クロキドシュリ
渡辺玄英
 城戸朱理さんとの思い出を語る、というテーマで書いてほしいと松本秀文さんから依頼を受けた。しかし、いいのだろうか、まるで「故人を偲ぶ」みたいじゃないか、と礼儀としてツッこんでみたけど、むろん松本さんの意図に悪意があるはずもない。それはともかくとして、渡辺は城戸さんの知己を得てまだ数年にすぎない。大きな尊敬と信頼を寄せてはいるが、それは時間の長短に左右されるものではないからで、情報やエピソードの数はささやかなものにすぎない。はたして、渡辺は城戸さんの何をどれほど知っているのだろう。
最初に印象付けられたのは「親切」だったかもしれない。出会いの最初期から、城戸さんは親切な人だった。これは接していく中で、折にふれ垣間見られる優しさや些細な気遣いで、クリエイターとして繊細なのは当然としても、その繊細さを対人関係でポジティブに発揮出来る人は稀だろう。当然、あらゆる局面に寛容なはずもないし、現にある人から「城戸さんって怖い人でしょ」との声を聞いたこともある。渡辺は城戸さんを「畏るべき人」とは思うが、「怖い人」と感じたことはなかった。時代の先陣をきる位置にいると、おそらく信じられないほどの風当たりがあるはずだ。遠巻きに多くの声があがるだろう。いずれにせよ羊を狼に見間違えるのは危険だが、生半可な情報で人を測るのはさらに危ない、と自戒するところだ。いうまでもなく狼より人間と人間の操る情報のほうがはるかに怖いのだ。
 他の人があまり触れないことを書いてみよう。
 「キョロちゃん」。このところ不祥事で可哀想な不二家のペコちゃんではない。森永製菓のチョコボールのマスコットキャラクターだ。「鳥」に見えるが、省略が激しくてよく分からない。このキョロちゃんを、どうやら城戸さんは愛しているらしいのである。
 お菓子の箱にプリントされている存在だったキョロちゃんは、なぜか1999年という世紀末にTV東京でアニメ化された。やっぱり当時はみんな冷静さを欠いていたのだろうか。城戸さんはこのアニメに遭遇したらしく、何かのヒョーシに、「アニメのキョロちゃんはシュールで泣けたんだよ」と渡辺に嬉しそうに語ったことが二度ほどあった。二度ほど、というところに彼の忘れられないビミョーな愛着を感じてしまう。御想像いただきたい。格闘技が似合う偉丈夫が、キョロちゃんのアニメを見ながら、のけぞったり涙したりしている図を。
 城戸さんは渡辺とむろん真面目な話も少しはするが、オタクが好みそうな話題で盛り上がることが多い(おそらく渡辺に話を合わせてくれているのだ)。件のキョロちゃんのときもそうだったし、延々とケータイメールで「仮面ライダー」について熱く熱く語り合ったり、去年は「魔法先生ネギま! 見てますか?」、という謎のワンセンテンスメールが深夜にいきなり届いたりしている。
また以前、とある話題の折に、渡辺が「サンライズ系のキャラ」という表現をしたところ、よどみなく受け入れられて会話が成立していったことがある。ふつーの詩人は「サンライズ系」には反応できないはずなのに、いったいこの人は何者なんだろうとプレッシャーを感じる渡辺であった。もっとも、別の折に渡辺が、ギャルゲーの二次元の女の子と深夜に語り合っていますと言ったら、ちょっとホンキで引かれたことはあったけど。
 つまり、何が言いたいかというと、城戸さんはオタクも解かる、というかオタクの血も流れている、というか全天候型のゲルググというか、どんどん分かりにくい比喩になっているが、こんな意外な一面があるのだった。
 人は多様な側面を持つものだが、城戸さんはそれがずば抜けて多い。複雑で多彩な分岐をもつ巨大迷路のように存在している。博識、多芸多才であることに異論を唱える人はいないだろう。とりあえずここでは、普段の、現代詩の前線を切り開く詩人として、あるいは多忙な文筆家としての〈表〉のイメージを「白城戸朱理」。オタク知識をも網羅する〈裏〉のイメージを「黒城戸朱理」としてみよう。クロキドシュリ。おお、まるでマルキドサドの従兄弟のようではないか。
白城戸朱理、つまりフォースのライトサイドには、文学はもちろん思想芸術美術全般、骨董、酒、料理、ファッションなど、いわゆる博学多才な城戸ダンディズムがあるとしよう。
 では、クロキドシュリ、通常、公式の場では隠されているダークサイドには、仮面ライダー、キョロちゃん、銀英伝、ネギま!、アイドルなどがあるというわけか。いや、そこはそれ底知れないお人だから、もっとスゴイものがあるのだろうが。(とここまで書いてきて、城戸さんには少年性や中性的なものはあっても女性的な要素が少ない、あるいは官能性はあっても倒錯性は少ないのではないかという気がした。また別の機会に考えてみよう。)
 幅広く地勢と史観をおさめながら、一方でオタク的事象とも戯れる自由で柔軟なココロを持っている、これほど守備範囲の広い人を渡辺は他に知らない。この広汎な知的活動の源泉が何なのかは興味深いテーマだが、もう紙幅もない。いずれにせよ、クロキドシュリ成立の背景には、ささいなもの、ささやかなものにも偏見の無い眼差しを向ける柔軟性と鋭敏な感性があることは間違いない。城戸さんは常人とはちょっと違うレベルで、つまり深く早く豊かに、そしてさまざまな角度からセカイを読み解き続けているのだと思う。

 
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