この一連の文章は、タイトルから推測できるように原口くんの「まず、ないものねだりをしないこと」を受けた文章ではあるけれど、別に反論というわけではない。原口くんが、技術論重視の批評者を真っ向から批判しているわけじゃないということも、承知のうえ。そうそう、ついでに言っとくと、この文章は批評ではない。私はただ、道を探りたいのだ。原口くんは自分がたどり着きたい場所への道を探して「まず、ないものねだりをしないこと」と書いた、そして私は、今、自分がたどり着きたい場所への道を探して「月のために泣く」、つまりないものねだりをする。
いとうさんの言うように、原口くんの批判は、技術論的批評に向けられているというより、添削的批評に向けられていると感じた。しかし思うに、添削的批評は、本当は「批評」と言えるようなもんじゃない。ずばり「添削」とのみ、呼ぶべきだ。それでも添削は必要とされる。ミロのヴィーナスに腕をつけてくれと頼むヒトがいるなら、つけなきゃならない場合だって、ある。需要がある以上、誰かが供給せにゃならん。もちろん添削は、添削を受ける人と添削する人の合意の上でなされるべきだ。頼まれもしないのに添削をするのは、いうなればレイプみたいなものであり、好ましいとは思われない。原口くんが言うように、なるほどグロテスクですらある。というわけで、私は原口くんに、いちおう賛同している。
かつて私は、ギルドで批評の分類論を展開したとき、「添削的批評」という分類項目をつくって一説ぶった。あれは、当時のネット詩(便宜上こう呼ぶ)の状況に応じたものだ。あのころは、まだ批評というものが認識されず、おっかないものむずかしいもののように思われていた(今も思われている)。そして、あちこちのサイトでは、交流・感想・紹介・添削・観賞・批評が、区別されないまま「感想・批評」と呼ばれていた(今も呼ばれている)。だがそうした主催者側の意図的な混同は、ある意味で必要なものだ。批評の書き手は、実際にはそう多くない。だから、活発な批評コンテンツをつくるのはまだ困難なことであり、交流・感想・紹介・添削・観賞・批評のそれぞれを区別していたら、ただでさえ少ない書き手が分散してしまう。私自身、まなコイ(註;蘭の会批評部)をはじめたとき、「批評ってむずかしくないですよ。気軽に気楽に感想を書いてくださいねー♪」と、いささか無責任な物言いで書き手を集めなくてはならなかった。
とはいえ私たちは、そろそろ、交流・感想・紹介・添削・観賞・批評をあるていど区別してもよいのではないか。作者との交流(「すっごく共感しました」など)は、どう考えても批評ではない。感想(「おもしろかったです」など)も批評ではない。紹介(「女性におすすめの詩です」など)も批評とは言い切れない。添削は、さっき書いたように、批評ではない。観賞(「破裂音で構成された最終行が不安をそそる」など)は、批評に必要な要素ではあるが批評そのものではない。それでは批評とはなんなのか、それに答えられるほどネット詩界は成熟していない。私が書きたい/読みたいと思う批評は、まだネットに登場していないのかもしれない。私自身、批評というものを理解できていなくて、自分の書きたい/読みたいものがなんなのか、答えられない。
私はよくわからないまま手探りを続け、月がほしいと泣く。だが泣いても月は手に入らない。私は絶望しないし、急がない。いまのところは幻の月(批評)を仰ぐにとどめ、ネット詩評の周辺にあるもの(交流・感想・紹介・添削・観賞)について考えてゆきたい。
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