創造主ゆえの孤独
城戸朱理詩集『地球創世説』書評
河上 政也

世界のはじまりを独自の解釈で描いている一冊の詩集があります。それが城戸朱理さんの『地球創世説』です。この詩集における創世期の地球は、ひとりの少年と密接に存在しています。

もし黄金のナイフがあったなら
太陽を 刺し貫きたいと
思うのが、少年
(「高波の神話」冒頭部分)

 地球は絶え間なく太陽の周囲を回っています。どうして回るのでしょうか? 地球が大人(社会人)であれば、生活の糧を得るための仕事として仕方なく回っていそうですが、少年ということであれば、仕事ではなさそうです。無邪気な好奇心を持っているので、太陽が遊び道具のひとつのようにしか見えていないのかもしれません。だから、悪戯したくもなるのでしょう。分別のつく大人であれば、「もし、太陽が無くなったらどうなるのだろう」と心配するでしょうが、少年であれば、理性にとらわれない純粋さを持っています。きっと、「どうなるのだろう」と心配するよりも先に、「どうなるのだろう」と好奇心を駆り立てられることでしょう。それゆえに、少年は自由気ままに戯れることができるのでしょう。

少年は波になりに行く
寄せては返し、
ときには大陸の縁に
激しくぶつかって
いっしんに砕け散ってみたりする
その心地よさ。
けれども、それからまた
ひとつにまとまるのが難しい
火を起こしているときに
ふと「自分」の一部を
忘れてきたのに
気づくこともある
(「女神の生誕」抜粋)

少年は花を摘むことなどなくて
けれども ときおり
花になり出かけていくことがあった
肉茎を塔のように尖らせて
白い花が咲くと
少年は急に萎んでいって陥没し
そこから少女が生まれた
(「トルソの森」抜粋)

少年は少年のまま
大きな緑の石を割り
誤って傷つけた指から血を滴らせる
緑の石に赤い血が飛び散って
それは創世からまもない
ひとつの「惑星」となった。
(「惑星の創世」抜粋)

 少年は海や花や星など、思いのままに姿を変えて戯れることができます。純粋さによって裏打ちされた行動は生命力に満ち溢れています。そして、少年の生命力が世界を絶えず変化させているのです。まるで、少年自身が創世記の地球そのものであるかのようです。
少年の行動はそのひとつひとつが壮大かつ神秘的で、人智を超えた働きに圧倒され、世界が創られていく過程を興味深く読み進めることができました。なにかを創るときには充実感が味わえます。少年も充実感を味わいながら戯れていたはずです。しかし、「永遠」という言葉の元での戯れであるならば、創作の完成はありえません。ぼくは「永遠」という言葉に怖さを感じました。

少年は白い魚を抱いて
海となった世界で
永遠に泳ぎつづける
やがて、海が海としてうねり
波が波として砕け
再び、陸が陸として
堅くなって
深い森を育むまでは。
(「永遠の海」抜粋)

 少年の戯れには妨げになるものが存在しません。普通の子供なら、日が暮れたら親が心配しますが、少年はどこにいても孤独なのです。少年の手で創世された世界には少年以外に、人を含めた様々な生物も存在します。しかし、どんなに世界が移り変わろうとも、ここで描かれている他の生物は少年を脅かすほどの存在ではありません。だれの干渉も受けない世界で生きるというものはなんともさみしいものです。読み進むうちに創造主ゆえの孤独を感じてしまいました。

 ここまでが詩集を購入した当時に読んで感じたことです(『Lyric Jungle』9号に掲載)。そして、最近、改めて読み直す機会がありました。そのときに、詩集の最後の詩において「世界」の終わりを感じさせる言葉に目が止まりました。

自らが「生命」であることを知らない少年は
暁のような鳥を連れ
海を渡って
新しい星々を探しに行く
東の空に星は流れて
新たな火は生まれ
やがて世界は「火」に包まれる。
(「暁のような鳥と」抜粋)

 この場面は少年が「夕焼け」に変貌した姿を描いています。日が暮れると陽射しがぼくのもとから離れていくように、少年もこの世界と別れる時がくるかもしれません。別れるとしたら理由があるはずです。それはこの世界が「生命」として機能しなくなったときではないでしょうか。少年に創るものがなくなったとき、そのあとに出現する「新たな火」とは、この世界を滅ぼす火であるかもしれません。
隣国が核実験の成功を宣言したというニュースを聞いて、核兵器の使用による世界の破滅を想像せずにはいられません。
現在の地球は少年のままでいるのでしょうか。核兵器という病巣を宿しながら、飛び去る前の姿で、孤独に震えているのではないでしょうか。
(思潮社 二00三年刊行)
 
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