いや〜、これから本棚をあさるのが怖い。でも、どこか楽しい。  やった〜。見つけた。残しているSF短篇集のなかにあった。キャサリン・マクレインの「接触汚染」だった。SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』の冒頭に収められていた。よかった〜。ようやく探し出せた。なんだ、こんなところにあったのか。いっぱい本を引っ張り出してきてはページをめくっていたのだが、ファーストコンタクトものだったということに気がついて、さいしょ、「最初の接触」かなんかというタイトルだと思って、メリルの傑作選やギャラクシーの傑作選や年代別の傑作選などをあさっていたのだが、ああ、接触して汚染される話だったから、「接触汚染」というタイトルかなと思ってネット検索したら、SF短篇集『冷たい方程式』に入っているというので、本棚を探したら、あったので、本文を読んで、ああこれやと思った次第。手放してなくってよかった。これで安心して眠れる。きょう寝るまえの読書は、なににしようかな。せっかくだから、SF短篇集『冷たい方程式』にしよう。いま調べたら、2011年に再版された新しいSF傑作選『冷たい方程式』には「接触汚染」が入っていないんやね。旧版からのものは、トム・ゴドウィンのタイトル作品とアシモフの「信念」の2篇のみしか入っておらず、残り7篇がほかのものに替わっている模様。新しい『冷たい方程式』も手に入れたい。しかし、日本語の本の本棚には、もう本を入れる余地がなかったので、購入はやめておこう。さっき、「接触汚染」を探しているときに、数多くのSF傑作選をパラパラめくっていたら、ぜんぜん記憶にないものが多かったので、それを読んでもいっしょかなって思ったことにもよる。また、新たに収められた7つの短篇のうち、1作が、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」で、それ持ってるからというのにもよる。うううん。早川書房、あこぎな商売をしよる。ディックの傑作短篇集みたいなことしよる。なんべん同じ短篇を入れるんやと思う。しかも、傑作の「接触汚染」をはずして。 二〇一七年三月二十一日 「人間の手がまだ触れない」  いま日知庵から帰った。きょうは、例のオックスフォード大学出版から出た英詩のアンソロジーで、ロバート・フロストの詩を5つ読んだ。どれも、ぼくには新鮮な感覚。既訳があるなしに関わらずに、訳していこうかな。既訳は無視することにする。といっても、記憶に残っている訳もあるのだけれど。  きょうの寝るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集『人間の手がまだ触れない』にしよう。旧版のカヴァーなので、かわいらしい。創元SF文庫も、ハヤカワSF文庫も、なぜ初版のままのカヴァーを使わないのか不思議だ。版を替えると、カヴァーの質が確実に落ちる。ぼくには理由がわからないな。 二〇一七年三月二十二日 「ロバート・フロストの短編詩、2つ」  ようやく目がさめた。きょうは、ロバート・フロストの英詩を翻訳しようと思う。できたら、楽天ブログに貼り付けよう。  ロバート・フロストの「Fire and Ice」である。これには、ぼくの知ってるかぎりで、2つの既訳がある。そのつぎに訳すものは、既訳があるのかないのか調べていない。 Fire and Ice Robert Frost Some say the world will end in fire, Some say in ice. From what I’ve tasted of desire I hold with those who favor fire. But if it had to perish twice, I think I know enough of hate To say that for destruction ice Is also great And would suffice. 火と氷 ロバート・フロスト 世界は火に包まれて終わるだろうという者もいる。 また氷に覆われて終わるだろうという者もいる。 わたしが欲望というものを味わったところから言えば 火を支持するひとびとに賛成する。 しかし、世界が二度滅びなければいけないとしたら わたしは憎悪については十分に知っていると思っているので それを言えば、破滅というものについては 氷もまたおもしろいものであり そして十分なものであるだろう。 ロバート・フロストの「Stopping by Woods on a Snowy Evening」を訳した。 Stopping by Woods on a Snowy Evening Robert Frost Whose woods these are I think I know. His house is in the village though; He will not see me stopping here To watch his woods fill up with snow. My little horse must think it queer To stop without a farmhouse near Between the woods and frozen lake The darkest evening of the year. He gives his harness bells a shake To ask if there is some mistake. The only other sound’s the sweep Of easy wind and downy flake. The woods are lovely, dark and deep, But I have promises to keep, And miles to go before I sleep, And miles to go before I sleep. 雪の降る夜に森のそばに立って ロバート・フロスト これがだれの森かはわかっているつもりだ。 そいつの家は村のなかにあるのだけれど。 彼はここに立ちどまって、ぼくの姿を見かけることはないだろう。 雪でうずくまった自分の森を目にはしても。 ぼくの小馬は奇妙な思いにとらわれるだろう、 近くに一軒も農家のないところに立ちどまったりすることには。 森と凍りついた湖のあいだで 一年でいちばん暗いこんな夜に。 小馬は馬具の鈴をひと振りする なにかおかしなことがありはしないかと尋ねて。 ただひとなぎの音がするだけ ゆるい風とやわらかい降る雪の。 森は美しくて、暗くて、深い。 でもぼくは誓って約束するよ。 眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。 眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。  ロバート・フロストの詩、あと2つか、3つくらい訳したいのだが、さすがに下訳の必要な感じのものなので、西院のブレッズ・プラスに行って、ランチを食べて、そこで下訳をつくってこよう。さっきの2つは、ぶっつけ本番で訳したものだった。  お昼に訳してた箇所で、明らかな誤訳があったので手直しした。ああ、恥ずかしい。しかし、こういった恥ずかしい思いが進歩を促すのだと、前向きに考えることにする。  ロバート・フロストのひとつの詩に頭を悩ませている。おおかたの意味はつかめるのだが、1か所でつまずいているのだった。その1か所も情景は浮かぶのだが、日本語にスムースに移せないのだった。原文の写しをもって、これからお風呂に入る。きょうは訳せないかも。眠ってるうちに、無意識領域の自我が、ぼくになんとか訳せるようなヒントを与えてくれるかもしれない。そんな厚かましい思いをもって、お風呂に入って、原文を繰り返し眺めてみよう。お風呂から上がったら、きょうは早めに寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年三月二十三日 「手を入れ過ぎかな。」  いままた昼に楽天ブログに貼り付けたロバート・フロストの英詩の翻訳に手を入れていた。潜在意識が、あそこの訳はダメだと言ってくれているのか、ふと思いついて、読み直したら、やはりおかしなところがあって、手直しした。やはり潜在意識は顕在意識よりもえらいらしい。ちょこちょこ直す癖もあるが。  いままた、またまた読み直してたら、一か所、おかしなことになっていたので(「ひと振り」と書いてたつもりのところが「ふと振り」になってたのだ)、手直しした。思い込みが気づかせなかったのだろう。20数冊はあるこれまでの詩集の編集をしていても、思い込みで書き間違っていた箇所が数か所ある。「あったりはしないかと」を「ありはしないかと」に直した。手を入れるごとに、訳詩全体の音楽性が高まっていくような気がした。また気がついたら、手を入れよう。寝るまえに、風呂で読んでたロバート・フロストの英詩を読もう。自然な日本語にするのが難しい感じの詩だが、それだけにやりがいがある。 二〇一七年三月二十四日 「Acquainted with the Night」  潜在意識のお告げもなく目が覚めた。コーヒー飲んで、もっと目を覚まそう。そして、ロバート・フロストの英詩と格闘するのだ。そのまえに、コーヒー飲んだら、朝食に、セブイレでおでんとおにぎりでも買って食べよう。それとも西院に行って、吉野家か松家に寄ろうかな。まあ、ひとまずコーヒーが先だ。  いま、ロバート・フロストの「Acquainted with the Night」の訳を楽天ブログに貼り付けた。 https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703250000/  これまた、きょうじゅうに何度も手を入れそうな感じだけれど、次に訳そうと思うフロストの詩にかかりたい。かなり長い詩なのだ。 Acquainted with the Night Robert Frost I have been one acquainted with the night. I have walked out in rain?and back in rain. I have outwalked the furthest city light. I have looked down the saddest city lane. I have passed by the watchman on his beat And dropped my eyes, unwilling to explain. I have stood still and stopped the sound of feet When far away an interrupted cry Came over houses from another street, But not to call me back or say good-bye; And further still at an unearthly height, One luminary clock against the sky Proclaimed the time was neither wrong nor right. I have been one acquainted with the night. わたしは夜に精通しているのさ ロバート・フロスト わたしは夜に精通している者なのだった。 わたしは雨のなかを突然歩き去る──もちろん、その背中も雨のなかだ。 わたしは都市の最果ての街明かりのあるところをもっと速く歩いていたのだ。 わたしはもっとも悲しい都市の路地に目を落としたのだった。 わたしは巡回中の夜警のそばを通り過ぎたのだった そいつはわたしの目を見下ろしたのだった、その目はしぶしぶと事情を語ってはいたろうが。 わたしは静かに立って、足音をとめたのだった。 なぜなら、遠くで出し抜けに叫び声がしたからだった 別の通りにある家々のまえを横切って聞こえてきたのさ、 でもだれも、わたしのことを呼びとめもしなかったし、別れを告げもしなかったのだ。 そしてさらにいっそう静かなところ、超自然的なくらいに高いところに 空を背景にして、ひとつの時計が光っていたのさ。 そいつが時間を教えてくれることは悪いことでも善いことでもないのさ。 なぜなら、わたしは夜に精通している者なのだったからさ。 二〇一七年三月二十五日 「チンドン屋さんたち」  天下一品で、焼き飯定食のお昼ご飯を食べてから歩いて西大路四条を横切ったら、チンドン屋さんたち(先頭・男子、あとふたり着物姿の女子の合計三人組)に出くわした。何年振りのことだろう。昭和でも、ぼくの子どものころには目にしていたけれど、近年はまったく目にしなかった。まだいてはるんやね。 二〇一七年三月二十六日 「しょうもない話」  きのう、日知庵で、えいちゃんに、昼間、チンドン屋さんたちを見かけたと話してたのだけれど、そういえば、ぼくが子どものころ、いまから50年ほどむかしには、クズ屋さんというのもあったんやでと話してたら、1週間ほどまえに阪急の西院駅の券売機のところで目にした情景が思い出されたのであった。クズ屋さんというのは、背中にかごを背負って、そこに、長いトングで道端で拾ったものを入れていくおじさんだったのだけれど、なにを拾っていたのかは憶えていない。木の棒の先に突き出た釘の先のようなものでシケモクというものを刺して集めていたおじさんもいたような気がするのだが、西院駅の券売機のところで、身なりのふつうのおじさんが、ちょっと長髪だったけれど、さっと身をこごめてシケモクを拾ってズボンのポケットに入れる様子を、ぼくの目は捉えたのであった。シケモクというのは、吸いさしのタバコのことで、いまはあまり道端に落ちていないけれど、むかしはたくさん落ちていた。そんな話をしていると、えいちゃんが、しょうもない話やなと言うのだった。ぼくの書く詩は、そんなしょうもない、くだらない話でいっぱいにしたい。そして、ぼくのしょうもない、くだらない話以上にしょうもない、くだらないぼくは、翻訳もせずに、これからまた日知庵に飲みに行くのであった。飲みに行って帰ったら寝て、目が覚めたらまた飲みに行くというしょうもない、くだらない自堕落な生活が、ぼくの生活であり、さもいとしい生活なのであった。  追記:日知庵に行く途中、西院駅に向かって歩いているときに、この日本語が頭にこだましていたのであった。「さもいとしい」 こんな日本語はダメだねと思って、駅について、「さもしく、いとおしい」にしなければならないと思われたのであった。これは、ぼくの日本語の未熟さを語る一例なのであった。  いま文学極道の「月刊優良作品」のところを見たら、2月のところに、ぼくの投稿した2作品が入選していたのであった。2作とも実験的な作品なのであったが、とくに2週目に投稿した作品はさらに実験的な作品なので心配していたのであった。  追記の追記:西院駅まで道を歩いているさいしょのときには、「さも愛しげな」に直そうかなと思ったのだが、一人称ではおかしい気もしたので、「さもしく、いとおしい」にしたほうがいいかなと思われたのであった。もう一段階、ステップがあったのであった。 二〇一七年三月二十七日 「ごちそうさまでした。」  大谷良太くんちで、晩ご飯をごちそうになって帰ってきた。親子どんぶりと中華スープ。そのまえに朝につくったというじゃがいもと玉葱とニンジンのたき物をどんぶり鉢いっぱいにいただきました。ありがとうね。ごちそうさまでした。おいしかったよ。  きょうは、早川書房の『世界SF全集』の第32巻の「世界のSF(短篇)」をぺらぺらめくりながら寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年三月二十八日 「atwiddle」  日本語の本はもう買わないつもりだったけれど、本を整理してもっていないことがわかったので、ディックの傑作短篇集「まだ人間じゃない」「ゴールデン・マン」「時間飛行士へのささやかな贈り物」を買った。どれも送料なしだと1円だった。状態のいいのがくればいいな。もってたはずだったのにね。本棚の探し方が悪いわけじゃないと思うんだけどね。もう二重に重ねて置いていないし。  きょうは気力が充実しているので、ロバート・フロストの英詩を翻訳しよう。  ロバート・フロストの長篇の単語調べが終わった。1個、わからなかった。 atwiddle という単語だけど、ネットでも出てこない。twiddle の詩語なのかもしれない。きょう、塾に行ったら、英英辞典で調べてみよう。  ついでに、ロバート・フロストの短い詩を一つその単語調べもしておこう。それが終わったらちょっと休憩しよう。単語調べの段階で、下書きの下書きのようなものができあがっているから、頭がちょっと痛くなっているので、休憩が必要なのである。そだ、つぎの詩の単語調べのまえに、コーヒーを淹れよう。 atwiddle 英英辞典にも載ってなかった。ネットで調べても載ってなかった。  単語調べが終わったら、ディックが読みたくなって、『ペイチェック』の「ナニー」を読んでいたのだが、この作品以外のものは、ほかの手持ちのアンソロジーにみな入っていて、ひどいなあという感想しか持ちえない編集のアンソロジーで、あらためて早川書房のあこぎな商売の仕方に驚かされた次第である。その「ナニー」さえも、先日、手放したアンソロジーに入っていたものであった。読み直して、やはりディックはひどいクズのようなものも書いていたのだなと思ったのだが、情景描写はうまい。たとえ内容がクズのようなものでも、ちゃんとさいごまで読ませる力があるんやなって思った。ディックの作品はSFはすべて読んだけれど、長篇は1冊も本棚に残さなかった。2度と読むことがないからだろうからだ。あ、『ユービック』の初版は残してあった。カヴァーがよかったからだ。カヴァーのグロテスクさが心地よかったからである。内容は、超能力者と超能力を無効にする者の合戦みたいなものだったかなあ。  お風呂に入りながら、ロバート・フロストの departmental と Deaert Places を読んで、下訳を考えてみよう。お湯の力を借りて、頭をほぐしながら、情景を脳裡に思い起こすのだ。BGMは、70年代のポップス。シカゴとか、ホール&オーツとか、めっちゃ懐かしい。 二〇一七年三月二十九日 「幸」  いま日知庵から帰った。きょうも、いい夢を見たい。小学生のときにはじめて好きになったやつのこと、夢に見ないかなあ。脚がめっちゃ短くて、3頭身くらいだったの、笑。胴がめっちゃ長くて、かわいらしかった。名前も憶えていないけど。そいえば、名前を憶えていない好きな子が何人もいたなあ。  おやすみ、グッジョブ! きょう、寝るまえに何を読もうかな。まあ、部屋に残ってる日本語の短篇集を読もうっと。そいえば、フロストの英詩、だいたい情景が浮かんだ。あと少しのような気がする。翻訳は自分の詩を書くことよりも難しいし、ドキドキする。いい趣味を持ったような気がする。詩作と翻訳。  まえに付き合ってた子にメールしようかな。元気? 京都に来たら、いつでも連絡してよ。いまでも、きみの顔がいちばん、かわいいと思ってるからね。って、こんなメールを、いまから打つ。幸。おやすみ、二度目のグッジョブ! メールした、笑。  返信がいまあった。京都に行くとき、連絡しますねって。「おやすみ、かわいい幸。」と返事した。ひゃあ〜、いい夢を見て寝たい。いや、寝て、いい夢を見たい、の方が正確な書き方かな。三度目のグッジョブ、おやすみ! 二〇一七年三月三十日 「atwiddle」  日知庵で、大学で数学を教えていらっしゃるという田中先生といっしょに来ておられたカナダ人の方に、ぼくが詩人で、ロバート・フロストの英詩を訳しているさいちゅうなんですがと断って、2つ質問した。1つは、atwiddle の意味で、もう1つは、固有名詞の Janizary の発音だった。  atwiddle は old English だろうということで、ぼくの推測通り、詩語で、現代英語にはない言葉であろうということだった。Janizary という固有名詞だが、「ジャニザリー?」と発音されたのだが、こんな固有名詞は目にしたことがないとのこと。でもまあ、この発音も、ぼくの推測通りだったので、ひと安心した。きょう、夕方に、ロバート・フロストの詩を2つ、翻訳の下訳をつくっていた。あした、楽天ブログに、それらを貼り付けようと思う。ようやく、詩の情景が、バロウズの小説の一節のように、「カチリとはまった。」のだ。英詩の翻訳は難しい、でも、おもしろい。  そいえば、日知庵で、ぼくがさいごの客だったのだけれど、さいごから2番目の客の2人組がかわいらしかった。22歳と32歳の左官屋さんのふたりだけど、若い子が大阪の堺からきているというので、ぼくがさいしょに付き合ったノブちんのことを思い出したのであった。ストレートかゲイかはわからないけれど、年上の男の子のほうが、「こいつゲイなんすよ。」と言っていたらしい。ぼくは直接、耳にした記憶はないのだけれど、ちょっといかつい感じの年上の男の子と、かわいらしい感じの男の子2人組だったので、BLちゅうもんを、ふと頭に思い浮かべた。いや〜、うつくしいもんですな。若いことって。  ぼくは英語が苦手だった。たぶんふつうの中学のふつうの中学生くらいの英語力しかないんじゃないかな。でも、英詩の翻訳はおもしろい。間違ってても、ぜんぜん恥ずかしくはない。もともと専門じゃないし、詩人が英詩の翻訳くらいできなくちゃだめだと思っているから。詩人の役目の一つに、よい外国の詩を翻訳するというのがあると思うのだ。  きょう寝るまえの読書は、きょう郵便受けに入ってたディックの傑作短篇集『時間飛行士へのささやかな贈物』ぱらぱらめくって、寝ようっと。おやすみ、グッジョブ! 日知庵のさいごから2番目のお客の左官屋の2人が愛し合っている情景をちらと思い浮かべながら寝ることにする。セクシーな2人やった。年上の男の子は、大阪ではなくて、静岡出身だということだった。大坂でいえば、南が似合うなあと言ったのだけれど、北でもおかしくない感じもした。南って、ガラ悪いって、ぼくの偏見だけれど。北はおしゃれっつうか、ふつうの不良の街って感じかな。南は、肉体労働者風のジジむさい感じがするかな。 ロバート・フロストの「Departmental」を訳した。 Departmental Robert Frost An ant on the tablecloth Ran into a dormant moth Of many times his size. He showed not the least surprise. His business wasn't with such. He gave it scarcely a touch, And was off on his duty run. Yet if he encountered one Of the hive's enquiry squad Whose work is to find out God And the nature of time and space, He would put him onto the case. Ants are a curious race; One crossing with hurried tread The body of one of their dead Isn't given a moment's arrest- Seems not even impressed. But he no doubt reports to any With whom he crosses antennae, And they no doubt report To the higher-up at court. Then word goes forth in Formic: "Death's come to Jerry McCormic, Our selfless forager Jerry. Will the special Janizary Whose office it is to bury The dead of the commissary Go bring him home to his people. Lay him in state on a sepal. Wrap him for shroud in a petal. Embalm him with ichor of nettle. This is the word of your Queen." And presently on the scene Appears a solemn mortician; And taking formal position, With feelers calmly atwiddle, Seizes the dead by the middle, And heaving him high in air, Carries him out of there. No one stands round to stare. It is nobody else's affair It couldn't be called ungentle But how thoroughly departmental 種族 ロバート・フロスト テーブルクロスのうえにいた一匹の蟻が 動いていない一匹の蛾に偶然出くわした、 自分の何倍もの大きさの蛾に。 蟻はちっとも驚きを見せなかった。 そいつの関心事はそんなことにはなかったのだ。 そいつは蛾のからだにちょこっと触れただけだった。 もしもそいつが別の一匹の虫に突然出くわしたとしても その蟻っていうのは巣から出て来た先遣部隊の連中の一匹で その連中の仕事っていうのは神のことを 時空の本質のことを調査することで、 それでも、そいつは箱のうえにその別の一匹の虫のからだを置くだけだろう。 蟻というのは好奇心の強い種族である。 自分たちの仲間の死骸のうえを あわただしい足取りで横切る一匹の蟻がいるが そいつはちっとも足をとめたりはしない。 なにも感じていないようにさえ見える。 でも、蟻は疑いもなくいくつかのことを仲間に知らせるのだ、 触角を交差させることによって。 そして、たしかに仲間に知らせるのだ、 庭のうえのほうにいる仲間に。 ところで、蟻という言葉は、ラテン語の Formic(蟻の)からきている。 「死がジェリー・マコーミックのところにきた。  ぼくたちの無私無欲の馬糧徴発隊員のジェリー。  特別な地位にいるジャニザリーは  彼の事務所は、その将校の死体を  埋葬することになっているのだが  ジェリーを彼を待つ人々のところ、彼の家に彼の死体を運ぶだろう。  一片のがくのうえに置くように彼の死体を横たえ  彼の死衣を花びらでびっしりと包み  イラクサのエッセンスの芳香で満たすだろう。  これがあなたたちの女王蟻の言葉である。」 そしてまもなくその場面で 一人のまじめくさった顔をした葬儀屋が姿を現わすのだ。 そして形式的な態度をとりながら 彼の体をなでるようなしぐさでちょこっと触れ 彼の死体の真ん中のところをぐっとつかみ 彼の体を空中高く持ち上げると そこから外に彼の死体を運び去るのである。 その様子をじっと見るためにそこらへんに立っている者などひとりもいない。 それは、ほかの誰の出来事でもないのだ。 高貴でないと呼ばれることはぜったいにない。 しかし、なんと徹底的な種族なのだ、わたしたち人間というものは。 ロバート・フロストの「Desert Places」を訳した。 Desert Places Robert Frost Snow falling and night falling fast, oh, fast In a field I looked into going past, And the ground almost covered smooth in snow, But a few weeds and stubble showing last. The woods around it have it--it is theirs. All animals are smothered in their lairs. I am too absent-spirited to count; The loneliness includes me unawares. And lonely as it is that loneliness Will be more lonely ere it will be less─ A blanker whiteness of benighted snow With no expression, nothing to express. They cannot scare me with their empty spaces Between stars--on stars where no human race is. I have it in me so much nearer home To scare myself with my own desert places. さびしい場所 ロバート・フロスト 雪が降っている、夜には速く降る、おお、よりいっそう速く降るのだ。 野っ原にいて、目の前の道をよく見ると 地面はほとんど真っ平らな雪に覆われているけれども ただちょっとした草や刈り株が最期の姿を見せていた。 そのまわりの森はそれを持っている、それとは森のもののことだ。 すべての動物たちが巣のなかで、かろうじて息をしている状態だ。 わたしには霊的な能力がなくて、その数を数えられないのだが 突然、孤独な気分に陥った。 そして、孤独な気持ちになって、じっさいのところ、その孤独さとは その孤独な時期のものなのだろう。でも、ちょっと孤独さが減った。 日の暮れ方の雪のからっぽな真っ白さのおかげである。 それを言葉にして言い表わすことはできない、言い表わすことは何もない。 そのからっぽな空間が、わたしを脅かすことはできない。 星々のあいだにあるそのからっぽな空間、その星というのも、人類などいはしないところなのだ。 わたしはわたしのなかにそれを持っているのだ、家に近い近いところにだ。 それというのは、わたし自身のなかにあるさびしい場所がわたしを脅かすことである。  英詩を訳しているときのゾクゾク感って、自分が詩を書いてるときのゾクゾク感とは違うのだ。翻訳してるときには、ぼくが思ったこともないことが書かれてて、それを日本語にするときに、脳みそがブルブルッと打ち震えてしまうのだ。まあ、そいえば、自分で詩を書いているときにも、ときどきあったっけ。  OXFORD UNIVERCITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS に入っているロバート・フロストの詩を訳しているのだが、つぎに訳したいと思っているいくつかのものは短いので、情景をつかみやすいだろうか。どだろ。逆に、難しいかな。しかし、この 20TH-CENTURY POETRY & POETICS のアンソロジストの Gary Geddes というひとの選択眼はすごい。いままで読んだ詩はどれも、ぼくの目にはすばらしいものばかりだ。詩のアンソロジーは、こうあるべきだと思う。ぼくはこのアンソロジーを、偶然、ただで手に入れたけれど、いま Amazon では、けっこうな値段になっている。安ければ、もう1冊買っていただろうに。版が違うのが出ているのだ。ぼくのは旧いほう。新しい版は、イマジストたちにも大きくページを割いているらしい。H.D.とかだ。ありゃ、いま見たら安くなっている。増刷したのかな。4200円台だった。まえは10000円くらいしたと思うんだけど。 https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics…  新しい版のものも買った。ぼくの持っている旧版のものよりも、60ページくらい長くなっている。H.D.とかのイマジストたちのものだと思うけど。 https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics…  1116ページなのであった。旧版が954ページだから。ありゃ、引き算、間違ってた。160ページほど増えてるのだった。旧版に入れてたものを除外してなかったらいいのだけれど。  あした健康診断なので、10時以降は水しか飲めない。きょう、郵便受けにディックの短篇集が2冊とどいてた。1冊はまあまあ、いい状態。もう1冊は、背表紙にちょっとしたコスレハゲがあったのだけれど、本体はきれい。まあ、両方とも、1円の品物だから、いいかな。  これからお風呂に入ろう。きょうは早く寝るのだ。お風呂場での読書は、単語調べの終わったロバート・フロストの2つの短篇詩。お湯のなかで、身体も頭もほぐしながら、詩の情景を思い浮かべようと思う。「Neither Out Far Nor In Deep」と「Design」の2篇。  お風呂から出たら、目がさめてしまった。ロバート・フロストの英詩の単語調べでもしようかな。  1つの短詩の単語調べをしたあと、Amazon で自分の詩集の売り上げチェックをした。『全行引用詩・五部作』が上下巻が売れてた。うれしい。よく知られていない無名の詩人だから喜べるのだな。1冊ずつ売れて。よく知られている有名な詩人だったら、こんな喜びはないであろう。という点でも、ぼくは、無名性というものが、ひじょうに大切なものだと思っている。 二〇一七年三月三十一日 「うんこたれ」  そろそろ家を出る用意をする。きょうは健康診断のあと、オリエンテーション。4時半くらいまでかなあ。帰ったら、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。きょうは、お酒を飲みに行けないかもしれないな。まあ、いいか。学校行く準備しよう。行ってきます。  オリエンテーションが終って、4時20分くらいに終わって、それから学校からの帰り道、河原町に出て、日知庵で飲んで、きみやに行って、また日知庵に戻って、飲みまくった。帰り道で、きゅうに、うんこがしたくなって、急ぎ足で歩いていたのだけれど、間に合わなかったのだ。部屋に戻って、トイレのドアに手をかけたところで、うんこをたれた。一年ぶりくらかな。ブリブリッとうんこをたれてしまったのであった。急いでズボンを脱いだので、うんこまみれになったのは、パンツだけであった。うんこのつづきをしながら、洗面所で、パンツについたうんこを洗い流していたのであった。すぐにお風呂に入って、きれいにしたけれど。ってな話を後日、4月1日に、これまた日知庵に行って、えいちゃんに話したら爆笑された。あとで、Fくんもきたので、Fくんにも、うんこをたれた話をして、「こんなん、ツイッターに書かれへんもんなあ。『詩の日めくり』にも、よう書かんわ。」と言うと、「そんなんこそ、『詩の日めくり』に書くべきですよ。」と言われたので、書くことにした。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日/田中宏輔[2021年8月9日10時05分] 二〇一七年四月一日 「ある注」  ディラン・トマスの268ページの全詩集のページ数に驚いている。こんなけしか書いてないんやと。散文はのぞいてね。こんなけなんや。ぼくはたくさん書いてるし、これからもたくさん書くだろうけれど。あした、新しい『詩の日めくり』を書いて、文学極道の詩投稿欄に投稿しよう。  左手の指、関節が痛いのだけれど、これって、アルコール中毒の初期症状だったっけ? まあ、いいや。齢をとれば、関節が痛くなったって、あたりまえだものね。いまから日知庵に行ってきませり。 二〇一七年四月二日 「担担麺」  日知庵から帰ってきて、セブイレで買ったカップラーメンの担担麺を食べた。帰りは、えいちゃんと西院駅までいっしょ。日知庵では、きょうも、Fくんと楽しくおしゃべり。さて、いまから、あしたの夜中に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』の準備をして眠ろう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月三日 「孤独」  チャールズ・シェフィールドのSF短篇連作集『マッカンドルー航宙記』を読んでいたら、眠れなくなった。どうしよう。とりあえず、自販機のところまで行って、ヨーグリーナを買ってこよう。3月になって、毎晩のようにお酒を飲んでいると、夜中に、もう明け方近くだけれど、これが飲みたくなるのだ。  孤独ともあまりにも長いあいだいっしょにいると、さも孤独がいないかのような気分になってしまうもので、孤独の存在を忘れてしまい、自分が孤独といっしょにいたことさえ忘れ去ってしまっていることに、ふと気づかされたりすることがある。音楽と詩と小説というものが、この世界に存在するからだろう。 二〇一七年四月四日 「メモ」  わけのわからないメモが出てきた。日付けはない。夢の記述だろうと思う。走り書きだからだ。「足に段がなくても/階段はのぼれ」と書いてあった。「のぼれる」ではなくて「のぼれ」でとまっているのは、書いてまたすぐに睡眠状態に入った可能性がある。まあ、ここまで書いて、また眠ったということかな。 二〇一七年四月五日 「ミステリー・ゾーン」  いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。寝るまえの読書は、なににしようかな。きのう、『ミステリー・ゾーン』をぱらぱらめくってた。2つめの話「歩いて行ける距離」が大好き。きょうは、『ミステリー・ゾーン』の2や3や4をぱらぱらめくって楽しもうかな。もう古いものにしか感じなくなっちゃったのだけれど、しばらくしたら、英米の詩人たちやゲーテについて書くために、海外の詩集を読み直そうと思う。すでに書き込みきれないくらいのメモがあるのだけれど、それらは読み直しせずに、新たな目でもって海外の詩人の作品を読み直したいと思う。ぼくはやっぱり海外の詩人が好きなのだな。 二〇一七年四月六日 「大岡 信先生」  いま日知庵から帰った。大岡 信先生が、きのうの4月5日に亡くなっていたということを文学極道の詩投稿欄のコメントで知ったばかりだ。きのうと言っても、いま、6日になったばかりの夜中で、きょうもヨッパであるが、大岡 信先生は、1991年度のユリイカの新人に、ぼくを選んでいただいた選者であり、大恩人である。じっさいに何度かお会いして、お話もさせていただいた方である。これ以上、言葉もない。 二〇一七年四月七日 「ブライトンの怪物」  SF短篇を思い出してネットで検索している。どの短篇集に入っているかわからないのだ。タイムスリップした広島の原爆被害者(入れ墨者)が、化け物扱いされてむかしのイギリスに漂着した話だ。悲惨なSFなのだが、持ってる短篇集にあるのだろうが、あまりに数が多すぎて何を読んだかわからないのだ。  あった。偶然手に取ったジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』に入っていた。「ブライトンの怪物」というタイトルだった。そうそう。気持ち悪いのだ。それでいて、かわいそう。これ読んで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月八日 「遅れている連中」  シェフィールドの『マッカンドルー宙航記』を読み終わった。たいしておもしろくなかった。  文学極道のコメント欄で、ぼくの『詩の日めくり』が日記だから、詩にならないと主張する者が現われた。まあ、しじゅう現われるのだが、詩に多様性を認めるぼくの目から見たら、何十年、いや百年は遅れている連中だなと思う。紙媒体で、そんな批判されたことなどないけれど、ネットのほうが遅れているのかなという印象をもつ。ぼくの『全行引用詩』も、しじゅう、文学極道で、詩ではないと言われる。いったい詩とは何か。ぼくは拡張主義者であるのだが、せまい領域に現代詩の枠をはめておきたい連中がいるのである。遅れているだけでなくて、ぼくのようなものの足を引っ張るのはぜひやめてくれと言いたい。 二〇一七年四月九日 「桜の花びら」  これから朝マックに。きのうは、コンビニの弁当とカップラーメン。弁当、はじめて買ったやつで超まずかった。ロクなもの、食べてないな。  いま大谷良太くんちから帰った。昼はベーコンエッグ、夜はカレーをご馳走になった。ありがとうね。5階のベランダでタバコを吸っていると、桜の花びらが隅に落ちていたので見下ろすと、桜の木のてっぺんが10メートルほど下にあって、ああ、風がこんな上の方にまで運んだのだなと思った。彼が住んでいる棟は、たしか10階まであったと思うんだけど、いったい何階まで風によって桜の花びらがベランダに運ばれているのかなと思った。「きょうは、きのうまでと違って、寒いね。」と言うと、大谷くんが、「花冷えと言うんですよ。」ぼくはうなずきながら、ああ、花冷えねと返事をした。花冷えか。考えると、不思議な言葉だ。花が気温を低くするわけでもないのにね。そういえば、きょう、桜の花が満開だったけれど、明日は雨だそうだから、きっと、たくさんの桜の花びらが散るだろうね。むかし、と言っても15年ほどむかしのことだけど、高瀬川で桜の花びらが、つぎつぎと流れてくるのを目にして、ああ、きれいだなって思ったことがあるんだけど、そのことをミクシィの日記に書いたら、ある方が、「それを花筏と言うんですよ。」と書いて教えてくださった。その経緯については、2014年に思潮社オンデマンドから出したぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録したさいごの詩に書いている。花筏。はないかだ。波打つ川面。つぎつぎと流れ来ては流れ去ってゆく桜の花びら。ぼくが20代のときに真夜中に見た、道路の上を風に巻かれて、大量の桜の花びらがかたまって流れてくるのを見たときほどに、美しい眺めだった。花など、ふだんの生活のなかで見ることはないだけに、ことさら目をひいた。そいえば、おしべとか、めしべとかって、動物にたとえると、生殖器のようなもので、花びらって、そのそとにあるものだから、さしづめ、花のパンツというか、パンティーみたいなものなのだろうか。風に舞う数千枚のパンツやパンティー。川面を流れるカラフルなパンツやパンティーを、ぼくの目は想像した。  きょう、Amazon で販売しているぼくの詩集『詩の日めくり』(2016年・書肆ブン)に、商品説明文がついた。「田中宏輔、晩年のライフワーク。21世紀の京都・四条河原町に出現したイエス・キリスト。『変身』の主人公、グレゴール・ザムザの変身前夜の物語。日本が戦争になっている状況。etc...詩や詩論、翻訳や創作メモを織り混ぜた複数のパラレルワールドからなる、「日記文学」のパロディー。」っていうもの。いまでも、『詩の日めくり』では、いろいろな実験を行っているが、書肆ブンから出された、第一巻から第三巻までのころほど奇想天外なものはなかったと思っている。  きょう、大谷良太くんに見せてもらった小説の冒頭を繰り返し読んでいて、ああ、ぼくもさぼっていないで、書かなくては、という気にさせられた。というわけで、これから5月に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをする。これって、とても疲れるのね。自由連想で詩を書くほうが百倍も楽ちんだ。打ち込み間違いなく打ち込もうとすると、目が疲れるし、目が疲れると、頭が疲れるし。いいところは、かつてこのようなものをぼくは栄養にしていたのだったと確認できることと、文章の意想外の結びつきに連想される情景がときには尋常ではない美しさを持つこととかかな。 二〇一七年四月十日 「完壁」  奥主 榮さんから、詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト発行)を送っていただいた。ぼくははじめ、目次のタイトルをざっと見て、あとがきをはじめに読むタイプなので、いつもどおりに、そうしてみた。目次には、ぼくならつけないようなタイトルが並んでいた。 それはべつに読むときにマイナスなわけではなく、逆に、どんな詩をかいてらっしゃるのだろうかという興味をそそるものだった。詩集全体は、たとえば、「路面」というタイトルの詩にある「誰もが小さな一日を重ねる」だとか、「長く辛い時代を歩かなければならないから」というタイトルの詩にある「誰とも何ものかを分かち合うことなく/群れることなく 毎日の重さに/耐えていくしかなく」といった詩句に見られるような、社会と個人とのあいだの葛藤を描出したものが多く、しかも使われる用語が抽象的なものが多くて、具体的な事柄がほとんど出てこないものだった。いまのぼくは、ことさらに具体的な事柄に傾斜して書くことが多いので、その対照的な点で関心を持った。「風はまだ変わらないのに」といったタイトルの詩のようにレトリカルなものもあるが、「おいわい」というタイトルの詩にあるように、奥主 榮さんの主根はアイロニーにあると思う。とはいっても、「いきもののおはなし」という詩にある「生きるということは/その一つの身体の中で/完結してしまうものではなく/世界とかかわりつづけることなので」という詩句にあるように、向日性のアイロニーといったものをお持ちなのだろう。冒頭に置かれた「昔、僕らは」というタイトルの詩に、「咲き乱れる さくら」という詩句があって、きょうのぼくの目が見た桜の花を思い起こさせたのだった。ついでに、も一つ。3番目に収められた「ぬくぬくぬくとかたつむり」という詩の第一行目に、「紫陽花」という言葉があったのだが、27、8歳まで詩とは無縁だったぼくは、「紫陽花」のことを「しようばな」と音読していたのであった。「紫陽花」が「あじさい」であることを知るには、自分がじっさいに、「あじさい」という言葉を、自分の詩のなかで使わなければならなかったのである。30代半ばであろうか。たしか、シリーズものの「陽の埋葬」のなかの1つに使ったときのことであった。そいえば、ぼくは28歳になるまで、「完璧」の「璧」を、ずっと「壁」だと思っていたのだけれど、という話を、日知庵かどこかでしたことがあって、「ぼくもですよ。それ知ったの社会に出てからですよ。」みたいな言葉を耳にした記憶があって、なんだか、ほっとした思いがしたことがあったのであった。自分の作業(『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み)に戻るまえに、さいごに、も1つ。詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』の著者、奥主 榮さんのご年齢が奥付を見てもまったくわからないのだが、語彙の選択から見て、ぼくとそう変わらないような気がしたのだけれど、どうなのだろう? 若いときには、ぼくは、作者の年齢などどうでもよいものだと思っていたのだが、56歳にもなると、なぜだか、作者の年齢がむしょうに気になるのであった。理由はあまり深く考えたことはないのだけれど、さいきん、ぼくと同じ齢くらいの方の詩に共感することが多くて、っていうのがあるのかもしれない。 ひとと関わることによって、はじめて見る、聞く、知ることがあるのである。  PCを前にして過ごすことが多くなった。毎晩のように飲みに行ってたけど、あしたからは、そうはいかない。きょうは、これで作業を終えて、PCを切って寝る。おやすみ、グッジョブ! きょう、ワードにさいごに入力したのは、タビサ・キングの『スモール・ワールド』の言葉だった。笑ける作品だった。 二〇一七年四月十一日 「Rurikarakusa」  4時30分くらいに目がさめた。学校が始まる日は、たいてい4時30分起き。緊張してるのかな。部屋を出るまで時間があるので、新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしていよう。それで疲れないように適当に。  5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿するさいしょの『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わった。さて、これから着替えて、仕事にいく準備だ。めっちゃ緊張する。  仕事から帰ってくると、郵便受けに、あの江戸川乱歩の小説みたいな詩を書いてらっしゃる草野理恵子さんから、同人誌『Rurikarakusa』の4号を送っていただいていた。お便りと、同人誌に掲載されている2つの詩を読ませていただいた。「飲み込んだ緑の馬を吐き出してみたが/半分溶けていたので仕方なくまた飲み込んだ」といった詩句や、「のっぺらぼうに与える/今日の模様は切ったスイカだった」といった詩句で、ぼくを楽しませてくださった。「緑色の馬/スープ」という作品の冒頭3行は、大いに、ぼくも笑った。「緑色の馬が妻と子をのせて部屋の中を回っている/曲芸のつもりなのだろうか/僕を笑わせようとしているのだろうか」こんな光景は現実的ではないが、ぼくの創造の目は、たしかに妻と子をのせた緑色の馬が部屋の中を回っているのだった。草野理恵子さんのは奇譚の部類になるのかな。あるいは、怪奇ものと言ってもいいと思う。そのグロテスクな光景に、なにゆえにかそそられる。  ご同人に、青木由弥子さんという方がいらっしゃって、その方の「現況」という詩のなかの第3連目に大いに考えさせられるところがあった。「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」というところだけれど、短歌や俳句で、ときおり「空の底」という表現に出くわす。「空に沈む」とかもだけれど、「空の底にたどりついたら」という発想は、ぼくにはなかった。これは、ぼくがうかつだという意味でである。考えを徹底させるという訓練が、56歳にしてもまだまだ足りないような気がしたのであった。訓練不足だぞという声掛けをしていただいたようなものだ。貴重な経験だった。すばらしいことだと思う。知識を与えられたということだけではなく、考え方を改めさせられたということに、ぼくは目を見開かされたような気がしたのだった。これから、なにを読んだり、なにかをしたり、見聞きしたときにも、この経験を活かせるように、自己鍛錬したいものだと思った。できるかどうかは、これからの自分の心がけ次第だけれどもね。草野理恵子さんのお便りと同人誌の後書きにも書いてあったのだけれど、草野理恵子さんの息子さんがSF作家らしくて、ご活躍なさっておられるご様子。親子で文学をしているって、まあ、なんという因果なのでしょうね。ぼくも父親の影響をもろにかぶっているけれども。でも、ぼくの父親は書くひとではなくて、読むひとであったのだけれど。ぼくの小学校時代や中学校時代の読み物って、父親の本棚にあるものを読んでいたので、翻訳もののミステリーとかSFでいっぱいだった。ぼくよりずっと先にフィリップ・K・ディックを読んでいるようなひとだった。亡くなって何年になるのだろう。親不孝者のぼくは知らない。たしか亡くなったのは、平成19年だったような気がするのだけれど、『詩の日めくり』のどこかに書いたことがあるような気がするのだけれど、正確に思い出せない。そだ。いくよいく・ごおいちさん。平静19年4月19日の朝5時13分だったような気がする。そだそだ。朝5時15分だったら、「いくよいく・ごお・いこう」になるのに、あと2分長く生きていてくれたらよかったのになって思ったことを思い出した。父親が亡くなったときの印象は、遺体はたいへん臭いというものが第一番目の印象だった。強烈に、すっぱい臭さだった。びっくりしたこと憶えてる。父親の死は何度も詩に書いているけれど、実景にいちばん近いのは、ブラジル大使館の文化部の方からの依頼で書いた、「Then。」だろう。のちに、「魂」と改題して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収めた。その批評を、藤 一紀さんに書いていただいたことがあった。のちに、澤あづささんがもろもろの経緯を含めて、みんなまとめてくださったページがあって、この機会に読み直してみた。よかったら、みなさんも、どうぞ見てくだされ。こちら→http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/43650543.html…  ありゃ、『Then。』は、『偶然』というタイトルに変更して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収録していたものだった。『魂』は、べっこの作品だった。塾からいま帰ったのだけれど、塾の行きしなに、あれ、間違えたぞってなって、部屋に戻ってたしかめた。藤 一紀さん、澤 あづささん、ごめんなさい。  きょう、学校で、昼間、20冊の問題集と解答をダンボール箱に入れて、2回運んだんだけど、ここ数十年、重いものを持ったことがほとんどなかったので、腰をやられたみたい。痛い。お風呂に入って、クスリを塗ったけれど、まだ痛い。齢だなあ。体重が去年より8キロも増えていることも原因だと思うけれど。  きょう、塾からの帰り道、「ぼくを苦しめるのは、ぼくなんだ。」といった言葉がふいに浮かんだ。「だったら、ぼくを喜ばせるのも、ぼくじゃないか。なんだ。簡単なことかもしれないぞ。やり方によっては。」などと考えながら帰ってきたのだが、どうだろう。やり方など簡単に見つからないだろうな。  腰が痛いので、もう一度、お風呂に入って、あったまって寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月十二日 「現況」  きょう、機会があって、金子光春の詩を読んで、いったい、ぼくは、なんでこんなすごい詩人をもっと読まなかったんだろうなって思った。「ぼくはあなたのうんこになりました」みたいな詩句に出合っていたのに、なぜ見逃していたんだろう。ってなことを考えていた。部屋の本棚にある光春の詩集にはない詩句だ。  きのう、青木由弥子さんという方の「現況」というタイトルの詩の「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」という詩句について書いたが、きょう仕事の行きしなに、その詩句から室生犀星の詩句が(と、このときは思っていた)思い出された。「こぼれた笑みなら、拾えばいいだろう」だったか、「こぼれた笑みなら、拾えるのだ」だったかなと思って、仕事場の図書館で室生犀星の詩集を借りて読んだのだが見つからなかった。仕事から帰り、部屋に戻って、本棚にある室生犀星の詩集を読んだのだが見つからなかった。青木由弥子さんの発想が似ていたような気がして、気になって気になって、部屋の本棚にある日本人の詩集を読み返しているのだが、いまだ見つからず、である。もし、どなたか、だれの詩にあった言葉だったのかご存知でしたら、お教えください。もう、気になって気になって仕方ないのです。部屋にある詩集で目にした記憶はあるのですが見つからないのです。シュンとなってます。  ついでに授業の空き時間に、金子光春の詩集を図書館で読んでいたのだけれど、「わたしはあなたのうんこになりました」だったかな、そんな詩句に出合って、びっくりして、金子光春の詩を、部屋の本棚にある『日本の詩歌』シリーズで読んだのだが、その詩句のある詩は収録されていなかった。とても残念。  きょう、寝るまえの読書は、『日本の詩歌』シリーズ。どこかにあるはずなのだ。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月十三日 「空に底があったらたどりつくはず」  いま起きた。PCでも検索したが出てこない。またふたたび偶然出合う僥倖に期待して、きょうは、5月に文学極道に投稿する2番目の『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みに専念しよう。金子光春の「うんこ」の詩を持ってなかったこともショックだったが、図書館でルーズリーフに書き写せばいいかな。  朝に松家で、みそ豚定食を食べたあと、部屋に戻って横になってたら、きゅうに眠気におそわれて、いままで眠ってしまっていた。悪夢の連続で、父親と弟が出てきた。ぼくの夢にはよく家族が出てくるのだが、ぼくは家族がみな嫌いだった。不思議なものだ。嫌いなものがずっと夢に出てくるのだ。  青木由弥子さんの詩句の発想と、ぼくが室生犀星の詩句の(と、思っていた)発想と似ていたと思っていたというのは、言葉が足りていなかった。発想の型が似ていたと思うのである。つまり、言葉を突き詰めて考えるということなのであるが、「空に底があったらたどりつくはず」という発想と、「笑みがこぼれるものなら、こぼれた笑みは、拾うことができるはず」という発想に、ぼくは、詩人の言葉の突き詰め方を見たのだと思う。ぼくの使うレトリックなんて、とても単純なものばかりで、このような突き詰め方をしたことがなかったので、強烈な印象を与えられたのだと思う。できたら、ぼくもしてみたい。  ふと思ったんだけど、人間が写真のように実景とそっくりな絵を描いたら芸術になるのに、機械が写真のように実景とそっくりな絵を描いても芸術と呼ばれるのだろうか。人工知能が発達しているので、現代でも可能だと思うのだけれど。ぼくには機械がすると、芸術ではなくなるような気がするのだけれど。 二〇一七年四月十四日 「うんこの詩、その他」  いま起きた。昼間ずっと寝ていたのに、夜も寝ていたということは、よほど疲れていたのだろう。これが齢か。セブイレでコーヒーを買ってきたので、コーヒーを淹れて飲む。頭の毛を刈って、お風呂に入って仕事に行こう。  きょう、図書館で、思潮社から出てた「現代詩読本」の『金子光晴』を借りて、代表詩50選に入ってた、詩集『人間の悲劇』収録の「もう一篇の詩」というタイトルの詩を手書きで全行写した。あまりにもすばらしいので、全行紹介するね。 恋人よ。 たうとう僕は あなたのうんこになりました。 そして狭い糞壺のなかで ほかのうんこといっしょに 蠅がうみつけた幼虫どもに くすぐられてゐる。 あなたにのこりなく消化され あなたの滓になって あなたからおし出されたことに つゆほどの怨みもありません。 うきながら、しづみながら あなたをみあげてよびかけても 恋人よ。あなたは、もはや うんことなった僕に気づくよしなく ぎい、ばたんと出ていってしまった。  そいえば、10年ほどまえに書肆山田から『The Wasteless Land.IV』を出したのだけれど、そのなかに、「存在の下痢」というタイトルの詩を収めたのだけれど、そのとき、大谷良太くんに、「金子光晴の詩に、うんこの詩がありますよ。」と聞かされたことがあることを思い出した。そのとき、「恋人よ。/たうとう僕は/あなたのうんこになりました。」という詩句を教えてもらったような気もする。すっかり忘れていた。何日かまえに、「こぼれた笑みなら拾えばよい」だったか、「笑みがこぼれたら拾えばよい」だったか、そんな詩句を以前に目にしたことを書いたが、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔している。ぼくが生きているうちに、ふたたびその詩句と邂逅できるのかどうかわからないけれど、できればふたたび巡り合いたいと思っている。そのときには、ちゃんとメモっておこう。それにしても、うかつだな、ぼくは。せめて、きょう出合った、すてきな詩句でもメモっておこう。 岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」 花が美しくて 泥が汚いのは 泥のなかに生き 花のなかに死ぬからだ 岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」 酒に酔(よ)うものは酒に溺(おぼ)れ 花に酔(よ)うものは花に亡(ほろ)びる 酒にも花にも酔わないものは 生きていても しょんがいな しょんがいな 吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5 「一度書かれた言葉は消すな!」 吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5 風景に期待してはならない 距離は狂っている 吉岡 実 「楽園」 私はそれを引用する 他人の言葉でも引用されたものは すでに黄金化す 吉岡 実 「草上の晩餐」 多くの夜は 小さいものから大きくなる 大きいものから小さくなる 西脇順三郎 「あざみの衣(ころも)」 あざみの花の色を どこかの国の夕(ゆう)陽(ひ)の空に たとえたのはキイツという人の 思い出であった この本の中へは夏はもどらない 武村志保 「白い魚」 凍(こお)った夜の空がゆっくり位置をかえる 笹沢美明 「愛」 「愛の方向が判(わか)るだけでも幸福だな」と。 三好達治 「?(かもめ)」 彼ら自身が彼らの故郷 彼ら自身が彼らの墳(ふん)墓(ぼ) 鮎川信夫 「なぜぼくの手が」 さりげないぼくの微(び)笑(しよう)も どうしてきみの涙を とめることができよう ぼくのものでもきみのものでもない さらに多くの涙があるのに 平木二六 「雨季(うき)」 仕事、仕事、仕事、仕事が汝の存在をたしかめる。 田中冬二 「美しき夕暮(ゆうぐれ)」 女はナプキンに美しい夕暮をたたんでいる。 秋谷 豊 「秋の遠方へ」 陽が一日を閉(と)じるように 一つの昼のなかでぼくは静かに 登攀(とうはん)を夢みるのだ  ここまで引用したのは、金子光晴と吉岡 実のもの以外、すべて、土橋重治さんが編んだ詩のアンソロジー、『日本の愛の詩集』 青春のためのアンソロジー 大和書房 1967(銀河選書)に収録されていたもの。ぼくがまったく知らなかった詩人の名前がたくさんあった。田中冬二の詩句は知ってたけど。授業の空き時間が2時間あって、昼休みもあったから、図書館で3冊借りて、それで書き写したってわけだけど、吉岡 実さんのは、たしか、「現代詩人叢書 1」って書いてあったかな。どっから出てるのかメモし忘れたけれど、思潮社からかな。どだろ。帰りに、図書館に返却したので、いまはわからない。  年々、記憶力が落ちてきている気がするので、なるべくメモしなくてはならない。こまかく書かなければ、いったいそのメモのもとがなんであったのかもわからなくなるので、できるかぎり詳しく書いておかなければならない。あ〜あ、20代や30代のころのような記憶力が戻ってこないかな。厚かましいね。ぼくがときどき使っているレトリックは、ヤコービ流の逆にするというもの。たとえば、『陽の埋葬』シリーズの1作に、「錘のなかに落ちる海。」とかあるし、このあいだ思潮社オンデマンドから出た『図書館の掟。』に収録している「Lark's Tongues in Aspic°」には、「蛇をつつけば藪が出るのよ。」といった詩句があるのだが、さっき、ふと思いついた直喩があって、それは、「蠅にたかる、うんこのように」といったものだったのだけれど、いまのところ、どういった詩に使ったらよいのか、自分でも、ぜんぜん思いつかないシロモノなのであった。おそまつ。  もう日本語の本は買わないつもりだったけど、ブックオフに行ったら、108円のコーナーに、まだ読んだことのないものがあったので買ってしまった。きょうから読もう。グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上下巻である。これで日本語になったベンフォードはコンプリートに読んだことになる。でも、なんか、うんこにたたられてしまったのか、ブックオフからの帰り道、あと10分くらいのところで便意を催したのであった。サークルKだったかな、コンビニのまえを通ったので、そこでトイレを借りればよいものを、ぼくはがまんできる、と思い込んで、急ぎ足で歩いて部屋に無事辿り着き、うんこをしたのであった。あと十秒遅かったら、もらしていたと思う。いや、あと数秒かな。それくらいスリルがあった。3月の終わりに、トイレのドアノブを握った瞬間に、うんこを垂れたくらいに(と言っても、およそ1年ブリだよ)おなかのゆるいぼくなのであった。ほんと、おなか弱いわ。食べ過ぎなのかな。  そだ。きょう通勤電車のなかで、人喰い人種の食べる人肉について考えていたのだけれど、きょうはもう遅いし、あした書き込むことにする。 二〇一七年四月十五日 「西脇順三郎」  50肩になって、片腕・方肩、ほぼ半年ずつ、動かすのも激痛で、痛みどめをのんでも効かず、その痛みで夜中に何度も起きなければならなかったぼくだけれど、これって、腕や肩の筋肉が齢とって硬くなっているってことでしょ? 羊の肉って、子羊だとやわらかくておいしくって、肉の名前まで変わるよね。これって、人喰い人種の方たちの人肉選らびでも同じことが言われるのかしらって、きのう、通勤電車のなかで思ってたんだけど、どうなんだろう。ジジババの肉より若者の肉のほうが、おいしいのかしら? そいえば、ピグミー族のいちばん困っていることって、いちばん食べられるってことらしい。ちいさいことって、食欲をそそるってことだよね。外国のむかし話にもよく子どもを食べる話がでてくるけど、『ヘンゼルとグレーテル』みたいなのね。それって、そういうことなのね。ロシアの殺人鬼で、子どもばっかり100人ほど食べてた方がつかまってらっしゃったけれども、いちおう美食家なのね。ああ、なにを最終的に考えてたかって、ぼくの50肩になった肉って、もうおいしくないんだろうなってこと。50肩って、もう人喰い人種の方たちにとっては、とっくに旬の過ぎてしまった素材なんだろうなって思ったってこと。齢とった鶏の肉もまずいって話を聞いたこともある。牛や羊もなんだろうね。豚はちょっと聞いたことがないなあ。齢とった豚を食べたって話は、戦争ものの話を読んでも出てこなかったな。豚って、齢とったら食べられないくらいまずいってことなのかな。ああ、そうだ。イカって、巨大なイカは、タイヤのように硬くて、しかもアンモニア臭くて食べられないらしい。ホタルイカを八雲さんのお店で、お正月に食べたのだけれど、とっても小さくておいしかった。ひと鉢に20匹くらい入っていて、1400円だけど、2回、頼んだ。ホタルイカも小さい方がおいしい。そいえば、タケノコも若タケノコのほうがおいしいよね。食べ物って、若くて小さいもののほうがおいしいってことかな。  さて、5時30分ちょっとまえだ。5月に文学極道に2週目に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしようかな。きのう寝るまえに、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ」上巻をすこし読んだけど、やっぱり読みやすい。ベンフォードも物理学者なんだけど、ラテンアメリカ文学のサバトといい、ロシア文学のソルジェニーツィンといい、みんな物理学者だ。共通しているのは、観察力がすごくて、それを情景描写で的確に書き表していることだ。とにかく頭に情景がすっと入ってくるのだ。すっと情景を思い起こされるというわけだ。そんなことを考えて、きのうは眠った。 とにかくコーヒーのもうっと。まだちょっと、頭がぼうっとしてるからね。  きょうは、仕事場に2時間早く着いてしまったので、図書館で、思潮社から出てた現代詩読本『西脇順三郎』、『三好達治』を読んでた。気に入った個所を引用する。 西脇順三郎 「菜園の妖術」 永遠だけが存在するのだ その他の存在は存在ではない 西脇順三郎 「近代の寓話」 人間の存在は死後にあるのだ 西脇順三郎 「海の微風」 自然の法則はかなしいね 西脇順三郎 「菜園の妖術」 永遠は永遠自身の存在であつて 人間の存在にはふれていない 西脇順三郎 「菜園の妖術」 存在という観念をはなれて 永遠という存在が いる 西脇順三郎 「菜園の妖術」 永遠を求める必要はない すでに永遠の中にいるのだ 三好達治 「わが手をとりし友ありき」 ものの音は一つ一つに沈黙す  いま三好達治の本を読んでるんだけど、三好達治の詩集って、5000部とか10000部とか売れていたって書いてあってびっくりした。ぼくの詩集なんて、20数冊出してるけれど、合わせても、せいぜい100部とか200部しか売れていないような気がする。出版社も教えてくれないしわからないけど。 ぼくは帽子が似合わないので帽子はかぶらないことにしている。  去年はじめて、サンマの腹を食べた。日知庵で、炭火で焼いてくれていたからだろう。それまでは、箸でよけてて、食べなかった内臓を、酒の肴にして食べてみたのだ。苦い味だが、けっしてまずくはなかった。自分がジジイになったせいだろう。ふと、サンマの腹が食べたくなったのだった。あの苦味は、なんの味に似ているだろう。いや、何の味にも似ていない。炭火で焼かれたサンマのはらわたの味だ。そいえば、さざえのあの黒いところはまだ食べたことがないけれど、もしかしたら、いまなら食べられるかもしれない。さざえを食べる機会があったら挑戦してみよう。酒の肴にいいかもしれない。わからないけど。しかし、サンマのはらわたの苦みは酒の肴に、ほんとによく合う。ぼくは、酒って、麦焼酎のロックしか飲まないけれど。それも3杯が限度である。それ以上、お酒を飲むときはビールにしている。ビール以外のものを飲むと、(さいしょの麦焼酎のロックはのぞいてね)ほとんどといっていいほどゲロるのだ。  中央公論社の『日本の詩歌』を読んでいるのだが、思潮社から出てた現代詩読本に収録されている詩があまり載っていないことに気がついた。ぼく好みのものが『日本の詩歌』から、はずされているのだった。まあ、西脇順三郎のは、ほるぷ出版から出てるのを持ってるから、これから調べてみる。  よかった。読み直したかった「旅人かへらず」全篇と、「菜園の妖術」が、ちゃんと入ってた。西脇順三郎を読むと、なんだか身体が楽になってくるような気がする。ぼくの体質に合ってるのかもしれない。リズムがいい。ときどき驚かされるような可憐なレトリックも魅力的だ。出てくる固有名詞もユニークだし。  きょうは、体調のためにも、これから寝るまで西脇順三郎を読もうと思う。中央公論社の『日本の詩歌』9冊あるんだけれど、まあ、1冊108円で買ったものだからいいけど、金子光晴の入っている第21巻、あの「うんこ」の詩、入れててほしかったなあ。西脇順三郎が載ってるのも長篇ははしょってるし。室生犀星には、1冊すべて使ってるのに、なんて思っちゃうけれど、出版されたときの状況が、いまとは違うんだろうね。きょうは飲みに行けなかったさみしさがあるけれど、詩を読むさみしさがあるので、差し引きゼロだ。(−1から−1を引くと0になるでしょ?)そんな一日があってもいい。 二〇一七年四月十六日 「西脇順三郎」  金子光晴のあの「うんこ」の詩、「もう一篇の詩」が収められている金子光晴の詩集を手に入れたいと思って調べたら、Amazon で、1円から入手できるんだね。びっくり。朝8時からやってる本屋が西院にあるから、さらっぴんのを買ってもいい。ちくま日本文学全集「金子光晴」に入っているらしい。西院の書店にはなかったので、今日、昼に四条に行って、ジュンク堂で見てこよう。それでなかったら、ネットで買おう。ちくま文庫の棚に行ったら、スティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が置いてあって、読みたいなあと思ったけれど買うのはやめた。もう、ほんと、買ってたらきりがないものね。8時に書店が開くので、それまで時間があるからと思って、ひさしぶりに、もう半年ぶりくらいになるだろうか、朝に行くのは、7時30分から開いているブレッズ・プラスでモーニングでも食べようと思って店のまえで舞ってたら、30分になってもローリングのカーテンが下がったままだったから、あれ、どうしちゃったんだろうと思っていたら、自転車で乗り付けたご夫婦の方も、「もう30分ちがうの?」と奥さんのほうが旦那さんに言われたのだけれど、32分になって、ようやくカーテンがくるくると巻かれてつぎつぎと窓ガラスや入口の窓ガラスが透明になっていったので、ほっと安心した。ぼくは、モーニングセットを頼んだんだけど、そのご夫婦(だと思う、ぼくよりご高齢らしい感じ)も、モーニングセットだった。モーニングセットでは飲み物が選べるんだけど、ぼくは、アイスモカにした。パンは食べ放題なのだ。レタスのサラダと、ゆで卵半分と、ウィンナーソーセージ2個がついていた。32分に店内に入ったけれど30分経っても、ぼくのほかにお客さんといえば、その日本人夫婦の方と、10分くらいあとで入ってこられた外国人女性の2人組のカップルだけだった。外国人女性の方たちはモーニングセットじゃなくて、置いてあるパンをチョイスして飲み物を頼んでいらっしゃった。8時くらいまで、ぼくを含めて、その3組の客しかいなかったので、めずらしいなあと思った。日曜日なので、仕事前に来られるお客さんがいらっしゃらなかったというのもあるのだけれど、以前によくお見かけした、60代から80代くらいまでのご高齢の常連の方たちがいらっしゃらなくて、どうしてなのかなと思った。まさか、みなさん、お亡くなりになったわけじゃないだろうし、きっと、きょうが日曜日だからだろうなって思うことにした。以前によく朝に行ってたころ、ときどき、お見かけしなくなる方がぽつりぽつりといらっしゃってて、病院にご入院でもされたのか、お亡くなりになったのかと、いろいろ想像していたことがあったのだけれど、きょうは、そのご常連さんたちがひとりもいらっしゃらなかったので、びっくりしたのであった。なんにでもびっくりするのは愚か者だけであるとヘラクレイトスは書き残していたけれど、ぼくはたいていなんにでも驚くたちなので、きっと愚か者なのだろう。いいけど。  お昼に、ジュンク堂に寄って、それからプレゼント用に付箋を買いに(バレンタイン・チョコのお返しをまだしていない方がいらっしゃって)行って、それから日知庵に行こうっと。それまで、きのう付箋した箇所(西脇順三郎の詩でね)をルーズリーフに書き写そう。それって、1時間くらいで終わっちゃうだろうから、終わったら、それをツイートに書き込んで、それでも時間があまるだろうから、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。とりあえず、まず、コーヒーを淹れて飲もう。それからだ。西脇順三郎の詩、ほんとおもしろかった。読んでて楽しかった。 西脇順三郎 「道路」 二人は行く 永遠に離れて 永遠に近づいて行くのだ。 西脇順三郎 「第三の神話」 よく見ると帆船の近くに イカルスの足が見える いまイカルスが落ちたばかりだ 西脇順三郎 「第三の神話」 美しいものほど悲しいものはない 西脇順三郎 「天国の夏」 もう人間はあまり笑わなくなつた 脳髄しか笑わなくなつた 西脇順三郎 菜園の妖術」 一かけるゼロはゼロだ だがゼロは唯一の存在だ 無は唯一の存在だ 無は永遠の存在だ 西脇順三郎 豊穣の女神」 幸福もなく不幸もないことは 絶対の幸福である 地獄もなく極楽もないところに 本当の極楽がある 西脇順三郎 「野原の夢」 すべては亡びるために できているということは 永遠の悲しみの悲しみだ 西脇順三郎 「野原の夢」 これは確かに すべての音だ 私は私でないものに 私を発見する音だ 西脇順三郎 「大和路」 なぜ人間も繁殖しなければならない 田中冬二 「暮春・ネルの着物」 私はアスパラガスをたべよう  ひゃ〜、2時間まえに、「店のまえで舞ってたら」って書いてた。まあ、「舞ってたら」ハタから見て、おもしろかったんだろうけどね。56歳のハゲのジジイが舞ってたらね。これはもちろん、「店のまえで待ってたら」の打ち込み間違いです。いまさらぜんぶ入れ直すのも面倒なので付け足して書きますね。 愛してもいないのに憎むことはできない。 憎んでもいないのに愛することはできない。  これから四条に。まずジュンク堂に寄って、金子光晴の詩集があるかどうか見て、それからロフトに寄ってプレゼント用の栞を買って、そのあと日知庵に行く。  日知庵から帰ってきた。本好きのご夫婦の方とおしゃべりさせていただいてた。アーサー王の話がでてきて、なつかしかった。ぼくの持ってるのは、リチャード・キャヴェンディッシュの『アーサー王伝説』高市順一郎訳、晶文社刊だった。魚夫王とか出てきて、これって、エリオットの『荒地』につながるね。  きょうは、ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読みながら床に就こう。きのうも、ちょこっと読んだのだけれど、ベンフォードの文章には教えられることが多い。物理学者が本業なのに、ハードSF作家なのに、なぜにこんなによく人間が描けているのか不思議だ。いや逆に物理学者だからかな。まあ、そんなことはどうでもいいや。よい本が読めるということだけでも、ぼくが幸せなことは確実なのだから。おやすみ、グッジョブ! いつ寝落ちしてもいいようにクスリのんで横になる。 二〇一七年四月十七日 「SFカーニバル」  起きた。きょうは神経科医院に行くので、それまで、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。  医院の帰りに、大谷良太くんちに行った。コーヒー飲みながら詩の話や小説の話をしていた。「きょう、医院の待合室で、雑誌の『女性自身』を読んでたら、共謀罪の話が載っていてね。」と言ったら、ちょこっと政治の話になった。と、こういうことを書いても警察に捕まる時代になっていくのかなあ。怖い。  そだ。きょう、医院で待つのも長いからということで、ロフトに行って、プレゼント用の付箋を2つ買い、ついでに丸善に寄って、岩波文庫の『金子光晴詩集』を買った。きのう買わなかったのだ。背の緑色がちょっと退色しているのだけれど、ジュンク堂に置いてあったものも退色していたから、まあ、これでいいやと思って買った。奥付を見ると、2015年5月15日 第8刷発行って、なってたんだけど。ということは、背の緑色が退色しているのではなくて、この時期に発行された『金子光晴詩集』すべての本の背の緑色が、ちょっとへんな緑色になっちゃってたって可能性が大なのだなって思った。  部屋に戻ったら、郵便受けに、このあいだ Amazon で買った、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー『SFカーニバル』が届いていた。旧カヴァーである。表紙の裏にブックオフの値札を剥がした跡があるが、まあ、いいや。150円ほどで買ったものだから。(送料は257円だったかな。)もう本は買わないと思っていたのだけれど、買っちゃうんだな。終活して、蔵書を減らしている最中なのだけど。なんか複雑な気持ち。そだ。「こぼれた笑いなら拾えばいい」だったかな、そんな詩句があってねという話を大谷くんにしたら、大谷くんがネットで調べてくれたんだけど、出てこなかった。生きているうちに、その詩句とふたたび巡り合える日がくるかなあ。どだろ。「詩句のことなら、なんでも知ってるってひとっていないの?」って、大谷くんに訊いたけど、「いないんじゃないですか。」って返事がきて、ありゃりゃと思った。篠田一士みたいなひとって、もういまの時代にはいないのかなあ。  さて、56歳独身男は、これから2回目の洗濯をするぞ。雨だから、部屋干しするけど。  雨の音がすごくって、怖い。どうして、雨の音が怖いのか、わからないけれど。息が詰まってくる怖さだ。 二〇一七年四月十八日 「明滅」  ちょっと早く起きたので、5月の第2週目に文学極道に投稿する、『全行引用に寄る自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。  5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』あとルーズリーフ2枚分で終わり。2枚ともページいっぱいの長文だから、ワード入力するの、しんどいけど、がんばった分だけ満足感が増すので、詩作はやめられそうにない。きっと一生、無名の詩書きだろうけど。まあ、いいや。 海東セラさんから、個人誌『ピエ』18号と19号を送っていただいた。同時に出されたらしい。セラさんの作品を読んだ。18号に収録されている「混合栓」では、ずばり作品のタイトルの意味をはじめて教えていただいた。お風呂で毎日使っているものなのに、その名称を知らずに使っていたのだった。19号に収められている「明滅」では、つぎのようなすてきな詩句に出合った。「わたしは冷たい━━。半ズボンの裾がそうつぶやくので初めて濡れていることに気がつく。」すてきな詩句だ。とてもすてきな詩句だ。きょうもいろいろあったけど、すてきな詩句に出合ったら、みんなチャラだ。吹っ飛んじゃうんだ。海東セラさん、いつもうつくしい詩誌をお送りくださり、ありがとうございます。引用させていただいた詩句、ぼくのなかで繰り返し繰り返し木霊しています。 二〇一七年四月十九日 「クライブ・ジャクスン」  フレドリック・ブラウンが編んだ短篇SFアンソロジー『SFカーニバル』読了。ブラウン自身のがいちばんおもしろかった。また、クライブ・ジャクスンというはじめて読む作家のわずか4ページのスペオペでは、さいごの3行に笑った。それはないやろ的な落ち。ぼくには大好きなタイプの作品だったけど。  で、ここ数日のあいだ、断続的に読んでいるグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上巻、ひじょうによい。とてもよい。表現がうまい。描写がすごくいい。なんちゅう物理学者なんだろう。っていうか、ぼくは、これで、ベンフォードを読むのコンプリートになっちゃうんだよね。残念!  きょうは、寝るまえの読書は、『タイムスケープ』上巻のつづきから。まだ138ページ目だけど、傑作の予感がする。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月二十日 「韓国ポップス」  風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。  午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。  ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。 『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。  BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。  そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。 ピリョヘー。  いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。 アンニョン。  いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。  ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/  ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。  さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。  瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。  日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。 「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。 hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。 二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」  グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。 二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」 いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ! いつでも、少しだけ。 きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。 https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4…  グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。 二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」 人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。 時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。 時間とはここ、場所とはいま。  グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。  これから2杯目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。  コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。  GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。  さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。 自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→ https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2… 二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」  グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。 最長の日本語の単語って、なんだろう?  きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。  FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。  いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。  Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。  Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。  いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。  ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。  あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。  とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。  寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」  これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。  きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。  もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなられて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。  これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。  4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。  あちゃ〜。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー!  ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240−241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。  恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。  付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。)  見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。  さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。 『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。 二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」  いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ〜。  夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。 きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。  付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったのだと思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。  これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。  363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。  465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」 かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。 核実験は夢のまたゆめ どこまでつづくぬかるみぞ。 (金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行)  ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。 先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。  鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。  あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。  そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。  いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや〜しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。  ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。 金子光晴 「死」        ━━Sに。  生きてるのが花よ。 さういつて別れたおまへ。 根さがりの銀杏返し 痺肩のいたいたしいうしろつき。 あれから二十年、三十年 女はあつちをむいたままだ。 泣いてゐるのか、それとも しのび笑をこしらへてゐるのか ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。 人の騒ぎと、時のうしほのなかで うつかり手をはなせば互ひに もう、生死をしる由がない。 しつてくれ。いまの僕は 花も実も昔のことで、生きるのが重荷 心にのこるおまへのほとぼりに さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。  うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。 これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。 コーヒーを先に淹れた。  遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。 二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」  きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。 金子光晴 「章句」F 落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる 落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる 金子光晴 「渦」 馬券をかふために金のほしいやつと 金がほしいために馬券を買ふやつとの 半分づつの住居なのだ。 金子光晴 「渦」 あゝ渦の渦たる都上海 強力にまきこめ、しぼり、投出す、 しかしその大小無数の渦もやうは 他でもない。世界から計上された 無数の質問とその答だ。 金子光晴 「路傍の愛人」 危い! あんまりそばへ寄ると 君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。 金子光晴 「路傍の愛人」 だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、 俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、 妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。 金子光晴 「航海」 彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ 前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。 金子光晴 「南の女におくる」 人は、どんな小さな記憶でも、?んでゐるわけにゆかない。 金子光晴 「夜の酒場で」 ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、 金子光晴 「おっとせい」二 (…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。 金子光晴 「泡」三 (…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。 金子光晴 「どぶ」一 ━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。 金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一  どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。  僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。 金子光晴 「落下傘」一 おちこんでゆくこの速さは なにごとだ。 なんのあやまちだ。 金子光晴 「寂しさの歌」三 僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。 金子光晴 「蛾」一 月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。 金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」 身辺がおし流されて、いつのまにか おもひもかけないところにじぶんがゐる 金子光晴 「女たちのエレジー」 (…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。 金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」 三十年後のいまも猶僕は 顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。 そのときの言訳のことばが いまだにみつからないので。 金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」 ぱんぱんはそばの誰彼を 食ってしまひさうな欠伸をする。 この欠伸ほどふかい穴を 日本では、みたことがない。 金子光晴 「くらげの唄」 僕? 僕とはね、 からっぽのことなのさ。 からっぽが波にゆられ、 また、波にゆりかへされ。 金子光晴 「ある序曲」 すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。 そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。 金子光晴 「太陽」 濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる ……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。 暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の 居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。 金子光晴 「太陽」 濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。 ……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。 暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の 居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。 金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」 海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、 若葉も、貝になってあそぶ。 金子光晴 「愛情」8  なにを申しても、もう 太真はゐない。  あのお尻からもれる 疳高いおならを、  一つ、二つ、三つ、四つと そばで数取りしてゐた頃の 万歳爺々(くわうてい)のしあわせは 四百余州もかへがたかつた。 金子光晴 「愛情」29  ?唇と肛門とは親戚だ?と、 いくら話しても、その男には分らない。 金子光晴 「愛情」46  みんな、ばらばらになるんだね。 もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。 ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。 太陽も、電燈も、コップの水も。  みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、 それから、大事なことを忘れてはいけない。 君だけをたよりに生きてきた奥さんの なじみ深いおまんこさんに言ふ        サンキュー・ベリマッチを。 金子光晴 「海をもう一度」  あくと、あぶらと、小便で濁つた海は 海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。 金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」 それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、 おなじものを別の感性で受けとり、 おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。 金子光晴 「雨の唄」 君のからだのどのへんに 君がいるのだ? 君を見失ったというよりも 僕はまだ、君をみつけなかった。 金子光晴 「雨の唄」 僕の胸のなかに這ういたみ それが、君ではないのか。 たとえ、君ではないにしても 君が投げかける影ではないか。 金子光晴 「雨の唄」 君は単数なのか。複数なのか。 きのうの君ははたして、きょうの君か。 いつともしらず、刻々に蒸発して 君の若さは、交代してしまう。 金子光晴 「短詩(三篇)」B  人間がゐなくなつて、 第一に困るのは、神様と虱だ。 さて、僕がゐなくなるとして、 惜しいのは、この舌で、 なめられなくなることだ。  あのビンもずゐぶん可愛がつて、 口から尻までなめてやつたが、 閉口したことは、ビン奴、 おしゃべりで、七十年間、 つまらぬことをしゃべり通しだ。 金子光晴 「短詩(三篇)」C  そして、僕はしじんになった。 学問があひてにしてくれないので。 ビンに結んだ名札を僕は、 包茎の根元に結びつけた。 金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」 詩だって? それこそ世迷ひごとさ。 金子光晴 「反対」 人のいやがるものこそ、僕の好物。 とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。 金子光晴 「反対」 ぼくは信じる。反対こそ、人生で 唯一つ立派なことだと。 反対こそ、生きてることだ。 反対こそ、じぶんをつかむことだ。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」A 枝と枝が支へる沈黙のほか からんとして、なんにもない。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」E  健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。  さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。  そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」W  冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに 僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。 一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。 そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は?詩?とよぶ。 金子光晴 「そ ら」 生きてることは せうことない 肌でよごす肌 ふれればきずつく心 金子光晴 「多勢のイブに」  イブの末裔はお祖々をかくし 棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り 沼辺の虫取りすみれを植ゑて アダムの塔をHOTHOTさせる。 金子光晴 「わが生の限界の日々」  四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。 メニューを逆さにして下から上へと、 一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで 人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、           炎天下で、垂氷(つらら)の下で。  4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。  もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。  送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき! 晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。 焼き飯も食べた。  ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。 きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日知庵」 これからお風呂。そして仕事に。  あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。 二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」  日知庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。 いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。 二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」  ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。  フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。 イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。 二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」  いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。 原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。  ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年五月一日─三十一日/田中宏輔[2021年8月16日17時55分] 二〇一七年五月一日 「もろもろのこと。」  だいぶ本を処分したんだけど、またぼちぼち本を買い出したので、本棚にかざる本をクリアファイルで四角く囲んでカヴァーにして立ててかざれるようにしてるんだけど、そのクリアファイルがなくなったので、西院のダイソーにまず寄って、108円ジャストを払ってA5版の透明のクリアファイルを買った。  それからブレッズ・プラスに行って、ホットサンドイッチ・セットを注文して(税込628円だったけど、200円の割引券を使ったので、426円)飲み物はダージリンティーのアイスで、喫茶部の席が1席しか空いてなかったので、さきにバックパックとさっき買ったばかりのクリアファイルを置いておいて料金を払った。ここでも、ぴったし426円を払った。坐ってクリアファイルを袋から出して状態を調べていると(曲がりがあったりしていないかどうかとかね)隣の席にいたおばあさん二人組の会話が聞こえてきた。月曜日の3時過ぎって、気がつけば、おばさんと、おばあさんたちばかりだった。おじさんやおにいさんの姿はひとつもなかった。で、隣に坐っていたおばあさんのひとりが、相手のおばあさんに、こんなことしゃべっているのが耳に聞こえてきたのであった。「隣の娘さんとは、小さいときには口をきいたけど、もう学生やろ。そんなんぜんぜん口なんかきいてへんねんけど、いま美容院の学校に行ってはんねんて。将来、美容院にならはるらしいわ。」って。それ、美容院の店員の間違いちゃうのんってツッコミ入れたくなったけど、なんか髪形がダダみたいな感じで、化粧の濃い迫力のあるおばあさんだったから黙ってた。黙ってたけど、これ、メモしとかなければならないなと思って、その場でメモしてた。  ホットサンドだけではおなかがいっぱいにならなかったので、帰りに松屋に寄って、牛丼のミニを食べた。240円やった。このときは、250円を自販機に入れて10円玉一個のお釣りを受け取った。このとき小銭入れにジャスト240円あればよかったのになあって、ふと思った。まあ、どってことないことやけど。  そや、クリアファイルで、立てられるブックカヴァーつくろうっと。いま、サンリオSF文庫のをつくってる。すでにつくってあるのは、ミシェル・ジュリの『熱い太陽、深海魚』、フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』と『ヴァリス』、ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の4冊。これからつくるのは、ミシェル・ジュリの『不安定な時間』、ロバート・シルヴァーバーグの『内側の世界』と『大地への下降』、アントニイ・バージェスの『アバ、アバ』、ボブ・ショウの『眩暈』、ゴア・ヴィダルの『マイロン』、シオドア・スタージョンの『コスミック・レイプ』、ピエール・クリスタンの『着飾った捕食家たち』、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』、フリッツ・ライバーの『バケツ一杯の空気』、マーガレット・セント・クレアの『どこからなりとも月にひとつの卵』、ボブ・ショウの『去りにし日々、今ひとたびの幻』、シオドア・スタージョンの『スタージョンは健在なり』、トム・リーミイの『サンジィエゴ・ライトフット・スー』。いまからつくる。ぜんぶつくれるかどうか、わからないけど、がんばる。つくり終わった。これから、フィニイの短篇集のつづきを読む。 二〇一七年五月二日 「永遠」  いま、ジャック・フィニイの短篇集『ゲイルズバーグの春を愛す』のさいごに収録されている「愛の手紙」を読み終わったところ。さいごの二行を読んで、涙が滲んでしまった。齢をとると涙腺がほんとに弱くなってしまうのだな。永遠の思い出のためにって、まだ永遠なんて言葉に感動するぼくがいたんやね。 二〇一七年五月三日 「ゆ党」  いま日知庵から帰った。国立大学出身・一級公務員の女子(30数歳)から聞いた話。「与党、野党があるんだったら、ゆ党もあればいいと思いません?」と言われて、「えっ、なんのこと?」と尋ねたぼくに、「やゆよですよ。よ党、や党でしょ? ゆ党ってあってもいいと思いません?」笑うしかなかった。 二〇一七年五月四日 「時間」  なぜ時間というものがあるのだろう? 時間がなければ、見ることも聞くことも感じることもできないからだろう。見ることができるために、聞くことができるために、感じることができるために、時間が存在するのである。 二〇一七年五月五日 「真珠」  日知庵に行くと、ほぼ満席で、空いてるところは一か所だけだったのだけれど、奥のカウンター席だったのだけれど、そこに坐ってからお店のなかを見回すと、入り口近くのカウンター席に、植木職人24歳の藤原くんが腰かけていて挨拶したら、その隣に坐ってらっしゃる方も存じ上げていた方だったのでご挨拶したのだけれど、そうそう、その方、大石さんて、えいちゃんに呼ばれてらっしゃったのだけれど、御年76歳で、剣道6段の方で、ご自分で道場もお持ちらしくって、その二人の隣の席が空いたときに、ぼくは移動して3人でしゃべっていたのだけれど、前のマスターの亡くなられたことが話題になったのかな、前のマスターは78歳で亡くなったと思うのだけれど、死の話が出て、いったいいくつくらいで人間は死ぬのでしょうねとか話してたら、大石さんが、「このあいだ、うちの道場にきてた73歳の方が、道場を掃除し終わった瞬間にぽっくり亡くなられましたよ。」っておっしゃったので、「その掃除が心臓に負担になって亡くなったんじゃないですか?」と言うと、大石さんは笑ってらっしゃったけれど、藤原くんが、「田中さん、エグイっすね。」と言うので、「ほら、日本人って背中を曲げてお辞儀をするじゃない? あれもそうとう心臓に悪いらしいよ。外国人は背中は曲げないしね。」とかとか話してた。大石さん、あとで店に来た女性客のことが気に入られたのか、名刺を渡されたのだけれど、ぼくの目のまえを名刺が手渡されたので、ちらっと見たのだけれど、真珠のデザイン会社をなさっておられるらしく、曲がった真珠の指輪をなさっておられて、その女性客がしきりと感心していた。ハート型の真珠だったのだ。ぼくは、「ああ、バロックだな。」と言ったのだけれど、ぼくの意見は無視されてしまって、大石さんと女性客(このあいだ話題にした某国立大学出の公務員だ)のあいだで、その真珠のとれた外国の話で盛り上がっていた。どこの国だったか、腹が立っていたので記憶していない。 二〇一七年五月六日 「原 民喜」  原 民喜は、青土社から出ていた全集で(二冊本だったかな)読んでいて、ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』に収録している詩に、数多くの文章を引用しているが、日本語のもっとも美しい使い手だと、いまでも思っている。民喜のもの以上に美しい日本語の文章は見たことがない。 二〇一七年五月七日 「パロディー」  日知庵で飲んでいると、知り合いが増えていって、話がはずんでいたのだけれど、女性客3人組が入ってきて、カウンター席に坐ってマシンガントークをはじめたのだけれど、こんなん言ってたから、メモした。「あたし、とつぜん夜中の12時に唐揚げが揚げたくなって、それからしばらく唐揚げ揚げっぱなしやってん。」「このあいだドアに首が挟まっててん。寝てて目が覚めたら、上を見たら、ドアの上のところやってん。寝ているうちに、ドアに首が挟まっててんな。」いったん、ぼくは、日知庵を出て、きみやに行ったら休みだったので、も一度、日知庵に行ったら、ぼくがいないあいだに、ぼくの噂をしていたみたいで、ぼくがカウンター席の端に腰を下ろしたら、女性客3人組のうちのひとり、あのドアに首を挟まれてた彼女が、ぼくの隣に腰かけてきて、それから彼女が指を見せてきて、「あたし、指紋がないのよ。着物を扱ってるから。」と言うので、「印刷所に勤めているひとにも、指紋のないひとがいるって本で読んだことがありますよ。」と返事したりしていた。彼女はいまは着物を扱う仕事をしているみたいだけど、以前は塾で国語を教えていたらしくて、漢文の話になったのだけれど、ぼくは漢文がぜんぜんできないので、話を『源氏物語』の方向にもっていった。源氏物語なら、2年ほどかけて読んだことがあったので。与謝野晶子訳でだけれども。まあ、よくしゃべる、陽気な、しかも、大酒飲みの女性だった。ぼくは、彼女たちよりも先に勘定をすまして日知庵を出たのだけれど、11時30分に送り迎えの車がくるという話だった。送り迎えするのは、彼女たちが属している楽団の一員で、ぼくも知ってる人物だけれど。いや〜、やはり、日知庵ですごす一日は濃いわ。けっきょく、ぼくも、5時から11時くらいまでいたのだけれど、阪急電車に乗ったのが、11時5分出発の電車だったから、出たのは、11時ちょっとまえか。でもまあ、長居したな。焼酎のロックを2杯と、生ビールを4杯か5杯くらい飲んでる。  ところで、日知庵で、原 民喜の詩を思い出していたのだけれど、まだ、買ったばかりの岩波文庫の『原 民喜全詩集』のページもまったく開いていなかったときのことだけれど、5時過ぎのことね、民喜の詩のパロディを考えたのであった。こんなの。 コレガろぼっとナノデス コレガろぼっとナノデス 原発事故デメチャクチャニナッタ原子炉ヲゴラン下サイ ワタシハココデ作業ヲシテイマス 男デモナイ女デモナイ オオ コノ金属製ノ躰ヲ見テ下サイ 壊レヤスク造ラレテハイナイケレドイツカ壊レル コレガろぼっとナノデス ろぼっとノ躰ナノデス  メモには、こう書いてた。さっき書いたのは、じつは、民喜の詩を参考にしたものであったのだ。ぼくは嘘つきだね。 僕ハ人間デハナイノデス 僕ハ人間デハナイノデス ロボットナノデス ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス 血管ガナイノデ血ハ出マセンシ 故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス 僕ハ人間デハナイノデス ロボットナノデス これは、こうしたほうがいいな。 コレハ人間デハナイノデス コレハ人間デハナイノデス ロボットナノデス ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス 血管ガナイノデ血ハ出マセンシ 故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス コレハ人間デハナイノデス ロボットナノデス 二〇一七年五月八日 「肉吸い」  イオンに行ったら、イタリアンレストランがつぶれてて、しゃぶしゃぶ屋さんになってた。そこで、しゃぶしゃぶ食べたことあるのに、すっかり忘れてた。レストランのところからフードコートのコーナーに行って食べることにした。はじめて行った店だった。肉問屋・肉商店という店で、そこで、なにがおいしそうかなって思って看板見てたら、カルビ丼と肉吸いセットっていうのがあって、肉吸いって、大宮の立ち飲み屋で食べたことがあって、おいしかったから、ここでもおいしいかなって思って注文した。980円だったけれど、税金を入れると1058円だった。おいしかったけど、ちと高いかな。  さて、部屋に戻ってきて、コーヒーも淹れたので、これから読書に戻る。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』あと2篇。きょうじゅうに読めるな。時間があまったら、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読む。というか、時間、完全にあまるわな。詩集の編集は、きょうはしない。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』読み終わった。これには、2カ所、クラークの短篇集『天の向こう側』には、4カ所、ルーズリーフに書き写したい文章があるが、いまはせずに、つづけて、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読むことにする。ルーズリーフ作業は、べつに、きょうでなくてもよい。『ドラキュラ ドラキュラ』のBGMはずっとプリンスだった。『大手拓次詩集』では、EW&Fにしようかな。いや、やっぱり暗めのほうがいいかな。いやいや、EW&Fのファンキーな音楽で「大手拓次」を読んでみるのも、おもしろいかもしれない。「大手拓次」と「EW&F」の組み合わせもいいかも。ぼくの悪い癖が出てる。エリオットでも笑っちゃったんだけど、大手拓次のものでも、まじめに書いてあるところで笑ってしまうんだよね。ぼくの性格というか、気質の問題かもしれないけれど。エリオットの『荒地』なんて、笑うしかない、おもしろい詩集だと思うのだけれど、だれも笑うなんて書かないね。 二〇一七年五月九日 「言葉」 ぼくが言葉をつなぎ合わせるのではない。 言葉がぼくをつなぎ合わせるのだ。 二〇一七年五月十日 「ウルフェン」  きのう寝るまえに、サリンジャーの『マディソン街のはずれの小さな反抗』(渥美昭夫訳)を読んだ。なんの才能も、とりえもない平凡な青年と、これまた平凡な女性との、ちょっとした恋愛話だった。平凡さを強調する表現があざとかったけれど、さすがサリンジャー、さいごまで読ませて、笑かせてくれた。学校の授業の空き時間と通勤時間には、ホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』(山田順子訳)を読んでいたのだが、これが初の長編作品かと思われるくらい、おもしろくって、描写に無駄がなくて、会話もウィットに富んでいるし、きょうだけで、153ページまで読んだ。半分近くである。 二〇一七年五月十一日 「闇」 このぼくの胸のなかに灯る闇を見よ。 ぼくの思いは、輝く闇できらめいているのだ。 彼のことを、ぼくの夜で、すっぽりと包み込んでしまいたい。 ぼくのこころからやさしい闇でできた夜で。 二〇一七年五月十二日 「うみのはなし」  いま、郵便受けを見たら、橘上さんから、詩集『うみのはなし』を送っていただいていた。さっそく読んでみた。とてもよい詩集だと思った。 二〇一七年五月十三日 「薔薇の渇き」  いま学校から帰った。ストリーバーの『薔薇の渇き』たしかに、『ウルフェン』ほど興奮して読まないけれど、表現が的確で、かつ簡潔なので、ひじょうに勉強になる。もちろん、おもしろい筋書きだ。名作である。『ラスト・ヴァンパイア』を読んで捨てたけど、もう一度、Amazon で買い直そうかな。 二〇一七年五月十四日 「河村塔王さん」  来々週の土曜日、5月27日に、河村塔王さんと日知庵でお会いする。ひさびさだったかしらん。1年か、2年かぶりのような気がする。本に関する、というか、言葉に対する、現在もっとも先鋭的な芸術活動を行ってらっしゃるアーティストの方だ。言葉について関心のある人で知らない人などいないだろう。そういう最先端の方が、ぼくの作品に興味をもってくださっているということが、ぼくにはなによりもうれしいし、誇りに思っている。がんばらなくては、という気力が奮起させられる。いや、ほんと、がんばろうっと。きょうは、ルーズリーフ作業をする日にしていた。作業をしよう。目のまえに付箋した本が5冊あって、いま読んでいるストリーバーの『薔薇の渇き』も付箋だらけである。ああ、ほんとうに、ぼくが知らない、すばらしい表現って、まだまだたくさんあるのだな。ぼくの付箋━ルーズリーフ作業も一生、つづくのだな。もうこの齢になるとライフワークばかりになってしまった。みんなライフワーク。  そいえば、きのうは、大谷良太くんと日知庵で、ひさしぶりに飲んだのであった。ぼくは、きみやと日知庵と合わせて10杯以上、生ビールを飲んでいて、べろんべろんだったけれど、大好きなFくんもいて、かなちゃんのかわいい彼氏や優くんもいて、めっちゃゴキゲンさんで、しゅうし笑いっぱなしだった。かなちゃんから、「きょうの田中さん、テンション高すぎ。」と言われるくらい、きのうははじけていたのだ。「かなちゃんの彼氏、とっちゃおうかな。」と言うと、「どうぞ、どうぞ。」と笑って答えてくれたけど、肝心のかなちゃんの彼氏が、「かなちゃんのこと好きだし、いまはだめです。」と言って。56歳のジジイのぼくはやっぱり、24歳の女子の魅力には劣るのだなと思った。笑。まあ、なんやかやと、人生は絡み合うのがおもしろい。というか、絡み合いしか、ないでしょうといった気持ちで生きている。仕事も、酒も、文学も。でも、なぜ、この順番に書いたんだろう、ぼく。笑。重要な順番? 二〇一七年五月十五日 「人間の規格」  クラークの短篇集『天の向こう側』、河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』、ストリーバーの『ウルフェン』のルーズリーフ作業が終わった。岩波文庫の『大手拓次詩集』のルーズリーフ作業はあしたにまわして、さきにまだ読んでるストリーバーの『薔薇の渇き』を読んでしまおう。きょうの文学だ。  それはそうと、日知庵に行くまえに、ユニクロで、夏用のズボンを買わないといけないと思って買いに行ったのだけれど、ぼくのサイズ、胴周りが100センチで、股下が73センチなんだけど、置いてなかった。このあいだまであったのに、いまは91センチが胴周りの最高値みたいで、店員に、「デブは人間の規格じゃないってことなのね。」と言ったら、「ネットで、そのサイズのものを買ってください。」という返事だった。いまからネットで、ユニクロのHP見るけれど、胴周り100センチのものがなかったら、ユニクロでは、デブは人間の規格ではないってことを表明してることになると思う。どだろ。いまユニクロのHPで、会員登録をして、胴周り100センチのものを股下補正して76センチから73センチにしてもらって買った。2本。8615円やった。消費税なしやったら、1本3990円なのにね。まあ、どんな感じのパンツかは、ユニクロの店で見たから、あとはサイズがぴったしかどうかね。  さて、きょうは、もう寝床について、ストリーバーの『薔薇の渇き』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ! あしたは、岩波文庫の『大手拓次詩集』の付箋したところをルーズリーフに書き写す作業をする。76か所くらいあったかな。一か所1行から10行くらいまで、さまざまな行数の詩行だけれど。 二〇一七年五月十六日 「異星人の郷」  いま起きた。ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業がまだなんだけど、これ、学校に行くまでしようかな。これも付箋が大量にしてあるから、ぜんぶ終わらないだろうけれど。ストリーバーの表現、すごくレトリカルなの。びっくりした。エンターテインメントの吸血鬼ものなのにね。驚いたわ。あ、まずコーヒーを淹れて飲まないと、完全に目が覚めない。体内にまだ睡眠導入剤や精神安定剤の痕跡があるからね。8時間以上たたないと対外に排出されないと聞いている。クスリによっては、もっと体内に残存しているともいう。まあ、とにかく、まず、コーヒーだな。淹れて飲もうっと。  ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、学校がお昼前からだから、ゆっくりしている。あと、もう一杯、コーヒーを淹れて飲んだら、お風呂に入って、仕事に行く準備をしよう。そだ、きのう寝るまえに、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を少し読んだのだけれど、字が小さくて読みにくかった。ハヤカワSF文庫はかくじつに字が大きくなって読みやすくなった。代わりに、文庫のくせに価格が1000円軽く超えるようになったけれど、創元も字を大きくしてほしいなと、きのう思った。やっぱり、字が小さいと読みにくい。ハヤカワ文庫は、その点、改善されてるな。  いま学校から帰ってきた。マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を、授業の空き時間に、そして通勤時間に読んでた。めちゃくちゃおもしろい。作者がいかに膨大な知識の持ち主かわかる。エリス・ピーターズのカドフェル修道士ものをすべて読んだくらいのぼくだけれど、カドフェル修道士を思い起こさせる主人公の修道士の文学的にレトリカルな言葉のやりとりと、哲学者けん神学者の怜悧な頭脳と、その心情の人間らしさに驚かされている。ふつう、頭のよい人間は冷たいものなのだ。しかし、この『異星人の郷』の14世紀側の主人公の人間性は、ピカいちである。傑作だ。まだ半分も読んでない138ページ目だけれど、ほかのものより優先させて読むことにしてよかった。人間いつ死ぬかわからないものね。ぼくは、おいしいものから食べる派なのだ。本も、よいものから読んでいく派である。したがって、聖書、ギリシア・ローマ神話、シェイクスピア、ゲーテから文学に入ったのは当然のことなのである。  いまから、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のつづきを読む。ほんとうにおもしろい。きのう、おとつい読んでたストリーバーの『ウルフェン』や『薔薇の渇き』以上かもしれない。いや、きっとそうだろう。この本に書き込まれている量は、ぼくの知識欲をも十分に満足させられる膨大な知識量である。 二〇一七年五月十七日 「人身売買」  AKBとかの握手会って、お金をCDに出させて握手させるって仕組みだけど、人身売買と同じじゃないのって、このあいだ、日知庵で話したのだけれど、人身売買ってなに? って言われたくらいなのだけれど、人身売買って、そんなに古い言葉なのかしら? 二〇一七年五月十八日 「規格外」  いま日知庵から帰った。きょう、月曜日に注文したユニクロのパンツが届いた。ぴったしのサイズ。すごい。日知庵では、めっちゃかわいい男の子(26才)がいて、「ぼくがきみくらいかわいかったころ、めちゃくちゃしてたわ。」と言ったら、「ぼく、いまめちゃくちゃしてます。」という返事で納得した。 そのとおり。時間とは、ここ、場所とは、いま。 二〇一七年五月十九日 「微糖」  いまセブイレでは、700円以上、買ったら、くじ引きができて、コーヒーとサンドイッチ2袋買ったら、876円だったので、くじを引いたら、缶コーヒーがあたっちゃった。WANDA「極」ってやつで、微糖なんだって。わりと大きめの缶コーヒー。ラッキーしちゃった。これからサンドイッチの晩ご飯。 二〇一七年五月二十日 「異星人の郷」  マイクル・フリンの『異星人の郷』下巻を読み終わった。無駄な行は一行もなかった。すべての言葉が適切な場所に配置され、効果を上げていた。しゅうし感動されっぱなしだったが、さいごの場面は、ホーガンの『星を継ぐ者』を髣髴した。傑作であった。部屋の本棚に飾るため、クリアファイルでカヴァーをこれからつくる。つぎに読むのは、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』にしよう。手に入れるために、高額のお金を払ったような気がするのだが、いま、Amazon ではいくらくらいするのだろう。ちょっと調べてみよう。Kindle版しかなかった。ぼくの持ってるような書籍の形では売っていなかった。やはり貴重な本だったのだ。いったい、いくらお金を払ったかは記憶にはないが、安くはなかったはずだ。ジャック・ヴァンスも、ぼくがコンプリートに収集した作家の一人であった。『終末期の赤い地球』を読んでいこう。あした、あさっての休みは、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をする。付箋をした所、書き写すのに、まるまる2日はかかる量である。いや、それ以上かもしれない。おびただしい量である。しかし、書き写すと、確実にぼくの潜在自我が吸収するので、しんどいが喜んで書き写す。 二〇一七年五月二十一日 「血ヘド」  いま日知庵から帰ってきた。行きしなに、南原魚人くんとあって、いっしょに日知庵で飲んでた。+女の子ふたり。ぼくは、きょうも飲み過ぎで、「また血を吐くかも。」と言うと、えいちゃんに、「血ぃ吐け!」と言われた、笑。 二〇一七年五月二十二日 「無名」  いま数学の問題の解答が2分の1できた。ちょっと休憩して、あと2分の1を済まして、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をはやくはじめたい。とてもすばらしい、レトリカルな言葉がいっぱい。ぼくには学びきれないほどの量であった。しかし、がんばって書き写して吸収するぞ。  いまでも緊張すると、喉の筋肉が動かなくなって、言葉が出てこないことがある。まあ、この齢、56歳にもなると、さいごに吃音になったのは、数年まえに、えいちゃんに問いかけられて、すぐに答えられなかったときくらいかな。そのときは、緊張ではなく、極度の疲労から、どもりになったのであった。  文学極道の詩投稿掲示板で、「田中さん貴方も世間からは何一つ認められていない 貴方もクズみたいな作品でしょ 大岡に認められたユリイカに認められたって誰もあんたのことなど知らないし知りたくもないんだよ」なんて書いてる者がいて、それは、ぼくにとってよい状態だと思っているのだがね、笑。以前は、「イカイカ」というHNで書いてた者だけれども、いまは、「生活」というHNで、相変わらず、才能のひとかけらもないものを書いているしょうもないヤツだけど、才能もないのに、ごちゃごちゃ抜かすのは、逆に考えると、才能がないから、ごちゃごちゃ抜かすということかもしれないなと思った。あ、芸術家は、無名のときが、いちばん幸福な状態であると、ぼくは思っているので、ぼくの場合も、もちろん、死ぬまで、無名の状態でよいのである。何といっても、すばらしい音楽を、すばらしい詩を、すばらしい小説を、だれにすすめられることもなく、自分の好きになったものを追いかけられるのだ。しかし、この「生活」という人物、もと「イカイカ」というHNの者、世間に認められることに意味があると、ほんとうに思っているのだろうか。芸術家にとって、無名であること以上に大切なことはないと、ぼくなどは思うのだがね。まあ、ほんとに、ひとによって感じ方、考え方はさまざまだろうけれどね。そいえば、同僚の先生で、小説を書いてる方がいらっしゃって、ぼくに、「有名にならなければ意味がありませんよ。」なんて言ってたけれど、どういうことなんだろうね。有名になるってこと。なんか意味でもあるのかな。重要な意味が。ぼくには、なにも見当たらない。  マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のルーズリーフ作業が終わった。下巻突入は無理。というか、とても疲れた。あした以降に、『異星人の郷』下巻のルーズリーフ作業をすることにした。きょうは、もうお風呂に入って、ジーン・ウルフの原著を声を出しながら読んで、寝るまえにはジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読む。魔術が支配している未来の地球の話だけど、マイクル・フリンに比べたら、数段に劣る描写力。しかし、ヴァンスは、シェイクスピアの『オセロウ』に匹敵する名作、魔王子シリーズの1冊、『愛の宮殿』(か、『闇に待つ顔』か)を書いた作家だからなあ。はずせない。 二〇一七年五月二十三日 「誤植」  きょうはかなり神経がピリピリしている。眠れるかどうかもわからない。とりあえず、お風呂に入って横になって、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!  ジャック・ヴァンス『終末期の赤い地球』日夏 響訳 誤植 157ページ上段3行目「革は痛みきってひびが入っている。」この「痛み」は「傷み」の誤植だろう。まあ、古い本だけど、Kindle版が出てるそうだから、そこでは直ってる可能性があるけど、そこでも誤植のままの可能性もある。どだろ。 二〇一七年五月二十四日 「誤植」  週に3.5日働いているが、きょうはその3.5日のうちの1日。朝から晩まで数学である。とはいっても、通勤時間や授業の空き時間に読書しているが。ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』は有名な作品だからていねいに読んだが、あまり価値はなかった。ジャック・ヴァンスのつぎに読みはじめたのは、ヴァンスの『終末期の赤い地球』と同じく久保書店からQ‐TブックスSFのシリーズの1冊、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』。シルヴァーバーグもヴァンスと同様に、ぼくがその作品をコンプリートに集めている作家や詩人のうちのひとりだ。すばらしい作家だが、この『10万光年の迷路』は、いわゆる、ニュー・シルヴァーバーグになるまえの習作のような感じのものだ。アイデアはあるが、文章というか、文体に、深みがない。暗喩も明楡も、めざましい才能を見せる場面はまだない。まだ50ページほどしか読んでいないのだが、それくらいは、この分量を読んだだけでもわかる。で、さっそく、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』中上 守訳の誤植 29ページ下段、うしろから1行目 「 が余分についている。35ページ下段、1、2行目「あなたは学問の世界ののわたした名声と地位を叩きこわそうとされた」 これは「世界でのわたしの名声と地位を」だろう。 二〇一七年五月二十五日 「継母」  朝からいままで二度寝をしていた。継母が亡くなった夢を見た。とっくに亡くなっているのだけれど、よくできたひとで、とても気のいい継母だった。美術にも造詣が深くて、壁紙は黒で陶器製の白い天使の像を砕いて、翼だとか腕だとか足を影から突き出させるように壁に埋め込んだりしていたおしゃれなひとだった。ぼくの美観を父と共に培ってくれたのだった。その継母が亡くなる夢をみたのだった。とても悲しかった。ぼくに遺言があったみたいだけど、それが書かれた紙を読もうとしたら目が覚めた。じっさいに遺言はなくて、継母は癌で急死したのだった。手術後四日目に。手術しない方がぜったい長く生きていたと思う。まあ、気のいい、うつくしい継母だった。  きょうは休みなので、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読もう。この久保書店のQ‐TブックスSFシリーズ、ぼくはあと1冊持っていて、A・E・ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』だけど、このシリーズに入ってるSF作品のタイトルを見ると、びっくり仰天するよ。たとえば、こんなの、O・A・クラインの『火星の無法者』、デイヴィド・V・リードの『宇宙殺人』、ジョージ・ウエストンの『生殖能力測定器』、L・F・ジョーンズの『超人集団』、ジョージ・O・スミスの『太陽移動計画』、J・L・ミッチェルの『3万年のタイムスリップ』、C・E・メインの『同位元素人間』、L・M・ウィリアムズの『宇宙連邦捜査官』、W・タッカーの『アメリカ滅亡』、J・ウィリアムスンの『超人間製造者』、ジョージ・O・スミスの『地球発狂計画』、M・ジェイムスンの『西暦3000年』、アルジス・バドリスの『第3次大戦後のアメリカ大陸』、バット・ノランクの『戦略空軍破壊計画』、D・グリンネルの『時間の果て』、E・イオン・フリントの『死の王と生命の女王』、A・B・チャンドラーの『宇宙の海賊島』、アンドレ・ノートンの『崩壊した銀河文明』、E・ハミルトンの『最後の惑星船の謎』などである。この2級の品物くさいところがいいね。 二〇一七年五月二十六日 「トライラスとクレシダ」  いま学校から帰ってきた。ああ、ビールが飲みたい! と思ったけれど、コーヒーを淹れてしまった。ビールは、あとでコンビニに買いに行こう。きょうは授業の空き時間と通勤時間に、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のつづきを読んでいた。冒頭で、イエイツの詩の引用、いま読んでいるところでは、シェイクスピアのソネットの引用という、ぼく好みの小説だ。いや、ぼくの好みの詩が引用されている小説だ。イエイツの引用なんて、「ビザンチウムに船出して」だよ。高級中の高級の詩である。シェイクスピアのソネットの引用もよかった。これから原詩を読もうと思う。ソネットの18だった。小説のなかでの訳では、とりわけ、「すべての美はいつか、その美をそこなってゆく……」(中西信太郎訳)の部分が好きだ。「君を夏の日にたとえようか。」ではじまる有名なソネットだ。背中の本棚に、シェイクスピア詩集は見つかったのだが、ソネット集がない。別の本棚かな。よかった別の本棚にあった。岩波文庫から出たシェイクスピアの戯曲を集めた棚にあった。もちろん、岩波文庫から出たすべてのシェイクスピアの戯曲を集めているのだが、『トライラスとクレシダ』という岩波文庫ではまだ読んでいないものもある。シェイクスピアはすべて読んだが、なぜ、岩波文庫の『トライラスとクレシダ』がめちゃくちゃ分厚いのかは不明。小田島雄志の訳だと、ふつうの長さなんだけどね。岩波文庫の『トライラスとクレシダ』は、もう、ほんとに、ぼくの持ってる岩波文庫のなかで、いちばん分厚いんじゃないかと思う。あ、ナボコフの『青白い炎』も分厚いか。比べてみようかな。分厚さは同じくらい。物差しで測ってみよう。『トライラスとクレシダ』は22ミリ。ページ数は註を入れて345ページ。『青白い炎』は24ミリで、解説を入れて548ページである。ありゃ、『トライラスとクレシダ』の分厚さは、ページ数からきているというより、古さからきているのかもしれない。昭和二十四年八月二十五日印刷、同月三十日発行ってなってる。ハンコの圧してある小さな正方形の紙が奥付に貼ってある。もちろん、旧漢字の、旧仮名遣いの本である。めちゃくちゃ古書って感じのもの。初版のようである。ひさしぶりに、シェイクスピアの全戯曲の読み直しをしてもいいかもしれないな。この小さな正方形の紙、ハンコが押してあるもの、あ、ハンコは圧すか押すかどっちだったろう。ありゃ、捺すだった、笑。これって、なんていったかなあ。著者検印だったっけ? たしか検印って云ったと思うのだけれど、検印廃止になって、ひさしいのではなかったろうか。かわいいのにね。面倒なのかな。ネットで「検印紙」というので調べたら、「かつて書籍の奥付に著者が押印した貼ってあった。それぞれの出版専用のものがあり、この検印の数に基づいて印税が計算された。わが国独特の習慣。現在ではほとんど省略されている。」ってあった。さっきも書いたけれど、かわいらしいのにね。やればいいのに。 詩人は自分の声に耳を澄ます必要がある。 二〇一七年五月二十七日 「10万光年の迷路」  起きた。コーヒー淹れて飲もう。きょうは0.5日の仕事の日だ。夕方から、先鋭的なアーティストの河村塔王さんと日知庵で飲むことになっている。楽しみ。  いま学校から帰った。授業の空き時間と通勤時間で、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読み終わった。さすが、初期の、とはいっても、シルヴァーバーグである。ぼくにルーズリーフ作業をさせるところが6カ所あった。きょうは、疲れているので、このあと、ヴァン・ヴォークトのQ‐TブックスSFシリーズの1冊、『ロボット宇宙船』を読む。夕方から日知庵に。河村塔王さんと飲む。シルヴァーバーグのルーズリーフ作業は明日以降にすることに。 いま帰ってきた。げろげろヨッパだす。おやすみ、グッジヨブ! 二〇一七年五月二十八日 「檸檬のお茶」  もう、寝るね。ぼくのいまのPCのトップ画像、ある詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像だけど、まあ、なんて、いうか、ぜったい、そんなことしてくれそうにない詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像で、ぼくは、ここ数日間、毎日、いや、ここ一週間かな、見てニヤニヤしてるのだ。  きのう河村塔王さんに、お茶をいただいたので、さっそく飲もう。このあいだは、花が咲くお茶だった。きょうのは、なんだろう。楽しみ。いただいたお茶、檸檬の良い香りが。味も、おいしい。  ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のルーズリーフ作業が終わった。これからお風呂に、それから河原町に、日知庵に飲みに行く。  いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパだけど、読書でしめて寝る。寝るまえの読書は、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』。ヴァン・ヴォークトは、『非Aの世界』、『非Aの傀儡』、『スラン』が傑作だけど、『非A』シリーズ、第3部が出ているらしいので、はやく翻訳してほしいと切に望む。 二〇一七年五月二十九日 「潜在自我」  いま起きた。北山に住んでたときの夢を見た。いまより本があって、いまも本だらけだけど、さらに本だらけで、どうしようもない部屋だったときのことを夢見てた。本から逃れられない生活をしている。いたのだな。きょうも晴れ。洗濯しようっと。  けさ見た夢のなかで書いてた言葉。あんまり下品で、書かなかったことにしようか、考えたけれど、ぼくの潜在自我が書いたものだからねえ。起きてすぐメモしたもの。 脳内トイレ。 脳内トイレ。 ジャージャーと、おしっこする。 ジャージャーと、おしっこする。 そして、ジャーと、水を流す。 そして、ジャーと、水を流す。  いま王将から帰ってきた。きょうは読書の一日。ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』のつづきを読む。62ページまでに誤植が3カ所。ひどい校正だ。  きょうは、一日中、読書してた。ちょっと休憩しよう。いま、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』192ページ。誤植またひとつあった。久保書店のこのQ‐TブックスSFのシリーズ、ちょっと誤植が多すぎないだろうか。まあ、活版の時代だから校正家だけの責任じゃないんだろうけどね。  ヴォークトの『ロボット宇宙船』を読み終わった。読まなければよかったと思われるくらいのレベルのひどい作品だった。きょうは、ひきつづき、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読む。これも久保書店のものだ。ヴォクトは、やはり、ぼくのコンプリートに集めた作家のひとりだから読むのだが。タイトルからして、2級だってことがわかるものだけれど、ジャック・ヴァンスといい、やはり、ぼくがコンプリートに集めた作家だけのことはある。たとえ2級品の作品でも、なにか魅力は感じられる。さっきまで読んでた『ロボット宇宙船』なんて、いまの出版社なら、ぜったい出版しないだろう。ヴォクトの『銀河帝国の創造』(中上 守訳)5ページさいしょの文章、こんなのよ、笑。「「神々の子」は成長を遂げていた。紀元一万二千年ごろ、未開の血をまだとどめながら衰退期にさしかかったリン帝国の王家に歓迎されざるミュータントの子として生まれた彼は、(…)」 こんなの読むのね。 二〇一七年五月三十日 「銀河帝国の創造」    ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』105ページまで読んだ。タイトル通り、カスのようなお話。進化したリスが人類より発達した科学力で人類と戦っているのだ。なんちゅう話だろう。ヴァン・ヴォクト以外の人間が描いてたら、即刻、捨て去っていただろう。95ページにこんな言葉がある。「あなたは慎重すぎるのよ。人生は短いんだってこと、わかってないのね。恐がらずに、思いきってものごとに突っこんでいくべきだわ。わたしが人生で恐れるのはたったひとつ、何かを見のがしてしまうことよ。経験すべき何かを。生きているっていうたいせつな実感を……」(ヴァン・ヴォクト『銀河帝国の創造』11、中上 守訳、95ページ・1‐4行目)この見解には、ひじょうにうなずくところがある。ぼく自身が慎重すぎて、経験できなかったことが、いっぱいあるからである。若いころにね。20代後半から、つまり、詩や小説を読んだり書いたりしはじめてから大胆になったけれど、それは文学上のことで、実生活は平凡そのもの。それはいまも変わらず。  高柳 誠さんから、詩集『放浪彗星通信』(書肆山田・二〇一七年五月初版第一刷)を送っていただいた。改行詩と散文詩との綴れ織り。改行詩は透明感が半端なく、その繰り出される詩行には、言葉の錬金術を目にするような印象を受けた。散文詩の部分はカルヴィーノの『レ・コスミコミケ』が髣髴された。  韓国人の、かわいらしいおデブさんから、FB承認依頼がきたので、即刻、承認した。コントをしてらっしゃるサンドイッチマンのメガネをかけているかたにそっくり、笑。そいえば、ぼくは、あのサンドイッチマンというコントのかたたち、ゲイのカップルだと思ってたんだけど違ってたのかな。結婚したね。  あと一時間、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』のつづきを読んだら、クスリのもう。進化したリスと人類との闘い。しかもリスの方が強いなんて、なんという設定だろうか。ふと、ドナルド・モフィットのかわいらしい表紙のSF小説が思い浮かんだ。未来の人類の敵はネズミが進化したものだった。 二〇一七年五月三十一日 「さらば ふるさとの惑星」  ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読み終わった。これといい、このまえに読んだ『ロボット宇宙船』といい、げんなりとするくらいの駄作だったのだが、『非Aの世界』と『非Aの傀儡』は、高校生時代に読んでびっくりした記憶があるのだけれど、初版の表紙の絵もいいしね。でも怖くて読み返せない。つぎに読むのは、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』。ホールドマンは、安心して読める作家の一人だ。まさか、ジャック・ヴァンスや、ヴァン・ヴォークトほど劣化していないと思うのだけれど、どだろ。むかしのSFって、ほんと差が激しい。ひとりの作家でもね。いまのも差が激しいか。 きょうも日知庵に行く予定。雨かな。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日/田中宏輔[2021年8月23日17時54分] 二〇一七年六月一日 「擬態」  ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』ちょっと読んだ。ちょっと読んでも、ヴォクトの2冊の本よりはよいことがわかる。ヴォクト、非Aシリーズが傑作だった印象があるので、さいきん読んだヴォクト本にがっかりしたのは、自分でもずいぶんと驚いている。非Aシリーズを再読しないかも。  人生において重要なのは、下手に勝つことよりも、いかに上手に負けるかである。うまく負けるのに、とびきり上等な頭が必要なわけではない。適度な考える力と、少々の思いやりのこころがありさえすればよい。ただ、この少々の思いやりのこころを持つというのが、人間の大きさと深さを表しているのだが。  休みの日は、だらだらと寝ているか、小説を読んだり、ときには詩集をひもといたりしているか、まあ、自堕落な時の過ごし方をしているが、いま読んでいるジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』は読みごたえがある。ホールドマンの作品は、一作をのぞいて、すべて傑作だったと思う。  その一作って、タイトルも忘れてしまったけれど、ほかの作品は、みな傑作であった。その一作は、文庫にもならなかったもので、といえば、この『さらば ふるさとの惑星』も文庫化していないけれど、その一作も叙述はしっかりしていたし、おもしろくなかったわけでもないけれど、さいごの場面が安易で、ぼくの本棚に残しておく価値はないと判断したのであった。まあ、このあいだ読んでた、二冊のヴァン・ヴォクト本に比べれば、読み応えがあったけれども。いま読んでる『さらば ふるさとの惑星』って上下二段組みなので、字がびっしりって感じで、今週中に読み終えられるかどうかってところ。どだろ。  そろそろクスリをのんで眠りにつく。寝るまえの読書も、ひきつづき、ジョー・ホールドマンにする。サリンジャーの短篇集『倒錯の森』も寝具の横に置いてあるのだけれど、なかなかつづきを読む気が起こらない。まあ、そのうち、SFにまた飽きたら、純文学にも手を出すだろうとは思うのだが。おやすみ。  うわ〜。大雨が突然、降りはじめた。雷も鳴っている。ただ一つ、えいちゃんの仕事帰りが心配。それにしても、きつい雨の音。すさまじい勢いだ。急いでベランダにある干し物を取り入れた。雨は浄罪のシンボルだけれど、さいきん罪を犯した記憶はないので、過去の自分の過失について思いを馳せた。  クスリがまだ効かない。雨が小降りになってきた。ジョー・ホールドマンも、ぼくがコンプリートに集めた作家や詩人のひとりだが、最高傑作は、『終わりなき平和』だろう。ぼくが、手放したホールドマンの本は『擬態』だった。叙述は正確そのものだったのだが、さいごの場面がなぜかしら安易だったのだ。 二〇一七年六月二日 「さらば ふるさとの惑星」  ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』半分くらい読んだ。だんだん政治的な話になっていくところが、ホールドマンらしい。つづきを読もう。  あした午前に仕事があるので、お酒が飲めず、あてだけを食べている、笑。焼き鳥、枝豆、にぎり寿司。  きょうも一日、楽しかった。いろいろあるけれど、ぜんぶのみ込んじゃって、楽しめるようになったかな。これからクスリのんで寝る。といっても、一時間近く、眠れないで読書するだろうけれど。ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』付箋だらけ。やっぱり、ホールドマンの言葉は深い。 二〇一七年六月三日 「さらば ふるさとの惑星」 仕事に。きょうは、夕方から日知庵で飲む予定。  いったん仕事から帰ってきて、読書のつづきをしている。夕方にお風呂に入って、日知庵に飲みに行く予定。  いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。いまからFB、文学極道の詩投稿掲示板を見に行ってくる。  きょうも、寝るまえの読書は、ジョー・ホールドマン。やっぱり哲学があって、叙述力がある作家だと思う。『擬態』はよくなかったけれどね。叙述力はあっても、さいごの場面が安易すぎた。残念。それ一作以外、みな傑作なのに。  クスリのんで横になる。横になって、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。これって、Amazon で見たら、200円台で売ってるんだよね。びっくり。よい作品が安い値段で出てるってのは、ぼくはよいことだと思う。 二〇一七年六月四日 「さらば ふるさとの惑星」    きょうは、昼に大谷良太くんとビールを飲んで、夕方から日知庵でビールを飲んで、文学をまったくしていなかったので、きょうは、これから寝るまで、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。いま199ページ。あと65ページある。読み切れないだろうけれど、がんばる。 二〇一七年六月五日 「さらば ふるさとの惑星」  ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』を読み終わった。あしたの昼に、ルーズリーフ作業をしよう。ぜんぶでメモした箇所が13カ所。あまり、いい数字じゃないな、笑。でも、こころをこめて、ていねいにルーズリーフに書き写すことによって、きっとぼくの潜在自我が吸収してくれると思う。  クスリのんで寝ます。あしたは笹原玉子さんと、笹原玉子さんが連れてこられるゲストの方(まだお名前を教えていただいていない)と、3人で、夕方5時に、きみやで食事をすることになっている。3人の平均年齢が、およそ70歳くらいなのだ。どんな会話になりますことか、チョー楽しみにしています。  寝るまえの読書は、ひさびさに、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきから。 二〇一七年六月六日 「笹原玉子さん」  いま起きた。休みの日は、たいていこの時間くらいに起きだす。さて、コーヒーとサンドイッチでも買ってお昼を食べてから、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業をしよう。夕方からは笹原玉子さんたちと河原町で食事だ。  ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業が終わったので、あと一時間ほど、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきを読もう。まだ2篇目だけれど。  いまから河原町へ。平均年齢70歳の3人が、めっちゃモダンな居酒屋さんへ。きみやヘ、ゴー!  いま、きみやから帰ってきた。笹原玉子さんと、お酒を飲んでいた。もうおひとりの方は来られなかった。文学の話をいっぱいして楽しかった。京都に来られたのが、じつは彼女の玲瓏賞の授賞式だったからだと聞いて、喜んだ。  帰りに、西院駅のまえのビルの2階にある「あおい書店」で、文庫本を3冊買った。ハーラン・エリスンの『死の鳥』と『ヒトラーの描いた薔薇』と、ロバート・F・ヤングの『時をとめた少女』である。エリスンの『死の鳥』は、出たときにも買ったのだが、さいしょの2篇があまりにも駄作だったので、破り捨てたのだけれど、あとで、タイトル作が名作だと聞いて、そのうち、買い直そうと思っていたもの。『ヒトラーの描いた薔薇』は、いま出たとこなのかな。平積みされていたので買った。ヤングはもう仕方ないね。買って読んで捨てるってパターンの作家だな。でも、いちおう全作、読んでるんだな。 きょうは寝るまで、ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読もうと思う。  ヤングの短篇集『時をとめた少女』を91ページまで読んだ。わくわく感はない。安定した叙述力は感じるが、ただそれだけだ。しかし、せっかく買った、ひさしぶりの新刊本なのだから、さいごまで読もうとは思う。木曜日までには読み終えて、ハーラン・エリスンの『ヒトラーの描いた薔薇」を読みたい。 二〇一七年六月七日 「時をとめた少女」  ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読み終わった。ヤングらしくないさいごの2篇がよかった。とくに、さいごに収録されている「約束の惑星」はさいごのどんでん返しに感心した。冒頭の「わが愛はひとつ」はいつものヤング節かな。「妖精の棲む樹」と「花崗岩の女神」は同様の設定だったが、こういう方向もあったのだと、ヤングを見直した。短篇集として、『時をとめた少女』は、5点満点で3点というところか。まあ、普通だったかな。でも、一か所、ぼくが死ぬまでコレクションしつづけるであろう詩句を、「花崗岩の女神」?のなかに見つけた。ひさびさのことで、ちょこっと、うれしい。 「きみの名前は?」(ロバート・F・ヤング『花崗岩の女神』?、岡部宏之訳、短篇集『時をとめた少女』174ページ・5行目)  しかし、このヤングの短篇集の『時をとめた少女』の表紙、どうにかならんか、笑。  いま日知庵から帰ってきた。きょうから、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読む。きょうは、解説だけかな。 二〇一七年六月八日 「ヒトラーの描いた薔薇」  いま起きた。休みの日はこんなもの。読書しよう。ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』。  きょうは、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読んでいた。いま、236ページ。読書疲れだろうか。目がしばしばする。もうちょっと読んだら、クスリのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年六月九日 「法橋太郎さん」  ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読み終わった。5点満点中3点といったところか。まあ、同じ3点でも、ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』より、おもしろくは思えたけれども。  いま目次見て、どれがおもしろかったか、書こうとして、半分くらい話を憶えていないことに気がついて、すごい忘却力だと思った。まあ、おもしろいと思ったのは、「解消日」、「大理石の上に」、「睡眠時の夢の効用」くらいかな。  きょう、ブックオフで、108円だからという理由だけでほとんどだけど、2冊、買った。創元SF文庫から出てるジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』と、創元推理文庫から出てるピーター・ヘイニング編の短編推理アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻。下巻がおもしろかったら、Amazon で上巻を買おう。いくら本を処分しても、本が増えていく。不思議ではないけれど、そういう病気なのだろうと思う。まあ、読書が生きがいだから、仕方ないけどね。  帰ってきたら、郵便受けに、法橋太郎さんから詩集『永遠の塔』を送っていただいていた。表紙の絵がいいなと思ったら、装幀がご本人によるものだった。冒頭の詩「風の記憶」にある「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句に目がとまる。つぎつぎと収録作を読んでいく。「幻の群猿」という詩を読むと、「四方に網を掛けた。執着の網を掛けた。猿の類がかかった。おれもまたそうだったが、執着の曲がった視線でしかものを見られない猿たちがいるのだ。」という冒頭の詩句に目がとまった。「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句の具象性と、「四方に〜」という詩句における抽象性と、詩人というものは両極を行ったり来たりする存在なのだなと思った。現在のぼくは、ひたすら具象性を追求する方向で作品を書いているのだが、法橋太郎さんの書かれた詩句のような抽象性も持たなければいけないなと思った。 二〇一七年六月十日 「武田 肇さん」  日知庵から帰ってきて、郵便受けを見ると、武田 肇さんから、自撰句集『ドミタス第一號』を送っていただいてた。ぼくの好みは、「雲はいつの雲にもあらず雲に似る」、「形あるものみな春ををはりけり」、「足のうら足をはなれてはるのくれ」といった句である。ひとは自分に似たものを好むというアリストテレスの言葉を思い出した。ぼくには、ここまで圧縮できないと思うけれど、自分が考えていることに近いというか、そんな気がする句が好きなようだ。俳句というのは、世界でもっとも短い詩の定型詩だと思うけれど、そこで残るような作品をつくることは、ほんとうにむずかしいことだと思う。むかし集中して俳句を勉強したけれど、いまでも、すっと記憶に出てくるものは10句もない。ルーズリーフに書き写している俳句も200句か300句ほどしかないと思う。武田 肇さんの俳句を味わいつつ、俳句そのものの形式について考えさせられた。ぼくが書くには極めて圧縮された形式でむずかしい。  武田 肇さんの俳句を読み終わったので、きょうの残った時間は、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』のつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年六月十一日 「死の鳥」  ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』を読み終わった。SFって感じがあまりしなかった。どちらかといえば、幻想文学かな。よいなと思った作品は、「ジェフティは五つ」と「ソフト・モンキー」。「ソフト・モンキー」はまったくSFとは無縁の作品。それはもう幻想文学でもない、普通の小説だった。アイデアとしては、未来人との絡みで、ジャック・ザ・リッパーを扱った「世界の縁にたつ都市をさまよう者」が印象的だったかな。あと、「プリティ・マギー・マネーアイズ」も印象に残ったかな。タイトル作の「死の鳥」はまったく意味がわからなかった。「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、以前に読んだ記憶がある。どちらも古いSFを読み直しているような気がしたが、前者がオーウェルの『1984年』や、ザミャーチンの『われら』に通じるものだったという記憶がなかったので、そこは意外だった。後者の記憶はほとんどなかったのだが、なんだか、エリック・F・ラッセルか、クリフォード・シマックの短篇を読んだかのような読後感を持ってしまった。まあ、いずれにしても、50年代のSFって感じだった。でも、いま解説を読むと、前者は1965年に、後者は1967年に発表されたものだった。ぼくの1950年代のSF感が間違っているのかもしれない。河出文庫から出ている年代別の短篇SFアンソロジーで調べてみよう。『20世紀SF? 1950年代 初めの終わり』と『20世紀SF? 1960年代 砂の檻』の目次を見比べた。そうだな。やはり、エリスンのは50年代のほうに近いかなと思った。1960年代は、SFにおいては、ニュー・ウェイヴの時代だものね。短篇集のタイトル作品がニュー・ウェイヴっぽいかなと思ったけれど、ぼくには意味不明の作品だった。2つの話を一つにしたってだけの感じしかしなかった。幻想文学の諸知識と安楽死というものを無理に一つにした小説だね。 二〇一七年六月十二日 「潜在自我」  きょうはずっと読書している。ときどき、コーヒーを淹れるくらい。ぼくの人生、あとどのくらい本が読めるのだろうか。まだまだたくさんの未読の本が棚にある。それでも、新刊本も買うし、ブックオフで読んでいない古いものも買う。ぼくが本に投資しているのと同様に、本もぼくに投資してくれてるのかしら。  まあ、全行引用詩に貢献してくれているし、なにより、ぼくの潜在自我や顕在自我の形成に大きく寄与しているだろうから、ぜんぜん無駄ではないね。しかし、傑作は多いけれど、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピア級の傑作は、それほど多くない。とはいっても、SFで20作くらいはありそうだけど。 二〇一七年六月十三日 「凍りついた空━エウロパ2113━」  きょう、一日かかって、ジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』を読んでいたのだが、で、いま読み終わったのだが、26ページの記述から以後の記述とのつながりがいっさいなくて、さいごまで読んだのに、なんだか騙されたかのような気がした。作者のミスだと思うが、話の筋自体に、整合性のないものは、いくらSF小説とはいっても許されるべきものではないと思われるのだが、いかがなものであろうか。不条理小説ではなく、どちらかといえば、ハードSFに分類されるような専門用語と設定で押しまくられて、さいしょの疑問がどこでも解かれていないなんて、ひどい話だと思う。ぼくが読んだ長篇SFのなかで、いちばんひどかったのではないかと思う。ちなみに、ぼくの記憶は都合がよくできていて、ひどいものは忘れるのがはやいので、これ以外に、ひどい長篇SFをいま思い出すことはできないのだけれど。というのも、いま部屋の本棚にあるものは傑作ばかりなので思い出せない。しかし、このSF小説のカヴァーはひどいね。芸術的なところが、いっさいないのだね。まあ、さいきんのハヤカワ、創元のSF文庫の表紙の出来の悪さは、経費削減のためなのか、あまりにシロート臭くてひどいシロモノばかりだ。  今晩から、ピーター・ヘイニング編の短篇ミステリーのアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読む。でももう、きょうは、だいぶ、遅いね。クスリをのんで横になって読もう。12時半くらいには寝たいのだが、どこまで読めるだろうか。さっき、『凍りついた空』読み直ししたけど、やっぱりひどいわ。 二〇一七年六月十四日 「風邪」  いま学校から帰った。風邪を引いたみたいだ。咳がするし、熱もある。きょうは、このまま横になって寝ておくことにする。 二〇一七年六月十五日 「風邪」 風邪がひどい。風邪クスリのんでずっと寝てる。 二〇一七年六月十六日 「風邪」  風邪がよりひどい。きのう、きょうと、学校の授業がなかったので、ずっと部屋で寝込んでいる。あした午前に、一時間の授業があるので、そこをどうやりくりするかである。声が出なかった場合、どうするか。むずかしい。やっぱり、仕事は体力がいちばん大切だなと実感している。いまも熱で朦朧としている。風邪にはよくないと思いながらも、横になって読書をしていた。ピーター・ヘイニング編の短篇推理小説アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻の315ページを読んでいたら、ぼくがコレクトしている言葉にぶちあたった。「きみの名前は?」(レックス・スタウト『ポイズン・ア・ラ・カルト』小尾芙佐訳)  短編推理小説のアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読み終わった。風邪がひどい状態なので、頭痛がしつつも、痛みが緩慢なときに、ここ数日、読んでいた。つぎには、なにを読もうか。きょうは、もうクスリをのんで寝るけれど、寝るまえの読書はサリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきにしよう。 二〇一七年六月十七日 「澤 あづささん」  澤 あづささんが、ブログで、拙作『語の受容と解釈の性差について━━ディキンスンとホイットマン』を紹介してくださっています。 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-36.html 二〇一七年六月十八日 「グリーン・マン」  いま日知庵から帰った。きょうは5時から、日知庵に、9時すぎに、きみやに、また10時30分ころに、日知庵に飲みに行ってた。風邪でめまいもしてたけれど、風邪などお酒で吹き飛ばしてやれという気で飲みに行った。いま、めまいがしながらも、いい感じである。風邪はたぶんひどいままだろうけれど。  で、一回目の日知庵では、大谷良太くんと出会い、二回目の日知庵では、東京にいらっしゃってて、京都に来られたとき、たまたま横でお話させていただいただけなのに、目のまえで、Amazon で、ぼくが2014年に思潮社オンデマンドから出した詩集『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上巻を、即、買ってくださった方とお会いしたのであった。大谷良太くんとも、そうだし、その方とも、そうだけど、なにか運命のようなものを感じる。まあ、勝手に感じてろって自分でも思うところはあるのだけれど、笑。出会いと人間関係なんて、どこで、どうなるか、わかんないものね。  きょう、寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』。どこがSFなのか、まだ26ページ目だけれど、さっぱり、わからない。居酒屋けん宿屋の主人の一人称形式の物語。幽霊の話が出てくるのだけれど、ブライアン・W・オールディスが、この作品をベタ褒めしていた記憶があって、エイミスといえば、サンリオSF文庫の『去勢』や、彼は詩人でもあって、アンソロジストでもあるのだけれど、彼が編んだ『LIGHT VERSE』を思い出す。お酒の本も出してたと思うけれど、手放してしまった。キングズリイ・エイミスもゲイだったのだけれど、『LIGHT VERSE』にも、ゲイの詩人やレズビアンの詩人のもので、おもしろいものがたくさんあったと記憶しているのだけれど、そいえば、さいきん、英詩を翻訳してないな。  あかん。まだ熱がある。咽喉も痛い。クスリのんで横になろう。あしたは、神経科医院に行く日。3時間待ちか。しんどいな。仕方ないけど。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年六月十九日 「自費出版」  いま神経科医院から帰ってきた。きょうは、もう横になって、風邪の治りを待つだけ。エイミスの『グリーン・マン』いま80ページほど。ていねいな描写なので、疲れない。P・D・ジェイムズのようなていねいさではない。彼女のていねいさは狂気の域に達している。まあ、ぼくはぜんぶ読んだけど、天才。  キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』 いま152ページ。これって、SFじゃなくて、幽霊話なんだね。しかも、主人公が人妻と浮気して、自分の妻との3人でのセックスの提案をしつづけていたりという、エロチック・怪奇小説って感じ。エイミスって、一流の作家だと思っていたので、びっくり。まあ、いま書いて自分の意見を否定するのだけれど、そんな題材で小説が書けるのだと、いまさらながら気が付けさせられた。そういう意味では、ぼくも死ぬまでに書きたい小説があって、そろそろ手をつけるときかなって思っているのだけれど、構想だけにすでに数年の時間を費やしている。  チューブで、ホール・マッカートニーのトリビュートを見てたんだけど、まえのアメリカの大統領と同席して、ポール自身が見てたんだけど、ポールが一瞬のあいだも見逃さないようにステージを見つめてたとこに、なんだか、こころにぐっとくるものがあった。音楽で食べてるひとたちもいる。あきらめたひとたちもいる。ぼくも結局、詩集を出すのに1500万円くらいかけたけれど、1円も手にしていない。ほんとうに趣味なのだ。しかも、これからさきも死ぬまで1円も手にしないだろう。永遠のシロートである。しかし、詩人はそんなものであってもよいと思っている。むしろお金を儲けない方がよいとすら思っている。ほかにきちんと仕事を持っているほうが健全だと思っている。賞にもいっさい応募しないので、だれにおもねることもない。献本もしないので、ぼくの詩集を持っているひとは、みな、ぼくの詩集を買ってくださった方だけである。このきわめて健全な状態は、死ぬまで維持していきたいと思っている。 二〇一七年六月二十日 「エヴァが目ざめるとき」  ピーター・ディキンソンの『エヴァが目ざめるとき』を読み終わった。彼の作品にしては、毒がないというか、インパクトがないというか、それほどおもしろい作品ではなかった。亡くなりかけた娘の記憶を猿に記憶させて云々というゲテモノじみた設定の物語ではあるが、児童書のような印象を持った。 二〇一七年六月二十一日 「源氏の気持ち」  源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、衛門督の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。いや、奇妙なことはないのかもしれない。人間のこころの模様は、このように一様なものではなく、同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、まして、違った光のもとでなら、まったく異なった色やよりを見せるものなのであろう。源氏物語の「柏木」における多様な性格描写が、ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。 二〇一七年六月二十二日 「まだ風邪」  いま日知庵から帰った。風邪、まだ治っていないが、という話を日知庵でしたら、お友だちから、「肝臓がアルコールを先に処理するので、風邪を治すのはあとになるよ。風邪を治すのにお酒はよくないよ。」と言われて、ひゃ〜、そうやったんや。と思うほど、身体の生理機能について無知なぼくやった。Tさん、貴重な情報、ありがとうございました。きょうは焼酎のロック2杯でした。2杯で、ベロンベロンのぼくですが。うううん。寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』あとちょっと。きょうじゅうか、あしたのうちには読み切れる。さいご、どうなるか楽しみ。幽霊話だけどね。  キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』を読み終わった。読む価値は、あまりなかったようなシロモノだった。ブライアン・オールディスは絶賛していたけれど、どこがよかったのだろう。よくわからず。まあ、さいごまで読めたので、叙述力はあったと思うのだけれど、そこしかなかったような気もする。  ここ連続、あまりおもしろくない本を読んでいたので、ここらで、おもしろい本と出くわしたいのだけれど、どうだろうね。 二〇一七年六月二十三日 「敵」 敵だと思っている 前の職場のやつらと仲直りして 部屋飲みしていた。 膝が痛いので きょうは雨だなと言うと やつらのひとりに もう降っているよと言われて 窓を開けたら 雨が降っていたしみがアスファルトに。 でも雨は降っていなかった。 膝の痛みをやわらげるために ひざをさすっていると 目が覚めた。 窓を開けると いまにも降りそうだった。 この日記を書いている途中で ゆるく雨の降る音がしてきた。 二〇一七年六月二十四日 「双生児」  きょうは、食事をすることも忘れて、一日じゅう読書をしていた。いまから寝るまでも、本を読むつもりだけれど。これまた、ぼくがコンプリートに集めた作家、クリストファー・プリーストの『双生児』本文497ページの、とても分厚い単行本なので、今週ちゅうに読み終えられればいいのだけれど。 二〇一七年六月二十五日 「いっこうに治らない風邪」  いっこうに風邪が治らず、きょうは読書もせず、ずっと寝ていた。あしたは、ちょっとは、ましになってるかな。 二〇一七年六月二十六日 「秋山基夫さん」  秋山基夫さんから『月光浮遊抄』を送っていただいた。いま自分が来年に出す詩集の編集をしていて、『源氏物語』を多々引用しているためか、秋山さんの詩句に『源氏物語』の雰囲気を重ねて読ませていただいていた。そのうえで、送っていただいたご本の第二次世界大戦時の記述が混じって、その違和感がおもしろかった。 二〇一七年六月二十七日 「若菜」 (…)院も時々扇(おうぎ)を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。すこし無技巧的におなりになったようである。              (紫式部『源氏物語』若菜(下)、与謝野晶子訳) 無技巧的になって、おもしろく思われる。 ではなくて おもしろく思われるのも、無技巧的になったからか。 というのである。 コクトーも、うまくなってはいけないと書いていた。 コクトーは技巧を凝らした初期の自作を全集からはずしたが ぼくも、自分の技巧的な作品は、好きじゃない。 自然発生的なものしか、いまのぼくの目にはおもしろくないから。 二〇一七年六月二十八日 「日付のないメモに書いた詩」 職員室で あれは、夏休みまえだったから たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど 斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が 「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」 とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると 机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。 「ぜひ、お読みになってください。」 いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃったのだった。 ぼくが受け取った文庫本には、 『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。 帰りの電車のなかで読みはじめたのだが 情景描写がとにかく細かくて またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。 あれから半年近くになるが きょうも、もう7、8冊めだと思うが ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて 読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい 情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。 彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく しかも安く手に入るものが多く、 ぼくもあと1冊でコンプリートである。 いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが 『神学校の死』というタイトルのもので それでも、2000円ほどである。 彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。 平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。 送料のほうが高いことが、しばしばだった。 いちばんうれしかったのは 105円でブックオフで 『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。 それを手に入れる前日か前々日に 居眠りしていて ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。 そのときの金額が、100円だっただろうか。 いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど 送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を 105円で手に入れることができて その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。 6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら 何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。 きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので これから読書をしようと思っている。 もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。 岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか お聞きしたことがあった。 そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。 「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」 もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。 ジェイムズの描写力を味わえるのは ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。 偶然。 さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。 これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。 偶然。 さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。 これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。 若いときには、齢をとるということは 才能を減少させることだと思い込んでいた。 記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。 見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。 どれも間違っていた。 頭はより冴えて さまざまな記憶を結びつけ 見かけは、もう性欲をものともしないものとなり やってくる多くの偶然に対して それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。 長く生きること。 むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。 いまは 長く生きていくことで どれだけ多くの偶然を引き寄せ 自分のものにしていくかと 興味しんしんである。 読書を再開しよう。 読書のなかにある偶然もまた ぼくを変える力があるのだ。 二〇一七年六月二十九日 「『ブヴァールとペキュシェ』フロベール 全3巻 岩波文庫」 欲しい本で、まだ買ってなかったもの。 ヤフオクで、落札価格1900円+送料320円 到着するのが楽しみ。 いま全行引用の長篇の作品をつくろうとしているのだけれど それを、それの数倍の長さの長篇作品の最後に置くアイデアが じつは、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』からだった。 全行引用の長篇の作品とは 「不思議の国のアリスとクマのプーさんの物語。」 のことである。 来年度中には完成させたい。 きょうは、ひさびさにエリオットを手にして 寝床につこうと思う。 じゃあ、行こうか、きみとぼくと、 薄暮が空に広がって 手術台の上の麻酔患者のように見えるとき。                        (岩崎宗治訳) 後日談 大失敗、かな、笑。 ネットで検索していて 「ブヴァールとペキュシェ」が品切れだったと思って 何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって 本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。 ううううん。 560円、500円、460円だから 新品の方が安かったわけね。 日知庵に寄って、バカしたよ〜 と言いまくり。 ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。 ひさびさのフロベール体験。 どきどき。 きょうは、これからお風呂。 あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。 で このあいだ、ヤフオクで買ったの 届いてた。 ヤケあるじゃん! ショック。 で いまネットの古書店で見たら 4200円とかになってるしな〜 思い違いするよな〜 もうな〜 足を使って調べるということも 必要なのかな。 ネット万能ではないのですね。 しみじみ。 古書は、しかし、むかしと違って ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。 古書好きにとっては、よい時代です。 こんなスカタンなことも ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。 前向き。 二〇一七年六月三十日 「岡田 響さん」  岡田 響さんから、散文詩集『幼年頌」を送っていただいた。300篇の言葉についての緻密な哲学、といった趣と、言葉にまつわる自身の経験的な非哲学の融合、といったところが、同時に感じられるが、質的にだけではなく、量的にも圧倒される。このような作品を書くことの困難さについて思いを馳せた。 二〇一七年六月三十一日 「杉中昌樹さん」  杉中昌樹さんから、詩論集『野村喜和夫の詩』を送っていただいた。ひとりの詩人による、もうひとりの詩人の詩の詳細な解説である。これは書かれた詩人にとっても書いた詩人にとっても、僥倖なのであろう。しかし、もしも、自分の詩が、ひとりの詩人によって徹底的に解説されたらと思うと、おそろしい。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日/田中宏輔[2021年8月30日18時29分] 二〇一七年七月一日 「双生児」  いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、ここ数日間、読みつづけている、クリストファー・プリーストの『双生児』である。いま、ちょうど半分を切った267ページ目に入るところである。作者に騙された感じのあるところである。緻密なトリックを見破れるだろうか。 二〇一七年七月二日 「すごい眠気」  いま日知庵から帰ってきた。きょうはずっと寝てたけど、これから横になって寝るつもり。おやすみ。眠気のすごい時節だ。 二〇一七年七月三日 「双生児」  クリストファー・プリーストの『双生児』を読み終わった。歴史改変SFというか、幻想文学というか、その中間という感じのものだった。プリーストのものも、けっきょく、全作、日本語になったものは読んでしまったことになるのだが、記述が緻密なだけに読みにくく、おもしろさもあまりない。では、なぜ、そんなプリーストのものを読みつづけてきたのかといえば、イギリス作家特有の情景描写の巧みさから、学べるものがあるだろうと思っているからだ。 二〇一七年七月四日 「左まわりのねじ」  いま日知庵から帰ってきた。あしたは台風なんやね。ぼくは夕方からだけ仕事なので、どかな。影響あるかな。きのう、寝るまえに、A・バートラム・チャンドラーの『左まわりのねじ』を、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』で読み直した。記憶していたものより複雑なストーリーだった。寝るまえに、スカッとさわやかなものを読もうと思ったのだけれど、けっこう凝ったストーリーだった。記憶していたものは、とても短くて、あっさりした、それでいて、びっくりさせてくれるものだったので、けっこう複雑なストーリーで驚いた。記憶って、頼りにならないものなんだね。びっくり。  きょうも、この『ベストSF 1』のなかから、ひとつ選んで読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年七月五日 「荒木時彦くん」  荒木時彦くんが『NOTE 001』を送ってくれた。自殺の話のはじまりから死について、それから人生について書かれてあった。さいしょのページを除くと、うなずくところが多くあった。ぼくは自殺を否定しない派の人間だから、さいしょにつまずいた。荒木くんも作品で否定しているだけだろうけれど。完璧な構成だった。唐突なキャラの出現と行動もおもしろい。さいごの場面の建物と歴史のところは、はかない命をもつ人間に対する皮肉というか、その対比も、ひじょうにうまいなと思った。荒木時彦という詩人の書くものが、どこまで進化するのか、見届けてみたいと思う。齢とってるぼくが先に死ぬだろうけど。  きょうから読書は、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』。レムは、おもしろいものと、そうでないものとの差が激しいので、心配なのだが、これは、どうだろう。部屋にある未読の本が少なくなってきた。あと、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』と、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』と、マイリンクの『ゴーレム』と、ルーセルの『ロクス・ソルス』と、サリンジャーの短篇集の『倒錯の森』のつづきだけになった。これらを、たぶん、ことしじゅうに読み終えられるだろうけれど、そのあとは、再読していいと思っている作品群に手をつける。それが楽しみだ。寝るまえにSFの短篇を読み直しているのだけれど、そういった読書の楽しみと、それと、海外詩の翻訳の読み直しを大いに楽しみたいと思っている。とくに、ディラン・トマスの書簡集の読み直しの期待が大きい。英詩の翻訳も再開したい。ロバート・フロストの単語調べが終わってる英詩が4作ある。なかなか気力がつづかないぼくであった。  そだ。シェイクスピアやゲーテの読み直しもしたいし、長篇SFの再読もしたい。未読の本もまだあった。オールディスの『寄港地のない船』と、グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』と、レムの『ロボット物語』と『宇宙創世記ロボットの旅』(これら2冊は読んだ可能性がある。わからないけれど)。ミステリーは、アンソロジー以外、P・D・ジェイムズの『高慢と偏見と殺人』しか本棚に残していない。詩を除くと、純文学は、岩波文庫以外、ラテンアメリカ文学しか残していない。SFが数多く残っている。これらの再読が楽しみだ。読んで、10年、20年、30年といった本がほとんどだ。読むぼくが変わっているはずだから、傑作として、本棚に残した数多くの本が、また新しい刺激を与えてくれると思う。56歳。若いときとは異なる目で作品を見ることになる。作品もまた、異なる目でぼくを見ることになるということだ。楽しみだ。 二〇一七年七月六日 「ヤング夫妻」  いま日知庵から帰ってきた。学校が終わって、塾が終わって、さあ、きょうはこれから飲むぞと思って日知庵に行ったら、あした、会う約束をしていた香港人ご夫婦のヤング夫妻と出くわしたのだった。きょう、日本に来て京都入りしたそうだ。ご夫妻の話はメモからあした詳しく書く。ご夫妻よりも、帰りの電車で出会った青年のことをいま書く。20代前半から半ばだろうか。ぼくがさいしょに付き合ったノブチンのような感じのおデブちゃんで、河原町駅からぼくは乗ってたのだけど、その子は烏丸から乗ってきて、めっちゃかわいいと思ったら、ぼくの横に坐ってきて、溜息をつきながらぼくを見たのだった。ええっ、ぼくのこと、いけるのって思ったけれど、ぼくもわかいときじゃないし、声をかけてもダメだろうと思って声をかけなかったのだけれど、西院駅で彼も降りたのだった。ぼくは真後ろからついていったのだけれど、駅の改札口から出てちょっと歩いたら、行く方向が違ってて、声をかけなかった。これが、ぼくが20代だったら、声をかけてたと思う。「きみ、かわいいね。ぼくといっしょに、どこか行く?」みたいなこと言ってたと思う。20代で、声をかけて、断られたの2回だけだったから。しかし、いまや、ぼくも50代。考えるよね。声をかけることなく、違う道を歩くふたりなのであった。しかし、息をつきながら、ぼくの目をじっと見つめてた彼の時間のなかで、ほんとうに、ぼくを見た記憶はあるのだろうかってことを考える。ただのオジンじゃんって思って見てただけなのかもしれない。だけど、ぼくはあの溜息に何らかの意味があると思いたい。思って眠る権利は、ぼくにだってあるはずだ。ああ、人生ってなんなんだろう。電車のなかで目が合った瞬間の記憶を、ぼくはいつまで保っていられるのだろう。そういえば、何年かむかし、阪急電車のなかで、仕事帰りに、かわいいなと思った男の子が、ぼくの顔を見てニコッとしてくれたのだけれど、ぼくは塾があったので、知らない顔をしてしまった。いまでも、その男の子の笑い顔が忘れられない。いや、顔自体は忘れてしまったけれど、笑って見つめてくれたことが忘れられない。そうか。ぼくはまだ笑って見つめ返してくれることがあったのだと思うと、人生って、何って思う。ぼくには不可解だ。ぼくはもうだれにも恋をしないと思うのだから、よけい。  あしたは神経科医院に朝に行って、夜は7時に日知庵で、香港人のヤング夫妻とお話をする。いまから睡眠薬のんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書はなんだろう。わからん。SFの短篇集を棚から引き出そう。二度目のおやすみ、グッジョブ! ああ、ヤング夫妻にお土産にお茶をいただいた。  PC付け直した。メモしていないこと書いとかなくちゃ忘れる。ヤング夫妻に、どうして、こんな暑い時期に日本に来たの? って尋ねると、香港はもっとウエッティーでホッターだと言ってた。そうか、ぼくは京都だけが、こんなに蒸し暑くてって思ってたから、目から鱗だった。これ、メモしてなかったー。  三度目のおやすみ、グッジョブ! ロバート・シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』ちょこっと読んだ。もうPC消して、ノブチンに似た、きょう阪急電車のなかで出会った男の子のこと考えながら電気決して横になる。あ〜、人生は、あっという間にすぎていく。すぎていく。それでいいのだけれど、涙。 二〇一七年七月七日 「ヤング夫妻」  いま日知庵から帰ってきた。香港人のご夫婦、ヤング夫妻と飲んでた。お金持ちのヤング夫妻にぜんぶおごっていただいて、なんだかなあと言ったら、「友だちだからね。」と言われて、ふうん、そうなのだ、ありがとうねと言った。次は、2020年に京都に来られるらしい。お金持ちの友だちだ。あ〜あ。  郵便受けに2冊の詩集が送られていたけれど、きょうは読むのは無理。あした、開けよう。楽しみだ。ぼくは、わかい人の詩集も読んで楽しいし、ぼくと同じくらいの齢の人の詩集も読んで楽しい。個人的な事柄が記載されてあるとき、とくに、うれしく感じるようだ。日記を盗み見る感じなのかな。どだろう。  曜日を間違えて学校に行くつもりで部屋を出た。駅に着く直前に、きょうは月曜日ではなかったのではと思い、携帯を見たら日曜日だったので帰ったのであった。ボケがきているのかな。短期的なただのボケだったらいいのだけど。  身体がだるくて、日知庵に行くまで、きょうはずっとゴロゴロ横になってただけだった。きょうはなにもする気がなくて、ただただゴロゴロ横になっていただけだった。どうして、やる気が出ないのだろう。もう齢なのかもしれない。2、3週間前に風邪を引いてからずっと気分が低調だ。歯を磨いて、クスリをのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年七月八日 「数式」  数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられているのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。 二〇一七年七月九日 「ノイローゼ」 嗅覚障害で 自分では臭いがしないのだけれど まわりのひとが臭がっているのではないかと思い きょうは、ファブリーズみたいなの買ってきました。 靴から服へとかけまくりました。 日光3時間照射より強い殺菌力だそうです。 自分で臭いがわかればいいのだけれど。 日知庵で料理を食べても 味だけで 匂いわからず。 まだ味覚があるだけ 幸せか。 嗅覚障害って 治らないみたい。 まだ味覚障害だったら 食べ物で改善できるみたいだけど。 しかし、齢をとると けっこう多くなるみたい。 こわいねえ。 機械だって 古くなると傷んでくるよね。 ぼくも、膝とか足とか、つねに痛いし。 いもくんは腰だったよね。 ぼくも100キロあったときは 腰がしじゅう痛かった。 いまは朝起きて 背中が痛い。 なんちゅうことでしょ。 若さって、貴重だね。 その貴重な時間を 有効に使ったかなあ。 ばっかな恋ばっかしてたような気がする。 まあ、それで、いま詩が書けてるからいいかな、笑。 その思い出でね。 二〇一七年七月十日 「You are so beatiful」  いま、きみやから帰ってきた。きょうは、ビール何杯のんだか、わからない。まあ、5時過ぎからこの時間まで飲んでたのだ。飲みながら、考えることもあったのだが、あまり詩にはならないようなことばかり。いや、ぜんぶが詩かな。わからない。人生、ぐっちょぐっちょだわ。いまはもうクスリの時間かな。  ジョー・コッカーの『You are so beatiful』を聴いている。世界は美しい音楽と、すてきな詩と、すばらしい小説でいっぱいだ。それなのに、ぼくは全的に幸せだとは思えない。なぜなのだろう。欲が深いのかな。あしたから文学三昧の予定なのに、それほど期待していない自分がいる。 二〇一七年七月十一日 「鈴虫」   月影は同じ雲井に見えながら      わが宿からの秋ぞ変れる  このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお 思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。               (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)  同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっているように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のものとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっとぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ているように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることにふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っているはずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからである、というふうに。 二〇一七年七月十二日 「ずっと寝てた」  いま日知庵から帰った。きょうは、焼酎のロック2杯。で、ちょっとヨッパ。きょうも、寝るまえは、SF小説を読む予定だけど、シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』か、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』か、どっちかだと思うけれど、このレムのものは退屈だ。  いま日知庵から帰ってきた。きょうは、昼間、ずっと寝てた。暑くて、なにもする気が起きない。 二〇一七年七月十三日 「27度設定」  いま起きた。クーラーをかけないので、部屋がめっちゃ暑い。きょうは休みなので、はやい時間から日知庵に飲みに行こうかな。  いま日知庵から帰った。えいちゃんが、クーラーかけてみたらと言うので、かけてみる。咽喉がすぐにやられるのだが、どだろ。  27度設定にしてみた。かなりすずしい。これならふとんかけて眠れそう。これからは電気代をケチるのをやめて快適に過ごそう。ただし、咽喉がやられないように、咽喉にきたら、すぐにクスリをのもう。  27度は快適なのだが、咳が出てきた。風邪をぶりかえすといけないので、寝るまえにクーラーを消そう。考えものだな。 二〇一七年七月十四日 「芭蕉」    ときどき詐欺の疑いのある雑誌掲載の電話がかかってくる。ぼくがいままで書いた雑誌では、電話での原稿依頼は、一度としてなかった。内容は「芭蕉」の特集だというので、そこまで聞いて断った。芭蕉についてはほとんど知らないからだ。ぼくのことを知っていたら、「芭蕉」で原稿依頼はしないだろう。 二〇一七年七月十五日 「カサのなか/アハッ」  いま日知庵から帰った。8月に文学極道の詩投稿欄に投稿する作品をきめた。両方とも、ぼくが中学卒業のときの文集に書いたものだ。両方とも、その十数年後に、ユリイカの投稿欄に投稿したら、そのまま、他の1作とともに、同時に3作品掲載されたものだ。1990年5月号、オスカー・ワイルド特集号。 カサのなか カサのなかでは きみの声がはっきりと聞こえる 雨はフィルターのように いらないものを取り除いてくれる ぼくの耳に入ってくるのは ただきみの声だけ アハッ 雨のなか、走ってきたよ 出された水をぐっと飲み込んで プロポーズした でもきみは 窓の外は目まぐるしく動いているから せめてわたしたちはこのままでいましょうねって アハッ バカだな、オレって  スタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』あまりにたいくつな読み物なので、流し読みしている。ぼくの本棚には残さないつもりだ。 いま日知庵から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年七月十六日 「葛西佑也さんと橋場仁奈さん」  葛西佑也さんから、詩集『みをつくし』を送っていただいた。まず、散文詩と改行詩がまざったもの、改行詩だけのものと、形式に目がとまった。つぎに、実景の部分がどれくらいあるかと思って読んでみた。意外に多くあるのかもしれないと思った。自分の第一詩集と比較して、より複雑な詩だなと思った。  橋場仁奈さんから、詩集『空と鉄骨』を送っていただいた。すべて改行詩。平均すると、一行が、ぼくが書くものより長い。たぶん、ブレスで切らないで、意味で切っているからだろう。読んでいて意味がいっこうに入ってこなかったが、そういう詩があってもよいと思う。詩は意味だけではないからね。 「Down Beat」 と、「洪水」という詩誌を送っていただいた。ぼくと同じくらいの齢のひとの書くものに共感するし、年上の方の書かれるものにも共感する。若い書き手は、なにを書いてもよい時期なのだろう。意味はよくわからないが、自由でよいと思う。書く気力が、どの作品からも伝わってくる。 二〇一七年七月十七日 「高知から来られたご夫婦」  いま日知庵から帰った。高知から来られたご夫婦の方と、2回目の出合い。オクさんもかわいいのだけれど、ダンナさんがかわいらしくて、そのダンナさんに気に入ってもらって、ツーショットで写真を撮ってもらったりしたのだけれど、こんどひとりで来ますねと意味深な一言が、笑。かわいらしい人だった。  そいえば、ぼくは自分のほうから名前を聞いたりするタイプじゃなかったので、きょうも、かわいいなと思いながらしゃべっていた青年の名前を聞き損ねてしまっていた。まあ、いいか。つぎに会ったときに、聞けばいいから。それにしても、彼も、ぼくのことを気に入ってくれてたので、うれしい。 二〇一七年七月十八日 「J・G・バラード自伝『人生の奇跡』を買ってメモしまくり。」 といっても バラードの自伝を読んで、ではなく。 朝、西院にあるキャップ書店で、バラードの自伝が 新刊本のところにあったので買った。 財布には1000円札1枚と ポケットに1500円ほどの硬貨が入っていた。 きのう、小銭を持って出るのを忘れて 近くのスーパー「お多福」で食パンとお菓子を買ったせいで きょうのポケットは 小銭がいつもより多かったのだった。 バラードの本の値段を見ると 2200円と書いてあったので ああ、これを買うと昼ごはんは抜きかも と思いながらも、昼ごはん抜いてもはやく手に入れたい という気持ちが働いて レジに持っていくと 「2310円です。」 という店員の女の子の明るい声に ありゃ〜、税金のこと考えてなかったわ と思いつつ 1000円札1枚とポケットの小銭を合わせて ちょうど2310円を支払って カードは持ち歩かないので、銀行には行かず 本を買って、そのまま阪急西院駅に向かったのだった。 で 電車がくるまで2、3分あったので 本のあいだにはさまれてあった 新刊本の案内のチラシを眺めることにしたのだけれど そしたら、このあいだ朝に見た バカボン・パパに似たサラリーマン風のひとが読んでいた 小林泰三の本が載っていた。 タイトルは、『完全・犯罪』だった。 「完全」と「犯罪」のあいだに 「なかてん」があったのであった。 このこと、このチラシを見なかったら いつまでも気がつかなかったと思う。 日本人の書いた小説を読むことはほとんどないし 日本人の作家のコーナーにも行ったことがなかったし。 古典から近代までのものはべつにしてね。 偶然だなあって思った。 そういえば、このあいだ、小林泰三さんの本について書いたら ミクシィをなさってらっしゃるみたいで ご本人が、そのときのぼくの日記をごらんになってて 足跡があったし で ぼくがメッセージしたら お返事くださいました。 おもしろいね。 偶然ってね。 あのバカボン・パパは その後、見かけないのだけれど 偶然ってあるしね。 いつか、どこか違うところで出会ったりして。 出会いたい 出会いたいなあ あ いつも見かけるおばさまには いまでもいつも出会うのだけれど、笑。 で たくさんのメモというのは フローベールの『紋切型辞典』を読んでて取ったメモなんだけど きょうは、これからテスト問題を考えなきゃならないので あしたか、あさってか、しあさってにでも大量に書きこみます。 バカボン・パパかあ。 かわいかったなあ、笑。 そうだ。 バラード自伝 解説の巻末に 未訳の長篇2作が 近日発売予定だと書いてあって 小躍りした。 めっちゃ楽しみ。 二〇一七年七月十九日 「倒錯の森」  いま日知庵から帰った。きのう、寝るまえに読んだサリンジャーの短篇集『倒錯の森』の「ブルー・メロディー」が、黒人差別を扱っていて意外な気がした。サリンジャーの小説でこんなにまっすぐに黒人差別に向かった作品を読んだことがなかったので。ジャズを題材の作品でさいごの描写も繊細でよかった。  きょうの寝るまえの読書は、タイトル作品の「倒錯の森」 おもしろいかな。どだろ。 二〇一七年七月二十日 「ベストSF 1」  いま、日知庵から帰った。きょうは、大人の会話がさいごに行き渡った。ちんこ臭と、まんこ臭についてだが、これは、ツイッターに書けないので、と思ったけれど、書く。それが詩人だ。まんこ臭については、ぼくはわからないが、成人男子お二人のご意見によると、すごいらしくて、スカートを履いてても臭うらしい。えげつない臭いらしいが、ぼくは嗅いだことがない。チンコ臭のほうだが、これは成人男子お一人のご意見だが、権威的なお方なので、貴重なご意見だと思って拝聴した。汗の臭いと違って、ちんこの臭いがするらしい。ズボン履いててもね。ぼくには信じられないけれど、権威のご意見だからね。ええ、そうなんだって言ったら、えいちゃんが「そんなこと、ツイッターに書いたら、あかんで。」と言うので、書くことにした。「腋臭の男の子と付き合ったけれど、慣れるよ。」と言ったのだけれど、反対意見の方が多かった。ぼくは腋臭の男の子と10年付き合ってたからね。顔がかわいければいいのだ。  きのう、寝るまえは、サリンジャーの「倒錯の森」ではなくて、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』の、ベン・ボーヴァの「十五マイル」と、フレッド・ホイルの「恐喝」を読んだ。SFの短篇の方がおもしろい確率が高いからなのだが、きょうも寝るまえは、やっぱ、SFの短篇にしようかな。と書いた時点で、もう、フレッド・ホイルの「恐喝」の内容を忘れている。ものすごい忘却力だ。  河野聡子さんから詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』を送っていただいた。かわいらしい装丁で、なかのページもカラーリングしてあって、そのデザインと、さまざまな大きさのフォントで書かれている言葉の内容が絶妙にマッチしていると思った。貴重な1冊を、ありがとうございました。  8月に文学極道に投稿する2つの作品は、中学校の卒業文集に書いたものなので、14、5歳のときのぼくのことが批評されるのか、それを56歳になって投稿するぼくのことが批評されるのか興味深い。そう考えると、つくった時期と発表する時期が大幅に違うとき、批評家はどういう態度で挑んでいるのか。 二〇一七年七月二十一日 「ピーターさん」  いま日知庵から帰った。カナダ人の知り合いの話から、お金持ちと小金持ちの違いについて考えた。合気道や空手をなさっている巨漢のカナダ人のピーターさんは、日本に22歳のときにいらして、それから24年のあいだ、日本にいらして、日本文化を学ばれて、今では、日本文化を海外の方たちや日本の人たちに教える仕事をなさっておられるのだけれど、そのピーターさんが11、2歳のころのお話。カナダで、お金持ちの弁護士の家でクリスマスパーティーがあったとき、ムール貝が出てきたので、食べたら、そこの親父さんに叱られたのだそうだ。それは子どもの食べるものではないと言われて。ピーターさんちは小金持ちだったそうで、ムール貝などいくら食べてもよかったらしい。お金持ちほど、子どもに厳しいんだろうね。という話を、きのう日知庵でしたのであった。子どもに厳しいと言うか、大人の領分と、子どもの領分をきっちり分けているということなのだろうね。  いま日知庵から帰った。日知庵に電話があったのだけれど、ワンコールで切れた。「ひととの縁のように、簡単に切れるんやね。」と、ぼくが言うと、えいちゃんと、何人かの客から、「こわ〜。」と同時に返事があった。そだよ。こわいんだよ。とにかく、生きている人間がいちばん。 二〇一七年七月二十二日 「倒錯の森」  サリンジャーの「倒錯の森」の122ページ上段8、9行目に、「詩人は詩を創作するのではないのです━━詩人は見つけるのです」刈田元司訳)という詩人のセリフがあって、ぼくもそんなふうに感じていたので共感した。ぼくのつくり方っていうのも、ほとんどみな、そんな感じだったから。 二〇一七年七月二十三日 「倒錯の森」  いま日知庵から帰った。大きな料亭の店主の鈴木さんから、えいちゃんと、あっちゃんと、カラオケ行きたい。あっちゃんのビートルズが聞きたいと言われて、うれしかった。きょう、昼間、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のタイトル作を読み終わって、やっぱりサリンジャーはうまいなあと思った。ばつぐんに、頭がいいんだよね。 二〇一七年七月二十四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」 横にあった ボディー・ソープの容器の 後ろに書いてあった解説書を読んでいて ふと、ううううん これはなんやろ なんちゅう欲求やろかと思った。 読書せずにはいられない。 いや 人間は 知っていることでも 一度読んだ解説でもいいから 読んでいたい より親しくなりたいと思う動物なんやろか。 それとも、文字が読めるぞということの 自己鼓舞なのか。 自己主張なのか。 いや 無意識層のものの 欲求なのか。 そうだなあ。 無意識に手にとってしまったものね。 二〇一七年七月二十五日 「銀竹」  いま、きみやから帰ってきた。さとしちゃんの友だちのポールが書道を習っていて、「銀竹」って、きょう書いてきたらしいのだけれど、そんな日本語、ぼくは知らないと言うと、さとっちゃんが目のまえで調べてくれて、俳句の季語にあった。夕立のことだって。ああ、でも、いつの季節か忘れちゃった〜。というか、そんな日本語、ぼくも知らないんだから、俳人って、よほど、日本語が好きなんだろうね。というか、漢字が好きなのか。なんだろ。わかんないや。ふつうに使う言葉じゃないことだけは確かだよね。まわりのひと、みんな知らなかったもの。  へきとらのチューブを見てる。へきほうという男の子が、むかし付き合ってた男の子に似ていて。こういうのは、なんていうのかなあ。ぼくももう56歳だし、その男の子も40超えてるし、なんというか、さいきん、ぼくが文学に対して持ってる支持力と近い感じがするかな。意地力というか。意地というか。 二〇一七年七月二十六日 「余生」  いま日知庵から帰ってきた。きょうは、うなぎの丑の日ということで、日知庵で、うな丼を食べた。おいしかった。赤出汁もおいしかった。  未読の本が残り少なくなってきた。また、未読のものを読んでも、おもしろくなくなってきた。たくさん読んできて、ほとんどいかなる言葉の組み合わせにも、これまたほとんどまったく驚かなくなってきた。詩人としては致命的な現象だけれど、人間としては、落ち着いてきた、ということなのかもしれない。まるでひとと競争でもしているように、作品を書いてきたのだけど、もうほかのだれかと競争しているような気分でもないし、余生は読んできたもののなかで、傑作と思った詩や詩集や小説を読んでいられれば、しあわせかなと、ふと思った。 詩をつくることは、なにかいやしいことでもしているかのように思える。 二〇一七年七月二十七日 「読書」  いま日知庵から帰った。おなか、いっぱい。なんか読むものさがして読もうっと。もう読みたいと思わせるものが未読のものでなくなってしまった。読んだもののなかから適当なものを選ぼう。と、こういうような齢になっちゃったんだな。というか、これまでに膨大な読書のし過ぎという感じもする。  その膨大な読書のために、最低の時間ですむ労働を選んだのだけれど、その最低の時間ですむ労働さえも、さいきんは、しんどい。きょうも、塾で、ある先生に、「そうとう疲れておられますね。」と言われた。そんなゾンビな顔をしていたのだろう。まあ、自分でも、そうとう疲れていると思っているものね。 二〇一七年七月二十八日 「犬を飼う」 いま日知庵から帰った。  犬を飼っちゃいけないマンションで犬を飼ってたら、透明になっちゃった。きっと見えないようにって思ってたからなんだろうね。 二〇一七年七月二十九日 「お茶をシバキに」  植木鉢に、四角柱や三角錐やなんかの立体図形を入れて育てている。でも、すぐに大きくなれって念じたら、それぞれの図形が念じた通りに大きくなってくれるから、とても育てがいのある立体図形たちだ。  腕くらいの太さの輪っかを六つ重ねてそれをまた輪っかで結びつける。それを詩の土台として飛び乗ると、膝から直接、床に落ちて、めっちゃ痛かった。 これから大谷良太くんとお茶をシバキに。 いま帰ってきた。これから飲みに行く。 二〇一七年七月三十日 「短時間睡眠」  いま、日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。あしたは、一日、ぼけーっとしてるはず。おやすみ、グッジョブ!  いま目がさめた。何時間、寝てたんだろう。時刻をみてびっくりした。わずか2時間。 二〇一七年七月三十一日 「文法」 わたしは文法である。 言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。 言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。 文法も法である。 したがって抜け道もたくさんあるし そもそも法に従わない言葉もある。 また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。 また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。 すべてが変化する。 文法も法である。 したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。 そういう場合は改正されることになる。 しかし、法のなかの法である憲法にあたる 文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。 生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。 超法規的な事例があるように 文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが それがゆるされるのはごくまれで ことのほか、それがうつくしいものであるか 緊急事態に発せられるもの あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。 たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年八月一日─三十一日/田中宏輔[2021年9月6日1時37分] 二〇一七年八月一日 「カサのなか」 いま、きみやから帰った。ラーメン食べて寝る。おやすみ。  文学極道の詩投稿掲示板に、作品「カサのなか」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。ぼくの投稿作品中、もっとも短い、6行の詩です。この作品は、14、5歳のときの中学の卒業文集に書いたものの1つ。のちに、27、8歳のときにユリイカに投稿したら、大岡 信さんに選んでいただいて、1990年の5月号「オスカー・ワイルド特集号」の投稿欄に、冒頭から3作同時にぼくの投稿作品が掲載されたのだが、これは、その1つ目の作品。さて、この文学極道の詩投稿欄では、14、5歳のときのぼくが批評されるのだろうか。それとも、その40数年後の56歳のいまのぼくが批評されるのだろうか。興味深い。 二〇一七年八月二日 「死父」  あした、はやくから仕事なので、きょうは飲みに行かずに帰ってきた。これから晩ご飯。しかし、読みたい本が1冊もない。未読のものは、『巨匠とマルガリータ』と『ドクトル・ジバゴ』だけになってしまった。あ、『ゴーレム』と『ロクスソルス』があるか。『死父』も途中でほっぽり出したままだしなあ。 二〇一七年八月三日 「フローベールの『紋切型辞典』」  フローベールの『紋切型辞典』(小倉孝誠訳)を読んでいて、いろいろ思ったことをメモしまくった。そのうち、きょう振り返って、書いてみたいと思ったものを以下に書きつけておく。 印刷された の項に 「自分の名前が印刷物に載るのを目にする喜び!」 とあった。 1989年の8月号から1990年の12月号まで、自分の投稿した詩がユリイカの投稿欄に載ったのだが、自分の名前が載るのを目にする喜びはたしかにあった。いまでも印刷物に載っている自分の名前を見ると、うれしい気持ちだ。しかし、よりうれしいのは、自分の作品が印刷されていることで、それを目にする喜びは、自分の名前を目にする喜びよりも大きい。ユリイカに載った自分の投稿した詩を、その号が出た日にユリイカを買ったときなどは、自分の詩を20回くらい繰り返し読んだものだった。このことを、ユリイカの新人に選ばれた1991年に、東京に行ったときに、ユリイカの編集部に訪れたのだが、より詳細に書けば、編集部のあるビルの1階の喫茶店で、そのときの編集長である歌田明弘さんに話したら、「ええ? 変わってらっしゃいますね。」と言われた。気に入った曲を繰り返し何回も聴くぼくには、ぜんぜん不思議なことではなかったのだが。ネットで、自分の名前をしじゅう検索している。自分のことが書かれているのを見るのは楽しいことが多いけれど、ときどき、ムカっとするようなことが書かれていたりして、不愉快になることがある。しかし、自分と同姓同名のひとも何人かいるようで、そういうひとのことを考えると、そういうひとに迷惑になっていないかなと思うことがある。しかし、自分と同姓同名のひとの情報を見るのは、べつに楽しいことではない。だから、たぶん、自分と同姓同名の別人の名前を見ても、たとえ、自分の名前と同じでも、あまりうれしくないのではないだろうか。自分の名前が印刷物に載っているのを見ることが、つねに喜びを与えてくれるものであるとは限らないのではないだろうか。 * 譲歩[concession] 絶対にしてはならない。譲歩したせいでルイ十六世は破滅した。 と書いてあった。  芸術でも、もちろん、文学でも、そうだと思う。ユリイカに投稿していた とき、ぼくは、自分が書いたものをすべて送っていた。月に、20〜30作。 選者がどんなものを選ぶのかなんてことは知ったことではなかった。 そもそも、ぼくは、詩などほとんど読んだこともなかったのだった。 新潮文庫から出てるよく名前の知られた詩人のものか 堀口大學の『月下の一群』くらいしか読んでいなかったのだ。 それでも、自分の書くものが、まだだれも書いたことのないものであると 当時は思い込んでいたのだった。 譲歩してはならない。 芸術家は、だれの言葉にも耳を貸してはならない。 自分の内心の声だけにしたがってつくらなければならない。 いまでも、ぼくは、そう思っている。 それで、無視されてもかまわない。 それで破滅してもかまわない。 むしろ、無視され、破滅することが ぼくにとっては、芸術家そのもののイメージなのである。 * 男色 の項に 「すべての男性がある程度の年齢になるとかかる病気。」 とあった。  老人になると、異性愛者でも、同性に性的な関心を寄せると、心理学の本で読んだことがある。  こだわりがなくなっただけじゃないの、と、ぼくなどは思うのだけれど。でも、もしも、老人になると、というところだけを特徴的にとらえたら、生粋の同性愛者って、子どものときから老人ってことになるね。どだろ。 * 問い[question] 問いを発することは、すなわちそれを解決するに等しい。 とあった。古くから言われてたんだね。 * 都市の役人 の項に 「道の舗装をめぐって、彼らを激しく非難すべし。──役人はいったい何を考えているのだ?」 とあった。 これまた、古くからあったのね。国が違い、時代が違っても、役人のすることは変わらないってわけか。  でも、ほかの分野の人間も、国が違っても、時代が違っても、似たようなことしてるかもね。治世者、警官、農民、物書き、大人、子ども、男、女。 * 比喩[images] 詩にはいつでも多すぎる。 とあった。  さいきん、比喩らしい比喩を使ってないなあと思った。でも、そのあとで、ふと、はたして、そうだったかしらと思った。  ペルシャの詩人、ルーミーの言葉を思い出したからである。ルーミーの講演が終わったあと、聴衆のひとりが、ルーミーに、「あなたの話は比喩だらけだ。」と言ったところ、ルーミーが、こう言い返したのだというのだ。 「おまえそのものが比喩なのだ。」と。 そういえば、イエス・キリストも、こんなことを言ってたと書いてあった。 「わたしはすべてを比喩で語る。」と。 言葉そのものが比喩であると言った詩人もいたかな。どだろ。 * 分[minute] 「一分がどんなに長いものか、ひとは気づいていない。」 とあった。  そんなことはないね。齢をとれば、瞬間瞬間がどれだけ大事かわかるものね。その瞬間が二度とふたたび自分のまえに立ち現われることがないということが、痛いほどわかっているのだもの。それでも、人間は、その瞬間というものを、自分の思ったように、思いどおりに過ごすことが難しいものなのだろうけれど。悔いのないように生きようと思うのだけれど、悔いばかりが残ってしまう。ああ、よくやったなあ、という気持ちを持つことはまれだ。まあ、それが人生なのだろうけれど。  ノブユキとのこと。エイジくんとのこと。タカヒロとのこと。中国人青年とのこと。名前を忘れた子とのこと。名前を聞きもしなかった子とのことが、何度も何度も思い出される。楽しかったこと、こころに残ったさまざまな思い出。 二〇一七年八月四日 「梯子」  朝、ひさしぶりに、マクドナルド行った。えびフィレオがまだやってなかったので、フィレオフィッシュにした。  日知庵→きみや→日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。きょうは、これで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年八月五日 「俳句」  いま日知庵から帰ってきた。きのうから、ちょこっと、『巨匠とマルガリータ』上巻を読んでる。おやすみ、グッジョブ!  いまFBで、日本語で俳句を書かれる外国人の方から友だち承認のリクエストが来て、その方のページを見て、すぐに承認した。女性の方のようだが、わかりやすい日本語で作品を書いてらっしゃった。 二〇一七年八月六日 「ムール貝は貧乏人も食べるよ。」  文学極道の詩投稿掲示板に、『アハッ』を投稿しました。よろしければ、ごらんください。  ひとは、小説や思想書と同じように、また、ひとと同じように、もっとも適切なときに出合っているのだと思います。ぼくは、むかしから知っていた詩人でしたが、一冊で読むことのなかった金子光晴を、ことしの3月でしたか、4月でしたか、岩波文庫で読んで感心しました。 2017年8月3日のメモ 日知庵にゲイの友だちがきてて、このあいだ大阪のゲイバーで、臭いフェチの話が出て「嗅ぎたい」というと、関東人には「嗅ぎたい」という言葉がわからなかったらしい。「臭いたい」と言わなければ、通じなかったという。ふうん。「嗅ぐ」ってふつうの日本語なのにね。 2017年8月3日のメモ きょう、日知庵でピーターと出会って、「このあいだのムール貝の話をツイッターに書いたよ。」と言うと、「ムール貝ちがうよ。ロブスターよ。ムール貝は貧乏人も食べるよ。」と言うので、後日、ツイッターで訂正しておくよと返事した。ああ、ぼくの記憶力も落ちたものだわ。ピーター、カナダから日本にやってきて、もう24年らしいのだけれど、俳句をやっているらしく、Hailstone という Haiku Group に属してらっしゃるらしい。主催者の方のお名前は、Stephen Gill という方らしい。 台風だけど、焼肉は決行らしいので、そろそろ起きよう。  きょうの焼肉、ボスがえいちゃんなのだけれど、くるメンバーが、もう個性、バラバラで、会話が通じるのかどうかもあやぶまれるくらい。まあ、えいちゃんがちゃんと仕切るのだろうけれど。ある意味で、ぼくはお化け屋敷に行くような気分でもある。こう書いてて、いま、ぼくの顔は満面の笑みだ。  さて、これからお風呂に入って、河原町に。焼肉の場所は烏丸御池だけど、そのまえに、えいちゃんと河原町で買い物。  いま、焼肉→居酒屋から帰ってきた。おなか、いっぱい。ありがとうね、えいちゃん。 二〇一七年八月七日 「ヤング夫妻の思い出」 2017年7月7日のメモ 2012年にはじめてお会いした香港人のヤング夫妻と日知庵でいろいろ話をした。ぼくがはじめてお会いしたときはまだ結婚なさっておられず、2014年に結婚されたのだという。praque で結婚したのだと言われた。「プラ」と発音されたので、どこかわからなかったので、しかも、さいしょのイニシャルが小文字だったので、どこだろうと思ったのだけど、i-phon で Praha の写真を見せてくださったので、日本語では、「プラハ」と言うんですよと言ったら、英語で香港では「プラ」と言うのよと教えてくださった。それって、カフカの生まれたところですねと言うと、おふたりは、うなずいてくださった。「棄我去者、昨日之日不可留」を憶えていますかとヤングさんに訊かれたので、「ええ、ヤングさんのお好きな詩でしたね」と言った。中国語と英語交じりの会話だった。そのあと、彼らの携帯で、お二人のプラハでの結婚式の模様や街の様子を撮られた写真をいくつも見せてくださった。日本には、今回、車を買いに来られたのだが、奥様が国際免許を持ってくるのを忘れられて、international car license というのだそうだが、あした琵琶湖をドライヴするはずだったのだけど、バスで行くしかなくなっちゃたよとのことだった。えいちゃんが、いま何台、車をもってるんですかって訊いたら、すでに2台もってるってお話だった。ぼくが奥様に、国際免許を忘れられたことを、「Oh, big mistakeね!」と日本語交じりの英語で言うと、みんな大笑いだった。お金持ちの余裕というか、寛容さを見たような気がした。 二〇一七年八月八日 「まるちゃん」    日知庵と、きみやの梯子から帰ってきた。きみやで、何日かまえに出合ったかわいい男の子と再会した。ちょびっとしゃべれて、うれしかった。さいしょ離れた席だったのだけれど、帰りしなには、隣りに坐らせてもらった。それからまた、たっぷりとしゃべれた。うれしかった。まるちゃん、ありがとうね。 二〇一七年八月九日 「恋愛について」    いま、きみやから帰ってきた。きのう再会した男の子とばったり出くわした。うれしかった。長い時間いっしょにいられなかったけれど。HちゃんとSくんとたくさんディープな話をした。悪について。戦争について。アウシュビッツについて、恋愛について。さいごの話題がいちばん、ぼくにはシビアだった。 二〇一七年八月十日 「韓国人の男の子」  いま日知庵から帰ってきた。ヨッパ〜。夏休みは毎日、飲みに出るから、毎日ヨッパである。いったい、どれだけ時間を無駄にしているのか。しかし、その無駄な時間があるからこそ、脳みそを休めることができるのである。とは、いうものの、きょうは、ほんとにヨッパ。ゲロゲロ寸前である。ああ情けない。  隣の隣に坐っていた韓国人の男の子が日本語でしゃべってきたのだが、半分くらいしかわからず、それでも、いやな印象は与えたくはなかったので、にこにこしていたら、帰りに握手された。韓国式の年下の子が左手で右手を握って、ぼくと握手するというもの。まあ、なんちゅうかよくしゃべる男の子だった。34才、既婚。日本人の妻らしい。携帯で見せてもらった。かわいらしい、ちっちゃい女の子。しかし、よくしゃべる男の子だった。ぼくが韓国人だったら、きっと機関銃のように韓国語でしゃべっていたのだろうと思う。そだ。彼の見方だと、アメリカと北朝鮮、もうじき戦争だよねってことだったけど、もし戦争になったら、3日で終わるね、とのことだった。アメリカの原爆の方が北朝鮮よりずっとすごいらしい。でも、原爆を使うかな? ぼくは、そこが疑問だったけど、黙ってた。ぼくは戦争のこと、なにも知らないし。韓国の徴兵制について、ちょっと知識が増した。35歳までだと思っていたけど、40歳までだって。しかも、博士とかは行かなくていいらしい。そうか、学歴はそんなところにも影響があるんだ。でも、35歳を越えていると強制的に連れて行かれるよと言っていたので、ほんと、日本語の出来がいまいちの韓国人青年だった。ぼくのヒアリング能力が低かったとも思えるが。 二〇一七年八月十一日 「2010年11月18日のメモ」 人生においては 快適に眠ることより重要なことはなにもない。 わたしにとっては、だが。 二〇一七年八月十二日 「2010年11月19日のメモ 」 考えたこともないことが ふと思い浮かぶことがある。 自分のこころにあるものをすべて知っているわけではないことがわかる。 いったい、どれだけたくさんのことを知らずにいるのだろうか。 自分が知らないうちに知っていることを。 二〇一七年八月十三日 「梯子ふたたび」  いま、「日知庵━きみや」の梯子から帰ってきた。きょうは、なにを読んで眠ろうかな。未読の10冊ほどをのぞくと、傑作ばかり、七、八百冊。およそ千冊だ。健忘症が入ってるっぽいから、なに読んでもおもしろそうだけど。古典や古典詩歌もいいけれど、SFやミステリーのアンソロジーもいい。どだろ。 二〇一七年八月十四日 「現代詩集」  いま日知庵から帰ってきた。きょうも、寝て、飲んで、の一日だった。飲んでるときが、いちばん、おもしろい。さて、寝るまえの読書は? ひさしぶりに、『現代詩集』でも読もうかな。 二〇一七年八月十五日 「リアルな夢」  現実かと思えるほどリアルな夢を見てた。子どものころなら、現実と思っていただろう。人間は夢からできていると書いていたのはシェイクスピアだった。たぶん、ちょっぴり違った意味の夢だろうけれど。きのう一日の記憶がない。お酒の飲み過ぎで、脳機能が麻痺でもしたのだろう。齢をとったものだ。 二〇一七年八月十六日 「そうめんと、ししゃも」    いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。きょうは体調が悪くて、肉類が食べられなかった。そうめんと、ししゃもを食べた。広島からきたという男の子がかわいかった。まあ、なんちゅうか、きょうもヨッパで、ゲロゲロ。帰りにセブイレで、豆乳とかケーキとか買ったので、これいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年八月十七日 「ほんとかな?」  数だけが数に換言できる。数以外のものは数に換言できない。言葉もまた、言葉だけが言葉に換言できる。言葉以外のものは、言葉に換言できない。 二〇一七年八月十八日 「あしたから仕事だ。」  いま日知庵から帰った。セブイレで買ったエクレア2個とミルクをいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから仕事だ。 二〇一七年八月十九日 「きのうと同じ」  いま日知庵から帰ってきた。帰りにセブイレで麦茶を買って、というところまで、きのうと同じだ。 二〇一七年八月二十日 「トマトジュース」  いま、きみやから帰った。帰りに自販機で、トマトジュースを買った。終電ギリギリ間に合った。きょうも時間SFのアンソロジーのつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年八月二十一日 「2010年11月19日のメモ 」 岩波文庫のエリオットの詩を読んでいて 42ページにある最後の一行の解釈が 翻訳者が解説に書いてあるものと ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。 ぼくの解釈は直解主義的なものだった。 訳者のものは、隠喩としてとったものだった。 まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど おもしろくない。 エリオットの詩は 直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。 ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。 むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど ぼくの性には合わない。 批評がやたらとりっぱなものを散見するけど なんだかなあ。 バカみたい。 二〇一七年八月二十二日 「2010年11月20日のメモ 神経科医院に行く途中、五条堀川のブックオフに寄るために、五条大宮の交差点で信号待ちしながら書いたメモ」 きのう、あらちゃんから電話。 そのときに話したことのひとつ。 ぼくたち人間ってさ。 もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。 知性とか感情っていうものね。 (知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから) それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。 お互いに荷物を背負ってるんだから ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。 減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。 自分でも、それは学ぶんだけど。 ひとの荷物、増やすひといるでしょ? ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの? って感じ。 そだ。 いま『源氏物語』中盤に入って めっちゃおもしろいの。 「そうなんですか。」 そうなの。 もうね。 矛盾しまくりなの。 人物描写がね、性格描写か。 しかし、『源氏物語』 こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。 物語って、型があるでしょ。 あの長い長い長さが、型を崩してるのね。 で、その型を崩させているところが 作者の制御できてないところでね。 その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。 芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって いちばん大事じゃない? いまのぼくの作風もそうで もう、計画的につくられた詩や小説なんて ぜんぜんおもしろくないもの。 よほどの名作はべつだけど。 で 『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を 一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。 で それが、ぼくには、おもしろいの。 それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。 ふうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。 一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。 政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。 たとえば、政党のスローガンね。 でも、もともと、人間って、政治的でしょ? 職場なんて、もろそうだからね。 それは、どんな職場でも、そうだと思うの。 ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ? 「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」 でしょ? まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。 あ、話を戻すけど 芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか 減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。 ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。 (だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに) 芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど 見せてくれてることね そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。 フローベールの『紋切型辞典』に 文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど その閑人がいなけりゃ 人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。 世界もね。 きのう、あらちゃんと 自費出版についてディープに話したけど この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。 つぎには、きのうメモした長篇を。 エリオットに影響されたもの。 (ほんとかな。) 二〇一七年八月二十三日 「ナウシカ2回目」 にぬきを食べて お風呂からあがってから。 いまナウシカ2回目。 二〇一七年八月二十四日 「あなたがここに見えないでほしい。」 とんでもない。 けさのうんこはパープルカラーの やわらかいうんこだった。 やわらかいうんこ。 やわらかい 軟らかい うんこ 便 軟らかい うんこ 軟便(なんべん) なすびにそっくりな形の 形が なすびの やわらかい うんこ 軟便 なすびにそっくりのパープルカラーが ぽちゃん と 便器に 元気に 落ちたのであった。 わしがケツもふかずに ひょいと腰を浮かして覗き込むと 水にひろがりつつある軟便も わしを見上げよったのじゃ。 そいつは水にひろがり 形をくずして 便器がパープルカラーに染まったのじゃった。 ひゃ〜 いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと 不安で不安で いっぱいになりおったのじゃったが しっかと 大量の水をもって パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。 これで不安のもとは立ち去り 「言わせてやれ!」 わしはていねいにケツをふいて 「いてっ、いててててて、いてっ。」 手も洗わず 顔も洗わず 歯も磨かず 目ヤニもとらず 耳アカもとらず 鼻クソもとらず 靴だけを履いて ステテコのまま 出かける用意をしたのじゃった。 公園に。 「いましかないんじゃない?」 クック、クック と幸せそうに笑いながら 陽気に地面を突っついておる。 なにがおかしいんじゃろう。 不思議なヤカラじゃ。 不快じゃ。 不愉快じゃ。 ワッ ワッ ワッ あわてて飛び去る鳩ども じゃが、頭が悪いのじゃろう。 すぐに舞い戻ってきよる。 ワッ ワッ ワッ 軟便 違う なんべんやっても またすぐに舞い戻ってきよる。 頭が悪いのじゃろう。 わしは疲れた。 ベンチにすわって休んでおったら マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。 なんじゃ、なんじゃと思とうったら 女の子たちが わしを囲んでけりよったんじゃ。 ひゃ〜 「いてっ、いててててて、いてっ。」 「いましかないんじゃない?」 こりゃ、かなわん と言って逃げようとしても なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが わしの息子と娘がきて わしをたすけてくれよったんじゃ。 「お父さん  机のうえで  卵たちがうるさく笑っているので  帰って  卵たちを黙らせてくれませんか。」 たしかに 机のうえでは 卵たちが クツクツ笑っておった。 そこで、わしは 原稿用紙から飛び出た卵たちに 「文字にかえれ。  文字にかえれ。  文字にかえれ。」 と呪文をかけて 卵たちが笑うのをとめたんじゃ。 わしが書く言葉は すぐに物質化しよるから もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。 しかし、クツクツ笑うのは 卵じゃなくって 靴じゃなかったっけ? とんでもない。 「いましかないんじゃない?」 「問答無用!」 そんなこと言うんだったら にゃ〜にゃ〜鳴くから 猫のことを にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は リンリンじゃなくって あ もうリンリンじゃないか でんわ、でんわ って 鳴きゃなきゃならない。 なきゃなきゃならない。 なきゃなきゃ鳴かない。 「くそー!」 原稿用紙に見つめられて わしの独り言もやみ 「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」 吉野の桜も見ごろじゃろうて。 「なんと酔狂な、お客さん」 あなたがここに見えないでほしい。 「いか。」 「いいかな?」 二〇一七年八月二十五日 「コンディション」  いま日知庵から帰った。マウスの調子が悪くて、使えなくなってしまった。マウスを買い替えるだけでよかったかな。ちょっと思案中。まえも調子が悪くなったんだけど、いつの間にか使えるようになった経緯もあるしなあと。パソコンの調子が悪いと体調も悪い。きょうは王将で豚肉を吐いた。体調が悪い。1週間後には、仕事に復帰。コンディションを整えておかなければならない。 二〇一七年八月二十六日 「このバケモノが!」 いまナウシカ、3回目。 「このバケモノが!」 「うふふふ。」 「不快がうまれたワケか。  きみは不思議なことを考えるんだな。」 「あした、みんなに会えばわかるよ。」 引用もと、「風の谷のナウシカ」 二〇一七年八月二十七日 「カラオケでは、だれが、いちばん誇らしいのか?」 あたしが歌おうと思ってたら つぎの順番だった同僚がマイクをもって歌い出したの。 なぜかしら? あたしの手元にマイクはあったし あたしがリクエストした曲だったし なんと言っても 順番は、あたしだったのに。 なぜかしら? 機嫌よさげに歌ってる同僚の足もとを見ると ヒールを脱いでたから こっそりビールを流し入れてやったわ。 「これで、きょうのカラオケは終わりね。」 なぜかしら? アララットの頂では 縄で縛りあげられた箱舟が その長い首を糸杉の枝にぶら下げて 「会計は?」 あたしじゃないわよ。 海景はすばらしく 同僚のヒールも死海に溺れて 不愉快そうな顔を、あたしに向けて 「あたしじゃないわよ。」 みんなの視線が痛かった。 「なぜかしら?」 ゆっくり話し合うべきだったのかしら? 「だれかが、あたしを読んでいる。」 二〇一七年八月二十八日 「ぼくのサイズがない」  ひさしぶりに、西院のブレッズプラスで、チーズハムサンドのランチセットを食べに行こう。きのうは夏バテで、なにも食べていない。きょうも、夏バテ気味で、もしかしたら、食べ残すかもしれないけれど。ついでに、ジョーシンで、マウスを買ってこよう。  マウスを買ってきた。1266円だった。作動もさせたけれど、スムーズ。ブレッズプラスでは、食べ残さなかった。徐々に、体力をつけていきたい。足を伸ばしただけで膝に痛みが走る。どうすればいいかな。Keen のスリッパをネットで買おうとしたら、ぼくのサイズがなかった。生きにくい世のなかだ。 二〇一七年八月二十九日 「しばし天の祝福より遠ざかり……」 きょうは大谷良太くんと、お昼ご飯を食べた。  そろそろクスリのんで寝よう。きょうも寝るまえに時間SFの短篇を読もう。『スターシップと俳句』というすばらしいB級SFを書いた、ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福より遠ざかり……」である。いま読んでるアンソロジーとは異なるアンソロジーで読んだことがあるが内容はまったく憶えていない。 二〇一七年八月三十日 「書き写し作業」  きょうは、これからルーズリーフ作業。P・D・ジェイムズの『黒い塔』と、エリオットの詩集からの引用とメモの書き写しを。 読書も楽しい。 引用を書き写すのも楽しい。 いまナウシカ4回目。 ブレードランナーも、ほしかったなあ。 さあ、言葉に戻ろう。 P・D・ジェイムズ 読みにくいって書かれているけれど ぼくには読みやすい。 才能のある作家の文章を書き写していると よごれたこころが顕われる感じ、笑。 あ 洗われる、ね。 二〇一七年八月三十一日 「謝罪させるひと」  FBでリクエストしてきたひとのページを見たら、あるひとに謝罪されたことを書いていたので、即行、リクエストから削除した。他人に謝罪を求めたりすることはもちろん、させたりすることで満足するこころが、ぼくには理解できないというか、気持ち悪いので、お断わりしたのだった。ほんと気持ち悪い。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年九月一日─三十一日/田中宏輔[2021年9月13日1時59分] 二〇一七年九月一日 「陽の埋葬」  文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。 二〇一七年九月二日 「2010年11月19日のメモ 」 無意識層の記憶たちが 肉体のそこここのすきまに姿を消していくと 空っぽの肉体に 外界の時間と場所が接触し 肉体の目をさまさせる。 目があいた瞬間に 世界が肉体のなかに流れ込んでくる。 肉体は世界でいっぱいになってから ようやく、わたしや、あなたになる。 けさ、わたしの肉体に流れ込んできた世界は 少々、混乱していたようだった。 病院に予約の電話を入れたのだが 曜日が違っていたのだった。 きょうは金曜日ではなくて 休診日の木曜日だったのだ。 金曜日だと思い込んでいたのだった。 それとも、わたしのなかに流れ込んできた世界は あなたに流れ込むはずだったものであったのだろうか。 それとも、理屈から言えば、地球の裏側にいるひと、 曜日の異なる国にいるひとのところに流れ込むはずだった世界だったのだろうか。 二〇一七年九月三日 「いつもの梯子」  いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年九月四日 「陽の埋葬」  文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。 二〇一七年九月五日 「かつて人間だったウーピー・ウーパー」 マイミクのえいちゃんの日記に 帰ってまた ってタイトルで  食べてしまったサラダとご飯と豚汁と ヨモギ団子1本あかんな〜 ついつい食べてまうわ でも 幸せやで皆もたまにはガッツリ食べようね 帰りに考えてた ウーパールーパーに似てるって昔いわれた 可愛いさわ認めるけど 見た目は認めないもんね でも こないだテレビでウーパーを食べてたなんか複雑やったなやっぱり認めるかな 俺似てないよねどう思いますか? 素直によろしくお願いします って、あったから 似てないよ。 目元がくっきりしてるだけやん。 って書いたんだけど、あとで気がついて ウーピー・ゴールドバーグと間違えてた。 動物のほうか。 かわいらしさが共通してるかな。 共通してると似てるは違うよ。 って書き足したんだけど、そしたら、えいちゃんから返事があって 間違えないで ウーピー食べれないでしょ 間違うのあっちゃんらしいね 目はウーピー・ゴールドバーグに似てるんや これまた 複雑やわ ありがとう って。なんか、めっちゃおもしろかったから、ここにコピペした。 えいちゃん、ごめりんこ。 あ ちなみに、えいちゃんの日記やコメントにある絵文字は、コピペできんかった。 どういうわけで? わからん。 なぜだ? なぜかしらねえ。 「みんなの病気が治したくて」 by ナウシカ 二〇一七年九月六日 「捨てなさい。」 というタイトルで、寝るまえに なにか書こうと思った。 これから横になりながら ルーズリーフ作業を。 なにをしとったんじゃ、おまえは! って感じ。 だらしないなあ、ぼくは。 だって、おもしろいこと、蟻すぎなんだもの。 追記 2010年11月20日11時02〜14分    なにも思いつかなかったので、俳句もどきのもの、即席で書いた。 捨ててもまた買っちゃったりする古本かな なにもかもありすぎる捨てるものなしの国 あのひとはトイレで音だけ捨てる癖がある 目がかゆい目がかゆいこれは人を捨てた罰 捨て台詞誰も拾う者なし拾う者なし者なし 右の手が悪いことをすれば右の手を捨てよ 二〇一七年九月七日 「進野くん」 いま日知庵から帰ってきた。日知庵では、進野くんと1年ぶりに出あって、笑い合った。 二〇一七年九月八日 「ノイローゼ占い。」 ノイローゼにかかっている人だけで ノイローゼの原因になっていることがらを お互いに言い当て合うゲームのこと。 気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。 なぜかしら? で、言い当てた人から抜けていくというもの。 じっさい、最初に言い当てた人は 次の回から参加できないことが多い。 兵隊さんと団栗さん。 二〇一七年九月九日 「若干の小さなメモ。」 2010年11月12日のメモ 読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。 2010年11月12日のメモ 首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが 個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。 2010年11月12日のメモ 書くという行為は、ひじょうに女々しい。 いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。 意味の逆転が起こっている。 男のほうが潔くないのだ。 美輪明宏の言葉が思い出される。 「わたしはいまだかつて  強い男と弱い女に出会ったことがありません。」 しかり、しかり、しかり。 ぼくも、そう思う。 あ、フローベールの紋切型辞典って おもしろいよ。 用語の下に 「よくわからない。」 って、たくさんあるの。 読者を楽しませてくれるよね。 ぼくも 「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」 って、何度も書いたけど、笑。 二〇一七年九月十日 「繰り返しの梯子」  いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。あしたは、大谷良太くんと、喫茶店で待ち合わせをしている。神経科に午前中に行く予定だ。 二〇一七年九月十一日 「チゲ鍋」  大谷良太くんちで、チゲ鍋をご馳走になって帰ってきた。とてもおいしかった。ありがとね。  あしたは雨らしい。洗濯いまやってるの部屋干しだな。きょうは、なにを読んで眠ろうか。文春文庫の『ミステリーゾーン』のシリーズ全4作はすべて傑作で、なにを読んでもおもしろかった記憶がある。それとも、ひさしぶりにジュディス・メリル女史の年間ベストSFにしようかな。 二〇一七年九月十二日 「おじいちゃんの秘密。」 たいてい、ゾウを着る。 ときどき、サルを着る。 ときには、キリンを着る。 おじいちゃんの仕事は 動物園だ。 だれにも言っちゃダメだよって言ってた。 たま〜に、空を着て鳥を飛んだり あ 鳥を着て空を飛んだりすることもある って言ってた。 動物園の仕事って たいへんだけど 楽しいよ って言ってた。 でも、だれにも言っちゃダメだよって言ってた。 言ったらダメだよって言われたら よけいに言いたくなるのにね。 きのう、ぶよぶよした白いものが おじいちゃんを着るところを見てしまった。 博物館にいるミイラみたいだったおじいちゃんが とつぜん、いつものおじいちゃんになってた。 おじいちゃんと目が合った。 どれぐらいのあいだ見つめ合ってたのか わからないけれど おじいちゃんは 杖を着たぼくを手に握ると 部屋を出た。 二〇一七年九月十三日 「ひまわり。」 ひまわりの花がいたよ。 ブンブン、ブンブン 飛び回っていたよ。 黄色い、黄色い ひまわりの花がいたよ。 お部屋のなかで ブンブン、ブンブン 飛び回っていたよ。 たくさん、たくさん 飛び回っていたよ。 あははは。 あははは。 ブンブン、ブンブン 飛び回っていたよ。 たくさん、たくさん 飛び回っていたよ。 あははは。 あははは。 二〇一七年九月十四日 「ひさびさに友だちんちに。」 むかし恋人として付き合ってた友だちんちに行くことに。 この友だちもノイローゼ気味で 頭がおかしいのだけれど まあ、ぼくもおかしいから べつに、どうってことなくて 彼が住んでいるマンションの8階の部屋から見える学校のグラウンドは ちょうどスポッと魂が吸い込まれそうになるロケーションで 彼の机のうえに散らばった写真のコラージュが きょうも見れるかと思うと たいへんうれしい。 詩集、まだプレゼントしてなかったので 持って行こう。 これからお風呂に。 「フライパンは手を使うよ。」 by 今野浩喜(キングオブコメディ) 二〇一七年九月十五日 「へんな趣味。」 むかし付き合ったことのある子が すっごいへんな趣味をもつようになって きょうは、びっくらこいた。 ああ、純情な青年だったのにな〜 って感じ。 そんなことで萌えなわけ? ええ! ってことがあって。 写真ね〜。 で 露出ね〜。 は〜 もう、ぜんぜん純情じゃないじゃん! まあ、いいか。 なにを、いまさら、ね〜。 でも、ひさしぶりやから、興奮したって きみね〜 って感じやった。 きょうは、ビールの飲み過ぎで クスリ、どうかな。 効くかな。 * 露出といっても 犯罪にはならない程度だから、安心して、笑。 だれもこない、だれもいない、プライベートなところでだから。 しかし、自分の写真見て興奮するのって ぼくには、わからんわ〜。 趣味がもっと昂じてきたら ぼくは知らん顔するつもりやけど ほんと、むかしは純朴な感じの好青年そのものやったのにね。 いまも見かけは純朴な感じで、ぼくの目から見ても めっちゃもてる感じやのに。 なにが人を孤独にするんやろうか。 孤独でなければ、へんな趣味に走らないと思うんやけど。 二〇一七年九月十六日 「大きな熊のぬいぐるみ。」 P・D・ジェイムズって クマのプーさんが好きなのかな。 彼女の作品を読んでいると かならずといっていいほど大きな熊のぬいぐるみが出てくる。 いま、引用だけの長篇詩のためのメモも同時にとっているのだけれど ジェイムズの本からは、いくつも 「大きな熊のぬいぐるみ」のところをとっている。 ジェイムズの小説は密度が高いから読むのが時間かかるけれど 時間をかけたぶん、得るところはあって ぼくがまだ知らなかったレトリックや表現を学ぶことができるのだった。 やっぱり、ぼくは勉強が好きなのだなあと思った。 『わが職業は死』読了。 憎しみよりも愛が破壊的であるとは ぼくは思いもしなかったので 自分の経験をいくつか振り返って考えてみた。 たしかに、そうだったかもしれない。 こわいことだなあ。 二〇一七年九月十七日 「Amazonで、パウンドの『詩学入門』を買った。」 2400円+送料250円。 こんな状態の説明があった。 昭和54年初版。経年のヤケ全体濃いです。書き込みなし。そこそこしっかりした新書ですが、やけてます。 ヤケがこわいけれど、まあ、いいかな。一度読んでるので、また全ページ、コピーを取ってるので、ただ、「持ってる」という感覚だけが欲しかったのかも。 これもまた、ジェイムズが書いていた 「愛が破壊的である」ことの一つの証左かもしれない。 コレクションは、余裕のある人がするべきもので ぼくのような貧乏人が、コレクションしたがるのは まあ、いろんな作家や詩人のものを集める癖があるのだけれど 身分不相応なことだと思う。 死ぬまで治らないとも思うけれど。 二〇一七年九月十八日 「きょうは、テスト問題つくりに半日を費やす予定。夕方からは塾。あとヤフオク、10冊ほど。」 ヤフオクで入手したい本が10冊ほど。 グラシアンの賢人の智恵、もうほとんど読んだ。 まあ、処世術指南の書ね。 実行できたら、そこそこの地位に行けるってことだろうけど 芸術家は、ひとりで、自分の方法で 自分が行くべき道を歩むべきものだと思うから 他人には無駄に思えるような道草も道草じゃないんだよね。 失敗が失敗じゃないというか。 へたくそな生き方をこそして芸術家だと思うのだけれど 詩人もしかりでね。 生きてるうちに成功してる詩人たちの胡散臭いこと。 外国の詩人に、その胡散臭さがないのは 自分の身を危険にさらしながら生きているからだと思う。 日本の詩人で 「自分の(経済・政治)生活の危険を顧みずに詩を書いてる」ひとって いるのかしら? ウラタロウさんのコメント 成功したいなあ。(おそらく一般社会的な成功のことだとおもう。) そこそこに。  成功しすぎると大変そうだし。(というのは成功なのかわからないけれど。)  成功のほうはとりあえず、暮らしていければいいやと思うけれど、危険は避けたい。 本能に刻まれているんじゃないかというほど避けたい。  成功しなくてもいいですよ、というひとは、きっと一般社会的な成功ではないけれど自分にとっての成功があるのだろうな、と思う。それがどんなことで、それが当人のなかでどのように認識されていて、当人の精神にどのように作用しているのかわからないけれど。  危険は避けたい。大きな成功がまっていても危険は避けたい。危険を顧みないひとは、自分の理想とする成功のためなら危険を冒せるのだろうか。それとも危険を冒しても成功する、もしくはそれなりにでも自身は安泰であるという自信があるのだろうか、と思う。 わたしには怖すぎる。 そもそも、そこまで考えがとどかないのだけれど。  もしかすると、他の人も、そこまで考えがとどかなくて、ごく一般的な成功と安泰を目指すのかな。 ぼくの返事 詩人ならば 安泰とかいったものから遠いところにいないといけないような気がします。 ぼくは、です。 他の書き手に、それを期待してはいません。 まったく期待していないといったほうがいいでしょう。 ぼくの偏見ですが。 もうじき50歳になりますが 独身で 貯蓄がゼロに近く いつ仕事を失うかもしれない 貧乏な ゲイだとカムアウトしてる 脅迫神経症で 母親と弟が精神病者で 母親が被差別部落出身者で 父親から愛されたことのない詩人。 けっこう、いいでしょ? 笑。 二〇一七年九月十九日 「夢」  夢を見た。ぼくは仏教の修行僧になり立てで、仏の実になにが書いてあるか高僧に訊かれて答えられなかった。夢のなかで、それは「ジオン」であると言われた。どんな字かまでは教えられなかった。そこで目が覚めたからである。実には文字など書かれていないが、その文字を解き明かすのが仏の弟子の役目であると言われた。 二〇一七年九月二十日 「グッジョブ!」  セブイレで、おでんを4つ買って食べて、お腹いっぱい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!  ノーナの『二十歳の夏』を聴きながらクスリをのむ。二度目のおやすみ、グッジョブ! 二〇一七年九月二十一日 「SFの黄金期」  きょうも、短篇SFをひとつ読んで寝よう。年代別からかな。1950年代か1960年代かな。SFの黄金期やね。おやすみ、グッジョブ! 歯が痛み 湯にはつからぬ 午前かな セブイレで、おでんを4つ買って帰った。きょうは食べ過ぎかな。 二〇一七年九月二十二日 「蝶を見なくなった。」 それは季節ではない。 季節ならば あらゆる季節が ぼくのなかにあるのだから。 それは道ではない。 道ならば あらゆる道が ぼくのなかにあるのだから。 それは出合いではない。 出合いならば あらゆる出合いが ぼくのなかにあるのだから。 二〇一七年九月二十三日 「夢」  日知庵の帰りに、セブイレで、どん兵衛・天ぷらそば・大盛りを買って食べた。きのう読んだ短篇SFが、途中で寝てしまったから、きょうは、そのつづきを読んで寝ようと思う。夢を一日に、4つか5つ見るようになった。このごろ、だんだん夢と現実の区別がつかなくなりつつある。まだだいじょうぶだけど。 二〇一七年九月二十四日 「おでん」 帰りに、セブイレで、おでん5個買って帰って食べたぼくは化け物だろうか。 二〇一七年九月二十五日 「池ちゃん」 池ちゃん、まだフォロー許可待ちだからね。 二〇一七年九月二十六日 「詩集」  ここ1週間か2週間のあいだに、読み切れないほどの詩集が届く。ありがたいことだと思う。読んだ順に(着いた順に)感想を書いていきたい。きょうは、もう寝るけど。  いま日知庵から帰ってきた。帰りの車内、暖房やった。びっくり。行きしなは冷房やったのに。 二〇一七年九月二十七日 「もうひとつ夢を見た。」 残したくない過去ばかりが残る。 永遠に赤は来い!  もうひとつ夢を見た。修道院での少年たちの話だ。「彼女たちは、どうしてぼくたちのことをきれいだと言うのだろう?」とひとりの少年がつぶやくように訊くのだった。 そして、ワンはフレッドを撃つと トムを撃って ジョンを撃って スウェンを撃って 腰かけて泣きはじめた。  ぼくの見た夢の中の1冊200数十万円もする木彫りの翻訳本の一節。 223万円だと店員が言ったので、本をもとの場所にそっと置いたことを憶えている。  いや、違う。ぼくが裏に書かれた定価を見たのだった。店員は、ぼくが戻した本の位置を正確に戻そうとしただけだったのだ。 二〇一七年九月二十八日 「H・G・ウェルズ」  阪急電車で、いま帰ってきたのだが、送風だけで、とくに冷房も暖房もかかっていなかった。午後10時まえに乗ったときには、蒸し暑かったためにか、冷房がかかっていた。きのう、日知庵からの帰りは暖房だったのにね。気が利いているというのか、切り替えが速い。それはとてもよいことだと思う。  きのうは、H・G・ウェルズの『タイムマシン』の後半を読んで眠った。きょうも、ウェルズの短篇を読んで寝よう。『盗まれた細菌』というタイトル。読んだはずだが、まったく記憶にない。部屋にある本のうち、ぼくの記憶にあるのは、ほんの少しだけなのかな。ほとんど読んだ本たちなのにね。  近いうちに、ラテンアメリカ文学を読み直したい。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年九月二十九日 「けさ見た夢のなかで渡されたカードに書かれた言葉」 京都市役所 花のなかに手紙を入れておきました。 まどかめぐみ 野獣科 二〇一七年九月三十日 「出来事。」 同じ時間の同じ場所の同じ出来事。 同じ時間の同じ場所の異なる出来事。 同じ時間の異なる場所の同じ出来事。 同じ時間の異なる場所の異なる出来事。 異なる時間の同じ場所の同じ出来事。 異なる時間の同じ場所の異なる出来事。 異なる時間の異なる場所の同じ出来事。 異なる時間の異なる場所の異なる出来事。 二〇一七年九月三十一日 「フー?」 いままで出会ったひとのなかで、いちばん深い付き合いをしたひとは、だれ? ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日/田中宏輔[2021年9月20日17時20分] 二〇一七年十月一日 「蝶。」 それは偶然ではない。 偶然ならば あらゆる偶然が ぼくのなかにあるのだから。 二〇一七年十月二日 「「わたしの蝶。」と、きみは言う。」 ぼくは言わない。 二〇一七年十月三日 「蝶。」 花に蝶をとめたものが蜜ならば ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。 蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。 ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。 花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。 きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。 蝶は蜜に飽きることを知らない。 きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。 蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。 ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。 蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。 もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。 二〇一七年十月四日 「蝶。」 おぼえているかい。 かつて、きみをよろこばせるために 野に花を咲かせ 蝶をとまらせたことを。 わすれてしまったかい。 かつて、きみをよろこばせるために 海をつくり 渚で波に手を振らせていたことを。 ぼくには、どんなことだってできた。 きみをよろこばせるためだったら。 ぼくにできなかったのは、ただひとつ きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。 二〇一七年月五日 「蝶。」 きみは手をあげて 蝶を空中でとめてみせた。 それとも、蝶が きみの手をとめたのか。 静止した時間と空間のなかでは どちらにも見える。 その時間と空間をほどくのは この言葉を目にした読み手のこころ次第である。 二〇一七年十月六日 「蝶。」 蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。 それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。 二〇一七年十月七日 「蝶。」 たった二羽の蝶々が いつもの庭を べつのものに変えている 二〇一七年十月八日 「蝶。」 ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。 ぼくの「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。 ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき 読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。 ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると 読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も 「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も 「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。 そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も 「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。 ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。 「自分の書いた作品で」という言葉をはずして 人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。 人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。 いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは 弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。 考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。 考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが それを証明することは不可能である。 考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし 言うべきだと思っているのだが 「このすべての」という言葉が不可能にさせているのである。 この限界を突破することはできるだろうか。 わからない。 表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。 しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。 しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。 それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。 怠れない。 こころして生きよ。 二〇一七年十月九日 「トム・ペティが死んだ。」  トム・ペティが死んだ。偉大なアーティストがつぎつぎ死んでいく。それは悲しいことだけれど、それでいいのか。新しいアーティストが出てくる。それで文化がつづいていくのだ。新しい文化が。新しい音楽が。新しい文学が。そうだ。新しい詩は、古い詩人が死んだときに現われるのだ。 二〇一七年十月十日 「剪定。」 庭では 手足の指を栽培している 不出来な指があれば 剪定している 庭では 顔のパーツを栽培している 不出来な目や耳や鼻や唇があれば 剪定している 二〇一七年十月十一日 「ヘンゼルとグレーテル」    チョン・ジョンミョン主演の韓国映画『ヘンゼルとグレーテル』を3回くらい繰り返して見た。傑作だと思う。一生のあいだに、このような傑作がひとつでも書ければ、作家として満足だろう。詩人としても満足だ。 二〇一七年十月十二日 「守ってあげたい」    フトシくんのことは何回か書いているけれど、彼がぼくのためにカラオケで歌ってくれた「守ってあげたい」は、ぼくの好きなユーミンの曲のなかでも特別な曲だ。 二〇一七年十月十三日 「ふるさと遠く」  眠れないので、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をいま読んでいる。傑作だった記憶があったのだが、まさしく傑作だった。冒頭からフロイト流のセックス物語で、2作目から幽霊の実母とまぐわう近親相姦の話だとか、まあ、まったくSFというより奇譚の部類かな。3作目は2作目のつづき。  きょうも、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のつづきを読みながら寝ようと思う。この短篇集が、いま絶版らしいいのだが、まあ、なんというか、よい作品が絶版って、よくあることだけど、いかにも現代日本らしい。  むさぼるように本を読んでいたぼくは、どこに行ったのだろう。いまは、むさぼるように夢を見ている。 二〇一七年十月十四日 「夢を見た。」  夢を見た。夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。…… 二〇一七年十月十五日 「日知庵」  日知庵から帰ってきた。帰りかけに、愛媛に拠点をおく21才で起業している青年と話をしていた。おとなだと思った。また、そのまえには、大阪の高校で先生をしてらっしゃる方とも話をしていた。趣味で音楽をやってらっしゃるという。まじわるところ、まじわらないところ、いろいろあっておもしろい。 二〇一七年十月十六日 「橋本シオンさん」  橋本シオンさんから、詩集『これがわたしのふつうです』を送っていただいた。とても刺激的な表紙で、近年こんなに驚いた表紙はなかった。冒頭の長篇詩、「母」と「娘」の物語詩、興味深く読まされた。終わりの方に収録されてる詩篇の「死にたいから生きているんです」という詩句を目にできてよかった。また、「わたしについて」という詩篇には、「東京の真ん中に、必要とされていないわたしが落ちていた。」という詩句があって、いまぼくの頭を悩ませていることが、大きくズシンと胸のなかに吊り下がったような気がした。全体にナイーブなすてきな感じだ。出合えてよかったと思う。魅力的な詩集だった。 二〇一七年十月十七日 「睡眠。」  これから数時間、ぼくはこの世のなかから姿を消す。数時間後にまたふたたび、この世のなかに姿を現わす。しかし、数時間まえのぼくは、もういない。少し壊れて、少し錆びれて、少し遅れていることだろう。毎日、数時間この世のなかから姿を消して、壊れて、錆びれて、遅れていくことしか学べないのだ。 二〇一七年十月十八日 「阿部嘉昭さん」  阿部嘉昭さんから、詩集『橋が言う』を、送っていただいた。帯に「「減喩」を/駆使した/挑発的で/静かな/八行詩集」とあって、読んでいくと、「減喩」という言葉の意味が、多種多様な、さまざまな「喩」を効かせまくる、というふうにしか捉えられない印象を受けた。ぼくなら、「多喩」と名付ける。「静かな」といったたたずまいはまったくない。むしろ、騒々しい。その騒々しさが、詩篇の威力を減じているといった作品も多い。そういう意味でなら、たしかに、「減喩」と言えるかもしれない。とても、もったいない感じがする。原因はなんだろう。韻文。短詩型文学。俳句や短歌の影響かな。そんな気が、ふとした。ぼくは、あくまでも、俳句や短歌を現代詩とは切り離して考えるタイプの実作者である。 二〇一七年十月十九日 「谷内修三さん」  谷内修三さんから、『誤読』を送っていただいた。これは、ひとりの詩人の詩に対する覚書の形をとったもので、谷内さんが毎日のようになさっている作業と同じものだ。詩句に対する手つきも同じ。読みどころはなかった。新しい方向から見て書かれたところはなかった。出す意義がどこかにあったのか。 二〇一七年十月二十日 「断章」   人間というものは、いつも同じ方法で考える。 (ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳) 二〇一七年十月二十一日 「加藤思何理さん」  加藤思何理さんから詩集『水びたしの夢』を送っていただいた。エピグラフ的な短詩を除くと、短篇小説的な詩が数多く収められている。非現実的な展開をする詩がかもす雰囲気が不思議だ。一篇一篇がていねいにつくってあって、じっくりと読ませられる。長い下準備のもとでつくられた詩篇ばかりのようだ。 二〇一七年十月二十二日 「三井喬子さん」  三井喬子さんから、現代詩文庫『三井喬子 詩集』を送っていただいた。意味がわからない詩句が連続して繰り出された詩篇ばかり。こういったものが現代詩の一部の型なのだろう。ぼくにはまったく楽しめなかったし、後半、読み飛ばしていた。現代詩文庫に入っているのだから需要はあるのだろう。不思議。 二〇一七年十月二十三日 「舟橋空兔さん」  舟橋空兔さんから、詩集『羊水の中のコスモロジー』を送っていただいた。わざと難解にしようという意図もなさそうで、詩句の連続性に不可思議なところはない。すんなり読めた。こういう詩には短篇小説の趣きがあって、楽しめる。ただ古典的な日本語のものは、ぼくに読解力がないので読み飛ばした。 二〇一七年十月二十四日 「たなかあきみつさん」  たなかあきみつさんから、詩集『アンフォルム群』を送っていただいた。旧知の詩人に捧げられた一篇を除いて、意味のわかる詩篇はなかった。一行の意味さえわからず、なにを読んでいるのか、ぼくの頭では理解できなかった。こういった詩はなぜ書かれるのだろう。理由はわからないが需要があるのだろう。 二〇一七年十月二十五日 「日原正彦さん」  日原正彦さんから、2冊の詩集『瞬間の王』と『虹色の感嘆符』を送っていただいた。「人は足で立っているが/ほんとうはカーテンのように吊るされているのではないか」といった、ぼく好みの詩句もあって、全体に読みやすい。というか、難解なものはまったくない。こういう詩集が、ぼくは好きだ。 二〇一七年十月二十六日 「妃」  詩誌『妃』19号を送っていただいた。むかし、ぼくも同人だったころがあるのだが、新しい体制になって、同人のお誘いはなかった。いまの『妃』は大所帯である。冒頭の詩篇をさきに読んだ。なんてことはない。まあ、詩なんて、なんてことはないものかもしれないけれど。記憶に残る詩はなかった。 二〇一七年十月二十七日 「海東セラさん」  海東セラさんから、詩誌『風都市』第32号を送っていただいた。海東セラさんの詩「岬の方位」に、「岬まで行ってしまえば/岬は見えなくなるでしょうから」という詩句があって、いつも海東セラさんの詩句には、はっとさせられることがあるなあと思った。同人の瀬崎 祐さんの「唐橋まで」も佳作だ。また、海東セラさんからは、詩誌『グッフォー』第68号も送っていただいた。海東セラさんの「ステンレス島」の冒頭、「棄てる部位と棄てられない部位はあわせてひとつのものだが、手を離れたとたんに別のものになる。」という詩句に目がとまった。そのあと具体的な例があげられ納得する。現実に支えられた詩句は、ぼくの好みのもので、海東セラさんの詩は、彼女のエッセーとともに、ぼくの読書の楽しみのひとつとなっている。 二〇一七年十月二十八日 「谷合吉重さん」  谷合吉重さんから、詩集『姉の海』を送っていただいた。「チェーン・ソウに剥がされた/乾いた血」だとか、意味のわからない詩句が連なり、詩篇をなしているのだが、これまたぼくには理解できない詩篇ばかり。一連の現代詩の型だ。これだけこの型のものがつくられるのだ。やはり需要があるのだろう。 二〇一七年十月二十九日 「中井ひさ子さん」  中井ひさ子さんから、詩集『渡邊坂』を送っていただいた。事物の形象を、こころの目で見たまま、素直な言葉で書かれている印象がある。わかりにくい詩はない。心構えなどしなくても読めるやさしい詩ばかりだ。中井さんが、こころの整理されている、頭のいい方だからだと思う。 二〇一七年十月三十日 「江田浩司さん」  現代詩手帖11月号「レベッカ・ブラウン/ドイツ現代詩」特集号を送っていただいた。ことしの2月に思潮社オンデマンドから出してもらった拙詩集『図書館の掟。』の書評が掲載されているためである。江田浩司さんに評していただいている。はじめてぼくの詩をごらんになったらしい。 二〇一七年十月三十一日 「大谷良太くんちで」  きょうは、お昼から晩まで、大谷良太くんちで、ずっと、ごちそうになってた。お酒ものんでた。詩の話もしていた。つぎに出す詩集の話もしてた。人生について話もしてた。これがいちばんながくて、つらい話だったかもしれない。カンタータ101番。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年9月27日3時05分] 二〇一七年十一月一日 「年間アンケート」  現代詩手帖の編集部に、年間アンケートの回答をいまメールに添付して送った。2016年の11月から2017年の10月までに読んだ詩集で感銘を受けた詩集を5冊にしぼるのは、けっこうたいへんな作業だった。なぜその5冊にしぼったかの理由を述べる文章は数十分でつくれた。 二〇一七年十一月二日 「ヒロくん」  きょうは、一日中ねてた。ねて夢を見ていたのだけれど、夢の途中で、トイレに行かなければならなくなって、起きたのだけれど、ねると、またその夢のつづきが見れるようになった。で、けさ、見た夢は、むかし、ぼくが30才くらいで、付き合っていた男の子が21才だったころの夢だった。ただすこし、現実とは異なっていた箇所があって、彼の名前はヒロくんと言って、ぼくの詩集にも収録している「年平均 6本。」に出てくるヒロくんなんだけど、下着姿でぼくの目のまえにいたのだった。しかも、いっしょにいたアパートメントが、なにかの宗教施設のようで、ほかにいた青年たちもみな下着姿なのであった。もちろん、ぼくの好みはヒロくんだけなのであって、目移りはしなかったのだけれど、いったい、なんの宗教なのかはわからなかった。まあ、宗教施設のアパートメントじゃない可能性もあるのだけれど。しかし、20年以上むかしに付き合ってた男の子が夢に出てくるなんて、いまのぼくの現実生活にいかに愛情がないか、などということを表されているような気がして、さびしくなったけれど、夢でなら、このあいださいしょに付き合ったノブちんが夢に出てきてくれたように、いくらでも会えるってことかなと思えて、ねるのが楽しみになった。夢のなかだけで会える元彼たちだけれど、めっちゃうれしい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年十一月三日 「出眠時幻覚。」 きのうも同じものを見た記憶がよみがえった。 ぼくは白人の少年だった。 肉屋で、ソーセージを食べたのだ。 肉屋といっても、なんだかサーカスの小屋みたいなテントのなかで。 売ってるおじさんたちも白人だった。 そのソーセージは ウサギのような生き物が 自分の肉を火に炙って、それをぼくに渡すのだけれど 最後に苦痛にはじけるように、背中をのばして、顔を苦痛にゆがめて 自分の口に脊髄みたいなものを突っ込むのだ。 ぼくは、そいつが生き物だとは知らないで 肉の人形だから、面白い趣向だなって思ってたんだけど ぼくの飼ってたウサギが死んで、そいつが売られていたのだった。 そいつが、「ぼくを食べて。」と言って、ぼくに迫ってきたので 「できないよ!」と叫んでいたら 肉屋のおじさんとおばさんが出てきて 白人だったよ ブッチャーみたいな太ったおじさんと 背の高い痩せた、化粧のケバい白人女性だった。 ぼくのウサギの皮を剥いで、火で真っ赤に焼けた窯のなかに 入れたの、そしたら、ぼくのウサギが苦痛に顔をゆがめて でも、叫び声をあげなかったけれど 焼けたら、そいつを縛りつけてた鎖がほどけて そいつが自分の脊髄を自分の口にポンっと放り込んだの。 「ぼくを食べて。」って感じで。 ぼくは逆上して、そこから逃げ出そうとしたら 肉屋のおじさんとおばさんが、ぼくを捕まえようとして迫ってきたの。 逃げようとしたら、何人かの少年たちが皮を剥がれて倒れていたの。 しかも肉が焼かれた色してた。 飴炊きの鴨みたいな皮膚でね。 でもね。 その少年たちが立ちあがって そのおじさんとおばさんに迫ったの。 ぼくも、そのひとりでね。 ぼくは、脊髄みたいなものを口にポンっと入れて 歩きだしたの。 で、ここで、完全に覚醒したので 覚えているうちに書きこもうと思って パソコンのスイッチを入れた。 1時間ほどの睡眠だった。 脳が覚醒しだしたのかもしれない。 きのうの朝にも同じものを見た記憶がある。 きのうの朝には また父親とふたりの弟が出てくる別のものも見た。 とりつかれているのだと思う。 父親と弟に。 二〇一七年十一月四日 「また、やっちゃった。買わずに帰って、やっぱり欲しくなる。」 いまから当時のブックオフに。 あ 東寺ね、笑。 でも、「当時のブックオフ」って言い方、すてきかも、笑。 フランス人のある詩人の書いた小説。 なんで買わなかったんやろうか。 行ってきま〜す。 あるかな。 ありました。 いまから塾に。 『欲望のあいまいな対象』でした。 ついでに買ったもの。 V・E・フランケルの『夜と霧』   むかし読んだけど、新版って書いてあったので。 105円。 読むと、たしかに以前より文体がやわらかい。 スーザン・ヘイワードの『聖なる知恵の言葉』 おほほほほ、という内容で あまりに常識的な言葉ばかり並んでるので へ〜、っと思って。 これも105円。 しかし、ピエール・ルイスの『欲望のあいまいな対象』 あまりにへたくそな訳で、びっくりぎょうてん。 ご、ごむたいな、みたいな。 もちろん、105円でなかったら 買ってないかな。 これからストーンズ聴きながら 『聖なる知恵の言葉』で おほほほほ。 おやすみなさい。 ドボンッ。 二〇一七年十一月五日 「正しい現実は、どこにあるのか。記憶を正すのも記憶なのか。」 文学極道に投稿していた詩を何度も読み直していた。 もう、何十回も読み直していたものなのだが 一か所の記述に、ふと目がとまった。 記憶がより克明によみがえって あるひとりの青年の言葉が ●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに 気がついたのである。わずか二文字なのだが。 つぎのところである。 ●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤 ●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正   誤ったのも記憶ならば その過ちを正したのも記憶だと思うのだが 文脈的な齟齬がそれをうながした。 音調的には、正すまえのほうがよい。 ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。 正せてよかったのだけれど このことは、ぼくに、ぼくの記憶が より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。 事実よりも、ということである。 映像でも記憶しているのだが 音が記憶に深く関与していることに驚いた。 自分の記憶をすべて正す必要はないが とにかく、驚かされる出来事だった。 追記 剛くん、ごめんね。 この場所 文学極道の投稿掲示板のもの 訂正しておきました。 もと原稿はこれから直しに。 いや より詳細に検討しなければならない。 ぼくが●詩を書く段階で いや ●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で 脳が 音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。 記憶を出す段階で 記憶を言葉にする段階で 音調が深く関わっているということなのだ。 記憶は正しい。 正しいから正せたのだから。 記憶を抽出する段階で 事実をゆがめたのだ。 音調。 これは、ぼくにとって呼吸のようなもので ふだんから、音楽のようにしゃべり 音楽のように書く癖があるので 思考も音楽に支配されている部分が大いにある。 まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。 大部分かもしれない。 音調。 恩寵でもあるのだけれど。 おんちょう。 二〇一七年十一月六日 「友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。」 むかし付き合った男の子で 友だちから相談をうけてねって ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに 「友だちの役に立てるって、ええやん。」 「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」 と言ってたことを思い出した。 ああ この子は 打算だとか見返りを求めない子なのね 自分が損するばかりでイヤだなあ とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。 ちょっとヤンキーぽくって バカっぽかったのだけれど、笑。 ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど ほんとのバカはだめで その子もけっしてバカじゃなかった。 顔はおバカって感じだったけど。 本当の親切とは 親切にするなどとは 考えもせずに 行われるものだ。            (老子) 二〇一七年十一月七日 「The Things We Do For Love」 つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。 『The Things We Do For Love。』を読み直してたら 郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。 気がついてよかった。 ツイッターでフォローしてくれてるんだけど ノーナ・リーブズのリーダーで いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で 声もすばらしい。 ところで数ヶ月前 某所である青年に出会い 「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」 ってたずねたことがあって メイクラブしたあと そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど ああ これは、ヒロくんパターンね 彼も作曲家だった。 西寺郷太そっくりで 彼と出会ってすぐに 郷太ちゃんのほうから ツイッターをフォローしてくれたので いまだに、それを疑ってるんだけど 「違います。」 って、言われて、でも そっくりだった。 違うんだろうけれどね。 話を聞くと 福岡に行ってたらしいから。 ちょっと前まで。 福岡の話は面白かった。 フンドシ・バーで 「フンドシになって。」 って店のマスターに言われて なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて それで、ベロンベロンになって酔ったら さわりまくられて、裸にされたって。 手足を振り回して暴れまくったって。 たしかにはげしい気性をしてそうだった。 ぼくに 「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」 「田中さんをけなす人がいたら、  そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。  そうでしょ? そう考えられませんか?」 ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。 ひとつ目の言葉には納得できないけど。 26歳か。 CMの曲を書いたり バンド活動もしてるって言ってたなあ。 CMはコンペだって。 コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。 芸術のわからないクズのような連中が うるさく言う感じ。 そうそう 作曲家っていえば むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。 聞いてびっくりした。 シンガーソングライターってことになってる連中の 多くがゴーストライターを持ってるなんてね。 ひどい話だ。 ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。 そういえば CMで流れていた 伊藤ハムかな あの太い声は印象的だった。 そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど 後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど カミングアウトしたらいいのに。 「きみはタイプじゃないよ。」って。 もっとラフに生きればいのに。 タンタンどうしてるだろ。 太郎ちゃんのコメント 懐かしい!! タンタン。 感じいいひとだったよね。 どーしてるかな!? ぼくのお返事 宇多田ヒカルといっしょにニューヨークに行ったけど すぐ帰ってきちゃったみたい。 そのあと ぼく以前に付き合ってた俳優とよりを戻したとか。 あ そのあと なんか、静岡だったかな そこらへんのひとと付き合ってたってとこまでは聞いてるけど いまは消息わからず。 タンタンをぼくに紹介した 30年来のオカマの友だちのタクちゃんと あ いままでいっしょだったんだけど タクちゃんと仲が悪くなって 連絡しても無視するわ そんなこと言ってたかな。 ぼくんちに俳優のひと いまはあまり見かけないけど 付き合ってた当時は売れてたわ そのひとつれてきたこともあるんだけど 趣味悪いわ〜。 ぼくは玄関から出て行かなかったけど。 あ ぼくとよりを戻すために その俳優つれてきたのね。 なんとか豊って名前だったわ。 精神的なゲイなんだって。 タンタンと付き合ってるときにも セックスなかったって。 ただいっしょにいてるだけだって。 そんなひともいるんだね〜。 二〇一七年十一月八日 「ふるさと遠く」  日知庵から帰ってきた。ケンコバに似た青年がいた。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をまだ読んでいるのだが、さいごに収録されているタイトル作品を、きょうは読みながら寝ることにする。丹念に読んでいると思うが、テヴィスはあまり高く評価されていないようだが、すばらしい作家である。 二〇一七年十一月九日 「荒木時彦くん」  荒木時彦くんから詩集『NOTE 002』を送ってもらった。これまで、この詩人の構築する世界感は、現実的でもあるが、一部、非現実的なところがあるのが特徴であったが、この詩集では徹底的に現実的である。哲学的な断章ともとれる一面もある。知的な詩人の知的な詩集だ。 二〇一七年十一月十日 「秋亜綺羅さん」  秋亜綺羅さんから、ご本『言葉で世界を裏返せ!』を送っていただいた。ご本と書いて詩集と書かなかったのは、内容が詩集ではなくエッセー集であったためである。社会的な出来事を扱ったものが多いのも特徴で、とりわけ、ぼくにはその視点が抜けているので興味深く読んだ。 二〇一七年十一月十一日 「藤本哲明さん」  藤本哲明さんから、詩集『ディオニソスの居場所』を送っていただいた。軽快な口調で重たい内容がつづってあって、その点にまず目がひかれた。個人的な体験も盛り込んであって、そこのところの現実性に確信を持たせないところが、ぼくには逆に魅力的で不思議な読書体験だった。 二〇一七年十一月十二日 「ライス」  日知庵から帰ってきて、チューブで、お笑いを見てた。ライスというコンビのものがおもしろい。ゲイ・ネタもいくつかあって、不快感もないものだった。ストレートのつくるゲイ・ネタには、ときどき不快感を催させるものがある。ライスのは違った。 二〇一七年十一月十三日 「ふるさと遠く」  きのう、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のさいごに収録されているタイトル作品を読んで寝るつもりだったのだが、きょう、送っていただいた詩集の読み直しをしていたので、読めなかったのだった。きょうこそ、タイトル作品「ふるさと遠く」を読んで寝よう。おやすみ。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』の表紙絵。いまこんなすてきな表紙の文庫本てないよね。 二〇一七年十一月十四日 「出眠時幻覚すさまじく。」 ぼくの生家は田舎じゃなかったのに 田舎になっていて でも、ぼくは近所に 先輩らしきひとといっしょに同居していて その先輩が、なにかと、裸になりたがって ぼくに迫ってくるっていうもの。 チンポコ丸出しで パンツ脱いで ぼくの顔におしつけてきて 「困ったもんですなあ」 を連発しているときに目が覚めた。 チンポコがほっぺたにあたる感触があって びっくりした。 精神状態がちょっと乱れてるのかも。 その前に その田舎の生家で 継母と暮らしていて 夜中に雨のなか 裸足になって 蛙を獲りに出かけるってシーンもあった。 二〇一七年十一月十五日 「アメリカ。」 ノブユキ 「しょうもない人生してる。」 何年ぶりやろか。 「すぐにわかった?」 「わかった。」 「そしたら、なんで避けたん?」 「相方といっしょにきてるから。」 アメリカ。 ぼくが28歳で ノブユキは20歳やったやろうか。 はじめて会ったとき ぼくが手をにぎったら その手を振り払って もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。 「5年ぶり?」 「それぐらいかな。」 シアトルの大学にいたノブユキと 付き合ってた3年くらいのことが きょう、日知庵から帰る途中 西大路松原から見た 月の光が思い出させてくれた。 アメリカ。 「ごめんね。」 「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」 「ごめんね。」 「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」 アメリカ。 ノブちん。 「しょうもない人生してる。」 「どこがしょうもないねん?」 西大路松原から見た 月の光が思い出させてくれた。 アメリカ。 「どこの窓から見ても  すっごいきれいな夕焼けやねんけど  毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」 ノブユキ。 歯磨き。 紙飛行機。 「しょうもない人生してる。」 「どこがしょうもないねん?」 「ごめんね。」 「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」 アメリカ。 シアトル。 「ごめんね。」 「ごめんね。」 二〇一七年十一月十六日 「キス・キス」  きょうから、早川書房の異色作家短篇集の再読をしながら寝る。きょうの晩は、第一巻の、ロアルド・ダールの『キス・キス』を再読する。2005年に再刊されたもので、ぼくは、それが出たときに読んだはずだから、10数年ぶりに読むことになる。ひとつも物語を憶えていない。おもしろいかな。どだろ。 二〇一七年十一月十七日 「The Wasteless Land.V」  さいきん、『The Wasteless Land.V』を買ってくださった方がいたようだ。Amazon での売り上げランキングが変わっていた。これは、100ページに至る長篇詩と30ページほどの長篇詩の2つの長篇詩が収められているもので、さいしょのものは、いつも行く日知庵が舞台である。 二〇一七年十一月十八日 「タワー・オブ・パワー」 ここ1週間ばかりのうちでは、めずらしくCDを聴いている。いま聴いているのは、タワー・オブ・パワーだ。やっぱりファンクもいい。つぎは80年代ポップスを聴こう。ぼくが20代だったころの音楽だ。ガチャガチャとうるさくて、チープな曲が多かった。ぼくもガチャガチャとうるさくて、チープだった。 二〇一七年十一月十九日 「キス・キス」  まだ、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読んでる途中。ほんとに、文字を読む速度が落ちている。きょうは、英語の字幕で韓国映画を半日みてた。韓国語ができればいいんだろうけれど、うううん。日本語の字幕があればもっとよいのだが、英語の字幕でもあるだけましか。 二〇一七年十一月二十日 「キス・キス」  日知庵からの帰り道、T・REXの曲を何曲か思い出しながら歩いてた。きょうも、寝るまえの読書は、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』のつづきを。きのう、『豚』の4まで読んだ。きょうは5から。 二〇一七年十一月二十一日 「さあ、気ちがいになりなさい」  さっき、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読み終わった。きょうから、フレドリック・ブラウンの短篇集『さあ、気ちがいになりなさい』を読み直す。これまた、話を憶えていないものばかり。おもしろいかな。どだろ。 二〇一七年十一月二十二日 「暗闇のスキャナー」  いま日知庵から帰った。きのうは、ブラウンの短篇を3作、読んで寝た。きょうは、どだろ。それにしても、ことし読み直してる短篇集、読んだ記憶のあるものが少ないなあ。10作もないんじゃないかな。ディックでも読み直そうか。短篇じゃなく長篇を。『暗闇のスキャナー』を読んで、むかし、涙したな。 二〇一七年十一月二十三日 「現代詩」  河津聖恵さんがFBで、「現代詩とは?」といった問いかけをされてたので、ぼくは、こうコメントした。  ぼくの持っている CONTEMPORARY AMERICAN POETRY には、さいしょに Wiliam Stafford (b.1914) が入っていて、さいごに Ron Padgett(b.1942) が入っています。あいだに、ロバート・ローウェルやロバート・フライやアレン・ギンズバーグやジョン・アッシュベリーやゲイリー・シュナイダーやシルヴィア・プラスなどが入っています。これらは、ペンギン・ブックスですが、オックスフォード出版では 20th-Century Poetry & Poetics では、さいしょに、イエーツ (1865-1939) が入っていて、さいごは Tim Liburn(b.1950) で終わっています。ところで、「日本での戦後詩」という枠で、ある時代の詩を捉えることは、ぼくは以前からおかしいなと思っていました。しかし、語的には、戦後、発表された詩がすべて戦後詩かなあとは思います。語の厳密な意味からすれば、ということですが。一方、現代詩とは、いま現在、書かれている詩。おそらくは、過去、数年から十数年から現在まで、というスパーンあたりじゃないでしょうか。ぼくから見ると、橘上さんあたりが、現代詩の先鋒じゃないかなと思っています。いま思い出したのですが、イギリスで、第一次世界大戦のときに書かれた詩のアンソロジーがあったように記憶しています。ぼくは持ってないですけど。現代詩ねえ。ぼくは、過去、数年から十数年までが限界かなって思います。20年以上もまえに書かれたものを現代詩とは、ぼくは呼べないなあと思います。 二〇一七年十一月二十四日 「ごはん食べて、ずっと寝てた。これから塾。」 ふだんのストレスって そうとうなものだったんだろうね。 学校がないと 寝まくり。 こんなに寝たのは、もう何年ぶりか 思い出せないくらい。 食べすぎで 眠たくなったんだろうけれど ストレスがなくなったことがいちばんの原因だと思う。 二〇一七年十一月二十五日 「「タイタンの妖女」、「ガラパゴスの箱舟」、「ホーカス・ポーカス」。」 シンちゃんのひとこと。 夕方にシンちゃんから電話。 電話の終わりのほうで さいきんのぼくの「●詩」は、どう? って訊いた。 「気持ち悪い。」 そうなんや。 「気持ち悪いって、はじめて言われた。」 「言わんやろうなあ。」 笑ってしまった。 さいきん、ヴォネガットを3冊ばかり読んでて とてもむなしい気持ちになった。 なぜかしら、そのむなしさに、詩集をまとめろと促された気がする。 きょう、通勤の途中 徒歩で坂を上り下りしているときに 「マールボロ。」について考えてた。 あれはすべてシンちゃんの言葉でつくったものだったけれど シンちゃんは「これは、オレとちがう。」 と言った。 このことは、ここにも何度か書いたことがあるけれど ぼくが「マールボロ。」で見た光や、感じたものは みんな、ぼくが見た光や、感じたものやったんやね。 見る光や、感じるもの、と現在形で言い表してもいいけれど。 他人の作品でも、そうなんやね。 自分を読んでるんやろうね。 ヴォネガット、むかしは好きじゃない作家だった。 20代で読んだときには、こころ動かされなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=OHu6-GsfWyM この曲が、きょう耳にしたたくさんの音楽のなかで いちばん、こころにしみた。 ぼくがこれまで読んだことのある詩や小説の傑作中の傑作のなかの どんなにすごい描写でも、この曲のなかにある わずか数秒の声に勝るものがないのは、なんでやろうか。 生の真実がどこにあるのか、わからないまま死んでしまうような気がするけれど それに、そもそも、生に真実があるのかどうかもわからないのだけれど ファウスト博士のように、「瞬間よ、おまえは美しい。」と言って 死ねればいいね。 そのときには、上の Crush の曲のように心地よい音楽が流れていてほしい。 土曜日に会った24歳の青年が、ぼくに訊いた。 「痛くない自殺の仕方ってありますか。」 即座に、「ない。」と、ぼくは答えた。 人好きのする好青年なのに。 なぜかしら、だれもがみんな死にたがる。 「おれ、エロいことばっかり考えてて  女とやることしか楽しみがないんですよ。」 いたって、ふつうだと思うのだけれど それが死にたいっていう気持ちにさせるわけではないやろうに。 きのう話をした青年には、ぼくのほうからこんなことを尋ねた。 「なにがいちばん怖いと思う?」 即座に、「人間。」という返事。 彼もまた、人好きのする好青年なのだけれど。 「ぼくも生きている人間がいちばん怖い。」 でも、なんで? 「嘘をつくでしょう。」 たしかに、自分自身をだますことも平気だものね。 でも、ぼくだって、嘘をつくことよりもひどいことを 平気ですることもあるんだよ。 なにかが間違っているのか どこかが間違っているのか いや、間違っているのじゃなくて パズルのピースが合わないというのか そんな感じがする。 ぴったり収まるパズルがあると思っているわけじゃないけど。 ふたりとも、悩み事などないような顔をしていた。 ふたりとも童顔なので、笑うと子どもみたいだった。 子どもみたいな無邪気な笑顔を見せるふたりの言葉は ぼく自身の言葉でもあった。 もうどんな言葉を耳にしても、目にしても ぼくは、ぼく以外のものの言葉を、耳や目にしないような気がする。 ヴォネガットを読むことは、ぼくを読むことで いまさらながら、人生がむなしいことを再確認することに等しい。 でも、やめられないのだ。 二〇一七年十一月二十六日 「死んだ女の気配で目が覚めた。」 祇園の家の裏を夜に中学生くらいの子供たちが自分たちの親といっしょに 車に乗り付けてくる。 いま祇園の実家は、もうないのだけれど それから日が変わるのかどうかわからないが 雨の夜、その子供たちが黒装束で家の裏をうろうろする。 ぼくは気持ち悪くなって 下の弟と黄色い太いビニールの縄を家の裏に 太い鉄のパイプのようなピケのようなものの間に張り渡す。 これで、子供たちが入ってこられないやと思って雨のなか 子供たちのいた方向に目をやると 黒いコートを着た死んだ女が立っていた。 彼女がなぜ死んだ女なのかはわからないけれど 死んでいることはわかった。 弟とすぐに家に戻った。 するとぼくはもう、ふとんのなかに横になってまどろんでいて それにもう弟も子供ではなくて 当然ながら祇園の家での映像体験は ぼくも若かったし弟も中学生ぐらいだったし でも、もう、いまのぼくの部屋だから ああ、もうそろそろ目がさめかけてきたなあと なぜ弟はぼくの夢のなかで、いつも子供時代なのだろうかわからないけれど と思っていたら 死んだ女の気配が横にして ひゃ〜と思ったら 弟の子供時代の声の笑い声がして それで、ぼくはなんや驚かしやがって、と思って 「なんや」と声を出したんだけど 出したと思ったんやけど するとやっぱり、死んだ女が横にいる気配が生々しくして 怖くなって叫ぼうとしたら 声が出なくて で、ぼくの身体も上向きから その女に背中を向ける格好にぐいぐいとゆっくり押されていって でも手は触れられていなくて 背中が何かの力で均等に押されて横になっていって これから先は、どんな目に遭うのかと思ったら 手の先だけは動かせて 手元にあった電灯のリモコンを握って スウィッチを押して明かりをつると 死んだ女の気配がなくなった。 死んだ女は、ぼくの母親でもなく 若い女だった。 知らない女で 顔もわからず、ただ若いことだけがわかった。 実体がある感じが生々しくて気持ち悪かった。 24時にクスリをのんで1時に寝た。 3時50分にいったん目がさめて うつらうつらしていたのだが また半覚醒状態で眠っていたみたいで きのうもサスペンス映画のような夢を見たけれど 学校のなかで、ひとりの子供が人質になっていて その子供を捜して学校中を探すのだけれど 探しているときに、ぼくの実母からのモーニング・コールで 目が覚めたのだ。 きょうの夢はひさびさに実体感のある肉体が横にいて気持ち悪かった。 クスリが効かなくなってきたのかもしれない。 クスリの効果が低くなると悪夢を見る。 クスリがないころには つまり神経科医院に通院する前には ずっと毎日、死者が出てくる怖い夢や、ぼくが人に殺されたりする 血まみれの悪夢の連続だった。 今年のはじまり、こんな夢で、とても心配だけれど 病気が進行している兆候だったとしたら 怖い。 きのう書かなかったけれど おとつい 若い詩人を見送ったあとの記憶がなくって 目が覚めたら、ふとんのなかにいた。 ぼくはガレージのところで詩人を見送ったところまでは覚えているのだけれど ふとんをひいた記憶などまったくなくって これで、ことし、気を失ったり 記憶をなくしたりするのは、2度。 禍転じて福となればいいんだけれど。 二〇一七年十一月二十七日 「人間は人間からできている。」 吉田くんは、山本くんと佐藤さんと村上くんとからできている。 山本くんは脳なしだけど、佐藤さんはすこぶる腹黒い女で 村上くんは、インポテンツで、底なしの間抜けである。 吉田くんのモデルは、ぼくの高校時代のクラスメートである。 柔軟体操の途中で、首の骨がボキッってなったけれど なんともなかったのは不思議だ。 人名を変えるぐらいの名言に出合う。 吉田くんのモデルには、予備校に勤めていたときの生徒の 吉田くんのイメージも付加されている。 人間の魅力は、どこにあるのだろう。 かしこさにあるのでもないし ましてや、おろかさのなかにあるのでもないし 臆病さや、やさしさのなかにあるのでもないような気がする。 全体なんだけれど、あるとき、または、別のあるとき あるとき、あるときの表情やしぐさや言葉が ダブル・ヴィジョンのように 幾重にも重なって、ある雰囲気をつくるんだね。 でも、ときたま、その雰囲気をぶち壊されるときがあって そんなときには、ほんとうにびっくりさせられる。 ことに、恋からさめた瞬間の恋人の表情とか言葉や行動に。 友人にも驚かされることがあるけれど 恋人ほどではないね。 二〇一七年十一月二十八日 「●ゴオガンの」 ●ゴオガンの●菜の花つづく●あだし身に●きらめき光る●やは肌の●母● ●裂かれゐる●君が描く●うつくしき春● 剽窃先は 与謝野晶子ちゃんの やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 はてもなく菜の花つづく宵月夜母がうまれし国美くしき 斎藤茂吉ちゃんの はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ 若山牧水ちゃんの みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る 正岡子規ちゃんの うつくしき春の夕や人ちらほら 水原秋桜子ちゃんの 日輪のまばゆき鮫は裂かれゐる 君が描く冬青草の青冴ゆる 機械的につくったほうがいいかもね。 意味が生じるようにつくると ありきたりな感じになっちゃうね。 もっと知識があれば、遊べるんやろうけれど きょうは、ここまでで1時間くらいかかっちゃった。 疲れた。 二〇一七年十一月二十九日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」 はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜! 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や 六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや 何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや 何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 円は演技し渦状する。 円は縁起し過剰する。 風のなかで回転し 水のなかで回転し 土のなかで回転する もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる 冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる 真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる 黒板に、じょうずに円を描くことができる それだけが自慢の数学の先生は 空中でチョークをくるくるまわすと つぎつぎと円が空中を突き進んで その円のなかから さまざまなものが現われる。 その円のなかから さまざまなものが現われる。 しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。 笑。 二〇一七年十一月三十日 「犬が男便所で立ち小便しているところを想像して」 犬が男便所で立ち小便しているところを想像して っていうやつ まだタイトルだけなんやけど って言ったら ジミーちゃん 電話で二秒ほどの沈黙 ううううん 何か動きそうなんやけど そうそう 自分のチンチンが持てないから バランスがとれなくて ひゃっひゃっ って感じで ふらふらしてる犬ってのは どうよ! 二〇一七年十一月三十一日 「電車の向かい側に坐っていた老人が」 電車の向かい側に坐っていた老人が タバコに火をつけて一服しはじめた といっても じっさいにはタバコを吸っているわけではなくって タバコを吸っている様子をしだしたってことなんだけど タバコを吸っている気になる錠剤を さっき口にするのを目にしたんだけど それがようやく効き目を現わしてきたんだろう 老人はさもおいしそうにタバコを味わっていた 指の間には何もなかったけれど 老人の指の形を見ていると 見えないタバコが見えてくるような気がした 老人は煙を吐き出す形に口をすぼめて息を吐いた ふいに、左目を殴られた いや、殴られた感触がしたのだ わたしにも薬が効いてきたようだ わたしはファイティングポーズをとった 隣の主婦らしき女性が幼い子どもの手を引っ張って わたしから離れたところに坐りなおした いまこそまことに平和で健康な時代なのだ 安心してタバコが吸える ケガなくして拳闘できる スリルと危険に満ちた文明時代なのだ ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年十二月一日─三十一日/田中宏輔[2021年10月4日12時49分] 二〇一七年十二月一日 「みかんの皮」 こんな時間にどうしたの そう訊くと彼は 考え事をしていて出てきたんです こんな時間まで起きて何を考えてたの ってさらに訊くと彼は 数学です へえ きみって学生なの ええ 京大? はい ふうん 発展場として有名な葵橋の下で 冬だったのかな 正確な季節はわかんないけど 朝の5時ころに 河川敷に腰を下ろして川の水を眺めている青年がいた ふつうの体型だったけれど 素朴な感じの男の子で ぼくはその日は夜の12時頃から てきとうにメイクラブできそうな相手をさがして ぶらぶらしてたんだけど タイプがいなかった 少し明るくなってきた 朝の5時ころに ぽつんとひざを折って坐ってる青年の姿を見つけて 近づいていったんだけれど 彼はべつに警戒するわけでもなく またゲイでもなかったみたいで ほんとに数学の問題を考えてて 部屋を出てきたみたいだった ぼくは彼の指先を見て きみ みかん食べてたやろ というと なんでわかるんですか って返事 ぼくは その男の子の手の先を指差して 黄色くなってるからね っていった そういえば ゲイスナックで むかし 隣に坐ってたひとに あなたの仕事って印刷関係でしょう? っていって びっくりさせたことがある あたってたのだ 指の先に 黒いインクがちょこっとついてたから ぼくの指先にもいろんなものがついてた 灰色の合計 猛烈煙ダッシュ ストロボ・ボックスに ハトロン紙のような ミルク・キャラメルの包み紙 別れ際の言葉を忘れてしまった さよならだったのかな 二〇一七年十二月二日 「トマス・ケイン博士」  きのう、というか、今朝、夢を見た。メモしたのだけれど、メルヘンじみたものだった。SFの要素もある。きょうは、もうヨッパなので、あしたにでも書く。日知庵で考えていたのだが、矛盾がボロボロ出てくるような夢だった。まあ、夢って。そういうものなのだろうけれど。  あるジェル状の物質をくっつけると、それが硬まるにつれて結合しようという働きが生じることをトマス・ケイン博士が発見した。どんなに離れていても結合しようとするのだ。製品化した商品を、ある少年が両親の寝巻のまえにくっつけた。前日に両親が別れ話をしているのをこぼれ聞いてしまったのだった。 二〇一七年十二月三日 「一角獣・多角獣」  きょうから、寝るまえの読書は、シオドア・スタージョン異色作家短篇集の第3巻、『一角獣・多角獣』。ぼくの大好きな作家だけれど、これ、おもしろかったかどうかは、記憶にない。どだろ。読みながら寝るけど。おやすみ。  夢を見た。若いぼくが自衛隊のようなところで試験を受けてた。原爆を使ってもいいかという書き込み欄に、よいと答えた。ぼくに話しかけてくる青年たちは、みな日本語を話していた。冗談のつもりで、ぼくの用紙を奪うヤツがいて喧嘩になったが、現実とは違って、夢のなかのぼくは引き下がらなかった。 二〇一七年十二月四日 「うつの薬の処方はなしに」 パパの頭に火をつけて ひと吸い きょうのパパは あまりおいしくなかった ぼくの健康状態が悪いのかもしれない パパの頭を灰皿に圧しつける パパの頭だけがぽろりとはずれる 思い出したことがあるので 本棚からママを取り出して 開いて見た ママのにおいがする 顔を近づけた やっぱりママのにおいが好きだ ママを本棚に戻すと 灰皿のなかからパパを取り上げて もう一度 パパに火をつける どうしてまずいと思ったんだろう パパの首の先から ホー  ホケキョ きょうは神経科の病院に うつの薬の処方はなしに 先生がぼくの言うとおりのぼくだと思っているということが ぼくには怖い そんなにはやく うつって治るのかどうか 大丈夫でしょうということだけど ほんまかいな と思った 二〇一七年十二月五日 「ミクシィ・ニュースで知った。」 ミクシィ・ニュースで知った。 なぜ子どもも苦しまなければならないのですか という7歳の女の子の質問に、 法王が、「わたしも、なぜだかは知りません。 でも、その苦痛は無意味なものではありません。」と答えたらしい。 7歳の女の子にわかるかどうかわからないけれど。 なんだか、涙がにじんでしまった。 これから五条大宮の公園に行って、 ロレンスの全詩集のつづきを読んでくるね。 休日の公園の風景に、 初老の詩人が詩を読む風景をつけ加えてあげよう。 こうやって毎週のように、ぼくが風景になってあげると、 公園も喜んでくれるかなあ。 家族連れの賑やかな声とか 犬の散歩にきてる人の優しさに混じって。 二〇一七年十二月六日 「ポール・マッカートニー」  ポール・マッカートニーが好き過ぎて、聴き過ぎて、CDをほとんどぜんぶブックオフに売っぱらっちゃったことがあって、買い直しをしてるんだけど、CDとしていまいちなのが高過ぎて買うのがためらわれるものがある。ブロードウェイのことなんだけどね。なんで、高いのか、よくわからん。というか、ポール・マッカートニーのCDは、ビートルズくらいにすごいんだから、つねに新譜で売れよって気がする。どだろ。本でたとえるなら、シェイクスピアやゲーテくらいにすごいと思うんだけど。あ、時代を考えたら、エズラ・パウンドやジェイムズ・メリルくらいにすごいんだからって思っているけど、どだろ。 「愛するとは受け取ることの極致である。」 (シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳) 「ウサギたちはまだ隠れていた。」 (シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳) 「夢はもう終わりかい?」 (シオドア・スタージョン『熊人形』小笠原豊樹訳) 二〇一七年十二月七日 「アインシュタインの言葉」  The man who regards his own life and that of his fellow creatures as meaningless is not merely unfortunate but almost disqualified for life.  自分や他人の命を意味が無いと考える人間は、不幸であるだけでなく、ほぼ生きる資格がない。 (ツイートで拾った言葉) 二〇一七年十二月八日 「奇妙な食べ物。」 珈琲キュウリ 麦トマト 時雨れ豆 窓ぜんざい 睡眠納豆 足蹴り餃子 夢遊病アイス 百年スイカ ブリキ味噌汁 象コロッケ 絵本うどん カニ牛乳 鸚鵡ソバ 加齢ライス 文句鍋 砂足汁 嘔吐ミルク 福利ゼンマイ 怪談料理 囀りモヤシ ゴム飴 鋏茶漬け 針豆腐 朗読ソース 路地胡椒 ラブマヨネーズ 地雷ヤキソバ 二〇一七年十二月九日 「ブリかま」  いま日知庵から帰った。ブリのお造りと、かまあげというんだっけ、ブリの背中から首から上の方を炭火で焼いてくれたものがおいしかった。また、30年ぶりかで、バカルディを飲んだ。めっちゃ、あまくて、おいしかった。わかいときにのんだなあって思い出していた。おいしかったあ。かまあげちゃうわ。ブリかまやわ。あれ、またまた違っちゃったっけ? うううん。料理の名前はむずかしい。  きょうも、スタージョンの短篇集を読んで寝よう。きのう読んだ「熊人形」すごくよい。むかし読んだときもよいと思ったけど。残酷な感じとナイーブな感じがちょうどよい感じでブレンドされてて、まったく記憶にはなかったけれど、読んだら数ページで全内容をすぐさま思い出した。スタージョンの傑作だ。  いま、ユーミンを聴いている。「守ってあげたい。」フトシくんとのカラオケの思い出だ。すべては去りゆく。思い出だけが残る。いや、思い出だけが、ぼくたちのことを思い出すのだ。思い出に思い出されないものは、どこにあるのだろう。それもまたぼくたちといっしょにあるのだろうけど思い出されない。でも、まあ、ふと思い出されることもあるので、どんなくっつきかたをしてるのかはわからないけれど、この身にはなれずくっついているのだろう。忘れていたが思い出されたときに、そんなことを考えたことがあった。名前は忘れた。石垣島出身の青年のことだ。 二〇一七年十二月十日 「カラオケ」  日知庵、それからFくんとカラオケに行って、いま帰った。おいしいお酒と肴のあとに、なつかしい、すばらしい曲の数々。お酒とビートルズはやっぱり人生の基本だと思った。きょうも、スタージョンの短篇を読みながら眠ろう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年十二月十一日 「ちょこんとしたものを書いてみた。」 きれいに顎が冷えている。 コンニャク・ツリー。 指を申し上げてみました。 二〇一七年十二月十二日 「義務と権利。」  ひとの頭をおかしくする義務を果たしたら、自分の頭がおかしくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。  ひとの読んでる本のページをめくる義務を果たしたら、自分の読んでいる本のページをめくる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。  ひとが嫌がることをする義務を果たしたら、自分が嫌がることをする権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。  ひとを幸せにする義務を果たしたら、 自分が幸せになる権利を持てる。 みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。  ひとを悲しくする義務を果たしたら、自分が悲しくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。 二〇一七年十二月十三日 「2011年3月27日のメモ」 股間に蝙蝠が棲んでいることを、どうして知っているの? 詩のなかに、流れる川の水について書く前に 流れる川の水が詩のなかで囀り流れていたのだった。 まるで道路自体が殺到するかのように 人々は一つの生き物のようにすばやく足を運んでいるのであった。 壁から〜する人々がにじみ出てきた。 いや、わたしのほうが違う部屋に移動したのであった。 二〇一七年十二月十四日 「いまふと思いついて、メモするのが面倒なので、直接書き込む。」 ぼくが書きつけた言葉について、言葉自体が ぼくが知っていると思っている以上のことを知っている可能性について 思いを馳せること。 それが明らかになるときに、言葉はぼくのこころの目を開かせたことになる。 あるいは、こう言い直すことができる。それが明らかになったとき、ぼくは 新しいこころの目をもつことができるのだ、と。 新しい耳をもつことと同様に、新しい目をもつことはとても難しいし、 とても貴重な体験だ。その体験を得るために、できるかぎりのことを しなければならない。「ねばならない」というのは、ぼくがいちばん 嫌いな言葉だけれど。 そして新しい声をもつこと。 詩人の役目って、そのどれもだな、きっと。 新しい耳をもち、新しい目をもち、あたらしい声をもつこと。 言葉自体が聞かせてくれる新しい声、 言葉自体が見せてくれる新しい顔、 言葉自体が語ってくれる新しい言葉のように。 二〇一七年十二月十五日 「途中で読むのをやめた本に挟まっていた日付のあるメモ2つ」 ナボコフの『青白い炎』の詩のパートのページにはさまっていた。 気がつかなかったメモ2枚から 2011年2月17日  精神がつくったものは、精神が簡単に壊せるとワイルドは語っていたが 精神がつくったものは、けっして壊せないものなのだ。なかったものと することなどできないのだ。たとえ、忘却という無意識レベルの相のもの に移行したとしても、そのつくられたものの影響は必ず残っており、なに かがきっかけとなってふたたび精神の目の前に姿をあらすことがあるのだ。 隠れているのではない。精神の目が見ていないだけなのだ。精神の目が 自ら目隠しをしているのだ。無意識に。  ただ、興味深いことに、精神がつくったものは、けっして同じ姿を 見せることはないのである。つねに変化しているのだ。つねにほかの 意味概念との間に与え合い受け取り合うものがあって変化しているのだ。 すべてのものが自ら変化し他のものを変化させるものなのだから。すべて のものが他のものを変化させ自ら変化するものなのだから。 2011年2月17日  たくさんの経験から少ししか学べないときもあるし、少しの経験から たくさん学ぶときもある。しかし、学ぶ機会を少しでも多く持つために は、やはり、たくさん読んで、たくさんこころに残すために書きうつし、 文字の形をペンでなぞり、手と目という肉体を通して、ぼくのこころに 刷り込まなければならない。学ぶ才能が乏しいぼくかもしれないから、 繰り返し書きうつすことが必要だ。引用のみによる作品をつくっている ときには、はげしく書きうつしている。  たくさんの経験から少ししか学べないひとがいる。少しの経験から たくさんのことを学ぶひとがいる。前者のタイプに、ぼくがいる。 本からも、会話からも、考えることからも、ぼくは学ぶ能力が乏しい。 これは、ぼくが、ぼくよりはるかに学ぶ能力のある友人を持っている から言うのだ。後者のタイプに、ジミーちゃんがいる。ぼくより読んだ 本の数は少なく、ぼくより友だちが少なく、ぼくよりひとと会ってしゃ べる機会が少ないのに、ぼくよりずっとたくさんのことを知っている し、ぼくよりはるかに深く考えているのだ。  ぼくはもっともっと学ぶ能力がほしい。 二〇一七年十二月十六日 「日付のあるメモいくつか」 2010年9月23日 その本はまだ自らさまざまな打ち明け話をしようと思っていた。 2010年3月28日  その文章のなかには多くの言葉が溺れていたり首を吊ったり電車のホームから飛び降りたりしていた。 2010年9月23日 夢が夢を夢見ながら 二〇一七年十二月十七日 「日付のないメモ」  違いが勝手に脳に生じさせていたのであろう。これではおかしいか。脳が違いを生じさせていたのではないのだろうと推測されたのでそうつづったのだが、ドラッグのせいで、かすかなふつうなら気づかないなにかがおかしかったのだ違いが脳に生じさせていたのだったなにかがおかしかったのだふつうなら気づかないかすかなドラッグのせいで違いが脳を生じさせていたのだった。ドクターを見つけたとき 二〇一七年十二月十八日 「ケネス・レクスロス」  ジュンク堂で、ケネス・レクスロスの翻訳詩集を買った。そのあと病院の待合室で読んでたんだけど、まだ20ページしか読んでいないけれど、訳がすごくいい。原文がいいからなんだろうけれど、いまんところ、W・C・ウィリアムズにささげた詩がいちばん好きだ。 二〇一七年十二月十九日 「日付のないメモ」 街が降る。 雨のなかに降る。 屋根や階段や バルコニーや廊下が 音を立てて 雨のなかに降る。 二〇一七年十二月二十日 「あなたがここにいて欲しい」  いま日知庵から帰ってきた。帰り道、頭のなかで、ピンク・フロイドの『あなたがここにいて欲しい』がずっと鳴ってた。そいえば、ぼくの詩は、ずっとイエスの『危機』や『リレイヤー』や、ピンク・フロイドの『原子心母』や『狂気』といったアルバムを参考にしてつくってたから、自然なことだったのだなあと思った。 二〇一七年十二月二十一日 「キモノ・マイ・ハウス」  いま日知庵から帰った。帰り道は、頭のなかで、スパークスの『キモノ・マイ・ハウス』のさいしょの2曲が鳴っていた。 二〇一七年十二月二十二日 「月下の一群」  きょうの晩ご飯は、大谷良太くんちで、チゲ鍋をごちそうになった。とてもおいしかった。ありがとね、良ちゃん。で、日知庵に寄って、帰ってきたら、郵便受けに、笹原玉子さんから、ちょっと早いクリスマスプレゼントをいただいた。『玲瓏』の96号と、『よびごえ』の117号である。『玲瓏』を開くと、すてきなブックマークと、メッセージが。こんばんから夢中になって読める短歌が。もちろん、玉子さんの御作品から賞味いたしますとも、ええ、はい。  きょう、ブックオフで、堀口大學の『月下の一群』を手にして、ぱらぱらとめくりながら、欲しいなあと思った。べつの文庫で持ってるのにね。ぱらぱらめくってたら絵がついていて、これって初版の豪華な詩集で見たのといっしょのものかなって思って、よけいに欲しくなった。あした買いに行こうかな? それって、岩波文庫のやつなんだけどね。ぱらぱらめくっていたら、持ってる文庫には入ってないものもあるのかなって思うくらい、初見に近い感覚で読んだ詩があって、ラディゲとコクトーの詩なんだけど、ぼくの記憶違いかなあ。ぼくの持ってるのは、講談社の文芸文庫のやつ。いま開けたらあったわ、笑。 二〇一七年十二月二十三日 「笹原玉子さんの短歌」 シーツの白さで目が覚める、窓をあけるとからさわぎ、なんと麗(うらら)な間氷期 蒲公英が間氷期を横切つてあなたの朝戸でからさわぎ しんしんと眠るは故宮、降るはときじく、書物のなかはからさわぎ (『玲瓏』96号、玲瓏賞受賞第一作、「書物のなかはからさわぎ」より)  笹原玉子さんの短歌のよさのひとつに、「いさぎよさ」があると思うんだけど、これらの作品にも、それが如実にあらわれていると思われる。 二〇一七年十二月二十四日 「笹原玉子さんの短歌」 何うしても春のお歌が書けませんるりらりるれろはるらりるれよ 風に刻んだやうな文字だから娘たち「ビリチスの歌」にみんな手をふる わたくしはきつと答へます。とびきりの問ひをください玲にして瓏な (『玲瓏』96号、「玲にして瓏」より) https://pic.twitter.com/vPp9QjMpkH 二〇一七年十二月二十五日 「笹原玉子さんの短歌」 なにもかも浮力のせヰですわたくしが長い手紙をしたためる朝 なにもかも浮力のせヰです半島が朝の手指をつぎつぎ放し 歩幅のゆらぎそのささやかな浮力のせヰであなたは朝を跨いでしまふ (『よびごえ』117号、「朝露を両(もろ)手(て)にいただくその前に(芝公園にて)」より 二〇一七年十二月二十六日 「岡田ユアンさん」 岡田ユアンさんから詩集『水天のうつろい』を送っていただいた。 「ねむりのとなりで」という詩の冒頭2連を引用してみます。詩集中、もっとも共感した詩句でした。 いましがた 生まれた文字が 寝息をたてている 無数の意味が 選ばれることを心待ちにしながら とり巻いていることも知らず 二〇一七年十二月二十七日 「福田拓也さん」 福田拓也さんから詩集『倭人伝断片』を送っていただいた。 冒頭収載のタイトル作から引用しよう。奇才だと思う。  前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くうちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の文様を頼りに、しきりに自分の身体に刻まれた傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわたしの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るものがある、 (詩篇・冒頭・第一連)  読んだばかりのスタージョンの短篇のさいごの場面が思い出されなくて、自分の記憶力の小ささに驚いた。「孤独の円盤」という有名な作品なのだけれど、数日前に読んだのだけれど、かんじんなさいごの場面、なぜ「孤独な円盤」というタイトルになったのかがわかるところが思い出されなかったのだ。残念。これから、もう一度、「孤独の円盤」のさいごのほうの場面を読み直そう。それにしても、部屋にある小説、ほとんどすべて読んだもので、傑作だと思うものばかり本棚に残してあるのだけれど、短篇はほとんど忘れていることに気がついた。このもろくて不確かな記憶力に自分でも驚いてしまう。超残念。  いま日知庵から帰ってきた。帰り道、雨のなか、頭のなかでは、スターキャッスルのセカンドのさいしょの曲が鳴ってた。これぞ、プログレって感じの曲だ。雨が降っている。雨で思い出したけど、琉球泡盛に「春雨(はるさめ)」っていうのがあって、日知庵のカウンターの上に並んでいた酒瓶のひとつなんだけれど、あ、写真は、ぼくの目のまえに置かれたお酒と肴の唐揚げとサラダスパゲッティなんだけど、「春の雨」って書いて、どうして、「春雨(はるさめ)」って読むんだろうって、お店のなかで、バイトしてる男の子に訊いたら、わかんないという返事があって、「どうして子音のSが入ったんだろうね?」って言って、「知ってるひとが、いるとは思うんだけどね。」って言って、こんなふうに子音が入る言葉ってほかにもあるかもしれないねって言ってたら、友だちの池ちゃんが、「それは違うと思う。」と言って、アンドロイドっていう携帯で調べてくれたら、「雨」って、「さめ」とも言って、「小さい雨」のことを「さめ」と言うらしくって、「雨」と書いて「さめ」とも呼ぶらしいと教えてくれた。そいえば、「小雨」のことを「こさめ」と言うものねって、ぼくが返事した。池ちゃんが、ぼくのさいしょの言葉に反応したのは、「秋雨(あきさめ)」という言葉があったからだと言うんだけど、池ちゃんは、ぼくが意見を言ったとき、音便で変化したのでないことは確かだから、調べてみるねって言ってくれたのだけれど、「雨(あめ)」に「雨(さめ)」って読み方があるってこと、「雨(さめ)」には、「小さな雨」っていう意味があることを知れて、ほんとによかった。うれしかった。  寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』か、ケネス・レクスロスの翻訳詩集にしようっと。うううん。友だちや、知らないひとが送ってくださる詩集を、さきに読んじゃうから、自分の読書計画がちっともはかどらない。まあ、このちっともはかどらないところがぼくの人生っぽいけどね。 二〇一七年十二月二十八日 「右肩さん」  見つかった! なにが? さがしていた詩句が見つかった。レクスロスの詩句で、気になっていたけれど、ルーズリーフには書き写そうとは思わなかったけれど、きょうになって、やっぱり書き写そうと思った詩句だ。 水はおなじことばをかたる。 なにかおしえてくれたにちがいない これらの年月、これらの場所で いつもおなじことをいっている。 (ケネス・レクスロス『心の庭/庭の心』?、片桐ユズル訳)  ぼくも、これまで自分の詩や詩論で、「水」を潜在意識にあるもの、或いは、潜在意識そのものとして扱ってきたので、このレクスロスの詩句には、とても共感できたのだった。  よい詩を読むと、いや、すぐれた小説もなんだけど、頭が冴えて、眠れなくなる。つらいなあ。でも、やめれそうにもない。うううん。これから、クスリのんで、レクスロスの翻訳詩集のつづきを読もうっと。いま、64ページ目に入ろうとしているところ。  きょうは、夕方から、京都にこられる右肩さんとお酒をごいっしょする予定だ。きみやに行こうと思っている。右肩さんの詩、初見のときは読みにくかったけれど、数年もすると、とても読みやすいものになっていた。これは、読み手のぼくの進歩もあったのだろうけれど、書き手の進歩でもあったのだろう。  西院駅の駅そば屋「都うどん」に行ってくる。あったかい朝ご飯が欲しかったのだ。小さい掻き揚げ飯と、すそばで、440円。小銭入れを見たら、467円あったので、これで支払える。それでは、行ってきませり。  いま行ってきたら、お店の名前が「都そば」だった。きょうは、お昼から出かけるから、あさにしっかり食べようと思って、「イカ天丼定食」なるものを食べた。イカの天ぷらと掻き揚げが丼ご飯にのっかってるものと、すそばね。590円だった。帰りに、セブイレで、「味わいカルピス」152円を買った。  いま、きみやから帰ってきた。詩人の右肩さんと、ごいっしょしてた。共通の読み物の話とか、俳句や現代美術の話とかしてた。あしたは、右肩さんと、日知庵におじゃまする予定。 二〇一七年十二月二十九日 「右肩さん」  ケネス・レクスロスの翻訳詩集を読み終わった。もう一度、翻訳された詩を読み直そうと思う。しかし、きょうは、もう遅い。読み直しは、あしたから。きょうは、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読みながら寝よう。  いま日知庵から帰ってきた。ついさきほどまで、詩人の右肩さんと日知庵でごいっしょしてた。きょうも、詩について、詩人について話をしてた。写真に写っているのは、右肩さんの右手だ。きょうも、ぼくはヨッパだった。ロクでもないことをしゃべっていたのではないかと省みる。反省。しゃ〜。恥ずかし。  きょう、寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読むことにしよう。いま、ヨッパだから、数時間は、クスリをのめない。でも、ようやく、文字を目に通すことができるようになったみたいだ。この半年くらいのあいだだが、病気で、あまり文字を読むことができなかったのだ。  ひとつ思い出した。ぼくの誕生日が1月10日なのだけど、戸籍上は1月12日になっていて、右肩さんの誕生日が1月11日なので、右肩さんが「虚と実のあいだですね。」とおっしゃったことを思い出した。齢は同い年で、ふたりとも、1961年生まれである。きのうは、同学年の者がカウンターに4人も並んだ。  もひとつ、思い出した。右肩さんが、ぼくの詩「高野川」のことを高評価してくださってたのだけれど、もっとも親しいぼくの友だちの大谷良太くんも、ぼくの詩「高野川」を高評価してくれてたことを、ぼくの詩「高野川」がいいと言ってくださった右肩さんに話した。 二〇一七年十二月三十日 「右肩さん」  ツイートに右肩さんが書いてらしたように、ぼくの右横にいた女性客が(ぼくたちは、そのお名前から、「さき姉(ねえ)」と呼んでいます。)「28歳が(…)」とおっしゃったので、ぼくがすかさず、「28歳というと、文学作品によく出てくるんですよ。ぼくはその部分をルーズリーフに書き写して引用したことがありますよ。」って話しました。28歳って、もう子どものように若くもないし、かといって完璧な大人って感じでもないし、なんなんでしょうねって話をしたことを思い出した。右肩さん、よくぞ憶えていてくださった。こうして記憶がちゃんと収まるところに収まるのは気持ちがいいことなんだなと思った。  そだ、もひとつ思い出した。よく「小学生並みの詩だな。」なんてこと書くやつらがいるけれど、小学生の詩ってすごくって、『せんせい、あのね』って本に載ってる小学生の詩ってすごいですよねって右肩さんに言ったら、右肩さんもそうおっしゃてた。ぼくはひとにあげてもう持っていないんだけど、残念。それで、アマゾンで検索したら、2000円くらいしてて、あちゃ〜、手放さなければよかったと思った。子どもが書いたとてもいい詩がいっぱい入ってた。  いま日地庵から帰ってきた。25歳と26歳の男の子とくっちゃべっていた。彼らは幼馴染で、ふたりとも営業マンだった。企業の顔だねって、ぼくは言った。企業の最先端だねっとも、ぼくは言った。ほんとに、そう思うからだけれど、ふたりからそうおっしゃっていただけてうれしいですと返事してくれた。 二〇一七年十二月三十一日 「死ね、名演奏家、死ね」  これから日知庵に行く。きのう寝るまえに、スタージョンの短篇「死ね、名演奏家、死ね」を読んで寝た。SFではなくて、グロテスクなだけの作品だったのだが、嫉妬というものがよくあらわされている作品なのだとも思った。短篇、あとひとつで、短篇集『一角獣・多角獣』を読み終わる。帰ってから読もう。 ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一七年十三月一日─三十一日/田中宏輔[2021年10月11日5時25分] 二〇一七年十三月一日 「日付のないメモ」  彼は作品のそこここに、過去の自分が遭遇した出来事や情景をはめ込んでいった。あたかもはじめからそれがそこにあって当然と思われるはめ絵のピースのように。さまざまな形や色や音を、いろいろな時間や場所や出来事を、たくさんのピースをはめ込んでいったのだった。そのはめ込まれたピースのなかには、はめ込まれてはじめてはまる類のものもあって、はめ込んだ前とまったく異なるものもあったのである。そういった類のピースが多くある作品には、作者にもつくれるとは思えなかった作品がいくつもあった。 二〇一七年十三月二日 「短詩」 暗闇の一千行 一千行の暗闇 二〇一七年十三月三日 「日付のあるメモ」 2011年1月18日 詩人の役目とは、まず第一に、 言葉自体がその言葉にあるとは思わなかった意味があったことを その言葉に教えること。 つまり、眠っていた瞼を一つでも多くあけさせること。 数多くの瞼をあげさせ、しっかりと目をひらかせることが詩人の役目である。 言葉が瞼をあける前とは違った己の顔を鏡に見させること。 二〇一七年十三月四日 「THE GATES OF DELIRIUM。」  詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。  この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。  ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。 二〇一七年十三月五日 「32年目のキッス。スプレンディッド・ホテル。アル・ディメオラ。」 きょうは、風邪をひいていたので 学校が終わったら、まっすぐ帰ろうと思ったのだけれど 職員室で本で読んでいたら、帰りに日知庵に寄るのに ちょうどいい時間だったので 帰りに日知庵に寄った。 そのまえに、三条京阪のブックオフに行ったら アル・ディメオラの『スプレンディッド・ホテル』があった。 1250円。 高校2年生のときに 國松毅くんちに行ったら 聴かせてくれたアルバムだった。 國松くんのお母さんが ぼくを見て 國松くんに 「おまえの友だちに、こんなかわいい子がいたなんて。」 って、おっしゃって 恥ずかしかった。 でも、國松くんのお母さんの言葉があったからなんだろうけど 國松くんの部屋で ふたりっきりになったときにキスをしたら 抱きしめてくれた。 ぼくはぽっちゃりぎみ というか、おデブだったけど 体格は國松くんのほうがよかった。 翌日 学校で 國松くんに、こう言われた。 「これからは、ふたりっきりで会うのは、やめような。」 いったい、なにを怖れていたんだろう。 ぼくたちの幼いセックスは。 二〇一七年十三月六日 「わたしとは何か。」 人間が最初に問いかけをしたのは 何だったんだろう いにしえのヘビにそそのかされたイヴの言葉になかったのだろうか なかったとすれば 神がアダムに言った 「あなたはどこにいるのか」 という言葉が最初の問いかけになる 園の木の実を食べたアダムとイヴが 神の顔をさけて 園の木のあいだに隠れていたときのことだ 「園のなかであなたの歩まれる音を聞き わたしは裸だったので 恐れて身を隠したのです」というアダムの言葉が 人間の最初の答えになる 最初の答えは言い訳だったのである 最初の問いかけは 神の言葉だったのか それともイヴのいにしえのヘビに対するものだったのか それはわからない もしもイヴのものが最初の問いかけであったなら 最初の答えはいにしえのヘビによるものだということになる 人間同士のものが 最初の一対の問いかけと答えになっていないというところが面白い 外と中 外から来るもの 中から来るもの 外からくるものが問いかけであることもあるだろうし 外からくるものが答えであることもあるだろう 中からくるものが問いかけであることもあるだろうし 中からくるものが答えであることもあるだろう いずれにしても くるのだ と思う どこへ わたしというところへ わたしという場所に ふいにやってくるのだ ふとやってくることが多いのだ 学生時代でも いまでもそうなのだが わたしは わからない数学の問題を ほっておくことが多かった 答えを見ないでおくのだ すると数日で 遅くても一週間くらいで ふいに 解き方がわかるということがよくあったのだ 無意識部分のわたしが つねに 別の無意識部分のわたしに問いかけているのだろう 無意識部分のわたしが 別の無意識部分のわたしに答えようとしているのだろう いや 答えているのか 外と中 顕在意識と潜在意識とのあいだの応答も 問いかけと答えに近いところがあるかもしれない 応答といま書いたが 応答と 問いかけと答えでは ちょっと違うか ちょっと違うということは やはり似ているところが 同じようなところがあるのかもしれない ちょっと違うか ちょっと違うのは わたしのパジャマ姿だ 上と下と違うではないか ちょっと違うどころやない ぜんぜん違うではないか ちゃんとそろえて着なきゃ あ いま ジミーちゃんと電話してわかったんだけれど 聖書のなかで 最初に見られる疑問文は 創世記の第三章・第一節の 「園にあるどの木からも取って食べるなと  ほんとうに神が言われたのですか」という いにしえのヘビの言葉であった それに対するイヴの言葉が 最初の疑問文に対する 最初の答えである 「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが  ただ園の中央にある木の実については  これを取って食べるな  これに触れるな  死んではいけないからと  神は言われました」 やはり 最初の問いかけと その答えは 人間同士のものではなかった ジミーちゃんに 「あなた  ちゃんと聖書読んでんの?」 「あなた  聖書ぜんぶ読んだって言ってたのに   あまりよくご理解なさってないようね」 と言われた ああ 恥ずかしい 読んで調べて書いたのやけど ジミーちゃんに 「一文ずつ読んで調べたって言ってたのに  なぜ  その箇所をとばしたのかな」 「まったく不思議」とまで言われて さげすまれた 「バカ」とも言われた 「バカなの  わたし?」 と言うと 「褒め言葉だけど」とのこと 「ほんとうに?  なぜなぜ?」 と言うと 「バカって梵語のmohaからきてる  無知という意味の言葉で 「僧侶」の隠語だったからね」 とのこと ああ ありがたや ありがたや あ だいぶ横に行ってる感じ 「バカは死ななきゃ治らない」 とまで電話で言われた あ また横っとび 最初の問いかけが いにしえのヘビのものだったのは 象徴的だ で 何が象徴的かってのは よくわからないんだけど 笑 神の最初の問いかけに答えたのはアダムだった 悪魔の問いかけに答えたのがイヴであった このことも何かを象徴しているはずだ なんだろう 神の最初の問いかけがアダムになされたことと 悪魔の最初の問いかけがイヴになされたことが何かを象徴していると そう受け取るのは ぼくのこころがジェンダーにまみれているからかもしれない いや ただ単にジェンダーに原因を置くことは 文化史的な探求を途中で放棄することになる ちゃんと把握しなければ 神というものを意識の象徴ととり 悪魔というものを無意識の象徴ととると 意識に働きかけるもの 感覚に働きかけるもの 目に見えるもの 形 色 手に触れるもの 耳に聞こえるもの 感じられるもの これらのものが神の象徴するものだとしたら それに応答する感覚 意識がアダムで 悪魔は 無意識領域の働きかけというふうにとると イヴはそれに対応する無意識領域の反響あるいは共鳴ということになる そういえば 聖書的には 男は拒絶する場面がいくつも見られるが たとえば カイン ユダ ペテロ 女は受け入れるという印象がある イヴしかり マリアしかり じゃないかな なんて思った いままたジミーちゃんから電話があって いま書いたところを読んで聞かせたら 「えっいまなんて言った?」 って訊かれて 「ジェンダー」と答えたら 「ぜんざいと聞こえた」と言われ 「それならぼくのこころがぜんざいにまみれた話になってしまうやんか」と答えた ふたりで大笑いした で 最後まで読んで聞かせて 「どう思う?」って訊いたら 「でも田中さんの場合  よく読み落としがあるから  うかうか鵜呑みにはできないな」 と言われて 「あぎゃ」と声をあげて笑った 信用ないのね 聖書の知識ではジミーちゃんに完全に負けちゃってるものね でも 意識は拒絶し 無意識は受け入れるというのは興味深い 男を意識領域 女を無意識領域の象徴ととることは 聖書の記述にも合致する 創世記の第二章・第二十二節から第二十三節に  主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り  人のところへ連れてこられた  そのとき  人は言った 「これこそ  ついにわたしの骨の骨  わたしの肉の肉」 これは面白い 神はアダムが女を欲したので女を造り アダムに与えたのだが そのイヴが造られたのは アダムのあばら骨という 心臓に近い こころに近い骨からであるにもかかわらず アダムのところへ連れてこられたというのだから 違った場所で アダムのそばではないところで イヴを形成したということになる 無意識領域が 意識領域のものからつくられたのにもかかわらず つまり 材料は意識領域のものにもかかわらず 違った場所で 形成したというのだ 無意識領域は で 意識は 無意識領域のものに出合って これこそ わたし自身であると言明したのだ まあ 無意識領域のものと出合うというのがどういうことなのか またほんとうに出合ったのが無意識領域のものとであるのかという問題は そうだね 観照(テオリア)というものと関わっているような気がするので この観照というものについても 考察しなければ うううん 考えれば考えるほど いっぱいいろんなことが関わっていて 面白いにゃあ ユングのいう男性原理と女性原理だっけ これも面白いね さっきまで 男性原理と女性原理と書いてたけど 違ってた ユングのはアニマとアニムスだった 男性が持っている無意識の女性性がアニマで 女性が持っている無意識の男性性がアニムスだった アニマ(anima)自体はラテン語で 魂 呼吸 精神 生命 血 の意味で アニムス(animus)もラテン語で 生命 魂 精神 記憶力 意識 意見 判断 の意味の言葉で 語彙的にいっても アニムス(男性性)が「意識」を表わしているというのは面白い ユングが言うところのアニマ(女性性)が集合的なことに対して アニムス(男性性)が個別的であるというのも アダム=意識 イヴ=無意識 という感じでとらえてもいいと思わせられる しかし これらはみなジェンダー的な用語の使用という 文化史的な背景をもとにした語彙の履歴を暴露するものであって 男性性とか女性性とかいった言葉遣いのなかに ミスリードさせてしまうところがあるかもしれない 意識領域のもの 無意識領域のもの という具合に言えばいいところのものを 男性性 女性性 という言葉でもって それを意識領域 無意識領域というふうに 言語的に関係付けてしまうことは 文化史的には必然で 文脈を容易に語らしめるものとなるのだろうけれど 本質的なところで 誤解を生じる可能性があるかもしれない ぼくが考察するとき 比較対照するものが聖書や文学や哲学の文献だったりするので 文化史的な点では それを無視することはできないし ましてや それがなかったものとして語ることもできないのだが 知らず識らずのうちに ジェンダーであることを忘れてしまわないように 気をつけながら 考察しなければならないと思った さっき 意識は拒絶し 無意識は受け入れるというのは興味深い と書いたけれど 逆に 意識が受け入れたかのように感じられ 無意識が拒絶しているというようなことも ままあるような気がする。 意識としては受け入れなければならない だから受け入れるぞと踏ん張ってみても こころの奥底ではそれを拒絶しているので 体調を崩す なんてことがあるような あったような気がする 意識領域のものに 無意識領域の力が働きかけているのだろう。 言葉を換えると 意識領域の不具合が 無意識領域の場に影響を与えて それで無意識領域の場が反応してるってことなのかもしれない ところで アニメーションが 一枚一枚断片的な画像によって それがすばやく場所を移動させることによって 連続的なものに見えるというのも 面白いですね ラテン語の辞書を引くと animalには「動物・被造物・生きている物」という意味がありますが animatioには「生きもの・被造物・存在」 animatusには「魂のある・生命のある・霊化された・定められた・考えを抱いている」 animoには「生命づける・活かす・蘇生さす・変える・ある気持ちにさせる」 と出ていました 語源って調べると楽しいですね ハイデガーの気持ちがよくわかります 無意識領域を形成するのは 意識領域のものだけではなく 主体が知らないうちに感覚器官が受けた刺激や情報もあって 無意識領域という場を形成しているものが 意識領域のものが形成するロゴスとは異なる力の場であることは 無意識の力というものが存在するように思われるところから容易に想像できるのだが 無意識領域の場の基盤といったものを考えてみよう タブラ・ラサ 赤ん坊の意識が形成されるまえの 赤ん坊の無意識領域と意識領域の場について考えると 意識領域はまっさらだと思われるので 無意識領域の場が さきに形成されていくような気がする あるいは 意識領域の核というのか 断片というのか 大洋になる前の水溜まりというのか そういったものが形成されているのかもしれないが 無意識領域のものが 少なくとも 遅くとも それらと同時には形成されているような気がする なぜこんなことをくどくどと書いているのかというと このことを文学作品の鑑賞の際に また自分の作品の解析と 作成に利用できるのではないかと思われたからである 自然に起こる霊感の間歇的な励起に対して 人工的な励起状態をつくりだせないかということである 引用という手段 コラージュという手段については 経験もあり 実験もつづけてしていて 人工的な励起状態をつくる もっとも有効な手段だと思われる つねに刺激を受けることがだいじなんだね 本を読み 音楽を聴き 映画を見 そして 日々の生活の上で 他者のやりとりを 他者とのやりとりを 自分のやりとりを 観察すること はじめて見たかのように つまびらかに観察すること しかし 観察という行為においては 自己同化という現象も同時に起こり おそらく夢中で観察しているときには 自他の区別がなくなってしまうようなところがあって 結局は自我の問題に行き着くようなところがあって 他者を求めて自己に至るという 自己と他者の往還 同一化という ぼくの好きなプロティノス的な見解に結びついて 面白いなって思う 相互作用 往還 という点で 観察という事象に目を向けて 考察してみたいなって思った 問いかけをやめないこと より精緻な問いかけをすること より深淵な問いかけをすること しかし それはけっして複雑なものではなく きわめてシンプルなものであろう 文脈を精緻に 語りかける位置を深くすること 目に見えるもの 耳に聞こえるもの 手で触れられるもの そういった具体的なものを通して 観察の位置を熟慮して 精緻な文脈で構築すること 具体的であればあるほど 抽象的になることを忘れずに 瑣末なことであればあるほど大切なことに 末端的なことであればあるほど中心的なことに 触れていることを忘れないこと それを作品で現実化することが 芸術家の 詩人の役目なのでしょうね 体験はひとつ ふたつ みっつ と数えられる 数えられるものは 自然数なのだ 小数の体験や 分数の体験などといったものはないのだ しかし同時にまた 体験は ひとつ ふたつ みっつと数えられるものものではないのだ あのときのキス あのときに抱きしめられた感触 あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ それらはひとつ ふたつ みっつと数えられるものではないのだ 回数を数えれば 一度 二度 三度と 数えられるのだが 体験そのものは数えられるものではないのだ あのときのキス あのときに抱きしめられた感触 あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ それそのものというものは数えられるものではないのだ あえて数えてみせるとすれば ただひとつ ただひとつのもの いや ものでもない ことでもない それそのもの ただひとつ 体験は自然数 それもただひとつの数である 1 凝固点降下 水などの 液体に溶解するものを入れると凝固点が下がるというのが 凝固点降下と呼ばれる現象であったが 以前に書いたことだが 凝固点効果という現象が 記憶が あるいは想起が 真実だけで形成されることが難しいということ 芸術や他者の経験談や物語による類比によって すなわち記憶を形成する者 想起する者にとっては 虚偽である事柄によって 確固たる記憶を形成したり 想起なさしめられるという わたしの見解にアナロジックにつながるように思われる 不純物があると結晶化しやすいということ 化学的にみれば 結晶化する物質と不純物のあいだにエネルギー的な差異があるからなのだが 真実と虚偽のあいだの差異 これがあるために結晶化しやすいというふうに考えると わたしたちが 芸術や文学や音楽に たやすくこころ動かされ 感動することが容易に了解されよう それが わたしたちが わたしたち自身の生をより充実したものと感じられる理由ともなっているのだ 引用とコラージュの詩学である 過冷却の液体に 物理的なショックを与えると たちまち凝固してしまうこと これもまた想起にたとえられるであろう プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭 マドレーヌと紅茶の話を思い出す 何かがきっかけになって 突発的な想起を生じさせるのだが 無意識領域で その想起される内容が 十分にたくさん ひしめきあって 意識領域に遷移しようと 待ち構えていたのであろう 意識領域ではそれを感知できなかったので 突発的な記憶の再生というふうに思えたのであろう それというのも マドレーヌと紅茶をいっしょに口にしていたことは それまでにもたびたびあったのであろうから なぜ、わたしたちの言述が連続するとあいまいになるのか 言明命題について考える すべての型の言述について考察することは不可能である またすべての言述が命題的な言述とはかぎらず 論理で扱える範囲には限界があり 命題的な言述以外のものについては 個々の例で差異がはなはだしく まとめて語ることは不可能なので ここでは命題的な言述に限ることにする また話をもっともシンプルにするため もっとも論理的な言明命題について考察する しかも その命題が真のときに限ることにする 現実の言述は真なるものばかりとは限らないのであるが 真でない命題は現実の会話では始終交わされるのであるが 真でない命題からは矛盾が噴出するので 論理展開には適さないため ここでは除外する さて pならばqという命題が真なるとき pはqであるための必要条件であり pという条件を満たす集合をP qという条件を満たす集合をQとすると PはQに包含される このとき もとの命題の逆 qならばpも真の命題であるなら P=Qで PとQは同値なのだが qならばpが真でないならば pという条件から出発してqについて言述した場合 qの条件は満たすがpの条件を満たさない事柄について 述べてしまうことになる 例をあげよう ソクラテスは人間である この言明命題を連続的に行なうとどうなるか ソクラテスは人間である 人間は生物である この二つの命題を合わせると また一つの真なる言明命題ができあがるのだが わたしたちが言葉を重ねれば重ねるほど 言述があいまいになるような印象を受けるのは 論理的に当然のことであるのがわかる 精密に語れば語るほど 言述の対象があいまいになるというのは したがって ごくあたりまえのことなのである で わたしは 詩をつくるとき それを利用する わたしが 言明命題的な言述が とても好きな理由は それに尽きると言ってもよい 逆 裏 対偶 それらの否定 の 逆 裏 対偶 の否定の否定 ヴァリエーションは無限である もちろん 言明命題的な言述のみに限らず あらゆる言述の組合せは可能で それの組合せが 芸術作品を成り立たせているのであるが この記述は もっともシンプルな系についてのみ語っている なぜ わたしたちの言述は 精密に語ろうとすると あいまいになるのか 当然なのよ ということ 言述にあいまいさを与えないでおくには 必要条件かつ十分条件になるように 言述すればいいのだけど それは同一律を守りながら ということになるので 結局のところ 同語反復にならざるを得ない しかし 文学は同語反復でさえ いや 文学に限らない 視覚芸術も 音楽も 反復が さまざまな効果をもたらすことは よく知られている 薔薇は薔薇であり薔薇であり薔薇であり薔薇であり うううん まあ ぼくはいまのところ ぼく自身を追いつめることにしか興味がないみたいだ 言語実験工房主宰で 京都に 詩人の Michael Farrell 氏を招いたとき とても基本的なことを彼に訊いてみた あなたはなぜ詩を書いているのですか という質問に 詩人がとまどっていた あるいは John Mateer 氏だったかしら あなたはなぜ詩を書いているのですか という質問に 詩人がとまどっていた わたしはつねになぜ自分が書いているのか考えて生きているので とまどう詩人を見て驚いた わたしとはいったい何か 何がわたしなのか 何がわたしとなるのか 何がわたしを構成しているのか わたしはどこにいるのか どこがわたしなのか どこからわたしなのか わたしはいつ存在しているのか いつ存在がわたしになるのか とても基本的なことを つねに わたし自身に問いかけている 絶対的に知りたいのだ 絶対的に知りえないことを 詩で わたしは わたし自身に問いかける わたしはそれに答えることはできないのだけれど つねに わたしは わたし自身に問いかける わたしとはいったい何か 何がわたしなのか 何がわたしとなるのか 何がわたしを構成しているのか わたしはどこにいるのか どこがわたしなのか どこからわたしなのか わたしはいつ存在しているのか いつ存在がわたしになるのか とても基本的なことを 詩人がなぜ詩を書いているのか たずねられてとまどう詩人の姿に わたしのほうがとまどってしまった 二〇一七年十三月七日 「失われた突起を求めて」 クリストファー フトシ ムルム 守ってあげたい マンドレ ふさわしい いまわしい 二〇一七年十三月八日 「ドクター」 後頭部を殴られる 気を失う 詩人の経験を経験する 詩人が橋の上から身を投げる 詩人は河川敷のベンチに坐りながら 自分が橋の上から身を投げるシーンを目にする うつぶせになって自分の死体が上流から流れてくるのを見つめる 橋の上から身を投げる直前に 橋の上からベンチに坐った自分が自分を見つめる自分を見る 上流から流れてくる自分の死体を見る 冷たい水のなかで目をさます それが詩人の詩の世界であることに気づく 詩人の目を通してものを見ていたことに気づく 橋の上からベンチを見下ろすと 自分自身がベンチの上で 寝かされているのを見る 「こんどは  わたしが介抱してあげよう」 目をあけると以前助けたドクターが 自分の顔を見下ろしていた 「あいつらだよ  きみも狙われたのだね」 後頭部に触れると濡れていた 血だろうか 「その傷の大きさだと縫わなければ  消毒も必要だ  わたしのところにきなさい」 ドクターに支えられて 河川敷の砂利道を歩いた 二〇一七年十三月九日 「詩」 言葉は 形象から形象へ 言葉は 形象から形象へ 詩は 個から個へ 詩は 個から個へ という 感じだろうか 結局のところね ほかの芸術はたとえば 舞台や 映画や 演奏会は ただひとりのために という感じじゃないけど 詩は なぜだかしらん 個から個へ って感じね 対象は 個じゃなくてもね 二〇一七年十三月十日 「父」 今年の4月に わたしの父が死んだのだが 父は食道楽だった 食い意地がはっていたと言ってもよい 週に一度の外食は 四条河原町の「つくも」という ニュー・キョートビルと言ったかな いまはない店で 高島屋の向かいのビルの9階の和食の店や 京極の「キムラ」のすき焼き屋や 「かに道楽」など そういった庶民的な店ばかりだったのだが そこらで食事をしたことが思い出される 金魚に目がとまるわたしである わたしの父親は一生のあいだ 道楽者だったのであるが なかでも鯉には目がなかった わたしは父親のことが大嫌いだったので いかなる生きている動物も嫌いなのであるが 金魚には目がないのである 嫌なことだが遺伝であろうか 二〇一七年十三月十一日 「うんこたれのおじいちゃん」 ふん また いやな顔をしくさった この嫁は やっぱりあかんわ わしが わざとうんこをたれて ためしてやったのに やっぱり あつすけは カスつかみよったわ 「すまんなあ  すまんなあ」 けっ なんや このブスが 返事ひとつ でけへんのかいな 鼻の上にしわよせよってからに ええい しゃらくせいわい も いっぱつ ひり出したろかい ブッ ブリブリ ブッスーン ブリブリ けへっ 「すまんなあ  すまんなあ」 けへっ 二〇一七年十三月十二日 「地球を削除する。」 対称変換その他の修正 水面を対称面にして 空と海を変換移動させる そのとき 空中に存在している鳥だけは動かさない そのとき 海中に存在している魚だけは動かさない キルケゴールを対称の中心として スピノザとニーチェを変換移動させる 『三四郎』を対称の中心ととして 『吾輩は猫である』と『明暗』を 変換移動させる 地上に存在する詩や小説や戯曲に書かれた すべての形容詞・副詞の意味を反対語に置き換え 肯定文を否定文に書き換え 否定文を疑問文に書き換え 疑問文を肯定文に書き換え そのほかの文は削除する それがすべて終わったら 地球を削除する そしたら あとは 裸にされて ほな さいなら 二〇一七年十三月十三日 「苦痛を排除した世界」 こころのなかにあるわたしではないもの わたしではないと感じられるもの わたしではないと思いたいもの さまざまなものが わたしのなかにありますが そのわたしではないと思わせるものが ときには、わたしそのものであると思われるときがありますね。 苦痛は、もっともはっきりと 人間の意識を振り向かせるものですが その苦痛の原因があるからこそ わたしたちには 意識が発生したのではないか と思われるときがあります。 苦痛を排除した世界は もしかしたら 意識のない世界かもしれませんね。 二〇一七年十三月十四日 「きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。」 きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。 妻子餅で あ 妻子持ちで しかも、友だちと 夜中まで遊びまくっているという でも、バイでもゲイでもなく ストレートの人ですが なんか笑っちゃいます。 ぼくの感覚がおかしいのかなあ。 ぼくなんか だれとでもできちゃう感覚持ってて だれとでもいいんだけど、笑。 その人も、セックス抜きなら だれといっしょにいても楽しいという肩でした。 あ 方ね。 ぼくも、基本がそうね。 だれといても楽しいのね、笑。 これって、おかしいかなあ。 まあ、いいか。 太郎ちゃんのところに原稿送ったし 追い込まれたら、自我が最高度に働くので いつも、締め切りぎりぎり。 綱渡りの人生だわ。 制御できてるのが不思議だけど。 二〇一七年十三月十五日 「えいちゃん」 画像は生まれたばかりの双子ちゃんと、ひとつきくらい前の画像かな。 かわいいっしょ? 二〇一七年十三月十六日 「雑感」 同じことを語ることで、同じことを頭に思い浮かべることによって 映像が、そのときの記憶よりも鮮明に見えるということを だれかが書いていたように思います。 同じこと、同じ経験、同じ映像でも そのときには、見落としていたこともあるでしょうし いまの自分からみるとそのときの自分からは見えなかったものが 見えたりするということがあると思うのですが 意味の捉えなおし、修正ということもあると思います。 丹念に自分のひとつひとつの記憶をたどること。 これまた、若いとき以上にじっくりと取り組める事柄だと ぼくなどは、同じ話を何度も語りなおすタイプなので そう考えています。(我田引水気味でしょうが。) そういうふうに同じことを語りなおすことによって 思い浮かべなおすことによって いまの自分が、自分の気持ちが、生活が 新しい目で眺められるようになって 豊かになったような気がすることがあります。 齢をとって、いいことの一つですね。 そういう豊かさを持つことが出来るのは。 時間を隔てて眺める その時間が必要なのですね。 その時間に自分も変わっていなくてはなりませんが。 自分自身へのご褒美、紙ジャケCD 2枚! 数日前に書いた原稿が2つとも、自分ではよい出来だと思えたので、笑。 あがた森魚ちゃんの『バンドネオンの豹と青猫』 アランパーソンズ・プロジェクトの『運命の切り札』 これまた、むかし、両方とも持ってたのね。 お金に困って売ったCDたちのなかに入ってて いまもう手に入らないCDもたくさん売ったから つらいけど こうして復刻されるってことは ボーナス・トラックもついてるしね、 いいことかもしれない。 リマスターだから音もいいしね。 しかし、カルメン・マキの セカンドは、もとの音源に傷がついていて 「閉ざされた町」という傑作が、もうほんとにねえ 状態ですが まあ、いつか、その傷も修正されたものが復刻されるでしょう。 いま あがたちゃんのCDを聴いて癒されています。 組曲ね。 なつかしい しんみり。 森魚ちゃん、天才! ここで、マイミクの都市魚さんからコメントが。 カルメン・マキはファースト以外は紙ジャケ持ってます。ベースが代わったセカンドからの方が有名なファーストよりカッコいいですよね(笑)。 森魚さんは赤色エレジーが入ったのしかCD持ってないです。もちろん紙ではありません。 ぼくのお返事。 あがたちゃんのこれは、おされです。 カルメン・マキは ぼくの青春時代の思い出です。 知り合いの方にライブのチケット ゼロ番のものをもらったことがあります。 東山丸太町、熊野神社の前を東にむかって横断歩道を渡って 数十メートルのところにあるザック・バランでのライブね。 5Xのころかしら。 かっちよかったです。 みんながあまりのってなかったのかしら。 ジンをマキが口に含んで それを観客の上に 「みんなもっとのれよ!」 といって プハーッ って吹き出したこと いまでも鮮明に覚えています。 二〇一七年十三月十七日 「幸せの上に小幸せをのせたら」 幸せの上に小幸せをのせて その小幸せの上に微小幸せをのせて そのまた微小幸せの上に極微小幸せをのせたら みなこけて、粉々に砕けて、ガラスの破片のように ギザギザに先のとがった危ない怖い小さな幸せになりましたとさ。 おじさんの上に小さいおじさんをのせて その小さいおじさんの上にさらに小さいおじさんをのせて またまたさらにさらに小さいおじさんをのせても サーカスの演技だったので、まったく普通の拍手ものだったわさ。 おばさんの上に大きいおばさんをのせて その大きいおばさんの上にさらに大きいおばさんをのせたら そのさらに大きなおばさんの上にもっともっと大きなおばさんがのる前に おばさん同士の格闘技がはじまって、髪の毛ひっつかまえて振り回したり 張り倒して蹴り上げたり、壁に押し付けて頭ごんごんしたりしてさ。 血まみれのおばさんたちが大声で罵倒し合いながら喧嘩してたってさ。 ケーキの上に小さいケーキをのせて その小さいケーキの上にさらに小さいケーキをのせて そのさらに小さいケーキの上にもっと小さいケーキをのせたって ふつうのウエディング・ケーキだべさ。 ちっとも面白くねえ。 真ん中の上に端っこをのせて その端っこの上に小さい真ん中をのせて その小さい端っこの上にさらに小さな真ん中をのせても べつにバランスは崩さないかもしんないね。 上手にやればね、まあ、わかんないけど。 やさしさの上に小さいやさしさをのせて その小さいやさしさの上にさらに小さいやさしさをのせて そのさらに小さいやさしさの上にもっと小さいやさしさをのせても だれも気づかないわさ、こんな世間だもの。 どいつもこいつも、感受性、かすれちまってるわさ。 お餅の上に小さいお餅をのせて その小さいお餅の上にさらに小さいお餅をのせて そのさらに小さいお餅の上にもっと小さいお餅をのせて 昆布と干し柿とミカンをのせれば正月だわさ。 わたしゃ、嫌でも、48歳になるわさ。 1月生まれだもの。 ああ、でも、ぼくの上にかわいいぼくがのって そのかわいいぼくの上にさらにかわいいぼくがのって そのさらにかわいいぼくの上にもっともっとかわいいぼくがのったら 重たくてたまらないでしょ、そんなの。 ぜったいイヤよ。イヤ〜よ。 いくら、自分のことが好きなぼくでもさ。 おやちゅみ。 おやちゅみだけがチン生さ。 ブリブリ。 ピー。 スカスカ。 二〇一七年十三月十八日 「アポリネール」 お風呂につかりながら読むための源氏物語。  上下巻 105円×2=210円 与謝野さんの訳ね。 風呂場でないと たぶん一生 読まないと思うから、笑。 それと世界詩集 いろんな全集の世界詩集を集めてる これまた持ってるのと重複しまくりだろうけれど 重複しないのもあるしね これは200円やった。 偶然できたしみです。 いま、コーヒー・カップの下の あ、テーブルの下のほうにメモ代わりにしていた 本から切り取ったもの(白いページをメモ代わりに 本から切り取るのです。)手にしたら めっちゃきれいだったので 記念に写真を撮りました。 輪郭とか眺めても とてもうつくしいので、びっくりしています。 作為のまったくないものの線 線のうつくしさに驚いています。 そうそう きょう買った世界詩集の月報にあった アポリネールの話は面白かった。 アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに 彼が恋人と口げんかをして 彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって それで、友だちが食事をしていたら 彼が部屋から出てきて テーブルの上を眺め渡してひとこと 「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」 ですって。 二〇一七年十三月十九日 「新型エイリアン侵入」 これまでにも、人間そっくりのエイリアンが多数、人間社会に侵入していたが 今月になって、また別の種類のエイリアンが人間社会に侵入していることが判明した。 特徴は、人間そっくりであることで、他人に対する思いやりに欠け 平気で、人の話をさえぎる自分勝手さも持ち合わせており 猜疑心だけは、ものすごく発達させている、サイコチックなところのあるエイリアン。 人間との見分け方は、匂いにある。 エイリアンの身体は、オーデコロンのエゴイストの香りがする。 二〇一七年十三月二十日 「考えると、」 内部しかないものが存在するか。 いま、膝の痛みをやわらげるために お風呂に入ってたんだけど そんなこと考えちゃって 内部しかないもの 外部しかないもの 内部も外部もないもの なんて考えてた 光 光量子 なんてものは、どうなんかな 概念もね 宇宙は閉じてるとして見ると 内部だけでできているのですね。 そうであろうか、と自分に問いかけて 答えに窮しています。 うううん。 境界についての議論もできますね。 また数学的には 集合ではなく領域の問題としても 境界について、議論できそうです。 全体集合の補集合が空集合になり 空集合の補集合が全体集合になるというところ それはそう定義するしかないと思いますが (そう定義すると、記号処理が簡単になりますから) ぼくには大いに疑問です。 むかし、同人誌に そのことについて書いたことがありますが まだ自己解決しておりません。 膜には内部も外部もないですね。 表と裏 ですね。 しかし、 膜自体の物質性あるいは容積性に着目すると 内部と外部が存在するわけです。 無限に延長された膜を考えるとしても。 ただ無限という概念をつかって 外挿すると、さまざまなものの性質が 概念が、ですが 無限特有のパラドックスを生ぜしめるような気がします。 ううううん。 内部とが部に分けるときに 問題なのは 境界なのですが 境界が存在するかどうかも問題です。 厚みのない幕というものを 概念的に想像することはできます。 あるいは 光 光量子を幕にした場合 などなど 考えてみると とても議論の尽きないところにまでいってしまうような気がします。 行ってもいいと思いますが 際限がなく ああ しかし 面白い。 つまり境界がなく 外部と内部が存在するか などなどもですね。 面白い。 どなたか さまざまな例を挙げて お話ください。 たぶん 無限の概念を含むものとなるでしょうから それは知の限界をも示す考察ともなるでしょう。 たぶん、笑。 大袈裟だけどね。 大風呂敷広げて議論するのも たまにはいいんじゃない? 二〇一七年十三月二十一日 「バロウズ」 バロウズの個展用のカタログ集 PORTS OF ENTRY 到着しました。 きれい。 バロウズはポオが好きだったのね。 ぼくも好き。 あと セゾン美術館から出てる画集を買えば、コレクション終わりね。 ぼくも コラージュ絵画や、ふつうの絵を描いていこう。 二〇一七年十三月二十二日 「A・A・ミルン」 A・A・ミルンの『赤い館の秘密』 105円 クマのプーさんのミルンの推理小説。 ユリイカの『クマのプーさん』特集号に コラージュ詩を書いたんだけど プーさんをモチーフに これから、コラージュ詩をたくさん集めて 詩集をつくりたいので その材料に。 あんまりお目にかからない本なので ついつい。 これから、インスタントの日清焼そばの晩ご飯を。 ししとうと、おくらを買ってあるので どちらもサービス品コーナーで ひとふくろ、20円と30円のものね それを焼いて 玉子焼きを上にのっける予定。 おいしそう、笑。 二〇一七年十三月二十三日 「人間の基準」 人間の基準は100までなのね。 むかし ユニクロでズボンを買おうと思って 買いに行ったら 「ヒップが100センチまでのものしかないです。」 と言われて 人間の基準って ヒップ 100センチ なのね って思った。 って ジミーちゃんに電話で いま言ったら 「ユニクロの基準でしょ。」 って言われた。 たしかにぃ。 しかし ズボンって言い方も ジジイだわ。 アメリカでは パンツ でも パンツって言ったら アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど 若い子が聞いたら 軽蔑されそう。 まっ 軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。 二〇一七年十三月二十四日 「バロウズ」 バロウズの『トルネイド・アレイ』読了しました。 バロウズの詩と、短篇がいくつか。 ときおり光る箇所があるていどの作品集。 しかし、訳者の後書きと ものすごく長いくだらない解説文は不愉快きわまるものだった。 ゴミのような文章で ゴミのような論を展開していた。 こんなクズが書き物をしていてもいいのかしら と思うぐらいくだらなかった。 バロウズの作品だけでいいのよ 収録するのは。 と思った。 二〇一七年十三月二十五日 「浮気」 むかし読んだ詩誌月評かな、それの思い出を、ひとつ。 ある詩人が 名前は忘れちゃったけど 「嫁が家を出て行って  悲しい〜」 なんて書かれても、だったかな それとも、ギターを爪弾きながら 叫ぶように歌われても だったかな そんなことには、ぜんぜん何も感じないけど ってなこと書いてたことがあって ぼくなら、そんな詩? それとも歌かな そんなの読んだり聴いたりしたら、めっちゃ喜ぶのに と思ったことがある。 現実の生活のことが、ぼくには、とても脅威なのだ。 考えられないことが毎日のように起こっているのだ。 そう感じるぼくがいるのだ。 だから、退屈しない。 毎日が綱渡り 驚きの連続なのだ。 嫁が家を出て行く?  なんて、すごいことなんだ。 ぼくは 自分の食べているご飯の米粒が テーブルの下に落ちただけでも ぎょええっ って驚く人間なのだ。 毎日が脅威と奇跡の連続なのだ。 きょう ぼくの小人の住んでるところがばれそうになった。 あ、小人と違って 恋人 いや、恋人と違って 浮気相手だから、愛人かな。 気をつけねば。 あ 浮気っていえば 前に務めていた予備校で 浮気をしたことありますか って女の子に訊かれて ちょっと躊躇したけど 嘘言うのヤダから あるよ と言ったら、それまで ぼくに好意を寄せてくれていたその子が それから、ぼくを軽蔑するような目つきで見るようになって 口もきいてくれなくなって びっくりしたことがある。 二〇一七年十三月二十六日 「ゆりの花のめしべ」 何度も書くけど 少年のものは ゆりの花のめしべのような おちんちんだった。 ゆりの花のめしべは おちんちんのような形をしていて なめたことがあった ぬれていた おんなじような味がした タカヒロくん 愛人のほうね、笑。 大学院時代に付き合ってた20歳の恋人と同じ名前で 彼は34歳の野球青年だけど。 いやなたとえだけど 演歌歌手の山本譲二(次?) に似てるんだよね。 男前と言うより 男っぽい感じ。 5年の付き合いになる恋人は そうね ぼくにはかわいいけど 出川哲夫みたいなの。 ぼくにはかわいいけど 出川哲夫 うふ〜ん なんだか、切ないわ〜 二〇一七年十三月二十七日 「地獄」 これ、睡眠薬飲んで書いたみたい。 記憶にないフレーズが入ってる。 何度も書くけど 少年のものは ゆりの花のめしべのような おちんちんだった。 ってところ。 少年じゃなくて 青年ね。 豆タンクって呼ばれてることを あとで知ったのだけれど メガネをかけた小太りの かわいい青年だった。 若いころの林家こぶ平そっくりだった。 いまのコブ平は、目がきつくなっちゃったね。 きっとイヤな目にあったんだろうと思う。 人間って、地獄を見ると、顔が変わるもの。 二〇一七年十三月二十八日 「過去のやりとり」 すると、frogriefさんから あつすけ様 詩語が問題、ですか。 ぼくが40代に入って、ようやく気付いたのは、ぼくは、「シュールレアリスムの手法を 用いた抒情詩」が書きたい、それを書くことが、ぼくのライフワークなのだ、ということ でした。 ぼくの詩の第1の読者はぼくなのですから、そのVIPのリクエスト、となれば仕方が ありません。 詩語に溺れていない、「管理された詩語」を、用いて書いている、との自負はあるの ですが、どうでしょう? ぼくのお返事です。 frogrietさんへ ぼくが、詩語という場合 なんだろうなあ あ たぶん、こういう意味に使ってると思うんだけど 自分の経験なり、考えたり思ったり感じたりしたことを 言葉にしよとする際に その経験や考えや感じを表わしてくれる言葉が見つかったとしましょう その言葉が見つかったのです しかし じつは その言葉は たくさんの人間の、あなたに似た「経験」や「考え」や「感じ」を すでに、表わしてきたものなのですね。 したがって じつは あなたが さがしいていた、求めていた、出会いたがっていたその言葉は あなたとの出会いが、はじめてのものではなかったのですね。 言葉のほうから見ますとね。 言葉のほうから見て あなたの形成しようとしている言語世界は はじめて出遭う言語世界ではなかったというわけなのです。 これが 詩語の問題と、ぼくは言っていると思います。 frogrietさん あなたばかりではなく ほとんどすべての書き手が 言語のほうから見て 新鮮な出会いをしていないと思います。 シュールレアリスムは たしかに言語にとって豊穣なものであったでしょう。 過去においては です。 しかし シュールが、もはやシュールでなくなったいま SF的な現実と、仮想社会(来年の6月に日本で発表されるそうです。 きょう、関係者の方に直接、聞きました。現実ともリンクしたもので そのバーチャルの世界で儲けたお金を、現実世界で換金できるそうです。 日本地図が入っていて、京都にある地下鉄のように地下鉄があって 乗り物に乗ればお金がかかるし、だけど、そこで買った服を 現実世界でも発注できたりするそうです。 またそこでは、たとえば、現実世界では足の不自由なひとが、不自由でなくなって その不自由さのない生活をして、という仮想社会だそうです。 イーガンの描くSFそのものですね。) のもとでは シュールレアリスムは 言語にとって、もはや、それほど新鮮な出遭いではなくなっていると思います。 ぼくも、ぼくのことをモダニストで、シュールレアリストであると思っていますが 同時に、古典主義者でもあり さまざまな異なる範疇で、さまざまなものであり さまざまなものでありたいとも思っています。 大事なのは 個人の経験でありますが 個人にとってはね また人間世界全体としてもね でも、わたしたちが詩人であるというのなら 個人の経験などは、じつは、どうでもよいのです。 書き手の考えたことや感じたことそのものには 言語自体は興味があるとは思いません。 言語が興味があるのは、個人が経験した経験とともに それを語る語り方であり 考えたこととともに、それを語る語り方であり 感じたこととともに、それを語る語り方であると思います。 大事なことは、言語にとって 言語自体が目が覚めるような 驚くべき経験をさせることなのであって そういう経験は 言語の側から見て 語と語が、どういう結びつき方をしているか 言葉たちがどういうふうに使われているか 文脈がどういうふうに形成されているか 作品として、どういうふうにパッケージされているか によると思います。 (パッケージとは、詩集としてとか、同人誌としてとか、雑誌としてとかです。) 詩語が 拘束するのは わたしたちの経験ではなくて わたしたちの経験を語る語り方なのですから わたしたちが詩人と言うのなら そのことに気をつけないといけないと思います。 そのことについて十分に配慮できていないということにおいて ほとんどの詩人は 詩語に拘束されていると言えるでしょう。 ぼくがすぐ右に書いたような内容のことは 象徴派の詩人や思想家が、すでに書いていることですが たとえば ポオ、マラルメ、エマソン、などなど ぼくの詩論詩集にも、何度も繰り返していることですが 彼らの書いているように 言葉がすべてなのですから いくら言葉に注意しても、し足りないのだと思っています。 それには 現実の経験もさることながら 言語世界での経験も勉強になりますね。 ぼくは もうじき48歳になります。 頭がぼけるまで あと数十年しか残されていません。 こんな作品を書いたぞ っていう作品を これからも書いていきたいと思っています。 と思って いまからクスリをのんで寝ます。 二〇一七年十三月二十九日 「雨」 きょう、雨で 大事な本をぬらしてしまった。 リュックのなかにまで 雨がしみるって思ってなかったから。 奇想コレクション イーガンの「TAP」 買いました。かわいい。 表紙がかわいくて いいね。 イーガンは 大好きなSF作家。 読むのが楽しみ。 きょう、大雨で リュックに入ってた バロウズの『ダッチ・シュルツ 最後のことば』が ぬれてしまった。 リュックにいれてたのに ずぶぬれ〜。 まあ、よりよい状態のものを本棚に飾ってあるから そんなにショックじゃないけど いや やっぱりショックか まあ 本の物々交換に 悪い状態だけどって いうことにして出しますわ。 くやしい。 雨め! 二〇一七年十三月三十日 「ガムラン奏者の方」 いつもの居酒屋さんで、きょうはガムラン奏者の方とおしゃべりを。 料理長の知り合いの方らしく 音楽の話をしていました。 そんなにディープな話ではなかったけれど むかし ぼくが付き合っていた作曲家のことを思い出していた。 タンタン というあだ名を、ぼくがつけたのだけれど パク・ヨンハそっくりでした、笑。 太った パク・ヨンハかな、笑。 二〇一七年十三月三十一日 「記憶」  映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。  まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。 (フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) 物がいつ物でなくなるのだろうか? (R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳) 人間と結びつくと人間になる。 (川端康成『たんぽぽ』) 物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。 (ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳) 書きつけることによって、それが現実のものとなる (エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)  言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る (川端康成『たんぽぽ』) おかしいわ。 (ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳) どうしてこんなところに? (コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳) 新しい石を手に入れる。 (R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳) それをならべかえる (カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳) ---------------------------- [自由詩]詩の日めくり 二〇一八年一月一日─三十一日/田中宏輔[2021年10月18日0時08分] 二〇一八年一月一日 「熊人形」  きょうから、リチャード・マシスンの短篇集『13のショック』を読む。スタージョンの短篇集は、いいの1作品だけだった。「熊人形」だけがよかった。スタージョンの短篇集、すべて本棚にあるんだけど、ほかのはもっとましだったような気がする。でもまた目次を読んだら記憶にないものばかり。あーあ。 二〇一八年一月二日 「大谷良太くんち」 これからお風呂に入って、それから大谷良太くんちに遊びに行く。 二〇一八年一月三日 「オレンジ・スタイル」  いま、ふつうの焼き鳥屋さんの「日知庵」、ゲイ・バーの「オレンジ・スタイル」の梯子から帰ってきた。ゲイ・バーに行くのは、5年ぶりくらいだろうか。小さな集団だけれど、みんな、キラキラしてた。それはとてもすてきなことだと思う。クスリをのむタイミングをはかって寝る。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年一月四日 「草野理恵子さん、植村初子さん、池田 康さん」  いま日知庵、パフェ屋さんのカラフネ屋の梯子から帰ってきた。きのう、すてきな出会いがあって、きょう、そのつづきのデートがあったのだった。神さま、ぼくを傷つけないでください。もちろん、その子のことも傷つけないでください。というか、神さま、お願いです、世界の誰をも傷つけないでください。  草野理恵子さんから詩誌「Andante Parlando」を送っていただきました。彼女の作品を、ぼくはいままで、「ホラー詩」と呼んでいましたが、冒頭に掲載されている詩をはじめ、4作品とも「不気味詩」と呼んでみたい気がしました。不気味です。どこからこんな発想が生まれるんでしょうかね。わかりません。  植村初子さんから、詩集『SONG BOOK』を送っていただいた。映画的だなって思った。映画のカットみたいなシーンや、映画のなかの場面のような詩が載っていた。抽象的な場面は、こころのなかの思いを込めた部分にだけ出てくる。目の詩人さんなのだと思った。  池田 康さんから、詩誌『みらいらん』を送っていただいた。池田さんの「深海を釣る」を読むと、アートと詩が、詩と詩が出合っているのだなあと思わせられる。そこに池田さんの場合、哲学や宗教がからんでくるのだけれど、そこで反射して自分を省りみると、なんにもないんだなって思ってしまった。 二〇一八年一月五日 「うれしいメール」  いま日知庵から帰ってきた。きょう、うれしいメールが10通近くきていた。57歳近くになって、まだ恋愛できるのかなと思うと感慨深い。かわいい。とにかくかわいいのだ。きょうも、リチャード・マシスンの短篇をひとつでも読んで眠ろう。おやすみ。 二〇一八年一月六日 「『一年一組 せんせい、あのね』」 朝から掃除に洗濯。 これからルーズリーフに引用を書き写す作業に。ケネス・レクスロス。  見つかった。何が? 探していた本が、扉付きの本棚で偶然に見つかった。てっきり手放していたと思っていた本で、Amazon で買い直そうかどうか迷っていたのだけれど、けっこう高かったのでためらっていたのだった。小学1年生の書いた詩がよいのだ。もしかしたら、『月下の一群』よりも影響を受けてるかも。 『一年一組 せんせい、あのね』というタイトルの本で、たとえば、こんな詩が載っているのだ。やなぎ ますみちゃんの詩。 おとうさん おとうさんのかえりがおそかったので おかあさんはおこって いえじゅうのかぎを ぜんぶしめてしまいました それやのに あさになったら おとうさんはねていました Amazonで、さっそく続編を買った。  きょうは、部屋の扉付きの本棚で偶然に見つかった『一年一組 せんせい、あのね』を読みながら眠ろう。こころがほんわかとするすばらしい本だった記憶がある。収録されている小学1年生の子どもたちの詩がすばらしかったことも憶えている。大人が書いたのではない、なにか純粋なものが見られるのだ。楽しみ。 二〇一八年一月七日 「ジェイムズ・メリル」  これからデートである。これから駅まで迎えに行って、ぼくの部屋に戻る途中でお昼ご飯を食べる予定。  いまだに、ジェイムズ・メリルの詩集って、新しいのが出ていないのだね。なぜ? もっともすぐれた世界的に有名な詩人なのに? 二〇一八年一月八日 「ジョルジュ・ランジュラン」  きょうから寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの『蠅(はえ)』である。むかし、子どものときに見たTVで、『蠅男の恐怖』ってのがあったけれど、めっちゃ怖い映画だったけれど、その原作者の短篇集である。楽しみ。 二〇一八年一月九日 「『続 一年一組 せんせい、あのね』」  郵便受けに、先日 Amazon で注文した『続 一年一組 せんせい、あのね』が入ってた。部屋に戻って封を開けると、とてもきれいな状態の本だったので、とてもうれしかった。小学校1年生の子どもたちの詩がぎっしり。読むのが楽しみ。これがなんと1円だったのだ。(送料350円)帯がないのが惜しい。 『続 一年一組 せんせい、あのね』を読みだしたのだけれど、さいしょの3つの詩しかまだ読んでいないけれど、読んだ記憶があって、もしかしたら、むかし読んだことがある本なのかもしれない。一度読んだ短篇集を読み直ししても、既読感があまりないのに、子どもたちの詩はしっかり覚えてた。それだけ、子どもたちの詩が印象深い、力強いものだったというわけだろう。 二〇一八年一月十日 「機能不全」  ツイッターの機能が不全で、フォローしているひとのお名前が20人くらい、直近のものしかあらわれず、いま日知庵から帰ったのだけれど、日知庵でごちそうしてくださった方に直接メッセージしようとしてもできなかった。泰造さん、ありがとうございました。ごちそうになりました。  きょうの寝るまえの読書は、きょう届いた『続 一年一組 せんせい、あのね』にする。おやすみ、グッジョブ!  ツイッターの機能不全といえば、写真があげられなくなったのだ。FBでは、ちゃんと機能するのだけれど。 『続 一年一組 せんせい、あのね』を読み終わった。読んだ記憶のある詩がいっぱいあって、やっぱり、この本、読んだことがあるねんなあと思った。ドキッとした詩は、いま読んでもドキッとするし、感心した詩は、いま読んでも感心した。これから寝る。おやすみ。 二〇一八年一月十一日 「白湯」  1月10日で、57歳になりました。情けない57歳ですが、よろしくお願いしますね。  白湯を飲んでいる。ジジイになった気分で、寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』のつづきを。まだ冒頭の「蠅」を読んでいる。白湯のお代わりをして、つづきを読もう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一八年一月十二日 「蠅」  ジョルジュ・ランジュランの『蠅』を再読したけれど、映画の方がよかったかな。でもまあ、きょうは、そのつづきから読んで寝る。おやすみ。  日曜日にデートの予定だったが、前倒しして、あしたになった。きょうは早めに寝なくてはならない。ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』も、3つばかり読んだ。冒頭の「蠅」以外は、ふつう小説かな。 二〇一八年一月十三日 「言葉」  数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり! 二〇一八年一月十四日 「おうみん」  きょうは、滋賀県のおうみんというお店に、Tくんが連れて行ってくれました。湖畔のカフェにも連れて行ってくれました。すてきなレストランとすてきなカフェ、Tくん、ありがとう。きょうも、すてきな一日を過ごせました。  ぼくは同志社を出たけれど、(大学院も同志社だけれどね)、同志社文学なるものから、一度も原稿依頼をされたことがない。三田文学とえらい違いである。  きょうもランジュランの短篇集『蠅』のつづきを読みながら眠るとしよう。おお、マリア、きょうも、一日、ぼくの一日はおだやかでありました。あしたもまたおだやかでありますように。 二〇一八年一月十五日 「考えるロボット」  ツイッターにコピペしようとしても、できなくなった。つぎつぎツイッターの機能が不全になっていく。このあいだ、ひさびさに画像を入れられたけれど、いまではまったく画像がアップできなくなっている。FBはまったく問題がない。  きょうの寝るまえの読書は、ランジュランの短篇集『蠅』のさいごに収録されている「考えるロボット」。時間があれば、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』にするつもり。 二〇一八年一月十六日 「世界」  この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。   二〇一八年一月十七日 「いい作品」  どうやら、ぼくの見る目はかなり厳しくなっているようだ。早川書房の異色作家短篇集で見ると、一冊に一作くらいしか、いい作品がないのである。このシリーズの再読が終わったら、河出書房新社の奇想コレクションのシリーズを再読するつもりだけれど、順序を逆にした方がよかったかもしれない。それにしても、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』に収録されていた「考えるロボット」、ぜんぜん意味がわからないあらすじで、これからちょっと読み直して、自分のこころを落ち着けようと思うのだけれど、それにしても、ずいぶんひどい作品だったなあと思う。読み返すぼくもおかしいのだけれど。 二〇一八年一月十八日 「くじ」  なぜだかわからないけれど、美術手帖さんがフォローしてくださったのでフォローしかえしておいた。  画家になるのが夢だったからかもしれない。詩人なんてものになってしまったけれど。 きょうは幾何の問題で一問、解けなかったものがある。あした取り組む。  解けなかった幾何の問題が解けてほっとしている。補助線の問題なのだな。単純な問題だった。解けたあとでは、いつも、そう思う。  シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』を読んでる。どの短篇も文章がしっかりしている。読んで損はない。だけれども、おもしろいかと問われれば、いいえと言わざるを得ない。なんなんだろう。この感じは。うまいのだけれど、おもしろくないのだ。うううん。ぼくの目が厳しくなったのだろうか。 けさ見た夢はマンガのようだった。あした、書き込もう。おやすみ。 二〇一八年一月十九日 「夢」  きのう、見た夢。大洪水の連続で都市は水没している。上流は上流階級の人間が、下流は下層階級の人間が住んでいる。お金持ちの子どもはボートで、貧乏人の子どもは泳いで学校に通う。電話ボックスのなかで、少女が叫んでいる。なんでわたしは30もバイトをしなきゃなんないのよ。その生徒はテレフォンセックスの広告に目をやる。それを同級生の女の子が見てる。弁当箱をもって弁当がダメになっちゃった〜と叫ぶ男子生徒。ジャンボ赤ちゃん。下流の人間が上流の人間の子をさらって巨大化した赤ちゃん。足の裏には濡れてもにじまないペンで住所が書かれている。 雨は太陽に殺された死体だ。 二〇一八年一月二十日 「炎のなかの絵」  寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』のつづきを。いま半分くらいのところだ。とにかく文章がうまい。P・D・ジェイムズと同じく、描写がすごくうまい。ただ、読後に読んだ物語を忘れてしまうところが難点だ。そこんところ、短篇小説のいいところが抜け落ちているような気がする。  シャーリイ・ジャクスンの『くじ』おもしろくて、徹夜して、さいごに収録されている「くじ」まで読んでしまった。といっても、どうせ、タイトル作品の「くじ」しか、あしたになって憶えているものはないんだろうけれど。あ、誤植があった。271ページ上段うしろから5行目「気持ち襲われる」 これはもちろん「気持ちに襲われる」だろうね。校正、しっかりしてやってほしいね。名著の復刊だものね。  きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第七弾、ジョン・コリアの『炎のなかの絵』。コリアといえば、違う短篇集を読んだことがあるのだけれど、残酷ものが多かったような気がする。ひとつしか覚えてないけど。この短篇集は一作も読んだ記憶がない。タイトル見ただけではね。いま読んでいる、ジョン・コリアなんていうと、めっちゃ古臭くて、読んでるなんて言うと、バカにされそうだけど、まあ、いいや。シェイクスピアやゲーテが、ぼくの読書の源泉だから、ジョン・コリアなんて新しいほうだと思う。まだね。シェイクスピアやゲーテに比べてね。 あしたデートだ。うひゃ〜。クスリのんではやく寝よう。 二〇一八年一月二十一日 「断章」 なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう? (イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳) 心は心的表象像なしには、決して思惟しない。 (アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳) 二〇一八年一月二十三日 「断章」 われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか? (シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳) 光はいずこから来るのか。 (シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳) わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ (与謝野晶子) 二〇一八年一月二十四日 「血は冷たく流れる」  いま日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、早川書房の異色作家短篇集の第8巻のロバート・ブロックの『血は冷たく流れる』である。ブロックの短篇集はもう1冊、文庫で持ってたけれど、おもしろかったような気がする。1作しか覚えていないけれど。この短篇集の再読はどだろ。いいかな。  ジョン・コリアの短篇集はよかった。傑作というものはなかったけれど、どれも滋味のある、いい品物だった。 二〇一八年一月二十五日 「ル・グウィン」  アーシュラ・K・ル・グウィンが亡くなったという。本物の作家がひとり亡くなったということだ。すでに本物の作家がほとんどいなくなったこの世界で。  きょう、日知庵で、えいちゃんのツイートを見てて、ぼくのとえらい違うなあと言った。かぶってるひとって、ひとりかふたりくらいしかいないんじゃないのかな。見える風景がまったく違っていて、びっくりした。  これから読書。寝るのが遅くなった。ロバート・ブロックの短篇集『血は冷たく流れる』を読む。冒頭の作品は、きのう読んだのだけれど、もうタイトルも内容も忘れている。おお、このすさまじき忘却力よ。あなどりがたき忘却力よ。 二〇一八年一月二十六日 「断章」 一つ一つのものは自分の意味を持っている。 (リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)    その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。 (リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)  二〇一八年一月二十七日 「断章」 われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。 (レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳) 二〇一八年一月二十八日 「ひる」  きょうから再読は、早川書房の異色作家短篇集・第9弾の、ロバート・シェクリイの『無限がいっぱい』。SF作家だからSFを期待している。もう2篇、読んだけど、「ひる」なんて、ウルトラQの『バルンガ』そのものじゃん。これは憶えていた。  いまも本棚に並んだ本を抜き出しては表紙を眺めて、ああ、おもしろい本だったなと思って文庫本をつぎつぎ手にしては、本棚に戻してる。ぼくは本が好きだけど、もしかしたら本の内容より本の表紙のほうが好きなのかもしれない。 二〇一八年一月二十九日 「草野理恵子さん、廿楽順治さん」  草野理恵子さんから『Rurikarakusa』の7号を送っていただいた。収録されている「望遠鏡」という作品には、江戸川乱歩を髣髴とさせるタイトルのように、不気味な世界が描かれていた。最終連で、世界を覗く二種類の「望遠鏡」の提示に驚かされた。世界の選択か、と感慨深いものがこころのなかに生じた。もう一篇収録されている草野理恵子さんの作品「缶詰工場」も、アイデアが秀逸で、ぼくが草野さんをうらやましく思う理由のひとつだ。  廿楽順治さんから、『Down Beat』の11号を送っていただいた。収録されている廿楽さんの「大森貝塚」と「高幡不動様」を読ませていただいた。言葉が自在だなという印象を受ける。うまいものだなと思う。ぼくも自在に言葉を操ってみたいなと思った。どこからアイデアが浮かぶのだろう。不思議に思う。 二〇一八年一月三十日 「蝸牛。」 雨に触れると雨になる蝸牛。 二〇一八年一月三十一日 「美術手帖」  いま、美術手帖の編集長の柿下奈月さんにメールをお送りしたのだけれど、雑誌の編集のお仕事はたいへんだなと改めて思わされた。来月の2月17日に販売される雑誌の「美術手帖」の3月号が「ことば」の特集号で、ぼくの詩が採り上げていただけるのだけれど、メールのやりとりだけでも何十人となさっておられるのだと思うと、気が遠くなるような気がして、雑誌の編集って、すごいたいへんなお仕事だなって思った。ぼくも、同人誌の Oracle の編集長をしていて、何万枚ものコピーをして、それを上梓するために印刷所に持って行ったりしていたことがあるけれど、いま思い出しても、ぞっとする経験だった。 『マールボロ。』は、シンちゃんに、東京にいたときの思い出をルーズリーフに書いてと言って書いてもらった言葉を、ぼくが切り刻んでつないだだけの作品で、引用だけでつくった詩のなかでもとくべつな作品だった。それを読んだシンちゃんの感想は、「これはオレじゃない。」だった。詩論の核になった。『マールボロ。』は、ぼくの詩論の出発点になった作品だった。抽出する思い出の選択の違いや、その思い出たちの順番を替えただけで、別の人間になるんだね。何人ものぼく、何人ものきみがいるってことだね。いくつもの作品が同時に仕上がるってこと。『順列 並べ替え詩。3×2×1』のようにね。いや、違う。違う、違う。それは、作品上のことだけで、人生そのものは、時間の順番も、場所の順番も、出来事の順番も一つしかない、一回きり、一度きりの、ただ一つのものだったね。そう。人生と作品は区別しなきゃいけないね。あれ? それとも区別できないものなのかな。むずかしいね。どだろ。そいえば、このことを「万華鏡」にたとえて書いたことがあったな。鏡の筒のなかに入った、いろいろな色の、いろいろな形のプラスチック片が、筒を動かすたんびに、いろいろな景色をつくりだすのを眺めているのと比べたことがあったな。どれくらいむかしに書いたっけ。忘れちゃったな。10年、20年、まあ、そんなくらいのむかしのことだったと思うけど。なにに書いたっけ。詩論詩集の『The Wasteless Land.II』だったかな。いや、まだ未発表の詩論詩だったかな。なぞだ。あまりにも、たくさん書きすぎて、わからなくなっている。まあ、いいや。未発表の詩論詩たちも、そのうち文学極道に投稿しよう。 ---------------------------- (ファイルの終わり)