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見通しの悪さについて
清野雅巳
門から玄関、あるいは玄関から裏口まで見通せる家は家相が悪 いといわれる。なぜなら良い運気が入口に流れ込んでもすぐに 出口から逃げてしまう。出入口を結ぶ一直線上は、むしろ悪鬼 の通り道となりやすい。 悪鬼、といえば笑われるだろうか。現代に入ると、この話にも っともらしい、合理的な説明がつけ加えられる。いわく「見通 しの良い家は泥棒に狙われやすい」。 およそ矢にしろ鉄砲玉にしろ、致命的なものは直線の軌道を描 く。その直線状に立つ、ということは、それだけ狙われるリス クも高くなる。見通しの良い場所は、常に命の危険と隣り合わ せということだ。 そこで、さまざまな障害物を用意する。死を免れるために、暖 簾や衝立で視界を塞ぐ。いたるところに遮蔽物や曲がり角を設 ける。こうして文字通り筒抜けだった家はいつしか、見通しの 悪い家、迷宮となる。 この見通しの悪さこそ、城戸朱理が取り組む主題のひとつに数 えられる。 野村喜和夫が「地理的想像力」と呼び、詩人みずから「都市の 文書」と語る詩。それは単に、詩人が都市について語るのみに 止まらない。例えば詩集「不来方抄」においては、詩人のふる さと「盛岡」という地層の下に(あるいは奥に)「不来方」と いう古名がひそんでいる。彼は土地の名をあばき、その奥へ分 け入ってゆく。 失われた名前、「陶片追放」「アルゴー」「ポンペイ」。 実在しない名前、「錬金薬」「ネクロポリス」「鬼」。 こうした数々の固有名詞を駆使し、都市の遠近法を構成する。 すべては死を免れるための見通しの悪さ。ここでいう「死」と は詩人の「内面」を設定され、見透かされること。明確なメッ セージや巧みな比喩によって、安易な結論(=出口)が導き出 されてしまうことだ。 そうした状況を踏まえるならば、詩集「千の名前」はいかにも 致命的に見える。 千の名前があって 千の属性が与えられ 失われた名前は名のる 私は失われたもの。(『千の名前』より) 本作における城戸朱理の風景は一見すると平板で、かなり見通 しがいい。固有名詞は大幅に減り、代わりに題字通り「千の名 前」という大きく抽象的なくくりが前面に押し出される。これ では従来のような遠近法を構成することは難しくなる。 それはとりもなおさず、死の危険にさらされることを意味する 。 なぜ、みずからの詩を危険にさらすのか。巻末の覚え書きには 、本書を書く動機となった苦痛について、ほんの少しだけ触れ られている。 苦痛にさらされたとき、ひとは、詩はどうなるのか。 遠近法 は削ぎ落とされ、奥行きがなくなる、いや、奥行きを作る余裕 が、詩人になくなる。なぜなら彼自身の時間的、空間的な見通 しがきかなるから。対照的に外部からの見通しは良くなり、リ スクは増大する。 問題はそのように制限された状況下で、いかに詩を書くか、と いうこと。苦痛が視界をせばめ、見通しが良くなってゆく場所 で、いかに書くか。 書かない、という選択肢も、あった。 本書を読むと勇気づけられるのは、そこに生存への意志がある からだ。詩が危機に瀕し、それでも書くことを選択した、とい うこと。なおかつ本作は、前作にはなかった遠近感があり、確 かに死を免れている、ということ。 「失われた名前」を、ただ「失われた名前」として書く。書か ざるをえない状況から、「詩で生き延びるにはどうすべきか」 という問いがあり、能動的な模索がある。「千の名前」は、そ のような転回のダイナミズムを感じさせる。本書のなかで城戸 朱理が「心がなくなった」「魂が壊れた」と告白する時、それ は死ではなく始まりなのだ。そこで提示されたのは、新たな遠 近法。あえて書くことによって、あるいは書かないことによっ て、新たな方向性を提示してみせた。見通しのよい場所に踏み 出した。筆者はそれに勇気づけられる。「千の名前」との出会 いを大切にしたい。 |
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