幻のようなものを出現させること
       ――『ヴェロニカの手帖』『モダニズム詩集1』『十字公園』――
小笠原鳥類
目次
 

ゲンナジイ・アイギ(たなかあきみつ訳)『ヴェロニカの手帖』群像社、2003年4月
鶴岡善久編『モダニズム詩集1』思潮社、2003年5月
杉本徹『十字公園』ふらんす堂、2003年9月
結論
 
 

 
 私が往々にして好んで読むのは、明らかに異様である言葉の群れである、ということになる。なぜそうなってしまうのか。
 そこでは、文法も、単語の選び方も並べ方も明らかにおかしい。そのような状態が延々と長く続いたりもする。そういう状態の言葉が、しかし時々、単なるデタラメではなくて、独特な美しいものとして出現してくることがあると思うのだ。それは単なる紙とインク、文字の群れであるだけではない、そこに出現してくる幻のようなものだ(言うまでもなく、紙やインクや文字も素晴らしいものであり得るのだが、それが素晴らしい時にはそれは普通の紙・インク・文字ではなくて、もっと別の呼び名で呼ばれた方が妥当であるような、幻のような〈美しいもの〉である)。
 「幻」と言うと、確かに、怪しい。もう少し説明しよう。文字は、普段、あまりにも当たり前のものだ。それぞれの単語も、文も、記号も、情報を伝える手段として、あまりにも乱雑に取り扱われている。しかし、それだけでいいのだろうか。文字や単語や文やいろいろな記号を丁寧に取り扱うことによって、そこには、言葉による美が生じてくることがある。それが詩の出現である。単なる道具ではなくて、言葉が、愛すべきものとして出現してくる。そのことを私は幻の出現と言っているのであって、コナン・ドイルのように心霊がどうであるとか言っているのではない。
 
 そのような幻として出現する言葉というのは、別の場所にある物事を実用的に示すだけではなくて、過剰な言葉であると思う。また、それほどありふれた言葉ではなくて、ある程度の独自性を持つ言葉であるだろう。例えば、単純に「風が吹いている。綺麗だ」「パンダが歩いている。凄い」とか言っただけでは不十分で、もっとその風について、綺麗について、パンダについて、凄さについて、徹底的にいろんな語を並べることによってしか出現しない、幻のように綺麗なものがあるのだ。時々、詩人は、言い表しにくいことを言い表そうとして戸惑い、迷い、うねうねとした詩を書いてしまうのである。
 勿論、比較的〈普通〉な言葉で書かれた素晴らしい詩というのも存在し得るだろう。だが、そういうのは私とは〈趣味が違う〉のである。普通に綺麗な置物じゃなくて、グロテスクな置物(怪物など)をたくさん集めている人がいますが、私はそういう〈変わった趣味〉の人なのです。名前が鳥類だからね(本名ではない)。歪んだグロテスクな置物のような言語を愛しているのでした。しかし、それほど〈変わった趣味〉であるとも言えないかもしれない。変わったものを集めるということは実は割合、普通なことであるだろう。「開運なんでも鑑定団」も長く続いているし。
 2003年に刊行された、そのような特異なものである詩をここでいくつか読む。他にも優れた詩集は多く発表されたけれど、1つ1つの詩についてできるだけ丁寧に読むことをここでは重視したい。丁寧に読まないと見えないものがある。いくつかの専門的な用語を並べたり、あまり根拠もなく思いついたことをいくつか並べたりしただけでは、丁寧に詩を取り扱ったとは言えない。特異な言語は、読めないはずのものであり、それを読むというのがどれくらい確実性のある作業なのか、ということについても疑問に思わないわけではないのだが。それでも詩は言葉のまとまりなので、詩の中のそれぞれの要素が関連し合って何らかのまとまった、かなり確実に存在する意味を形成して、詩人はその形成された意味の美しさを確認してから発表する、ということはなされているはずだ。というわけで〈現代詩は、読める〉と言ってみたい(勿論、現代詩を読めないんじゃないか、まともに取り扱うことは不可能なんじゃないか、
デタラメなんじゃないか、という疑いを、誰よりも強く持っているのも私である、と思う)。勿論、そこまで丁寧に読まなくても美しさ面白さを感じ取ればいいのだが。
 というわけで、いつも文章が長くてすみません。詩を読むことはそれほど大変だとは思わない(大変だったとしても、嫌だとか面倒だとか思うことはあまりない)のだが、読んで考えたことをしっかりと説明することはかなり手間がかかることだと思う。また、「現代詩手帖」などを読んでいても、日本語の〈現代詩〉について、どういうものなのか説明する文章を書く技術はまだまだ発展途上であると私は思う。詩を丁寧に愛でるために、詩を読むこと、詩について説明することについていろいろ模索しつつ、自分で納得できる適切な言い方を見つけながら進まなければならない。そのようにして、ある詩についていろいろなことを書いていると文章はいつの間にか長くなるので、今回、私はあまり多くの詩集について書くことはできません。今回は3冊です。他のいろいろな詩集については今回の特集で他の人がしっかりしたことを書いてくださると思います。思いたい。
 
 
1――ゲンナジイ・アイギ(たなかあきみつ訳)『ヴェロニカの手帖』群像社、2003年4月
 
【引用1】
 
見ることが
できるだろうか
風に――風の陰影を?――
 
また再び
わたしは光の環に
ぐるぐる突入しつつ(ある種の問いかけも同然に
おそらくは:いささか――光ともども)――
 
ほとんど息つぐ間もなくさもささやきながら
そして戦きながら――唇の動きの
意味を前にして――
 
それから――気を失っても!――
 
わたしは入り込む‐かと思えば‐さまよったり
 
                    一九八三年六月
     〔「また再び――表情を捉えながら」。『ヴェロニカの手帖』から引用〕
 
風や光があるが、風景の描写はほとんどなくて、どこに何人の人がいるのかもわからない。「唇の動きの意味」というのは、誰かが何かを喋っているということだろうが、何が喋られたのかはよくわからない。最後の行の「入り込む」、「さまよ」う、というのがどこでなされるのかもよくわからない。「光の環」に入ったり、その周囲をさまよったりしているのだろうか。
 説明が不足している。断片的な文章であり、なぜ誰がいつどこで何をどのように、ということはほとんど説明されていないと言える。
 だが、実際に何かをしている、実際に何かが起こっている時に、そこには実はほとんど説明はないのかもしれないのだ。何かをしている時、何かが起こっている時に、頭脳の中を通り過ぎる、その何かに関わるいくつかの語。それは断片的なものではあるが、今起きていることに生々しく関連してくるようだ。まとまったわかりやすい文章では記録されなくて、断片的な言葉によって記録されることがある。そのような言語によってしか出現しない「風の陰影」、「光の環」のような、とてもきれいなものがあるのだと思う。
 これは翻訳なので、もとの詩(ロシア語)はこれほど断片的で異様なものではなかったのではないか、とも思う。もとの詩が面白かったかそれとも意外につまらなかったか、というのは、日本語の詩を愛読する者にとってはそこまで重要ではないのかもしれない。ここにあるのは、たなかあきみつという詩人によって書かれた日本語の、特色のある詩集である、ということが私にとっては重要である。
 
【引用2】
 
でもやせっぽちのアーシャには
収まりきれないんだよ
善良さは! そして顔は――境目がない:
まるでざわざわ‐目くるめく通りのよう
小さな窪地を越え――跳びはね‐かつ‐飛び越え
さらに遠く――輝こうと! そして耀よう女の子が
登場する――わが世界におまえとともに
笑みを浮べて――またもや――りんかくをなぞりながら
お客さんとして!……でも小さな手は――農婦のと同じく
切り傷や引っかき傷だらけ《ママが
キュウリの皮をむかせるの》
そしてやさしく‐《働く》切り傷や擦り傷の群棲地にあっては
わたしと――おまえは――さも古い
――貧しくも‐すこぶる気前のよい幼年時代の――圏内にあるかのよう
(無限大の世界を
含みつつ)
 
                    一九八三年七月
     〔「われわれの方へしきりに近づいてくる五歳のアーシャ」。『ヴェロニカの手帖』から引用〕
 
ここで、子どもがこちらに接近してくるということは、微笑ましいことではあるが、それだけではない。子どもの、まだ〈標準的な完成〉に至っていない言語は、大人を驚かせる。その言語の状態は、単に〈未発達〉である、というよりは、〈発達した言語を用いている状態〉とは別の、もう1つの充実した状態であるのかもしれない。まだ「善良さ」を持つには至っていないようだが、しかし、別のものを子どもは持っている。「幼年時代の――圏内」という、異様な言語で充実した場所(「無限大の世界」であるだろう)から、子どもが「しきりに近づき」、こちら(「われわれの方」)にいる詩人を導くのである。この詩で示される〈向こう側〉は、とても魅力的である。微笑ましさと、異界への誘いとが共存する詩である。「顔には――境目がない」というのはどういうことかよくわからないがとても異様だ。
 もとの詩の言語では、多く用いられる記号はそこまで異様には見えないのかもしれないが、この翻訳で多く用いられる「:」や「‐」は日本人の読者にとってはたぶん、かなり独特だ。魅力的だと思いながらも、まだこれらの記号が日本語の詩の中でどう機能するものであるかを私はうまく説明できないでいる。このような記号を多く用いた日本語の詩集として、例えば伊武トーマの『a=a』(思潮社、2001)がある。その中の「スプレムス」という詩には
「黄金比を弾き出す蟋蟀の健脚 : (しかも山頂をひと跨ぎ!)」
「薄れてゆく大気のなか‐徐々に解離する眉 : 交差する‐"蟀谷"」
「秘匿されているぞよめきのなかで : 連座する瞳孔の花々! ――」
とかいった、「山頂へと向かう」ような、力強くて特異な行が並んでいる。「:」や「‐」は、「、」や「。」や空白よりも強い断絶であり、書く者にとっても読む者にとっても、意味の普通な繋がりがないことによる〈驚き〉を用意するものである、ということは言えそうだ。
 『ヴェロニカの手帖』からもう1つ引用。短い詩を。
 
【引用3】
 
   1
風に舞う紙片
 
   2
ふきゃれびゅうかれさわに
ひゅうれんめん
びゅうかれとてえいわさに
りゃあさほほん
 
   3
そして見つけられず
                    一九六一
     〔「失われた頁 (あるいは:庭の雪)」。『ヴェロニカの手帖』から引用〕
 
特に「2」が異様だ。なんなのだ、これは。雪が文章を書いた「紙片」のように見えたので、その文章を記録したらこのようになった、ということである。そして、その文章に、どういう意味があるかは「見つけられ」なかった、という。雪が降っている状態をそのままで言葉にした、言葉を、降っている雪にした、ということは言えるのかもしれないが、しかし、ひたすら異様だ。
 
 
2――鶴岡善久編『モダニズム詩集1』思潮社、2003年5月
 
 この本に収録されている、30人以上の詩人の詩は、1923〜1941年に発表されたものなのである。私が読んだことがない詩が多く収録されているのは私の勉強不足であることは確実だが、それと同時に、ほとんど忘れ去られていた詩を編者が発掘した、ということもあるのだろう。これらは60年以上前の詩であるし、それらが書かれた後にも大量の詩が書かれたのだが、しかしこれらの「モダニズム」の詩が、その後の詩によって凌駕された、色褪せた、と言うことは私にはできない。勿論私も「モダニズム」と呼ばれる詩をそれなりに大量に読んでいたつもりではあったが、ここにある詩は私の予測を超えていた。勿論「モダニズム」とは何か、という問題は重要であるのだが、それについて説明するというよりも、この文章では、実際の例を示し、思ったことを書いていく。モダニズムという枠組みは重要であるだろうが、それぞれの詩人が、自らを規定する枠組みからはみ出しあふれ出すような動きを見せているとも言えるのだ。あるいは、自らを規定する枠組みからはみ出しあふれ出そうとすることがモダニズムであったと言うべきか。
 
【引用4】
 
爆発爆発爆発の遠雷の蝶の睡眠硝子宮殿の硝子噴火硝子飛行機の爆音虚偽の帆船旅行開幕開幕開幕の開幕の響音美麗の屋根の三億年の火事戦端戦端戦端を開けのやうに閑散の硝子水母類の発砲の薔薇噴火の絶叫硝子製ボルニユの発汗の大陸永遠の金属の足の雨の火花滑車海岸線の珊瑚の泡の永遠紀念の花火の水脈返答し難き雷神の沐浴美神の裸体の格闘譬へば月の征服尖塔の麻痺蝶の強烈の睡眠嗜好或は舞踊電燈の夢遊旅行の頼信紙の自働廻転の吹雪或は電鈴の自働旅行の雨の針永遠瀑布の雷雨君は何処にゐる?君は何処にゐる?君は何処にゐる?の如く自働雷雨雷雨雷雨の光線永遠飛行の光線劇場の未発見未発見未発見の噴出それが劇場だそれが劇場だそれが劇場だの如く光線の噴煙それは雨の音楽だそれは雨の音楽だそれは雨の音楽だの如く光線の月の月の月の音楽だ初舞台の現場不在だ震動だの如く一個の円形劇場電光に巻附かれる隠匿猛獣は爆裂する電流瀑布に咬み附きたる金属猛獣の咆哮咆哮咆哮の爆裂渦巻く火玉の爆音爆音爆音の迷路激動の火焔格闘の落雷落雷落雷の強烈噴煙の火花震動震動震動の隠匿領土の火の大尖塔の五億年の痙攣の結果の突進突進突進の大旋風の
 
〔上田敏雄「Oeuvre Surrealiste」から(Sで始まる語の5文字目のeには右上がりのアクセント記号)。『モダニスム詩集1』から引用〕
 
 この詩は句読点や空白のない、いくつかの章や段落に分けられてもいない散文で書かれており、全体はこの約12倍の長さである。と書くと逃げ出す読者もいるかもしれないが逃げないで。
 題名はフランス語で「シュルレアリスムの作品」という意味だが、しかし、この詩がどのようにシュルレアリスムであるのか、ということを考えなくても知らなくても楽しく読めることは確かだ。結局、「爆発」「火花」「夢遊」「噴出」「音楽」「震動」「電光」「爆裂」「咆哮」といった、ある芸術的な強い衝動に関わることや、繰り返される「君は何処にゐる?」という疑問で示される謎(「未発見」なもの)への興味及び狂おしい恋情が、この詩の最初から最後まで一貫して言われているようであり、それを主題であると見ることによって、(他に隠された特殊な意味があるのかもしれないが、しかしそのような意味を避けながら)すらすらと快適に読み進めることができると思う。だが、この詩の特色はそれだけではない。
 句読点を用いずに言葉を次々に組み合わせていくことによって、独特な興味深い語が次々に登場してくることに着目できる。特に、いくつかの漢字の語を組み合わせて形成される語が特異だ。「睡眠硝子宮殿」というのは夢の中に出てきたガラスでできた幻想的な城なのだが、漢字だけで書かれることによってそれはとても硬くて、精密に設計されていて、冷ややかに光っている。「絶叫硝子」というのは、割れて大きな音を出しているガラスであり、割れる音が響く一瞬にだけ存在する物体であるのかもしれず、あるいは、人間の絶叫が空中に形成する、ガラスのような透明で硬い、幻の物体であるのかもしれない。「舞踊電燈」は踊っている人を照らす電燈か、それとも「光線劇場」で踊っている電燈の光だろうか。光の踊り、というのは、この詩を読む時に見えるサイケデリックな動きであるかもしれない。その「劇場」には「隠匿猛獣」や「金属猛獣」がいる。勿論、それは詩人の中に隠れていた禍々しい獣である部分であり、詩を書くことはそのような獣の出現である。これらのような意外な語と出会うことによって、これまでよりもさらに、自分の発想の能力を高めることができるのではないだろうか。そこには興奮が、高揚があるのだ。勿論、この詩を読んで得られるであろう興奮、高揚の原因を、どこまではっきりと説明できるか、というのも重要で困難な問いではある。単に漢字がとても多い、ということだけで、人は興奮するだろうか。
 さて、句読点も空白もない状態でいつまでも言葉が続くのは息苦しくないわけでもない。しかし、ここには大量の、語と語との意外な興味深い出会いがあるし、その出会いが作り出す新たな語はたぶん、どれも強いきらめきを持つものである(使われるいろいろな語がもともと〈光線〉と関わるものであり、そして、それらの語同士の意外な組み合わせによって〈驚き〉が生じて、〈光線〉はさらに強まる、という説明をすることが可能なのかもしれない。しかし、この詩と、説明はどこまで調和するのだろうか)。そのような新たな語が次々に登場してきらめくのを追いかけることによって、この異様に見える詩の全体を、実に快適なスピードで、完走できるのかもしれない(勿論、そのスピードの速さには、前述したような、〈芸術的な強い衝動〉、〈謎への興味〉、〈狂おしい恋情〉といった要素も関わってくるだろう)。勿論、この詩にあるのは、速度だけではなくて、(たぶん)語の組み合わせによる多彩な造語によって、生じている豊饒さでもあるのだ。
 もちろん、この詩が、あらゆる説明を押しのけて圧倒的に進んでいく、ということも事実であるだろう。まともに読もうとすることと、その読みが排除されることの対立も興味深いと言える。
 『モダニズム詩集1』から、もう1つ引用。
 
【引用5】
 
いま私が開いた鏡の底のAVENTUREの窓よ 私が眼にアネモネの花びらを押しあてて手探ぐりで小鳥の備忘録を探しに出かけるのは此処からである 私は家具の腕をもつた種々なる妖怪達に出会ふが此処は均衡の崩れた精神の城の内部の廻廊である故に彼等は私の忠実なる召使に相違ないのである 突然私の口のなかで真珠の如き神が蜂鳥の現行犯に向つて頬笑むや否や忽ち溶けてしまつた 暗らい暗らい暗らい そしてこの暗黒のなかで廻廊の末端において窪む一個の貝殻は人間の最初の完全な論理を形成する またこの暗黒のなかにおいて右手にプレイアツド星座のみを認識して歩行を続けてゐたひとりの旅行者は数時間の後に神秘な獣帯光の下に彼の左手に砂漠を発見する 彼は異常なる秩序をもつて組織された仙人掌の社会に異常なる緊張をもつて少しく接近する 忽ち彼は仙人掌から黒色の水の射撃を受ける 驚愕して彼は空を見上げる 然し聞くものは只だ彼の発狂せる毛髪と空の円形劇場にみちた星の紳士の笑声のみである おお天上の星星よ 彼の肩の上に刺繍された彼の運命をも判読し給へよ
 
〔冨士原清一「魔法書或は我が祖先の宇宙学」から。『モダニズム詩集1』から引用〕
 
 随所に1文字分の空白はあるが、しかし句読点も段落分けもない長い散文詩で、引用したのは全体の約8分の1である。私は長い怪奇な詩が好きだ。
 インターネットでもこういう詩が読みたい。誰か書いてください。
 あまりこういうのはインターネットにはないと思うのだが、怪しい文章が多いインターネットという迷宮のような猥雑な場所には似合う文章なのではないだろうか。いろいろなものが詰め込まれた詩を読み、いろいろなものを拾い集めるのは、もしかしたら〈偏った〉読み方であるとしても、楽しいことである。
 この『モダニズム詩集1』にはもっと短い詩も収録されているが、このような異様な長さは非常に興味深いと思ったのであえてかなり長い詩から引用している。先程の上田敏雄の詩の長さは恐らく、快適な速度及び圧倒的な迫力を形成するための長さ(ある程度の長さがなければ、そこを〈走る〉ことができない)であったが、この冨士原清一の詩は、速度の演出のために長いというのではあまりないかもしれない。たぶん、書くことがある特殊な儀式であり、その儀式は非常に手間がかかる重大なものであるので、このように長いのである。その儀式には、題名の中の語である「魔法」が関わるかもしれない。「異常なる秩序」のあるものを書くこと、そのような秩序に「接近」することが重視されている。そのために呪文のような言葉が重要なのだ。
 勿論、この詩人が魔法を信じていたかどうかはわからないけれど、しかし、この長大で、密度が一定している詩を書くことを支えているのが、ある不気味なものに対する〈信憑〉であった、ということは言えるのかもしれない。勿論、「妖怪達」が登場したとしても、それは自分の「精神の城の内部」にいるものでしかない、と書かれてあるのだが、そこにはたぶん、不安がある。妖怪を登場させて、そして、その妖怪は怖くない、と言うことが、その妖怪の怖さを強調しているのではないだろうか。詩を書いていて感じられた、妖怪のような、ある特別なものが、果たして自分の中だけにあるのか、それとも自分の外でうごめいているのか、もし自分の中にあったとして、それが本当に自分の「忠実なる召使」であるのか、ということがよくわからないことによる不安、そして、「発狂」、「笑声」。ここにも迫力があるのだ。この詩の最後の方には「私の夢がどうして生きてゐないだらうと言へるだらうか 私の夢は私と全く無関係に生きてゐる 私においてさへ屡々彼が私を殺害するのではなからうかと暗示を受ける程である」と、自分の中にあるはずのものが自分から独立して存在し、自分にとって危険なものでありうる、ということが言われている。
 ここで、自分の中にある、未知のものを感じ取って、戦慄せざるを得ないのかもしれない。前述した「妖怪達」に関する記述だけではまだこの詩はそれほど戦慄すべきものではないのかもしれないが、しかし、
「仙人掌から黒色の水の射撃を受ける」
あるいはここで引用した部分ではないが
「迷宮の縫目から致命傷の漆喰が現はれて神秘な笑を笑ひながら死んでゆく」
「見えない仙境では一羽の鶯のために造られた大理石の壁が垂直に成長してゐる」
「北極から還つてきた植物達は私の玄関に到着したとき既に死亡してゐる」
「金モオルの王子が白金線で絞殺されてゐる」
といった、とても奇妙な生きること・死ぬことに関わる文、切実なのだが奇妙でもあることによって読者に密着しつつ読者を別の場所に連れ出すようでもある文が、より本格的に戦慄を作り出しているだろう。読者からあまりにも遠い場所にあるデタラメを書いているというよりは、読者とある程度密接に関わりつつ異様であるものを書くことによって、読者を未知な場所に誘っているのである。
 それにしてもなぜ、このようなおかしなことを次々に思いつくのだ、この詩人は。ただ異様なことを思いつくだけでなく、いつまでも密度を持続させていることによる迫力がある。そのことは、この詩人にとっても驚きであっただろう。自分の夢が自分と無関係にある、という驚きがこの詩の最後の方で書かれていた。夢のような特異なことが、自分の意思とは無関係に起動するのである(他人の夢の話は往々にして退屈であるので、この詩も退屈であるという人はいるかもしれないけれど私はあえて、この詩は退屈ではない! 面白い! と言いたい)。もしかしたら彼が書き並べたこれらの奇妙なことには出典があるのかもしれないが、しかし、原典から自分が面白いと思ったことを次々に執念深く大量に拾い出していた、としても、彼はただものではない。奇妙なことが大量に並んでいて詩が長いというのはとても異様な状態であると思う。『モダニズム詩集1』の巻末の「詩人略歴」に書かれてある、この冨士原清一という詩人が1944年に30代半ばで戦死したという事実は、悲痛だ。
 このような、常軌を逸したような詩が2段組で大量に『モダニズム詩集1』に収録され、2003年に蘇ったことが、2003年の私にとっての最大の事件の1つであった。この本には他に、西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛、春山行夫、北川冬彦、安西冬衛、吉田一穂、丸山薫、三好達治、左川ちか、逸見猶吉などの有名な詩人の詩も収録されている(しかし、彼らの詩の、それまであまり知られていなかった、あるいは私が知らなかった、異様な側面を示す作品もいくつも収録されている)し、あるいは、生没年も略歴も全くわからないような詩人の詩も収録されている。そして、2004年には『モダニズム詩集2』が刊行される予定であるという。素晴らしい。
 
 
3――杉本徹『十字公園』ふらんす堂、2003年9月
 
【引用6】
 
 1
 
いつか蔦地方の水道水で、死んだ獣の灰白色の角を雪(すす)いだ。春は指の間に濃く巣食い。後方の違い棚、そこに場違いなカンテラと薄闇は番(つが)い――。一回転、あるいは半回転ののち、付け根から溢れだす蜜は時間が企む罠だが、ジギタリス、葉裏の血もまた濃い。
 
 2
 
乾きかけの土を、美しい人が爪先で突き崩して、一望した、ラビュリントス――蟻の這う裂(き)れはどこか、廃星の匂い。ほら、開け閉てし、光から闇へ、尾を曳く残像さ。蟷螂のかまえる銃口さ。
 
 3
 
きのう記した、肩ごしに陽の差す坂道。凹凸の刻みを、傀儡の郷愁で確かめながら、踵だけでも青ざめていよう。頬にふれる梢の撓みに、面影を読み。…葉越しの縮れ毛。時計人形(ジャックマール)をなぞる両手の動きが、徐に開く夕刊紙は、きのう同時刻苦しげに羽ばたいたと。
 
 4
 
ろろろん、と路傍の空壜の胸底でも、何かが旋回しはじめる。言いようもなく重い春の、閊(つか)えは、むろん、コルク栓と似て非なるもの。ろろろん、と強く弱く喘ぐ空壜の手前を、さらに別種の異国語で呻く鳩が、さかんに道を打ち据えながら、通過する。
 
 5
 
失くした眺望、その手摺で光る「銀の鋏」よ、いつ、どんな理由で、おまえの継ぎ接(は)ぎの航跡はあの気象台の壁へ、おお懐しい亀裂の巣へ、転写された?
 
 6
 
居間に独楽が垣間見えて、川沿いのアパート。窓辺に堆(うずたか)いアルバムと青い紐。そうして窓外の階段を、カンカンと音高く上る、あれは蹄、あそこは、罪の踊り場。ポータブルの稲妻を恋人宛ての封書に散らして。……しんと静まった踊り場で、踊れ春の、暮れ方の、馬でもなく人でもなく。
     〔「アロイジウスへの断章」。『十字公園』から引用。( )の中はルビ〕
 
 アロイジウスというのはフランスの詩人、アロイジウス・ベルトラン(1807〜1841)で、散文詩集『夜のガスパール』が有名である。いくつかの短い散文の段落を並べた、散文詩がその詩集には収録されている。1つ1つの語が丁寧に選ばれているように見える。言葉を丁寧に取り扱うことによって、静かな言葉の群れを作っているということが言えるだろう。その時、それらの言葉で示される情景は、静かで、冷ややかで、落ち着きのある美しさのあるものであるのだ。今、ここではない場所を静かに示すようでもある。150年以上の年月が経過し、『夜のガスパール』という書物の静かさはいよいよ強まり続けているのだ。
 杉本徹「アロイジウスへの断章」は、ベルトランの影響を受けつつ、恐らくベルトランよりもさらに特異な書き方(2003年に出た詩集であり、これまでの日本の詩の豊饒な成果がここで生きている、と言えそうだ)で、単語、文字、記号、ルビの使い方などを1つ1つ慎重に選び、丁寧に並べて書かれた詩であると私は思う。ありふれた文章ではない、ある程度以上特異な文章を書き続け、ある雰囲気を形成するというのはとても慎重な作業であるはずだ。
 1つ1つの語、文字、文、記号への鋭敏さ、慎重な選び方・並べ方、ということは、詩を書く時に当たり前のことではあるのだが、しかしそのことは、最近、先鋭的な詩人たちによっていよいよ強く重視されている、と私は思う。例えば、吉増剛造の、近年の、極端であるようにも見える仕事(有名であるし、ここでは極めて引用しにくいので引用しない)も、語、文字、文、記号のそれぞれに対して驚き、それぞれを丁寧に取り扱い、ざわめくような物体のような幻としての詩をそこに出現させようとする試みであると言える。丁寧に取り扱うことによって、それは手触りを持つようになる。愛情もある。読者(私)も、自分が丁寧に取り扱われているような気分でとても快適だ。杉本徹の詩についても同様のことが言えるだろう。
 それから、その作業の際に、ある雰囲気を一定させるために、その雰囲気を壊す単語はこの詩人によって排除されている、ということも言えると思う。例えば、「携帯電話」とか「コンピュータ」とかいった語は、杉本徹のこの詩にはあまり調和しないかもしれない(調和したとしたら、それはもう既に、人が普段使っている携帯電話やコンピュータではない)。だが、そのような排除の厳しさと同時に、ここには、ある雰囲気に調和する語ができるだけ多く集められてもいるのだ。というわけで、この詩は、単なる無秩序ではなくて(実はそれもそれなりに面白くなりうるかもしれないが)、多彩な語を用いつつ、それらの語を調和させるある秩序と、ある特定の場所(実在しないかもしれないが)を示すものであるのではないだろうか。「アロイジウス」とか「ラビュリントス」「ジャックマール」といった、ある程度の長さと、特殊性のあるカタカナの語が、実在はしないかもしれないとても快適なヨーロッパ、フランスのような場所を形成してくるようだ。そこで、ほのかな春の光が漂っている。悲しみも。ゆっくり読んでみよう。
 「1」は春の訪れを描いており、簡潔だが多彩な風景の描写がある。「死んだ獣」そして「葉裏の血」が、風景を不安にするが、その不安は決して乱暴ではない。「場違いなカンテラと薄闇は番い」光と闇とのような、お互いに一緒になれないはずのものが愛し合うことが、この詩をただの静かな情景描写ではないものにしていく(「場違い」だ、というのは、静かな情景を乱す、ということだ。しかし実は、この詩の静かな雰囲気は乱れてはいない。静けさは、ここで、予感のようなざわめきと調和しているのだ。)。「蜜は時間が企む罠」というのは、ある程度昔にあったことが、今では蜜のように甘く美しいものに思える、ということである。しかし「濃い」「血」も、かつての悲劇を今でも生々しく染めてもいるのだ。たぶん、この詩は、かつてにあった悲劇(かなりフィクションの性質が強い)を、今、思い出しながら書いている、という書き方で書かれたものである。
 「2」で、何気ないはずの風景は、いよいよ迷宮(ラビュリントス)のような、異様な状態に見えてくる。蟻の巣もじっくりと見るととても驚くべきものだ。「美しい人」が、そのような驚くべきものを「一望」し、この詩を書いている詩人(この詩の主人公である、と言える)にも見せた、という。そこには「銃口」のような、不吉で悲劇的なものも見える。
 「3」は、「読」むこと、「夕刊紙」のような、書かれたものについての語が出て来る。〈書くこと〉が重視される。この詩を書いている時点に起こっていることについて、ここで書かれている。〈愛するもの〉(勿論、「2」に出て来た「美しい人」でもある)があって、それを思い出している(「郷愁」)。「梢の撓み」も、それを思い出させる(「面影を読み」)。「凹凸の刻み」を「確かめ」ることは、この平坦ではない詩を書くために、単語を慎重に選んで慎重に並べることでもあるだろう。それは「時計人形をなぞる」ことでもある。置物を愛でるように、並ぶ言葉を愛でること。書物(詩集)のような「夕刊紙」の開かれ方は、羽ばたく鳥のようでもある。書かれたものが、単なる平面、普通の紙とインクではなくて、もっと立体的で凹凸があって生き生きしたもの、〈愛するもの〉そのものでもありうるのだ。過去に対する郷愁があるので書くのだが、言葉を丁寧に慈しんでいると、過去がそこで詩として蘇ってくるようなのである。
 「4」で、ざわめき、何かの出現の予感、は、より強くなってくる。「ろろろん」という、特異な音(音?)も響く。「胸底」(壜の、そして、人の)で「旋回」するものがある。それは「コルク栓」のようでもあるのだが、しかし単なるコルク栓ではなく、もっと特別なものである。「ろろろん」という語をさらに(この詩のような)多彩な言語に翻訳するように、「鳩」が鳴く。鳩も、何かの出現の予感を歌っているのだ。あるいは、その歌が、何かの出現そのものであるのだ。
 「5」の「「銀の鋏」」という、括弧で強調された語は、「継ぎ接ぎの航跡」を作るものを示している。この詩は、普通な文章ではなくて、いろいろな語を切り取って張り合わせて1つの雰囲気を形成するようにして書かれている。というわけで、「銀の鋏」というのは、この詩を書く時に用いたものである、ということが言えるだろう。その鋏で継ぎ接ぎをして作られたものが、単なる言葉の群れであるだけでなくて、「懐かしい亀裂の巣」、断片的な記憶が集まって作る懐かしい快適な場所そのものでもある(書かれた詩が、その場所に「転写された」ように。逆に、その場所が、書かれた詩に「転写された」とも言える)。
 「6」の「独楽」というのは、この詩の主人公の、孤独だが楽しい状態を示す語であるだろう。「堆いアルバム」というのは、「2」などで示された、かつての悲劇的に終わった恋愛の記録であり、その恋愛を思い出しながら静かに孤独に、悲しみのある楽しみを感じている、ということである。最後の「踊れ春の、暮れ方の、馬でもなく人でもなく。」というのは、実際に踊っているのは馬や人であるのだが、しかしその踊りが馬や人から遊離して、この詩の言葉そのものの踊りとなるような状態を望んで書かれている。
 言葉を書くこと、並べることが、とても大切な、愛すべきものを発生させることとなることを、この詩人は望んでいる、ということが言えるだろう。単に〈愛している〉〈綺麗だ〉と書くだけでなく、言葉そのものが愛しいものとして、幻のように綺麗に出現してくることがここで重要なのだ。
 
【引用7】
 
冬の驢馬は、灰色の木の交差を、瞠(みつ)めた
正十時の、刻(とき)をかぞえ、わたしも不慥(たし)かな
何か、ふと嗄れる息、水に映る断崖、針の揺らぎ、の類を
切に希ったのだ、愛おしみ滴(しずく)となって、地に沁みたのだ
……なんという踏み迷い、だろう、蜜のようにほそい陽が
驢馬の鼻梁からしたたり落ち、黒い草のうえでふるえている
     〔「十字公園」。『十字公園』から引用。( )の中はルビ〕
 
詩集の最後に、この短い詩がある。不確かな、不安定な、幻のような何かが出現してくることを願うのである。それは幻のように「ふるえている」。
 
 
結論
 
 序で言ったことを繰り返すことになるが、2004年の詩が重視すべきものがあるとすれば、その1つは、言葉を鋭敏に、丁寧に取り扱うことによって出現する、ふるえる、綺麗な幻であるかもしれない。詩を丁寧に書く時、読む時に、そこに、ただの紙とインクではなくて、より立体的な物体があるように思えるのだ。そのような詩を書くためには、過去の詩を丁寧に読むこと、それぞれの文字・単語・文・記号がどのような機能を持ち得るかということを検討すること、が重要になる。例えば、これまでもしかしたら軽視されていたのかもしれないモダニズムの詩を読むことも重要であるだろうし、近年に書かれている、言語の諸要素に対していよいよ強く鋭敏であるような詩を丁寧に読むこともまた重要である。そのような〈読むこと〉は、勿論、特殊な作業ではあるだろうけれど、しかし、そこには確かに愛情があり、喜びがある。絵画を愛でること、あるいは音楽を、盆栽を、観賞魚を、演劇を、風景を愛でることと同様の喜びがある。「現代詩」が、難解(確かに、読むのが大変でない、とは言えない)であるだけでなく、いつまでも愛し続けることのできる対象である、ということが、今回読んだ詩を見ただけでも、確認できるのではないだろうか。
 言葉は今(今だけではないだろうが)、普段、当たり前の道具として、非常に乱雑に取り扱われていると言える。そのような乱雑さは、言葉だけに対するものだろうか。言葉を乱雑に取り扱う人が、他のものを丁寧に取り扱っているということが容易に想像できるだろうか。言葉という、最も身近なものを丁寧に観察し、いとおしむこと、それは確かに特殊なことであるのだが、しかし、それだけではない。言葉を丁寧に取り扱うこと(言葉を正しく使うこと、ということであるとは限らない)によって、言葉以外のものをより丁寧にいとおしむことが可能になるはずなのである。(終)
 


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