【期間限定~9月15日】18歳以上の人の『夏休み読書感想文』[2]
2016 08/15 15:51
深水遊脚

中勘助『銀の匙』(岩波文庫)

 そこに自分の身体を移動してその場所の空気を吸い、音を聴き、景色を眺め、様々なものに触れて味わい、普段とは違うときを過ごすのが旅だ。読書と旅の違いは様々にある。身体の移動がないぶん、身体の限界を想像で越えようと思えば越えることができ、空間だけではなく時間の移動も可能であることは、魅力的な差異だと思う。インターネットはおろか、テレビすらない時代の会話の息づかい、様々な植物の名前、その場の空気さえも感じとった気にさせてしまうのは、それを圧縮し、格納し、注意深く読む者にだけ解凍されるきめ細かい言葉なのだろう。

 この小説での中勘助による滑らかで美しい響きを伴った文章がもたらす感触は、好きな詩に出会ったときのそれに近い。『銀の匙』は中勘助の自伝的小説である。自伝的小説という性質上、明確な筋書きというのはなく、感想文の書きにくい本ではある。接し方によっては閉鎖的で、感想や批評を拒み、自身の世界を守るための静かな戦いの意志さえも感じるかもしれない。書かれた感想文やレビューの類いをさっと検索したが、岩波文庫版の解説にかかれた和辻哲郎の文章を足掛かりにしたものが多い。私もその和辻哲郎の次の言葉を足掛かりとして、踏み込みたい。狩りのときに周囲と一体化する狡猾さを、不様な私なりに演じて。

(引用)
『銀の匙』には不思議なほどあざやかに子供の世界が描かれている。しかもそれは大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である。
(引用終わり。岩波文庫版の解説より)

 子供時代を回想して書くことと、子供の体験した子供の世界を書くことと、差異があるとすれば何だろう。それはたぶん、大人が想定する子供の枠に収まらない子供を描いているのではないか。それはたとえ自伝であっても実像とは限らない。私的な記憶の取捨選択と絶妙な配置があるに違いない。取捨選択され配置されたそれらが読み手にもたらすものは、たとえば伯母さん、お国さん、お恵ちゃんなど頻繁に登場する関わりの深い人たちからみたものとは異なるであろう。私的な観察に基づく自伝だが、読み手がまるで自身の過去を追体験するように懐かしがったりできるようにも感じる。事実この作品は国語の教材として3年間かけて深読みされるような読み方にも耐えているのだ。この客観性は、文章の甘美な印象とは一見裏腹な、辛辣な人間に対する見方に基づいているように私には思える。

 安藤繁太と喧嘩したのを中沢先生に叱られた場面で、繁太が先に根負けして泣いて謝ったのに対して、「自分がただ小さくて弱いために理不尽におさえつけられるのがくやしくて 今に見ろ と思いながら」泣くという意地の張り方をする。ここに至るまでに体力でも学力でも決して恵まれて来なかったことが、安易に屈してはいけないという気持ちになっていたのだろう。その気持ちをみせるほど中沢先生のことを信頼していたようにもみえる。大人に対しても、同窓の子供に対してもその人間をよくみているから自分が悪いか悪くないかも分かるのだろう。こういう意地の張り方は好きだし、緻密な観察の源泉になっているような気がする。恵まれない境遇ながら教養が豊かだった伯母さんから得たものも、お国さんやお恵ちゃんと遊ぶことで得たものも多いだろう。お恵ちゃんのにらめっこで顔が崩れる描写の辛辣さもこの本の好きなところのひとつだ。

 散文に興味がなくほんとうは詩を愛した著者なりの美意識と、こうした意地の通し方が交わり、この文章が生まれたのだと思う。その文章を好きな詩を読むように接する私の読み方が正しいのかわからない。美意識は到底及ばないとしても、この作品に見える意地の通し方が私は好きなのかもしれない。
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