10/10 13:11
深水遊脚
ある「資料」にふれたとき、人はそれをどう認識するか。新しい出会いとして「資料」をありのままに理解するのか。それとも、すでにある自己を維持するために「資料」の都合よいところだけ利用するのか。心の作用はいろいろありますが、この2つの力が合成されてその「資料」についての自己の位置付けが決まるのでしょう。こうした出会いのパターンは経験として蓄積され、記憶となります。
「資料」を他の言葉に置き換えても意味が通るように書いてみました。「男」でも「女」でも「友達」でも「英語」でも「古文」でも「B級グルメ」でも。
英語について、後者の力が働いたもの=古い歌謡曲の出鱈目な英語の歌詞
古文について後者の力が働いたもの=擬古文のなかの文法上の誤り
以上がふと思い浮かびました。これらの是非についてはものすごくしんどい議論になりそうなので、いまは検討しません。受容の仕方として、こうなることが多いこと。そこで得るもの、失うものがあること。これらのことについて考えてみます。
(これで3つ引き継げたかな?)