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思考を続けよと城戸朱理はいう
――初期の三詩集を読む
森川雅美
最近、伊藤若冲のブームだ。若冲は江戸時代中期の画家で、主に京で活躍した。その時代の京では、円山応挙を頂点とした四条派が活躍し、今までの美術史も、そのような視点から書かれてきた。応挙はいうまでもなく、事物を写し取るという写実を旨とした画家で、デフォルメは良しとはしなかった。若冲は写実ではなく、むしろ、画家の見る意識を強調し、デフォルメも辞さない、事物を超えたリアルを求めたと、いえるだろう。このような意識は、応挙の視点から見れば異端だ。しかし、この若冲が、現在は応挙よりしっくりと来る。写実では今のリアルには、物足りないのだ。
若冲の絵は確かに、強烈な印象を見るものに与える。見たものというよりも、画家の見る意識が、対象のものに触れたときの、感触そのものを描き出そうとしている、からだろう。もっとよく見ていくと、絵はさまざまな技巧の集積によって、成り立っているのがわかる。つまり、解析すれば描かれた事物は、それだけでは抽象である、技巧という記号に分解される。このような技巧を組み立てることで成り立つ。しかも、技巧という抽象から成り立っているのは、若冲だけでなく、ほぼすべての絵画にいえるだろう。写実と目される応挙も同様だ。ただ違うのは、何を描くために技巧が使われているか、ということだ。応挙は写実のリアルを描くために、若冲は写実を超えた強烈な意志の、リアルを描くために、技巧とその組み合わせが選ばれている。そして、現在は後者の方がよりリアル、ということだろう。 このように考えていくと、城戸朱理が最近翻訳した、『エズラ・パウンド長編詩集成』(思潮社)の言葉を思い出す。 事実は終わった、虚構に進もう。 「ベリゴール近郊」の第Ⅱ部の冒頭の言葉である。同書の註解で遠藤朋之は、以下のように書いている。 パウンドがこの詩を書いた一九一〇年代から、トルバドゥールの時代を見返し、ボルンの書いた恋愛詩から垣間見えるものが、どこまでが戦争を歌ったものなのかを、パウンドの作り上げる「虚構」において探る。この「虚構」こそが、現代においてトルバドゥールについての詩を書く意義であり、過去を現代に蘇らせる"Make It New"をモットーにしたパウンドの独断場でもある。つまり、トルバドゥールの時代と同様、「虚構」が「史実」になっていくわけだ。 「トルバドゥール」は、主に南仏で一二、三世紀に活躍した、吟遊詩人であり、詩を歌う前に「解釈」を語ったが、その多くは「史実」に立脚していない「虚構」だったらしい。「ボルン」はその代表的人物ということだ。パウンドは自らの詩の主体の意思を、「トルバドゥール」に擬えて語っている。「史実」は一般には、歴史の事実ととらえられている。「壇ノ浦では源氏が勝利し、後に鎌倉幕府を開いた」や、「関が原では徳川家康が勝利し、後に江戸幕府を開いた」など、確かに大まかな事実はある。しかし、細部に入っていくと、事実はあいまいである。「史実」はあくまで書き手の解釈であり、それが事実として語られる時、多くは商社によって綴られた、「歴史という制度」に過ぎない。「源頼朝」や「徳川家康」が、本当はどういう人物だったか、それすらもわからない。 パウンドは、十分にこの「史実」の嘘を知っていて、「史実」を「歴史という制度」から、現在に、詩の主体の意志に取り戻そうとした。「歴史」を語るのではなく、詩という形で再び生きようとしたのだ。 城戸朱理の詩の主体にも同様の意志がある。 先に引用したパウンドの言葉に共鳴する言葉で、第一詩集『召喚』(1985年書誌山田)を結んでいる。 もう何も、と「召喚」は書き継がれるのだ/ 死者よ、とどまれ。 (「祭文」部分) 城戸の詩の主体は、この「もう何も」を詩の出発点にしている。この少し前には、「「唯一」が世界に散逸し名残の境神が朽ちている」と、言葉の現状が記されている。そこに「もう何も」と記すということは、どういう意志によるのか。 海をさらって得る黒曜石に 金を象嵌するように とは もはや 言葉の丑満時 その昏さに流れる/たゆとう夥しい水 のようなもの それを詩のようなものと認知する 詩そのもの(で)はない (「表記の水」部分) 「ような」あるいは「ように」の多様は、『召喚』の特徴の一つといえる。それは当然単なる比喩ではない。言葉を言葉以前に戻し、概念としての制度の言葉から、感触としての言葉を取り戻そうとしているのだ。「詩のようなもの」と「詩そのもの」の、隔たりは大きい。言葉と事物の間のずれ、その言葉の制度のはらむ嘘を認識し、詩の主体は、その制度から逃れる言葉を綴っていく。道元禅師は『正法眼蔵』で、「言葉は月をさす指である」といっている。城戸はそのことを、自らの深い部分で感じている。だからこそ、事物と言葉を一致させるのではなく、「ような」という留保をつけ、「仮に名づける」場所で踏みとどまっている。このストイックなまでの意識は、パウンドの「虚構」と同質だ。 このような城戸の主体の意識が、より深く昇華したのが、つづく詩集『非鉄』(1993年思潮社)だろう。 非鉄にあらず、 あらゆる色彩を混ぜ合わせると 現れてくる色彩は〈灰〉。 (「非鉄」冒頭) 城戸を語る上で欠かせない、今では広く知られている部分を、表題作から引用した。詩の主体は、「非鉄(鉄にあらず)」を、さらにあらずと否定することで、言葉の無へと向かい、その奥の事物に肉薄しようとする。詩は畳み掛けるように、「あらゆる色彩を混ぜ合わせると/現れてくる色彩は〈灰〉。」と、続く。ここで、存在の不確かさ、「般若心経」でいう、「色即是空 空即是色」の意識が語られる。詩の主体はどこまでも、ここにある意識の制度を疑問視し、あるいは存在の根源にある無を見つづける。この主体の意識が、仮定形、命令形などを重ねながら、新しい詩の意識を形作っていく様は、『現代詩文庫 城戸朱理詩集』の解説で、陣野俊史が詳細に語っているので、いまさら私が書くまでもなく、それを読んで欲しい。ただ、城戸の詩の主体の、決意とまでいえる意志が明確に現れている、詩集の最終行だけを引用する。 水に捕われた水を想像せよ (「アルゴー、失われた航海の目的」末尾) 第三詩集『不来方抄』(1994年思潮社)は、叙情的語彙や言説に満ちているため、城戸の詩集の中でも古風である、と誤解されやすい。 後日譚すら予後に命じられ 魚らのしろい腹を見せながら 非望の、水が流れている (「臨月」冒頭) 確かにこの詩集の書き出しを読むと、古風なイメージに思えるかもしれない。七〇年代の修辞化された、書記的叙情すら思わせる。このような語り手の意識と詩の主体を、同一視するという単純な誤読をするなら、『不来方抄』は連綿と続く抒情詩の系譜に、組み込まれるだろう。しかし当然、語り手と詩の主体は別であり、詩集が、そのような叙情を、描こうとしているのではないのは、あきらかだ。作者も「覚え書き」に記しているように、あくまで「叙情を仮装している」のである。とするなら、詩の主体のもう一つの側面であり、詩集全体の象徴ともいえる「あなた」は、作者の私的感慨や不来方の記憶の集積など、叙情の産物ではないのはいうまでもない。では、この「あなた」とは何なのか。そして、「あなた」から見えてくる詩の主体の意識は、どこにあるのか。 あなたは破約を口にする。 (「破約」部分) あなたは虚空に問いかける (「産月」部分) 「あなた」は叙情ではなく、むしろ叙情を無化するものだ。叙情を仮装した語り手が辿る意識を、「破約」や「虚空」に投げ返す意識と、いってもよい。 あなたは、 そんな営みを千年も見てきてような眼をして 回廊に長い長い影を落とす (「白磁」部分) あなたは詩人の時間も土地の時間も、超越した意識としてある。私はこのような部分を読むと、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を思い出す。あの長大な一族の偽物語。これもまた「虚構」だ。そして、「虚構」は時に、現れなかった「歴史」のもう一つの可能性、として描かれる。「史実」から、永遠に失われた、声なき声を現在として問い直すのだ。 『不来方抄』の根底にも同様の意識がある。主体は「あなた」と語り手の間に、引き裂かれてありながら、自らの内の古い叙情を葬り去る。このような意識は、マルケスやパウンドの「虚構」と響きあっている。望郷に立脚した叙情も、そのまま素直に描く限り、やはり「史実」の嘘にすぎない。そして、この叙情は近代から現代までの日本の詩に、色濃く流れている。『不来方抄』で、城戸の詩の主体はこの叙情をも、過去の制度から、現在の詩人の意志に引き戻そうとしたのだ。そこに新しい可能性の時間が現れ、「不来方」は永遠のなかに流れ出す。しかし、主体は性急に意識を表明しようとはしない。ただ叙情を否定するだけでは、同質のベクトルの違いに過ぎないことも、十分知っている。だからこそ、「生成」や「灰の子」という、未生成の可能性の留保の段階でとどまっている。 城戸朱理の詩の主体はその出発点から、既成の意識をぎりぎりまで剥ぎ取り、むき出しの意識で立っている。今もそうだ。彼ははるか遠くを見詰め、いい続けている。 詩人よ、現在に怠慢になるな、自らの意志で思考を続けよ、と。 |
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