そして僕は本多と叫んだ
―城戸朱理「千の名前」
橘上
 先日僕は即興屋の集いというライヴに出た。このライヴは、二十分間の制限時間内で文字通り即興演奏をし、その場に居る聴衆の判断を仰ぎ、投票でチャンピオンを決めるというものである。
ルールは即興であればなんでもよし、人数制限も無しというもので、僕は五人組みのバンドのボーカルとして出ることになった。ボーカルといっても僕はうたがうたえず、即興演奏であるから、どんな言葉を言うかも決まっていない。まさに一発勝負。僕は震えた。一体僕は何を言うのだろう、延々と未定のままで言い続けたら僕はどうなってしまうのであろう。

 サックス奏者が音を鳴らして、僕のバンドの演奏が始まった。続いてキーボード、ドラム、ベースがそれに合わせて音を出す。僕は何を言おうかまだ決まらぬままで、とりあえず本多さんの話をした。
 本多さんというのは僕の職場の同僚で、今にもつぶれそうな細すぎる体のうえに人を寄せ付けない冷たい目と、全く笑わない表情をしているので、鋭利な刃物のような存在感を醸し出していた。
 とにもかくにも本多さんはいい。いい。本当にいい。あの、その、いい。本多さんのいいところを思い浮かべながら、本多さんがいいということを本多さんはいいという言葉で語っているうちに僕の中は、本多さんでいっぱいになり、たまらず僕は叫んだ。
「本多」
この時初めて僕は本多さんを呼び捨てにした。続けて叫ぶ。
「本多、本多、本多ぁ、ホンだ、ほんだ、ほんだぁ」
もうホンダだかHONDAだかわからない。有りうる限りの呼び方で、いろんな本多の名前を叫ぶ。しかし一向に本多は答えない。きっと本多が答えないのは、本多のほんとうの名前を言えてないからだ。ならばほんとうの本多の名前を言えるまで、僕は本多といい続けよう。本多と千回言うことは、本多に千の名前を与えることだろうか。

  せめてその名を書き続けた
  おびただしい動物と植物の名前を
書き続けた
あなたがたには見知らぬ名、
あなたがたには知りえぬ名。
あなたがたという名前の奥の
本当の名がおののく。
           「千の名前」より『星の悲鳴』抜粋


 「ほんだ、本多ぁーあ、ほんんんんんだだだdddddddd」
 本多と叫ぶごとに本当でない本多の名が壊れていく。
 生まれたばかりに壊れていった偽りの本多の死骸に目もくれず、僕はひたすら本多と叫ぶ。
 もう人を寄せ付けない冷たい目と、全く笑わない表情も頭にはない。まるで空中にいくつも本多の名が浮かんでいて、それを声でなぞるようかのように、ただ叫ぶ。 
 続けているうちに僕はわからなくなった。
 僕が本多と叫ぶのは、本多の名前は本多でないと知りながら、本多という名しか知り得ないからだろうか。いや、だからこそ僕は本多と叫ぶのだ。叫ぶほどに、本多の「本多」という殻が破れ、本多の本当の名が現れる。
そんな気がしたからだ。
 しかし本多の名は変容するも、本多の名前は現れない。そして喉の痛みのみが残った。


  痛みは日々まあたらしい
  その新鮮さに声をこらえて
  よく知るものの名を呼んでいた
  それから三月が過ぎて
  その名がよく分からなくなった
             「千の名前」より『神酒』抜粋

 ライヴが終わって当たりを見渡しても本多の姿は見つからない。やはり本多は現れなかった。

 次の日、職場で本多さんにあった。
 本多さんはパソコンをいじくっていた。
「本多さん」
とりあえず僕は、そう呼んだ。
 本多さんは顔を上げ、「おはようございます」と言ってきた。
 その顔は全く笑ってなかった。


   
 
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