「夜と霧」(ヴィクトル・E・フランクル)
この書は、自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還しえたフランクル教授の「強制収容所における一心理学者の体験」であるが、その中の一部より、人間の自尊心の強さについて説明している部分を抜粋したい。
「第三章 死の蔭の谷にて
第二の段階とは比較的無感動の段階である。すなわち内面的な死滅が徐々に始まったのである。・・新入り囚人達は収容所生活の第一期には、苦悩に充ちた・・感情昂奮を体験するのであるが、やがてまもなく彼は自らの中でこれらを殺すことを始めるのである。
(中略)
・・この無感動こそ、当時囚人の心をつつむ最も必要な装甲であった。」
収容所に入れられた人の心の変化を分析している。第二期には、心を守るため、起こる出来事に無感動になってゆく。心が無感覚になってゆくようだ。あまりに非道く不合理なことが多すぎるからである。
そんな中で、筆者は次のような体験をする。
「ある他のとき、われわれは摂氏マイナス10度の寒さの中を、森の中で全く固く凍りついた表土を掘り起こし始めた。すなわち配水管が設置されねばならなかったのである。この時私はすでに身体がすっかり弱っていた。労働監督がやってきた。よくふくらんだ紅い頬をした彼の顔は文句なしに豚の頭を想起させた。・・すると彼はののしり始めた。「おめえ、豚犬め、俺はもうずっとお前を観察していたんだ。おめえにもっと仕事をやるからな。そして地面を歯で噛み砕かせてやるからな。おめえは今まで働かなかったということがすぐ判るんだ。おめえは一体何だったんだ。おい豚、商人か?え?」 私にとってはすでに何でも同じであった。しかし私をすぐくたばらしてやるという彼の脅しを私は真面目にとらねばならなかった。私は真っ直ぐに立ってしっかりと彼の目を見つめた。「私は医者だ。専門医です。」「なに、おめえは医者だったのか。ははあ、お前は人々から金を騙り取ったろう。ちゃんと知っているぞ。」「労働監督!私はそれどころか私の仕事を無料でしていたのだ。つまり貧者のための外来診察をしていたのだ」 しかしもうそれは言い過ぎであった。彼は今や私の上に襲い掛かり、私を地面に突き倒し、憑かれた者のように喚き散らした。私はもうどうなったか判らなくなってしまった。
(中略)
・・外面的にかつ相対的に見れば全く単純なこのエピソードの示すことは、かなり衰えて無感覚になった者にすらも、何らかの外的な粗暴さやそれによる身体的な苦痛よりも、それらすべてに伴う嘲弄に対しては、激昂の波が襲うこともあるのを示している」
この精神医学の専門家は、強制収容所で労働監督に逆らうことは、自分の命を危険にさらすことになることが判っていたにもかかわらず、嘲弄される、すなわち自分の尊厳を踏みにじる言葉に対して、憤りを禁じえず、命を危険にさらしてでも抵抗したいという衝動に逆らえなかった。この出来事を分析して、無感覚になった者でも嘲弄にたいしては心が反応する場合がある、と述べている。
人の心は、自尊心を守るためなら肉体や命を危険にさらす場合がある。逆にいえば、自分の命をかけてでも守らなければならないものがある、と感じている。その気概を捨てた時、人は余生を送るようになるのだろう。
そこまでして守る価値のあるものが自分の内面にあると感じている人が、どれだけいるのだろうか?それとも、肉体に宿る命こそが最も大切なものである、命を大切にしよう、という一見正しいがそれだけにとらわれると安っぽくなってしまう教育によって、心の命とも言える誇りは大したものではないと感じているのだろうか?
誇り、すなわち自尊心を失わずに生きてゆきたい。