存在しないものと動物と行列 ――川崎洋の詩を読む――
小笠原鳥類
目次
1――存在しないものを存在させること
2――驚くべき動物の登場
3――「通過する悲惨な仮装行列」
まとめ
 
 
1――存在しないものを存在させること
 
 岩波ジュニア新書の、川崎洋『ことばの力』(1981)は、言葉についてのエッセイ集である、ということが言える。まともな本であるように見えるのだが、「まえがき」に
 
「ここに白紙をつづり合わせたものがあったとします。ところが、
「これは絵のない絵本だよ」
といわれると、ただの白紙をつづり合わせたに過ぎないものが、にわかに輝かしさを帯び、白紙にゾウやワニや魔女の姿が見え隠れすることになる。ことばには、たとえばそんな働きがあります。」(iiiページ)
 
まえがきから既に、奇妙な歪みが始まっている、のかもしれない。サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最初の部分で、作者が帽子のようなものの絵を読者に見せて、これは帽子じゃないですよ、ゾウを食べて消化している大きなヘビなんですよ、という大変なことを言うのだけれど、それに似たことを川崎洋はここで言っているようである。
他の人には見えないものを見ること、ということが、そういう特別な能力のない人(私もそうだが)をひどく驚かせる。白紙に「ゾウやワニや魔女」を見る、というのはどういうことなんだろう。それから、この文章の続きは
 
「ふだんわたしたちは、空気を意識しないように、何気なく、ことばを口にしています。それで、ことばというものを、あらためてみつめ、その働きについて考えてみようということから、この本を書きました。」(ivページ)
 
詩を書くこと、詩を読むこと、というのは、普段あたりまえのように使うことで軽んじている言葉を、おもしろくて大切なものとして出現させること、であるだろう。というわけでこのような文を詩人が書くのは当然なのだが、しかし私はここで、〈だからこそ詩は異常なのだ〉ということも言ってみたいのだ。あたりまえのものをあたりまえのものとして軽く取り扱うことができない、というのは、例えば呼吸や歩行さえも1つ1つの筋肉や内臓の動きを確認しながら行うような、ひどく不自然で疲れる状態ではないだろうか。そしてそういう状態の人にとって、通常であることは異常なのであり、なにもないことが、ひどくいろいろなことが起こっていることなのであり、白紙であることはそこにいろいろなもの(ゾウとかワニとか魔女とか)が、いる、ということなのだ。常にそこには何か、とても異様なことが起こり、異様なものが、そこに、いるのである。
 
    花
 
 花がなければ
 世界は寂しいか
 ならば
 それがないために
 かく荒寥としている
 というものは
 なにか
 
(詩集『海を思わないとき』思潮社1978に収録。現代詩文庫『続・川崎洋詩集』思潮社1995、24ページから引用)存在しないものについて考えようとすること。だがそれはとても大変なことである。どうすればよいのだろう、そこに何があるのだろう、という問いが、いつまでも答えのない状態で宙吊りになる。この詩人は、そこに何が隠れているのか、という不安に常にさいなまれている、と言うこともできるだろう。
 彼の現代詩文庫『川崎洋詩集』(思潮社、1970)の最初(8ページ)に置かれている詩「はくちょう」(詩集『川崎洋詩集』国文社1968に収録)には、あるのかないのかよくわからないもの、氷のようにくだけそうなもの、夢の中にあるものとして白鳥が登場する。
 
 はねが ぬれるよ はくちょう
 みつめれば
 くだかれそうになりながら
 かすかに はねのおとが
 
 ゆめにぬれるよ はくちょう
 たれのゆめに みられている?
 
(中略)
 
 すでに かたち が あたえられ
 それは
 はじらい のために しろい はくちょう
 もうすこしで
 しきさい に なってしまいそうで
 
 はくちょうよ
 
「かたち が あたえられ」ということは、形がなかった、ということである。そして「しきさい に なってしま」う、というのは、白鳥が「はじらい」で色づくということでもあるだろうけれど、もっと文字通りに、白鳥が色彩になる、ということでもあるのだろう。色彩という、抽象的なものに変化してしまうのである。それは、そこに実際に存在するものと、実際に存在しないものとの違いが曖昧になることでもあるだろう。この詩の全てがひらがなで書かれており、ひらがなが丁寧に並べられることによって、文字が、実際に存在するような物体としてそこにあるようでもある。この「はくちょう」という詩はとても綺麗であるけれど、存在しないはずのいろいろな魔物のようなものを見てしまうこの詩人が見るものは、常に綺麗であるのではない。
 
 
2――驚くべき動物の登場
 
 『ことばの力』は、挨拶とか方言とか悪口とかについての比較的まともなエッセイを集めた本として読むこともできるのだが、それぞれの章の最初のページを飾る人形の写真が不気味に見える。vページの、やや暗い「型から抜き上がった人形の頭」(大量に並んでいる!)の写真は、川崎洋が撮影したものではないようだが、北原白秋の詩「人形つくり」(詩集『思ひ出』に収録)に匹敵する戦慄を引き起こす。
 そして、この本には、川崎洋という詩人について考える時に極めて重要な1行が登場する。
 
「動物の世界には、おどろきがあふれています。」(46ページ)
 
言葉についての本に、動物について書かれた部分があるというのがやや特異である。そして
 
「親しいある水族館の館長さんから聞いたことによると、海のなかには、わたしたち人類がまだ出会ったことのない、いわば未知の魚がたくさんいるだろうとのことで、その種類は、タイやサバなどそのほかのすでに知っている魚の二倍にのぼると推定される――とのことでした!」(48ページ)
 
いよいよ奇怪だ。この詩人は、
この本でかなり〈やわらかい〉書き方をする。子供でも読めるような楽しいエッセイとして書いているので、もしかしたら普通に読まれてしまう部分であるのかもしれない。だが、ここにはたぶん、隠れている未知の生き物に対する驚きや恐怖、あるいは憧れがあるだろう。比較的若い頃の詩「猪・魚・手紙など」には次のような部分があった。
 
 おやあなんだか人間の匂いがするぞお
 子供は夢に脅えて寝返りを打つ
 そのとき
 暗い小屋から一頭の猪がさっと走り出す
 飼馴らすことのできなかった猪を
 呼び返したのは いつも
 森の棘 虫の死骸
 湧水のそばの動物達の足あと
 
(中略)
 
 港では一人の狂女が月を浴び
 魚を生きたまま指飾りにしようとして
 指にはさんで落し
 落してはつまみあげて静かに砂を払う
 そのとき
 そのそばを通過する悲惨な仮装行列
 
(詩集『川崎洋詩集』国文社1968に収録。現代詩文庫『川崎洋詩集』思潮社1970、28〜29ページから引用)動物が突然、走り出すのである。そして、悪夢の中に住むような、未知の魚がいる。悲惨な仮装行列が怖い。ゴヤの「鰯の埋葬」という、中央に暗いまがまがしい笑顔が描かれ、周囲で人々が仮装して踊っている不吉な絵に描かれているような事態でもあるだろうか。
 それから、私にはまったくわからないのが次の詩。
 
    こちらへどうぞ
 
 あなたの眼をどうぞこちらへ
 みっしり生えた金色の毛が
 少しづつ捩れて
 風に吹かれている方へ
 虎の首の下 前肢附根のあたりへどうぞ
 ずうっーっとどうぞ
 あなたの風邪をひいた鼻をどうぞこちらへ
 じゃぶじゃぶ湿った虎の鼻の切込の中
 の方へどうぞずうっとどうぞ
 あなたの
 時々水浴なんかする
 萎びたパンのようなお尻をどうぞこちらへ
 満月のような虎の顔の前へ
 ずうーっとどうぞ
 
(詩集『川崎洋詩集』国文社1968に収録。現代詩文庫『川崎洋詩集』思潮社1970、37〜38ページから引用)ここで一体、誰によって、何が命令されているのか? 少なくとも、悪い人が、〈虎に食べられなさい〉と命令している、というのではないのではないか、と思える。もう少し歪んでおり、普通な意味のまとまりをここから解読することはできないのではないか。
 詩「結婚行進曲」は、結婚の風景に、そこにないはずの熱帯の森林の風景、そして生き物たちが混入してくる。「白紙にゾウやワニや魔女の姿が見え隠れする」ように、ないはずのものがそこに見え隠れするのである。途中まで引用
 
 染みるような
 くだものの匂いが風にいりまじりっと
 花嫁のベールが そそと
 動くような動かぬようなっと
 森ではけものが背中をなめようと
 くびをうしろへめぐらしっと
 
(中略)
 
 一夫一婦を守るのは
 蛙と蜥蜴と狐だけだっと
 サナダムシは己れが体節ごとの
 雌雄のセックスで自己交接して
 一生を終るっと
 花嫁はふと恋人の冷たさと熱さの
 いりまじった口もとを想い出しっと
 花聟は厚生年金の番号を思い出しっと
 河ではワニが白腹を青空に曝しっと
 
 (詩集『川崎洋詩集』国文社1968に収録。現代詩文庫『川崎洋詩集』44ページから引用)動物が突然、なぜか登場してくるのである。それは結婚式の風景と関連したりしなかったりしながらこの詩をなんだかわからない奇怪なものにしていく。
 この詩人にとっての動物は極めて特別なものであったようだ。例えば、次のような詩がある。
 
    鳥
 
 鳥を歌おうとおもう
 もっとも素朴に
 まず くちばし
 つばさ
 どうたい
 足
 しっぽ
 眼
 それだけでいい
 それだけで
 鳥は飛べるのだから
 
 (詩集『川崎洋詩集』国文社1968に収録。現代詩文庫『川崎洋詩集』45〜46ページから引用)「くちばし/つばさ/どうたい/足/しっぽ/眼」と、動物に関する語彙を並べればそれだけで詩が成立する、という考え方があるようなのだ。彼には『魚名小詩集』(花神社、1984)という詩集があり、いくつかは現代詩文庫の『続・川崎洋詩集』(思潮社、1995)にも収録されている。「トビイカ」を途中まで引用(『続・川崎洋詩集』67ページ)
 
 イカがトビウオのように飛ぶ
 という話を聞いたのは
 小笠原の島民からだ
 マグロなどに追われて切羽つまり
 水をうしろに噴出させて海の上へ逃げるのだ
 という
 少し飛び過ぎて
 サンゴ礁の上に着陸するのがいる
 魚なら跳ねて海へ帰ることができるが
 イカはそれが出来ない
 水をすっかり吐き出して
 ぐったりしているのを
 島民がバケツ片手に拾い集める
 という
 
ここには、〈現代詩〉というジャンルの特徴であるような、言葉の特殊な技術がほとんどない、と思う。この詩人にとって「動物の世界には、おどろきがあふれてい」るのだから、このような動物がいるのですよ、ということを書けばそれが〈詩〉なのである。現代詩文庫の『続・川崎洋詩集』の表紙で辻征夫が「川崎さんは、普通のことを普通にいうひとである。けれど川崎さんの普通は世の中の常識では、普通をとっくに通り抜けてしまっている。たとえば川崎さんが空が青いというとき、空は、思い入れとか、感慨とか、なんだかわからぬそういうごちゃごちゃとはまったく無関係に、ただ青い。(中略)何か強固な方法論があるのに違いない。」と書いているのは興味深い。確かに、思い入れや感慨とか教訓とか思想とかそういったものとはほとんど無縁に、「鳥」という詩では鳥の体の部分の名前が並べられ、「トビイカ」という詩ではトビイカの生態が記述される。だがもしかしたらここにあるのは「強固な方法論」ではなくて、〈動物が詩であることに対する強固な信頼〉あるいは〈素材をそのまま並べればそれが詩になることへの信頼〉であるのかもしれない。そういう信頼があるから、余計な考察や感慨とは無縁に、単に動物の生態を記述するだけで詩として提示することができて、確かにそれは詩である(のだろうか)。動物について書いただけでは詩として不足しているのではないかと思って、中途半端に〈良いこと〉を詩の中に書き込もうとするとダメなのだ、たぶん。
 
 
3――「通過する悲惨な仮装行列」
 
 彼には2冊の現代詩文庫(思潮社)があり、『川崎洋詩集』には1960年代までの詩、『続・川崎洋詩集』にはそれ以降1990年頃までの詩が収録されている。前者には、「結婚行進曲」あるいは「はくちょう」「ゆうやけの歌」のように、あらゆる部分に工夫がほどこされているような、凝った詩(いわゆる〈現代詩〉であるだろうもの)が多く収録されていると思う。だが後者には、いかにも〈現代詩〉であるような詩はあまりなさそうである。ところが、後者が普通であるとか、過激でないとか、そういうことではないのだ。特に、いろいろなものを集めて並べる詩に、彼の詩の過激さを容易に見ることができると思う。
 
    祝詞
 
 おめでと
 おめでとがんす
 おめでとがす
 おめでどござりすた
 おめでとうがんした
 おめでとうごぜんす
 おめでてえねえ
 おめでとうごいす
 おめでとござんす
 おめでとござんした
 めでたかったね
 おめでとございます
 おめでとうさん
 おめでとうはんです
 おめでとうごだえんす
 おめでたかことで
 おめでとござんする
 めでとうがあったじゃねか
 
 (詩集『祝婚歌』山梨シルクセンター出版部1971に収録。現代詩文庫『続・川崎洋詩集』12ページから引用)さまざまな方言のお祝いの言葉を集めて並べただけのようであるとも言えるのだが、このように並べられると不気味でもあるようだ(虫のように?)。ある特定の情況で用いられるはずの文がその情況から切り離されるととても奇妙になるのだが、その奇妙さをどこまでも積み重ねて過剰にしていっているようである。そしてその時、詩人が〈余計なことをしていない〉のがとても効果的であると思う。この詩に「このようにいろいろな言い方があるのは素晴らしいなあ」とかいった余計な1行は、いらない(いや、そういうものがあると奇妙な面白さが生じてきたりするのかな)。
 
 このような奇妙さをさらに過激にしたのは詩集『悪態採録控』(思潮社、1984)で、『続・川崎洋詩集』にはその中から「悪態採録控――江戸落語篇」が収録されている。2段組で26ページ、かなり大量である。一部分を引用(『続・川崎洋詩集』76ページ。「五代目(現)圓鏡――湯屋番、反対車」「三代目三遊亭金馬――孝行糖、居酒屋」という行はゴシック)
 
 五代目(現)圓鏡――湯屋番、反対車
 ビルディングの屋上にいてねェ、風の強い日にバーッと
  落っこっちゃってェ、下ィペチャンコなったとこへ
  ローラーが来て轢いちゃってそこへあばれ馬が来て、
  蹴とばされてェ、えゝ? そィで、この、ぬかみそィ
  一年半漬けといた顔だってえんだ
 おまいとこのかかあ育ちがわりいから疑ぐり深い
 名代の道楽者
 この助平
 あたしの俥はねェ、政府から、古いッて勲章もらってる
  くらいですからね、乱暴に乗らないでくださいよ
 この野郎目の玉ィ指ィ突っ込むぞォこんちきしょォ
 
 三代目三遊亭金馬――孝行糖、居酒屋
 与太郎のバカが
 けしからん奴じゃ
 愚かしい者
 やせっこけた、干物みたいなじじい
 水っぽい酒ってなァあるけど、酒っぽい水だよ、こりゃ
  あ
 こりゃあひでえや、樽ゆすいだ水みてえなもんだ
 酒呑みはやっこ豆腐にさも似たり、はじめ四角であとが
  グズグズ
 きたねえ手だなァ、ベースボールの手袋みてえじゃねえ
  か。でも、丈夫だな、本皮だろう
 
この「詩」を、落語の中から面白い悪態を集めて並べた学問的な成果なのであり、まともなものであるのだ、と思って読むこともできないわけではない。だが、最初から最後まで悪態だけであるというのはかなり奇怪ではないだろうか。それらが使われるべき情況から切り離されて、誰が喋っているのかもわからないような(幽霊が喋っているような?)状態でふわふわ漂っているのである。それは悪態であるのだから、これらの文は本当に読者に対して底気味悪い憎悪を抱いているものとして登場してくるようでもある。この文章で引用した彼の詩「猪・魚・手紙など」の部分をもう一度引用してみようか。
 
 港では一人の狂女が月を浴び
 魚を生きたまま指飾りにしようとして
 指にはさんで落し
 落してはつまみあげて静かに砂を払う
 そのとき
 そのそばを通過する悲惨な仮装行列
 
もしかしたら、「通過する悲惨な仮装行列」に、この詩人はとりつかれていたのではないか、と言ってみたい。勿論、「悲惨な仮装行列」という言い方をこの詩人はこの詩以外であまり使わないだろうけれど、しかし、この詩人の特性の1つを言い当てた言い方であるように思えるのだ。
 彼の詩には往々にして、多くの行が連続してまとまった長い文章を作るというよりも、1行あるいは数行が短いまとまりとしてあり、その短いまとまりの連続として詩がある、という性質を見ることができると思う。「結婚行進曲」もそうだし、「祝詞」も「悪態採録控――江戸落語篇」もそうであった。彼の詩(散文もそうだが)はかなり人懐っこくてほほえましいものに見えたりもするのだが、それは実は「仮装」なのであり、その下には「悲惨」なものが隠れている(ことがわかってくるので、やがて、「仮装」の仮面や服も「悲惨」なものに見えてくる)。
 次のように言うとより明確だろう。詩の短くまとまった1つ1つの部分だけを独立させると、それは楽しかったり愉快だったりもするのだが、それらを行列として(不自然に)まとめた時に、楽しさ・愉快さは仮面となって、その下に重苦しいものとしての〈素顔〉が生じる。こうして、詩は「仮装行列」としての「悲惨」なものになる、ということが言えるだろう。そして、
 
    花と魚の関係
 
 はなは
 はなやで
 はなひらくけど
 さかなは
 さかなやで
 さかない
 
(少年詩集『しかられた神さま』理論社1981に収録。現代詩文庫『続・川崎洋詩集』50ページから引用)これはとても小さな行列ではあるけれど、とても悲惨だ。ここで、〈死〉が、ひどく正確に書かれている、のかもしれない。
存在しないようなものがここではっきりと存在しているようでもあるのだ。
 
 
まとめ
 
 川崎洋は、何もないような場所に「ゾウやワニや魔女」、あるいは「はくちょう」のようなものを見ようとした、あるいは発生させようとした詩人であり、それは往々にして動物を驚くべきものとして登場させることだったということが言える。
 それから往々にして、この詩人によって集められて並べられた言葉が、個々の短いまとまりだけを独立させれば楽しいのだが、不自然に連続させることでまがまがしい行列として登場してくるのであった。
 今回の考察は以上で終わるけれど、川崎洋の詩には他にもいろいろな問題がありそうではある。何かをはっきりと思いついたらまた彼の詩について書いてみたい。


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