あるいは書かないでいて、さえも。
佐々宝砂

何か書くと誰かを傷つける、つー話はすでに書いた。今回は、すでに何かを書いて、そのあと何も書かずにいたとして、「何も書かないでいる」そのことによって誰ぞを傷つけることもあるのよとゆーことを書きたい。最初から全く何ひとつ書かないひとは、書かないでいることによって誰かを傷つけることはない、ないだろうと思う。一度でも何かを書いた人にのみ、この話は適用される。

当たり前の話だが、私はすべてについて書くことはできない。私は限りある才能と限りある時間しか持っていない。AとBとCとゆーものがあるとして、私はAとBについてなら書けても、Cについては全く書けないかもしれない。書けないものはやむを得ないのだが、その場合、私は「AとBに言及したくせにCについて書かない」ということによって、Cを疎外している、とも言えるのだ。AとBまで書いたところで疲れてやめちゃっても、話は同じで、わざと疎外したんでなくても、疎外したっていう事実は変わらない。

書かないでいれば書かないでいるだけ人を傷つけることになりかねない。なにしろ無視は愛の反対語なのだ。無視ほど人を傷つけるものはない。しかし、ABCと書いてほっとしても、今度はDが出てくるかもしれない、というか絶対出てくる。DをこなしたらきっとEがでてくる。Zまでやったら今度はアがでてくるであろう。キリがない。

一度何かについて書いてしまったら、もう書き続けるしかない、かもしれない。


散文(批評随筆小説等) あるいは書かないでいて、さえも。 Copyright 佐々宝砂 2006-06-10 23:15:59
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