嘘つきは詩人の始まり(下書きよりの抜粋)
窪ワタル

「恋してないのに恋の詩がかけるんるんですか?」何年か前にある女性から問われた事がある。その人は小説を書いていて、自分が必ずしも体験していない事も書いているのに、詩は気持を書くもの、そういう気持になるきっかけ、体験や経験がなければ書けないとおもっていたらしい。まったくの誤解なのだけれど、実は根深い誤解であるようにもおもう。小説や、歌詞がそうであるように、詩も、なんら体験や、経験とは別のところから書き始められることは多いのだ。私の経験から云えば、詩は言葉から生まれる。言葉が先にあって、書き進めようとする過程でテーマが見つかる。無線機の周波を合わせるように、言葉を捜してい行くと、結果的に、自分の意識や感情とぶつかって、それをもう一度捕まえて放り投げて拾いに行くというような感覚、詩において感情とはそういう風にして結果的に表れるものだと私はおもっている。だから、架空の事でも、嘘でも、詩は書けてしまう。空想の世界の中では、恋もすれば、人も殺す、時間も、空間も、現実も、実は大した問題ではない。世界は空想の世界に引き込まれ、言葉を持たないもに言葉が与えられるのだ。

言い換えれば、詩は嘘でできており、詩人とは嘘つきのことである。嘘をつきたくないとか本当の気持しか書けないとおもっているなら、その本当のことや気持についてもう一度疑ってみる必要がある。詩は、事実を書いていても、事実そのものになどなり得ないのだ。嘘の力を借りないで詩を書くことはできないし、本当の気持など、そう簡単に言葉にはならない。「悲しい」とおもったにしろ「嬉しい」とおもったにしろ、その気持を突き詰めて言葉にしようとすれば「悲しい」とか「嬉しい」と云うような曖昧な言葉にはならない筈だ。「悲しい」には「悲しい」の底に「嬉しい」には「嬉しい」の底に、言葉にしなければならないが簡単には言葉にならないもの、言葉にならないナニモノカが潜んでいるのだ。そのナニモノカを言葉によって捉えなおそうとする行為こそ詩作なのである。

この事を遡れば、たとえ架空の世界、想像の世界の事を書いていても、作者がある言葉を拾いだす過程では、自らの本質と否応なく対峙せざるを得ない場合が多々ある。そういう時のことを、本音とか本当の気持とか云うならば、そういえなくもないが、本質的にはそれは架空のことであり、空想であり、嘘である。詩が本当のことを書くものだと誤解されるのは、言葉を使って、言葉にならないナニモノカに向かい合ったその過程が、読者に伝わるからなのだろう。だが、それはあくまで結果でしかないのだと、詩人の側は分っておかなければならないとおもう。


散文(批評随筆小説等) 嘘つきは詩人の始まり(下書きよりの抜粋) Copyright 窪ワタル 2006-04-09 01:27:43
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