詩を捨てよ、恋をしよう
しゃしゃり

みじめだから詩をかくのか、
詩をかくからみじめなのか。
ニワトリが先か、たまごが先かには、
研究者が結論を出したらしいけれど、みじめなきもちに答えは出ない。

詩が、さも大事な何かであるように、考えても、もちろん、それを軽んじるつもりは毛頭ないし、詩に救われたり、本質的なことをいえば、
ぼくらは、泣くために詩をかくわけでもよむわけでもなく、
むしろ、泣かないために、
あるいは、泣くかわりに、詩をかいたりよんだりするわけだとおもう。
詩は泣きだ。

だからほんとうに恋をすれば、詩なんかかかずに、恋をしていればよいのであって、
そのときは自分自身が詩でなければならないはずである。
自分自身が泣きでなければならないはずである。
そして、詩のなかにおさまって、うつくしいことばのなかの孤独な囚人のように、ただ詩のための詩をかいたって、だから、なんにもならないと、ぼくはおもう。

詩を捨てよ、恋をしよう。
なにもこわくなんかないさ、気になるあの子に電話しよう、
デイトに誘おう、
どんどん傷つこう、どんどん恥をかこう。

そして、自分がすこし、素敵になれたら、
そのすこしの傷だけのぶんの、詩をかくくらい、大人になりたいと、いつもそう思っていたい。
明日なんかいらない。
今日、だれかを、好きになって、好きでいたい。
今日だけの詩が、そこのみにてヒカリカガヤクように。





散文(批評随筆小説等) 詩を捨てよ、恋をしよう Copyright しゃしゃり 2006-06-08 22:46:56
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