「時評」というと、作品をいくつか取り上げて一々評を加えるのが一般的だけれども、先日、インターネットでの詩と詩人の間柄について興味深く考えさせられる出来事があったので、それについてのみ取り上げる。
インターネットでの詩作品発表の場としては、自前のウエブサイトで静的なHTMLファイルを作成して閲覧に供するもののほかに「投稿掲示板」と呼ばれる、投稿と閲覧の機能を持った動的なウエブサイトがある。最近「Web2.0」などといってユーザーが参加してコンテンツを追加していく後者の形式が大きく注目されているけれども、そもそも後者の「投稿掲示板」であるところのBBS(Bulletin Board System)は、インターネット普及前の"パソコン通信"時代からあったもの、というより、BBSといえばパソコン通信のホストそのものをも意味していた。詩人が自前のウエブページを持ってHTMLファイルに仕立てた詩作品を発表するようになるよりもずっと前のことである。
パソコン通信のひとつ「ニフティサーブ」では、初期から「詩のフォーラムfpoem」という投稿掲示板があり、多くの作品が投稿、掲示されていた。そのパソコン通信の初期の頃(1990年代前半)は、紙媒体ではないネットワークを場として作品を発表するにはBBSを利用する以外の選択肢がほぼなかったのである。
そのパソコン通信の投稿(詩のフォーラムの話ではなく、パソコン通信一般の話であるが)を巡っていくつものトラブルが発生し、時には法廷での争いとなり、その中で投稿の扱い、著作権などについての合意が深められていった。パソコン通信サービスを行っていたニフティサーブもそれなりの規模の企業であるから法務部がしっかりと投稿とログをめぐる権利関係を規定していた。すなわち、ログとしての集合体はニフティサーブに著作権があり、ヘッダーなどを含めた形でニフティサーブに無断で配布することができない。また、もちろん、各個の投稿の著作権は投稿者にあり、投稿者に無断でそれらを出版したりすることはできない。また、フォーラムの運営に関しても、不適当な書き込みの削除、入会の処理(拒否を含む)、退会処分などを適宜行うことによって、ユーザーがフォーラムを安心して利用できる環境を維持するための運営方法が形作られていった。
時代は下り、インターネットが浸透してくるとパソコン通信は過去のものとなり、ついにはパソコン通信サービスは終了した。現在、BBSといえばもはやパソコン通信ではなくウエブサイトでの電子掲示板を意味する。ここでも基本的な権利関係、BBSの運営もパソコン通信時代とさしてかわるところはない。暴言、誹謗中傷などへの適切な処理、入退会の管理など、BBSの管理者は自身の裁量権限のもとにそれらを適切に行う必要がある。
ところで、私の運営しているウエブサイト「現代詩フォーラム」も電子掲示板であり、また私もパソコン通信での「現代詩フォーラム」のシスオペ(管理者)として活動してきたから、パソコン通信時代とさしてかわらない感覚で運営してきている。悪質な書き込みを行う投稿者がいれば退会にすることもある。退会になれば、その投稿者に紐付けられた投稿も消えることになる。これは投稿者と投稿の権利関係に基づいた思想であり、データベースの構造もその思想に基づいて投稿者データが消えれば投稿データも消えるように作られているからだ。
先日、ひとりの会員が退会となったのだが、それに関して、退会はともかく作品を削除したことは容認しがたいという趣旨の意見が一部にあった。退会に関して詳しい経緯は書かないが、それよりも興味深いのは、投稿掲示板への作品の掲示が昔よりも大きな意義をもっており、退会処分はともかく投稿作品を削除することは詩の在り処を揺るがすものだ、という意識が垣間見えることであった。であるから、さらに想像すれば、投稿掲示板からの作品の削除は、その投稿者が詩人であるということの否定とも感じるということもあるかもしれない。
常識的に考えれば、詩作品の原稿の管理は作者が行うものであり、投稿掲示板にある作品は原稿そのものではなくコピーであるから、それを削除されるということは、たとえていえば詩誌に送った作品が没になった、またたとえれば、書店に置かれていた詩集が店頭から取り下げられた、といったようなことで、作品の原稿そのものが削除されたわけでも、著作権を侵害されたわけでも、もちろん、詩人としての存在を否定されたわけでもない。
パソコン通信の時代では投稿の閲覧者はさほど多くなく、ある意味、内輪で閉じた世界での作品の見せ合いだったものが、インターネットにあってははるかにパブリックな場での掲示となり、詩の在り処としての期待、依存が大きくなってきたといえる。しかし、インターネットは印刷物に比べ実に不安定な場であり、ある投稿掲示板が突如消えたり、また毎日のように新しい投稿掲示板が生まれたりしていく場である。そうした不安定な場に詩人としての証を残していく行為の意味とは何か、ということを考えさせられる。
元来、詩とは儚いものである。その存在そのものが「詩とは何か」という問いの前で揺らぎ続けるともしびであり、その多くは消えていき、また運のよいごく一部だけが後に残っていくものである。そうした意味で、インターネットという不安定な場を詩の在り処に選ぶことはまたふさわしいことなのかもしれない。