蘭の会
http://www.orchidclub.netの二月詩集http://www.hiemalis.org/~orchid/public/anthology/200302/掲載の『おまん瞑目』(佐々宝砂さん)。これは鬼女紅葉伝説をもとに書かれた詩ですが、これを読んで、「おまん」とはどういう人だったのだろうかと興味をそそられました。
でも、おまんについての情報は意外なほど少ないのですね。
都から流れてきた鬼女紅葉と怪力俊足の山の女おまんとの友情はどんなものだったのか、あれこれ想像を巡らせています。
おまんは二十三、四才というから、当時としてはもう若い女の部類には入らないのかもしれません。でも、七十人力で、山で薪を取ったり猪を捕ったり、とあって、こうした男の仕事を男以上にやってのけるなら人々に重宝がられたでしょうし、女一人でも暮らしに困らない充分な稼ぎはあったのではないかと思うのですけれど、紅葉を頭とする盗賊に加わったのはなぜなのかしらん。
紅葉は盗賊となって鬼女と言われていますが、都から来た貴人ということで最初は村では厚く歓迎したとあり、また遠くの村で盗ったものを近隣の貧しい人に分け与えたというようなことも言われて、紅葉討伐をした惟茂側と地元の村とでは評価が違っているようです。だから、七十人力のおまんも、皆に重宝がられたその力を都から流れてきた貴人のために役立てたいと思ったのかもしれません。
紅葉が討伐され、悪者となったことで、おまんもその一味として凶暴な「鬼のおまん」と悪く言われるようになってしまったとも考えられます。
それとも。
おまんはあまり愛想の良い女ではなかったのかもしれません。それで人々から男勝りの仕事ぶりや何よりその怪力をおそれられ、人付き合いから多少遠ざかっていたのかもしれません。おまんの怪力やそれによる稼ぎぶりが嫉妬を買っていた可能性だってあります。 孤独で変化のない暮らしをしていたおまんに、都からやってきて男たちを従え盗賊の頭となった紅葉、美しく強い女、紅葉は魅力的に映ったことでしょう。七十人力のおまんですから、妖術を使うと言われている紅葉のことも、ふつうの人ほどにはおそれなかっただろうと思われます。
もっとも、鬼無里松厳寺の住職は、惟茂は信濃に来てないし、謡曲の「紅葉狩」は戸隠と関係ない、この物語はフィクションだと言っているそうですが(『戸隠とその石仏』千種義人)。
それでも、伝説から想像を広げてみるのは楽しいものです。
おまん情報ちょこっとだけ入手。
『鬼無里村史』に鬼女紅葉伝説が十五頁ほどを割いて書かれていました。
惟茂対紅葉戦一回目。惟茂が送り出したのは川野三郎・真菰次郎、兵百五十余騎。迎える紅葉方は二百余。初め川野・真菰軍優勢かと思いきや(紅葉の幻術による)大風、火の雨、大洪水で退散。
で、対紅葉戦二回目。このとき、おまんは紅葉を名乗って敵を迎え討っているのです。
惟茂方は成田左衛門・金剛太郎。
両人畏まり御前を下り、急ぎ用意取整え、手勢引具して、戸隠陣所を指して出立し、陣屋に着きて策略を謀り此度は道もあらざる間道を、尾根や谷沢経めぐりて、紅葉巣窟十五六丁に近寄り、木立草間に潜みつつ、夜明けを待ち、東雲になりたれば、一同岩屋に押寄せて、鬨の声を揚げたるに、思いも寄らず木戸際に官兵あり。周章、出会いし賊はなかりき。先ず一之木戸を打破り、二之木戸に進む時、鬼のおまんが手下をつれ、大の長刀小脇に鋏み、木戸口に立塞がり、『我こそは一城の総大将紅葉御前なり。首とりて手柄ににせよ』と云うままに縦横無碍に薙立てれば、金剛走り寄り、逃すなと打ち合いしが、七十人力と聞いたる命知らずの女武者、手下と共に走り回るの間に、二之木戸に入らんとすれば、鬼武・熊武討って出て破られじと支ゆる折に、山谷忽ち鳴り出し…(以下略。またも大風、火の雨、大洪水が起こり退散。『鬼無里村史』より
この後、惟茂は北向観音に参り、「降魔の剣」を賜ります。それによって紅葉は討ち取られてしまうわけです。
鬼武・熊武というのは紅葉の手下となった野武士というか山賊です。鬼武を頭とした熊武・鷲王・伊賀瀬、四人の山賊は紅葉の噂を聞きつけて紅葉を手下にしようとやってきたところが、逆に手下にされてしまったということなんですが、おまんが紅葉のもとにやってきた経緯についての記述はやはりありませんでした。
あと、「鬼女紅葉一世概略」というのが載っていました。
承兵七年秋十一月 鬼女紅葉奥州会津に産す 呉羽と称す
天暦六年夏五月 紅葉其父母と同道し京都に上る 年十六
天暦七年秋八月 源経基公の館に仕う 年十七
天暦九年春三月 源経基公の寵愛を受く 年十九
天暦十年秋九月 紅葉罪有りて信州戸隠山に棄てらる 年二十
天徳元年春四月 経若丸を産す 年二十一
康保四年秋十月 鬼武 熊武 鷲王 伊賀瀬を従う 年三十一
安和元年冬十二月 紅葉が父伍輔死す 年三十二
安和二年秋十月 紅葉及び賊徒滅ぶ 年三十三
紅葉の父親笹丸(後に伍輔)は
我子呉羽(後に紅葉)は夢想の美貌、殊に才器尋常ならず、早々京地に連れ上り、高官貴氏へ縁付けて、笹丸が身を起こさん
と願っていて、紅葉自身もずっとそれを望んでいました。
地位と権力のある男に嫁いでその子を産むこと、そしてその子を成長させて地位と権力のある男の母となることが女の出世だったのですね。
現代でも、地位と権力(金)のある男を夫にすることを自分の出世のように思っている女は少なくないようです。
女の出世って何なんでしょう…。
二十一才で息子経若丸を産んでから大盗賊団の頭となる三十一才までの十年間、紅葉がどう暮らしていたかというと、
女子は、縫針、男子は読書算用を教え、各々の暮らしに応じて謝礼もありて、何の不足なく暮らしたりし
とあります。
基経の子を宿したまま山中に棄てられた紅葉は加持祈祷で村人の病を治したりなどして尊敬されるようになり、こどもを産んでからはその成長をよろこびながら村人に教育をほどこして平和に暮らしていたわけです。その生活は決して不幸せなものではなく、むしろ穏やかな幸せというものだったでしょう。
ところが、こどもが成長してくると、京の都が懐かしくなり、また出世欲が頭をもたげてきました。
子育てが一段落ついて、決して不幸せではない自分の境遇に不満を抱く、というのは今でもよく聞く話です。
ある朝洗面せんと水鏡に我面を見ると、不審や、角が生え、鬼の形となりたれば、『これこそ心を鬼として、兵を集め、資金を作り、兵糧を貯えて武力にて都に登るべし』と決心した
紅葉の転機となった出来事です。
紅葉は欲望や執着のために鬼になってしまったのではなく、自ら鬼になることを選んだのですね。この激しい心の変化を、私はまだうまく読み解けないのですけれど。
そこへちょうど鬼武 熊武 鷲王 伊賀瀬がやってきました。
そして、この盗賊たちの財物を都の使者から賜ったものとして、近々都から迎えが来て京へ行くのだと触れ回りまりました。
お祝いにやってきた大勢の人たちに酒をふるまいながら、紅葉は内心、里人と、今までの平穏な暮らしとの決別をしたのでした。
それから荒倉山に移り、父を呼び寄せ、紅葉は男装の大盗賊となります。表向きは何食わぬ様子で、遠くの村里を荒らし回り、そのかたわら、貧しい里人に施しをしたりもしていました。
戸隠山のおまんがやってきたのはこの頃のことです。
鬼無里は今でも交通不便な山里です。駅はありません。高校がないので、中学を卒業して進学する場合は長野に下宿しなければなりません。あ、今はバスで通えるのかな。
かつては、長野側から行くと道路の終点で、「どんづまりの村」と村の人自身が言っていたといいます。
昔も米や麦はつくっていたようですが、寒冷地なので多くの収穫は望めなかったでしょう。大麻や煙草などをつくっていたようです。大麻、煙草、玉蜀黍、蕎麦、こうしたものは痩せた土地でも栽培できるものです。
昭和三十九年に水芭蕉の日本最大級の群生地が発見され、それから観光に力を入れるようになったそうです。
今では奥裾花自然園となっています。
私も数年前、水芭蕉を見に行きましたが、それはそれは美しいところでした。昭和三十九年まで、そんな最近まで、人に知られない場所だったなんて信じられませんでした。何度か土砂崩れがあって、発見当初の水芭蕉群生地のかなりの部分が埋まってしまったことがあります。そのときは確か、その湿地帯への道も塞がってしまったのでした。
私が水芭蕉見物に行ったときは、夫の車で行ったのですが、片側は崖、反対側は谷で道幅狭く、対向車が来ないことを祈ってしまうような山道でした。今は、バスで行くようになっているようです。
御台の病気が紅葉の妖術によるものだということが発覚して戸隠山に棄てられた紅葉でしたが、村人から見た紅葉は決して悪人ではありませんでした。経基公の寵愛を受けその子まで宿しながら正妻から疎まれて山奥に棄てられた哀れな姫君ということになっていましたから。しかも美しく教養もある。里人は紅葉のために屋敷を建てて敬愛していました。
紅葉は加持祈祷で病を治したり、読み書き算術、裁縫を教えたりして里人の信頼は篤く、それで生計を立てていたようですが、武力でもって京の都へのぼろうとするほどの財力はどのようにして得たのだろうかとちょっと疑問に思います。
盗賊をして稼ぐといっても、宿場町が近いわけでもなく、十数里行ったところでお金のありそうなめぼしい町などあったとも思えません。あるとすれば山を下りて善光寺の周辺くらいでしょうか。
もう一つ疑問なのは、なぜ荒倉山に山塞をつくり移ったのかということです。京へのぼるつもりであるなら、鬼無里に居たままでも不都合はなさそうです。荒倉山の山塞はより攻められにくい、という攻めるより守りに都合のよい場所のように思います。
紅葉が荒倉山に移り住んだというその岩穴は今も見物することができますが、ちょっと紅葉には似つかわしくない、写真で見るとほんとうにいかにも鬼が住んでいそうな岩穴です。岩穴で暮らしていたというより、この岩穴は紅葉が加持祈祷に籠もる場所という程度のものだったのではないか、と想像します。
紅葉を巫女とした原始社会が営まれていたのではないか、惟茂の紅葉討伐は中央権力がそうした古代原始社会を滅ぼすものだったのではないか、という考えもあるようです。惟茂の兵が攻めてきたとき、紅葉方は二百余。手下となった盗賊ばかりでなく、紅葉を慕う里人たちも加わったのではないでしょうか。
紅葉はたいへんな美女だったとあります。
では、おまんはどうだったのでしょうか。
戸隠山に住む鬼のおまんという女賊、力は七拾人力、猪猿などを手にて打ち殺し、足の速さは一夜に素足で三十里を往来する。重きを背負い山道を登り下りを歩むこと、数多の手下に及ぶ者も無き豪なる者であった
とだけあります。容姿に関しては何も書かれていません。
でも、華奢でなよなよした体型ではなく、体格の良い大柄な人だったのではないかと想像できます。
紅葉は男装して盗賊をしていたと言います。初めこそは鬼武等と共に紅葉も出かけて行ったかもしれませんけれど、ますます大勢の家来を従えてからは、紅葉自身が盗みに出かけたということはないのではないでしょうか。鬼武達以外にも、噂を聞きつけて賊に仲間入りする者が多かったといいます。もう紅葉が出かけて行かなくても、指図を与えるだけで良かったでしょう。
これは私の想像ですが、成田・金剛軍が攻め入ってきたときに、おまんが紅葉を名乗って戦ったことからも考えるに、紅葉を名乗って賊徒を指揮し実際に村里を荒らし回ったのは、おまんだったのではないでしょうか。
謡曲の『紅葉狩』は鬼無里の紅葉伝説とはちょっと違った筋立てになっているようで、狩りに訪れた惟茂が美女達の宴に誘われて酔って眠ってしまうらしいのですけど、伝説の方では、妖術を封じられた紅葉が最後の酒盛りをして酔って眠ってしまったところへ惟茂に踏み込まれるんです。
私は能を観たこともないし知識もないのですけれど、『葵上』『道成寺』『安達原』『紅葉狩』が四大鬼能と言われているそうです。この『紅葉狩』の鬼は、もともと人であったものが怨みや執着や孤独から鬼になってしまったのではなく、もとから正体が鬼だということで他の鬼とは違っています。
紅葉の伝説を読むと、紅葉のあり方に気持ち良さを感じるのですけれど、それは、紅葉が「鬼」かどうかはともかくとして、怨みやら執着やら孤独の哀しみやらといったところから離れた、紅葉が紅葉自身でありつづけることの豪快さなのだろうなと思います。
紅葉は伝説にあるようなひどい悪人ではなかったのではないかと私は思いますが、かといって善人だったとも思いません。悪人に仕立てられた哀れな美女という語り方も充分可能な物語だとは思いますが、そうしてしまうと、紅葉の魅力がいささか減じられてしまうような気がします。
紅葉は鬼武たちやおまんなど多くの家来を従えましたが、人を引きつけるのは人徳だけではないのです。この人のそばにいたら面白いぞ、とでもいったような、そんな気持ちにさせられる人だったのではないかと思います。
二00三年三月