Drawing
鈴本 蘭乃
「この世には、居なくなってはならない人間なんてひとりも居ないんだよ。誰かひとりが死んだところで、世界が回り続けることには何の支障もないのさ。お前もあいつもわたしも、大臣だろうが大統領だろうがね。」
ひどく残酷なことを言う男だ、と、そう思った。夢も希望もあったものじゃない、と。
確かに、この男の言うことに否定の余地はない。例えわたしが、今ここで死んでしまっても、世界は明日も回り続ける。誰かが泣いたって、それは世界から見れば取るに足らない小さなことだ。確かに、男の言うことは正論だ。否定する気も起こらないほどに、正論だ。その男は自分が何者であるかを名乗らなかったが、わたしはきっと、これが神であろう、と思った。神はわたしの中で、どこまでも残酷で、冷徹で、意地が悪く、何者も救わない者として存在していたから。
「わたしが今すぐ消えても良いと思っているのか」
と、訊ねたわたしに、男は言った。
「そんなことは言っていないだろう。居なくなっても良い人間なんて、ひとりも居ないんだ。」
「さっきと言っていることが違うじゃないか」
わたしがそう反論すれば、その男は、
「居なくなってはならない人間も、居なくなっても良い人間も、どちらも存在しないのだよ。分からないのかい?」
と、小馬鹿にするかのような笑みを浮かべた。わたしにはその笑みが、嘲りか、もしくは哀れみを含んだそれに思え、居た堪れなくなった。じゃあどうしろっていうんだ、そう不貞腐れるわたしの掌に、男が何かを握らせる。
「そんな世界で、何を求めて、どれを選んで、どう生きるか、だ。お前しか描けない物を描く覚悟は決まったか?」
そう言って微笑んだその男の表情からは、嘲りも哀れみも感じられず、わたしは困惑して、視線を掌に移した。決して大きくはないわたしの掌に握らされた、新品の、白いクレヨンを見つめる。
「白いクレヨンじゃ、何も描けない。」
わたしは半ば、その男が返す答えを予測しながら、そう言った。
「もう解っているんだろう?何を求めて、どれを選んで、どう生きるか。それはすべて、お前がお前自身で決めることだ。色だって、お前が決めるんだよ。」
ああ、やっぱり、と、わたしは思った。神は何者も救わない。だけど、それが正解なのだ、きっと。
「さぁ、お前にしか描けないものを描く覚悟は決まったか?」
男はまた、先ほどと同じ問いをわたしに向けた。わたしは、答える代わりにその白いクレヨンを握って―――
ひどく残酷なことを言う男だった。だけどそれはすべて、最初から最後まで、どこから見ても、正論だった。わたしはその男が神だと思った。何者も救わず、すべてを生かし、すべてを殺す神。白色のクレヨンをかざして、男がそこに居たことを確かめようとしたけれど、もうそこには、人の気配すら残っていなかった。
握りすぎたクレヨンが、小さく、ぽきん、と鳴った。