![]() |
||
|
夏の人
キキダダマママキキ
城戸朱理のこれまでの詩業を考えるとき、鉱物から植物へというひとつの流れを試みてみることも可能だとは思っていたのだが、今回、これまでの詩集を一通り読み返してみて思うことは、城戸朱理とは夏の人だということだった。私はひとつの眩暈そのもののような大きな吐息をもって『召喚』から『地球創世説』の道行きを辿り終え、些かのナイーヴな云い方を許容していただけるならば、城戸朱理は夏の冷たさ、夏の淋しさをずっと抱えて詩を書いてきたのだ、という感想をもった。私も(?)もっとも好きな季節は夏なのだが、夏ほど自分の虚しさ、卑小さに身につまされる場所はない。それは暑気とは裏腹の《わたし》という底冷えそのものであって、夏とは何か、夏に何故惹かれるのか、という問いは置くとしても、夏が恋しいのだ、すべての季節から追い出されて。
その痛苦が夏であって、城戸朱理は『非鉄』所収「アマリリス」で「たとえば、水銀/夏の言語。」ときらめくような一行でもって夏にいることもあれば、『不来方抄』所収「祭器」では「枯死することなく花は衰え/あなたは衰え。//壷も衰え。」と(いくらかの)容器を担保しないことによって逆に夏に独り立っていることもある。いずれの詩集を見ても「夏」の一語は詩行の"谷"として置かれてあり、いかに城戸朱理にとって夏という季節が大切な亀裂/断崖かがわかる。同じく『不来方抄』所収の「草子」では「草は、夏。」そして「草も、夏。」という入れ子状の場所を認めていたが、この時間と大地性は『地球創世説』にまで引き継がれるものである。そこにおける詩人の態度は「沈黙が測れぬ者に/災いあれ/それが死者の言葉。」(『非鉄』所収「北の方位」)と苛烈な死者意識だが、なんという誤解をしていたのだろう、なんということだろう、城戸朱理はすばらしくウェットな叙事詩の書き手であったのだ。 さて、城戸朱理の詩業を辿ってみると、前出「アマリリス」にある「水銀は鉄と合金しない/水銀はニッケルと合金しない/水銀はコバルトと合金しない/水銀はマンガンと合金しない/水銀は人間と合金しない」というふうに感受の結節点は金(属)としてあったのだが、はるか下り『地球創世説』では「かたく頑なな一枚貝を/岩から剥いで 身をすすると/ひとつの「生命」が/そのまま腹に落ちていく「味」がする」と味"感覚"によって世界が捉えられていることは驚くべきことだ。 感動的とすら云える、詩論集『潜在性の海へ』に収められた論考「「時間」が語るもの」。ここにおいては「感覚」が、城戸朱理において、ようやく認められることになっている。 城戸朱理は「四年前に吐血して、生死の境をさまよった」ときのことをこのように述懐する、「そうしたときの身体性というものは、今になって思い起こしてみると、不思議なもので、まるで「痛み」を中心にして自分の存在が始まるような感覚だったと言ってもよい」。私はこの文章における「今になって思い起こしてみると」という、time-rag/遠さの感覚を大切に読みたく思う。思えば人の体験というものは常に「今になって」というテコをもって語られるものであり、それは云わば"なつかしさ"とは何かという問題を提起するが、この時間感覚こそが人を人たらしめている「身体性」なのだ。常に「今になって」という螺旋階段状の時刻を打ちながら人は生きているとも云え、痛覚が身体性を感覚する始まりだとしたらこの感覚が《存在》を規定しているのだ。すなわち、まず痛みありき、と。 岩成達也『(ひかり)、……擦過。』を論じた「存在が始まるとき」ではまさにこの痛みがレヴィナスを呼び起こしつつ「ただ在ること」といった場所として問題化されている。ただ、私の疑問があるとするならば、この場所「現存在」が「主観的な内部だけで閉じた世界を形成する」位相として捉えられ、「そこに現われる整序あるコスモスは、(……)内部に外部を産出することになる」(傍点‐ママ)と締め括られている点である。これは岩成達也の同詩集所収「十三月/蒙昧」にある「むしろ 解読不能だからこそ 私たちはそこを外と呼んだのだ」という詩行の読み替えなのだが、私の理解するところによれば、解読不可能性を内部に抱え込んでいるところのものをレヴィナスは実存=《il y a》と呼んだのであり、解読不可能性(主観)は偏在しているという開けこそがその場所なのだ。よって外部の産出は逆に(反転的であれ)中心を措定するところのものだ。偏在性は確かに解読不可能性としてときに諦められるが、非論理を担保する論理/理性の極みとしてあらゆる不自由を生む。そして私たちは苦しむのだが、強調すべきは、私たちはそのあまりにもの広大さに歓喜するのだ。この広大さが二重写しされるところに私たちの詩があり、ただちに存在論としての生き様があるように思われる。 確かに城戸朱理の詩もそのようにあるのだ。『地球創世説』所収「夏の流星群」にある、「白いイルカも/コバルトの鯨も/南の海に逃げ/夏が終るころ/すこし蒼ざめて還ってきた/それからだ、/彼らが海に染まらなくなったのは。」という部分。「南の海」という僻地に反れつつも、海を引き受けて「蒼ざめ」、すなわち二重の"海"を身体に重ね、だからこそ「海」でありつつも「海に染まらな」い「内部」と「外部」の既なる併置(産出ではなく)が実現されるのだ。そこがまた「夏」であったとは、この詩が城戸朱理という場所への賛歌である以外の何であろうか。 |
||
| <<HOME | ||