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女の子の怒りについて―日和聡子「びるま」と蜂飼耳「食うものは食われる夜」を中心に
ヤリタミサコ
○ 「びるま」の一見レトロテイストとは? レトロなボキャブラリーに対面するからといって苦手意識を持たなくてもいいし、漢語や古語のたぐいが現れるだけで逃げ腰になる必要もない。だからといって、古臭い言い回しが新鮮だとかというのも当たっていない。一見レトロな衣装をまとったその下に何があるのか、ということの方が重要だ。 私は、はっきりと悪意・敵意の意識が底意として仕込まれていると考えている。例えば、「水色のくま」というキャラクターが何度か登場する。その場面を抜き出してみる。 水色のくまが発見されて 夕方のTVに映つた もうくまは来ないかもしれない (中略) 切るものが何もないまた板の上で きざんだものは 何だつたか (「撥水」より) どちらもいんけんで ごうよくなものだから 昼に水色のくまが来たからとて 何の障りが あるというのだ (「午宴」より) あの水色のくまは 何も言わなかつた わたし訊こうかどうしようか迷つたのだけど もう耳が片方ちぎれていて 水一杯飲むのに えらく時間がかかつて (中略) でももう捨ててしまつた のびきつたザルの中のひやむぎ (「水色」より) (日和聡子「びるま」青土社 2002年) ここでは「水色のくま」という奇妙なキャラクターが何の象徴か、などと追及することはしない。それよりも、「水色のくま」によって強引に結びつけられている状況描写を考えてみる。「いんけん」「ごうよく」な語り手が、何ものっていないまな板の空気を切り刻み、のびきった冷や麦を大量に捨てる。これらの行為からストレートに伝わるのは、特定して書いてはいないが、心に湧き出している悪意のような感情だ。八つ当たりとか、むかつくとか、癇に障るとか、爆発的ストレートに発散できないネガティブな感情だ。例えば、夫婦喧嘩をしたあとであっても昭和世代のお母さんという人種は、コンビニもケータイもないので、毎日ご飯を炊かなければならない。自分も子供も食べなければならないから、憎らしい夫のご飯だけを炊かないといったストライキが不可能なのだ。だから、夫に言えない、姑に言えない悪口雑言を、まな板にぶつけたのだ。そんなふうな八つ当たりのしかた。昔の奥さんたちが亭主にぶつけられない悪意は、例えば欠けた皿を床に投げつけて割る、とか、逆に、思いっきり雑巾を絞って雑巾でごしごしぎゅうぎゅうやることでストレス解消をした、とか、今の女たちの心性からはだいぶかけ離れてはいるが、理解できる。 また、童謡や童話には、隠されたエピソードなどがひそんでいたりする。「ずいずいずっころばし」とか「かごめかごめ」などは、赤ん坊の間引きや人さらい、子供の売買などが隠された歌や遊びである。グリム童話に隠された怖いストーリーなども、カニバリスムや異民族征服支配に伴う大量殺戮などのタブーが、イノセンスな語りの中に隠されていたりする。そのような意味において、レトロなテイストの下に、悪意があるというのだ。 今年の高見順賞は伊藤比呂美の「河原荒草」で、どこか「びるま」を思い出させるレトロな言語が使われていた。が、中世の語りのスタイルや古語を使っていても日和とは違う、荒涼としたひっかき傷が感じられる。はっきりと痛いのだ。伊藤比呂美らしい、強く意図した悪意あるコトバたちの奔流。伊藤はアメリカ生活の中で日本の古典を読んでぴったりくるようになったというハナシで、これはもともと伊藤自身が持っていた、残酷さを意識化する方法の源泉に触れたということだろう。 「河原荒草」から翻って「びるま」を見たとき、日和は、意図的にほのぼの系をさしはさんでいるように見える。つまり、悪意敵意に傾かず、昔話風に残酷さをイノセンスでくるんでいて、日本昔話の常田富士男や市原悦子のような語り口で語ることにより、表面はのんびり風に見せている。伊藤比呂美と大きく違う点はここだ。おそらく根にある悪意のネガティブ度も、伊藤に比べるとずっと薄い。 そしてレトロな物言いは、近代自我が根源的にもつ孤独や存在の憂鬱さなどを遠ざけている。これは日和の意図するところだろう。群集の孤独は存在せず、自我が分裂することなく、自己疎外はありえず、共同体が機能している素焼きの土器みたいなものが、古い語り口のよいところだ。日和はうまく、21世紀現代IT時代の日本と、孤独な群集と分裂自我と自己疎外を練りこんだ粘土を素焼きして、「びるま」という詩的言語の入れ物を作ったなあと感心する。 ○ 蜂飼耳の違和感と怒り 一部レトロなボキャブラリーが使用されている点では、日和と共通するところはある。が、日和のように意図的ほのぼの系ではなさそうだ。どちらかというと重層的な心象風景を必死にまとめあげていこうとしているように見える。そのために、作者自身が慣れ親しんでいるボキャブラリーとか小道具で結びあげようとしているのではないか。それがたまたま、レトロな小道具になっているということか。 〔い〕の母音がおかしい 〔い〕の母音があまい 〔い〕の母音がゆるすぎると おそらくは洗ってもいない指入れられて 舌の根 調べられました (略) ああ そんな 無理です 片方の貌から もう片方の貌から 湧いてきて濡れてきて無理です いくら鏡に映してみても 奥なんです舌が (「発音審問」より) ひび割れ女 成獣の皺は目尻に立たせ 赤子の揺り籠 ゆさぶり 酔って 斜めの幹に苔むす黒森 毛皮の子どもは とうに育ってその次世代 そのまた次世代 罠に掛かるか 掛からぬか 子どもなくすか 親をなくすか、最後の声は 樹の根の舌に いつでも吸われて 葉 打ち震わせ 数ではなしに 数は動いて (「毛皮」より) (蜂飼耳「食うものは食われる夜」思潮社 2005年) 「発音審問」の引用部分は、まるで婦人科の診察台の上で内診を受けているような感じだ。自分の身体なのに自分のものではないような、かつ、自分に責任のない責めを受けているような、荒々しい違和感が描かれている。「毛皮」では、原始的動物としての人間の生存競争のようなエピソードが語られている。子どもを守り育てるのは親の義務となったのは、人間の歴史上では新しい数世紀である。基本的人権という概念以降だ。だからそれ以前の生命体としての人間には、そんな社会的責任などないのだ。 蜂飼の底意は、むやみに体の底から湧いてくる、原始的な、理由なき苛立ちのように見える。女の子の根源的怒り。女の子は、体の奥底に怒りを保持している。それは、社会への苛立ち、世界への怒り、人間に対する憎しみ、自分を含めた存在そのものの理不尽さに対する違和感、敵意悪意の塊、自分でもどう扱っていいかわからない内部で暴れるもの。女は自分がメスであること自体が理不尽きわまりないのだ。メスは自分が選んだのではないのに、主体であって同時に客体であることを要求される。自分とは関係なく月経血を与えられる。自分なのに他人を孕み、オスやメスを胚胎する。自分ではなくオンナであること、メスであることを演じきらなければならない。自分なのに自分でない自分。自我とは関係なく付与されている性と身体。このあたりの怒りの具合は、オスとは違うものだろう。女の子の根源的怒り。 これらをどこまで意識化しているかは別にして、少なくとも、日和、蜂飼の二人ともに共通しているものだと思う。おそらくレトロな装いをまとうことで、うまい変化球にのせた、根源的な敵意悪意なのだが。 蜂飼の場合は、第二次性徴以前の未分化なエロス、暴力的で、生と死の境目に位置する性、といったあたりを物語口調で語ることが多いようだ。「ででむしの子どもたちすきとった箱のせて/やわく軽くしかも詰まったその箱のせて/追えないほどに 散らばり果てて/なにかあれば まっすぐ/潰れる」(「蝸牛」より)といっておいて、最終行では「その渦巻に三十年ほど棲んでる」と、自分がこのででむしだと明かしている。男から見た女ではなく、オトナから見た子どもではなく、社会的に30歳になった女性としてではなく、もっと原始的で自然な自我。描くのはむずかしいが、蜂飼は果敢にトライしていると思う。 ○ 女の子の怒りの表現 前述した女の子の怒りを、剛速球の直球ど真ん中でストライクさせた詩を紹介する。これは、鈴川夕伽莉「メッシュ・センター・イン」という作品で、ものすごく胸のすっきりする、どっかーんと爽快さを爆破させている。ある意味、降参、なのだが。 避妊薬なんか飲みやがって おまえは本当はヤリたいだけだろう と父親がわめくので 生理中にも関らず 私は下着まで全部脱ぎ捨てて 父の目の前で素っ裸になった 私の身体を見やがれ馬鹿野郎 ほっといたら生理が来ねぇんだ (略) 使用済みのメッシュ・センター・インに 勢いをつけ 父親の顔めがけて投げつけた (鈴川夕伽莉「ミドリンガル」祐園発行 2004年) だいたい、メッシュとはさわやかで風通しのいい素材である単語、センターはまっすぐ真ん中、となると、生理用ナプキンの商標が面白い使い方となる。娘から父へ直球ど真ん中のストライクで、経血を投げつけるという勝負だ。まったく爽快だ。 もちろん、父娘の葛藤は表面的なテーマだ。が、底にあるのは、女の裸が社会的に意味を与えられていること(自分の身体としてではなく男の欲望の対象として)、生理の処理(生理不順を含めて)に苛立ちを感じること、父親に象徴される性の管理体制、などに対する怒りだ。だから、自分の身体なのだから裸になってもエロスを表わさないし、生理不順でも子どもを産むことを強制されなければなんともないし、性なんかなくたっていいわけだ。社会的女性性というものを完全拒絶する、という不可能を描いていて、フェミニストの私としては「待ってました!」と快哉。 高田敏子、石垣りん、茨木のり子といった詩人たちが意識して書いたオンナ性とは、もちろんつながっている。が、社会的文脈ではオンナ性がずいぶん変わったなあという印象だ。この稿で取り上げた詩人たちには、男たちや社会を意識せずに、自分自身のオンナ性をとことん正直に書いてほしいなあと、要望する。 <引用文献> 日和聡子「びるま」青土社 2002年 蜂飼耳「食うものは食われる夜」思潮社 2005年 鈴川夕伽莉「ミドリンガル」祐園発行 2004年 |
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