2025 05/15 19:31
足立らどみ
日本の詩は情念 その2
その他近代歌人の情念表現
近代の歌人・詩人たちも様々に情念を表現しました。以下に代表的な歌人を挙げ、その詩風を論じます。
• 与謝野晶子(短歌集『乱れ髪』ほか)
浪漫主義的な奔放さを持つ晶子は、23歳で刊行した歌集『みだれ髪』で情熱的な恋愛や女の情念を大胆に歌い上げ、一躍革新的な歌人となりました。奔放でエロティックな表現(「熱き血汐にふれもどる戀」など)は当時の封建的な道徳観を驚かせ、「恋は目に見えぬ火の如く」など情念の奔流を短歌に込めました。また反戦短歌「君死にたまふことなかれ」では、涙ながらに弟に戦死を止めようと訴え、その激しい愛情と平和への願いが強く染み渡ります。晶子の情念は、愛の歓喜と悲しみを天真爛漫かつ率直に歌い出したところに特徴があります。
• 石川啄木(短歌集『一握の砂』『悲しき玩具』など)
啄木は明治~大正期に活躍し、日常の哀歓を等身大の言葉で綴った短歌で知られます。現代口語を取り入れた新形式(五七五七七という音歩形)を確立し、わかりやすさと素直さが魅力です 。例えば「一握の砂」に収められた歌には、故郷への郷愁や貧しさ、愛する人への深い想いが、切ない実感を伴って表現されています。中国の評論によれば「啄木の詩は生活の場面を記録するようにして書かれており、ある意味で彼の詩は自らの人生の記録のようなものだ」と評されています 。啄木の情念は、貧困や不遇という現実と甘美な恋心とを同時に抱えた複雑なものです。飾り気のない率直な言葉の中に、押し寄せる共感や絶望が込み上げ、読む者に切実な情念を伝えます。
• 北原白秋(童謡・詩集『邪宗門』など)
白秋は大正期を代表する浪漫派詩人で、子供向けの唱歌から耽美主義的な詩まで多彩に手がけました。抒情的な言葉を巧みに操り、自然や四季の風物を鮮烈に歌う一方で、夢幻的・官能的な情念を紡ぎます。たとえば「邪宗門」に見られるような宗教批判と恋愛詩では、白秋独特の耽美的情熱が顕著です。また童謡作家としても有名で、軽妙なリズムと子供心への共感は、純粋な愛情や郷愁を伴った温かな情念の表出といえます。北原白秋の作品世界では、理想化された情念と昭和初期の都市生活への憂いがせめぎ合う独特の雰囲気が感じられます。
• 萩原朔太郎(詩集『月に吠える』ほか)
朔太郎は近代日本詩の黎明期にあって、感情表現を最優先した詩論を打ち出しました。序文で「詩の本来の目的は…人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させること」であると宣言し 、「詩の表現は素朴なれ」と唱えました。まさしくこの言葉通り、朔太郎の詩は心の痛みや不安、愛情などをストレートに吐露し、聴き手の共感を呼び起こします。代表作『月に吠える』では、都会の孤独や幻想的な不安が激しく朗吟され、画一的な理屈を超えて人情の切なさを描き出しています。朔太郎は、ロシアのアクロポリス芸術など外来文化にも影響を受けつつ、まさしく「浪漫主義の正系」を継ぐ情念詩派の旗手でした。
• 中原中也(詩集『在りし日の歌』『山羊の歌』所収)
中也は昭和初期を代表する叙情詩人で、激しい孤独と官能が同居する詩世界で知られます。評論家小林秀雄は、中也について「愛情無効」「悔恨無効」「ただ情緒を咀嚼して詩に写し取っている」と評し、その詩は「愛情や悔恨の中に含まれる純粋な微妙さを表現している」と絶賛しました 。実際、中也の詩では言葉の秩序を超えて生の苦しみや甘美が噴出し、詩句の隙間から生々しい情念が滲みます。代表作「汚れつちまつた悲しみに…」に見られるように、汚れや痛みをあえて象徴的に描き出す手法で、魂の喘ぎを詩に閉じ込めています。中也の詩的情念は、抑圧されるほどに切実で、聞く者の心を一気に震わせる力があります。
日本詩に共通する情念の構造・表現技法
これらの例から、日本詩における情念表現にはいくつか共通点が見られます。まず、自然・季節との結びつきです。古典から現代まで、桜や梅、海や雨、風や雪といった自然のイメージを通して、内面的な情緒や熱情が投影されます(「難波津に咲くやこの花」や最果タヒの「冬の海」など)。この擬人的・喩的表現により、個人的な想いが普遍的な世界像と重なります。次に、言葉の素朴さ・口語性です。啄木や谷川俊太郎のように、平明な現代語を用いて自分の感覚をそのまま叙述することで、生の情念がダイレクトに伝わります 。一方で朔太郎や中也のように、耽美で斬新なイメージに詩語を磨いて感情を極限まで高める手法もあります(朔太郎は「詩の表現は素朴なれ」としつつも、象徴的な情景で魂の慟哭を伝えた )。また、日本詩は情念の揺れ動きや対比を重視する傾向があります。喜びと悲しみ、日常と幻想、現代と伝統といった二面性が詩行の中で交互に現れ、行間の余韻として迫ります(例:「水道管はうたえよ…東京はいつも曇り」 のような意外な組み合わせ、あるいは「喜びであり悲しみでもある」 という自己矛盾的詩句など)。形式面では、俳句・短歌に見られる切れ字や掛詞の余韻表現から、自由詩におけるリズム感や音韻反復まで、多様ですが、いずれも情緒を増幅する音楽性を帯びます。最後に、個人的体験と普遍性の同時性が挙げられます。個々の詩人は自分自身の心情や時代認識を起点に詩を作りますが、それが読む者の共感を呼ぶ点で日本詩の情念は「文学」となり得ます(朔太郎が「一人しかいない私」を掘り下げて万人の感情につなげる詩の喜びを説いたように )。こうした構造・技法を通じて、短い詩篇であれ長い叙事であれ、日本の詩人たちは自他の情念を鮮やかに表現してきました。結果として、日本詩は「心に響く感情の文学」として人々に親しまれていると言えるでしょう。
参考資料: 大岡信『地名論』 、田村隆一詩論 、萩原朔太郎『月に吠える』序 、石川啄木評 、中原中也評 などを参照した。