初心者向けポエトリー・リーディング[62]
2005 02/08 00:52
大村 浩一

 大村です。ILL CHORINOさん、先日はどーも。
 最果タヒさん、ご多忙中恐縮。『さがな。』の原稿を書いてるうちに答える
タイミング逸してしまった。(笑)遅まきながら書きます、これはマジで。
専ら作り手の立場、考え方で書いてみます。
 この3つの設問は、問題自体がけっこう難しい。>>55をちゃんと読まないと、
正反対の答えをしてしまいそう。

1)朗読してる人にとって朗読は詩の付属でしかないのか?
 これは最果タヒさんの、朗読する人は「『朗読する』という行為を中心に置
いて、読むものは選べばよい」と思えるのに「今の朗読は、詩人という、詩と
いう土台の上にあるような気がしてならない」という疑問から出ています。
 付属と言うより、延長線上…自覚も無く自作詩の表現方法に「朗読」が選択
されていく事への疑問だ、と私は解釈しました。単純に言えば、詩と、そのパ
フォーマンスは本来は別の物ではないのか、と。

 突きつめれば、詩と、そのパフォーマンスは別物だと私は考えます。
 この二つの関係は、小説と、その映画化・舞台化に似たものです。かたやテ
キスト、かたや身体や視聴覚を含めた立体的な表現物であるという点で、この
例えはなかなかだと思います。(笑)

 映画にならって、原作者が朗読者と異なる場合の考え方を印してみます。
 例えば、福島泰樹が宮沢賢治の詩を朗読する、あるいはジュテーム北村が吉
岡実の詩を朗読する。それは耳を逸らせない強烈な(または奇異な)パフォー
マンスとして聴衆に残ります。それはあくまで朗読者を媒介して原詩を解釈し
脚色したものになります。決して原詩そのものを、作者本人の口から聞いたも
のにはならない。
 では何故、その朗読者はそれでもその作品を朗読で伝えようとするのか。
 恐らくそれは「もっと強く誰かに伝えたい」という欲望が、その朗読者に起
きてくるからなのだと思います。原作につよく揺り動かされたひとが、どうし
ても止むに止まれずに他の誰かを揺り動かしたくなる。文字だけではなくて、
もっと目を逸らせない、身体表現をともなうものとして。
 オリジナルとは違うものになるかもしれませんが、その中に自分が感受した
本質をどの程度伝える事が出来るか、そこに朗読者は賭けようとするのでしょ
う。他者の作品を朗読するという行為はある意味冒険で、時には原作に対する
冒涜ですが、それを越えて自分(の声)で演ってみたいと欲求する事。それは
肯定されて良い事だと私は思います。

 ここから反対方向の、自作を朗読する人たちの考え方に接近してみます。
 他人の作品に心を動かされて…と先に私は書きましたが、そうした共鳴に似
た現象がある一方、それらに違和を感じてしまう場合もあります。
 既成の他人の作品では伝えられない領域が朗読者に見えてきて、それに届か
ない苛立ちや異議申し立てが自分の中にわだかまってきた時、その人がそこで
オリジナルの自作詩の朗読に進む…これは有り得る流れだと私は思います。
 考えてみれば。もともと詩を書くような人とは、音楽など他のメジャーな既
成の表現物に飽き足りないからこそ、自分の創作を始めるのではないか。

 そして自分の作品なら、それを表現する欲求もより強くなる。「朗読」で強
く詩を受け取った経験のある人は、自分もそうした強さを持つ「朗読」で自分
の詩を返そうとするのではないか。この「朗読」を「映画」と読み変えれば、
合点が行く。映画を見せられて共感なり反発を覚えた人が「俺が監督なら」と
か「俺も映画を作ろう」と考えるのは、恐らく自然なことでしょう。
 この場合「朗読が詩の付属物」といった着想は、恐らくその詩人には無い。
詩を朗読で受け取った人は、詩と朗読は同一のものに見えているのでは。
 最近の「朗読してるひと」、ポエトリーリーディングに接して詩を始めた新
しい人たちには、「詩=朗読」だと経験的に強く焼きつけられているのではな
いか、と私は思います。

 ポピュラー音楽では、むしろ既成曲のほうが「カバー」とレッテルを貼られ
たものになる。シンガーソングライターの気分で考えれば、自分の詩を自分が
朗読する、それのどこがいけないの? と思うでしょう。
 また現場レベルの問題として、自分の詩を、自分を立たせる為に読んでくれ
る他の人など今の日本には居ない、だから自分で読むという事はあると思う。
(出版に際しても、それは同様ですが…詩集は売れないとか言われてね)
 ただ、少しでも自分の詩と朗読パフォーマンスを力あるものとしたいと考え
る人なら。例えば自分のキャラや声の質と自分が表現したい世界が合わないと
かいったライブでの問題にはすぐに直面する筈で、詩と朗読パフォーマンスの
分離はある程度は意識されていると思います。

 分離の意識化を肯定した上で。それでも私は、シンプルな朗読というものが、
詩の表現様式としてもっと自然に認められる様になればいいと思っています。
 詩はラフスケッチだ、と私は思うのですよ。素描と言っても良い。マイク一
本持ち時間3分、楽器もSEも何も無し。それでも読める人が読めば、原作の
良さは充分に伝わる。
 それは詩集の、余白と僅かの活字に語らせる単純明快なレイアウトにも似て
います。別に豪華カラー写真入りでなくても、詩はその場の空気を維持出来る。
 舞台でも同じ事じゃなかろうか。身体表現物だからと言って、何でもTVや
70年代ロックみたくコテコテ演出過剰にステージ化しなくたって良い訳です。
無論舞台ですから、舞台モノとしての原理原則は変わらないですけど。
 こうした見地に立てば、とかく批判もある「詩のボクシング」も、「自分の
作品で肉声だけ、BGMや楽器は禁止」という朗読に関するレギュレーション
を立てて朗読を全国に広げたのは、良い事だったと私は思っています。

 身体表現しようとする自分を、自分のつたなさで立ち止まらせてしまう様な
状況ってのは、何ともやり切れない気がする。カラオケ化してしまう嫌らしさ
はあっても、閉塞してしまうよりは何か声でも出してるほうが、皆んなまだ生
きている感じを味わえるんじゃないかな。

 思うに、まず自分が素直に受けいれられる「良い朗読」に出会うのが先だと
感じます。例えば先に挙げたような人達の。…そういう魅力的な朗読に一度で
も出会ったなら、色々な理屈はフッ飛んでしまう。ライブパフォーマンスには
そういう力があります。その力の総てを「詩」とは呼べないかもしれませんが、
その力をもたらす芯は、紛れもない言葉から来るものです。

 結論としては。私もいとうさんと同じ考え方で、朗読してる人にとって朗読
と詩がイコールで結ばれているかどうかは、その詩人によってケース・バイ・
ケースだと思う。
 精密に考察するなら、その二つは分離して扱う事は出来ると私は思います。
但しそれを同一に扱ったからと言って、その表現物が見劣りするとも限らない。
問1に応えるだけで随分長くなっちゃったけど、こんなトコですね。
 続きはまたのちほど。…ではでは。
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