異形の詩歴書 14歳秋
佐々宝砂

 夏が終わって、私はまた学校に行ったり行かなかったりの日々を過ごした。学校に行けばまあ成績は中の上、ほとんど図書室で本を借りるためだけに学校に通っている生徒だった。その当時、私には目も合わせないくらいお互いに嫌いあってた同級生というのがおりまして(実はこいつこそが私のファースト・キスを奪ったバカヤローである。しかもそれは幸福な体験じゃなかった)、で、そいつがあるとき、教室のうしろの黒板に突然こんなことを書いたので私はびっくりした。

「人間は血のつまったただの袋である」

 そいつとは実に喋りたくなかったんだが、その文章がどこから出てきたのか知りたかったので(そいつが自分で考えたとゆー可能性は無視した)、放課後の教室で私はそのひどく気にかかる文章の出典を聞き出した。『寺山修司詩集』である、とそいつは答えた。これから何度も言及することになるであろう角川書店のカラー版日本の詩集(この全集が私にとって詩の原体験なのでしゃあないの)、その19巻に収録された『寺山修司詩集』……私は手続きもしないでその本を持ち帰った。

 「田園に死す」はかなり好きになった。それから「チェホフ祭」も。私はその一部をノートに書き写した。一方、「李庚順」は私に何の影響も及ぼさなかった。それは決してつまらない叙事詩ではないけど、「李庚順」より山田風太郎の「蝋人」の方が私は好きだった。「地獄変」もなんとも思わなかった。「地獄変」よりも夢野久作の「戦場」の方が恐ろしかった。「十五歳の詩集」は読み飛ばした(悪くない、いい感じだと思いはした。私は以後何度かこの「十五歳の詩集」を読み直すことになる)。14歳の私をぶっとばしたのは、「マダム・ラボの数奇な履歴書」と「なぜ東京都の電話帳はロートレアモンの詩よりも詩なのか」と「人力飛行機のための演説草案」と「事物のフォークロア」と「消されたものが存在する」だった。それらを読んだとき、私は、『家畜人ヤプー』よりも恐るべきものを読んでしまった、と感じたのだった。

 いま「マダム・ラボの数奇な履歴書」を読み返すと、私は苦笑せざるを得ない。佐々宝砂というこのハンドルネームを「マダム・ラボ」というのに変えてみるのも楽しいかもしれぬ、などと思ったりする。14歳当時はけっこうショックだった「人形を生む」というシチュエイションも、今となってはええ感じやのお美味やのお、と思うだけである(ううむ、今の私はナニモノかしら)。

 「人間は血のつまったただの袋である」という一節は「なぜ東京都の電話帳はロートレアモンの詩よりも詩なのか」の最後の一行だが、この言葉も、今の私にはすでに力を持たない。読者による並べ替え自由の詩、綴じられない詩集のための目次、といったやや実験的なその体裁は、モノカキとしての私を未だに刺激するものではあるけれど、中身は、もうどっちでもいい。この詩がなくても、私は立派に生きてゆける。

 見せかけの強烈さと内容の烈しさは、比例しない。電波系のコトバは、ときどき私にとってひどく退屈だ。本当に過激で危険なものは、狂気じゃない。血飛沫じゃない。セックスじゃない。アブノーマル・セックスじゃない。SMでもなければ、人肉嗜食でもない。そのたぐいのものなど、私はすでに読み厭きた。しかし、見せかけの強烈さをそれほど持たない「人力飛行機のための演説草案」と「事物のフォークロア」と「消されたものが存在する」の3つの詩は、私に今なお強い引力を発揮する。はじめて出逢った14歳のときよりも、もしかしたら、もっともっと強い引力で。

 もしもこの世に「人力飛行機のための演説草案」がなかったとしたら、私は生きてゆけないかも知れぬ。あるいは、その最後の4行で人力飛行機が飛翔しなかったとしたら、私は詩を書くなどというヤクザなことはせずに、平凡なイナカ者として暮らして平穏に天寿をまっとうしたかも知れぬ。しかし、私は「人力飛行機のための演説草案」を読んでしまい、その最後の4行で人力飛行機が飛び立ってゆくのを目撃した。ある種の詩は、ひとを飛翔させる。確かに飛翔させる。それだけが詩の目的ではないにしろ、私が最も愛するたぐいの詩は、そのような詩なのだと思う。それから「事物のフォークロア」。私はあまりにもあまりにもこの詩を愛しているので、この詩について何を書くとしても、それは下手な恋文にしかならない。「事物のフォークロア」の最後に出てくる「たとえ/約束の場所で会うための最後の橋が焼け落ちたとしても」というフレーズは、死ぬまで私の中で響き続けるだろう。

 私は、寺山修司のコトバに従って、「消されたものが存在する」で並べられた素っ気ない50音から自分の名を消した。だから私は約束の場所で寺山修司に出逢うのだ。いつかきっと。「消されたものが存在する」のコトバに影響されたひとはすべて、イデオロギーだの趣味だの嗜好だのを越えて、同じ場所で出逢うのだと私は信じている。そうだよ、たとえ、最後の橋が焼け落ちたとしても。いつかきっと。


2001.3.27.(初出 Poenique/シナプス)


散文(批評随筆小説等) 異形の詩歴書 14歳秋 Copyright 佐々宝砂 2006-04-16 00:59:09
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