詩と建築のバックグラウンド
詩の歴史や、詩のレトリック、詩の背景もろもろについてを知らなければいけないのか? 人それぞれだ、それを読みたいひとは読めばいいし、読まなくてもいいと思う人は読まなくてもいい、とある人は僕に教えてくれ、僕もそう思っている。
ところで、僕は現在ミュンヘンの都市建築について研究をする傍ら、設計事務所でも働いている。と、こんなことを改めて披露するには訳がある。今回数回に分けて投稿しようと考えているテーマに似た問題を、建築も孕んでいるのではないか、と考えているからだ。
あるとき、一人の知人が僕にこう言った。
「私、ヴァイセンホーフ・ジードルングにこの前、行って来たんだー」
知人は、二年ほど前に来独し、現在は設計事務所に勤めているらしく(詳細はよくわからない)、ミュンヘンに来た当時はインテリアデザイナーと自称していた。ところが、ある時点から私は建築家なの、と自称し始めた。あ、そうなんだ、と思うと同時に、しかしなぜ自称職業が変わったんだ?といぶかしんでいた。
そして、ヴァイセンホーフ・ジードルンクである。ヴァイセンホーフ・ジードルンクというのは、シュツットガルトにある実験的モダン(?)集合住宅群だ。1927年当時、ミースはもとより、コルビジュエ、シャローンなど錚々たる顔ぶれが揃ってモダン住宅の提案をした。そこに行ってきたというのである。それは結構なことじゃないか。しかし、こういってはなんだが、普通ミュンヘンに来たら、そして建築やっていると自称するなら、ヴァイセンホーフはすぐ見に行くだろう!?(と川合は厚かましくもそう思っている)おまけに、コルビジュエを見たのは初めて?と聞くと、パリ近郊のあの有名な住宅なら見た、名前は忘れちゃったけど、とのたまう。サヴォア邸の名前を覚えていなくて、平然としているよ、この人。この分だと、上野の西洋美術館も誰が設計したか、知らないんじゃないの?と、その時の僕は図らずも憤慨してしまったのだ。
そういえば、こんなこともあった。あるドイツ人日本人交流会で出会った日本人青年が語学学校に通っていて、ゆくゆくはミュンヘンの設計事務所で働きたいという。だから色々教えてくださいと。それはそれはいい心がけだねー。
「で、君はどんな建築家がすきなの?」
と聞いてみた。深い意味などない。
「えー、建築家の名前って、あんま知らないんですよね−、川合さんはどうですか?」
え、知らない? 建築で飯食っていきたいってのたもうた奴が建築家の名前を知らない? 周りを見渡してみろ、君が野生でないかぎり、一棟の建物ぐらい目に入るわけであり、その一棟の建物はニョキニョキ生えてきたのではなく、きっと誰かがなにかしらの目的を持って計画・設計したはずなんだ。そうした意思をもった人たちの名前を一人として知らないのか、君は? ここで僕は考えた。あんまり俺の嗜好をほざいてもこの人には通じない恐れがある。当り障りのない建築家を言っておこう。
「ペーター・ズントーかな。僕は建築を見て感動することは稀だけど、Valsの温泉施設は感動した」
「誰ですか?そのペーター※って」
え、お前、ここに何しに来ているの? 俺は、君に歩き方から教えなければいけないのか? 残念ながらこの時点で、僕はそれ以上彼と建築について話す意欲を失ってしまったのだ。
建築家はこれらの作品を知っている必要がある。ましてやわざわざ外国にまで仕事をしにきているのであれば、なおさらだろう。ヨーロッパでは都市建築という概念が広く流通している。建築を生産するものは、都市に対して責任があるからだ。建築関係者と話していると、必ずといっていいほどStaedtebau(都市建築)の話にぶつかるといっても過言ではない。だから、建築を生産するという行為は、つまりは既存の都市に対して、自分の立ち位置を宣言することに他ならない。既存の都市というのは、つまりは都市の歴史だ。ヨーロッパ人は「都市の歴史」に住んでいるんだ。だから、ヨーロッパで設計活動を行う場合、建築の過去を知らないと言うことは、命取りだ。一方、日本の場合はあまりこの概念がない。施主が金はらうんだから、かってにやらせろよ、というのが流儀。都市に対して、遣りたい放題、無責任(と、あえて言わせてもらう)。
さて、詩の話に戻ろう。たぶん、多くの技術肯定者の意見は、こうだ。例えば、入沢康夫。お前、そんな入沢を読んでおくなんて、当たり前の行為だよ、これから詩を書いていくなら、そして詩人と自称するのであれば、と。そんな基礎さえ知らん奴と話す気さえ失せるよ、と。おっしゃる通りである。
※Peter Zumthorというのはスイスの建築家であり、泣く子も黙る、今、イケテル現代建築家の一人である。雑誌Burutusでも紹介されたりしているので建築業に携わっていなくても知っている人は多いでしょう。