愛の墓場
ロリータ℃。
窓から差し込む青く透明な光に、ベッドで眠る彼の顔が夜明け独特の清浄な暗さに染められていた。
こうして彼の寝顔を見るのは久しぶりだ。ぐっすりと眠る彼の顔はとても疲れていて、羽を休めるぼろぼろの小鳥のようだ。心が痛んだ。かつて輝いていた青年は今とても疲れている。その疲れさえ、自分の価値の一部だと思い込んで。
彼とは学生のときに、旅先で出逢った。日本人でお互い一人旅だった私たちはまるで運命のような出会いに燃え上がり、日本に帰るまでには恋人同士になっていた。彼はカメラマンを志していた。短期のバイトを幾つも掛け持ちし、お金が貯まったらすぐに旅に行ってしまう。私はその自由さが好きだった。型にはまった男たちとは違う、おおらかな心が好きだった。
あの頃の私たちはとても自由で、孤独で、幸福だった。互いの体の境目すらも曖昧になり脳も肌も骨も内臓も意識さえもぐずぐずに溶けてしまうようなセックスをし、愛していると何度も何度も囁きあって、重みのあるその軽い言葉に私は耐え切れずいつも笑い、ふしだらで幸せでとりとめもない、たくさんの時間を一緒に過ごした。
いつかは別れるかもしれないと思ったけれど、一緒にいる間はこの幸福な時間がずっと続くものだと思っていた。季節が変わるように、人も変わってゆくということを私は知らなかったから。持ってしまったものは、いつか失わなければならない。どんな形でも終末はきちんと降りてくる。正しく、とても悲しい形で。
私が妊娠したときから、彼は徐々に変わっていった。定職につき、忙しくなった。帰りが深夜だったりすることもあったし、休みがない週もあった。家に仕事を持ち込んだりもしていた。親のコネで入った会社の中で、彼はいつかの出世を意識し始め、カメラのことも忘れていくようだった。そうさせてしまったのは、多分私だ。
大人になっても、私たちは大人のような真似はできないと思っていた。子供が生まれたら三人で、子供でも大人でもないそんな時間を過ごせると、私はそう思っていた。そんな私だったからこそ、彼は、大人になってしまったのだろう。
濃くいれたコーヒーで、白けてゆく空を窓越しに見つめる。ゆうべの名残が残るベッドの中で、かつて愛した男は泥のように眠っている。あまりにも唐突に彼は大人になってしまった。そして変わらずに、私を愛していると囁くのだ。互いの体の境目すらも曖昧になり脳も肌も骨も内臓も意識さえもぐずぐずに溶けてしまうようなセックスもできないのに。
空が明るくなったとき、私は彼を起こすだろう。行かないで一緒にいてと縋ることもせずにしなやかで強く相変わらず自由な振りでにっこり笑い、彼に挨拶をする。身支度を整えた彼は新聞を読みながら今日の会議のことを考え、そんな自分に没頭しながら出かけてゆく。取り残された私の哀しみは、強い振りをすることで、しなやかな孤独へと姿を変える。
ゆうべ私たちは抱き合い、眠るまで手を繋ぎあっていた。泣き出す準備はとうの昔から出来ているのに私はとても幸福な顔で、彼の頬にくちづけをした。目を細めた彼の顔に昔の面影が垣間見えた。私は彼の胸に顔を埋め、繋いだ手に力をこめた。
だから目覚めて、私は驚いてしまう。
まるで知らないひとみたい。
朝がくるまで眠りこむ彼の顔も、今此処でコーヒーを飲んで窓の外を眺める私も全部全部過去から繋がっている筈なのに、知らない人に思えるのはどうしてだろう。
無意識のうちにお腹を撫でる手も、胎動する子供にそっと話しかけたりするこの唇も、全部私のものなのに、映画を見ているように現実感がなくてとても困る。
眠っている彼はまるで知らないひとのようだった。その知らない男を心から愛している自分に気づき、私は絶望して舌打ちをする。
いつの間にか私たちはこんなにも、大人になってしまっていた。