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新しい息のつき方
――キキダダマママキキ『死期盲』を読む
森川雅美
どのような時代でも、詩は時代の言葉の限界に直面する。そこで立ち止まることを余儀なくされる。言葉の限界は共有意識の限界ともいえるだろう。中原中也や立原道造は、戦争に向かう全体主義の狂気の中で、時代に対する沈黙もはらんだ、抽象的言語を研ぎ澄ませねばならなかった。あるいは、鮎川信夫はまさに象徴的だが、「荒地」の詩人たちは、世界大戦という未曾有の悲劇のあとで、詩の大きな豊饒の部分を犠牲にしても、倫理に基づいて、詩を書かなければならなかった。そして、彼らの詩は、時代の言語の限界のぎりぎりまで、可能性を延ばした。それだからこそ、詩は普遍の意識に触れ、今私たちが読んでも感動を覚える。優れた詩とは、このような時代の意識の最果ての可能性を、つかんだものなのかもしれない。
ならば今、私たちはどのような時代に立ち、どのような限界に直面しているのだろうか。最近よく「異郷化」という言葉を聞くが、この言葉は今を良く表している。「異郷化」は、フランスの思想家の、ジャン・リュック・ナンシーの言葉だ。元もとは、難解な概念だが、現在のキーワードとして語られるとき多くは、異郷にいるような居心地の悪さ、過去からの関係を断たれた不安感、喪失感、のような意味。ジャン・リュック・ナンシーは、あるインタビューで、「グローバル化の時代には精神的な異郷化が避けられない」と、いっている。そして、「古い世界が衰退に向かっている」、転換期でもあるとも。当然価値が失われれば言葉も失われる。インタビューでも、「大きな言葉が力を失っている」と、語られているが、失われるのは大きい言葉だけではないだろう。インターネットなどは日常に、より深く浸透し、グローバル化の進行を止めることは出来ない。インタビューは、「インターネットによる人間関係は、乾いていて冷たいと言われるが、そこから新しい人間の姿が生まれるのかもしれない。」と、続いている。私たちの意識は、古い個の身体の言葉では、語りきれないところに来ている。 このような時代の意識を、何とか言葉にしようという、若い詩人が最近多く活躍している。それは一つの潮流とでも、いいたいような数だ。しかし、それらの力が本当に時代を動かすのか、あるいは一時的なあだ花として消えるのかは、まだ判らない。だが、ひとりひとりが今の言葉を掴もうと、真剣に苦しんでいるのは確かだろう。 キキダダマママキキもその一人だ。第一詩集『生まれないために』(2004年七月堂)の最後に、以下のように記している。 わたしの処理はわたしによって行わなければ ならぬ。なぜなら、 わたしにはわたししかいないから。繰り返す ことになるが、熱いゼリーそれしか、 ない、それだけがないそれを弄べば私は死ぬ、 もしくは生まれる。胎盤を食せ、 そして永遠後ろ手に落ちてゆく感傷、笑え笑 え笑えすり潰された私の心は宇宙 にあまねく幕を張る一切の虚実である。動物 はゼリーの詰まった皮袋ゼリー であり、宇宙ゼリー……、宇宙ゼリー……、 (「ゼリー、ゼリー、」末尾) いささか言葉の選び方やつなげ方に、同世代の小笠原鳥類の影響が目立つが、ここに記されている、詩の主体の身体は奇妙だ。明らかに日常の個の身体ではない。肥大するゼリー身体。言葉は個の身体を離れ、遠心的に広がっていく。どこか投げ出されたような潔さがある。意識はその震えに共鳴しながら、「笑え笑え笑え」と伸びていく。しかし主体は鈍感ではない、そのような意識は確かな痛みを伴う。「すり潰された私の心は宇宙にあまねく幕を張る一切の虚実である」、という言葉は、間違いなくその痛みの表出だろう。それでも根底にあるのは、「わたしの処理はわたしによって行わなければならぬ」、という覚悟だ。 第二詩集の『死期盲』(2006年思潮社)は、このような意識をより深く掘り下げている。 午後五―、午後五―、 川、彼方、 滲滲(散々)、色々 に (笑口)、 崩れる橋、ハ 連レ回(マワー) 、遠方ノ森林を(ウォー) 目、め、メ(垣間見、) 眼鏡、目ガネ笑っているように見えました。 (「( 、( 、」冒頭) 詩集の最初を引用した。このような詩行を読む時に感じるのは、日常の制御された意識とは異なる意識だ。個の主体にまとまるのではなく、飛散するままに意識は記されていく。言葉は思考よりも早く次に移っていく。それは、個の主体の意識を超えようとする、詩の主体の意志だ。一見ナンセンスに思えるかもしれないが、言葉はきわめて正確に意識を追っている。前詩集で表明した「ゼリー身体」を、より丁寧に辿ったという印象だ。思考は言葉の後にむしろついていき、誤読ともいえる変容にさらされる。「滲滲」は「散々」に、「連レ回」は「マワー」、「遠方ノ森林」は「ウォー」に、変容する。詩の主体はこの変容にかけている。日常では隠された意識の奥底の、「ゼリー」状の何かを掴もうとしているのだ。そして、この安定することのない意識の風景に、現れてくるのは、異郷化された世界にたたずむ私たちの肖像だ。 見えない川、 見えない川、 ぼくの家は見えない川の上? 下? 中? (「アルミの吊り橋……、母斑」部分) ここで重要なのは、「見えない川」であるということだ。そして、詩の中でも何度もくり返されるように、「音が聞こえない」のだ。「音が聞こえない見えない川」のイメージは、この詩だけにとどまらず、詩集全体に及んでいる。詩集の歩みは、この「見えない川」を辿っていく、歩行のリズムといっても良いかもしれない。では、「見えない川」とは何だろうか。少なくとも日常の意識の記憶ではない。しかも、「音が聞こえない」という、感覚の欠落も伴っているのだから、主体の意識がいかに奇妙かがわかるだろう。 アルミの吊り橋を車が走っていく じいちゃん、 音が聞こえないよ (同部分) 聴覚の、耳の欠落は、目の風景を鮮やかに浮かび上がらせる。ちょうど五感の一部に欠落がある人が、他の意識を研ぎ澄ますように。結果として、風景は日常の意識の連鎖からずれ、むしろ、はじめからなかった、記憶の空白にすら思えてくる。見えない風景、それは「見えない川」の風景といっても良いかもしれない。あるいは、世界との距離であり、この事物とのどうにもできない距離にこそ、新しい叙情の意識を求めようとしている。いや、叙情といってしまうと、あまりにもべた過ぎるので、言葉の息のつき方と、言い換えた方が良いだろう。 わたしたちはからっぽに用意して 死に絶えた声をたったひとりで 聴く 待つ (「子供が笑っている」部分) 「からっぽ」「死に絶えた」「たったひとりで」と、記されている風景は決して豊かではない。そのことが主体の意志をよく表している。風景は過剰なほどに物質に溢れた、現実の消費社会の時間とは反比例し、シンプルだ。少し前の世代には、例えば四元康裕や田口犬男のように、この消費されていく時間そのものに、叙情を求めようとした詩人がいた。彼らの詩には、高度成長期のノスタルジーともいえる、様ざまな固有名に満ちていた。ある種豊かともいえるにぎやかさがあった。しかし、その結果現れたものは、無残にもからっぽの主体だった。一見今日を共有できるようでいて、実は断絶した主体の意識、だけがさらされた。キキダダマママキキの詩の主体は、このノスタルジーの断念の後を生きている。固有名はもはや消費されていくものであり、共有する叙情にはなりえないという覚悟だ。とはいえ、空っぽの貧しさからしか出発できないことも、詩の主体は十分自覚している。だから、詩は漫画的でもある、類型ぎりぎりの風景に成立している。 (死にたいよ (でもそんな色が散りばめられている (野原は きれいだったね (「根にある井戸……、母斑」部分) 共有できない貧しさを自覚し、それを問い続ける。その問うという唯一の行為が、共有できる意識だと、いっているような詩行だ。詩集のはじめに意識が誤読したように、ここでも風景は誤読される。その誤読された風景こそが、「音が聞こえない見えない川」だ。自らの風景を誤読しながら、主体はばらばらの意識の最果てで、言葉を掴もうとしている。それゆえに、キキダダマママキキの主体は、今を生きる新しい息のつき方を試行している、といえる。 |
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