中原中也記念館に行った日 〜前編〜
服部 剛
僕の部屋のベッドの枕元には、去年の夏の終わり、一人旅をした
時の写真が入ったままの白いビニール袋が置かれている。中から取
り出した無数の写真の中の一枚に、雨の降る公園に立つ石碑があ
り、幾本もの細い雨の筋が髪の毛のように伝っている石碑には、一
編の詩の言葉が直筆の白い文字で刻まれている。
これが私の故郷だ
さやかに風も吹いてゐる
あぁ おまへは
なにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ
中原中也の「帰郷」という詩から抜粋された四行である。低い山
々の緑に囲まれた山口県・湯田温泉に、約七十年以上前に帰郷した
中也は、一体何を想い故郷の地に立っていたのだろうか。「帰郷」
には次のような言葉が綴られている。
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
路傍の草影が
あどけない愁みをする
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もする
蜘蛛の巣が揺れている描写に、時に人生の暗闇の中を心細く生き
て来た中原中也の姿が現れている気がする。そんな、人生に疲れて
しまった中也を迎えた故郷の山々や木々が、哀しみを共にするよう
に独りの詩人に語りかけている情景が「帰郷」という一編の詩の中
に見える。
時にふと立ち止まり、「私は今まで何をして来たのだろう・・」
と一瞬虚しさを覚えることは、人それぞれの人生にあることだろう。
旅の鞄と黒い傘を地面に置いたまま、小雨に降られながら石碑の
前に佇んでいた僕は、再び鞄を背負い、傘を差し、雨の公園を後に
して中原中也記念館へと向かった。
* 文中の詩は 中原中也詩集(弥生書房)より引用しました。