わからないことのわからなさについて
青色銀河団
ポイント制について考えてみると、そもそも人間の行為の根拠をどこに求めるかって問題になるわけです。そしてそれをとりわけ人間の自由意志に求めたのが初期のサルトルであったわけです。「嘔吐」という小説はある暇なインテリがマロニエの木の根を見ていたら急に気持ち悪くなってゲロを吐いたというだけの内容なんですが、現フォのばあいこのゲロがポイントにあたるわけです。ある日突然すべてがよそよそしく自分以外のものに感じられるときポイントというゲロを吐くわけなんです。これはさまざまな解釈ができるのですが、いろんなテキストが裸の感じでここにあってしまう、ある種の不気味さということだと思います。
一方、それを人間主義的歴史主義的だと批判したのがレヴィ=ストロースらの構造主義です。ポイント制をシステムとして分析して、ポイントと非ポイントがどこで区別されているか、この関係を分析しようという発想です。これがソシュールから構造主義以降の、社会科学とか記号論のたどっている道です。ぼくたちがイメージするようには、これとこれの間にポイントと非ポイントの境界がはっきりあるのではない。すると、ぼくたちがポイントと非ポイントを分けているからこそ、ぼくたちはポイントというものを認識できるんだということになります。つまり、物事を差異ということから考えて、ポイント制というのを差異の体系(システム)と考える発想です。しかし、この差異の説明は人によっていろんな説明ができてしまう。ポイント制をシステムとして必ずしもうまく説明できなかったんですね。
これが70年代の終わり頃から「ポイント構造主義」という言い方がはやってきた背景です。このポイント構造主義というのがほぼ今言う「ポイント・モダン」というもののはじまりです。
(参考文献「そうだったのか現代思想-ニーチェからフーコーまで」小阪修平著)