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「とてもばらばらになりやすい生き物」--小笠原鳥類論
佐原怜
頻出する犬、猫、魚、鳥--小笠原鳥類の詩の中でこうした動物たちが躍動しているように感じる読者は、詩人は動物が実際に好きであり、彼らの持つ無垢で力強い生命力のようなものを自らの詩で表わしたいのだと思うかもしれない。また彼の詩には、宇宙船、潜水艦、怪獣などのオブジェも多く登場するが、こうしたオブジェは一般に、少年ぽい科学への無垢な夢をかき立てるものである。よってこれら「犬」や「宇宙船」などといった語が頻出する彼の詩を読んで、小笠原鳥類とは、根のところでは生命や科学への夢を少年ぽくイノセントに抱く抒情詩人だと早々と結論づける読者は多いかもしれない。
人は、「動物」や「科学」といった言葉が想像させる夢を詩の直接の起動力として詩を書いてしまいがちだ。それは既成の感受性コードに従って言葉の裏側にまとわりついている「力」(意味や像をともなった言外の社会的な含み)に期待することである。言葉の裏側のこの「力」こそ、小笠原が一番警戒しているものだ。彼の詩の中の「動物」や「科学」といった言葉の頻出は、彼が実際に動物や科学を偏愛しているためだと考えることは自由であるし、十分そういうことはありうるにしても、彼はこれらの言葉に対して強い警戒意識を抱き、これらの言葉が「力」を出し過ぎないよう、「動物」や「科学」のありようは厳しく制限されていることに気づかねばならない。 どのような制限を小笠原は加えているのか。「動物」たちとして彼が登場させる「犬」、「猫」、「魚」、「鳥」たち。彼らは詩に頻出するにもかかわらず、それがどういう犬で、どういう猫で、どういう魚で、どういう鳥で……と、彼らに寄せる詩人の思い入れがこれらの言葉に加算されてゆく箇所など詩集中どこにもない。むしろ彼らはどこで見ても大した個性のない平凡な顔をしている。また彼が「科学」として登場させる「水族館」、「宇宙船」、「怪獣」などについても、どれも少年ぽい夢としてはありがちな紋切型の域を越えない。 平凡で紋切型だと言っても、私は小笠原の発想が貧困だと言いたいのではない。この状態は明らかに彼の意図的な制限によるのだ。無垢な顔などではなく、選ばれた平凡な顔である。「動物」たちは彼の詩においては必ず「公告」なり「雑誌」なり「図鑑」なりに載っている*典型的な*ものでなければならないし、「宇宙船」や「潜水艦」や「怪獣」は、割合通俗的で古典的なSF映画に出てくるようなものでなければならない。つまり彼の詩の登場人物たちは、夢をある程度は感じさせるものであるが、詩人はその上に自らの個人的な夢を加えるつもりはないばかりかそうしてはならず、むしろほどほどに夢を感じさせられればそれで十分の、大した個性のないものでなければならない。彼は自らの詩に登場させる登場人物を、あまり生気のないものに限っているのだ。 料理の図鑑--キノコ料理の図鑑--写真が鮮明であるとは限らず、走っている動物のようであったり、麺のようであったり、きくらげ であったり、透明な、彫刻のように貼り付いている飛ぶ物体の写真には航跡・光跡が曲線として並び、実際にはインチキであるということが言われている。骨格、壁に切断した模型を貼り付けて撮影しました、あれは本物ではありません。 (「グラフ」、19ページ)以下引用はすべて詩集『テレビ』(思潮社)から。 小笠原の詩には「動物」や「科学」が頻出するが、同時に「標本」や「人形」や「模型」もよく出てくる。こうした「インチキ」で「本物でない」、要は形骸としてのありようの方が、彼の詩に登場する「動物」や「科学」などの本質なのだ。いや、本質というわけではなく、詩人は「動物」や「科学」といった登場人物たちには形骸のような装いをさせたいのだ。なぜならこうした既成の感受性コードによって一定量以上の「力」を生みそうな登場人物たちについては、彼らは形骸的なものでしかないと仄めかすことによって、彼らの背後に読者が想像してしまう過剰な「力」を振り落としたいからだ。 なぜ小笠原は言葉の裏側に過剰な「力」が貼り付くことを拒むのか。それは彼がこれから「怪物」を作らねばならないからだ。「力」のあまりない「動物」や「科学」とは、この「怪物」を作るための単位か部品としての肉なのである。フランケンシュタインなどの怪物のことを考えてみればよい。おのれ固有の生命力を強く主張している肉は、つなぎ合わせて怪物を作り上げるための材料としては使えない。使えるのは、死んではいないが固有の生を声高には主張しない肉に限られる。 では小笠原が作り上げようとする「怪物」とはどのようなものだろうか。それは多くの文の断片の接合から成る混合物だ。しかし詩人はここでも意識的である。多くのと言っても、断片の属する意味は音楽、料理、身体/運動、無機物/有機物、印刷物くらいに限られている。これらすべての文脈からなる「怪物」を詩人は作り上げたいのだ。 今ではコンパクト・ディスクが虹色の写真として軽い海水をふわふわ宇宙に散乱させるので音楽は乾燥イソギンチャクになって書物の間や、軽い感想した淡い木材の箱の中に突然出て来る。人が描いたような……それは料理に似た食べられないもの〈きのこ〉であっただろうか楽器、地面に置かれている地衣類のようなヴァイオリン・チェロ。 (「室内楽 花咲く海岸」、77-78ページ) ここで誤解してはいけないことは、小笠原は「怪物」の像を作り上げようとしているのではないということだ。もちろん「犬という軟らかい動く船の上に、傾く人々は食事をするだろう」(31ページ)や、「犬の随所を食い破って魚の骨の水煮が出て来る!」(38ページ)といった超現実的な、あるいは無意識から生まれたかのようなイメージ、「宇宙犬」などといったSF的なイメージが結ばれることは詩集中しばしばあるし、こうした新奇なイメージを可能にする柔軟な想像力ーーというより発想力が彼の詩の美質を生み出していることは事実だ。しかし詩人が行なおうとしていることはまずはあくまで、文を断片的にかつ多くの文脈が組み合わさるように接合し、「動物」や「科学」や「音楽」などに関する言葉を、どれか単一の文脈には従わせないものにすることだ。新奇なイメージは、文の断片の接合の結果として生じたものだと考えた方がよい。むしろ詩人は、断片の混合物が一つの固まった流れを持って意味なり像なりとして大きな価値を持ちそうになるのを常に警戒し、そうなる前に文脈を切断して別の文脈と接合することに注意を傾けている。なぜなら一つに(あるいは複数に、でも同じことだが)意味や像が固まった混合物では、彼が作り上げようとしている「怪物」を作り上げることができないばかりか、逆にそれを殺してしまうことになるからだ。 慎重に制限された言葉によってできた断片を多文脈的に接合させることによって、小笠原の詩の言葉はどれもすべて、一義的な意味から逃れ一義的な像を結ばない状態となった。こうした彼の詩の言葉の宙吊り状態を感じて読者は、これこそ詩人の作りたかった「動物」=詩であると結論づけてしまうかもしれない。それは早計だ。言葉を宙吊りにすることは詩人の目標ではなく、詩人が望む真の「怪物」を完成させるための準備でしかない。明らかに彼はこの状態を元に、効果として現れる「怪物」を作り上げようとしているのだ。 小笠原の詩のことを単に言葉の宙吊り状態なのだと結論づけることで終わってしまう読者はおそらく、彼の詩をじっくり読んでいるのではないだろうか。と言うと誤解を招きそうなので言い換えると、おそらくゆっくり読んでいるのであろうと思う。読書速度は詩が要求している速度に合わせねばならない。詩人は単に言葉を接合させているのではなく、言葉の背後にまとわりついてくる意味や像の持つ価値の「重み」を振り払おうと、大急ぎで断片を接合させているのだ。軽くされた言葉の断片が大量に接合させられていると、言葉の裏側の「力」を感じ取ろうと読者が言葉の前に長く留まる必要は減ってゆき、読書速度は上がってゆく。では早いスピードで進む彼の詩は、果たしてどのような効果を生み出すのであろうか。 まず一つは「運動」である。言葉の断片の長さは絶えずのびちぢみしており、その言葉の意味や像は、無秩序にではないが素早く移り変わる。そんなふうに「軽い」言葉が大量にかつ通常の速度を越えて出現と消滅とを繰り広げていると、ある時点から言葉の中に、意味や像をとどめながら(これらが不要となるのではなく、逆にこれらの混合状態の絶妙な調合によって)同時にこれらを問題としなくてもいいような「運動」が起こってくるのだ。小笠原の詩に「運動」や「体操」といった動きに関する言葉が頻出するのはこのことを表わしている。彼の詩がどれも割合長いのは、この「運動」を起こすには言葉の出現と消滅とを一定量以上持続させなければいけないからである。この「運動」は、意味や像といった「音色」をともなう言葉の「音楽」としても表わしうる。彼の詩に楽器が多く出てくるのはこのことを示している。 さらにもう一つ、というよりもこの「運動」によって引き起こされる効果は「笑い」である。ここで言いたい「笑い」とは人が普通考えがちな笑いのことではなく、意味にも像にも回収できない(どちらも不要となるわけではない)特殊な「笑い」である。例えばここにバレエの様子を撮影したビデオがあるとしてみよう。ビデオを倍速再生させると、バレエの優雅な動きはあちこちぴょこぴょこ跳ね回る動きに変わり、観ている人は笑ってしまうだろう。この場合、映されている内容がサスペンス映画など、映像の持つ意味の価値が高いものだとこの「笑い」は薄れる。意味の価値が高くなると、映像が「重く」なるからだ。小笠原の詩における「笑い」はこれと近いものであると考えるとわかりやすくなろう。言葉が意味や像としての価値を持ち過ぎることを詩人が警戒するのは、この「笑い」を生じさせたいがためなのだ。 有機物と無機物とが混じりあってできた「ゼリー」や「ペースト」や「寒天」のような、意味とも像ともつかない言葉の断片の混合物が、「運動」と「笑い」とを生む--これこそが、小笠原が本当に作りたい「怪物」=詩なのだと私は考える。詩人はこの「怪物」を、かつてほとんど見たことのないような、言葉の独自の生き生きとした「運動」として読者に感じさせたいのだ。だがこの「運動」は今まで述べてきたようなある程度厳密な条件下でないとすぐさま絶えてしまう。彼の「怪物」は、常に「室内」や「水槽」や「缶詰」に入り、危険な外界から守られていなければ生きていけないのだ。(矩形の散文詩のことを、「怪物」を発生させるための「水槽」だとみなすことができよう。) 以上のように考えて来ると、小笠原は言葉に対して常に、同時に相対する態度をとっていることに気づかされる。彼の詩を読んでいると私は、主体が自らの愛着の対象を縦横に詩に使い無意識的とも思えるエネルギーを詩にぶちまけ、言葉をめいいっぱい主観的ないし身体的に生きているように思われてくる。しかし一方、自分の言葉に客観的に目を光らせそのあり方に慎重に制限を加えている主体の存在も同時に強く感じさせられる。詩人が気をつけていることは、主観的に言葉を発すると同時に、それがどのような効果を生むかを意識して冷静にあるいは客観的に自らの言葉を見つめることである。彼の詩に多くの「制御」や「調整」といった言葉が使われ、彼の詩の場所がいつも「涼しい」のは、この冷静な意識のことを意味している。このように同時に相反する態度で言葉を扱うこととは、言葉を、その裏にあると想像させられる「力」を引き出すための道具としてのみ扱うのではなく、同時にそれ自体として尊重することにも気をつけて扱うことだ。これこそ、小笠原の詩的営為の基本的態度--言葉を愛する時の接し方であると言えよう。 だがしかしここまでしても小笠原は、必ずしも常に自らの望む「怪物」=詩を得られるわけではないのだ。なぜなら詩の「運動」や「笑い」とは、読者が彼の詩を読んでいる時にだけ効果としてのみ生まれるかもしれないものであり、どんなに詩人が詩の言葉に意識的になっても、言葉それ自体がひとりでに動くということはないからだ。おそらくここで詩人の苦悩が生じているのではないだろうか。彼が自らの詩の中でしばしば、「面白いなあ、本当に面白いんだ」(33ページ)などとうそぶいているのを見て、それが彼の本心であり、彼はみずから生み出した言葉の宙吊り状態に自足している、さらには楽しんでいるように思ってしまう読者もいるかもしれない。しかし詩人の楽しげな言葉はアイロニカルなものであり、その底には切実な願いが込められているのだ。 詩人の苦悩は恐らく根本的なものであろう。言葉が「運動」することを願って意図的に言葉に加えた「制御」や「調整」。だがそのせいで逆に読者にとっては自分の言葉が平板なものとして映ってくることがあるかもしれない。迂遠とも思われる方法。しかし自分が作ろうとする真の「怪物」=詩はそうした方法ででしか得られないし、得られるかもわからない。こうしたダブルバインドに、詩的主体はやり場のない不充足感と不安感とを覚えているはずだ。 多くの板が置かれた、私は、それらが設置され、並んだ並んだ、置かれればよいと思った、今でも、設置する、なぜだろう、知らないが鬱積がふるえている。きっと、それが生き物だ。そうだったはずだ。緑色の健康な筋肉である。健康な骨と健康な骨との間のように、ええ、動く動物を作り出そうと思って、板と板との間はロープか金属部品で繋いだ、海水で湿って海藻に覆われ、いきいき健康体操のように緑色の不安感が持続する、 (「走査」、42-43ページ) 「板」のように生気のない言葉の断片を「設置」し、「並」ばせ、「繋」ぐが、それだけではそれがすぐさま「生き物」となって「いきいき健康体操」をする「動く動物」とはならないばかりか、死体となって腐り崩壊する危険に「持続」的に晒されている--そう、「犬はとてもばらばらになりやすい生き物なのだ」(34ページ)。そのことに詩的主体は明らかに「不安感」と「鬱積」とを覚えている。だから、「面白いなあ」という彼の言葉は、どうか自らの詩が面白くあってほしいという願いの言葉であるのだし、彼の詩の中で多く登場する「生き生き」や「健康」や「体操」といった言葉は、どうか自らの詩が生き生きと動いて体操してほしいという詩人の切実な願いの表れととらねばならない。たとえそれがアイロニカルな響きをともなっているように聞こえるとしても。 みずからの意志で自分を「テレビ」という箱に閉じ込めようとし、しかもそれは「出たい、私はそのようにいつでも思っていた」(31ページ)と、同時にそこから「出」ようとする試みでもある--小笠原鳥類はこの困難な二重状態に留まることを選び取っているのだ。 |
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