冬、奇妙な涼しい風がよぎる
     ――北村太郎「出口」を読む――

小笠原鳥類
 冬の
 ある日の、夜
 まだ、世界があるのに気づく
 
1篇の詩が、このように開始される。北村太郎(1922〜1992)の、詩「出口」の、最初の3行である。自分の死が近いかもしれない、世界がなくなるかもしれない、という不安が、冬の夜に、目覚める。それはとても寒いことだ。この詩の題名「出口」という語は、ここでは、この世からの〈出口〉を、示している。この詩が示す〈出口〉とは、どういうものであるか、ということを考えながら読んでみたい。そして、この詩「出口」は、次に
 
 とどめを刺される
 
こう来る。突然、である。ここで、不安は、寒さ、鋭さであり、また、暖かい室内に、開いた窓からの冷たい風のように突然侵入してくる、驚くべきものなのだ。冬の夜に、窓が開いて、冷たい風が突き刺さってくるような思いであった、ということだろうか。そして、詩「出口」は次に
 
 というのは個人、にかぎられるから
 まだ、は
 いつまでもつづくだろう
 
このように続く。「とどめを刺される」という1行は、周囲と関係なく、突然、そこにある、というものではなくて、前や後の部分と関連するものである。しかし、それでも、「とどめを刺される」という1行を、詩の1行として、前後の部分からある程度切り離して独立させることで、その1行は鋭く屹立する。この1行の出現が、1人の人間の死をある程度、描いているのかもしれない。
 「とどめを刺される」という1行がなぜそこにあるのかがわかることで、ある程度安心する、ということもあるのだが、しかし、完全な安心ではない。この1行は、驚くべきものである。
 「個人」ではなくて、全体である「世界」は、「いつまでもつづくだろう」けれど、「個人」は「とどめを刺され」て、どこかに行かなければならない、と言われている。しかし、「世界」も、もしかしたらなくなるかもしれない、という不安もここに書かれてある、と思う。北村太郎は別の詩で
「みんな、のんきな顔をしているけれど/カラオケでうたったり、ウインクなんかしていたりするけれど/いずれ地球は、ひびだらけになり/ヒトは消えてしまうのを、とっくに心得ているのだ/滅びない星なんて、ないことを」(/ は行分けを示す。註1)
と書いている。〈普通〉な生活の中にも、往々にして死や滅亡の予感が漂う。そして詩「出口」は、次に
 
 きっと
 寒い、ちいさい、たくさんの家の、部屋のどこかには
 針箱
 
2文字の1行で、「針箱」。針が入った箱が、不安を感じている人にとっては驚くべきものとして登場する。「部屋」の中も安全ではなくて、「どこかには」危険があるのだ。そして、その部屋は、「寒い」。寒暖計で記録される寒さというより、詩で発生させられるような、心理的な〈寒さ〉だ。そして、詩「出口」は、1行の空白の後で
 
 はいるのは
 どこから、だったろう
 出口は
 見えないようだけれど、はっきりしてるよ、そこは
 うす青い氷、ふさいでるから
 
ここで「出口」がはっきりしている、というのが興味深い。
 ところで、「はいるのは、/どこから、だったろう」という2行は、わかりにくい。「はいる」場所は、「出口」と同じなのだろうか。説明が省略され、突然、特異な2行として出現している、と言えるのかもしれない。
 この世からの、死への出口というのは「見えない」ものであるようなのだが、しかし、実は、「はっきり」と目に見えるものである、という。「うす青い氷」という物体が、死への入り口として、そこに、ある。北村太郎は初期の詩の1つを
「死者の棲む大いなる境に近づきつつある。」(註2)
という1行で終わらせたのだった。その詩でも、その接近は「冬の街。」(註2)という季節と場所でなされていた。冬は、「死者の棲む」ような場所がよく見える季節なのであるのかもしれない。
「寒い冬の物音は、どんな雑音でも澄んで聞こえるような気がする。」「冬、だいすきである。」(註3)
と、北村太郎は書いている。澄んだ物音に鋭敏であることは重要だ。
 ……
 余談を少し。間違っているだろうとも思うし、誰かが既に言っていることなのかもしれないが、思い付いたので。
 
 「死者の棲む大いなる境に近づきつつある。」の「境」という語はここでは、秘境や魔境のような場所であるのだが、しかし、この世とあの世の境界、境目であるのかもしれない。もしかしたら、詩「出口」の、「うす青い氷」といった境界の面のようなものが、実は、「死者の棲む」場所であるのか。死者は、ある程度の大きさの空間を占める肉体から解放されて、平面のような場所に住んでいるのかもしれない、と言うと怪しいけれど。平面に印刷されているような詩に、死者のような深刻なものが住み着いている、とは言える、かもしれない。
 そして、「氷」や、印刷された詩のような平面を見た時に、それが、ある〈向こう側〉への境界のように見えるのかもしれない。それは、境界の面である、と同時に、秘境のような場所なのである。というわけで、詩を読むことは、他の場所での本格的な体験を想起すること、であると同時に、その本格的な体験そのものなのである、ということを、「死者の棲む大いなる境に近づきつつある。」という1行、特にその中の「境」という文字は、示しているのかもしれない。
 「死者の棲む大いなる境」は、詩の〈向こう側〉にあって、詩によって的確に示されつつある。と同時に、書かれつつあり読まれつつある詩そのもの、であるのだ。
 また、境界の〈向こう側〉にある死者たちの場所を予感させ、同時に、そういう場所そのものである場所(境)として、〈墓地〉というものもあるけれど、北村太郎の最初の詩集の最初に置かれた詩の題名は「墓地の人」(註4)であった。以上は余談(ではないかもしれない)。
 ……
 そして、北村太郎の「出口」という詩は、1行の空白の後で、次のように続けられる。
 
 両手を
 洗面器の、湯にひたしながら
 
寒くてかじかんでいて動かしにくい手を温めて動か
しやすくしている、ということである。寒い場所、あるいは、未知なものがよく見えてしまうような場所で、詩を書いている時に、手の動きが止まること――書きにくい、言いにくい事柄に出会ってしまい、書くことを断念すること――を防止しているのである。そして、この詩人は、未知なものと出会いながら、しかし、恐れずに、果敢に書き続ける。詩「出口」の続き
 
 つらぬく、のが
 欲望なのか
 運なのか、わからないで
 
詩人がここで、未知なものに出会って、戸惑っている。冬に、なんだかよくわからないが「つらぬく」ものがある。
ここで高浜虚子のある俳句を思い出すのは妥当であるだろう。北村太郎は
「松の内の横浜の港をぶらつきながら、虚子の「去年今年つらぬく棒の如きもの」を思い出す。年頭になると、必ずこの句が口にのぼってきて、いやになる。いいのかわるいのか、さっぱりわからぬ、人をいらいらさせる作品だ。しかし、奇妙に記憶に残る。」(註5)
と書いている。何が言われているかわからないが、しかし何か重要なことが起こっているようだ、ということである。なんだかわからないが忘れられない、奇妙だ、と思わせる言葉の集まりは、未知なものを提示する〈詩〉である、と言えるかもしれない。
 この3行で、何が「つらぬく」のか「わからない」。その前に、この「つらぬく」が、どういうことかがわからない。「つらぬく」について、少し考えてみる。
 詩「出口」の中の、この「つらぬく」ものは、前に「とどめを刺される」という特に強い1行と関連する、人を刺し貫き、死をもたらすものだろうか。「運」というのは、〈不運〉であって、人の死は自分ではコントロールできない、ということである。それに対して、「欲望」というのは、自分の死をある程度自分でコントロールすること、を示しているのではないか。生きていたい、と強く思い続ければ、生きていられる。この「出口」という詩を書いた頃(1990年頃)、北村太郎は重い病気で、いつ死んでもおかしくない状態であった。だが、詩を書いて死に抗って、予想より長く生き続けた、のかもしれない。そして、〈死にたい〉と思った時、そのように「欲望」した時に、人は死に刺し貫かれる、「とどめを刺される」、のではないか……
 あるいは、ある年から次の年、去年から今年に年が改まって、しかし、何かが変ったという思いもあるのだけれど、変らない、一貫しているもの、「つらぬく」もの、はある、ということも、この「つらぬく」という語は、示しているのだろうか。生(せい)の持続。
 北村太郎は第二次世界大戦の直後に書かれた評論「孤独への誘い」で、
「時間という観念ほど非人間的な観念はないと思うのだ。」「精神、ある個人のうちにある自意識、その持続性と時間とはいったいどんな関係があるのだろうか。おそらく全く別のものだ。」「いわば主体の外側に、まるで関係なく時間というものがある。」(註6)
と書いており、この考察に賛同するかどうかはともかく、当たり前のものと思われている「時間」について、それがどういうものかを問い直して、それまでにあまり言われなかったようなことを言おうとしているのは興味深い。去年・今年といった、時計やカレンダーで示されているような〈時間の枠組み〉に制限されるのではない、より自分に適した生(せい)のあり方を模索しているのだ。だが、その模索は、それまでの自分を支えて(あるいは、抑圧して)いた〈思い込み〉を取り外し、未知なものを見せるものでありうるかもしれない。いろいろな枠組みに支えられ抑えられていない生(せい)は、この詩で示されているような死と、本格的に向き合う、のだろうか。そうかもしれない。
 それから、この「出口」という詩と同じ詩集に収録されている詩「浮く椅子」に「一日の終わりを、一年の終わりを/知らせるものは、ない」(/ は行分け。註7)という2行があり、人の行動を規定して人を支えている〈時刻〉や〈日付〉のような枠組みは、実は、存在しない、と言っている。支えがないと言うことにより、宙に浮いている椅子に座っているような不安が生じるようである。うくいす、という題名は、ウグイスという鳥を示してもいる(この詩でウグイスがどういう生き物であるか、というのは、まだ私にはわからない)のだけれど、「一年の終わり」なので、この詩も〈冬〉であり、鋭い寒さへの驚きがあるのだ。
 ……しかし、この、複数の意味がありそうな「つらぬく」のある、この3行については、〈これは、はっきりとした説明ではない〉と言うべきではないか、とも思う。何らかの考察が展開されているようなのだが。あるいは、別の場所に別の言い方でもありうるような考えではなくて、この言い方によってだけ存在し得る、デリケートで未知な考えなのか。この3行は、そしてこの詩全体は、読者の思考を、はっきりとしてはいないが確実に存在する、ある方向に向わせようとするのかもしれない。生(せい)の持続のようでも、死をもたらすもののようでもある、この「つらぬく」ものの、重大な動きを、ここで見ることができると思う。そのような未知なものとの出会いは、たぶん、死との出会いであり、生(せい)との出会いなのである。死を生々しく描くようなこの詩は、自分が生きていることの確認でもあるのだ。
 井坂洋子は、北村太郎の詩について
「日頃うすうす感じていて、言われてみればナルホドと合点がいくようなものではなく、まったく新しい、現実への切り口、鮮やかな認識に驚かされる。」(註8)
と言っている。比較的平易な言葉を組み合わせて、未知なものを書く、というあり方が、ここにある、と言っていいのかもしれない。
 そして、詩「出口」の最後の4行は
 
 冬の
 ある日の、夜
 新聞を敷いたフロアに、ずーっと、立っていて、そして
 ガラス窓は、はめ殺し
 
この4行の前に1行の空白がある。詩の最初の2行が繰り返される。「冬」であることを強調しているようだ。
 そして、なぜ、床に「新聞を敷いた」のかはよくわからない。説明が省略されているので、〈理由〉という枠組み、支え、から解放され、より自由でより不安な場所に読者は置かれる。北村太郎は70年代の詩「おわりの雪」(註9)について、
「「ふとんがずれて父も母も死んだ」の一行、どうして書けたのだろう。とくに「ふとんがずれて」。こういうのは不思議としかいいようがない。そういう行が、わたしにはずいぶんあるようだ。」(註10)
と書いている。
 なぜか知らないが出現する特異な言葉なのだが、しかし、なぜかうまく説明はできないのだが他の行と奇妙に調和していて、詩人によって削除されることもなく、完成され発表された詩の中にもある、1行。〈まとも〉な思考、〈日常的〉な風景、〈正常〉な文章の中に、突如、それらを攪乱するように(しかし、それらと奇妙に調和しつつ)出現する亀裂のような、1行。そういう行を、北村太郎の詩の中から探し出して読むのは奇妙に楽しい。奇妙な笑いがある作業だ。
 そして、茫然としているように立っていて、窓を見ている。最後の語である「はめ殺し」というのは、窓が固定されて、開閉ができない状態を示す語であるけれど、「殺し」があるので、不安な語である。「とどめを刺される」という、この詩の1行を思い出せる。「ガラス窓」を開けられないのだが、しかし、向こうに行きにくい窓が、普通な風景ではなくて、行きにくい場所である〈向こう側〉(あるいは夢、あるいは狂気?)を、こちらに見せるのである。
 
 それから、この詩の特徴として、「針箱」「洗面器」「ガラス窓」といった、見逃されそうな普通な物体が、しかし、重要なものとして出現してくる、ということがある。
 死に対する不安、世界の終わりの予感。それらが大事な詩であるのだが、死ぬのではないか不安だ、世界が終わるのではないか、といったことを書いただけでは、詩はまだ不安なものにはならない。「針箱」や「はめ殺し」の「ガラス窓」といった、静かな物体を示しつつ異様に機能するような語をうまく用いて、より確実に、不安を出現させることが、ここでなされている。
 それから、詩の行の長さを変化させているのが重要だ。例えば「寒い、ちいさい、たくさんの家の、部屋のどこかには」という長い行の次に「針箱」という、2文字だけの1行を出すことによって、「針箱」という物体に視線が集中するようにしている。
 ……勿論、そのような〈あからさま〉なやり方に対して、読者は、反抗したい、ここであえて「針箱」を外して読んでみたい、あからさまなものじゃなくて隠れているものを重視したい、と思うかもしれない。〈読者は〉というより、〈私は〉と言うべきか。……閑話休題。
 この詩の最後の2行でも、行の長さを調節して、最後の行「ガラス窓は、はめ殺し」が屹立するようにしていると言える。
 この詩の「、」(読点)の使い方も興味深い。順調な歩みというよりは、たどたどしく1つ1つのものを確認しながら進んでいくような動きを、いくつもの「、」が作っている。北村太郎は
「書きながら、また書き上げた後も、その詩の呼吸、つまりリズムに細心の注意を払うのは、わたくしの昔からの習慣。」(註11)
と書いている。リズムを調整して、「出口」の〈向こう側〉を書こうとしているのである。
 ……
 というわけで、ここまで、北村太郎の詩「出口」について考えたことをいろいろと並べたのだが、結論は、次のようになるだろうか。
 
《単語の選び方と並べ方、行の分け方、「、」の使い方を、調節することによって、この詩人は、この世からの「出口」、〈死〉、を、生々しく書こうとしている。その時、文章を理路整然とさせるような説明が省略されることや、詩人にとっても意外である言葉が登場してくることがあり、そうであることによって、読者は、座っている椅子が宙に浮いているような不安にさらされる。しかし、ここには、不安と同時に、このような書き方でないと出現しないデリケートなものが、「うす青い氷」のような幻のように出現しており、そういうものは、とても美しい、と、思う。》
 
 ここで、この詩人について少し紹介。
 北村太郎という名前は本名ではない(本名は松村文雄)。なぜ、この詩人が、このような名前にしたかを、私は、知らない(私は、彼の詩や散文を全て読んでいるわけではないので、知らないことも多いはずです。これからもいろいろ調べて、何かが分かったら「いん・あうと」に書く予定)。書くことを重視する人――例えば、詩人――が、書いたものを発表する時に使う自分の名前を考える、というのは、その人の書いたものについて考える時にも重要であるかもしれない。
 この名前を、北、村、太郎と分解できると思う。北はとても涼しい、あるいは寒い場所であり、鋭い場所である。だが、そこに人がいないわけではない。村がある。そして、北、村、太郎は、三好達治(1900〜1964)の、詩集『測量船』(1930)の中の「雪」(註12)という、とても有名な詩と関連すると思う。勿論、北村太郎がこの詩を直接に参考にして自分の名前を決めたかどうかは知らないが、しかし、三好達治がこの詩を書く時に重視していたことを、北村太郎も重視したのではないか、と、思う。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」(/ は行分け)
 この2行には、優しさ・温かさと、恐ろしさ・冷たさがあると思う。「太郎」「次郎」「眠」り「雪」それから繰り返しが、童謡(特に子守唄)のようである。弾むような楽しいものではないが確実で、既に知っているようで接近しやすいリズムがある。読者のノスタルジーと関わりやすい詩であると思う。
 しかし、この詩で、誰が、「太郎」や「次郎」を「眠らせ」ているのか。「雪」が眠らせるのであれば、これはとても優しい凍死ではないか、とも思う。凍死を童謡のように書くのは不気味である。
 凍死に対して悲しんだり、あるいは死のグロテスクに対して喜んだり笑ったり、といった、書き手の何らかの感情(それが三好達治本人の感情であるかどうか、というのは、また別の難しい問題)を示すような語彙は、この詩から排除されている、と言える。そういう語彙を省略して書き手の感情を示すという書き方も、ここでなされているかどうか、わからない。感情のない、とても不気味な人(人?)がこの詩を書いているような怖さがある。
 情報を徹底的に省略して書かれたような(あるいは、書かれてあること以外の情報がもともとなくて、この2行だけが不図、浮かんできたような)詩であるので、〈向こう側〉(あるいは、人の中の〈夢〉や〈狂気〉)の場所――こちら側から遠いので、何がそこにあるか分かりにくい場所――からかすかに届いたメッセージであるようにも見えるのだ。
 そういう性質は、北村太郎の詩「出口」にも、ある。「はめ殺し」の「ガラス窓」は、開かないのだが、しかし、開かないので、それゆえに、こちらから届きにくい場所にある〈向こう側〉(窓の外にある実際の風景ではなくて、人間の狂気や夢のような、実際にはありえぬ場所)を強く思わせるのだ。そこから届いたメッセージを書き記すようにして、詩人は、時折、予想を超えた1行、あるいは複数の行を書いてしまう。北村太郎が自分で書いて、そして、「どうして書けたのだろう」、と驚くような。そのような奇妙な言葉が、〈出口〉からの、涼しい風として、よぎる。
冬、……
 というわけで、北村太郎という名前が、寒い鋭い場所、雪、そこにいる人、人々、そしてたぶん、眠り、死、〈向こう側〉、……といったものたちと関連している、と言うことが、できるのかもしれない。勿論、彼の詩は、冬を描いたものだけではなくて、他の季節を描いたものもあるし、あまり季節と関連しないものもあるのだが、しかし、この〈北〉のある名前が、寒さを常に漂わせるのだ。
 この〈寒さ〉は、この詩人の、〈対象を見る目の厳しさ〉、であるのかもしれない。愛情がないわけではない。しかし、見る能力が凄くて、異常なものを見てしまうのだろう。それはとても〈寒い〉ことである。
 そして、最後に、とても、とても大事なことを《 》に入れて書きます。
 
《この詩人の本で、現在、最も入手しやすく、図書館でも見つけやすいと思われるのは思潮社の2冊の現代詩文庫である。『北村太郎詩集』(1975)と『続・北村太郎詩集』(1994)。》
 
 

 
 北村太郎の詩「出口」は、詩集『路上の影』(思潮社、1991)に収録された。現代詩文庫『続・北村太郎詩集』思潮社、1994、107ページから引用。また、この文章の題名を考える時に、その『続・北村太郎詩集』の表紙に松浦寿輝が書いている短い文章の、最後の部分「ひやりとした死の感触が一滴の水のようによぎって過ぎる。」を、参考にしている。
 
(1)北村太郎の詩「すてきな人生」から。没後に刊行された詩文集『すてきな人生』(思潮社、1993)に収録された。現代詩文庫『続・北村太郎詩集』思潮社、1994、114ページから引用。
(2)北村太郎の詩「センチメンタル・ジャーニー」から。彼の最初の詩集『北村太郎詩集』(思潮社、1966)に収録された。現代詩文庫『北村太郎詩集』思潮社、1975、11〜12ページから引用。
(3)北村太郎のエッセイ「冬の楽しみ」から。没後に刊行された散文集『樹上の猫』港の人、1998、183ページから引用。
(4)北村太郎の最初の詩集『北村太郎詩集』(思潮社、1966)の最初の詩。現代詩文庫『北村太郎詩集』(思潮社、1975)にも収録されている。
(5)北村太郎の評論「松村武雄 ――『冬の魞』をめぐって」から。散文集『樹上の猫』港の人、1998、165ページから引用。
(6)北村太郎の評論「孤独への誘い」から。現代詩文庫『北村太郎詩集』思潮社、1975、83ページから引用。この註の中で、エッセイや評論などのジャンルを示す語を使っていますが、それらの語を厳密に定義して使っているというわけではないです。
(7)北村太郎の詩「浮く椅子」から。詩集『路上の影』(思潮社、1991)に収録された。現代詩文庫『続・北村太郎詩集』思潮社、1994、111ページから引用。
(8)井坂洋子の評論「目の"現在"」から。入沢康夫・三木卓・井坂洋子・平出隆編『詩のレッスン』小学館、1996、31ページから引用。
(9)この詩「おわりの雪」は、北村太郎の詩集『おわりの雪』(思潮社、1977)に収録された。現代詩文庫『続・北村太郎詩集』(思潮社、1994)にも収録されている。
(10)北村太郎の評論「北村太郎  詩づくりの現場」から。散文集『詩人の森』小沢書店、1983、182ページから引用。
(11)北村太郎の評論「北村太郎  詩づくりの現場」から。散文集『詩人の森』小沢書店、1983、187ページから引用。
(12)『日本詩人全集21 三好達治』(新潮社、1967)の27ページから引用。ところで、この「雪」については、入沢康夫が、他の人の読み方を参考にしながら、非常に丹念に読んで文章を書いている。その文章「太郎を眠らせ…… ――詩の「解釈」とは――」(『新装版 現代詩読本 三好達治』思潮社、1985に収録)は、小さな文字で2段組みで7ページであり、「すでに与へられた紙幅を超過し」て書かれてある。わずか2行の詩でどれくらい長い文章を書けるか、という実験(あるいは、遊び?)にも見える。1篇の詩が、読者に何をどのように、どれくらい多く考えさせるものであるか、1篇の詩はどれくらい多くの、着目すべき要素(あるいは、面白さ、魅力)で充実しているのか。ということについて非常に参考になるし、面白い文章であると思う。


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