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灰の子を産む
小川三郎
一月。私の第一詩集の栞を書いて下さった田野倉康一さんより年賀状にて「城戸朱理の詩を初期から徹底的に読むこと」というお言葉を頂いた。早速幾つかの図書館を回ってみると、町田市立中央図書館に「現代詩文庫140 城戸朱理詩集」(思潮社)が置いてあった。しかし私の住む市の図書館ではなかったため借り出せず、とりあえず図書館に据えられた木椅子に腰かけ読んでみたのだが、正直私にはよくわからなかった。この詩集は難解であり、自分の手にはとても負えないものであると私は判断し、全て読み終えない内に詩集を棚に戻し、お言葉を下さった田野倉さんに申し訳ない気持ちを抱えつつ、すごすごと図書館をあとにした。
後日このことを詩人の仲間に言うと、一様に「城戸さんの詩はわかりやすい方なんだけど」ということを言われ、自分の読解力の低さを再認識させられた。その後も私は町田市立中央図書館を訪れるたび、城戸朱理詩集を手にとっていたのだが、私の頭の狭い入り口に城戸氏の言葉は形が合わないようで、ギリギリと音を立てて一向に入ってこず、いつも途中で本を閉じてしまっていた。 三月。私は「いん・あうと」に参加させていただくことになり、第一号に続いて、九月にはこの第二号への寄稿依頼を頂いた。城戸朱理論考である。私は戸惑った。城戸氏の詩を理解出来なかった私に、論考など書けようはずもない。なので「いん・あうと」編集長宛てに、なんとなくちょっと断ろうかなみたいなメールを送ってみたところ、却下された。編集長も忙しい合間を縫って編集作業をされている。おまけに私より大分年下である。迷惑はかけられない。 と言うことで私は「現代詩文庫140 城戸朱理詩集」を実費にて購入し、電車の中で、喫茶店で、特に自室で、この詩集に目を通した。最初から読んだり、かいつまんで読んだり、収録された詩集単位で読んだりした。最初はやはり、よくわかんねえな、との思いを消せないまま言葉を追っていたのだが、しかし何度か同じ言葉を通るうち、意外なほど「わかって」くることに驚いた。今まで紙面にしがみついて離れようとしなかった文字とその意味合いが、強力な洗剤を投入された脂汚れのようにして浮き上がり、するともう図書館で感じた難解さが嘘のようだった。やはり自分のものにして読む、というのは、ひとに借りたり立ち読みしたりするのと、根本的に違うのかもしれない。また、この詩集が、真っ向から対峙しなければ拒絶されるものであることもその理由だろう。 以下に「現代詩文庫140 城戸朱理詩集」について、私なりの文章を書く。刊行の順から言えば処女詩集「召喚」が巻頭にくるはずであるが、ここでは第二詩集「非鉄」が巻頭に来て、「不来方抄」「召喚」と続いている。「非鉄」から読み始める方が城戸氏の世界を理解しやすいということなのだろうか。その意思に逆らって発表順に「召喚」から読んでいく。 これがあれを滅ぼすであろう。と一言呟いて幕を開けるこの処女詩集で城戸氏は、いまはテクストに残されるのみとなった長く広い歴史を見渡し、それと決別するべく正面から対峙している。詩人が詩人として歩き始める時、その方向は当然前方であって、すると始めにこのような過去との徹底的な交渉と決別が必要であるのかもしれない。過去は、現在に立つ詩人の肩に常に手を伸ばしてくる。詩人は甘んじてその指を受けいれ、感じる。そのときの体の反応がこの「召喚」を構成する詩篇の数々である。そこに私は次のような流れをみた。 あらゆる場面、あらゆる場所に染みつけられた歴史とは、固定された死であり、死者の言葉と思想によって定着されている。その一つ一つを見詰め、その対応方法を新たに立ち上げ直していくと、浮上してくる問題がある。 歴史は既にテクストとしてしか現在に存在しないため、それが即ち私たちの認識可能な歴史である。しかしテクストがそのまま歴史であるはずはなく、必ず両者の間には差異が生じている。自分自身の過去との交渉を行ってさえ、差異は必ず生じるのである。ならば歴史との交渉を深めれば深めるほど、認識を深められるどころか差異が広がるばかりであり、やがて交渉をする意味すらも失われる。 自分自身の過去を見詰めれば、そこには外部の過去も隣接して存在する。例えば風景、人、物語。自分が感じてきたそれら外部の過去は、悉く自分の過去に密接に関係影響しており、しかしその両者の間にもまた、絶望的なまでの溝は発見される。固定されているはずの歴史は、まるで生き物のようにその姿を常に変え、定義づけされることを拒否する。こちらが呼びかけるたびに、新たな問いを生み、見えては隠れする。最早書くたびに自分は斥けられるのであるが、それでも歴史は、ほかでもない自分に繋がれ、今も続いていくのである。自分が現在である限り、そこから逃れることは出来ない。 歴史を彷徨った詩人がたどり着いたのは、もう何も書く必要はないはずだ、という境地である。すると検証は失敗に終わったのだろうか。しかし気がつけば、そこには踏み出す詩人の軸足を支える歴史が、一冊の詩集として、その内宇宙として、あたらしい詩人と共に出現しているのだ。国境とも呼べそうな出発線である。 巻頭に戻って第二詩集「非鉄」からの二十二篇である。何が起ころうと/(鴇色)の暁、との言葉ののち、詩人吉岡実を追悼する詩で、この詩集は幕を開ける。また、この詩集全体が吉岡実を追悼するものであると読むことも出来る。 城戸氏の詩の方法とは、現実の何かしらを目撃し、その一瞬からインスピレーションを受けて、ある事物に従来とは異なる定義を仮定することによって、すでに定義付けされた世界に新穴をあけ、そこから更に深くへ分け入って行くことではないだろうか。読み手は城戸氏の思いがけない仮定を受け入れたのち、城戸氏の思索の後を追うこととなるが、それは読み手として、とてもしんどい作業である。何せ現われるもの全て馴染みのないものばかり、しかもその一つ一つをしっかりと受け止めていかなければ、すぐに自分の居場所すらわからなくなってしまうのだ。しかしそれを克服して最終行に到達すれば、そこには驚愕が待っている。 世界を新たに定義するため、城戸氏は「召喚」とはまた違った切り口で、既に定義づけされた過去、それを記録したテクストを再検証している。そのうえで重要な鍵となる要素は、水である。水は人間を構成するもの、世界を流れ循環するもの。水は世界の運動そのものであり、人もまたそこに含まれる。 水は流れ流れるうちに、言語を発生させる。言語は水が流れてきたあらゆる過去を語り、詩人はそれを水銀とよぶ。水銀は液体であると同時に、鉄ではない金属であり、死者の思想であり、有毒であり、人間である。 水は言語を、水とは対極にある固いもの、石や鉄に刻みこみ、歴史を模っていく。その対象は紙へと進み、しかし紙に刻まれた歴史はやがて燃えて失われ、全ては灰となって地上に積もり、それはまさに現在の風景となった。 その静寂の地に新たなものが起これば、それは積もった灰とは相容れあいはしないのである。抒情的に響きながら、絶対的に灰と剥離するその十二音階のようなもの。そのひとつが、吉岡実だっただろうか。城戸氏は吉岡をも灰にせんとする。 積もった灰の上である現在にもまた、死者は押し寄せ、水銀は押し寄せる。そして現在もまた、瞬く間に水銀へと変わっていく。詩人はそれらになおも目を凝らし、その仕組みを再検証して詩篇に変換していく。宿命、星空、永遠、死者…。それらを積み上げていって現われた形が成すことは、恐らくは出産であり、臨月を終わらせることである。 次に第三詩集「不来方抄」の全十篇が収められている。この詩集は「召喚」「非鉄」に比べ、現実の風景に沿う部分が格段に多くなっている。舞台となる不来方とは、城戸氏の出身地である盛岡を指す古名である。詩集の後半には「解題」として、それぞれの詩篇が生まれた源の風景を解説する文章が収録されている。これらの風景を散文的体験とすれば、詩篇はそこから手を伸ばして届こうとする何ものかである。 この詩集には「あなた」という、明確な相手が登場する。読んでいくと、それは特定の人間ではなく、城戸氏の生まれ育った地と共にある何者か、城戸氏が詩作するとき、否応なしに隣にいる者であるように思われる。成長し故郷を離れてから時折帰り訪れる不来方の風景を通して詩人は「あなた」に語りかけ、また「あなた」を再認識する行為によって、この詩集は広がりをもっていく。 郷里不来方は、詩人にとっての世界の全てに繋がっており、その源と言っていい。「非鉄」で詩人の世界を流れたあの重要な水は、不来方の山間から流れ出る川が源流なのである。そこに立ってあたりを見渡せば、春夏秋冬が巡り続けるだけで何も変わらない風景が広がっているのである。そして不来方全体を眺め回しても、やはり100年も変わらない様子が、ただ何処までも広がっている。 その奥か、あるいは同時に「あなた」は存在している。何も変わらない風景の中で詩人は「あなた」と対峙し、そして現実の不来方とはまた別の、詩人の胸に直結した不来方を司っているものとしての「あなた」を、詩人として自覚していく。 そしてあなたは灰の子を産み、「箱のごときもの」を産み、城戸氏が詩人として見詰めるものの全てを産み出していく。それらは現実には決して生まれなかったものであり、詩人とあなたと不来方の共有する世界でのみ現われるものである。 「産月」の冒頭に出てくる「生成(なまなり)」とは、般若の前段階で、女性の中の魔性がまだ十分に熟さない状態を表すのだそうな。「あなた」はまさにそうであるのか。生まれなかった子供を抱え、果てしない臨月を過ごすものが、詩人のふるさとには居る。そして詩人が詩人である限り、その傍らに一時も離れずにいるに違いない。 と、このあと、この現代詩文庫が刊行された時点ではまだ完成していなかった「バルバロイ」の一部が収められているのだが、ここで文字数をカウントしてみると規定の分量をオーヴァーしているのである。そしてこの詩集を語るには、この詩集を丸ごと体験してからでなくてはならないに違いない。続きはそのうち、別のところで。 |
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