温かな
女の子たちは
思ったことを何でも言う
やまびこのように
かえってはこないのだ
いや、耳にはナルシズムがみっちり
詰まっているので聞こえないの
だから
きこえない耳に
たくさんの小鳥が鳴くように
女の子たちは思ったことを言う
女の子たちの思ったことは
女の子たちの言う思ったことは
可愛らしい爽やかな鳴き声とは裏腹に
逆さに針が刺さった針山だ
その山を登れば両足も顔も手も
女の子たちが思ったことを言う
で血だらけだ
が、山は痛くは無い
刺さっていないからだ
その針の一本を上手に逆さに向けただけで
鳥は叫び声をあげて泣く
大騒ぎだ
鳥は歌いすぎて視力も衰えているので
山を登る人が血だらけなのには
気がつかない
気がつかない
見えないけど
鎮痛剤の半分が優しさではないもののように
私の半分も女の子で出来上がっているので
私はその鳥が痛いのも知っていて
教えたってしょうがない
私の思っていることを全部言ったら
鳥たちは血を吐きながら泣き続け
飛ぶことができないように羽を毟り取って
針山を登らせる
その後ろを
だから、伝書鳩のように
帰って
ほら、もう山は夕やけのようだ
作者名:aika
サイトURL:
http://chance.gaiax.com/home/tomutomu
初出:U.R.B.
(
http://poenique.jp/kotodama/urb.htm)
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「私の半分は女の子で出来上がっていない」
aikaさんの詩の面白さは、イメージの跳び方にあると思う。
イメージが流れずに、でも途切れずに、跳ぶ。
陸上の三段跳び。路上のケンケンパ。
そんなふうに、美しく跳んで、止まらない。
読者を見ているのか見ていないのかわからない。
夢中に跳んでいるようにも見えるし、
目線を気にしているようにも見える。
いずれにせよ、それがaikaさんの「歩幅」なのだろう。
自分の歩幅の中で楽しんでいるように見える。
自分の歩幅を逸脱したり、あるいは他人の歩幅にむりやり合わせたりしない。
だからどんなに遠くに跳んでいくように見えても、きちんと地が足についている。
地に足がついているのではなく、地が足についている。支えている。
そこにaikaさんの詩の強さがあると思う。
やまびこ→小鳥→針山。
この作品では前半に、モチーフが上記のように跳ぶ。
そして後半はこれらのモチーフを元にイメージが跳んでいく。
これらを連ねるのは「女の子たち」。女の子たちが芯。
けれどもこの詩は女の子たちについての物語ではなく、
半分が女の子で出来上がっている私の物語。
そして半分は女の子で出来上がっていない私の物語。
女の子ではない部分からの視線で女の子(たち)を捉え、
それを私の半分である女の子の部分に重ねる。
「女の子ではない私が女の子である私を見る」という俯瞰によって、
「私」が浮かび上がる。私は折り畳まれている。
私は私を分析する。イメージする。
イメージの終焉は赤く、血に染まって、
まるで、夕やけのように。
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自己紹介
いとう。poenique(
http://poenique.jp/)主催。その他いろいろやってます。
暑いのは苦手なので早く秋になって欲しい。