小熊秀雄に学ぶ その1 
降旗 りの

「ポエ根ドラマがあってもいいかもしれない」
(註:これはサブタイトルであって小熊秀雄から学んだことではありません。)

昨日、とあることがあって「罵倒する」ということについて考えてみた。罵倒する理由など、今の(そしておそらく未来もの)私にはないのだけれど、「作品として罵倒すること」について考えてみようと思った。
「『罵倒』と言えば小熊秀雄である。(もちろん「小熊秀雄と言えば『罵倒』」では決してない。)by小熊ファンwill」という単純な回路のもと、小熊秀雄詩集(岩田宏編 岩波文庫)を読み返してみて、読みたいと思っていた「文壇諷詩曲」に辿りつく前にこの詩に出会ってしまった。


「怖ろしい言葉を」     小熊秀雄    

頭を掻きむしって
詩をかく時代は去った
立派な発声法によって
生きた人間の呼吸を吐け
友よ、
労働者詩人よ
詩の古い形式を理解しろ
だが信ずるな
僕はあいつらの
貞操をコヂあけて
砂をぶち込んでやった
真理でもないものを
真理だと堅く守っていたものにとって
君達も僕のように
暴力者となったらいい
うんと怖ろしい言葉を吐くのだ
たえがたい悲しみを
痙攣的な憤怒を
立派に整理して
吐露することが
科学的な新しい詩人の役割だ
可愛い雀斑の娘が
私達の傍にやってくるだろう
魅力はもうあいつらにないから
あいつらのところには
もう美しいものが
集まっていかないだろう
さあ、元気を出して
うたうのだ
呟いてはいけない
口の開けたてを正確にして
生活の歌をうたうのだ

(旧ひらがな使いだけ現在のものに変換)


もうこれ以上は言わない。
わかるひとにだけわかってもらえばいい。
ここに書かれている7行目
そして8行目

ああ、なんということ!!(劇画調)

実は、昨日、熱く熱く語ってしまったのだ。詩論なのか現代の詩人論なのかを。
それは、涙をも伴い、悲しみも伴い、怒りをも伴い、私の丸一日の思考を占領し、けれどある意味劇的な信頼の修復という希望と光に満ちて終わったのだけれど(少し誇張気味??)、この詩を読んだとたん、私は恥ずかしくなってしまった。昨日の論争に似たもの(その発端となった論文も含めて)はこの詩の中に凝縮されているような気がして。(註:今私はこの詩をこの詩本来の背景からではなく、読んでいます)
私たち皆、アフロどころか、ちょんまげだよなあ。過去の詩人たちからしてみたらね。
(小熊秀雄がこれを書いたのはおそらく昭和12年頃だと思う。)

長谷川龍生の声が聞こえる。
「なぁにをそんなわかりきったことを書いてるんですか。今は、もう2006年なんですよ!」

ま、それはともかくとして(へこたれない。人間というものは学べるもの。成長するもの。←ホント?)昨日の自分を振り返って、ふと思ったことがある。
「昨日の私って、熱血ドラマの主人公みたい(大汗)」
それもかなり「やれやれ」みたいなタイプ。
少し前、小説も含んだ作品の合評会があって、いつもは冷静で深く鋭い読みと指摘をしてくださるEさんという60代の男性が小説家の先生に顔を真っ赤にして反論する場面に出会った。合評会の後でEさんは、私と先生に「すみません。ついムキになってしまって」と恥ずかしそうに別の赤らめ方をして照れ笑いをした。私はその時、Eさんに「自分の作品のことなのだから、それでもいいと思います。」と言った。先生は「合評会だからね。何言われたって、とにかく自分で一番いいと思えるものを書いて、これでどうだ!ともう一度見せてください。」と仰られた。
私たちは皆ひとりひとり、自分の思う作品や方向、スタイル、詩論(持論?)を持っている。それを統一するには「詩」というものは大きすぎるし、統一されてはならないものであると私は思う。皆が皆同じタイプの詩を書いたら、それこそうんざりする。
けれど、「大切なものを守る」という行為は、時に(あるいは毎度毎度)争いを起こさせる。言葉だって武器だ。血は流さなくても胸に痛みを残す。憎しみすら起こさせることもあるかもしれない。
私は少し想像してみた。もしも私が昨日の文章を見ても無視していたら、どうだったろう?私はその人を知ろうともしないまま、その人の作品、その人を肯定する人たち、関わる場所すら否定していたと思う。
人間は、今の姿がすべてじゃない。お互いにこれから成長してゆくかもしれないし、いつか同じものを目指すかもしれない。反対に、今、同感していてもやがて違う方向に離れてゆくものもあるかもしれない。
もしも、自分がどうしても「違う」と思う詩論に遭ってしまったら、その人本人に話してみるのもいいんじゃないかな。文章のどこが違っていて、どこは肯定なのか、本意とする一番のものは何なのか、自分だったらどう考えるのか。私たちは争うときもあるかもしれないけれど、戦争をしてるわけじゃない。お互いに相手が「書いてゆく者」であると敬意を持って。そうしたら、今考えている以上のものを、またそれぞれがいつか(そう、今じゃなくて、いつか)考える、なんていうこともあるかもしれないし、自分とは全く考え方や詩の向かう種類も違うけれど認め合える、なんていうこともあるかもしれないな、
なんて、今度はちょっぴりポエ学園ドラマだったりする今日この頃。ふぅ(笑)

補足:それでも、どうしても溝が深まるばかりだったら、長谷川龍生の「ちがう人間ですよ」(現代詩文庫 続・長谷川龍生詩集 51p)を唱えながら、世界の争いを憂い、今自分のすべき道を考えましょう。



散文(批評随筆小説等) 小熊秀雄に学ぶ その1  Copyright 降旗 りの 2006-05-14 02:48:21
notebook Home 戻る