午後の日ざしの庭
atsuchan69
ぼくはこの家でうまれた。赤い屋根の二階だての家だ。庭にはシュロの木がうえられてそだち、げんきに葉をのばしている。
朝、父さんがクルマにのってこの家を出てゆくと、母はきまって化粧をはじめる。
「今日もイイ子にしてるのよ」口紅を塗るかおを鏡にうつしてそう言った。
ぼくには、兄弟がいない。でも、おてつだいのリツコさんは、まるで本当の姉さんのようにやさしくしんせつなうえ、いつもいつもぼくのそばにいてくれた。
「お嫁にいかないでね」
「うん」
「ぜったいぜったい、やくそくだよ」
ぼくたちはバラ園のある庭をみおろすバルコニーで、やくそくのゆびきりをした。風がふき、シュロの木の葉がゆれていた。
ある日の夜、ぼくはベッドからおきた。いつも冷蔵庫にかならずあるにきまっているオレンジジュースがほしくなったからだ。ぬいぐるみをだいて階段をおりてゆくと、つきあたりのかべに見知らぬドアがあった。今までそこにドアなどなかったはずだ。
好奇心につきうごかされてドアのノブをまわすと、のどかな午後の日ざしをあびた庭にでた。麦藁帽子のリツコさんが花たちに水をあたえている。リツコさんはぼくに気づいていつものあの笑顔をみせてくれた。
「おひるね、さめたかしら?」
「・・・・」おひるね? そうじゃない、でも説明するのがむずかしくてぼくはだまってうなづいた。ただ、ふりむくとうしろに、暗い夜のしずけさがあった。
またある日の夜、階段をおりてゆくとつきあたりのかべにふたたびあのドアがあった。ドアのノブをまわすと、のどかな午後の日ざしとやさしいあのいつもの笑顔があった。
「どうしたの。こっちに来ないの?」
リツコさんがきいた。
「・・・・」ぼくは、しつもんに答えることができない。ここから一歩ふみだすのがこわいということが、うまくつたえられない。
ぼくはそのまま、じっと立ちつくしていた。
いく日もすぎ、その日のおひるねのまえに、ぼくはやっとあのふしぎなドアのことを話すことができた。リツコさんは笑い、
「こわくなんかないわよ。勇気をだしてドアのむこうに来たらいいのに」と言った。
「あれは本当にリツコさん?」
「そうよ、わたしよ」
リツコさんはうなづき、そしてぼくの額がこげるほどあついキスをくれた。
その日の夜、大風がふいた。廊下にもガラス窓からつたわわる恐ろしげな風の音がひびいていた。ぼくはぬいぐるみをだいて階段をおりた。つきあたりのかべ。見知らぬドア。ぼくはノブをまわしべつの世界をひらいた。
ああ、リツコさんが待っていた。のどかな午後の日ざしをあびた庭にさく花々。そよ風とふりそそぐやわらかな光。「来て」と、さしのばすほそい手。
青いしまがらのパジャマを着たぼくは、第一歩をふみだした。そしてつぎのしゅんかん、ぼくはひどく年をとった女のひとを見た。
「私よ」と、おばあさんが言った。でも、それはしわだらけのリツコさんだった。
「うそだ!」とさけび、ふりむくとぼくはつよくドアを閉め、ぬいぐるみをだいて階段をいっきにかけのぼった。
ぼくは泣いた。声をあげて泣いた。リツコさんの胸はあまりにももろく、すこし押すと今にもたおれそうだった。リツコさんにしがみつくぼくを母はむりやり引きはなし、いいかげんにしなさい! と、つよい調子でしかった。
「ちょっと、ウエディングドレスをよごしたらたいへんよ」
目のまえには、まるで天使のように白くかがやくまぶしいばかりのリツコさんがいた。リツコさんは口もとをゆるめ、少しこまった顔でぼくを見た。そして引きはなされたぼくをもういちど胸にだきよせて言った、
「あの庭に、いつもいるわ。わたし」
やがて赤い屋根のうえを幾十年もの年月がながれた。つよく閉めたきり、ずっとそのままになったドア。そのむこうに、今もまだ午後の日ざしの庭はのどかにすみついている。