とても奇妙な本――野村喜和夫『ランボー・横断する詩学』の〈断片〉と〈女〉――
         
小笠原鳥類
 
   とても奇妙な本
      ――野村喜和夫『ランボー・横断する詩学』の〈断片〉と〈女〉――
 
         小笠原鳥類
 
1――ランボーについて
 
 フランスの19世紀の詩人、アルチュール・ランボー(1854〜1891)は、1875年頃までの数年に、非常に重要な詩や散文をいくつか書いて、その後、文学を捨てて(実は捨てなかったという見方も可能なのかもしれないが)(後略)
 ……、と、このように、新味のない文章で開始してしまった。だが、ランボーはもう古いのだろうか、廃れた詩人なのだろうか、と思っていると、実はまだ忘れ去られていない。というより事態は逆で、フランスでも日本でもあるいは他の国でも、ランボーの全集や作品集や、分厚いランボー論は次々に出版されているのが現状なのである。なぜ? たぶん、ランボーの詩が今でも驚きを提示するからだろう、例えば次のように。
 
 「わがルイーズ・ファナーン・ド・フォーリンゲン尼に。――北国の海に向いた彼女の青い尼頭巾。――難破した人びとのため。
 わがレオニー・オーボワ・ダッシュビー尼に。――バウー――唸りを立て、悪臭放つ夏の草。――母親たちと子供たちの発熱のため。
 リュリュ――悪魔――に、不完全な教育による、『女友達』の時代の祈祷所趣味を残したままだが。男たちのため! ――×××夫人に。」
 
 これは散文詩「帰依」の一部(註1)であるが、しかし、何度読んでもわけがわからず、わからないのだが、この場合、わからなさが魅力や驚きとなるように言葉が的確に配置されているようでもあり(註2)、人はこの詩を何度も読み、時には、分析し、関連する資料を調べ、大量の註釈を付けてみたくなるのだ。
 また、ランボーの詩が、今でもあまりにも先鋭的であるので、ランボーを読むことは今でも頭脳を駆使することであり、それゆえ、ランボー論が、時として、ランボーに興味がなかったはずの人にとっても実に知的に面白いもの、興味深いものとなりえていることがあるだろう。
 その例として、比較的近年の、中地義和『ランボー 精霊と道化のあいだ』(青土社、1996)や湯浅博雄『ランボー論』(思潮社、1999)といった、単に専門的であるだけでなく、多くの読者にとって実に興味深いと思われる論集を挙げることができる。論の前に、ランボーの詩を、これまでのランボー研究の成果を踏まえた新しくて優れた日本語訳で読みたいという人には、入手が容易で註釈も興味深い宇佐美斉訳『ランボー全詩集』(ちくま文庫、1996)を推薦する。
 
2――〈まともな〉ランボー論について
 
 そして、近年に日本語で刊行されたランボー論の中でも、重要さを持つ1冊であると思われる野村喜和夫の『ランボー・横断する詩学』(未来社、1993。以降、『ランボー』と略記。註3)は、ランボーの詩のいくつかに関する精緻な読解が、特色である、と、まずは言えるだろう。例えば、先程引用した詩「帰依」についても、特に113〜117ページで、詩の形式、使われている音(この単語に含まれるLとVはここでは…など)、意味のわかりにくい語、などに関する実に詳しい注解がなされている。
 また、「参考文献一覧」(135〜141ページ)も充実している。特に、フランスでの近年の、様々な研究者による充実したランボー論の成果を紹介する本としても有用である。例えば、現在のランボー研究で特に重要な人物であるアンドレ・ギュイヨーの仕事が、この本のいくつかの場所で簡潔に、だが興味深く紹介されている。
 特に興味深い部分としては、次のものが挙げられる。ギュイヨーのフランス語のランボー論『断片の詩学』(1985)のあらすじを記述し(177〜178ページ)、問題点を指摘し、この論から、野村はより先に進もうとするわけであるが、この部分は、ランボー研究の、それから、詩及び詩学の、先端を示すような部分として興味深い(註4)。というわけで、野村喜和夫の『ランボー』は、非常に充実した、有用なランボー論として読める、ということが言えそうだ。
 
3――断片について(1)
 
 ところが、野村喜和夫の『ランボー』は、とても奇妙な本なのだ。奇妙なものについてまともに論じることは困難なのだが、この本についていくつかのことを指摘しながら、少しずつ、その奇妙さを(徐々に、漸増させるように)見ていきたい。
 「イントロダクションあるいは女/都市/断片」も、次の、この本の中核部分である論「一〇一年目のランボーのための一〇一の断章」(以降「一〇一の断章」と略記)も、比較的短い(1行〜数ページの)断片の集まりである。それらの断片は、ほとんどは野村喜和夫によるある程度まとまった論の文章であり、時には引用されたランボーの詩と日本語訳であり、あるいは引用された他の人の文章であったりもする。だが、それだけならあまり奇妙ではない。
 通常は、有用性を考慮して本の最後(あるいは、それぞれの章の最後かもしれない)に置かれるはずの「参考文献一覧」(135〜141ページ)が、「一〇一の断章」の「58」と「59」であり、というわけで、最後ではなくて途中にある、ということが、まず、驚くべきこととして指摘できるだろう。そして、「58」の最初の文章が
 
「ボヌフォワを引用したついでに、参考文献一覧」(135ページ)
 
である(イヴ・ボヌフォワは現代のフランスの詩人)。「ついでに、」というのが凄い、かもしれない。ある定まった場所に参考文献一覧を置く、というのではなくて、思い付いたので、じゃあここにしようか、といった置き方なのだ。
 また、「一〇一の断章」の「1」が「年譜」(25〜27ページ)である、というのは奇異ではない。年譜は他の文章とは区別され別の場所に置かれるのが普通であり、最初に置くことによって他と区別するのはおかしくない。だが、その後、いくつかの考察の後で「7」も「年譜」(37ページ)である、というのは、おかしいのではないか。なされるべき区別がなされていないように見える。
 というわけで、この本は、ある秩序によって最初から最後までまとめられた本というよりは、いろいろな断片を次々に思いついて適当に並べた本なのではないか、と言える。勿論、前述したような有用なランボー論としての側面は、この本には確かにある。だが、そのような有用な部分も、数ある断片の1つに過ぎず、この本の〈ただ1つの主要な特色〉であるとは、実は、言えなくなっているのかもしれない。
 
4――断片について(2)
 
 野村喜和夫の『ランボー』で、ギュイヨーの『断片の詩学』等を参照しつつ、特にランボーの散文詩集『イリュミナシオン』の、「断片」の問題が論じられているのは、当然であるかもしれない。「一〇一の断章」の「85」は、その考察の、1つのまとめとして読める。一部分を引用する。
 
「詩−断片とは、(中略)文字通り切断されたもの、ある膨大な言語活動の流れを前提として、そこから未決の状態のまま一時的部分的に切り取られてきたものである。どこまでも部分また部分でしかないこと。(中略)それが断片の始まりであり終わりなのだ。(中略)そのとき詩的言語は、あらゆる外的な拘束(統一性、全体性、秩序、意味伝達)をのがれて、純粋でむきだしなひとかたまりの形−意味という分子的無意識の状態に浮遊している」(184〜185ページ)
 
 野村喜和夫の書くものに頻出する専門的な用語に対しては私は時として違和感を持つ。例えば、日本語ではほとんど一般的ではないと思われる、「詩−断片」や「形−意味」という、ハイフンの入った語や、「分子的無意識」といった、あまり説明されずに用いられているようにも見えるやや特殊な語が、果たしてどの程度、明晰なのか。他により明晰な言い方はないのか、という疑問を私は持つのだが、それは単に私が不勉強だからかもしれない。勿論、最も明晰な言い方を選択しなければならない、ということはない。ある言い換えによって、意味の伝達をある程度犠牲にしても、文章にある〈彩り〉を与える、ということは、否定されるべきことではない。
 とは言うものの、ここに引用したものは、ある程度は私にも〈わかる〉文章であると言えるだろう。ある書かれたものの、「形」が断片であることが、〈内容〉の意味の伝達の前に、すでに、重要な「意味」である、という。そして、断片は「外的な拘束」にとらわれない。
 先程引用した「参考文献一覧」が、「ついでに」登場するのも、勿論、「外的な拘束」によってではない。この『ランボー』という本は、論であると同時に、あるいは、論であるというよりは、詩集なのだと思う。まとまった意味の伝達から「のがれ」、いくつもの断片が、一つ一つの物質のような存在感を持つものとして出現してくる。
 「一〇一の断片」の「53」で、ランボーの最後の詩篇である(とされている)「夢」について、野村喜和夫は「この断片がほとんど詩の体裁をなしていない」「書かれてゆくそばから自壊してゆく詩、その自壊の瞬間にしかし、詩的言語の物質性の最もなまなましい幻想を撒き散らしていく詩。」(125ページ)と言っている。あるいは、ランボーはついに、断片性を先鋭化して破片にして、最もなまなましい(最も痛々しい?)形態を作った、ということだろうか。
 
5――〈極めてまともでない〉ランボー論について
 
 だが、まだ、私はこの『ランボー』という本の奇妙さについて大したことを言っていない。まだ、「イントロダクションあるいは女/都市/断片」の「3」が、次のように始まっていることを特記していなかった。
 
「そして、不謹慎ながら、もうひとつの導入はこうだ――私はときおり、女を犯す夢を見ることがある。正確に言うと女を犯しそこねる夢だが、だからといって不謹慎さが軽減されるわけではないだろう」(9ページ)
 
このような文章によって、この『ランボー』という本は、〈論〉ではなくなっていくとも言える。この後で、何とか、論の文章に回帰したとしても、違和感は残存するだろう。しかも、このような夢の記述が、論の「導入」である、というのである。
 そして、野村喜和夫は、このような夢を、思考のための手掛かりとしている。
 
「妙なことになってしまうのである。私が組みしいているはずの、それまではたしかなマッスとして感じられた女体は、急に、何というかたとえば、空気枕を相手にしているようにふわふわと頼りなくなり、あるいはむしろ、古くなった牛乳が水分と固形分に分離していくように、各パーツごとにぷやぷやぷるぷると遊離しはじめて、あまつさえそのいくつかは、まわりの闇――薄墨色をした、いわば夢の地の部分――に溶解していこうとさえする。私は必死になってそれらをかき寄せ、元の犯すべき対象に復元しようとするのだが、その行為自体、もうふつうの性欲を逸脱してしまっている。夢中になって(夢の中だから当然か)私が復元しようとしているのは、女体そのものというより、むしろ女体という名のテクスト――いやまだ名さえ与えられていない、ただ粥状の各パーツから成る未知のテクストであるかのようなのだ。」(10ページ)
 
 そして「語にもし実体があるとすれば、それは女体の各パーツのように肉質めいたものでなければならない」「どのパーツ(肉質めくシニフィアン)をどこに置けばテクストとしてより未知の、よりエロチックなものになるか」(10〜11ページ)という部分では、「女体」と詩との区別が曖昧である。勿論、ここでは、「女体そのもの」ではないが、「女体」と同様ななまなましさや複雑さや存在感を持つものが、「女体」としての詩である。
 以上に引用した奇妙な文章は、断片として取り扱われ、同様に断片として取り扱われている精緻なランボーの詩の読解と、同じ本に収録されていることによって、さらに奇妙である。というより、これほど奇妙な本はあまり他にないのかもしれない。このような、論と詩との、現実と夢想との、異様な並存が、この本を「あらゆる外的な拘束(統一性、全体性、秩序、意味伝達)をのがれ」た〈詩的〉な断片の集まりとしている、と言えるだろう。あるいは、次の部分。
 
「自然は女そのもののようになまなましい、悩ましい、そして/あるいは、女は都市そのもののように入り組んでいる、層をなしている、そして/あるいは、都市は自然そのもののように生成する、流転する、エトセトラ、エトセトラ。」(62ページ)
 
「都市」に関するいくつかのランボーの詩とどの程度関わる記述であるか、という問題については今回は詳述はしない。野村喜和夫にとって「女」はとても重要である、あるいは、彼にとって重要なものは「女」である、ということが、言えるのかもしれない。
 城戸朱理は、(野村喜和夫に)「野村さんの詩について疑問に思っていたことを尋ねると、なぜか答えは「詩」についてではなく「女」の話になってしま」う、ということを言っている(註5)。
 ここで言えることは、「女」についての詩ではなくて、「女」であるような、なまなましい存在感を持つ詩を、言葉の的確な組み合わせによって実現させることが、ここで野村喜和夫によって夢見られている、ということである。そのことがランボーや「断片」の問題と、どこまで関わるか、ということは実はかなり疑問であるのかもしれない(すなわち、この『ランボー』には、論にある程度必要な普遍性を欠いている場所があるのではないか、という疑問である)。だが、言葉を〈高度なやり方で〉取り扱うことによってそのような詩が可能になる、ということは言えるかもしれない。
 この『ランボー』は、現在のランボー研究の成果であるランボー論としても、そして現在の詩の成果である1冊の詩集としても、実に特異で重要な書物である。また、次のようにも言えるだろう。この本は、詩と論の境界、夢と現実の境界、複数のジャンルの間の境界を「横断」(題名にも「横断する詩学」と書かれていた)することによって、(詩集としても論としても重要であるだけでなく、)どのジャンルにも所属しないような1冊の、〈奇妙な本〉である、ということが興味深い。あるいは、現代の詩はついに、〈なんだかわからない(のだが、魅力的な)、とても奇妙なもの〉であると定義できるのかもしれず、その場合、野村喜和夫の書くものがその典型である、と言えるのかもしれない。
 今回は、『ランボー』の中で重要なもののうちの2つである「断片」と「女」についていくつかの指摘をした。
 

(1)野村喜和夫『ランボー』111ページ。野村喜和夫訳。
(2)ここで例えば、ランボーについて現代の文学者によって書かれた、次のような文章を思い出している。「ランボオは、(中略)恐ろしいほどの集中の果てに、言葉を、圧倒的な正確さで組み合わせたのだ。」(村上龍「明晰な錯乱」、粟津則雄訳編『ランボオ詩集 地獄の季節』集英社文庫、1992に収録、236ページ)言葉を組み合わせることは、単なる遊戯とかそういったことであるとは限らず、もっと恐るべき効果を発生させることでもありうる。そして、その時、言葉の集まりが普通に、何らかのわかりやすい意味のまとまりを指し示すとは限らない。ランボーのいくつかの詩のような、より引き裂かれたようなあり方の詩が、ある「錯乱」のようなものを「明晰」あるいは「正確」に発生させるということがありうるのだ。
(3)だが、野村喜和夫『ランボー』も、10年前に刊行されており、すでに入手が困難であるのかもしれない。一部分だけでもすぐに読みたい場合は、入手が比較的容易な思潮社の現代詩文庫の『野村喜和夫詩集』(1996)に、『ランボー』の最初の部分である「イントロダクションあるいは女/都市/断片」が収録されている(104〜114ページ)。
(4)野村喜和夫『ランボー』の帯には、「ドゥルーズ=ガタリの概念装置を援用しつつ、ランボーの諸テクストの文彩がはらむ永遠の断片性と不連続性を論じた、鋭利なる詩学。」と書いてある。確かに、この本には、ドゥルーズとガタリに関する部分もあるのだが、しかし、彼ら以外の書いたものからも重要な引用や紹介がなされているので、彼らを特に強調するようなこの帯の文は、ややこの本に似合っていない? 勿論、ドゥルーズとガタリからの「断片をつねにあらたな断片化のうちに入らしめること」という引用が、『ランボー』では1行の独立した断片的な章として重要なものとして提示されていることも確かだが(断片「37」、94ページ)。
(5)城戸朱理「優雅なる野蛮」、現代詩文庫『野村喜和夫詩集』思潮社、1996、142ページ。城戸朱理のこの文章は、野村喜和夫という人物の肖像画として非常に生き生きしていて面白い。
 
付記
 本文及び註に挙げなかった参考文献について。
 この文章の章の題名「〈まともな〉ランボー論について」「〈極めてまともでない〉ランボー論について」は、入沢康夫の『詩の構造についての覚え書』の増補改訂新版(思潮社、2002)の、巻末の野村喜和夫による解説「『詩の構造についての覚え書』をめぐって」の中の章の題名「 ありふれた解説――入門者のために」と「 やや突っ込んだ解説――中上級者のために」を参考にしている。
 まともな、普通な要素を強調した論と、そこから外れた、特異な部分に関する論とを分けることによって、〈まともな〉部分と〈まともでない〉(詩的な? 夢のような?)部分とを明確にする、というやり方は、自分がすでにわかっていることとそうではないことを区分して問題を明確にすることであると同時に、〈未知なるもの〉としての〈詩〉の性質や位置を明確にすることであるかもしれない。また、「ありふれた」「やや突っ込んだ」といった、諧謔のある言葉の選び方は野村喜和夫の特色であるが、それについては今回は(今回も!)十分に考察できなかった。
 また、野村喜和夫の、『ランボー』と同様に断片的な文章の集まりである本として、彼の『風の配分』(水声社、1999)がある。この本にもランボーの名前は登場する。並べて読むといろいろなことが見えるのではないだろうか。

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