石村 2018年11月25日0時08分から2021年11月10日21時27分まで ---------------------------- [自由詩]静かさ/窓/祈り/石村[2018年11月25日0時08分]   静かさ 静かさ、といふ音があると思ひます。 秋の夜長、しをれかけた百合を見ながら 静かさに耳を傾けます。 (二〇一八年十一月八日)   窓 十一月のあかるい午後です。 野原いちめんにすすきが波打つてゐます。 野原のまんなかに窓がうかんでゐます。 窓の向かうは、雪がちらついてゐます。 すつかり葉を落とした立ち木もみえます。 小さい子供が、窓に手をかけてのぞいてゐます。 寒さうな手に、姉さんが手をかさねて云ふのです。 行つてはいけない、と あたらしい風が吹き 季節が変はります。 ちやうど 二本のすすきが枯れたところです。 (二〇一八年十一月十二日)   祈り 血がながれてゐるが それでいい ひとはあるいてゆく いのりのかたちで (二〇一八年十一月十六日) ---------------------------- [自由詩]わかりやすい詩/石村[2018年12月5日12時45分] 暮れて行く秋 まつすぐな道 銀杏の葉のそよぎ 感じてごらん たつた今うしなはれた いくつもの命の分だけ 透けて行く風を たつた今うまれた いくつもの命の分だけ 澄んだ空気がふるへる かすかなひびきを 感じてごらん 二十億光年はなれた ひとりきりの星に そのかすかなひびきが 伝はる一瞬 そのやうに あなたのこころにとどく ---------------------------- [自由詩]初冬小曲/石村[2018年12月13日23時18分] くらい 翼をひろげて 古い調べから とほく紡がれ 凍てついた 水を恋ふ しづかな もの ひとの姿を 失つた日 ひとの心を おそれた日 雪を待つ 地へと降り立ち ひそやかに 宿る 遺され 忘れられ なほ命であれ! たけだけしく ほとばしり もだえ おののき 身をふるはせ ひとつきり 憧れの螺旋をえがいて はてることなく 高く うたひ出せ お前 遥かなもの しづかな ものよ ---------------------------- [自由詩]ちひさな国/石村[2018年12月22日17時15分] おとぎ話の中の国は もう わたしのことをおぼえてゐません キセルをくはへたお爺さんは もう わたしのことをおぼえてゐません アコーディオンをかかへた青年と まきばで働くやさしい娘さんは もう わたしのことをおぼえてゐません とんぼをとりに行つたこどもたち 巣穴にひそんでゐる野うさぎたち 婚礼の準備をしてゐる村びとたち おだやかな風がふく ちひさな国は もう だれのこともおぼえてゐません 布張りの本の手ざはりは いつも あたたかでした その本は もう ひらかれません よごれた星にすむ わたしたちみんな わすれられてしまつたから ---------------------------- [自由詩]星崩れ症候群/石村[2018年12月30日13時45分] 聖書をよく焚いてから飴玉を投げ上げてください。 反転します。  落下しない  林檎  蜜柑  それから  檸檬。 安物です、この宇宙は。 (モーツァルトはK.516クインテットの楽譜の余白に「演奏不能」と落書きし、ピリオドの代はりに鼻くそをなすり付けました。冬の寒い日、ヴィーンで。) 預言者はいつも暇さうです。 良く晴れた午後に街の広場で娘たちが輪になつて踊つてゐます。 「宝石を持つてきましたか、先生?  もう時間がないのです。診察を始めてください。」 鳥たちがいつせいに飛び立ち、銀河を啄み始めました! おそろしいことです、みるみる暗くなつてきましたよ。 眠る必要はありません。永遠は無事凍結されました。 神話を一週間分出しておきます。来週また来てください。 カルテに書き忘れたどうでもよいひと言。 星崩れ症候群。 (二〇一八年十一月二十七日) ---------------------------- [自由詩]一月一日のバッハ(再掲)/石村[2019年1月2日17時40分] 一月一日、お正月。軒さきを小さな人がとほつた。 岬の根元にある町の上に、夏の海のやうな空がひろがつてゐる。 中学校の音楽室で、若い先生がバッハのオルガン曲をひいてゐる。 春には結婚するさうだ。角の煙草屋のはなし。 三軒となりの家の前で、七輪と網を出してお父さんが餅を焼いてゐる。 小さい姉さんが指をくはへながら、膨らむ餅を見てゐる。 もつと小さい妹は、姉さんの髪をくはへながら、お父さんの手を見てゐる。 寒いはずだのに頬が赤らんでゐないのは、何かの病気だらうか。 一月五日の朝、三軒となりの家の下の子が急に死んだといふはなしを角の煙草屋できかされる。 とおもつたすぐ後に、妹はくはへてゐた姉さんの髪を離して地べたにうずくまつた。 一月一日、お正月。軒さきをまた小さな人がとほつた。 今日はよく晴れてゐる。先生はまだバッハをひいてゐる。 (二〇一七年一月一日) ---------------------------- [自由詩]秘法(第一巻)ほか九篇/石村[2019年2月1日12時06分] (*筆者より―― 昨年暮れ辺りに自分のかくものがひどく拙くなつてゐることに気付き暫く充電することに決めた。その拙さ加減は今回の投稿作をご覧になる諸兄の明察に委ねたいが、ともあれかいてしまつたものは本フォーラムに全て記録・保管しておきたいので、前回投稿以来フォーラムに載せてゐない複数の作を一度に掲載することにした。さうすれば読者諸兄にあつては詰まらぬ作品をひとつひとつ閲覧せねばならぬ面倒も省けるといふものだらう。)   秘法(第一巻)    ? 骰子蹴つて鍋に放り込む 万華鏡のアンチテーゼ 漆黒。    ? ばら瑠璃(月夜のトランプ) 「ペルシャンブルーの砂漠がですね、  象の骨を磨いてゐたのですよ。」 キャラバン隊のポスターを剥がす少女の初恋。    ? 薄荷ラッパのせいで桟橋落ちたのには困つた。 そこで 幽玄。 (宝船を解体してからこの旅を終はらせませう) ドビュッシーの蒔絵は未完成でしたが――気にしません、私。    ? (クレーの帽子)    ? 虹の線形代数。    ? 蝶がプリズムの先端でゆれてゐる午後。 アテネの路傍では哲学の授業がつづいてゐます。    ? (まだ歌つてゐますね!)  Einsatz! それからクレタ島に行つてきます。 鳩を取り返しに。    ?    ?    ? (ユピテル魔方陣でお別れします) 姉さんのリボンの裏に刺繍されてゐた秘法です。 「光あれ」と 二度と云つてはならない。 (二〇一八年十一月二十七日)   十二月スケッチ とほい国のひとから 今年も はつ雪のたよりが届きました 今日はきれいな朝です すんだ まるい空に たかく フルートがきこえます モーツアルトがかき忘れた音符です いろんなことが 思ひ出されます さよならあ と云つて その子は落ちていきました かへりおくれた鳥のやうに おぼえてゐますか もう 冬です (二〇一八年十二月四日)   太陽の塔 退屈で残酷な世界は 知らないうちにほろびてゐた 神さまは 人間をこさへたことさえわすれてゐた 太陽の塔をみあげて 「よくできてゐるな」と感心し 二百五十六万年ぶりの定期巡回を 終へたのだつた (二〇一八年十二月五日)   冬の室内 ふりつむ雪を温める 優しい姉妹の憂愁(メランコリア)   琥珀 ちひさくなつてゆくいきもの (白亜紀の蝶がしづかに目をさます) (二〇一八年十二月十二日)   銀世界 雪に埋れた日時計が時を刻む 終末まであと二分。 (二〇一八年十二月十五日)   墓碑銘 どうしやうもなくて 笛を吹いてくらしてゐた王様が 楡の木かげで 息をひきとつた 家来たちが宮廷で グローバリズムと地球温暖化について ながながと議論してゐる間に 行方不明となつてから 十年後のことだつた 会議は今もつづいてをり 解決を見るけはひもなく 十年すぎても家来たちは 王様が行方不明であることに 気付いてゐないのであつた 森のきこりの息子がひとり 楡の根元に穴をほり 王様のなきがらと 笛をうづめた それから小刀をとりだして 楡の木の幹に 「ぼくのともだち」 と彫りつけて 目をつぶり 手をあはせた (二〇一八年十二月十七日)   降雪 冬の底にかさなつて行く沈黙 ああ さうか これは ことばのない いのりのやうなもの 白くなつた世界に 目をつぶりたくなる (二〇一八年十二月二十一日)   冬支度 星あかり しづかに おろかなる 男ひとり 影を置く 月は凍つてゐて ものみな息を凝らし 時の刻みに 耳傾ける (硬い空気に何とも  良く響くのだ それが)  幼くて逝きし者たちの  明澄さこそ羨ましい!  何をか云はん  俺よ 何をか云はん?  老いさらばへた病み犬の  今はの際の呟きか    はたまた  三匹の羊どもに逃げられた  冴えない羊飼ひがこぼす  愚痴でもあるか?  どつちにせよ  似たやうなもんだ  冬の落葉にうづもれた  こがね虫の乾いた死骸が  ときをりからつ風に吹かれて  立てる音みたやうなものだ  俺よ  おまへはつくづく駄目なやつだ  駄目なやつだから  とつとと命を仕舞ふ  支度でもするさ…… 星あかり しづかに おろかなる 男ひとり 影を置く 月は凍つてゐて ものみな息を凝らし 時の刻みに 耳傾ける 冬だ 支度をするがいい (二〇一八年十二月三十日)   罪 いいんだ 花は さかなくてもいいんだ いいんだ 麥の穂は みのらなくてもいいんだ いいんだ うたは うたはれなくても 笛は ふかれなくても 絵は えがかれなくても 木は 彫られなくても なみだは こぼれなくても 空をふるはせ ひびくものらよ どうして うまれてくるのか その罪に をののきながら (二〇一八年一月二日) ---------------------------- [自由詩]最終電車/石村[2019年3月5日15時45分] *筆者より―― 旧稿を見返してゐて、本フォーラムに掲載してゐなかつた作品があることに気付いた。以前のアカウントを消して以降、復帰するまでの間にかいたものは随時掲載していた積りだつたがどういふわけか洩れていたのである。人目に触れる価値のない作品とも思へないので今回掲載することにした。前のアカウント消滅時に消えた旧作もいずれフォーラム上でアーカイブ化しようと考へてゐる。いつくたばつてもとにかく作品は残ると思へば安心できるから、といふだけの理由だが。 あたたかな春の日の午後 なくしものをさがしにいつた 一両編成の電車に乗つて なつかしい駅へ 無人改札を抜けて 翳のない あかるい駅前通りを まつすぐあるいて海岸へ そこから駱駝に乗つて 砂丘を越えて また砂丘を越えて もひとつ砂丘を越えて エメラルドブルーの水辺へ 黄色い櫂のついた 薄桃色のボートに乗り込んで 水平線へ 空と海とが出合ふさかひ目で 姉さんから借りてきた 銀のかんざしをこの星にさす 乙女のためいきのやうな音がして 四囲をかこむ青い風船はたちまち小さくなり わたしは引力をはなれる ほら ミルキー・ウエイ マントを羽織つた少年が 玉乗りしながら 私に目をやり につこり笑つて 「よくきたね」 ありがたう しかしわたしは先をいそぐのだ おぢいさんにもらつた羊皮紙の地図をたよりに もくもくと漕いでいく いつしんに ひたすらに なくしものは まだそこにあるのか すてられてはゐないか ぬすまれてはゐないか わたしの気はひどく焦るのだ ふりしきる 粉雪をつき抜けるやうに 乳白色の星々がとびすぎてゆくなかを せつせと漕いで また漕いで やがて さみしい外れのあたりにくると 川幅がだんだんほそくなる おぢいさんの地図はここまでだ 大丈夫 ここまでくればもうわかる あとは一本道だ 七十六兆の引力ベクトルが 相殺される空白に沿つて 通じてゐる ひと筋の透明な航路 やがて星々がまばらになり ぽつり ぽつりときえていき みつつ ふたつ さいごのひとつ そして終点 ひかりもなく 暗闇もない ゼロと無限が たがひにぐるりとまはつて ここでくつついてゐる たしかにここだ はじめての夢がわき出した ひろがりも ふかさもない ひとつの点 やうやく着いた かるく眼をとぢ ひと息吸つて それからくるりと向き直る とほくにひろがる 銀河の全景 やあ このせいせいした気分はどうだらう この星々と そこに棲む  生きとし生ける あらゆるものたちを まとめて抱きしめてやりたい さうだつた 時がうまれたその瞬間 わたしはたしかに さうおもつたのだ これでいい じゆうぶんだ なくしたものは もうなにもない さあ かへらう わたしはまたくるりと向き直り 姉さんの銀のかんざしを さいしよの点に突きさす わたしをとりまく黒い風船はみるみる縮んで かんざしの先に吸ひ込まれ 水色の春のそらが頭上にふくらみ 波がゆするボートの上で  わたしは潮の香を嗅いだ まだ日は暮れてない 浜辺へ戻らう 駅へ急がう 最終電車に遅れないやうに 姉さんにかんざしをかへしに とうにほろびてゐる 春の日のまちに (二〇一七年二月十六日) ---------------------------- [自由詩]旧作アーカイブ1(二〇一五年十二月)/石村[2019年3月11日13時36分] (*筆者より――筆者が本フォーラムでの以前のアカウントで投稿した作品はかなりの数になるが、アカウントの抹消に伴ひそれら作品も消去された。細かく言ふと二〇一五年十二月から二〇一七年二月までの間に書かれたもの。これを随時アーカイブとして投稿し、フォーラム上に保管しておかうと思ひ立つた。実際に目を通して下さる奇特な方は少なからうと思ふけれど、私の手元に死蔵しておくより僅かなりとも人目に触れる可能性のある場に晒しておけば、まだしも作品の生命が保存されることにもならう。どれほどみすぼらしからうが貧しからうが、書かれたものにはひとに読まれる機会を得る権利があり、作者といへどその権利を封殺すべきではない。)   菫(すみれ) やさしい人たちから遠く離れて 忘却の季節を通り抜けて ひややかな秋の角笛に心ざわめかせながら 胸に深くつき刺さる微かな痛みだけを なぜか大切にもち歩いてきた 黄昏時の懐かしい路地裏で 捨てられた昔の時計が今も時を刻む 神々の幼な子たちが告げる一瞬の永遠は 貧しい心にはすみ切つたかなしみの形でしか響きはしない 悲しいことばかりだつた どこにも正しい言葉はなかつた 惨めな魂にばかり遭ひ その誰よりも僕が惨めだつた 美しかつた神殿が崩れ落ちた時 たれもがそれを悲しんだ いつかその人々も去り その悲しみたちも忘れられた その片隅にあどけなく咲いてゐた ひと叢の菫(すみれ)の行く末を 見守つてゐたのは君だけだつた ため息の中で数億年が過ぎ その頃と同じ青さの空の下にゐる 僕はまたここに戻つてきた ほんたうに大切だつたただひとつの言葉を 今なら 君に云ふことができる 星々のめぐりは もう 終はろうとしてゐるのかもしれないけれど やさしい人たちは いつか帰つてくる いつでもそこの木蔭で 黄菫たちに囲まれて いとけない眠りを眠つてゐる 君のもとへ (二〇一五年十二月三日)   小さな風 麗かな春の日に 星をめざして一心に飛んでいつた燕が 今朝 そこの丘の端に落ちて死んだ たれも知らなかつた お前がどれほどそこに近付いたかを あとひと飛びといふところで力尽きた お前の望みの気高さを 思ひ上がつた科学にも 卑劣な物理法則にも 屈従を説く哲学にも耳を貸すことなく お前は一心に突き抜けた その広大な空間を ただひとつの約束を 果たすために ほんたうにあとひと飛びといふところで 残された最後の羽根が しづかに燃え尽きた たれも知らなかつた 仲良しだつた森の妖精が  一緒に歌をうたつて過ごしたあの丘の外れで  しめやかな春の雨に濡れた亡骸を見た その悲しみを 妖精は丘の外れで いつまでも泣き暮らした 季節は幾度となくめぐり それでも妖精は泣き暮らし いつしかその姿は淡くなり ―― 薄れゆき ―― ―― 丘々を吹き渡る小さな風となり ―― 麗かな春の日に あの人のために野花を摘んでゐた 少女の頬に そつと触れた 少女は 知らなかつた なぜ自分が泣いてゐるのかを   (二〇一五年十二月二十日)   花束 遥かな、遥かなむかし 時がうまれて間もない頃 夢見がちなひとりの天使が まだ小さかつた宇宙のかたすみに いつまでも枯れることのない 花束を投げた この宇宙をどこまでも広げていく あらゆる命たちが ひかれ合ひ 巡り合ひ 触れ合ひ 心通はせる そのよろこびを 絶やすことのないやうに ―― 彼らが心を向けさえすれば いつでもそこから 色とりどりのいとほしさが薫り立ち その心をみたすやうに ―― と その命たちは かなり愚かではあつたが 素直でやさしい心映へをしてゐた やがて彼らは 降りていつた 小さな青い星に 丘の上で 川のほとりで 薫る風の中で しんしんと降りつむ雪の中で そぼふる温かい雨の中で その花束をたずさへて 彼らはそれぞれに巡り合ひ 触れ合ひ 心通はせた ―― その笑顔の美しかつたこと! 花束はいつまでも 枯れることはなかつたが 命たちはやがて 人と呼ばれるやうになり 愚かにも 互ひを傷付け 自らを憐れみ 蔑み 貶め 犯した罪にふさはしい 非道な獣にならうと決めた もちろんそれは嘘だつたので 彼らの心は安らがなかつた 花束はいつまでも枯れずに そこにあつた 人はなほも むなしい努力を続けた  たれもがみな 非道な獣であることが いかに正しいかを示すために 互ひに非道な行ひを 重ね続けた 互ひを憎み 恨み 傷付け 責め苛み 何万年も同じことを繰り返したが もちろんすべてが嘘だつたので  彼らの心は 安らがなかつた 花束はいつまでも枯れずに そこにあつた 花束に心を向けることは いかにもたやすいことであつたので さうしないためには 英雄的な苦心が必要だつた 人は必死だつた ありとあらゆる偽りを考え付き 実行し 複雑な上にも複雑な思想を築き上げ 何万巻もの書物をまとめたが もちろんすべてが嘘だつたので  彼らの心は 安らがなかつた 花束はいつまでも枯れずに そこにあつた 花束はいつでも そこにある 君が心を向けさえすれば いつでもそこから 色とりどりのいとほしさが薫り立ち 君の心をみたす 愛するひとを想ふとき 友のしあはせを願ふとき 君の心に いつはりがないとき 君の笑顔が美しいとき 嘘をつくのは止めよう 君のまごころ  それが君だ 枯れることのない花束をたずさへて 僕らはどこまでも生きていく この宇宙を ちよつと愚かだけど 素直でやさしい命たち 丘の上で 川のほとりで 薫る風の中で しんしんと降りつむ雪の中で そぼふる温かい雨の中で この花束をたずさへて 今日 僕らは巡り合ふ  こみ上げてくるやうな笑顔を向け合ひながら そしてふたつの心が安らぐ 夢見がちな天使がほつとため息をつく (二〇一五年十二月二十五日)   雪が囁く しづかな 夜に きこえない 音で 或るかなしみが お前の心に かさなつた 雪の上に もうひとつの雪が ふれ ひとつになるやうに 僕は何も 囁かなかつた  何ゆえに 僕は出て行くのだらう そして 何処へ 忍び入る 恐れ お前はすでに 僕から遠い ひとびとは ああ ああ はなれていつた ふたつの想ひに 欠けてゐたものはなかつた それでも 雪は ふり続く 古い儀式のやうに かへる場所のない 子どものやうに ひとはたたずむ お前が見たものを 僕は見なかつた さうして絆が 解(ほど)けてゆくと どうして お前に わかるだらう どうして 僕に わかるだらう? (二〇一五年十二月二十九日) ---------------------------- [自由詩]早春/石村[2019年3月14日12時46分] はるのいろが のはらをそめて きれいだね ぼんやりかすんだくうきに ひかりがきらきらちらばつて きれいだね ひとびとは みな やはらかいいろの そらをながめてゐる ぼんやりしたかほで しづかにふるへる こころだけになつて そのふぜいが なんとも いいね きれいだ うん きれいだね (二〇一八年二月二十六日) ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]なぜ詩を書くのか/石村[2019年3月15日14時38分]  詩は生きるために必要なものではない。  例えば貧しく混乱した世の中では人々は生きていくことに必死で、詩どころではない。豊かで平和な世の中になると今度はしなくてはならないことが多すぎて、やはり詩のことは忘れられる。誰にもやるべき仕事、こなすべき用事、読むべき本、考えるべき問題、喰うべきもの、飲むべきもの、見るべきもの、聞くべきもの、べきべきものがいくつもあって、その中に詩は含まれない。生きるためにやるべきことが多すぎて、生きるということに使う時間などないから、詩を読む時間はもちろんない。  日常生活の中で、詩はよほどの暇人以外には必要とされていない。詩を書くなどというのはこの世の中で最も不要不急の所業のひとつで、詩を書く以外に能のない私などはこの世の何の役にも立たぬ無用者だ。詩は生きるために必要なものではない。それでいい。ひとが己のいのち以外のすべてを失った時、生死の狭間に呆然と立ち竦んでいる時、いつか心に刻まれた言葉だけがまだ残っていてその人に響き、語り掛けてくる、そのような言葉があるとしたらそれが詩だ。  いのちひとつだけの素裸になった人間の手元に残された唯一のものであるような、そういう言葉を残すために、私は詩を書き続けている。 ---------------------------- [自由詩]旧作アーカイブ2(二〇一六年一月)/石村[2019年3月18日18時01分] (*筆者より――筆者が本フォーラムでの以前のアカウントで投稿した作品はかなりの数になるが、アカウントの抹消に伴ひそれら作品も消去された。細かく言ふと二〇一五年十二月から二〇一七年二月までの間に書かれたもの。これを随時アーカイブとして投稿し、フォーラム上に保管しておかうと思ひ立つた。実際に目を通して下さる奇特な方は少なからうと思ふけれど、私の手元に死蔵しておくより僅かなりとも人目に触れる可能性のある場に晒しておけば、まだしも作品の生命が保存されることにもならう。どれほどみすぼらしからうが貧しからうが、書かれたものにはひとに読まれる機会を得る権利があり、作者といへどその権利を封殺すべきではない。)   しじま 涙が しづかに 零れていく 思ひよりも 淡い 何かのゆえに 雪よりも 軽く 心が悲しむ ひとはゐない どこにも 空はある ―― 雪は舞つてゐる ―― そして涙が しづかに 零れていく 親しかつた季節を 私は 思ひ出さうとする しかし それはいつも 行つてしまふ どこかへ 目覚めるとやがて 散り散りになる 夢に似てゐる 雪の夜の しじまは深く ひとの心を 私は はかることができない 涙が しづかに 零れていく それは お前のものなのか それとも 私の 多くの命が 今 ここを去つてゐるだろう かすかな鈴の音(ね)が 白い夜の底に溶け入る間に そしてまた 多くの命が ここに来るだらう 私は語りかける ―― だが何に向かつてか? ひとはゐない どこにも 空はある ―― 雪は舞つてゐる ―― そして涙が しづかに 零れていく (二〇一六年一月四日)   早い春の日に 或る季節が 弔ひを終へた あかるい午後のこと 名もない花が いちめんに咲く野原で 少女が いつまでも 泣いてゐる (伝へられない 想ひのために) 失くされた 魂ばかりが 何もない空を 愉しげに わたつてゆく いつもさうだ! かへつてこない者たちだけだ 心からの歌を したしくかはすことができるのは ―― お前はしきりに 何ごとかを告げる 生きてゐる者たちへ 肉に棲む者に それは きこえはしないのに うす青い風の お前は かなしんでゐる 哀れなひとびとを お前の淡いからだから響く 声はきかれることはない いつお前は 気付くだらう 真実の言葉は 優しすぎるので かれらの心に ふれることはない と 名もない花が いちめんに咲く野原で 泣きくたびれて眠つてしまつた 少女の見る夢を お前の声が 響いて過ぎていく 夢の中で 少女はしあはせだつた (お前の懐かしい声と 優しい目と……) 伝へられない想ひを もう嘆くことはなかつた あかるい午後の みじかいまどろみの中で かれもまた 同じ夢に目覚めた お前の声に 想ひはひとつに通ひ 何も告げる必要はなかつた あかるい午後に ふたつの笑顔だけだつた 早い春の日のこと (二〇一六年一月八日)   春のリート さやうなら そしてひとは行つてしまつた さやうなら 春がもう そこまで近付いてゐる 地のうすい緑に 私は目をやる それから空に 私はこれを はなれることができない 数兆年の 愚かな思念で練り固められた このぶざまな塊を さやうなら また君の声がきこえる ああ それでも自然は美しい 地は 空は 遥かなものと ひとびとは自ら慰める  私はかれらをあざ笑ふ ―― たれよりも笑ふべきものは私であるのに! うすく霞んだ空のかなたを 美しいものたちが通り過ぎる (ほらあれを)私は指さす 今度はかれらが私をあざ笑ふ! それでも命は そこここで芽吹いてゐる やはらかな陽に 溶けかかつた霜が輝いてゐる そして喜々として 鳥たちはうたふ また この季節が来たと それでも私の心は喜ばない――ずつと望んできたものは いつもここにはない 君はもう とうにそれを知つてゐた  そしてひとは行つてしまつた さやうなら 春がもう そこまで近付いてゐる 私はこれを はなれることができない さやうなら また君の声がきこえる (二〇一六年一月十三日)   笛 ひとりで 笛を 吹いてゐる 何だらう この痛みは ひしひしと 胸にささつてくる これは? ひとりで 笛を 吹いてゐる むかし覚えた ひとつきりのひとふしを くりかへし くりかへし 飽くこともなく ひとりでゐる 全く! たれにきかれることもなく 私は 感じてゐる なにものかで みたされた このひと時を 私は 感じてゐる たれに知られることもなく ―― 愚かだつた頃の 想ひ出さえ 何もかも懐かしい 私は笑みを浮かべる 今ほど優しい 心をいだいたことはない と それでゐて これほど 悲しいのは? ひとりで 笛を 吹いてゐる むかし覚えた ひとつきりのひとふしも いつしか忘れ 笛の音は ほそく 青く 澄みわたる 私は 夢をえがく ひとびとはそこにゐる 空と土がひろがり 樹々があり 季節がめぐる と だが私は また ひとりにかへる 永遠を見る そこには ほんたうは 何もない! それでも 私は 願つてゐた 懐かしいひとたちが そこにふたたび もどつてくる日を 笛の音は ほそく 青く 澄みわたる そこにだけ ちいさく 空がひろがり 時がながれる それでも 痛みは 私の胸を去らない 何だらう これは ひしひしと 胸にささつてくる これは? 命でゐることは 悲しい 何もかもなくしても 私ひとり ここにゐる (二〇一六年一月十五日) (同年六月十日 結尾部分改訂)   夜をこめて… 夜をこめて 温かい雨がふり続く まだひとびとは眠つてゐる……僕は歩いて行く…… 君の窓へと……ほのかに光る石畳をたどり…… 昔なじみのマロニエの樹々が 道みち僕に 囁きかける (ああ お前 何処へ行くのか) (ああ お前 何をしに行くのか) と 僕はこたへる(ああ もうひとつの魂を探してゐるんだ お前たち 知つてゐるだらう あのひとは まだそこにゐるのか)と 途端にかれらはだまり込む ―― 知つてゐる 僕はいつまでも そこにたどり着くことはないと 知つてゐる 君がそこで待つてゐたのは はるか昔のこと 夜をこめて 温かい雨がふり続く 僕はいつまでも歩き続ける ほのかに光る石畳をたどり…… 夜よ明けるな  雨よ降り続け  この道よ続け 永遠に! 僕が君の窓にたどり着く朝まで (二〇一六年一月二十一日)   冬が終はる前に 海へ行かう 冬が終はる前に 砂の上に お前の名を書かう 波が優しく それを消し去る前に 貝殻をひろつて 耳に当てよう お前が囁いた あの日の言葉をきくために 僕もその貝殻に囁かう この星が生まれる前に知つてゐた たれもきいたことのない 一番美しい言葉を そしてその貝殻を沖に投げよう たれかがその言葉を思ひ出す前に 僕は知つてゐる お前はここに来たことがある ほら 向こうの空に 舞つてゐるのが見える その日お前が飛ばした 麦藁帽子が かなしみを知つた季節は 遥かにとほい 幾度もひとびとが去り また生まれ落ち そしてまた去つていく 打ち寄せる波 繰り返す忘却 冬が終はる前の いつまでも穏やかな午後に 僕はなつかしく見てゐよう 波が消さない 砂の上のお前の名を また新しい命が ここに来る前に (二〇一六年一月二十四日)   夕映え 何もない空に 私は描く 古い絵のやうな あの日の夕映えを ―― 心は破れ すべての嘘は砕け 海は割れ 地は崩れ 堕ち行く場所さへ失つた 私とお前の目に その夕映えの 何と鮮やかだつたことだらう! 千の天使がラツパを高く吹き連ね 消えてゐた神々が現れ 復活の日を喜び合つた ―― それが 星の終はりだつた それきり私は お前を見うしなつた! 幾百万の生を経て 幾百万の星々をめぐり 私はいまも お前を探してゐる そして この星もまた 違ふのだらうか?  (私はここにゐる   ずつとここで 呼び続けてゐる あなたの名を   ずつと泣き続けてゐる あなたの目の前で   でもあなたは 私を見ない   私の声を あなたはきかない ―― ) 私はいつ 気付くのだらう 私の心の何が この目と耳とをとざし お前と私を へだててゐるのか その時 何が私の あやまちだつたのか? 何もない空に 私は描き続ける 古い絵のやうな あの日の夕映えを 私はいまも お前を探してゐる そして この星もまた 違ふのだらうか! (二〇一六年一月三十日) ---------------------------- [自由詩]室内/石村[2019年3月24日17時48分]  低気圧が近付いてゐる午後。  少年が鉛筆を削つてゐる。  室内に、新しい芯の匂ひが満ちる。  「隆、下りてらつしやい」  と、羊羹を切り終へた母の声が階下から聞こえる。  隆が階段を下りて行く音が段々と遠くなる。  亡くなつた姉が部屋の奥から出てきて、机に無造作に置かれた隆のランドセルを開け、物差しを引つ張り出して二、三度、刀を振るやうに上下させてから、物差しを机の上に置き、かへつて行つた。  芯の匂ひが、室内にうつすらと残つてゐる。 (二〇一八年三月四日) ---------------------------- [自由詩]菜穂子/石村[2019年4月3日17時17分]  花瓶の近くに置かれた姉の唇が燃えてゐる。  うす紫色の炎が小さく上がつてゐて、読んでゐる文庫本に今にも火が移りさうだ。  目を細めて見ると、表紙に「菜穂子」と書かれてゐた。  庭の土の上で、緑色の蛇と紫色の蛇がもつれあつてゐる。  「もう春なのよ」  姉はさう云つて、文庫本を閉ぢ、花瓶の水を取り替へに行つた。  柱時計が鳴る。三月十四日、午後三時。 (二〇一八年三月十四日) ---------------------------- [自由詩]家族は唐揚げ/石村[2019年4月8日16時45分] 「家族は唐揚げ」 どこからともなく 湧いて出た その一句 そのしゆんかんから なにゆえか 俺の心を とらへて離さぬ 幾百万もの言葉があり 百の何乗だかの組合せがある中で 天使か悪魔のはからひか かくも見事に生じたる 一期一会の この機縁 この一句 「家族は唐揚げ」 いい じつにいい なんともいへずいい ふるひつきたくなるほど いい一句ぢやないか 風韻がある 滋味妙味がある 俳味もある 豊かな陰影を宿しつつ 簡潔にして明快 かういふのをポエジイといふのだ さうはおもはないか いやしくも詩人たるもの これを一篇の詩に物せずして 何を詩にするのか これほど響く言葉 身に染み 胸に迫る言葉が 詩にならぬといふ法はない そこで俺はこころみた 「家族は唐揚げ」を 一篇のみごとな詩と仕上げ この不朽の一句が 未来永劫 人類の脳裏に 刻まれんことを期して まづ俺は 心の中で 大鍋を火にかけ いくたりかの家族に 唐揚げ粉をまぶし 180℃に熱した たつぷりの油で からりと揚げてみた うむ どうもこいつは あまり詩的な光景ではない やうだ つまりこれは 文字通り字義通りの言葉ではない 叙事叙景ではだめなのだ ならばこれはどうだ 「家族は唐揚げ  ハサミはペンギン  男は故郷  女は海峡  バハマは不況……」 それから えー―――― 違ふ さうぢやない 言葉遊びではないのだ 「家族は唐揚げ」は そんなうすつぺらな 上つつらな 響きだけの 調子がいいだけの 一句ではないのだ ことによると俺は 宇宙の深奥 秘中の秘に迫る真実 神の一句を手にしてゐる  かも知れないのだ これを駄洒落や語呂合せの一部に 埋れさせてしまへば 末代までの恥辱とならう しからばそれはメタフォアか はたまたシンボルか いづれにせよ何らかの観念を 表象するものか 否! 否、否、否、否! 「家族は唐揚げ」は 修辞ではない アレゴリーではない 表現技法ではない 一個の存在そのものだ 無謬完全の意味観念を豊かに内包し 大銀河に悠然とひろがり ありとあらゆる生物無生物の 原子核の核にまで浸潤する 普遍妥当性をば有する 美を超えた美 叡智を超えた叡智 フェルマーの定理もリーマン予想も 物の数ではない それほどの真理の精髄が この一句に 集約されてゐるのだ だが ああ! 俺にはこの一句を 詩に物するすべがない どう足掻いても 書けはせぬ アダムとイヴ以来の プロメシュース以来の この神秘の一句が内包する 宇宙の内奥に肉薄するには わが詩魂はあまりに貧しく 思想は低く 着想乏しく 想像力に欠け 技量はあはれなまでに拙い 無念なるかな 遺憾なるかな  痛憤痛惜の念に堪へずして 俺は唇を噛み 歯をきしらせ 血涙を呑んだ ああ 天にまします神なる御方は 何ゆえに この妙なる一句を わたしなぞに授け給ふたのか! それでもやはり 家族は唐揚げ かぞくはからあげ カゾクハカラアゲ kazokuwakaraage いい じつにいい なんど反芻しても いいものはいい 家族は唐揚げ ああ なにゆえに かくはわが心を悩ませる この一句 家族は唐揚げ 家族は唐揚げ 家族は唐揚げ もひとつ行かうか 家族は唐揚げ さあ 皆さんも どうぞ ご一緒に 家族は唐揚げ (二〇一八年四月八日) ---------------------------- [自由詩]旧作アーカイブ3(二〇一六年二月)/石村[2019年4月13日16時05分] *筆者より――筆者が本フォーラムでの以前のアカウントで投稿した作品はかなりの数になるが、アカウントの抹消に伴ひそれら作品も消去された。細かく言ふと二〇一五年十二月から二〇一七年二月までの間に書かれたもの。これを随時アーカイブとして投稿し、フォーラム上に保管しておかうと思ひ立つた。実際に目を通して下さる奇特な方は少なからうと思ふけれど、私の手元に死蔵しておくより僅かなりとも人目に触れる可能性のある場に晒しておけば、まだしも作品の生命が保存されることにもならう。どれほどみすぼらしからうが貧しからうが、書かれたものにはひとに読まれる機会を得る権利があり、作者といへどその権利を封殺すべきではない。   窓 窓は 今日もひらいてゐる 昨日来た風が そこにとどまつてゐる まばゆい世界から わずかに零(こぼ)れた よわい光が 私の中に そそいでくる 鳥たちは やすらふことなく きらきらと せはしげに やつて来ては 去つていく ――また花が咲く 季節になつたと  ――だがそれは もう 同じ花ではないと 澄んだ風は つよく吹く 無数の光の粒が 愉しげに たはむれてゐる 幼くて 逝きし者たちが 笑ひさざめきながら かなたの野を渡つていく―― ここでは 時は 過ぎてゆかない 昨日は明日へと つづいて行きはしない みたされた 美しいものを 私は呼吸する  さうだ もう 私の心には 何もない  そのままの私と まつさらの今が あるばかりだ そして今 痛いまでに 私は 知つてゐる 私は どこから来たのでも どこに行くのでもない と この ほの暖かい かなしみは 永遠のものだと 窓は 今日もひらいてゐる――明日も ひらいてゐるだらう 昨日来た風は かはりなく そこにとどまつてゐるだらう 向かうのまばゆい世界は どこかに遊びに行つてしまふだらう 私はまた 包まれてあるだらう しづかに ここに ひとつきりの このかなしみに (二〇一六年二月六日)   訣別の歌 誰かが僕を 呼んでゐた みじかい笛を 吹いてゐた 誰かが僕を 呼んでゐた み空の底は ふかかつた 風は終日 吹いてゐた 骨がからから 鳴つてゐた その子は野原で 遊んでた たんぽぽの綿毛を 飛ばしてた 誰も迎へに 来なかつた ああ 笛がきこえる きこえるよう 僕 もう行かなきや もう行くよ さよなら ああ 逝つちゃつた!  でも その子は気付かず 遊んでた  その日も 明日も 明後日(あさって)も  そして 星が消える  皆が積みかさねた悲しみも消える  想ひも消え 願ひも消え 祈りも消える  ああ さつぱりした せいせいした  何もなくなつて 忘れたことさへ忘れ  また どこかに生まれ 愚かな命を 生きる  悲しむことなど さほどありもしないのに  どうしてこんなに 悲しいのかと いぶかりながら 風は終日 吹いてゐる 骨がからから 鳴つてゐる 誰かが僕を 呼んでゐる みじかい笛を 吹いてゐる ああ 笛がきこえる きこえるよう 僕 もう行かなきや もう行くよ さよなら さよなら (二〇一六年二月十一日)   群青 高く駆けよ 直き青き光の子らよ ひと筋に翔べ 清(すが)しきみたまよ 散り消えよ 古き望みよ 定めのみに憑かれた ひとびとに告げよ 智慧の言葉は絶えた 滅びよ 生誕の季節が来る おさらば 地上よ 愚か者の土よ おさらば 遠くへ投げよ その肉は 笑へ この自由! すでに私は 何ものでもない  偏在する 星を焦がす この鋭利なひと筋の光 しづかなる海 澄んだ忘却 真青(まあを)に染まる 吾が捨てし現身(うつそみ) 海より得しものを 海へとかへし 戻れよ 果てなき無へ 果てなき有へ 歌は尽きた 今ははや 真澄なる響きのみ 空を見下ろせ つよく降ろせ この清かなる群青の火を  そは無なるか? 有なるか? たれ知らん そは心のままなるのみ ―― 高く駆けよ ひと筋に翔べ 直き青き光の子らよ つよく降ろせ この清かなる群青の火を きけ 幼き天地(あめつち)の 霞立つ息吹を (二〇一六年二月十四日)   春の雨のスケツチ 心の中に 雨が降る うす紫の 雨が降る まどかな滴は かろく淡い ほのほの甘い しづかに落ちて ぽつと弾けて うすれて消えて―― パラソルさして そこを行くのは あの子の姿だ 優しい笑顔で しめやかな歩みで 春の野を どこへとさして  歩いて行くやら――そんなこと私が知るもんか ただしあはせな歌へ 夢からきたものへ 野の道はひらけてゆくと 雨はいつまでも降りつづく 心の中を こんな優しいものが どこからきたのか どこへつづくのか――そんなこと私が知るもんか ただ野のいちめんに 黄色い花々と 触れる滴の 嬉しさうな声と パラソルさして 君は行く 私はいつまでも 見てゐられる  かろく淡い 雨の滴と 君のしめやかな歩みと 外は好いお天気ださう――そんなこと私が知るもんか  ただひとびとの 親しげな 古い神々の面影に なつかしく この こころよい ひと時は通ふだらうと とこしへに まどかな滴の この春の雨と (二〇一六年二月二十日)   麗らかな春 歌からうたへと 心は通ふ 夢から夢へと 季節は移る 僕ら どこへともなく 足をあゆませ―― うすい香りの 忘れな草が 微笑みながら 朝の挨拶を贈る お前だけに きこえるやうに 「私を忘れないで」と 望みは ひとり 遠くの丘へと 解(ほど)けてゆく 生き急ぐ鳥たちに 目を送るお前 ほら ここには 何のかなしみもない ふたりをせき立てる 予感のやうなものも しかしちぎれてゆく雲の先に 翳はいつまでも去らない 祈りでさへなく ひとつの想ひを 僕は置く 僕の お前の みたされてある時は ただここに とどまつてゐよと――  それでも どこからか この 底ふかい 恐れがやつて来るのを 僕はとうに知つてゐる……そして お前も  さうだ ずつと昔にも こんな時があつた  そして その後 僕らに何が起こり 残されたのか お前はどうして そこで 目を伏せる? 私の手にかさねた お前の手のひらに わづかに強さがこめられるのを 感じながら 心は通ふ 歌からうたへと 季節は移る 夢から夢へと そして麗らかな春が きた (二〇一六年二月二十四日) ---------------------------- [自由詩]なつぐも 他二篇――エミリ・ディキンソンの詩篇に基づく(再掲)/石村[2019年4月19日15時59分]   なつぐも ―エミリ・ディキンソン " AFTER a hundred years --"に基づく― ともだちがだれもいなくなったとき わたしはその野原にいきます 青々と茂る夏草のむれのなかに ちいさくつき出ている石があります その下には むかし この野原でゆきだおれて死んだ 詩人がうめられています その石には 詩人が死ぬまぎわに もらしたことばが きざまれていたと だれかがおしえてくれました 長年の風雨にさらされて 文字はすっかりうすれています こどもらがときおりやってきて その石にきざまれた文字をなぜていきます あの子らには よめるのでしょう わたしはぼんやりとそこにすわって 耳をすますでもなく 夏雲をみあげます すると次の年へゆくさやかな風が そのひとのうたを はこんできてくれます わたしがここらに落としていく記憶も この風がひろいあつめていくでしょう そうして百年後の夏あたり またこの野原にもどってきて 夏雲をおいかけてここにきた 旅びとにでもわたしてくれるでしょう AFTER a hundred years Nobody knows the place,? Agony, that enacted there, Motionless as peace. Weeds triumphant ranged, Strangers strolled and spelled At the lone orthography Of the elder dead. Winds of summer fields Recollect the way,? Instinct picking up the key Dropped by memory. ***   青い鳥 ―エミリ・ディキンソン "HOPE is the thing--"に基づく― 希望というものには青い羽根がはえているらしく ときどきとんできてわたしの肩にとまる そしてくだらない歌をいつまでもうたう わたしがふきすさぶ風にもてあそばれているときも あいつは甘くやさしいうたをうたう こっちはぼろぼろ もみくちゃなのに のんきなものだ どんな大嵐も あんたの口はふさげないわね とおもうと ふと笑みがこぼれる そしていつも それにすくわれる 空も土も凍りつくよな寒さの日にも 島影さえ見えない大海原で ひとり船を漕いでいるときも のんきな歌をうたってくれるあいつ なにも食べないので餌代もかからない なかなか健気なやつなのである HOPE is the thing with feathers That perches in the soul, And sings the tune without the words, And never stops at all, And sweetest in the gale is heard; And sore must be the storm That could abash the little bird That kept so many warm. I 've heard it in the chillest land, And on the strangest sea; Yet, never, in extremity, It asked a crumb of me. ***   ふたつの墓 ― エミリ・ディキンソン "I DIED for beauty -- " に基づく ― うつくしいものでいるために わたしはしんで お墓になりました お墓ぐらしになれはじめたころ おとなりさんができました まごごろをまもるために しんだひとでした おとなりさんは たずねます 「ねえ どうしてきみはしんじゃったの」 わたしはこたえます 「うつくしいものでいたかったの」 「そう じゃあ ぼくらはともだちだ ぼくはまごころをまもるためにしんだんだから おんなじだよねえ」 そうして にたものどうしのふたつのお墓は まいばん しずかにかたりあいました ながいながい しあわせなときがながれ やわらかいみどりのこけが すこしずつふえ わたしたちのくちびるを とざすときがきました 「さよなら げんきでね」 「さよなら ありがとう」 そして ふたつのくちびるはきえ ふたつのお墓にかかれたなまえも みえなくなりました I DIED for beauty, but was scarce Adjusted in the tomb, When one who died for truth was lain In an adjoining room. He questioned softly why I failed? "For beauty," I replied. "And I for truth,--the two are one; We brethren are," he said. And so, as kinsmen met a night, We talked between the rooms, Until the moss had reached our lips, And covered up our names. *後記――ここに掲載したのは米国の大詩人エミリ・ディキンソン(Emily Dickinson, 1830-1886)の数ある作品の中から、折に触れて筆者の心を捉へた三篇を過度に自由なスタイルで日本語にしたもので、翻訳詩といふよりは翻案、換骨奪胎と言つた方が相応しい。最近は「超訳」などといふ言葉もあるが勿論これらの翻案は何も「超えて」などゐないので、この語を用ゐるのも適当ではない。この三篇に何らかの興趣なり感動なりを覚える読者がゐるとすれば、それは偏にディキンソンの無比な詩魂の美しさと詩想の霊妙によるものであり、不満や違和感を覚えるとすればそれは偏に筆者の菲才と不徳の致す所で、原作には何の関はりもないといふことを予めお断りしておきたい。なほ、読者諸兄の便宜を考慮して各篇の末尾に原詩を引用した。ディキンソンの元の詩篇にはいづれも題名がなく、冒頭の一行の引用で識別されるのが慣例である。また、熱心な研究者諸氏による忠実な訳詩集や対訳詩篇も数多く刊行されてゐるので、ディキンソンの作品に関心を抱かれた方はぜひさうした作品集を繙いて頂きたい。 ---------------------------- [自由詩]春の宵 ほか二篇/石村[2019年4月28日15時32分] 春の宵 巨人の足あとに水が溜まつてゐる。 ここからは月が近いので自転車で行かう。 (二〇一八年四月十八日)   昼下がり どうにもならんのだよ 庭で脚の悪い末つ子が鞠をついてゐる どうにもならんのだよ と父親は呟く 柿の木に子鬼が片手でぶらさがつて こちらをみてゐる 嫌な日だ 昼下がりが長いのだ (二〇一八年四月二十四日)   たんぽぽ 花を見に行かうと思つた 桜はほとんど散つてゐた きたない川べりに行くと たんぽぽがいくつも咲いてゐた ひとつ千切って たべてみた ばかなことばかりしてゐる (二〇一八年四月二十四日) ---------------------------- [自由詩]永遠/石村[2019年5月6日16時50分] ある夜 死んでしまつた 畳の上に食べかけの芋がころがつてゐる その横におれがころがつてゐる 目をとぢることも ひらくこともできない お迎へもこない 月の光が障子の桟に溜まつて 零れていく 時間といふのは長いものだ おれは永遠を手にしたのだ あまり うれしくもない (二〇一八年四月二十五日) ---------------------------- [自由詩]旧作アーカイブ4(二〇一六年三月)/石村[2019年5月16日16時00分] *筆者より――筆者が本フォーラムでの以前のアカウントで投稿した作品はかなりの数になるが、アカウントの抹消に伴ひそれら作品も消去された。細かく言ふと二〇一五年十二月から二〇一七年二月までの間に書かれたもの。これを随時アーカイブとして投稿し、フォーラム上に保管しておかうと思ひ立つた。実際に目を通して下さる奇特な方は少なからうと思ふけれど、私の手元に死蔵しておくより僅かなりとも人目に触れる可能性のある場に晒しておけば、まだしも作品の生命が保存されることにもならう。どれほどみすぼらしからうが貧しからうが、書かれたものにはひとに読まれる機会を得る権利があり、作者といへどその権利を封殺すべきではない。   木立の中を 木立の中を ほの白い それが すばやい鳥のやうに 通つてゆく あれは――知つてゐる なくしてしまつた 私の想ひだ 私の名を呼ぶたびに 切なげだつた お前の 面影は 私の心から うしなはれて あそこにある そして お前の心から うしなはれたものも お前をはなれ ひとつの想ひに結ばれ 私の知らない 空と時をさまよつてゐる ことなる空 ことなる時 ことなる海を わづかに すれ違ひながら ふたつの想ひがゆく それぞれに かなしげに 何も 消えはしない 喜びへと 溶け入るまでは かなしみであるうちは 想ひはいつも なくされたまま そのさまよひを 続けるだけだ 私の願ひと お前の願ひが――お前とゐた日々の 訣れたもの なくしたものは いつか ひとつになると  したしげな 稚いものたちの歌がきこえ さうして 木立の中を歩む季節が 僕らに かへつてくると (二〇一六年三月一日)   夕べに  〈Prelude〉 しづけき夕べに  心まどかに 風すずやかに 身をあゆませる 野辺の道 思ひ出すのは……   ? 「――ほら 最初の星が見えた  あすこまで行かう」 すると君は笑ひ出した 僕も笑ひ出した 何がをかしいのか 嬉しいのか かなしいのか 一向わかりはしなかつたが 僕らいつまでも 笑ひつづけた しづけき夕べに 心まどかに 君はそこにゐて 僕もそこにゐた その幸せなひと時が 一体いつまでつづいたか……   ? (僕はもう覚えてゐない けど  君はどうなんだ?) (ああ 私だつて覚えてない でも  きつと私 今だつて幸せだわ  あなたは? 幸せ?) (どうだらう 僕は幸せなのかなあ  でも 君と一緒にあの森で  樫の木だつた時は幸せだつた) (私も あなたと一緒にあの草むらで  たんぽぽだつた時 幸せだつたわ) (まだあるよ あの月の裏側で 僕らが兎だつた時) (私だつてあるわ ほら あの海の底で……) (はは 君は海老だつた) (ふふ あなたは蟹だつた) (あはは 大変だつた あの時は) (さう 誰も許してくれなくて  無理やり一緒になつたもんだから 大騒ぎ) (雀だつた時もあつたね) (亀だつた時もあつたわね) (あれはよかつた 長生きできて) (ふふ) (あはは) (ねえ どこにゐるの 会ひたい) (僕はここにゐる 君はどこにゐるんだ) (私はここ いつでもここにゐるわ  どうして 見付けてくれないの  心はいつも つながつてゐるけど  一緒にゐられないなんて 嫌だわ) (ずつと探してゐる あの時から) (ねえ あれからどこに行ったの  何をしてゐるの) (僕はどこに行つたつけか……  覚えてないんだ 何も  今ここで 人間でゐる それしか  もう 僕には わからない) (人間? ――馬鹿ねえ  馬鹿だわ 人間なんて  かなしいだけなのに  もう私 人間なんてならないわ  馬鹿ねえ――――― )   ? 日は暮れようとしてゐた。遥か野の彼方に最初の星が見えた。 僕は笑つてみようとしたが、笑へなかつた。 あすこまで行かうとしたが、行けなかつた。 星はもう消えてゐた。   ? ああ ほんたうに 僕は馬鹿なのだらう 堕ちて行つたあの日 君のかなしげな眼差しが 遠くへと かすんで行き やがて消え そして僕は ここにきた 人の世といふ 眠りの世界に   ? あれは いつのことだつたか? しづけき夕べに 心まどかに 君はそこにゐて 僕もそこにゐた それは 幸せな時だつたが…… それでも季節はめぐり 暮れ残る空はかはりなく美しい まどろみの世界の中で ひとびとは生き 僕も生きる そして時に夕べに響く君の声だけが 僕を僕にかへしてくれるだらう (二〇一六年三月六日)   ノクチュルヌ 雨音は 低くうたふ ひとびとはながく 目を伏せる どこかから来た夜が そつと雨の下にすべり込む ―― そしていくつもの命が いまこのひと時に 美しい樹々だつた日のことを想つてゐる それぞれの 生き場所で 互ひを 気付くこともなく 僕はここだけではなく どこかにもゐる…… なぜだらう それを想ふとひどく胸がざはめく  (痛いまでに 苦しいまでに!) 雨音が低くうたふ しめやかな夜には その遥かな想ひが 僕を果てない深みへと引き込むやうだ 同じ小さな星から 別れ別れに この地に降り いまかうして 僕だけで ここにゐる これきりの命と 教へられて……しかし何かが 違ふ 違ふと 僕はもう知つてゐる 沁み入るまでに! 野辺に朽ちた昔の旅人は 今は黄色い花になり 深い夜の底で しづかに雨をきいてゐる  懐かしいものたちは去り 馳せる心のゆく先を 僕は知らない ひどくさびしい 命は どこにゐても それでも 雨音は低くうたひ 夜はしづか ひとびとはながく 目を伏せる それぞれの 生き場所で 互ひを 気付くこともなく (二〇一六年三月十一日)     永遠の昨日 永遠の昨日へ 飛んで行つた僕らの鳥は かへつてこない 優しげな変ホ調の かるがるとしたアレグロで きらきらと 水晶青の風さやかに かなたの空へと駆け上がる 死に行くものの世界を あとにして 聖らかな軌跡を 描きながら やがて僕は 忘れられるだらう やがてお前は 忘れられるだらう 秘めた囁きは もう 僕のものでも お前のものでも なくなつた 昨日へと向いて 開いてゆく花は 僕らの明日に 咲くことはない 野辺を行く足音は まだ 憧れに満ちてゐる でも それはとうに裏切られてゐる…… 気付かぬ振りを してゐるだけだ 僕も お前も  耐へがたいまでにかすかな この痛みに やがて僕は 忘れられるだらう やがてお前は 忘れられるだらう 願ひは 美しいものだつた 優しいものだつた 昨日のものだつた そして永遠へと かへつていつた 僕らの今は 切なくここにある 神々がゐなくなつた日 生誕と滅びへの 時は歩み始めた 振りかへることなく それが 僕らが得た 罪だつた いつか 喪はれると知つてゐながら ひとを想ふことは ―― やがて僕は 忘れられるだらう やがてお前は 忘れられるだらう 僕らの鳥は かへつてこない きらきらと 水晶青の風さやかに 死に行くものの世界を あとにして 聖らかな軌跡を 描きながら かなたの空へ 永遠の昨日へ (二〇一六年三月二十一日)   不思議なひと 春の陽ざしに清かにふれて ほんのり風とたはむれる あなたは不思議なひと どこから来たのか知らないけれど 私のこころをさらつていつた あなたは不思議なひと 見上げる雲は 山の向かうにぼんやり青く 私の想ひは うつすら流れて 気流といつしよに 西へと向ふ あなたの横顔はあどけなく ただよふ私の想ひを 目で追ふらしい しづかな日だなあ たんぽぽたちが 愉しげにそよ風に揺れてるだけで いつから 言葉なんておぼえたんだらう あこがれも かなしみも 胸にしみる想ひも 声にしてみると なんだか嘘になる それでも私は歌ふ この心 あなたに届けと いのちのかぎりに やさしさを振り絞つて 名前も知らない 何もいはない ただ私のそばにゐるだけ 草笛吹いて寝転んで 鳥たちの噂ばなしをきいてゐる あなたは不思議なひと 昨日までの胸の痛みは どこに行つたんだらう かうしてあなたを見つめてゐると このしづかなひと時が  いつまでも続く そんな気になる あなたは不思議なひと 名前も知らない どこから来たのかも知らない でもふたりでゐると なつかしい あなたは不思議なひと (二〇一六年三月二十五日)   海辺の家 海辺の家で 私たちは長いあひだ暮らした ふたり寄り添ひ 絶えることのないさざ波を いつまでも目で追ひながら 毎朝きいてゐるうちに 鴎たちの言葉を覚えてしまふほど 長い ながい時を そこには私たちのほか たれもゐなかつた ずつとずつと 私たちだけだつた 晴れた日も 風の日も 私たちの海は 私たちのものだつた そぼ降る雨の日も 砂浜にすわつて おだやかにたゆたふ波の上に 優しくそそぐその音を 飽きることなくきいてゐた ふたりして風邪をひき 熱い額をくつつけあつてねむつた そして爽やかな朝の冷気と 潮の香にめざめた 空はどこまでも高かつた それは ずつとずつと昔のはなし まだここに 私たちのほか 誰もゐなかつた頃のこと いまは ひとの淡い命を得て みじかい夢を生きてゐる 私たちの時は すつかり短くなつてしまつた 永遠の中の 一瞬の吐息ほどに  昔なじみの鴎たちが したしげに声をかけていくけれど もう忘れちやつたなあ あなたたちの言葉 でもこの海は かはらない あなたの ふとさみしげな横顔も あの頃のまま 今も覚えてゐる 窓べの壊れたオルガン 古びた楽譜 部屋をみたす夕陽 鴎たちの挨拶 読みかけの本 小さなランプ あの海辺の家 あなたはきつと 気付いてゐない でも私は 知つてゐる あなたとこの浜辺を歩む この瞬きほどのひと時が あの日々から つづいてゐると 想ひは果てなく いつもそこに行く なつかしく あの海辺の家へ (二〇一六年三月三十一日) ---------------------------- [自由詩]旧作アーカイブ5(二〇一六年四月)/石村[2019年5月30日16時09分] *筆者より――ちやうどこの時期、十二年書けずにゐた詩作が復活して三ヵ月が経ち、十二年分のマグマの噴出が落ち着いたこともあり、いま読み返すと力が抜けてゐる感があつてそれが良い方にも悪い方にも出てゐるのが見て取れる。またネット詩なるものの存在を知り現代詩フォーラムや「文学極道」への投稿を始めた頃でもあり、他の詩書きと交流が始まつたり評価を貰ふやうになつたせいか心気散漫、雑然としており、それが書くものにも反映されてゐてやはり作風が雑然としてゐる感がある。随分愚劣な作品もあり我ながら失笑させられる。一方で今でも非常に気に入つてゐるものもいくつかある。短詩の試みを始めたのもこの頃で、暫くの試行錯誤を経てこの後「二行詩」に収斂していく。読者諸兄にはどうでもよいことだが、改めて見直してみると作者自身には色々と興味深いものがあつた。   からつぽさんの唄 からつぽなのさ 僕らの心は 何にもないのさ ほんたうは 何を入れるも 何を捨てるも お望み次第さ でもそれは僕ぢやない それは君ぢやない ただの詰め物さ さうさ 心は  からつぽなのさ ずた袋さ ほんたうはね それが僕さ それが君さ だから君 君は君の夢を描け 僕は僕の夢を描く 色を塗りたきや 色を塗れ 黒でも 赤でも 黄色でも   ゴツホのやうに マティスのやうに 線を描きたきや 線を描け セザンヌのやうに クレーのやうに 精確に 辛辣に 単純に 何だつてできるさ 想ひのままさ 季節をめぐらせ 星々をきらめかせ 菜の花を咲かせ 薔薇を咲かせ 桜を散らし 楓を色付かせ 素敵なあの娘の横顔を この世の果てまで見つめてゐるのも 悪くはないさ からつぽだから 自由なのさ だから不自由にもなれるのさ あれやこれやを詰め込んで それが自分だと決め込んで 後生大事に手放さずにゐれば いつまでもさうしてゐられるさ 認めてもらふ 自由 誰かから勝ち取る 自由 そんなの嘘さ 詰め物ひとつ増やしただけの 子供だましさ からつぽの僕も からつぽの君も 自由なのさ はじめから 自由は君の 持ちものぢやない 君が 自由だ からつぽの君が ほら いつまでも 傷付いた振りをしてゐる そこの君 いい加減 遊びはおしまひにして 立ち上がつて 唄ひ出してみよう よく見てごらんよ ほんたうに 見てごらん しつかりと ほら わかつただらう 過去といふ詰め物には 何の力もありはしない からつぽさんの 君だけが その詰め物に いのちを吹き込むことができる かなしむのは 君 痛むのは 君 怒りも 恨みも 憎しみも からつぽの君が 生み出すもの 微笑むのは 君の心 ときめくのは 君の心 愛しさも なつかしさも やさしさも からつぽの君が いつでも感じることができるもの  だから君 高く飛ばせ 君の心を どこまでも 見上げるばかりぢやなく 見下ろしてみるのさ 君の宇宙を さうすればわかるさ ほんたうは 君の心が どれほど大きいかを だから君 からつぽさん 君は君の夢を描け 僕は僕の夢を描く (二〇一六年四月八日)   風が運んできた おさない心は かなしくて 青い空ばかり見上げてる ああ このままどこかに行きたい でも 私が行く どこかは どこにあるのだらう おさない心は せつなくて 菜の花の野を行きまどふ 私のまだ見ぬ あのひとは 今ごろ何をしてるかなあ わた雲 むら雲 ちぎれ雲 どこへとさして ゆくのやら 私の はてない憧れも あちこちで もう 新しいみどりが芽吹いてゐる たれも知らない あはれを感じたまま いくつの命が 去つただらう おさない心は いつまでも 青い空ばかり見上げてる ああ きれいだなあ 空 このまま 体ごとすきとほつて どこかにさらはれていきさうな 空に手を伸ばさう 何かに届くやうに その何かが 何なのかを  きつと あなたたちは知つてゐた もうゐない あなたたちに 私はいつまでも 想ひを馳せる 見たばかりの夢を 思ひ出さうとするやうに でもそれはいつも 零れていく砂 ああ それでも私は きいた気がする 風が運んできた かるく うす青い響き その命たちが呟いた いくつもの言葉を (二〇一六年四月十四日)   ひとり 花の中で くらしてゐたら いつのまにか 次の時代になつてゐた 外に出てみると 私の知つてゐたものたちは みな ゐなくなつてゐた さみしかつた さみしいので また花の中にもどらうとおもつたら もうしほれてゐた さやうなら 長い間ありがたう ひとりになつた   線 線をかいてみた 線をかいてみた まつすぐ まつすぐ まつすぐ ひかうとおもふのだが ふらふらする よれよれする ゆがむ ときどきふるへる まつすぐにならない 情けなくなつた 私はまつすぐにならない   顔 あんまり心が こもつてないぞ だつたら笑ふなよ へんな顔だ この顔は   かへる 蛙 かへる げろげろ げろげろ 嘘つけ そんな声で鳴くもんか ぢやあそこの田んぼできいてこよう ほらゐた 鳴け 早く鳴け 今すぐ鳴け 鳴かないなあ いつまで待つても 鳴かないので ほんたうのことは やつぱりわからない   かはいさうな子 かはいさうな男の子がゐた かはいさうな男の子は 友だちがひとりもゐないので かはいさうな犬をひろつて 友だちになつた かはいさうな女の子がゐた かはいさうな女の子は 友だちがひとりもゐないので かはいさうな猫をひろつて 友だちになつた その村では だれもやさしくはなくて 「かはいさうなやつらだ」とわらつてゐた ある晴れた日 かはいさうな犬とかはいさうな猫が道で出会つた かはいさうな男の子はいつた 「だめだよ いぢめちや  かはいさうな猫ぢやないか」 かはいさうな女の子はいつた 「だめよ ひつかいちや  かはいさうな犬ぢやないの」 かはいさうな男の子は かはいさうな女の子をきれいだと思つた 「ねえ きみはきれいだねえ」 「ありがたう あなたはやさしいわ」 さうして かはいさうな男の子と 女の子と 犬と 猫と みなが友だちになつて もう かはいさうな子たちではなくなつた 村のひとたちが一番かはいさうなひとたちだ (二〇一六年四月十七日)   扉 扉がある 目の前にある 目の前にある扉はあけてみるものだ 目の前にある扉をあけてみた わあ なんだこりや まつくろな光がどつと入つてきた あはててしめたが もう遅い 世の中ぜんぶがまつくろになつた こまつたな みんながさはいでゐる 「誰がやつたんだ」 僕ですが さうはいへないな しかたがない また別の扉をさがさう その後 僕はずつと 世界を明るくする扉をさがしてゐます もう少し 待つてゐてください (二〇一六年四月二十二日)   ほほゑんでください 私にほほゑんでください うつむいてゐるとき 胸が苦しいとき 木枯らしが痛いとき そこにゐてください 私にほほゑんでください 私にほほゑんでください 歌をわすれたとき 想ひをつたへられなかつたとき 涙がかれたとき そこにゐてください 私にほほゑんでください 私にほほゑんでください だれかが憎いとき 風邪をひいたとき 自分がみじめに思へるとき そこにゐてください 私にほほゑんでください 私にほほゑんでください たいせつなものをなくし 命がこほりつき 心を汚してしまつた 電柱の半分ちぎれた張り紙みたいな 蜘蛛のゐない蜘蛛の巣にかかつた間抜けな蠅みたいな 池に捨てられた古い自転車みたいな 私のそばにゐてください ふるへが止まるまで ふさがつた胸がひらかれるまで やさしさがかへつてくるまで 歩き出せるやうになるまで そこにゐてください 私にほほゑんでください (二〇一六年四月二十二日)   瞳 私はあなたの瞳に住んでゐました あなたが見つめるもの やさしいもの きれいなもの なつかしいもの どれもみな 私のものでありました あなたのまなざしのあたたかさは そこにゐる私も あたためてくれました 私は まどろんでゐました あなたの瞳の中で そしてひんやりと木立を吹く風に ふと目をさますのでした 私が好きだつた あなたの翼が 薫る風にゆれてゐて  ふたりの午後はなんとも すがすがしいのでした 西のかなたを 小さな雲がゆきます とほくへ その後は どこまでもすみわたる空だけ それがあんまりきれいなので あなたも私も 泣いてしまひさうでしたが そのかなしみは とてもはやくて 涙は追ひつかないのでした いつも いつも 思ひだすことといへば あなたの瞳に住んでゐた あの日々のこと 薫る風と 新しい緑の まばゆい季節に あなたの翼がゆれてゐたのでした―― その瞳も翼も いまはなくて この世に私の住むところもありません それでも 果てないひろがりの中に投げ出されて この心細い はかないもの 命は どこまでも おはることなく つづいてゆくのです (二〇一六年四月二十七日)   うつくしい歌 何もすることがなくて 野原にゐた どこからか うつくしい歌がきこえてきた さつきまで もう死んでもいいかと思つてゐたが さうでもなくなつた (二〇一六年四月二十七日)   透明な疑問 五月になる あかるい さはやかな風が吹いて いい日だな こんな日には 風でゐるのが一番しあはせだ つらくもなく かなしくもないが どうして私は生きてゐるのか と思つた 透明な疑問 (二〇一六年四月二十七日)   星 星を見てゐる私 はるか昔に放たれた光と私 この光が放たれたときそこにゐたあなた あなたはいま どこにゐるのですか 何をしてゐるのですか 私がはなつ このほそい光は いつ どこで たれが見るのですか   花 胸のそこにずつと ひえびえとしたものがあつて 苦しい 花が咲くところをしづかに見てゐたい   夜 夜がきた このまま朝にならぬ日がいつかくるやうに想ふ 夜がふけた ひとびとはねむる 私もねむる   たんぽぽ 私の野原には 風が鳴らす竪琴なんて しやれたものは置かれてないが ふまれてもまた起き上がつてにつこり笑ふ かわゆいたんぽぽなら いつぱいゐるんだ (二〇一六年四月二十九日) ---------------------------- [自由詩]模倣/石村[2019年6月11日17時27分] イ短調ロンドの孤独に犬のやうにあくがれて せつかく育てた硝子(がらす)色の菫(すみれ)を ただなつかしく僕は喰ひ尽してしまつた。 失意のかたい陰影を 新緑のプロムナードにつめたく落として 僕は終日時空をよぎる少年の真似をした―― 涼風吹く庭の白いテエブルで 球体に似て全てを嫌ふ きみの形而上学を僕は聴かう。 *初期作品より(執筆時二十三歳) ---------------------------- [自由詩]或る友へ/石村[2019年7月8日16時45分] どうでもいいぢやないか それは君のくちぐせであり ぐうぜんにも 君からきいた さいごのことばでもあつた ひと月まへ 一緒に飲んで 別れ際にきいた いつものせりふだ その前に何をはなしてゐたか うかつにも おぼえちやゐないのだが どうでもいいぢやないか さうだな 俺もさうおもふ 君が死んだと知らされて ひと晩たつて 今にして しみじみおもふよ 星がきれいだ さうか 七夕様だものな 織姫と彦星はぶじ逢瀬を遂げたか 来週末も低気圧は日本列島に停滞するか 俺のうすい財布にいくら残つてゐるか 米中貿易戦争の落としどころはどの辺りか そんなこんな どうでもいいぢやないか なあ 君 葬式には行かなかつたよ お互ひ いずれどちらがくたばらうと お悔やみなんぞはいはずにおかうやと いつだつたか 話したな 生きるのが面倒になつたから さつさと切り上げただけのことだ 何も悔やむことなどありはしない めでたいはなしとはいへないが よよと泣き崩れるほどの かなしいはなしでもないよ どうでもいいぢやないか 川つぺりからいい夜風が吹いてくる 遠くでパトカーのサイレンがきこえ だんだんと小さくなつていき あとはまつたくしづかなものだ ふかい夜空を見上げると 死んだ人たちの笑ひごゑが 天にみちてゐるのがわかるよ 君 君もそこにゐるんだな 心まづしきひとの世に ほんたうのことなどありはしないし いつはりのこともありはしない ひと夜の芝居が 幕を下ろすだけだ 君の冥福など祈りはしないよ そんなのは地上の人間の不遜だ とりあへず 俺はもう少し生きるやうだ 愚かな選択かもしれないが 賢い選択など どのみちこの世に ありはしないだから まあ 君のいふ通りさ どうでもいいぢやないか (二〇一九年七月七日) ---------------------------- [自由詩]旅・遺作/石村[2019年12月30日15時53分]   旅 こころは しらないうちに 旅に出る 笛のねに さそわれて むかし 人びとがすんでゐた 海辺の村で 潮風にふかれてゐる いつになつたら かへつてくるのか 神さまにあふまで かへつてこないつもりか   遺作 午前二時をすぎると たれにもひかれたことのないピアノが ひとりでに 鳴りだす たいせつな詩を 書きわすれた 詩人のやうに (二〇一九年十二月三十日) ---------------------------- [自由詩]行く年くる年/石村[2020年1月1日0時11分] さだめなき世に 年古りて なにひとつ 新しくもない 年がまたくる 十二月 三十一日 午後十一時 五十九分 五十と 五秒 冬の雨が 雪にかはり 廃屋の時計が 目をさます ひとびとは美しい笑顔で 挨拶をかはし 除夜の鐘が遠ざかり 星がひとつ消える 行く年 くる年 どこへゆく そつちには なにもないぞ なにもなくても 止まりやすまいが 俺ももう お前さんを止める気は さらさらない のだが 年越し蕎麦の 残りづゆを啜つて 猫にあいさつ ――今年もよろしく と ---------------------------- [自由詩]初春/石村[2020年2月12日10時56分] どういふことだ まだ ひとのかたちをして 星の上にゐる 急がなくてはいけない 廃村のはずれの小さな草むらに 菜の花が咲きはじめてゐる ……風にゆれてゐる やさしいやうな かなしいやうな 春にならうとしてゐる午後 俺はけだものになりたくて おだやかな海にさけぶのだ 神なる者どもが降りてきて 俺らをのこらず 喰つてしまふ前に ---------------------------- [自由詩]レモンサワー/石村[2020年3月3日22時32分] (*昨年書いて現フォに投稿せず忘れていたもの。アーカイブ目的で投稿。石村) しつこい梅雨が明け 夏がはじまつた はず であるのだが ひさびさに傘を持たずに 散歩なんぞに出てみると 夏初日にして 早々にくたばつたクマゼミが ぶざまに腹を出して 舗道のうへにころがつてゐる いやなんとも 気のはやいことだ ながい地下暮らしから這ひ出して この大雨続きの数日間 どれほど鳴いたかしらないが お前さんのいつしん不乱な大音声が いつたいどこの 誰にとどいたものか 俺もまあ 言へた義理では なからうよ 誰に読まれもせず おもしろくもおかしくもなく 清くも正しくも美しくもない いまどきはやらぬ詩もどきを 書き続けたあげく いつかくたばり ぶざまに腹を出して その辺に ころがつてゐる ことになるんだ は それがどうした くだらない いつぱいやつて気を晴らさう レモンサワーください もう夏だからね さはやかに行かうや とまあ いつもの嘘だ 毎分毎秒 毎年毎月 こんなこといつまで 続けるんだらうね 神はもうゐない といふことにして いけしやあしやあと 生きてゐるつもりになつても 背負ひ込んだ業のふかさは どこまでも肩に くひ込んでくる 来世の永遠も 諸行無常も ひとのいい気な妄想にすぎない それでもわれら ことばといふ罪を負つた者どもは なにかしら 書かずには ゐられない から 書く のだ 愚か者め と空がいふ わかつてゐるさ わかつちやゐないよ 俺もきみらも だからこのレモンサワーの 泡がはじけて消える その一刹那に 真のしんじつをかんじたまへ それからもう一度 まぶしくひかる空を見上げて 耳をすませてみるがいい ほら やつぱり空がいふ 愚か者め と空がいふ 書き続けろ と 空がいふ ---------------------------- [自由詩]春風に吹かれてる/石村[2020年4月1日14時34分] 《なんてこたあ ないんだよ》 翼をたたんだカラスがうそぶく 電柱の上に ぽつつりとまつて さうやつて 世の中をみおろしてさ ほら ちよいと 武蔵の絵みたいな 構図ぢやないですか  ご機嫌よう  今日はいいお日和で  何か面白いお話でも 《さみしい男と  かなしい女が  ゆきずりに出会つて  どこかにしけこみ  二升五合を熱燗で空け  骨がとけるまで愛しあつたあと  うす霧ただよふしづかな朝に  近くの岬から身をなげた》  ほほう  そいつは何とも  おきのどく 《さうでもないよ 「わたし 誰よりも 幸せだわ」  といふのが  かなしい女の  さいごの言葉さ》  ははあ  さうですかい  で さみしい男は何と? 《さあね 知らんよ》 ほつぺたを掻きながら 長生きのカラスがまたうそぶく 《なんてこたあ ないんだよ》 さうかもね なんてこたあ ないのかも どのみちさみしい境涯で どのみちかなしい人生だ 幸せなきぶんで あの世に行けるなら それに越したこたあ ありませんわな それにしてもだ さみしい男はどうしたんだ 幸せになつちまつた女と 春の海に身をなげる前に 何かしら 気のきいた科白のひとつでも のこしたのか のこさなかつたのか 行きずりの女とひと晩愛し合つて ちつとは気が晴れたのか それとも さみしい男はやはり さみしいまま だつたのか どうもそいつが 気になつて しかたないのだが カラスはそつぽ向いたまま うす雲たなびく空の下 春風に吹かれてる ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉/石村[2020年5月6日21時27分] 某月某日  20200年4月1日ですね。 某月某日  どいつもこいつもマスクマスクうれせえや。俺はしてないぞ。タバコも吸ってるぞ。低収入だが給付金は断る。飲み屋のおっちゃんにでも回してくれ。「アーティスト」には回すな。仕事がないなら技能研修生来なくて困ってる農家の手伝いにでも行け。贅沢抜かしてんじゃねえ。 某月某日  『和泉式部私抄』読みながら寝る。    はかなくて    煙となりし    人により    雲居の空の    むつまじきかな 某月某日  いい天気だな。桜見に行くかな。ビール片手に桜並木を歩くのも乙だろう。すみませんね都会の皆さん。うちらは田舎なんで、花見は宴会自粛のみなんですよ。 某月某日  平和公園の脇、爆心地に近い川沿いの桜並木をビール片手に歩く。人通りはぼちぼち。宴会はしていないがシート広げて寝そべるカップル。記念写真に興じる家族連れ。川面を流れる花びら。静かでのどかな午後。桜は美しい。来年もこういう花見がしたいものだが、まあ今年だけか。 某月某日  手応えのあった作品ほど反響が鈍く、どうってこともない出来に終わった作品のほうがかえって反響を集めたりするもんだが、そういうときに作者の側では「へへ、気付いてないな、やっぱり」とひとりほくそ笑んだりしてるわけさ。 某月某日  心配すんな。一か月も続きやしないよ。 某月某日  「社会正義」をかさに来て個人を抑圧し屈従させようとする連中をファシストという。健康ファシスト、ポリコレファシスト、環境ファシスト、グローバリズムファシスト、自由よりも「正義」の支配を望むファシストだらけの世界。何で禁煙しないかって?「正しい」ってのが大嫌いだからだよ。 某月某日  ここんとこ、コロナとかウイルスとかをお題にして書かれた詩をちょいちょい見かけるけど、よく書けるな。感心するよ。いや、皮肉じゃなくて、純粋に俺には真似できないから。肚ん中に入ってない概念や思想なんて、ほんものの感情を伝える言葉にはなりっこないんでね。  公論に見せかけた私情。私情を装った公論。どちらもソフィストの政治的雄弁術であり、知でもなければ文学でもない。宣長さんはそれを「からごころ」と言った。からごころから詩は生まれない。無論、人は何について詩を書いてもいい、それが本当に詩であるなら。 某月某日  やっていることはろくに認識されず、やっていないことばかり論われて文句ばかり言われる。困難な仕事に立ち向かっている人間と何もしていない外野の関係はいつもそうだ。誰にも一日は24時間しか与えられていないが、1分さえ貢献していない人間ほど働いている人間に一日240時間の仕事を要求するもんだ。  「自分がそこにいたら果たして何ができるか」という、ごく当たり前な想像力を働かせてみろ。大したことはできない、と気付いたなら、被害者でもないくせに被害者の代弁者みたいな口を利いて偽善者面を晒すのではなく、自分にできることを粛々とやれ。それが危機下にある無名の市民の取るべき態度だ。 某月某日  今日もまた、TL上ではバカが金の話ばかりしている。 「マスクに466億円〜〜そんな金があるなら〇〇〇〜」  国民一人当たり360円。それも元は自分が払った金だ。  で、少なくとも俺は、その〇〇〇とかには一銭も使ってほしくないね。 某月某日  空気や風潮、時流は止められない。正気さなど無力だ。  だからと言って、正気を保つことを止めてはならない。 某月某日  さ、もうコロナはいいや。俺は文学と酒と煙草に戻るのだ。阿呆ばかり見ていると阿呆になる。おしまいおしまい。 某月某日  リーディングと朗読って何がどうちがうのか、知ってる人は教えてけろ。 某月某日 出発点:「朗読 or リーディング」という区分をひとまず保留。 〇仮説:  リーディングA=《作者》がテキストに記した意図に沿った表現・再創造の行為。  リーディングB=《言葉という生き物》の表出衝動の媒体となる。自己の肉体を媒介として言葉の創造本能を実現させる行為。  Aは近・現代詩(テキストの詩)の朗読・朗誦  Bは古代詩・神話(日本では和歌や祝詞)→《言霊》と人間の交信・交流 ・中世の《詩》は、舞踊、歌謡、演劇。これはBからAへの過渡期にあるものか。 ・現代ポエトリーリーディングの源流は黒人牧師のプリーチングやラップなどにあると見られるが、これは当然Bに属する。言葉の力を借りて感情を引き出し、高揚させ、浄化させる行為。 ・漢詩は古代からすでにテキスト詩であった。むろん朗誦される詩でもあり、音声の調子・抑揚が重要なファクターだが、他言語にはない、シンボル文字である漢字の表現性が詩的効果の構成要素になっている。 視覚的シンボルの表現性は、音声表現であるリーディングでは再現し難い。 ・西欧言語はそもそも音声が詩的効果の主要素であるため、Bへの回帰は容易。  黒人たちが聖書の説教をプリーチング(リーディングB)に変容させたのは、英語が容易に《楽器》化できる言語だったから。 ・《楽器》としての日本語は、音の種類の少なさゆえに、西欧語のように抑揚強弱の組み合わせによって多彩な「調子」を生み出すのが苦手で、古来「調子」を生み出す役割は主に「音数」(五・七調)と母音の長音に付けられる《節》が担っていた。  囃子言葉は、こうした表現性の単調さを補完するものとして自然発生したのだろう。 ◎現在、日本語の《言霊》は、西欧語の語彙だけでなく音声の多彩さをも取り込んで、その表現性を進化させようとしているのかもしれない。この進化は、テキスト詩とそのリーディング(A)では表出し難い。むしろ日本語のロック、ポップスがそうした進化の媒体となった(はっぴいえんど、桑田佳祐、佐野元春らに始まる)ように見える。日本語ラップはむろん。  その意味で、現代日本に「ポエトリーリーディング」という表現ジャンルが場を形成しようとしているのは、《日本語という生き物》の表現意志・創造意欲の現れなのではあるまいか。 某月某日  集団からお墨付きが出さえすればいくらでも悪意や憎悪を発揮する連中ほど、ヘイトだの差別だのいじめだのをしたり顔で非難する。罪業コンプレックスかアリバイ作りか。  己を見つめたら最後この世が終わるというほど嘘を重ねた末に、偽善を一切自覚できなくなった奴を善人という。親鸞さんは正しいよ。 某月某日  道徳心なんか死んでも持つかあほ。 某月某日 #アカウント名の最初をぽにすると可愛くなる  ぽ村利勝  .......そう? 某月某日  煙草吸って、  福田恆存「一匹と九十九匹と」読みながら、  寝る。 某月某日  切腹しろ。さもなければいつか俺が天誅に行く。 某月某日  誉め言葉しか受け入れられないやつは、遠からず消える。 某月某日  君らの目利きが本物かどうか試してやるよ。 某月某日  深夜部活のない、静かな夜。 某月某日  詩を書くという行為はどのみち己が言葉の世界に独り対峙しながら行う作業である外ない。この自由な行為は第三者や社会性が介入しない聖域で行われる限りにおいてその純粋さと無償性を保つ。詩とは要するに無私な言葉の謂だが、己が自意識なく言葉と対峙する時間と空間のみがそのような無私を保証する。  人間は社会的動物である以上何らかの社会性の制約下に常に置かれる。社会的自己に自由はない。それは常に関係性における自己を意識せざるを得ず、そこで交わされる言葉は常にそうした自意識を反映するものだ。「無私な言葉」が社会的自己から発せられることはなく、広義の政治的言葉のみが交わされる。  社会が個人の欲望と利害の相克、あるいはそれらの調和の場である以上、こうした広義の「政治」は誰にも避け得ぬ。勝つ負ける、支配し支配される関係性のどこかに我々は何らかの位置を占める。一方で個人は社会的関係性の秩序からひとり離れ、魂が神に対峙するように言葉の世界に対峙することもできる。    詩の言葉がこうした極めて個人的な営みから生まれながら、他者の自己に届くのはなぜか。  それは、その他者もまた社会的関係性の秩序から独り離れて世界に対峙し、言葉に対峙し、神に対峙する自己であるからで、彼が詩を読んで発見するのは、そうしているのが己だけではないという単純な真実である。 某月某日  いろいろうるさい。  静かにしてくれ。俺は寝る。 某月某日  すぐに答えを求めるな。答えは意味ではない。物事の意味はそれと十分に付合わなければ分らない。  今日は強い風が吹いている。なぜ風が強いのか、気圧配置のせいである、そこに答えはあるが、意味はない。  詩を読むというのは意味を味わう経験である。なぜ答えを求めるのか、答えを得て良しとするのか。 某月某日  本日も、某月某日。 ---------------------------- [自由詩]告別/石村[2021年11月10日21時27分]    我が友、田中修子に 時折西風が吹く そして天使が笑ふ するとさざ波が寄せ返し 沖を白い帆が行き過ぎる 砂に埋れた昨日の手紙を まだ浅い春の陽ざしが淡く照らす 生まれたばかりの小さな蝶が その上でしづかに羽をやすめてゐる それで時には幸せだつたのかと 僕はお前に問ふてみたのだが もうどこにもお前はゐないのだから こんな風に暖かくやはらかい光に 何もかもがやさしく包まれてゐる午後にも 失はれたものは失はれたままだ ひえびえとしたさびしさばつかりだ さうだ去年の今ごろは 硝子の笛を吹いてお前とこの海辺を歩いた 今日とかはらぬおだやかな陽を浴びて 時折の西風がお前の傘を飛ばした すると天使が笑つた お前も笑つた 僕は今日とかはらぬ道を歩いてゐたのに けれどお前がもうどこにもゐないといふことは どんなに僕が呼び掛けたとしても 答へが永遠にかへつてこないといふことだ お前がきかせてくれた名も知らぬ歌が めぐる季節の内に忘られてしまふといふことだ それでも僕が生きてゐるといふことだ お前以外のすべてがここにあるといふことだ それがどんなにつらくさびしいことかを お前に知らせるすべがないといふことだ…… 時折西風が吹く そして天使が笑ふ もう昨日までの時計は止めて 歩いて行かう お前がゐた日々の憧れだけで するとさざ波が寄せ返し 沖を白い帆が行き過ぎる ---------------------------- (ファイルの終わり)