言葉の持つしっぽ(あるいは亡霊)について
白糸雅樹

 なるべく精確に言葉を使いたい、と思う。だから、言葉がひきずっている余計な意味は、極力、排除する。
 しかし、詩歌を書くとき、最も力強いのは、言葉の持っているしっぽではないか、と思うことがある。
 例えば、拙作、
ありえないあなたってあなたってあなたって猫背の皇帝ペンギン
 は、塚本邦雄の
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
 を踏まえている。どんな歌人も、塚本のこの歌を意識することなくして、皇帝ペンギンを詠うことはできない、と思う。(逆に、塚本のこの歌を捨象することを目的とした場合を含む)

 同様に、私は杉崎恒夫の歌を思うことなく鳩サブレ―を食べることができないし、ヴェポラップに性的な愛着を抱き咳き込んでいるこいびとの胸と背中にぬりたくるのは、いいだありこの歌でヴェポラップの存在を知ったからだ。これは多分に個人的なもので、塚本の歌に比べれば一般性は低いが、しかし私の中には存在している。そしておそらく、私がそれらの歌を読んだ「かばん」を同時期に読んでいた人たちもそれを、共有してくれている、と、思う。

 「ぐらぐらしますね ぐらぐらします」といえば、直接的に「真剣ですよ」というより真剣な時だ。

 「夜中に台所で僕は君に」と言えば、性的なものを含めた深い愛情に裏打ちされたものが否応なしに押し寄せてくる。

 それに気づいた初期の頃は、なんだか制限が多くて、とても不自由なことに感じていた。

 そんな気持ちが変わったのは、北川草子の第一歌集が出た頃、率先して編集に携わっていた植松大雄(北川本人は物故していたので、残された友人が歌の抽出にあたっていた)の歌に、北川作品へのオマージュを見た頃からかもしれない。

 一見、二番煎じのように見えながら、北川作品を共有した読み手への信頼がそこには記され、自信と愛情に溢れていた。

 そうだ。ここ現代詩フォーラムにおいても、ただ、「夜中に台所」と言っただけでぴぴっと繋がってしまう読み手と詠み手。そこには、夫婦のような連帯感がある、と思う。

 なんと、豊穣な大地だろう。

*参考*
      ・ふたりとも寝返りをうたなかった
眠れずにいる星の夜はヴェポラップ塗られた胸をはだけたまんま  /飯田有子

みたものをみる/みたいものをみる
あるものをみる/あるようにみる
ぐらぐらしますね/ぐらぐらします/しんけんですよ
                    (野本京子「森 〜同行するひと〜」より)

「夜中に台所でぼくは君に話しかけたかった」
  (谷川俊太郎の詩より(原典にあたってないので不正確な部分があるかもしれない)

 杉崎恒夫の鳩サブレ―の歌は、見つけられなかった。歌も精確には覚えていない。数首あったと思うのだが。同様に、北川草子へのオマージュが明確に窺える植松大雄作品も見つけられなかった。当時は、あれ、これ。って思ったのだが。検証不足での発言、お許し願いたい。

 先輩たちにも敬称はつけなかった。


散文(批評随筆小説等) 言葉の持つしっぽ(あるいは亡霊)について Copyright 白糸雅樹 2004-03-26 05:33:19
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