01/16 01:29
ポロリ
TAKE様、ごもっとも!
片野様、山ちゃんサイコー!
奥主様、故野村真紀先生は「先物取引発祥の地は江戸期の上方である」とおっしゃられていました。
ところで、話をちょっと引き戻したいというか、皆様のご意見を伺いたいというか、へ〜結構見ている人いっぱいなんだ〜どれひとつ、という感じなわけです。(なにが)自分の感情が。(どうして?)自分で考えろ。慮れ!
というわけでして。1つお知恵を拝借したいわけです。
>>191
冒頭で、TAKE様は「詩はイデオロギーの構成要素」であるとおっしゃっている。また、TAKE様の言を引き合いに出してごめんなさい。他意はないのです。
私は、なるほど詩が小さきか、詩は道具としての役割もあるでやんすねぇ、と思ったわけです。私はイデオロギーが詩の構成要素だとばかり思っていたわけですが、これは、「はじめにイデオロギーありき」と考えれば、TAKE様の見解に、「はじめに詩ありき」と考えれば、私の見解になるものなのでしょうか?云々。
昨日、村上春樹の「海辺のカフカ」にある詩についての考察を読み返しておりました。彼は次のように言うわけです。詩は、抽象性が必要で、かつ、読者との間に予言的なトンネルが必要である、と。もちろん、地の文ではなく、会話文の中に出てくるので、どこまで本気かわかりません。ただ、私にも納得する部分があります。
たとえばの話し、ある物事を説明するには、説明文を用いるべきであり、詩を用いるのは迂遠といえましょう。この点で、この説明文にはきりとってしまった部分があり、その補完として詩の意義があるとおっしゃる方もおられましょうが、そのような二義的な意味で詩が存在していると私は考えたくもありませんし考えません。(詩のほうが伝達しやすいという話はこの際伏せておきましょう)
詩は、インスピレーションの原風景となるべきものなのではないかと、最近私は思います。そうしますと、困ったことになります。優れた詩であるか否かは、詩に影響を受け何か成し遂げられたという客観的証明がなされることが全てなのでは無いのかと思えるからです。それに、インスピレーションの原風景と考えると、あらゆる批評を受け付けなくなります。反論(反証)可能性が無い批評が詩の批評の本質となってしまうからです。しかもテーゼなんかどうだっていいことになります。
つまり、詩は表現行為じゃないんじゃないかと思うのです。
家電製品が映らなくなってブッ叩いた経験のある方はおられるでしょうか?今現在も、デジタル家電や全ての電化製品で修理を行う技術者たちの最終手段はこれですが、詩はまさに動かなくなったものをたとえば停滞した社会やカビの生えた思考をブッ叩くものなのでは無いでしょうか?
そう考えると、イデオロギー論から思考をめぐらせる自分に嫌気がさしたりするのですが。
Thank you