詩と一緒に歩く、裸足で歩く、革靴で歩く。
★★★この日は、田口犬男さんと初めて、お会いするわけではないけれど、「初め
て」詩の話をする日だった。互いに詩誌「ウルトラ」の同人でもあるし、何回か話し
込んだことがあるのだが、だからといってそれは詩の話ではなかった。僕は「しな
い」主義ではない。むしろ、その逆であると思う。言い訳するわけではないけれど、
田口さんとはなぜか、言わば書き手同士の会話をするつもりにはなれなかったのだ。
それは、話さなくても、なんとなく分かる、と勝手に思っていたからなのかもしれな
い。
例えば田口さんは、朗読する時に裸足でやるのだ。あるイベントで司会者がそのこ
とについて、田口さんに質問したことがあった。田口さんは即座に「気持ちいいか
ら」と答えていた。ああ…、これが田口さんだ。なんとなくこの答は、田口さんだ。
分かる、と言う感じなのだ。
と、思っていたが、それは私の全く、いいかげんな気持ちだったことが分かった。
田口さんと話してみて、大いに印象が変わったし、あらためて場の必要性を感じた。
いくら親しいと思える人でもそれはそれとして、詩の話はきちんとしなくてはいけな
い、と思った。
いんあうと編集の片野晃司さんと大村浩一さんも同行・同席して下さり、東京駅の
駅ビルの喫茶店で四時間話しまくった。私は座ってすぐにケーキセットを注文した。
会ってしばらく四人であれこれと話した後、さあて、いつから本当に開始するかとい
うことになったが、私がケーキを食べ終えてから、ということで話はまとまった。以
下はそこから、の話である。(和合)
はじめに
和合 アメリカの、どこに留学されていたですか?
田口 アメリカの、メリーランド州ウェストミンスターという、どこにでもあるよう
な街ですね。
和合 アメリカに行こうと思ったことについては、何か理由があったんですか?
田口 何だろうなあ、うーん、アメリカ以外の国の大学に行っても良かったのかもし
れないけれど、とりあえず、言葉の問題があるでしょう。だからとりあえず、まあ英
語だったら、中学校の時からとりあえず勉強してきているから、何とかなるかなと
思った。ヨーロッパは遠いから。
一同 ふうん。
田口 あんまり僕ね、考えてないんですよ。
和合 田口さんはその時にアメリカ詩をたくさん読んできて、影響を受けてきたのか
なと感じてきました。例えば「モー将軍」というタイトルは、古い外国の詩集から発
想を得たとの記述がありますよね。
田口 それはね、全然、関係ないんです。というか逆なんですよね。もともと詩を書
いていなかったし、ほとんど関心もなかった。詩を書き始めたのは、アメリカから
帰ってきてからです。しかも、しばらく経ってからですよ。自分が詩を書き始めたと
き、そのこと自体が、自分にとって驚きだった。自分が詩を書き始めるということ
を、全く予想していなかったのです。
和合 年齢で言うと、いくつからいくつくらいですか?
田口 年齢で言うと、二十二から二十四までアメリカにいて、二十四で帰ってきて、
詩を書き始めたのがたぶん二十五くらいです。
和合 じゃ、それまでは、詩を書いたことはなかったんですか。
田口 ないですね。
和合 互いに詩誌「ウルトラ」の同人でもあるわけですが、詩の話を面と向かってし
たことはなかったので、印象が まるで変わってしまいますね(笑)。何度か一緒に
飲んだりしてもいるんですけれど、あんまり詩について真面目な 話はしたことない
ですよね。今日は色々と聞き出そうとしています。こんなふうに新鮮な驚きがあった
方がいい。 詩を書く前に、夢中になっていたことって何かありますか?
田口 何ていうのかな、何かやりたいという気持ちはあって、情熱はあるんだけど、
自分が何をやったらいいのか良くわからない。そういう気持ちが長く続いていて、
ちょっとその頃は大変でしたね。
和合 煩悶していた、ということですか?
田口 うん。だから詩を書き始めてしばらくして、直感的に、詩を書くっていうこと
は、自分にとってふさわしい、とてもぴったり来る、って思ったときに、何というか
・・・歓びがありましたね。
和合 今振り返ってみて、きっかけみたいなものは?
田口 きっかけは、とても具体的なものがありました。会社に入ったでしょう?アメ
リカから帰って就職して、しばらくしたときに、送別会があったんです。誰かの。そ
こで、何か余興をやろうという話になって、いろいろ相談したんですけど、結局、先
輩の人がギターを弾いて、僕がそれに合わせて自作の詩を朗読するっていうことを
やったんです。突然ですね。むろんそれは、僕から提案したんじゃなくて、その人に
やってみない?と言われてやったんです。遊び心で。それで、一晩で、漫画みたいな
詩を書いて、読んでみた。みんなが泥酔しているとろで。それが、ぼくが初めて書い
た詩ですね。
和合 田口さんに詩を書かせようとした人は、詩的才能を認めていた人なんですか
(笑)?
田口 全く、そんなことないと思う(笑)。半分以上、冗談で言ったんでしょう。
和合 それを余興にしちゃうあたりが、すごい人ですね。
田口 どうなんだろう。なんか良くわからなかったよね。へんな余興だったです。で
もね、受けてたよ。まあ、叙情的な要素がなくて、漫画のような詩だったから。
大村 ああ、なるほど。
田口 受けしかねらっていない。ウナギイヌが出てくる詩。無茶苦茶でしたよ。
和合 いま伺ってみて、田口さんの詩の秘密というのは、常にそのような余興性にあ
るのかなと思いましたね(笑)。結構ね、僕も人に言えるようなきっかけらしいきっ
かけ、じゃないんですよね。一番最初に詩を書き始めたのは、大学の自主ゼミ。その
ゼミの活動の中で、書いたものを朗読する。その後みんなでいろいろ言い合うとい
う、そういう年二回の合評会があったんです。ほとんどもう飲み会とセットで、とい
う感じだったんですけど。そこで宿題のように詩を作ってくることを繰り返している
うちに、好きになったのがきっかけです。その詩のゼミを選んだのも、月曜日から木
曜日までアルバイトしていたので、金曜日だけ空いてたわけなんですね。それがたま
たま詩のゼミだったんです。つまりは詩への強い衝動があったわけではなくて、なん
となく、という感じですね。これらの偶然のことがなかったら、詩を書く事はなかっ
たかもしれません。ところで、一冊目を出したっていうのは、いくつぐらいのときな
んですか?
田口 いくつだったかな、二十七くらいだったかな。
和合 じゃ、余興で詩を書き始めて、それから二年間くらい、詩を書きつづけたわけ
ですか?
田口 そうそうそう、だから、余興でいっぺん書いて、面白いなと思って。
和合 詩を書くことが?
田口 うん。なんかね、言葉が面白いなと思って。まあ、ほぼ純粋に遊びだったです
から
ね。それで書きつづけた。それで、遊びで書いているうちに、自然にシリアスになっ
ていった。というより、真剣な遊びになっていった。
和合 目の前に詩人がいたとか、友達がいたとか、あるサークルに入っていたと
か…。誰かに影響を受けたとか、仲間と刺激し合いながら書いていたというのではな
いんですね。
田口 僕の場合は、周囲に詩人もいなかったし、詩を読む人もいなかったし、詩に関
心のある人もいなかった。そもそも文学に関心のある人だって、回りにいなかったで
すよ。だからね、それがノーマルな状態だろうって思って、生活していた。
和合 じゃ、第一詩集を作られるまでの二年間というのは、書いた詩はほとんど発表
しない状態ですか?
田口 ただひたすら書きつづけるって感じ。その頃考えていたことがひとつあって
ね。ようするに、書き始めたばかりのアマチュアだから、どうせろくなものは書けな
いだろう、と思った。だから、量を書くという気持ちがあったの。質ではなくて、と
りあえず量だけに重きをおいて
書いていたんですよ、その頃は。そのうち自然に、まともなものも書けるようになる
だろう、と楽観的に考えていた。
大村 なるほどなるほど。
物量作戦を進行させよう
和合 僕もね、やっぱり、物量作戦というイメージがあったんですよ。二十代の頃に
参加した詩誌は、十はありますね。いちばん多いときで、四つくらい参加していたと
きがあった。毎月ね、同人費を払うのが大変でしたよ。でもこれをしなかったら、次
は見えないってはっきりと感じていた。今でも、よく大正時代とか、昭和初期の作家
などが同人誌に参加して、自分の生活費を削って、食べるものも食べられないような
苦しい状況になってもそういうことをしたっていうのが、なんとなくわかるような感
じがしますね。場が欲しい、という強い気持ちに満ちていました。僕の場合は、発表
というのが前提にあったので、だから、とにかく書いたものを溜めておくっていう感
覚は抱いたことがなかった。その頃読んだ同人誌で面白いと思ったものは、すぐに手
紙を書いてですね、自分のこれまで書いてきた作品をどーんと大量に編集をしている
人に送りつける。自分を同人にしろというような手紙を書いてですね、やる気充分で
すっていう手紙を添えて。そういう自分の昔を知っている人に会うと、笑い話になり
ますよ。でも、そういうふうなやりかたで、手紙を書いて、詩をたくさん送ってくる
ような人は、その後も見たことがないともいわれます。とにかくたくさん書きまくっ
て、そのなかで、十にひとつくらいいいのが生まれるんじゃないかという、そういう
感覚があったんです。ところで、その時期にたくさん書いたものを全部詩集に収めた
わけではないですよね?
田口 全然違いますね。だって、ほとんどがゴミみたいなものだから。
和合 たくさん書いたもののなかで第一詩集にまとめる作品を選んだわけですよね、
どんなことを基準にしたんです か?
田口 それはねえ、僕の場合は、ある程度時間が経っちゃうと、ぱっと見て、瞬間的
にわかるんですね。だから、あまり意識的な選択、って感じじゃない。自然に、浮か
び上がってくる感じです。ある程度、寝かしておくというか、時間を置いておくと、
時間が客観的に判断してくれるという感覚があるんですよ。
和合 「現代詩手帖」と「週刊読書人」で時評をやっていると、詩集や詩誌が毎日送
られてくるので、動向が掴めて嬉しいです。若い人の詩集っていうのが、すごく少な
い感じがするんですね。かたやウェブ上を見てみると、若い人がものすごく、毎日大
量に、詩を投稿している。大量に若い書き手がいっぱいいるというのが分かる。それ
なのに詩集の層は、一目瞭然、二十代三十代がとても少ない。詩集というものの概念
というか、書物に対するイメージが、かなり変質しているのかなという感じがします
ね。「ユリイカ」四月号では、詩集を特集するんです。「詩集」とは現在、どのよう
なものなのかということについての特集です。昨年、「詩と思想」では、「同人誌は
滅びるか」っていう特集をやりましたよね。同人誌とか詩集に対しての根本的な疑問
というのが、二つの商業誌の例から見ても、湧き上がっているのかなという感じがす
るんですが。
片野 危機感、みたいなものですかね。
和合 まず、それでしょうね。ちなみに自分は、第一詩集出すまでに十年、かかって
いるんですね。
田口 それはすごいですね。それで、出したのが三十歳?
和合 三十歳です。詩集一冊出すのが夢だったんですけど、それを果たしたのが三十
歳だったってことですね。
田口 それってすごい長いですね。基本的に、和合さんの第一詩集には、十年分入っ
てるんですか?
和合 十年分入ってますね。
田口 すごい密度だなあ。
和合 だから第一詩集『AFTER』を編むときには、十年分が目の前にあって、選
ぶのにもだいぶ凝りましたね。完成度が高いなと自分が自分で思っているものとか、
良く作りこんだ詩と思っているものよりも、そのときそのときの時間の流れのなか
で、転換点のようなところの作品を、結果的には意図的に集めたんですね。僕自身
は、詩集っていう一冊をとにかく持たないと、詩人としてそれが自分の詩の物質です
みたいな詩の物質性を、他の人に手渡すことができないと思っていました。雑誌に発
表したり、あるいは朗読したり、を続けてた来た十年でしたが、詩の物質性ってなに
かなって考えたときに、詩集なのかなというふうに思いあたりました。十年間って言
いましたけど、田口さんは二年間となりますね、ま、年月は関係ないと思うんですけ
ど、田口さんの第一詩集に向かった気持ちを思い出してもらえませんか?
田口 第一詩集を出したのは、軽い気持ちで出したんですよ。ちょっと出してみよう
かなという感じ。あまり考えていなかったね。いろいろなことが、わかっていなかっ
たんですね。だから僕がまずいちばん最初に悩んだのは、どうしたらみんなが自分の
詩を読んでくれるかなということですね。たとえば、僕には、同人誌という発想が全
くなかったんです。そもそも、同人誌というのが、どういうものなのか、よくわかん
なかったんですね。今回「ウルトラ」に入って、こういうものなんだなって、初めて
わかったんですけどね。でもそのころは、ぴんとこなかったし、やってみようとは思
わなかった。だから、どうやったら自分が、一人でせっせと書いている詩、そ
れが、普通の人、詩に関心のある人っていうわけじゃなくて、詩に関心のないひとに
届くんだろうっていうのが、謎で仕方がなかった。どうしたら、そういう回路を開い
ていけるんだろう、と。だからあるときは、新宿の歩行者天国で、当時絵も書いてい
たから、個展をやって、そこで詩も配ったりしていたんです。なんていうのかな、ほ
んとにたまたまそこを歩いている人にね、配ってたの。
和合 それは詩集をまとめる前ですか?
田口 同じ頃かなあ。
大村 路上でやったんですか。
田口 路上でやっていました。
片野 ホチキスでとめたりとかいう形で?
田口 そうじゃなくてね、紙切れ。チラシを配るようにして配っていました。それか
ら、ギャラリーで個展も少しやったのね。そのときに、詩も展示して見せたり。そう
いうことをやっていた。だから、その時期は、試行錯誤だったんですよ。出口のない
トンネルのなかに入っている感じだった。
和合 絵はどういう絵を書かれていたんですか?
田口 絵はですね、へたなポップアートみたいな絵を描いていました。
和合 僕も話を聞いていて、大きく思い出したとがあるんですけど(笑)。さっきの
続きになりますが、大学時代に何回か合評会に参加しているうちにね、詩を書くのは
凄く面白いと思ったんですよ。先輩にちょっと誉められたりして、有頂天になったり
もしていました。同じように僕も、自分の詩を印刷したものを、大学の生協の前でし
ばらく配っていました。大学のキャンパスも小さかったし、地方の国立大学なんで、
回りになんにも大学がなくて、何が起きているか全部わかるわけですよね。他の大学
の人も来ないわけで。駅まで行く道すがらですね、自分の詩がね、靴跡ついてたり
(笑)。そのへんの路上にね。福島大学のキャンパスって、山のなかにできている
キャンパスなんですけど、そのへんの草むらに、渡した詩が無造作に捨てられてあっ
たり。そういう経験を、結構しましたね。友達に渡すと友達は露骨に要らないとかい
うし(笑)。
片野 僕も、高校の頃、ガリ版刷りでやってたんですよ。校門で登校時間に配るんで
すけど。やっぱり、読んでくれる方はいて、感想をもらったりして、そういう嬉しい
経験はあるんですけど、やっぱりそうでない方もいて、まあ、いろいろ、若い頃のい
い経験ですよね。
和合 なんかそういうところで、実際、現実にぶつかったっていう感覚が、すごくあ
るんですね。朗読のパフォーマンスにしても、詩を書き始めた頃とだいたいスタート
は同じなんですよ。ちょうど美術館でそういう依頼があって、それで朗読して、その
とき大失敗をしたんですよね。美術館のイベントの企画だったので、美術館に来たお
客さんが絵をみながら、そのイベントのところに集まってくるんですよね。百人くら
いいたんです。最初のステージでしたから、夢中で朗読して、そして、ぱっと顔をあ
げたら、十人もいなかったんですよ。その後も、朗読会でお客さんが露骨につまんな
いような顔して出ていっちゃったりとか。この時の悔しさが、十数年後の現在のパ
フォーマンスのスタイルのバネになってますね。田口さんの現実感というものは、ど
ういうところにありますか? 第一詩集から第二詩集、第三詩集と、詩集が移り変る
ごとに、変わってきているとは思うんですけど。たとえばですね、第二詩集の『モー
将軍』は誰かに仮託するっていうか、第三者に仮託するっていうか、モー将軍とか、
トマスとか、赤ずきん青ずきんとか、金田一耕助とか、いろいろキャラクターが出て
きますよね。そこにその自分自身の感情というか、自分自身の感受性というかね、そ
れを仮託しているようなところに面白みを感じている人が多いと思うんです。第三者
と僕、のような語り口で進んでいきますよね。それに対する現実感みたいなものが、
読むと明確にあるんですよね。ある種、物語の世界に入っていって、それを再構築し
ているような書き方ですよね、人工の世界。読み終わるとそこに現実感が、あるんで
すよね。これは何だろう。
田口 僕は、特に、一番最初に出した詩集には、現実感はなかった(笑)んじゃない
かと思いますけどね。『モー将軍』を書いていた頃というのは、あまり社会的な現実
に関心
がなかった。僕はもっとね、内面的だったと思うんです。三十を過ぎてから、さすが
に自分の社会性というか、歴史性に気づき始めて、考えるようになった。自分が、非
常に具体的な歴史の、具体的な社会に属しているっていうことについて、ですね。
和合 三十歳を過ぎてから?
田口 そう、それは三十を過ぎてからですね。それ以前は、そのように考えていな
かった。自分と社会に接点がある、という感覚がなかったんです。それらはまったく
違うカテゴリーで、しかも交わっていない、と思っていた。いま考えると、すごく内
面的だったと思う。でもそのころ書いたのが『モー将軍』なんですよね。だから和合
さんに、それでも現実感がある、とおっしゃっていただけるのは、うーん、まあ、嬉
しいですね。
和合 ある種、御伽噺のような語り口を自分で選んでいるというのは、どういうこと
なのですか?
田口 それはね、不思議なんだけど、別に選んでるんじゃなくてね、僕が詩を書くと
そうなってしまうんですよね。だから御伽噺っぽいとか、童話っぽいって言われるん
だけど、言われるまで気がつかなかった。
和合 なるほどね(笑)そりゃそうですよね。書いてるほうとしては。
田口 とりあえず自分では、そういうものが詩だろうと思ってるんですよ。自分では
王道を行っているつもりなんだけど、蓋を開けてみると、寓話的だとか、御伽噺のよ
うだと言われますね。
和合 今お話聞いていて、僕もなるほどと思ったんですけど、たとえば、不思議なん
ですけど、三十っていう年齢がそこで大きいんですよね。
田口 ええ、ええ。
和合 私も第一詩集を出したのが三十って言いましたけど、僕も考えてみると二十
代っていうのは、例えば詩を書く自分ていうものが、本当の意味でどういう存在なの
かっていうのが、見えなかったですね。二十代の頃に詩を書いていても、回りの人た
ちは、何やってるんだろう? と、疑問形なんですよね。社会からどういうふうに見
られているのかということが、やっぱり解らなかったのかもしれない。それが、たと
えば、年齢を越えて、だんだん社会でもあるいは家庭でも柱の存在のほうに近づいて
いくと、詩人っていうものを選びつづけていいのか? という念が生じてくる。二十
代の頃は迷わなかったことが、三十代になって、詩人っていうのは社会の中でどうい
う働きをするのかなというふうに考えたときに、逆になにか批判意識みたいなもの
を、感じ始めたんですね。三十歳になってから詩集を出した時点がある種、ピーク
だったのかなと思います。
田口 批判意識というのは、何に対する批判意識ですか?
和合 自分自身に対する、自分自分が詩を書いていくというとに対して、ということ
ですかね。
田口 内省したっていうこと?
和合 (笑)内省はしていなかったっていうわけでもないんですけど、でも、分かれ
道に立って迷ったっていうことですかね。
田口 それまで、二〇代のときは、けっう自然に書いていたんだけれど、三〇代に
なったら、意識的になったということ?
和合 三〇代になったら、仕事が忙しくなって、あるいはそのほかの自分の時間がた
くさんある中で、もう全く自由な時間がないわけですよね。その中で創作の時間を作
り出していかなくちゃならないといういこと、かなり意識的に恣意的に時間を作り出
さないと、執筆はできないですよね。そのときにもう一度、詩を書くことを選ぶって
いうことの意味の強さが、自分の中で必要になったということなんですね。いろんな
本を読んでみたりして、頭ではいろいろと分かろうとしても、体は全然分かろうとし
てくれなかった。そのうちに、なぜだかふと、自分で雑誌を作ってみようかな、そこ
で自分の抱えている社会と向き合ってみようかなというふうに気持ちが切り替わった
んですね。自分で詩誌を編集をしてみようかなというふうに。
田口 それで同人誌を始められたんですか? それが「ウルトラ」なんですか?
和合 それが「ウルトラ」なんです。
田口 そうなんだ。
和合 初めて喋ることがいっぱいありますね(笑)。
腕試しの時代
片野 ごめんなさい、ええと、田口さん、商業詩誌に出したのは、「詩とメルヘン」
が最初ですか?
田口 「詩とメルヘン」に出したのは最初の頃かな。
和合 ああそうですか。
田口 よく覚えてないんですけどね。詩の雑誌って、そんなにないんじゃないかって
思っていたの。そんなに緻密に調べなかったから、とりあえず「(現代詩)手帖」
と、「詩とメルヘン」くらいしか知らなかった。だから、「手帖」で評価されなかっ
たら、駄目なんだろうと思っていましたね。にもかかわらず、「手帖」に載っている
作品と比べると、僕の作品って、落差があるような気がしたのね。
和合 落差?
田口 うん。なんか、うまくはまらないっていう感じ。、大丈夫なのかなあと思っ
た。
和合 投稿されていたのは長かったんですか?
田口 いや集中的に、五回くらいやったのかな。最初ね、一番最初の、第一詩集を出
した頃に、二回くらい投稿したのかな。
片野 普通よく、投稿をして、掲載が続いて、それから出版へ、っていう話があった
りしますけど、わりと同時なんですね、出版があって、それと同時に投稿っていうと
だったんですね。
田口 ただやみくもにやっていたんですね。まるで見とおしがなかった。
和合 でも、それ見えてる人って、いないんじゃないかなっていう気がしますね。
田口 そうなのかなあ。
和合 詩人になるにはどうしたらいいのかって、最近、良く聞かれるんですけど。基
本的に、ルートっていうのはないですよね。詩人になるための。
田口 そうですね。
和合 たとえば、商業詩誌で、賞をもらっても、新人として、一度は扱われても、そ
れから先書かない人が大変増えていますね。ひとつの理由としては、そういう商業詩
誌中心主義というか、商業詩誌で書くっていうのが詩人の仕事だって思っちゃうの
じゃないかなあ。
一同 ああ。
和合 僕は商業誌に投稿した経験もないし、新人賞をもらった経験もないんですけ
ど、それをもらったら、そのあと、自分の表現の場はベルトコンベア式に確立されて
いくかのような、そういう印象が一般的にあるのかなあと思うんですね。だからこれ
まで一生懸命投稿していたのに、そのエネルギーをそこで止めちゃってる。残念なこ
とが多いんじゃないかというふうに思います。田口さんの場合はある種腕試しみたい
な気持ちも、あったんでしょうかね。投稿していた時期というのは、どのような心境
でしたか?
田口 客観的な評価っていうか、そういうのがなかったからね。
和合 選評も載りますしね。
田口 要するに自信がないわけだよね、結局。
和合 ああ。
田口 自分はある程度、自信があっても、最終的な確信を得るためには、やはりどう
しても第三者が必要になってくるんだと思うんです。だからその第三者として、選ん
だということなんじゃないかと思う。
和合 投稿欄とか、あるいは時評、批評の欄とかいうのは、すごく重要だと思うんで
すよね。そういうタイミングのときに、言葉を投げてあげないといけないんですよ
ね。ひどく難しいことでもありますよね。経験の有る人が経験の無い人に、良い言葉
を投げてあげないと、良い経験の領域に入って来れないんだと思うんですよね。今
伺ってみると、投稿をしようというふうに思ったのは、外側からの、自分がどういう
風に思われているかといういわゆる腕試しだったわけですよね、第一詩集をまとめる
時は、そういう気持ちではなかったわけですか。
田口 第一詩集?
和合 第一詩集。
田口 なんかね、ぼんやりしてたから、あんまりよく覚えてないんだけど。
和合 出してみてから心境が変わったってことですか? 外側からの批判が欲しい、
という気持ちっていうか。
田口 いや、ええとね、多分、投稿したのが最初じゃないかなあと思うんです。
ちょっと投稿したんですよ。
大村 タイミング的には、ちょっとだけ投稿が先?時系列的には。
田口 そうですね。あんまりね、でも因果関係ないかもしれないね。
和合 じゃあ二つを同時にやってるという感じですか。
田口 うん。とりあえず本にしてみようかなという。でもその先はね、わかっていな
かっ
たよね、だから。本は作っちゃったけど、どうしたらいいのかなっていう。
和合 作った後で。
田口 うん。わかってなかったよね。だからしかたないから、友達に送ったりとか。
今考えると、出さなくても良かったかもしれないですね。
和合 僕は、三十になって一番最初出したんですけど、何回か出すタイミングがあっ
たんですよ。一番最初にあったのは、二十三の頃だったんですね。いちおう出すって
いう話がまとまったんですけど、だけど、いつのまにか立ち消えてしまったんです
ね。で、そのあと、もう一回あったのが二十七の頃ですかね。それでもなんかうまく
まとまらなくて三十のころに、十年かかって出した。自分の今までの人生全てが詰
まっているような印象があったんです。自分の詩が本になったっていう感触。さっき
の話を繰り返すと、物質を得た、という感じ。嬉しいことに同人誌で見かけてくれて
いた人が、割合に買ってくれたみたいなんですね。同人誌活動をしていて、無駄じゃ
なかったなあと本当に思いました。僕が十年間やってきたことは、知り合いの人に同
人誌を送ったり、時には配ってもらってたりと、その身内への発信を十年間ずーっと
やりつづけてきたんです。でも十年もやると、なんとなく、少し幅は広がっていくと
実感しました。
片野 同人誌に払っていたお金はそれで回収・・・
和合 回収(笑)できたかというとあれですけど、ただ、小さい同人誌というと部数
なんかも四百、五百くらいですし、それだって大半はもう、あげるだけですから。だ
けど、それをずうっとやりつづけてきて、ある程度、詩集を買ってくれる人もそのな
かにはいたのかなと思えたことは、大きかったんですね。詩を書く、ものを書くとい
うことは、ある程度そういうところからしか始まらないんじゃないのかなと思ってい
ました。今はネットなどのツールもあるけれど、基本的には知り合いの人に読んでも
らったり、そのまた知り合いの人に読んでもらったり。そのことで、輪を少しずつ広
げていくしかないんじゃないのでしょうか、最初はね。
困った、困った。絶望した、絶望しない。
和合 第二詩集の最後のあとがきで、絶望したという言葉の代わりに、困ったといえ
ばいいのだと。世界に絶望したという変わりに、困ったというふうなことを言えばい
いんだと。これは、司馬遼太郎さんの言葉を受けた形でおっしゃっているんですよ
ね。で、ちょっと読みます・・・「司馬遼太郎さんがどこかで、『幕末までの日本に
は絶望という言葉がなかった。だから人々は絶望というかわりに、困った、と言って
いた』と書いていた。「明日をも解らぬ幕末の世に絶望という言葉を知らない志士た
ちがしきりに困った、困ったといいながら天下を右往左往していた、と想像するの
は、どことなく、鷹揚かつユーモラスではないでしょうか。「というふうなことで、
詩集『モー将軍』のできた過程というのは、絶望したという声の代わりに、困った
困ったというつぶやきを聞き取っていただければ、作者としてこれに勝る喜びはあり
ません」・・・ということでまとまっているんですが、非常に漠然とした聞き方に
なっちゃいますけど、たとえば広い世界に対して絶望したというか、巨視的に眺め渡
してみて、絶望感がまずあって、その代わりに、それを深刻に絶望したとは言わず
に、歌を歌うというか、唱えるというか、ある種の鼻歌というか、そういう部分で、
「困った」といえばいいのだという感覚で書いた詩集なのかなというふうに思ったん
ですね。根本にあるのは世界に対する絶望感。それが第三詩集になると「政治の
木」っていう言葉があとがきにあるんですけど、政治っていうものと、シニカルに結
びついていくものなのかなあというふうに思ったんです。
田口 そんなにね、深い意味で、書いていないと思うんです(笑)。ただ単に、困っ
ていたんじゃないかな。うん。思想的にどうとか、哲学的にどうとかいうことよりも、
個人的に、困っていた時期なんです。何をやっても、自分の未来が切り開かれてい
くっていう、感覚がなかった。自分はいったい、どうなってしまうんだろうと思って
いた。今も、そんなに変わっていませんけどね(笑)。
和合 統計上、男性の自殺者がいちばん多い年齢の一つのピークが、二十九歳なんで
すよね。
田口 そうなんだ。
和合 とにかく二〇代の後半って言うのが、自殺者が多いそうです。
田口 わかるような気がします。
和合 三十になるとがくっと減るみたいなんですけど。自分の展開が見えない、切り
拓かれない、っていう感覚が、やっぱり、あったんですかね。そういう部分だったの
かなあ。
田口 まあ、展開がかんたんに開けるようであれば、たぶん詩なんて書いてないと思
うんですよ。そういうことにかかずらわないで、もっときちんと生きていたと思うん
ですよ。
和合 展開の見えなさが詩を書くっていうことに結局は逆に傾いていったっていう、
逆にいうと詩を書くことで自分の中でもやもやしている秩序のないものが、詩を書く
方法でもって、少しずつ頭をもたげてくるように整理されてゆく。そして、生きてい
く力をもらうっていう感じだったんですね。
田口 いや、どんどん錯綜していく感じです。さらに迷っていく感じだった。
和合 ある種自分の方法を、詩として世界に向けて与えていった。そういう部分で錯
綜も、もちろんあると思うんですけど、これが一番の答えだっていう、自分の中で理
屈を越えてインスピレーションで掴んだものが確実にあって、そこに向かっていっ
たっていうことじゃないのでしょうかね。
田口 その詩を書いた結果として? 結局、詩を書いていて、詩っていう形で表現す
ると、自分がいいたいことが一番正確に表現できるなっていう感覚があったんです。
ずっとそういうものを探していたんだと思うんですよ。でもまさか、それが詩だとは
思っていなかった。頭の隅にも、ありませんでした。けれども、ひょんなことから詩
を書き始めて、しばらくしてから、そういう感覚があったんです。それが、自分に
とっては、とても大きかったですね。
大村 なんか、当たったな、みたいな?
田口 これで自分は生きていける、と思った。
それから、さっき和合さんのお話を聞いていて、僕にとっての三十っていうのは、
ちょっと、和合さんのそれと違うなって思ったのね。僕は二十代のときには、詩だけ
ではなくて、絵もやっていたんですね。ところが、三十過ぎたときに、いろんなこと
をやったけど、結局自分は詩しか書けないんだなと、思った。二十代のときは、傲慢
だったと思いますね。何でもできるだろうっていうナルシシズムがまだあって、それ
で全部、いっぺんにやってるんだけど、そのうち才能の底が見えてくるんですね。そ
れで、あきらめたんです。だから、それがわかったことによって、開けていくって感
じではなかったんですよね。
和合 、第二詩集から第三詩集へ移る時に、政治って言うキーワードが、特に、あと
がきで、あるんですね。ちょっと読ませてもらいます。「政治の木の下で私たちは生
きています。政治なんて信じないと言っている人たちだって、政治の木の、時に明る
く、時に暗鬱な木蔭から逃れることは出来ません。もちろん私たちには、そしてとり
わけ詩人たちには、森の熊のように政治の木の幹を激しく揺さぶることなんて出来ま
せん。それでは、いったいどうしたらよいのだろう。」と記されているんですね。同
じ世代の中で、「政治」という詩語をはっきりと詩集に載せたというのは、驚きだっ
たんですよね。第二詩集で、これだけたくさん、おとぎばなし風に書かれて、楽しい
ユニークなイメージがすごくあって、次も、第三詩集「アルマジロジック」でまた動
物に向かって行っているわけです。詩に向かう前は、イラストとか、ポップな絵を描
いていたってお話でしたけど、そんなポップな部分が自然に出てくる作風だと思うん
です、田口さんの詩のここまでの文法は。ところが、ここで目線といおうか、次元を
変えて、思想性あるいは何らかの象徴性を感ぜずにはいられない風合いのあとがきを
記した点において、ある種、心境の変化みたいなものを想像してしまいます。
田口 それは、さっきもちょっと言ったんですけど、三十を過ぎてから、自分が社会
的な存在なんだっていうことを、意識するようになったことが、大きかったと思いま
す。考えるとあたりまえのことが、二〇代の時には実感としてなかった、ということ
なんですよね。ところが、三十を過ぎると、身体のほうがわかってくる。自分が、非
常に具体的な歴史の、具体的な社会に属していて、そのなかで生きてるということ
が、頭でわかるというよりも、身体のほうでわかってくる。そういうプロセスがあっ
て、それが反映されていると思うんですよ。そのあとがきにね。
和合 その、世界っていうものが、結構、出てくると思うんですよ。田口さんの詩集
の言葉のなかに。たとえば、この詩。
私が消えても世界の質量は変わらない
私が生まれたとき世界の質量が変わったわけではないので
法則が 普遍性の名において
大きな欠伸をひとつした (「モー将軍」より)
この詩を読んだときに、透徹した、なにか見透かしたような作品だなと思ったんで
す。自分の中で、確かにずっと混沌を抱えて、ずっとここまで来た、というような本
人談から仮定してみると、たとえば詩を書くことと、政治のことを考えることと、一
緒なのかもしれない、っていう部分かもしれないですね。田口さんの面白さって言う
のは、そういう混沌としたものに向かいつづけようとする意識だと思います。分から
ないものを、分からないままに終わらせてしまう、そんな絶妙なところで力をふっと
抜いた書き方が出来る。それが読み手に言いようのない面白みと読後感、想像の自由
を与えているところがあると思うんですよ。こう考えれば、独特の手法かもしれませ
んね。基本的に詩作って言うのは、分からないから分からないままにしておく、とい
う姿勢は許されないと思うんですよ。
田口 そうなんですか?
和合 分からないものを、分かるものにしていかないと、結局、何を書いても同じっ
ていうふうになるんですね。例えば、寺山修司が、東京の電話帳を持ってきて、これ
は詩集ですって渡してもいいんじゃないかっていう、そんなこと言っていたことがあ
りましたけれど。分からなさに対して、ある種、自分の理性でもって、ひとつの方法
を見出していって、手渡していかないと、読み手というのは、それを作品として読も
うとはしないんですよね。
田口 それはその、分からないものを、分かるようにするっていうときの、「分か
る」っていうのは、どういう意味なんですか?
和合 作者としての意識が、強く出るっていう瞬間ということじゃないんでしょう
か。この人はこういうのを書きたいんだな、と強い意識を感じる瞬間というのが。例
えば田口さんのこの詩は、とても個人の領域に留まらない、巨視的な視線に置き換え
られて終わっている。同時に田口さんの存在は、何か超越的になっている。この詩句
にある「普遍性」というものが、田口さんの代わりに世界に眼差しを下ろしている。
この詩ばかりではないけれど、個から世界へすり替わるタイミングが見事だと思いま
す。
★
和合 どういうものに対して詩を書きたいと言う風に、今現在思ってますか?
田口 どういうものに対して、むらむらっと来るか、ということ?
和合 ええ。
田口 それは、そのときによって違うんじゃないかな。でも僕の場合は、言葉に反応
するケースが多いかも知れませんね。言葉というか、言語ですね。たとえば、「アル
マジロジック」なんかは、アルマジロの詩を書きたいっていうふうに、ふと思ったん
ですね。そのときは、「アルマジロ」という言葉に反応したんだと思う。
大村 (『アルマジロジック』の表紙を見ながら)これ、アルマジロいるの?あ、ほ
んとだね、いるんだこれ。
和合 ちなみに、この写真撮られたのは、ご自分ですか?
田口 この写真は、友部正人さんの奥さんで、写真家の、小野由美子さんが撮ってく
れたんです。
大村 ああ、やっぱり(アルマジロ)いたのか。
田口 ニューヨークで。でも、アルマジロは、コンピューター合成ですね。
大村 (笑)合成。
和合 それっぽいなと思ったんですよね。
大村 ちょっとそれは聞きたくなかったな。
田口 人によってはね、たまたまニューヨークをアルマジロが歩いていて・・・
和合 それを撮ったのかという?
田口 そう思っている人も多いですね。
大村 でも実際に、あったらすごいよね。
片野 とても自然に写って。でもよく見ると確かに、なんかちょっと、合成っぽい。
大村 中野の弁当屋の床を鼠が走ってるのを見たとがあります。まあそれはいいんで
すけど。
(2003/3/14)
★★★大村浩一さんの、「合成」ではない実話をもって、ひとまず今月は区切りをつ
ける。
現在、インターネットも含めて様々な詩の発表のフィールドがある。それは、喜ば
しいことだ。どんどん切り開いていくべきだし、何にでも詩は結びつく。ただ、そこ
に詩誌の活動も加えて欲しいというのが、それをずっとやり続けてきた私の願いであ
る。
さらに強調したいのが、場はどこでもいい、発表を終えたものを集めて、詩集にし
て欲しいということである。詩誌と詩集は、詩というものが日本に現れて実はまだ百
年ぐらいの歴史しかないのであるが、ずっと変わらないものなのである。現在の動向
を見ていると、少し寂しい感じがする、のが残念である。
田口さんは、二年間、ただもくもくと書き続けた時期があった、と言っていた。詩
人とは必ず、外側に全く目を向けず内側ばかりを見つめる時期がある、と言う。萩原
朔太郎の煩悶は凄いものがあった。石川啄木などはどちらかというと歌人だけれど
も、残されている作品の端々に、それが大いにうかがえるだろう。二年間の蓄積の電
圧が、現在のユニークな作風を流れているのだろう。詩を書く、という定型のない、
答のない行為において、このように立ち返ることのできる砦のような過去の時間は、
貴重である。次回は、もう少し田口さんの作品についても触れてみたい。(和合)