詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2[38]
2011 05/24 23:08
鵜飼千代子

>>36
>読めるというのが外国の文学作品では最低の基準になっていることを思えば、日本の文学というのは何か妙なものだという気がする。外国文学の中でもやたらに難しいものが日本で好まれるのは、読者がそこに日本文学の面影を求めているのだろうか。
「読める」というのが、文盲率、消費者の比率に繋がっているのではと言うことは思っている。
もう、20年も前の商学部に遊学したときのマーケティングの講義からひくけど、日本人は「見栄」を重んじるから、電化製品でも必要な機能以上の別立てを作って、消費者に満足をしていただく流れがあるということは聞いた。

そんな馬鹿馬鹿しい事、今時誰もしないでしょうと思ったけれど、携帯ゲームの最先端に参加させてもらってて、地場が名古屋あたりの人はやはりそうみたい。けして全部贅沢じゃなくて、見えるところは華やかにするのね。これは静岡もそうでしょう。それは、地域がそうだから、普通にしていたらそうなるのかなって、異論もあるでしょうが、そう思った。大切なものって、狭い日本でも違うんだよ。首都圏に住んでいると驚く事は多いけれど。

「切り口」だけの 三行詩でかつて書いたんだけど、「場に合わせる」っていうのは、上も下もあって、何を上や下かと定義するかっていうとまたいろいろあるんだけど、技巧は上で、感傷はしただとしたら、わたしは感傷の立場だから言うけど、「技巧」で満ちている世界で癒される人達もいるんだよね。それは、詩の優劣ではなく、まったくの、消費者の問題。

大好きな透クンへのすいひょうを、:-)さんがいるから載せちゃうよ。
00851/01340 CZD12057 水曜会 すいひょう
( 2) 98/03/14 17:43 コメント数:4
水曜会ロッドスチュワートさん(一週遅れ)からのメッセージ
 >01837/01864 QZD04667 川村 透 『六月の森カーゴ・カルト』//透君
    わたしね、透君の作品好きなんだ。長くてもねテンポいいから読ん
   じゃうよね。この人の言葉の毒はねヘドロじゃないよ。これは一気に
   書いたんだろうね。楽しんで書いてる感じだよね。笑いをはさんでる
   から飽きないのかな。身体揺らして書いてるって感じで面白い。これ
   さあ。朗読しても面白いよね。「染み染み」って、しみじみ、だよね。
   副詞の、たぶん。うまいとこにいれるよね。なんか、パロディっぽい
   感じもするけど最後の一行が言いたくておどけたんだろうね。なんか
   さ、人をわらかしといて最後でシリアスにもってくるのもずるいとい
   うかうまいというか、なんかしんみりしちゃったな。これ好き。
(どうなんだか、前回のレスで川村さんやっぱり「寸止め」してるみたいなこといっ
てたけど、女の人は寸止めしてるもんのほうが好きなのかね。こう
いうこと言うから、小林に女性蔑視だって言われるんだけど(笑)。あんた
北村さんも苦手そうだね。
北村さんの読んだ女の人でその「わたしを見て」って態度が苦手だっていう
んだけど、おれはまったくそんな感じしなくて(笑)ギモンにおもったけど
、なんかそういうこととつながってんのかね。なをさんはどっかでその触れ
たところでやってるのがなんか嫌になるときがあるとかって言ってたような
きおくがあんだけど。こりゃ好みなんだろうかね。ちょっと池山さんにも聞
いてみましょうかね。ということで次回は川村さんとなをさんと北村さんを
ゲッチュー(完全に趣味的))

見つけられなかったんだけど、花形新次さんの「大きなフルタさん」について書かれた散文につけたわたしの散文は、何か参考になるのではないかと思う。

何か知っていて、引き出してあげようとしているのではなく、まったくわからないので、何かとっかかりになればという立場で書いています。余り参考にならなければ、読み飛ばして本題にもどってください(^_^;A
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