城戸朱理の繊細で途方もなく大きい手つきについて
―「潜在性の海へ」少しだけダイビングしてみる― 
ヤリタミサコ
○ 心のサイズというもの
ホール&オーツというデュオがいる。ブルーアイドソウルでは大物である。ダリル・ホールのボーカルの巧さは誰もが認めるところだ。これを渋谷公会堂で見たときはうっとりした。が、武道館ではダメなのである。前の方の席だったが全然歌が届いてこないのだ。音はよく聞えるが、遠くでCDが演奏しているような感覚を否めないのだ。自分がポエトリリーディングをするようになって、わかった。心の届け方の問題だろう。
私の場合は、ウエノポエトリカンジャムの第一回目に出演したときがそうだった。リハなしに初めて立ったステージ。舞台そでから出て行くと、舞台真ん中までがやけに遠い。そのうえ客席との間に池がある。ステージから見て、客席左右の端は見えない。うわっ、私の言葉をどうやって届けたらいいのだろう???と迷いながらも音声を発するしかなかった。私自身の中では失敗リーディングのひとつだ。
というように、言語そのものにも音量、ボリュームというものがある。もちろん物理的に何デシベルという意味ではない。文字として印刷された文面にもその心の届け方の大きさがあるのだ、ということ。
城戸が書き上げていく言葉は文句なく大きい。この評論集の場合は「潜在性の海へ」なので、広く深い、というべきだが。では、どうして大きいのか。存在論、詩学、美学、時間論、という"哲学"が語りの底にあるからだ。おそらくバブル以降の日本では哲学ほど流行らないものはないだろう。でも、人間の営為を見て考えるためには"哲学"が必要なのだ。そのことを詩人たちは忘れているのか、無視しているのか。"哲学"の欠落した現代。
ジャプランから出版された「T.E.ヒューム全詩と草稿」の城戸訳もたいへんすばらしい仕事だ。T.E.ヒュームはイマジズムに欠かせない哲学者として知られているが、私自身はヒュームの詩は初めて読んだ。ウォーレス・スティーブンスの作品で、神秘的・瞑想的な哲学を延々と詩で語っているような詩があり、私は読むのに難儀した。が、このヒュームの詩にスティーブンスと共通する認識の哲学を見出し、ああそういうことか、とようやく手がかりがつかめた。
つまり、城戸の手の大きさは"哲学"の厚さゆえ、分厚く大きくなっていることを理解しなければならない。詩は散文で書けないから詩なのだし、それを無理に散文で評論しても、詩の美味しいところを逃がしてしまうだけだ。散文の網の目からは逃げてしまう、詩である存在意義を、城戸は哲学するのである。だから大きい。

○ 繊細に大胆に思考するもの
一般的には評論とは散文である。当然だ。が評論の対象が何であれ、その中に詩的な跳躍や詩的感覚が繊細に織り込まれているのが詩人による評論の特徴だと思う。例えば、萩原朔太郎や西脇順三郎らの詩論は確かにそうだ。そして城戸の場合は、加えて哲学。詩的記述と認識論のミックスされた例を挙げる。

北国の吹雪というものは寒気を研ぎすました錐のようで、痛みをともなうものである。つまり、何らかの物質が自分の身体に衝突するのを意識せざるをえないほど、ひとつひとつは頼りない雪片が、はっきりとした物質性を備えているものだ。それに対して、桜の花びらは、次々とわたしの身体に当たっているはずなのに、そのことを意識することはまったくなかった。気がつけば、髪にも服にも花弁がまとわりついていて、驚いたほどだったのだから。掌に載せるなら、雪片も花びらも、ずいぶんとはかなげなもので、雪ともなると見る間に溶けていってしまうが、花吹雪の中に身を置いた経験は、桜の花びらの物質性の希薄さを、わたしに教えることになった。奇妙なものだ。人間は、桜を見ても、それが桜だと納得してしまうかぎり、それがどのようなものであるのかを観察したり、考えたりはしないものらしい。しかし、考えてみるならば、桜のひとつひとつの花弁の透けるような物質性の希薄さが、中空の枝に群れをなしたときに、わたしたちは「桜」や「花」というものを、まざまざと知覚するのであって、それが、どこか、この世ならぬものと感じられたのは、その物質性の希薄さによっているのではないだろうか。
(城戸朱理『潜在性の海へ』思潮社、2006年)

城戸本人には笑われそうだが、この文から、大真面目に引用とその説明を行なってみる。
<詩的表現>
  *吹雪…は寒気を研ぎすました錐のようで、痛みをともなう…何らかの物質が自分の身体に衝突する…
*頼りない雪片が、はっきりとした物質性を備えている
  *桜のひとつひとつの花弁の透けるような物質性の希薄さ
この3つの*は、ワンセンテンスで詩の行として成立することが伝わるだろう。詩が成立するためのオリジナルな驚きに満ちていて、それが的確な言葉に乗せられているから、読み手もその驚きを共有できる。つまり個人的な体験を、論理ではなく詩的飛躍を用いつつ普遍化させているのである。言われるまではそうは思っていなかったが、言われてみるとなるほどなあ、と感嘆する。詩の手で現象をさわって、真実を取り出しているのだ。最後の*では特に顕著。桜の花弁は透けるようだ、という表現までならば一般人。それを「物質性の希薄さ」と結論づけるところに詩の手つきがある。
<認識論―主観的リアリティ>
 雪というものはすぐに溶けてしまう希薄な存在だと思われている。これは一般論だ。が、桜の花びらは道路に大量に落ちて固まったり、池の水面を埋め尽くすように浮かんでいたりして、すぐに溶けてなくなってしまうものではない。これは客観的な現実認識だ。
 が、自分の身体感覚で感じるとき、雪は体にぶつかって痛いもの、桜は大量に体に載せていても重量も存在感も感じないほどだ。だから、自分の身体感覚で言うと(つまりこれが自分にとっての正しい現実)、雪は物質性が強く、桜は物質性が希薄だということ。これは主観的リアリティである。
が、主観的といっても読み手がそれを共有できないわけではない。読み手もそれを感じつつ、言語化していなかったリアリティを、新たに言語化されただけなのだ。したがって、驚きによって引き起こされた喜びを共有できる。
認識とは、モノそのものを見ないで、他人の言葉、他人の分類、で名づけてしまって安心するということではない。ヘレン・ケラーのエピソードで言うと、冷たくてびっくりするほとばしる「何か」と、「水」という言葉が結びついた瞬間が認識なのだ。身体に強く感覚し、心が動かないと、自分自身の体験としての認識にはならない。水って透明でH2Oで、軟水と硬水は…、という説明は、世界がすでに取り決めた約束事であって、個人の認識とはかけ離れているものだ。
 おそらく詩人は無意識に、こういった主観的リアリティの経験を詩に書いていくことが多いだろう。が、城戸はクリアに意識している。ここでは触れないが詩人城戸の詩作品にも見受けられるし、この評論集は驚きの喜びに満ちている。ぜひとも、拙文の読者には、感じる―認識する―世界が変わる、ということを城戸に導かれて体験してもらいたい。

○ 高橋昭八郎を語る
この本の中には、高橋昭八郎に関しての記述が3本ある。特に「アンティ・コスモスの稲妻」という長めの論考がすばらしい。「詩とは何か」で始まる文だ。最後の文も「詩とは何か、と。」で終わる。これは誰が見ても大きすぎる問いだ。でも高橋の作品そのものはこの問いに鋭く突き刺さったクサビだから、この問い抜きに本質に迫ることはできない。城戸は、高橋昭八郎のいわゆるヴィジュアルポエトリーというジャンルに分類されている詩は、「詩とは何か」をいう問いそのものを行為している詩なのだと言っている。
高橋の作品は、言語がもつ様々な日常性や手垢を取り去って、言語を超越したカタチで、純粋な問いと答えの境界を往還している。問いであり、かつ答えである。「水」の認識の例で言うと、水という存在と言語が一致する前と後の、その2つの瞬間の、そのスパーク、写真で切る取ることのできない、感受と認識の一瞬。高橋の代表作「わが五十音図」では、あいうえおのマスメに、それぞれ障子に指で穴をあけたような穴が開いている。日本語の最小単位である一音一音の「あいうえお」を追求したあげくに追い越してしまう瞬間。
高橋についてはあまり紹介がないのだが、若干の紹介は以下のURLで見ることができる。
http://www.mars.dti.ne.jp/~4-kama/sho8ro/suke00.html
http://www.edgeofart.com/event/event20041022.html
この本にはまた、もう2本の短い論考がある。「未確認詩的物体」「哄笑と謎」だ。それぞれラストセンテンスが詩なので紹介する。
「未来から何かの間違いで現代に墜落してきた未知のアートのようにも見える。」
「どこか未来的で、言葉を地上の重力から開放するかのようでもある。」
城戸が高橋を語るとき、詩を詩で語る、最上で最良のリスペクトとなっている。
 
<引用文献>
城戸朱理『潜在性の海へ』思潮社、2006年
 
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