詩人に なりたいかも その4 詩人宣言
英水
さて、長々と書いてきたが、結論としての一撃を。
多くの現代詩というのは、正直に申し上げて難しすぎる。 詩のバックグラウンドを押さえていない僕には正直に言ってよく理解できない場合がままあるんです(バックグラウウンドだけではなかろうに、という意見をお持ちの方、おだまりなさい)。供給者と消費者というロジックを度外視して考えるなら、建築も音楽も詩も、僕にとっては同一だ。
つまりは僕の生活を豊かにしてくれるもの、それは享楽的、あるいは思考的愉楽かもしれない、しかしあらゆる面において僕の琴線に触れるものとしてあって欲しい。そういった感覚から述べるに、現代詩というのは部分的に難解すぎる気がするんだよね。
そして、現代詩の持つバックグラウンドは、膨大すぎる、と。
そして、こうも思うのだ。
詩というメディアこそ、あらゆる意味でのコノテーションを含みうる可能性を持っている、と。
そして、言葉をあやつる人全てが詩を書く能力を秘めているのだ、と。
だからこそ、ひとつにまとまる必要などなかろう、と。
コミュニティーの大小に応じた詩としての形式というのがあるのではなかろうか、と。
そして、そのコミュニティーを、僕たち個人が選びうる状況に、僕たちはいるんじゃなかろうか、と(誰かがチャンネルコミュニケーションっていってたな。その詩サイトにおける本当にいい例として「文学極道」さんがあると思う)。
だから、ネット詩の今後の評価は、マス・ゲームの様相を帯びるだろう(って俺はこんな予測などたてたくないんだけどね、ついでだから書いておこっと)。だって、詩は消費に向かっているわけではなく、再生産に向かっていると仮定できるわけで、再生産は何によって評価されるかというと、再生産する工場の数、いわゆる詩人の数できまると思えるからだ(工場地帯の評価についてはまったく違う話)。かつて建築家、槇 文彦は、東京の地を例えて陣取り式だといった。東京の街割りのできかたは、最初にいくつかの陣地が点在していて、その間をネットワークが結んでいき、現在の巨大都市東京がなりたっているというのだ。ドイツの諸都市の場合はこの陣地の境界が堅固であり、陣地相互が人のすむ場所として埋め尽くされることはなかった、というかそれを計画的に回避している。そんなことからもマス・ゲーム、いいじゃないか日本的で。ネットワーク、ネットワーク。
とはいえ、何においても主流というのはある。つまり、いいたいことはこうだ。
マイノリティーの主流に対する主張: おまえ、主流だからって大きな顔しているなよ、マイノリティーをなめるなよ。いつかしかけてやるぜ、でもピース。
最後に付け加えておく。僕はこのエッセイのタイトルを、最初に「詩人にだけは、なりたくない」として書き出した。(だから、文章の方向性がころころと変わる文章になってしまっている、よみずらくてごめん)ところが結論を自分で導き出して考えるに、僕はこの現代詩フォーラムにおいて、詩について喧喧諤諤論じている人たちのことが好きなんじゃないかと、そう思えてきた。難解な現代詩とどう対峙していくか、という答えは今のところ、僕は持ち合わせてはいないんだけど、現代詩フォーラムというひとつのコミュニティーから始まった僕の詩体験も、僕の嗜好から選び取った一つのコミュニティーであり、僕はそこで起こるいくつかの現象、議論に参加したいんだってこと。そして、詩人の与条件が、あるグループの中では技術を習得することだとしたら、僕は最後に言っておきたい。
僕は 詩人になりたい。