アンソニーの忘れもの
竜一郎
アンソニーは彼の娘が物心つくまえに亡くなってしまった。奥さんのエリザベトさんは、悲嘆に暮れながらも、娘の前では気丈に振る舞っていた。
ぼくは、酒場「ウ・カリハ」で紹興酒を呑みながら、エリザベトさんの話を聞いていた。「うちのパパは」パパという度に、彼女は悲しそうな表情になる。「ジャン・コクトーの絵が好きでした。彼のような画家になりたい、というよりも、彼が観ていた世界をぼくも観たいといってアトリエに、あ、アトリエといっても、小さな書斎ですけど、そこに篭もって絵を書いていたんです。」
アンソニーのことを知っている人は少ない。彼は自分の作品を芸術とは呼ばなかった。「芸術とは、天使を観ることができるようになるツールだ。ぼくにはまだ観ることができていない。だから、」彼はいつも言いかけて途中で止めてしまう。私はあえて先を促すことはなかった。別の話に入り、そこには戻らなかった。
彼は終わらせることをひどく怖がっていたんじゃないか、と、私は思う。もちろん、だれもが終わらせることを望んではいない。彼はそれが人一倍大きかったのだろう。
ところで、アンソニーの作品に完成した作品はない。アンソニーは、「永遠の未完成」への求道者だった。ぼくは彼の良き理解者になれなかった。それでも、彼の作品をぼくが引き取ることになった。時々、彼の娘がやってきて、絵を観てゆく。彼女は、突然、「エデンは燃えているよ」と語ったり、ぼくのTシャツに妙な天使の絵を画いたりした。もしも、精神科医に彼女を紹介したら、何かの症状が見つかるかもしれない。けれども、彼女は元気だし、楽しそうだ。アンソニーの忘れものはゆっくり育っている。
アンソニーの残したものが、彼の見えなかった天使を観た。彼女こそ、彼にとっての芸術の名に相応しいことは疑いようもなかった。
彼女の名は、ナジャ、とか、いったか。ワタクシにはどうもハッキリしない。なにぶん、昔のことだ。彼女すら、もういない。掘建て小屋の隅に埃を被ったシートがあり、それをめくると、絵が観られる、とのことで、絵画鑑賞がホームレスどもの暇つぶしになっている。