良い詩・悪い詩・普通の詩
宮川三太郎から
ちょっと、いちれんの投稿を読ませてもらって
どうやら
ものすごい気合を入れて詩を書いている人
趣味でてろてろ詩を書いている人
が、いるのね。
ものすごい気合を入れて詩を書いている人が、
仮に、趣味でてろてろ書いている人を批判するとして
それは、趣味でてろてろ書いている姿勢を批判しているのか
趣味でてろてろ書かれた詩を批判しているのか
どっちなんだろう。
もし後者だとすると、趣味でてろてろ書かれた詩には、何らかの欠点があるに違いないわね。
まずは、それを説明してもらいたいわね。
いくら説明しても趣味でてろてろ書いている人にはわかりっこない
とりあえず、気合を入れて詩を書きなさい、
黙ってあれやこれを読みなさい、
ってのだけじゃ、趣味でてろてろ書いている人を納得させるのは難しいんじゃないかな。
いっぽうで、
趣味でてろてろ書いている姿勢については、なにが問題なのだろう。
たとえば、ものすごい気合を入れて書いている人の詩が、
趣味でてろてろ書いている人の詩に埋没されちゃう可能性。
なんだろ、一年くらい推敲しまくって、現代詩フォーラムに投稿してみたら
一瞬で、サーっと流れっていっちゃう感じ?とか。その無念たるや?
ま、でも、それは、現代詩フォーラムというサイトの特質上、仕方ないことで
そこに投稿したあなたが無念って感じがするけど。
別に、そういう人の受け皿になるようなメディアが他にあればいいわけでしょ。
で、そういう人の受け皿になるようなメディアってないのでしょうか。
すいません、そこらへんよく知らないんで。
かつてあったのか、そもそもなかったのかもわからないけど。
ま、ないなら、作ればいいわよね。
「一年くらい推敲しまくって、現代詩フォーラムに投稿してみたら
一瞬で、サーっと流れっていっちゃう無念」をバネに
あんたがそれを作ればいい。
あんたのような人たちの受け皿になるサイトでも詩誌でも作ればいい。
てことは、ものすごい気合を入れて詩を書く人たちにとって、
今の状況の何が問題なのかがわからない。
現代詩フォーラムにアップされているような詩が、現代詩だと思われては困るってこと?
現代詩フォーラムにアップされているような詩をみて、
これならあたしでも書けるわね、って思って
そんな人の書いた詩が現代詩フォーラムに満載されて
それをみた人が、これならあたしも
っていう悪夢のような無限ループが、いやなのかな?
でも仮にそれがそうだとして
それは現代詩フォーラムだけの現実だったりしないの?
現代詩フォーラムって、現代詩のこれからにどれくらい影響力があるのかしら?
どうなんだろう、
じゃ、
良い詩をたくさんインプットすれば、良い詩がたくさんアウトプットされる
ってのは、本当にそうなのかな。
てか、このロジックには、いくつも問題があるように思えるんだけど、
まず、誰がどうやって「良い詩」であると判別するのか。
現実的には、有名な詩人の詩を「良い詩」とするしかないんじゃない。
で、そうだとしたら
「良い詩がたくさんアウトプットされる」ってのは
このロジックを運用している時点においてすでに「有名な」
「詩人の詩にきわめて似たような詩がたくさんアウトプットされる」
ってことと同じにならないかな。
で、そのアウトプットは、次の新しいインプットになるんだから
結局、どこまで言っても
「有名な詩人の詩にきわめて似たような詩」が
ひたすらたくさんアウトプットされるだけになるんじゃない?
ま、ものすごい気合を入れて詩を書く人は
「良い詩がたくさんアウトプットされる」ってのは
「有名な詩人の詩にきわめて似たような詩がたくさんアウトプットされる」
ってことと同じじゃん、
というあたしの単純な連想に抵抗して、
あたらしい「良い詩」を書こうとしている人たちのことなのかしら。
仮にそうだとしても、
そうやって抵抗した人の書いた詩が
次のインプットとなる「良い詩」になるとは限らないから
結局さ、
「良い詩は、いつまでも残るもんだよ」
って無邪気に信じるしかないんじゃないの。
でも、それは、今、あたしたちが詩を書いているこの瞬間には、
「永遠」にわからないという前提に立つべきだと思うのよ。
つまり、
「良い詩をたくさんインプットすれば、良い詩がたくさんアウトプットされる」
というロジックを成立させるには
とてもとても長い時間が必要なのよ。
ものすごい気合を入れて詩を書いている人も
趣味でてろてろ書いている人も
とっくに死んでしまったような頃に、「良い詩」だけが、ただ残るんじゃない?