主語からの呪文
渡邉建志

その主語はほんとうに主語なのか。

武満徹の文章に、左翼の歌が嫌いだというものがあった。「われわれ」が、本当の痛みを伴っていない、というようなないようだったと思う。反戦争の歌であれば、本人の痛みを伴った歌でなければ、永遠に歌い継がれない。個体性。一方、武満の嫌った歌たちの「われわれ」は、肩を組んで、そのときは気分も高揚するだろうけれど、いつか古びるのだ。

ビートルズが古びないのは、彼らが主語のない恋愛を歌わずに主語のある恋愛や、思想そのものを歌ったからだと思う。だから、個体性の軽い「love me do」には古さを感じるけれど、LSD体験をそのまま語ってしまった「she said she said」は永遠に古びることはないだろう。「when I'm 64」だって、あれはポールにしかかけない気持ちが込められていたから、多分100年後に聞いても古くないだろう。(ポールは今年64歳になった)

わたしはわたしが愛する詩人のひとつの詩の主語の使い方について考えている。詩人はわたしときみしか書いていない。でもそのわたしが、いままで論じてきたわたしや、いままで論じてきたきみとは、明らかに違う次元のもので、発信側からすればひょっとして個体性があるのかもしれないが、受信側からすれば、まったくその個体性が見えない「わたし」や「きみ」になっている。そうすれば、二分法からいくと詩人の詩は武満の言う、肩を組んで時代の気分に流されるだけのうたになる。しかし二分法ではなく、詩人は他の次元の軸を立てる。平面世界にいる私にはZ軸にいる詩人の存在を確認できない。ひょっとしたら頭上にいるかもしれないしいないかもしれない。「きみ」はぼくのことかもしれないし、ちがうかもしれない。その両方の状態を確率的に抱きながら、詩人はZ軸のどこかで、どこかわからない地図の上にいる・いない。





きみのものではないという、
その声が、


きみの、
ものではないと、その声が
いう、きみの
声がきみのものでは
ないという、その声が、
きみのものである、

いう、きみのもの
ではない
声が、きみのものではない
という、
きみの声








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散文(批評随筆小説等) 主語からの呪文 Copyright 渡邉建志 2006-11-16 10:28:27
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