ニューススレ[785]
2004 11/14 10:17
一番絞り

>784]不老パトラ[2004 11/14 05:08] 
>一番絞りさん

>あなたの文章をふつうに読む限り、「豚の喜び」と言う言葉がネガティブな意味で使わ
>れていると捉えられてもしかたありませんよ。
>個人レベルでのあなたのコミュニケーション能力は、恥ずかしいほど欠落しています。
>合理性がまったく感じられません

人格批判は甘んじて受けますがねー、問題の所在を隠蔽してはいけませんよ。
もともとこれまでの議論はイラクで虐殺された青年への罵倒に厳しく対応したところに端を発している。
わたしの人格なんてクソみたいなものだから、どーでもいいんだ。それよりあなた自身がまずこの問題をどう考えているのか
披瀝してから、人格や能力の個人批判をすればいい。
でと、いちおう説明しておきましょう。

この「豚の喜び」生活というのはあまりにも有名な次の著書からの引用です。

「家畜が餌を食うことは家畜自身の喜びであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることにかわりはない」(『資本論』マルクス)

これに対して加藤典洋が『テクストから遠く離れて』の最終行で見田宗介『現代社会の理論』の発言を引用してこう答えています。

「ここでマルクスがいっていることは正しいけれども、この命題は、同じ資格で反転してみることもできる。
つまり家畜が餌を食み、生殖欲求をみたすということは、牧畜業者の資本の一環をなすからといって、
それが家畜の喜びであることにかわりはない」

見田も加藤も「家畜(たとえばわたしのいう豚)のよろこび」を肯定的にとらえています。
このような生活をわたしが反省的自覚的にとらえていることは事実ですが、見田や加藤と同じく否定的ではありません。
それよりもこのような生活がどのような感性を生み出したかの好例としてお相手をさせてもらったのですよ。
ひとことでいえば「養豚の思想」に骨の髄までどっぷりつかるとお宅らのような、そういう倒錯した考え方が出てくる。
竹田青嗣の《現実語》と《一般言語表彰》という区分の仕方で言えば、《現実語》で語るべきところを《一般言語表彰》で語り
《一般言語表彰》で語るべきことを《現実語》で語るという倒錯が起きている。
よって議論自体がとめどもなく混乱する。
たとえば、
「殺されても相手を祈りなさい」というのは、ニーチェの洞察を例にとるまでもなく裏返された憎悪ですよ。このような憎悪は、
フロイトの言う「倫理的な超自我」(理想我)が働いての現実の乗り越えであって、抑圧(エス)を内に抱えており、それが噴出すときに
たとえば神に祈ってからイラクやアフガンを空爆するキリスト原理主義の大統領のようなことをやらかす罠がある。
ぼくはそこを衝いていたのです。
倫理的なことばで解決する問題とそうでない問題がある。
今回の場合は、わたしの口の悪さに問題を収斂し、それで駄目となると「育ちの違いだ」みなたな言い方で遠まわしにわたしを差別、侮蔑し
去っていったわけだけど、それこそがわたしのいう隠然とした暴力言語なんであってね、
「豚の生活」などという言い方は
それにくらべて何の問題もないと考えている。
お宅もね、一方的に断定するのが好きなようですが、ま、勝手にどーぞ。
お宅がなんといおうと、わたしが腹が立った言説はいつでも自由に批判し、対応しますよ。
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