批評ギ 家族『ミクシー』
黒川排除 (oldsoup)

家族『ミクシー』
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 アブストラクト<->コンクリート

 ぼくたちは今何がしたいんだとかなんだとか、その辺の答えがスムーズに出るわけがないから、ぼくたちは詩を書くのさ、と言えばなにかループしたような感じになってひどく疲れる、その時は納得していてもあとで非常に疲れる、おまえその文章三年後に見れるものなのか、ということを考えるに至って、そこをもってして立ち戻って、とりあえず何がしたいというよりは何かをしているぼくたちでありたいなどと結論を得るような例をひとつ挙げつつ書いていくわけだが、あれだよ。おれはぼくなんて言わないよ。インタネでは。おどろくほど言わねえよ。とか言って昔の文章を読むとぼく、ボクと書いてあってもううんざりだあああと言ってガッシャーンと隣の家の窓を叩き割る話をするんではなかったね。こういう錯乱がありつつも考えというのはなかなかまとまらないもんだ。特にじぶんたちが何をしたいかじぶんたちがなにものであるかとかいう一個の巨大な問題を説明するのはそれだけで困難だ。そういうでかい風呂敷を広げたいわけじゃなくて、

 この詩、いつのまにか作者の名前が変わっている、一応書いておかないと混乱するので書いておくが、ともあれ現家族の『ミクシー』という詩だが、この詩の面白いところは前の段落であげたそういうグダグダな感じがかなり明示的に現れてきているところだ。これも一応書いておかないとアレだ、まずいんだがグダグダというのはあのう、けなすベクトルのやつじゃないんですけどね。試行錯誤と書けばいかにもかっこいいのでグダグダと書いているんだがその辺のぐだぐだは要するにどんな問題にもあることであって、物事を考える時は一本の道を歩いていくんじゃなくて腹をくだすほど道草を食って目的地にたどり着くもんだが、その頃にはそこが本当に目的地なのかどうかも分からないぐらいになっているのが考えるというアクシデントなんだ。アクシデンツ? 考えるということはいつも突発的にやってくる。ちょっと今行くから、玄関で待っといてなんて言えない。やつらはいつも土足で踏み込んできてはイヤンだのアハンだのいわしてくる。そういう錯乱状態と結びつく即興をおれは楽しいと思うのでこの詩は楽しいのかというと別に楽しくはない。即興の詩というのは書いてる奴が一番楽しい。一番猛烈に楽しい。打って嬉しい見て楽しいホームランのようにはなかなかいかないのがぐっちゃぐっちゃの即興という奴だ。誰だってコンクリとかアスファルトで整備された道を歩きたい。そこを持ってきてたまには土とか石ででこぼこの道を歩きたいだとか、週末は田舎暮らしをしたいだとか、夏は北海道に行きたいだとか、そういう場所なのだ即興というやつは。だがそこに住むことが難しいように、見るだけでは楽しくっても読むとなればこれほど厳しいものはない。

 たとえばそれが湾、固い翼、旋回、という最初に提示されたものが共通性を持っていながら表面上にのみ関連しながらぶっとんでいくみたいなことが、だ。いわゆるそれらに風だの高架だのが加わることによって漠然としだすソラ、空的なものであるとか水的な言葉であるとかが自然的に存在しつつその両面にも属さない、中間層でじぶんが、というところから自然と人工物との対比みたいなものにすり替わり、人工的近代的モチーフとしてカタカナ語や超なんとかという口語的近代がぶっつけ本番でぼろぼろとこぼされていく、それらが入ってたでかい袋を握っている手や袋そのものが彼の書きたかったものだということが分かったとしても、それは最後のミクシーに対する疑問でまたしても結びつかない。それらがミ・ク・シ・ーという語感から得られた表情であることを期待しはしてもそれがどこにあるかを伝えることは困難だということで、この問題がさも巨大な問題であるかのように見える。逆に、簡単に、それは彼のミクシーなんだよといわれればそれはそれまでであって所有されたくない強い気持ちを受け取ることしかできない。で結局これは形なんだと、物質なんだという認識がいちばんしっくりくる。

 題名がミクシーで最終行がミクシーだ。これは何を意味するのかということぐらいは書けるように思う。単純な、いかにも単純な方法でありながらも、それは常にミクシーという単語を意識させ続けることが出来る。最後にもう一回ミクシーと書いておくことで、各行それぞれが強くミクシーという謎の一単語と関連づけられる。またそれが謎だということを表明しておくことがこの抽象性に対する寛容さを生み出すことにもなる。ミクシーというのは存在するミクシーのことかそれとも「ミクシー」という名前の詩のことか、どちらにしても謎は謎なんだという、言い訳にも似た寛容さを引き出している。

 またミクシーという存在を知っているひとにとってはその存在をその単語をもう一度謎な部分に引き戻す。ミクシーというのはいったいなんだったであろうかという沈黙の部分を再び敷きなおす。幼児に退行しなければならない。意味ではなく面でとらえなければならない。だが面でとらえたが最後、何も言うことは出来ない。たとえば星形(☆)をまったく知らない盲目のひとが言葉だけで説明をうけているような、というべきだろうか。そういうくるしみから徐々に、彼とのテレパシーを試みるわけである。そのための見えない導線としての詩、この詩はそういうことだ。そういうものではなくてそういうことだ。ということをおれは書くために、非常に多くの時間を要したように見せかけて、この文章自体は四十分で書いてあることを、まるで偉そうに書いておかなければならない。それはだって最後にこう書くからだ。

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散文(批評随筆小説等) 批評ギ 家族『ミクシー』 Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2006-05-22 02:00:51
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