藤崎 褥 2004年10月23日19時41分から2005年3月23日10時59分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]白い豹/藤崎 褥[2004年10月23日19時41分]  僕は最近、自分の事を「岡山の白い豹」と呼ぶのに凝っている。  と、言うのも単に白い車に乗っているからである。  …昔から僕は物事を大げさに言うと、よく言われるが、この年になっても治らない。  さて、その白い豹であるが、オープンカーである。  購入前夜辺りは屋根が開くという事実に興奮して、なかなか眠れない夜もすごしがちなのであったが、そういった甘い夢は意外と容易く打ち破られる事となった。  このオープンカーという乗り物、意外に欠点が多いのだ。  まず第一に屋根を開けられる機会がそれほど無いのである。  まず、降水確率0〜30%までである事が重大である。  路肩で慌てて幌を装着するのは、ダサい。また、場所によっては車をよけるところまで車という文明機器に乗りながら雨に打たれるという、ちょっとした矛盾に苛まされる事になる。  下手をすれば、カーステなどがノイズなどを奏で始めるという、困ったシチュエーションも考えられるのである。オープンカーにとっては天気予報の確認は重大なテーマである。  僕もさりげなく、携帯電話の有料天気予報サービスを受信しており、最低でも一日に四回の最新の天気予報が配信される環境に居る。この程度はオープンカーの維持費の内なのである。  そして次に重要なのが気温である。  意外と知られていない事実だが、オープンカーの最大の敵は暑さである。オープンカーはその用途から、屋根を外しても、それほど風が入らないように作られている。  なので寒い時には、屋根を開けてもヒーターを直接体に当たるように吹かしておけば、意外と平和である。  だが、暑さだけは上からやってくる。逃げ場が無いのである。  そして、文明機器の中で熱中症に苦しむという、ちょっとした矛盾に苛まされる事になる。  では、春や秋は平穏なのか?  …実はそうでもない。  春は花粉や桜、秋は虫や枯れ葉が天より舞い降りてくる。  意外にオープンカー乗りは晩秋から冬を愛好するのである。  更にバスが余り居ない道を選ぶことも重大である。  屋根が無い為に周囲から丸見えなのは仕方ないとしても、やはりバスのような完全に真上から多数の視線を浴びるのは、なにやら不穏な雰囲気を感じずにはいられないのである。フッと顔でも上げようものなら、不特定多数の人と視線が合ってしまう。  なかなか、オープンカーも楽ではない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]気まずいア・イ・ツ/藤崎 褥[2004年11月18日21時38分]  どのような社会に居たとしても、やはり人間関係というものは難しいものだが、特に男が苦手とする人間関係がある。  それは「彼女の友人」である。  彼女の友人の中にも幾つかパターンがあり、中には本当に仲良くできる人もいるのだが、本当に「彼女の友人」でしかない人物は非常に気まずい。  基本的には他人である。  たまに話題に登場したりもするのだが、距離感から言えば見知らぬ他人でしかない。  しかし、である。  たまにやってくるのである。  ちょっと出掛ける時になんかに「明日、○○ちゃんも連れて行っていい?」と、質問の形式を取った決定事項が伝えられる。  そして翌日に待ち合わせ場所には見知らぬ他人が馴れ馴れしい顔で手を振って待っていてくれたりするのである。  基本的には車などの狭い空間の中に見知らぬ他人が居るというだけでも気まずいのだが、男はこうした人物と適度な関係を築かなければならないのだ。  例えば僕が黙りこくって、彼女と友人の二人で喋るようなシチュエーションにしたとする。すると友人は「あの子の彼氏、なんか黙ってて暗かった。ホント、気まずかったぁ」等と、彼女の友人の友人辺りに報告するのである。  そして更には彼女から「ちょっとくらい喋ってよ、気まずいなぁ、本当」と、明らかに一番気まずく孤独な思いをした僕が気まずいという言葉を浴びせかけられる羽目に合ってしまう。  かといって、頑張って喋ったりするのも不正解なのである。そんな事をすると友人は「あの子の彼氏、なんかうるさくってうざかった。ホント、疲れたぁ」等と、彼女の友人の友人辺りに報告するのである。  そして更には彼女から「今日、なんか不自然だったよ」と、努力を否定される羽目になり、僕は心身ともに疲れ果ててしまうのである。  どちらにもならず、当たり障りの無い関係を築くというのは意識的に行なおうとすると、非常に難しい。  しかし逆に彼女は気楽なもので、男の友人と会う時に連れていても、黙っていれば「清楚」などという、なんだか奇麗そうな言葉で語られ、喋れば「明るくて可愛い」等と、明らかに男の場合と違う言葉で語られるのである。  男は女に弱い生き物だとつくづく思う。  …しかし、なんとかならんか、彼女の友人のあの試験官のような視線…。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]男とトイレと悲哀/藤崎 褥[2004年11月28日13時41分]  よくよく考えてみると、男のトイレというのはなにやら迫害を受けているような気がする。小便の場合は、トイレへ入れば誰にでも見える便器に向かって用を足さなければならないのである。  日頃、どのようにかっちょよく決めている人でも、放水中の後姿というのは妙に切ないものである。それを公然とさらしながらやらねばならない。  特に疑問を感じるのが、お互いの表情が見えるのである。これは女性の方にはなかなか体験できない。用を足している時にフッと視線が交差したりするのである。  ちょっと、複雑である。  なんちゅうか、用を足すのにわがままを言うつもりは無いが、そういう時くらい、ちょっと一人にさせてくれないかね?という気持ちにもなるのである。  しかし、男というのは誇り高き生き物なので、なかなか個室へ行く事は出来ない。  いや、別に本当に大きい用を足したいのであれば堂々と入るのだが、してもないのに「あ、大きいのを放出してきたな。すっきりした顔しやがって、この野郎…」という目で見られるのが非常に切ないのである。  出来ればその場で出会った人全てに「違います、違います。ちょっと疲れたので一人になりたくて」と説明して回りたいくらいだが、それはなかなか出来ないし、トイレへ来ている人々というのは、皆無口なのである。  だから、男は疲れていたり、ちょっと一人になりたくても最大限個室へ入ろうとはしない。  何の気を使うことも無く個室へ入っていける女性トイレ…実に羨ましいのである。  それだけではない。女性トイレへ男が入れば犯罪になる。しかし、男のトイレにはやたらと女が居るのである。行楽日和の観光地のトイレにはおばちゃんが駆け込んでくる事は珍しくないし、普通の日でも掃除のおばちゃんが平気な顔をして入ってくるのである。  その度に男は少し身を小さくして、コソコソと出て行くのである。僕はこの場を借りて声を大にして言いたい。男性トイレにプライバシーと安らぎを! ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]トイレの花子さん☆/藤崎 褥[2005年3月23日10時59分]  学校の怪談といえば、やはり代表はトイレの花子さんではないだろうか。  花子さんとは学校に伝わる女子生徒の幽霊の総称で、良くトイレに出没するのが特徴で、その起源はそれぞれの学校でかつて実際に何らかの事故などで死亡した生徒の存在であったり、時には全く架空の想像上の存在であったりするようである。  僕の通っていた小学校にも、やはり花子さんの怪談話が伝わっていた。  うちの学校に伝わる花子さんは体育館の屋根の上に乗ってしまったボールを取るために、体育館のすぐそばの大木に登って、屋根に移動しようした際にバランスを崩して落下し、お亡くなりになった女子生徒だった。  …実にたくましい女子生徒である。  体育館の屋根の上にボールを跳ね上げた挙句に、木に登ってボールを取りに行こうとする少女。日本は実に惜しい人材を無くしたものである。  僕が小学校の頃は、ちょうどそういった怪談が少しブームになっている時期だったので、様々な情報が錯綜していた事もあり、クラス全員でトイレの花子さんに会おうというイベントを行った事がある。  トイレの花子さんはトイレの13番目に入っており、ノックをして名前を呼びかけると返事があるという伝聞があったのである。  そして男子生徒は女子トイレの外で有事に備え、女子生徒たちがトイレの中に入って行った…のだが、ノックする音も、花子さんを呼びかける声も聞こえない。  どうしたのだろうと思っていると、女子生徒たちがトイレから出てきた。  そして、こう言った。  「うちのトイレ、6番目までしかなかった…」  さすが小学生である。最も大切な要素を忘れていたのである。  六つしかトイレがないのでは、花子さんを呼ぶことが出来ないではないか!  …こうして僕らは一つ大人になった。  ところでその時、姉も同様のブームの中にいたので、同じように花子さんと触れ合う為のおまじないをしていた。  それがトイレにキュウリを置くという儀式である。  これは花子さんの好物がキュウリなので、トイレにそれを置いていくと、次の日には食べられており、キュウリは跡形も無く消え去っているというものである。  これならシャイな花子さんと間接的に触れ合う事が出来るではないか!という事である。  さすが上級生、僕らとは一味違う、トイレの数に左右されない儀式だなぁ〜と、つくづく感心したものであるが、今になってみればどっちもやはりガキだったなぁ…。  それで実際に次の日に学校に行って見ると、本当にキュウリがなくなっているのである!と、学校中で話題になったもので、13番目のトイレ事件で、少しすさんでいた僕達のクラスにも、子供らしい純真な心が蘇ったのである。  ただ当時から気になっていたのだが、キュウリが大好物なのは花子さんではなく、「河童」のような気がするのだが…。  最後にこの場を借りて、生徒達がしつこく連日に渡って設置していたトイレのキュウリを毎日片付けて下さった、学校の用務員の方に、心より御礼申し上げます。  多発するキュウリの怪事件の犯人は僕達でした。  子供の夢を守ってくれて有難う。  そして、相当のスポーツマンで、キュウリが大好物という一流アスリートのような印象の我が校の花子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。 ---------------------------- (ファイルの終わり)