ピラニア
「Y」
ピラニアは、蛍光灯の光の色をメタリック・グレイに映えさせながら、水槽の中をゆっくりと泳いでいる。
僕はひんやりとしたガラスに手をかざしながら、ピラニアに向かって話しかける。
「お前とも、もうお別れだなあ、せいせいするような、寂しいような、なんだか変な気分だよ」
すると目の前の魚は、ゆるやかに尾鰭を動かしながら、水槽のちょうど真ん中あたりで顔をこちらへ向け、僕の言葉に返事をするように口を開く。銀色がかった口腔内の組織と鋭い牙が、僕の目の前で一瞬顔を覗かせる。
ふと我にかえると、僕は水槽の前にしゃがみ込みながら、ひっそりとした奇妙な笑い声を上げている。
熱帯魚店の店員が二人、小型の水槽を携えて、部屋に入ってくる。
「こちらの水槽に移し変えて移動しますので」
店員の一人が、ピラニアを一瞥してから僕に向かって言う。
「お願いします」と言おうと思ったのに、どういうわけかことばが出ず、僕は無言のまま、その場に立ちつくしていた……。
僕が初めてピラニアを見たのは、去年の五月のことだった。
父と一緒に行った三社祭からの帰り途、僕は右手に数尾の金魚と水の入ったビニール袋をぶら下げていた。エサと金魚鉢を買うために入った駅前の熱帯魚専門店で、不意に、水槽の中で泳ぐピラニアの姿が視界のなかに飛び込んできたのだった。僕は単純に思った。
「綺麗だなあ」と。
水槽の上隅に、「ピラニア・ピラヤ」と書かれた小さな紙が貼り付けられていた。
僕はその魚の故郷がアマゾン川だということも、その魚の本来の名前がピラニアだということも――つまりピラニアに関する事を、何も知らなかった。僕はただ、円盤型の身体を悠々と水の中に漂わせているその魚の、下顎から腹のあたりの膚を染めている朱色を、ぼんやりしながら眺めていたのだ。その朱色は魚の身体の動きにともなって、淡くなったり濃くなったりした。
「隆、えらい熱心に見てるじゃないか。飼いたいのか、こいつを」
一緒に来ていた父の言葉に、僕はすこし驚いて、
「飼いたいだなんて、ちっとも思ってないよ。面倒くさいし」
と答えた。
「なんだ。そうなのか」
父は、すこし拍子抜けしたような顔をして、そう言った。
帰り道で父が僕のことを見て言った。
「お前がさっき長いこと見ていた魚、あれは大群で牛を襲ったりするやつだよ。たしか」
「襲う? 襲うって、どういうこと?」
「エサにするということさ。鋭い牙を持っているんだ」
あんな魚を飼ったら、エサ代だけでも大変だと呟きながら、父が喉の奥から篭もった笑い声を出すのを聞きながら、僕はバス通りの向かいに建っている都営住宅の壁が夕陽に照らされている様子や、空を広がっている羊雲を眺めていた。羊雲は夕陽に照らされて、輪郭を丹色や曙色に染めながら、その一つ一つをくっきりと空から浮かび上がらせていた。
あの日の夜、勉強机の片隅に置いた小さな金魚蜂のなかで泳いでいる三尾の金魚を眺めながら、僕が心の中に思い浮かべていたのは、昼間に浅草で見た、黄金色に輝く神輿でも鉢巻を締めた男達の姿でもなく、夕方に熱帯魚店で目の当たりにしたピラニアの姿だった。僕は、帰り道で目にした、団地の壁を鮮やかなオレンジ色に照らしていた夕陽の耀きを、ピラニアの鰓から腹にかけて染め上げている朱色とだぶらせて脳裏に浮かべていた。それは僕の瞼の裏でぎらぎらと輝いて僕の神経を昂ぶらせた。僕はベッドに入ったあとも、なかなか寝付くことが出来なかった。
三社祭の帰りに立ち寄った熱帯魚店を僕がふたたび訪れたのは、それから二日後のことだ。その理由を僕は、ただピラニアを見たかったからだ、あの魚が水槽の中で泳いでいるのを眺めていたかったからだ、としか説明することができない。今から思い起こすとなんだか馬鹿みたいな話なのだが、僕はあの日、目が覚めたときから、居ても立ってもいられないような気分になっていた。僕は、あのピラニアの目玉を見たかったし、尾鰭も見たかった。そして、鰓や腹を染めている紅色も、もう一度見てみたかった。
僕は学校から帰ってくると鞄を玄関先に放り出して庭に飛び出し、自転車に乗った。家から熱帯魚店までの距離は、ニ、三キロといったところだ。だから僕はそれからおよそ十分後には、熱帯魚店に着くことができた。
自転車を停めて店内に入ると、髪を金色に染めた、若い男の店員が奥から出てきた。店員は、僕に向かって笑いかけながら言った。
「やっぱり来たね」
「やっぱりって、どういうことですか」
僕が訊ねると、店員は、すこし得意げな様子を見せながらフフンと鼻で笑い、
「一昨日、あのピラニアを眺めていたときの君の顔を見て、何となくそう思ったんだ。また君がここを訪れるんじゃないかとね」
と言った。僕が返答に困り、無言のままそこに突っ立っていると、店員は更に言った。
「水槽の中で泳いでいる熱帯魚を見て、いいなあと思うということは、とどのつまり、飼いたいなあと思うのと同じことなんだ。だけど、生き物を飼うのは大変なことだから、大抵の人は、いいなあと思ったと同時に心の中で、熱帯魚を飼えない理由を懸命に考えるんだ。やれ水替えが大変だ、やれ水槽を置く場所がない、といった具合にね。だけど、君はそんなこと、これっぽっちも考えられないような顔をしていたからさ」
「まだ、飼うと決めたわけではないですよ」
僕が熱帯魚を飼うことを決めつけているかのような店員の口ぶりに、僕はすこし慌ててそう言い返した。
「好きなだけ見ていけばいいよ。見るだけなら金は取らないからね」
店員は、分かっているとでも言いたげに片手を上げながら、店の奥へ消えていった。僕はピラニアのいる水槽に視線を移した。
水槽のなかのピラニアは、ゆったりと鰭を揺らめかせながら、水の中を漂っていた。
〈二日前と同じだ〉
心の中で僕はそう呟き、なぜかほっとした。
水槽の前で中腰になって、ピラニアをじっくりと観察する。
肉のたっぷり付いた紡錘型の身体は、銀色の混ざった灰褐色の鱗に覆われており、その上を、ラメでも被せたみたいに、無数の白銀の霜が降っている。車のバンパーのような巨きな顎が、ふてぶてしい面構えを象ってはいるけれど、ひしゃげた硬貨みたいな目玉を見ると、あんがい神経質そうにも思えてくる。
鰓から腹にかけての一帯を染めている朱色が、二日前よりも、その鮮やかさを増しているように見えた。底の部分が金属質の強い光を放っていて、その色彩は、ピラニアが動くにつれ、ピンクがかったり金色がかったりした。
僕は目の前で泳いでいるピラニアを、半ば放心しながら眺めていたが、同時に、一昨日にこの魚を見たときには感じていなかった気分も、心の中に感じていた。小さな石ころのような異物が心の中に紛れ込んでいるような、幽かな居心地の悪さがあった。僕はそれが何なのかを心の中で探っていたが、うまく捕まえることができなかった。昔見た怖い夢の一場面を懸命に思い出そうとしているような、嫌な気分だった。
「餌は……」
隣から不意に話しかけられ、僕は驚いて身体を顫わせた。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
いつの間に来たのか、金髪の店員が僕の右隣に立ち、僕がびっくりした様子を眺めながら苦笑していた。
「いいんです。それより、餌は、なんですか」
僕が片手で胸を押さえながら店員に訊くと、店員は即座に答えた。
「うん。餌は、最初はメダカ。そのあとは金魚やモエビかな」
僕は二日前に父が、「大群で牛を襲う」と言っていたのを思い出したが、目の前のピラニアが生きたままのメダカを丸呑みにしている様を思い浮かべ、その生々しさに、思わず声をあげてしまった。
「メダカを食べさせるんですか」
「人工飼料もあるよ。生き餌にこだわる必要はないからね」
僕の反応に驚いたらしく、店員はすこし慌て気味にそう言い足した。そして、
「君はあまり知らないようだね。ピラニアのことを。魚を飼った事とかはないの」
と、逆に僕に向かって、すこし心配そうな顔をしながら訊ねてきた。
僕が店員に、金魚いがいの魚を飼ったことは無いと答えると、ピラニアの泳いでいる水槽を指差しながら、更に僕に訊いてきた。
「ふーん、そうなんだ。君は小学生だよね。なんでこいつを好きになったの」
「なんでって…… 凄く綺麗だから」
僕の言葉を聞いた途端、店員は急に上機嫌になり、笑いを堪えるような表情を浮かべながら何度も頷きはじめた。
「何が可笑しいんですか」
「ちょっと意外だったものだから。つまり君が、ピラニアの獰猛さに惹かれたものだとばかり思っていたのが、単にその綺麗さに魅力を感じたのだと言うので、何だか嬉しくなってしまったんだ。君の言うとおり、ピラニアっていうのは、ある種類のものについて言うと、本当に綺麗な魚だ。だけどね、普通は、最初に店を訪れたお客さんの視線は、ピラニアなんかとは違う魚にいくものなんだ」
「ちがう魚? 」
「そう。たとえばネオン・テトラだとかグッピーだとか。ひとつには、お客さんの頭の中に、ピラニアに対する悪い先入観が植え付けられているような場合が多くて、綺麗な魚だなと思っても、なかなか実際に飼ってみようという気にはならないものなんだよね」
「先入観か。それって、もしかすると、大群で牛を襲ったりすることがあるとか、そういうことですか? 」
僕の言葉に、店員はすこし驚いたような顔をしながら言った。
「なんだ、なかなか知ってるじゃないか。ピラニアのことを」
「うん、まあそれくらいはね」
得意な気持ちを抑えながら僕は答えた。
「それに、こういうこともある」
店員は話を続けた。
「ピラニアの持っている存在感の大きさが、それを見た人の心の中に、この魚を飼ってみたいなという気持ちが起こるのを邪魔してしまうところがあるんだ」
「存在感ですか」
「大半のお客さんにとっては、自分の飼う熱帯魚は、可愛いくて、眺めていて心が癒されればそれでいい、というか、それ以外のものは、かえって邪魔なんだ。存在感のある魚というのは、良かれ悪しかれ、それを見る人を圧倒するものだけど、そういう魚は、えてして人々から敬遠されがちなところがある。眺めていて心が癒されるのではなく、眺めていて疲れちゃうところがあるからね」
店員は俄かに饒舌になった。
「ふうん。分かるような、分からないような話だなあ」
と、ぼくは正直に言った。
金髪の店員は、その後もピラニアについての話をいろいろと聞かせてくれた。肉食性で、食べることに対しては貪婪だが、同時に、神経質で臆病な性質の持ち主でもある、ということや、丈夫な身体を持っていて、他の魚なら棲めないような汚れた水の中でも、平気で生きていくしぶとさも備えている、ということなどだ。そして、水槽の大きさや温度調節のための機械など、ピラニアを飼育するために必要な装置類とその値段を書き込んだ紙を、僕に渡してくれた。
〈毎日あの店にピラニアを眺めに行くよりは、ピラニアの入った水槽を、自分の部屋に置いて眺めていたほうが、良いに決まっている。それに、あのピラニアが売れてしまったら、もう眺めに行くこともできなくなる。ということは、やっぱり買うしかないな〉
帰り道で自転車を漕ぎながら、僕はそんなことを考えていた。ついさっきあの店に入るまでは、ただ単にピラニアを見たいという気持ちしかなかったのに、一時間後の今はもう、ピラニアを飼うこと以外は眼中に無い状態になっている、ということにようやく気が付き、僕は心の中で苦笑した。僕は店員にうまく乗せられたように思い、そのことが少し癪だったが、同時に、ピラニアについて色々な事を教えてくれたことに、好意を感じてもいた。
僕は家に帰った後、父の携帯に電話をかけ、ピラニアを飼う事にする、と言った。僕の父は、週末以外は会社での仕事が忙しいので、平日に連絡を取り合う場合は携帯を使うしかない。父は会社で仕事をしている最中だった。慌しげに紙を擦る音、複数の人の話し声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「そうか、やっぱり飼うのか。いいんじゃないか」
肩と首のあいだに受話器を挟みながら話しているのだろう、父の声は、籠もった雑音を交じらせていた。
電話でのやりとりはすぐに終わった。仕事が忙しい父との関係は、ひどくあっさりしている。父は週末には家にいるが、町内の草野球での試合には毎週出ているし、僕のほうでも進学塾でのテストなどがあるから、触れ合う時間はさほど多くない。
セレモニーホールで働いている母が家に帰ってくるのは、大抵夜の七時頃だ。ピラニアを飼いたいという話を持ちかけるのは、夕食が済んで寛いでいる時にしようと決めていた。既に父からの了解をとっているので、気分的には大分楽だった。結局僕は、母と二人きりの夕食を終えたあと、あっさり母の了解を取り付けることができた。母は、
「ちゃんと飼えるの? 途中で投げ出したりしちゃ駄目よ」
と言っただけだった。
父の帰宅はその晩も遅かった。
ピラニアを飼うようになってから僕の生活は変わった。学校の授業の最中にも、授業が終わって家に帰るまでのあいだも、心の片隅でピラニアのことを考えていた。今までは途切れ途切れに流れていた時間が、僕の部屋に置かれている90センチの水槽を中心にしてひとつに繋がった。僕の部屋に置いてある水槽の中で泳いでいるのは、三社祭のあった日に見た成魚ではなかった。店員の勧めもあって、結局僕が手に入れたのは稚魚だった。僕を夢中にさせたあの成魚は、僕が稚魚を手に入れた一週間後に売れて、その熱帯魚店から姿を消した。
水槽の中の、体長15センチ足らずの稚魚の身体の色は、熱帯魚店で見た成魚に比べ、より銀色に近かった。僕は、金髪の店員が言っていた、ピラニアは意外と神経質で臆病な魚だという言葉をしばしば思い出した。だが、すくなくとも僕は、自分が飼っているピラニアに対してそのようなことを感じたことは一度も無かった。その頃はメダカと、クリルという名称の、エビを乾燥させた人口飼料を餌として与えていたが、ピラニアは、僕が水槽の前で見ていることなどお構いなしに、常に旺盛な食欲で餌を平らげた。
ある日僕は、母に頼まれて近所のコンビニに買い物に行った。コンビニの入り口のところに一匹のマルチーズがつながれていた。マルチーズは僕のことをじっと見ていた。躾けられているらしく吠えたりはしなかった。僕は立ち止まり、すこしの間マルチーズと見詰め合った。そしてその眼差しに吸い寄せられるように、犬に近づいていった。犬は軽く足踏みをして尻尾を振り、僕がしゃがみ込むと、僕の膝の上に前足を乗せた。僕は両脇に手を入れて犬を抱き上げた。興奮した犬は呼吸をすこし荒くしながら僕の頬を舐めた。
「チャコ、行くよ」
人の声がした。顔を上げると、マルチーズの飼い主なのだろう、髪を茶色に染めた若い女の人が、コンビニの袋を片手に僕と犬を見下ろしていた。女の人の声を聞いた途端、犬はびくんと体をふるわせ、身悶えしながら僕の手から離れて彼女の足元に飛びついた。そして、彼女の顔を見上げながら一度だけ吠えた。彼女はコンビニの看板に繋がれていた紐を解き、犬を抱き上げた。そして僕に向かって笑い顔をつくると、
「ごめんね」
と言った。僕が立ち上がりながら彼女に向かって、
「すみません」
と言ったのと、ほとんど同時だった。
買い物を済ませた後も、抱き上げたマルチーズの温もりが掌に残っていた。家に帰る途中、僕は犬の体毛の柔らかな感触やずっしりとした身体の重み、潤んだ瞳の色などを、心の中で愛おしむように反芻していた。そしてまた、小学校に入ったばかりの頃、両親に犬を飼わせて欲しいとねだった時のことを思い起こしてもいた。あの時、昼間は誰も家に居ないのに、どうやって犬の世話をするのかと問うてきた両親に、僕は何も言い返すことが出来なかった。僕は両親の言い分はもっともだと思うと同時に、言葉でうまく言い表すことのできない理不尽な仕打ちを、何者かから受けたような苦い思いも味わった。僕は、つい今しがた自分がこの手で抱いたマルチーズが、今は一体どこに居るのだろうとわけもなく思った。僕が犬を飼うことができないのと同様に、あのマルチーズも飼い主を選ぶことができない。一見当たり前のようにも思えるそんなことが、不意に、とても不可思議なことのように思えてきた。
家に戻ってコンビニから買ってきたものを母に渡した僕は、ピラニアの様子を見るために自室へと向かった。その頃は家に帰るとすぐに、自室にピラニアの様子を見に行くのが習慣になっていた。僕の部屋は六畳の洋間だ。水槽は勉強机の隣に、窓に面して置かれていた。水槽は2つで、ピラニアのいる水槽の左隣には、餌となる金魚やメダカの入れられた小型の水槽が置かれていた。それらは部屋の出入り口のほぼ真正面の壁際に位置していたので、僕は自室のドアを開けるのと同時にピラニアの様子を確認することができた。
僕は部屋の電灯を点け、水槽の中のピラニアを注視した。ピラニアの様子は普段と変わらなかった。それは息を潜めるように一箇所でじっとしていた。僕は部屋の入り口に佇んだまま、しばらくの水槽の中を眺めていた。ピラニアを見ている最中に、それが僕の生まれる前からずっとそこに居て、これからもずっとそこに居続けるのではないか、という奇妙な妄念にとらわれることがしばしばあった。普段は僕の心の奥底に沈んでいるその妄念は、僕の心を穏やかで和らいだものにしてくれた。ドアにもたれながら、僕は再びそのことを考えていた。掌に残っていたマルチーズの体温が、すーっという音を立てて冷めていくような気がした。
食事を済ませた後、僕はピラニアに餌をやった。メダカと金魚が泳いでいる水槽から二尾のメダカを掬い、ピラニアの水槽の中に投じる。ピラニアはすぐに反応し、メダカを喰べた。喰べるというより吸い込むような感じだ。
「美味しいか」
僕はピラニアに話しかけた。ピラニアは明澄であるのと同時にうつろな目を見開きながら、ゆったりと泳いでいた。僕は大きくなるにつれ渋みを増してきたピラニアの鱗や、鰓から腹にかけての紅色が光るさまを、長いこと見詰めていた。
都内の私立中学を受験するための勉強を僕がはじめたのは、小学五年生の冬休みからだ。僕が目指したのは、大学までの一貫教育を行っている学校だった。成績さえよければ高校と大学への受験勉強を免責されるシステムに魅力を覚えた僕は、自分の希望を両親に相談した。両親は、僕がその学校を目指す事に賛成してくれた。僕は駅前にある進学塾に通い始めた。
僕が明と知り合いになったのは、六年生になって受講した夏期講習でだった。僕と隣り合わせの席に座っていた明は、僕とは異なり算数と理科の成績が抜群に良かった。明は普段は僕よりレベルが一つ上のクラスに在籍している生徒だった。休み時間中、僕と明は言葉を交わすようになった。僕は明が隣町の小学校に通っており、明の家が、僕がピラニアを買った熱帯魚店のすぐ近くにあるということを、ほどなくして知った。明の父親は歯科医を開業していた。やがて僕と明は、互いの家を行き来するようになった。
はじめて明の家に行ったのは、夏休みの終わる最後の日だった。その日はちょうど日曜日で、正午を過ぎた頃に、一緒に勉強をしようという明からの誘いを受けた僕は、自転車に乗って、自宅から二十分ほどのところにある彼の家に向かった。明の部屋は八畳間だったが、その空間の多くが蝶の標本によって占拠されていることが、僕を驚かせた。
「もともとは、僕の父が作った標本を置くために、部屋の一部を貸していた。だけどそれがいつの間にか、僕の趣味にもなってしまっていたんだ。今は勉強の合間の気分転換に、パソコンを使ってデータベースを作っている」
そう言った後ですこし考え、
「いや、もう気分転換とは言えないところまで、のめり込んでしまったな」
と呟くように言った。
「なにしろ、この時期になってもいまだに採集なんかにも行っているからね。他県に遠征したりとか」
僕はあらためて、明の部屋を見回した。本棚の置かれている壁面以外はすべて蝶の標本箱によって埋め尽くされていた。僕は、その部屋に置かれた無数の蝶に、ただ圧倒されるばかりだった。明は口を開いた。
「標本作りというのは、たしかに手間はかかるけど、蝶を台紙にピンで留める瞬間の満足感が、それまでの苦労を帳消しにしてくれるんだ」
「満足感? 」
僕は明に訊き返した。
「僕の身体を通して、蝶に関する知識が僕の脳にしっかりとインプットされたんだという満足感だよ。君は哂うかもしれないけど、僕は蝶の新種を発見したいと思っているんだ」
「新種? 」
「そう。それほど荒唐無稽な話ではないんだ。いまでも毎年世界中で、千を下らない数の昆虫の新種が発見されているんだ。新種を発見するためには、今まで発見された蝶に関するすべての事柄が、頭の中に入っていることが望ましいんだ。そう思わないか」
僕に向かって訊いてきた明に、僕は、よく分からないが、そうなのかもしれない、と言った。明は僕の顔を眺めた。そして、少し恥ずかしそうな顔をしながら言った。
「どうも蝶の話になると興奮して喋りすぎてしまう。勉強をしよう」
明との勉強は僕にとって、予想していた以上に有意義なものだった。夕方、僕は明に礼を言って彼の家をあとにした。
帰り道、僕はふと思いついて、熱帯魚店に立ち寄る事にした。特に用事があったわけではない。ピラニアの餌にする金魚やメダカも足りていたし、金魚の餌も足りていた。ただ何となく、あの店に行きたくなったのだ。金髪の店員は、店の前で水槽を洗っている最中だったが、僕に気付いて声を掛けてくれた。いくつかの言葉を交わした後で店員は、
「そういえば面白いものがあるよ」
と僕に言った。
店員は僕を店の奥に案内し、一番端に置いてある水槽の前で立ち止まった。水槽のなかで大型のピラニアが泳いでいた。店員が言った。
「君がこの店にはじめて入ったときに見た、ピラヤだ」
僕は、売れたはずの魚がそこにいることを不審に思い、店員に訊ねた。店員は、
「これを飼った人が持て余してしまったんだ」
と答えた。
「持て余す? 飼うのが嫌になったんですか? 」
「まあ、そういうことだよね。疲れたって言っていたから」
「面倒くさくなったのかな」
「いや、面倒くさくなったというのとはちょっと違うかもしれない」
店員はすこし考えた後、呟くように言った。
「違うって、どういうこと」
「うーん、そうだなあ…… 」
ホースからちょろちょろと流れ出た水が側溝を濡らしているのを眺めながら、店員は考え込んでしまった。胸のポケットからタバコを取り出し、火を点ける。吐き出した煙が目に染みたのか、店員は目をしばたたかせながら、
「結局、コツが掴めなかった、ということなんだろうな。魚に限ったことじゃないけど、生き物を飼うのにはコツがいるだろう」
と言った。
「コツ、ですか…… 」
「そう。コツだよ。例えば、餌のやり方だとかそういうことじゃなくてさ、まあ何というか、心構えみたいなものだ。特に、人になつかない生き物は、逆に、精神的に疲れるものなんだ。人によっては、なかなか難しいものなんだよ」
「そんなものかなあ」
「そんなものさ。何も考えない生き物をペットにするのは疲れるんだよ。ペットの心までこっちで考えてやらなきゃいけないだろ?一人二役というかさ。だから疲れるんだよ」
そう言ったあと、店員は声を出さずに少し笑い、吸いさしのタバコを側溝の水溜りに投げ棄てた。タバコがジュッという音を立てて、水の中で踊るように揺れた。
店員は立ち上がり、まあ、あまり難しく考えないほうがいいよ。と言いながら僕の肩をポンと叩き、洗い終わった水槽を持って店内に入っていった。
僕は、開け放たれたままの扉ごしに、店の中に目を遣った。店内には一人の客もいなかった。たくさんの水槽が、蒼白い光とともに薄暗い店内に浮かび上がっていた。そして、その中で泳いでいる無数の熱帯魚が、青や緑に光っていた。僕はしばらくの間、立ち上がることもできずに、その光景に眺め入っていた。
その晩も、いつものように勉強を済ませ、僕は水槽の中のピラニアの様子を眺めたあと、エアコンのタイマーをセットしてベッドに入った。ちょうど午前零時だった。
真夜中に、何かを叩く音で目を覚ました。誰かが部屋のドアをノックしているのかと思い、僕は半分眠ったままベッドから跳ね起きた。
電灯をつけるためにベッドから降りた。その時には、音のする方向がドアの方ではないことに、僕は気付いていた。
ピラニアが、床の上で跳ねていた。水槽の外に飛び出したことよりも、床の上で音を立てながら跳ねているピラニアが、水の中にいるよりもむしろ大きく見えることに、僕は単純に驚いていた。空ろに見開かれた目が、途方に暮れているようだった。僕は床の上のピラニアを拾い上げようともせず、ただ見下ろしていた。
ピラニアの膚が、ひどく黒ずんで見えた。水の中ではビロードのように美しい動きを見せる胸鰭が、今は濡れ雑巾のようにそぼ濡れて、胴体から垂れている。
そこには、普段僕がその魚に対して惹きつけられているものが、何一つとしてないようにさえ思えた。僕は不意に、一年以上も前、三社祭のあった二日後に、熱帯魚店で〈ピラニア・ピラヤ〉の成魚を眺めていたときのことを思い出した。あの時僕は、心の中に小さな石が転がっているような違和を感じていたのだ。その気分は急激に膨れ上がり、今ははっきりとした感触を伴って、僕の中にわだかまっていた。僕の目には、ピラニアの何もかもが――普段は僕のことをうっとりとさせずにはおかない、腹の朱色さえも――醜悪なものにしか映らなかった。
しばらくしてから僕はようやく我に返り、
〈ピラニアを水槽に戻してやらなければいけない〉
と思った。僕は床にしゃがみこみ、嫌悪に耐えながら、ピラニアを両手で抱えた。冷たくぬるぬるとした感触と共に、ずっしりとした重みが、掌を通して僕の腕に伝わってきた。僕が抱え込んだあともピラニアは跳ね続けていたので、かなり強い力でその胴体を押さえつけなければならなかった。僕がピラニアを持ち上げようとしたそのとき、ピラニアは、ひときわ強い力でその身を躍らせた。鰓を押さえつけていた右手の人差し指が、ピラニアの頭部へと滑った。そして次の瞬間には、僕の指先から、血が滴り落ちていた。
なぜか痛みを感じなかったので、ピラニアの鋭い歯によって指先が傷つけられたのだということを理解するまでに、すこし時間がかかった。黒っぽい血が僕の指先からつぎつぎと流れ落ちた。それはピラニアの胴体にまだらの染みをつくり、ピラニアが跳ねるのと同時に周囲に飛び散った。
僕は指先の傷の手当てを後回しにすることにして、再びピラニアを掴みにかかった。枕カバーを取ってピラニアの身体を包み込む方法が頭に浮かんでいたけれど、僕はその方法を採らなかった。自分自身の手で直に魚を掴み、水槽に戻すのでなければ、収まりがつかないような気分だった。
タイマーのせいで、既にエアコンは止まっていた。フローリングの床はまだひんやりしていたが、部屋の中の空気は、だいぶ熱を帯びたものになってきていた。僕は息を止めて、上下から挟み込むようにしてピラニアを掴んだ。持ち上げた両腕を水槽の上まで持っていき、投げ入れるようにして水の中に戻す。ピラニアの胴体に付いていた僕の血が煙りあがり、水の中を薄茶色に染めた。そしてそれは、あっという間に水中で溶けて消えた。
水の中のピラニアは、胸鰭や尾鰭を、悠然と水の中で揺らめかせていた。ついさっきまで床の上で苦しんでいたことが、嘘であったかのように……。ピラニアを眺めているうち、ようやく傷口に痛みが訪れた。僕は再びベッドに入るまでに、4枚の絆創膏を使った。
週末、僕は近所のホームセンターへ行き、水槽に被せるためのパネルを買った。
夏休み最初の週末、僕は父とドライブした。車でどこかへ遊びにいくことは、僕の家族にとってさほど珍しいことではなかったが、父と二人きりだということは、いつもと違っていた。セレモニーホールでの急な仕事が入った前日の晩、母と僕に向かって父が「どうする? 」
と訊ねると、迷う風もなく、母が答えた。
「いいじゃない、二人で行けば。たまには男二人で行くのも面白いんじゃないの」
「K亭のステーキ、食べたいな」と僕。
「鴨川か。きまりだな」と父。
K亭というのは、鴨川の海岸通り沿いにあるステーキハウスだ。半年ほど前にその店に行った時は、母も一緒だった。
翌日は好天だった。
朝早く出たのが良かったらしく、幹線道路も国道も、まだ込んではいなかった。
海沿いの道を走っている最中、AM放送は、カントリーを流していた。父は、曲にあわせて鼻歌を歌い、僕は、カーナビゲーションの液晶を指先でなぞっていた。
「ステーキを食べて、あと、どこか適当に面白そうなところを探そう」
父が前を見たまま僕に訊いた。
僕が見つけたのは、《房総昆虫博物館》だった。
「これは? 」
ディスプレイの上を指した僕の指先を横目で眺め、父は微笑を浮かべながら言った。
「昆虫博物館か。そこには前に行ったことがあるぞ。お前も一緒だったよ」
「本当に? 全然憶えてない」
「そうか。まあ、憶えているわけはないな。まだお前が言葉を喋れなかった頃のことだから」
道路は直線に入っていた。左手に海岸線が続いていた。車は相変わらずすくなかった。
「だけど、あの博物館は、どうも今ひとつだったな」
父が呟くように言った。「建物が古いせいか、標本も、どことなく埃を被っている感じでね」
「へえ、そうなのか」
「まあ、お前が行きたいのなら、行ってもいいけど」
そう言いながら、父は僕の方を向いた。
僕は父に、昆虫博物館に連れて行ってくれるように頼んだ。
博物館は、父が言うようにひどく老朽化していた。最初は白かったのだろう外壁の色は、今では薄茶色に変色しており、出入り口のガラス扉に入っている一本の大きな罅も、長いこと放置されている様子だった。僕と父は館内に入った。館内は薄暗くてひんやりとしており、リノリウムの床はきれいに磨き上げられていた。ロビーと日と繋がりになっている奥のフロアに、標本の入れられた陳列ケースが整然と並べられているのが見えた。陳列室では、象牙色の天井に巨大な扇風機の羽のようなものが二つ並んでいて、ゆっくりと回っていた。
結局、僕が父に急かされる格好で、僕たちは午後二時前に、ようやくそこを立ち去る事になった。
「何にそんなに熱中していたんだ」
「甲虫類かな。よく分からないけど、見ていて飽きないんだ」
「綺麗だからかな」
「それもあるね。」
僕は父とそんな言葉を交わした。だが実際は、博物館の昆虫たちは、必ずしも僕の心を愉しませてくれたというわけではなかった。陳列ケースに並べられた昆虫たちの数が多いほど、羽の色や甲殻の形が美しいほど、それらは僕を、何か遠いものでも見ているかのような気分にさせた。その不可思議な気分が何であるのかをもっと知りたくて、僕は、長いことあの場所にとどまっていたのだと思う。だが、その気分は靄のように掴み所がなく、僕は目の前に広がっているいびつな光景を眺めながら、館内をうろつき回っていたのだ。
その年は、夏休みが終わっても暑い日が続いた。地元の運動施設では屋外プールの閉鎖を延期し、ニュースは全国的に続いている記録的な残暑の模様を、毎晩報じた。
受験勉強は順調に進んでいた。夏期講習が終わった直後のテストで結果が良好だったので、僕は、明の在籍しているクラスに編入されることになった。
明の実際の年齢が僕より二歳上であることを知ったのは、その頃のことだ。明はおどけたような笑顔を作り、これが原因だと言いながら、シャツの裾を首元までたくし上げ、僕の目前で上半身をはだけた。胸の中央に抉ったような傷跡があった。浅い隆起がヒトデの触手のように八方に広がっていた。僕は明に言葉をかけることも出来ず、息を呑んでそれを見詰めた。
「気持ちが悪いだろう。心臓疾患の手術の跡だ」
明は努めて明るく振舞おうとしている様子だった。病気は治ったのかと僕が問うと、明は一言、
「うん」
とだけ言った。
明の年齢についての話題が、それ以降、僕と明との間に上ることは無かった。だが、同級生のはずの明が、実際は僕よりも二歳年嵩だったという事実は、僕の胸の奥に深く刻み込まれた。そしてそのことは、僕と明との関係を、決定的に変化させることになったと思う。まず僕は、何事につけ、明に対する競争意識を持つことができなくなった。又、明から自分の知らない事柄を教えてもらう事に対して、負い目のような感情を持つことがなくなった。僕と明との関係は、同級生との関係とは異なるものになったし、かといって、上級生と下級生の関係になったのかといえば、そういうものでもなかった。今にして思えば、僕は明に対して兄と弟の関係のようなものを求めていたのかもしれない。一人っ子の僕には、兄弟のいる友人をうらやむ気持ちがあったからだ。もっとも、明がどういう気持ちで僕と付き合っていたのかは分からない。明は、自分自身や自分の家族に関する事柄を、僕に向かって喋ることは滅多に無かったし、他人に関する噂話や悪口を口にすることも無かった。その代わり、彼が現在関心を抱いている事柄について話し出すと、際限が無い、といったところがあった。
Tシャツ一枚で過ごすのが辛くなりかけてきた時期、明と交わしたやり取りのなかに、強く印象に残っていることがある。
「奇形蝶っていうのがあってね」
僕の部屋で、いつものように一緒に勉強をした後の雑談の中で、明が聞きなれない言葉を口にした。
「文字通り、普通とは形の異なる蝶だ。羽の形が普通と異なるもの、色が普通と異なるものなど、いろいろといるんだけど、単なる突然変異体であって、もちろん新種などではない。ところがこれらの奇形蝶が、コレクターの間では、高値で取引されるんだ。目玉が飛び出るほどの値段が付くこともあるんだよ。僕は、そういうことってひどくグロテスクなことだと思う。学問的に何の意味も無い突然変異体を商売の種にするなんて、醜悪なことだよ。それで、そんなことをひとたびそう思うと、身の回りの物事が、すべて異様なことに思えてくるんだ。僕が採取してきた蝶を殺して標本をつくることもだ」
僕は、ついさっきまでは平静だった明の口調が、急に感情的なものに変化したことに驚いていた。明は自身の中に急に沸き起こった苛立ちを持て余しているように見えた。僕は明に言った。
「異様なことだというのは、僕にも分かる気がする。僕がピラニアを飼うのは、最初はとても綺麗だからだと自分では思っていた。手元に置いて毎日眺めていたいと思ったから飼いはじめたんだ。だけど、飼っているうちに、だんだん奇妙な気分になりはじめた。ただ単に綺麗なだけじゃなくて、それ以外のものも見え出してきたんだ。同時に、そんなものを毎日眺めていることも、奇妙なことのように思えてきた。僕は、熱帯魚店の店員が、水槽に入れて飼う魚は、可愛いくて、眺めていて心が癒されればそれでよくて、それ以外のものは邪魔なんだと言っていたことを思い出した。僕がまだピラニアを飼っているのは、飼う事が面白いからだと思う。心が癒されることばかりじゃないけど、今でも毎日眺めているよ。明が蝶の標本を作るのは、蝶の新種を発見するためだろう? これは異様なことでもなんでも無いよ。そういえば、この前、房総昆虫博物館を見てきたんだ。標本とはいえ、数え切れないほどの昆虫の死骸が並べられているのを見て、複雑な気分になったよ。ちょっと言葉では言い表せないけど、気持ち悪かった」
その時僕は、明の顔が苦しげに歪んでいることに気付いた。それで、僕はあわてて言い足した。
「だけど、それも学問の為だと思えば納得できるんだ。明が蝶の標本を作るのにしてもそうだよ」
即座に明が言い返してきた。
「学問のためだけでは無いとしたらどうなんだ」
「どういうこと? 」
「……いや、なんでもない」
苦しげな顔のまま俯いて、曖昧な口調でそう答えた後、明の顔から苛立ちが消えた。そしてその代わりに、打ちひしがれた憔悴のようなものが残った。
「……それにしても、隆はあのピラニアが本当に好きなんだなあ。なんだか羨ましい気もする。ピラニアの寿命って、何年なの? 」
明は力のない声で僕にたずねた。
「十年以上は生きるよ」
「十年.十年か…… 」
「大げさだね。そんな声を出して」
明の感に堪えた声に、僕は思わず笑ってしまった。明は、遠くを見るような空ろな目をしながら、口を閉ざしていた。
その後、明とどんな言葉を交わしたのか、僕はもう憶えていない。だが、結局その日、明はひどく落ち込んだ表情を残したまま、僕の家を後にした。僕は口が過ぎたのではないかと思い、その後しばらくの間、明とのやり取りを心の中で反芻していた。明が曖昧に濁した言葉が気になったが、そのことについて、改めて聞き返すことは無かった。
結局僕は、三つの私立中学を、明は第一志望の中学校一つだけを受験した。そして、僕も明も、受験した学校全てに合格することができた。私立中学を受験した生徒は僕の周囲にも何人かいたが、合否の結果が表立って取りざたされることは無かった。
それから何日か経って、明が僕の家に来た。彼は小さな木箱を大事そうに抱えていた。庭先に立ったまま動こうとしない明に向かって、家の中に入るように促すと、明は、いろいろと忙しいからここでいいと答えた。僕はその時、明の顔色が、ひどく蒼白い事に気付いた。
「なあ、すごく顔色が悪いよ。具合が悪いんじゃないのか」
血の気を失い、蝋のようになってしまっている明の顔を見ながら、僕はおそるおそる訊ねた。明は、大丈夫、心配ない。と答えた。少しの間沈黙が訪れた。明は所在なさげに、庭の木々に視線を泳がせていた。そしてその後、不意に僕の方に向き直った。
僕の目を真っ直ぐ見詰めながら明はぽつりと言った。
「今日の午後、この町を出る。長野県に引っ越す」
僕は混乱した。なにしろ明は、ついこの前、志望していた私立の中学校に合格したばかりなのだ。
「学校はどうするの」
「学校? 地元の公立中学に通うよ」
明は、勿体ないと呟いた僕の言葉に素っ気無く答えた。
「何の問題も無いよ。私立中学に行かなくたって医者にはなれる」
そして明は、僕の胸に押し付けるようにして、抱えていた木箱を渡しながら、
「これを渡すために来たんだ」
と言った。
そのあと明は、ジーンズの尻ポケットから出した茶封筒を僕に差し出した。開いたままの封筒の口から、折り畳まれた何枚もの紙が顔を覗かせていた。
「この封筒は、何」
「隆にあてた手紙だ。あとで読んでよ」
僕は更に訊ねた。
「じゃあ、この箱は。宝石でも入っているのか」
僕は明に冗談を言ったつもりだったが、明は笑わなかった。
「宝石か……まあ似たようなものかな。ここでは開けないで、あとで開けてよ。お日様の光に弱いから」
と言ったきり、明は急に言葉を喪ってしまったかのように、口を噤んで僕の顔をじっと見詰め続けた。明の表情は、今まで僕が見たことも無いような真剣なものだった。僕は張り詰めるような明の視線に耐え切れなくなり、
「あんまり、おっかない目で見るなよ」
と言った。
明の視線がふっと緩んだ。一瞬、呆けたような表情を見せた後、明は乾いた笑顔を僕に向けてつくった。そし て、呟くように言った。
「忘れないように、と思ってさ」
明が帰った後、僕はすぐに明からの手紙を読んだ。それは6枚の便箋に、小さく几帳面な字で丁寧に書き綴られていた。
《隆へ *** 僕が病気がちで、小学校での学年が二年遅れになってしまっていることは、隆にはもう言っただろう? 僕は、先天性の心臓疾患を患っていた。学校を休んでいるあいだ、家の中で静養するようにと、医師や両親から言われていたんだ。勉強のほうは、家庭教師を呼んでいたので何とかなった。勉強をしていないときは、標本室で過ごすことが多かった。本を読むように、蝶を眺める癖がついた。蝶の名を憶え、その姿を心に刻み付けていく作業に、僕は没頭した。蝶の存在は、不思議と僕の心を落ち着かせた。
やがて僕は、標本箱を眺めているだけでは飽き足らなくなって、捕虫網を携えて外に出るようになった。医者から安静を言い渡されている僕の身体にとって、蝶を採取するために野を出歩くことは、とても危険なことだった。だけどそのことが、逆に僕を外へと駆り立てることになった。それに、僕は自分が近いうちに死ぬんだろうと思い込んでいたんだ。どうせ死ぬなら、好きなことをして死んでいったほうがよいに決まっている。それで僕は、蝶を採り、それらの標本を作り続けた。今にして思えば、死んでもなお、標本箱の中で、己の美しい姿を保ち続ける蝶に、自分の心を託していたんだと思う。美しいものへの憧れ、死への不安、自分がこの世から消え去っていくことへの恐怖を、標本箱の中へ、僕は丹念に封じ込めていったんだ。
十一歳になって、僕は心臓の手術を受けた。成功率の低い、難しい手術だったけれど、経過は良好だった。起きているときにも眠っているときにも、四六時中僕の傍らに寄り添っていた死が、遠いところへと離れていった。
死への恐怖が去った後も、僕は標本箱に己の魂を吹き込む作業を止めなかった。標本箱と向き合うという行為が、いつのまにか、僕の生活の核になってしまっていた。
死が遠ざかってからはじめて僕は気付いた。外へ出て蝶を追う行為も、標本箱の中での閉じられた戯れにすぎなかったんだということに。
家に置いてある標本は、信州大学に寄贈することになっている。父が歳をとり、標本を管理することが重荷になってきたためだ。父は、僕が父のあとを継いで、標本の管理をするものだと思い込んでいた。僕が標本の管理を断ったときの父の顔といったら無かったよ。
ところで君は、この手紙と一緒に僕が渡した小箱を開けたか? まだなら今すぐに開けてみてくれ。……箱の中身はモンシロ蝶だ。そしてそれは、そこらで見かけるものとは違う、非常に珍しい種類のものなんだ。もちろん、蝶の標本なんて、君にとってはさほど興味を惹くものでないことは、よく分かっている。だけど、大学に寄贈することがどうしてもできなかった、僕にとっての宝物を君に渡すというアイデアが浮かんだとき、ぼくは興奮しないわけにはいかなかった。
隆はもう忘れていると思うけど、去年の秋、隆の部屋で標本の話をしかけたことがあった。もう少しで話せそうだったけど、やっぱり怖くて話すことができなかった。迷信じみたことだけど、このことを話すと死んでしまうような気がして仕方がなかったんだ。今回、手紙という形ではあるけれど、隆に話したかったことを伝えることが出来て、何だかほっとしている。
君がこの蝶をときおり眺めて僕のことを思い出してくれれば、僕にとってこれほど幸せなことはない。……それでは、さようなら *** 明より〉
明からの手紙を読み終えた後、僕は気が抜けたようになったまま、ぼんやりと座っていた。しばらく経って我に返った僕は、標本の入った木箱を開けて中を見た。モンシロチョウの羽の輝きが眩しく感じられた。僕は目を閉じた。闇の奥に、白い光がぼうっと浮かび上がって見えた。
合格したことによって、日常生活の何かがことさら変化したというわけではなかった。これまで受験勉強のために確保してきた厖大な時間が宙に浮いた。たがの緩んだような生活が何週間か続いた。水槽の中のピラニアを眺めている時間が長くなった。だが、それも一時的なことだった。中学校に入学して通学時間も長くなり、僕は今まで以上に忙しくなった。明と別れてから、彼からは何の音沙汰も無かった。僕は長野にある明の家に何度か電話をしてみた。しかし、誰も電話には出なかった。
明の死を報せる手紙が僕の家に届いたのは、今年の秋のことだった。学校から帰宅してポストの郵便物を取り出した後、差出人の住所と苗字から、それが明の家からのものであることに気付くまでに、さほど時間はかからなかった。僕は駆け込むように自室に入り、自室に閉じこもった。
明は既に、荼毘に付された後だった。
明の死因を、その手紙の文面から窺い知ることは出来なかったが、僕は、彼が長いこと患っていた心臓の病が彼の命を奪ったのに違いないと確信していた。
週末、僕は新幹線で長野へ向かった。
窓外に目をやりながら、僕は明と知り合ってからの明とのやり取りを思いおこしていた。
不意に、彼が引越しをする直前、僕に蝶の標本を手渡した明の顔が浮かんだ。あのときの明の顔の色の白さが、僕の中で、閃光のように煌めきながら彼の死と結びついたように思えた。同時に、僕の心の中に得体の知れない曇った感情が湧き起こった。その感情はあっという間にその嵩を増して、僕の中に重くわだかまった。そして、汚泥のように僕の胃や喉を塞いだ。僕はひどい胸苦しさを感じながら、車窓を流れる景色を眺めていた。
明の家は、長野駅からバスで一時間ほどのところにあった。玄関で僕を迎えたのは明の母親だった。痩身で膚の色が白く、どこか山羊を連想させる彼女の貌(かお)のなかに、僕は明の姿をはっきりと見た。
線香をあげたあと、僕は新幹線の車中からずっと心を引き摺っていたことを確かめるために、明の母に問うた。彼女の答えは、僕が懼れていたとおりのものだった。
明は長野に転地してすぐに、県内の国立病院で手術を受けたものの、術後の経過が思わしくなく、今年の九月に再手術をして、その数日後に命を落としていた。明が僕に渡した手紙の中で、十一歳のときに手術を受け、成功した、と書いていたのは嘘ではなかった。昨年の暮れに、症状が再発していたのだ。そして、今年の一月に都内の中学を受験したときには既に、試験の結果とは関わりなしに長野に移ることを決めていたのだった。
帰宅したあと、僕は食事もせずに部屋に籠もった。そして、机の引出しから、明にもらった標本を出した。僕は宝石箱を思わせるその小さな木箱を開けた。標本箱の中は、モンシロチョウを中心にして、白く細やかな光に充たされていた。その光の世界は、明が死への恐怖を自らの手で封じ込めた世界だった。
不意に、明がこの標本箱を携えて僕の家を訪れた日、庭先で椿の横に佇み、覗き込むようにして僕の顔を凝視していた彼の顔が脳裏に浮かんだ。
気が付くと、僕は声をあげて泣いていた。どれほど抑えようとしても泣き声が出るのを止めることができなかった。僕は嗚咽をおしころすために、腕を口元にきつく押し付けながら泣いた。
明の死を知った頃から、僕の心は、急速にピラニアから遠ざかっていった。その理由を、僕はうまく説明することができない。直接言葉を交わすことはできないけれど、ピラニアは僕に向かって様々なことを語りかけてくるようになっていった。そして、明の死後、ピラニアは今まで以上に饒舌になっていったと思う。最初はただ美しかっただけに思えたピラニアも、今では、ただ見とれているだけでは済まなくなった。第一、何が美しくて何が美しくないかが、僕には分からなくなった。いや、今の僕は、美しいものと醜いものとはひと繋がりに結びついていると思っている。それもこのピラニアに教えられたことなのだ。あまりにも口数が増えすぎたピラニアに、僕は胸苦しさを覚えるようになっていった。その苦しさがはっきりとした苦痛に姿を変えたとき、僕はピラニアを手放すことに決めたのだ。
僕はベッドに仰向けになったまま天井を眺めていた。今ではサーモスタットの音もなく、完全と思われる無音が闇を覆っていた。僕は体をひねってヘッドレストに置かれた目覚まし時計の蛍光針を見た。午前三時すぎだった。僕はわけもなくベッドから降り、電灯を点けて水槽に近づいた。
その時、僕は実際には眠っていたのだと思う。だが、ピラニアのいた水槽を眺めていたときの記憶、そして、僕の目に映っていた水槽の佇まいは、妙に生々しいものだった。夢の中の水槽はなみなみと水を湛え、ピラニアは水槽のちょうど中央部にとどまっていた。それはまるで凍り付いてしまったかのように、水の中で完全に静止していた。僕はピラニアを凝視した。ピラニアは僕の視線に反応し、水中で震えるように身を躍らせた。光の加減か、鱗が暗緑色の光を発した。しかしその光の揺れは、すぐに鎮まった。再び部屋の中に静寂が訪れた。時間が止まってしまったみたいだった。
「ねえ。僕はそのうちまた、お前のことを迎えに行くよ」
気が付くと、僕は目の前のピラニアに言葉をかけていた。
「いつになるかは分からない。だけど、僕はきっと、お前のことを迎えに行くよ」
僕が声を掛けた後も、ピラニアは水槽の中央にとどまったまま、微動だにしなかった。僕はその姿をずっと見ていた。しばらくしてから僕は立ち上がり、電灯を消してベッドに入った。そして僕は本当の眠りに就いた。
もう夢は見なかった。