蛸。
仲本いすら

「やい、蛸」元宮のこの一声で蛸は目覚めた。
不機嫌そうに目を開き、黄色い眼球をぎょろぎょろと動かしたあと、「なんだ、お前は。」そう言った。
元宮は静かに包丁と白い綿布を取り出し、綿布を蛸にかぶせ包丁を振り上げる。
「堪忍」ただ一言そう言うと、蛸の柔軟なその茶色い足めがけて振るう。
分離したその一本の足は、今もまだ奇妙に動きを保ち蛸はその自分の足をまじまじと見つめ「なんと言う無礼な奴だ」不機嫌そうに、また言った。

「やい、蛸」元宮は千切れた蛸の足を掴みまたそう言う。
「やい、蛸。私は蛸と言う食べ物がとても好物だ。だが、しかしだな。蛸と言う生き物はこの世で一番嫌いなんだ。」
元宮の言葉をきちんと聞き入れてるのか、聞き入れていないのかわからないが蛸は元宮の手にあるそれを目で追っている。
「おまえ、それを食べるのか。」蛸はまた、不機嫌そうに言った。
「食べるも食べないも私の自由だ。」ひょいと、口に運ぶ。
吸盤は気力を失い、つぱつぱと弱く元宮の舌に吸い付く。その感触を確かめながら、それを元宮は奥歯で磨り潰していく。
「やい、蛸。これからお前が一番嫌がることをしようと思う」
意地の悪そうな顔をしながら、元宮は蛸を指差した。
「やい、蛸。いいか、これからお前の足を十分刻みに斬ってゆく。」
「そんな事をして何になる?」
「何になるか、ならないかはお前には関係のないことだ。いいか、蛸。よく聞け。」
それを飲み込む。
「斬った足を、お前の口に運んでいく。」
ごくり、と言う音とともに吸盤は胃酸へと解ける。
「その口に運んだお前の足を、お前がどうしようがお前の勝手だ。」
「それが、私の一番嫌がることなのか?」
蛸は黄色い目玉の全てを使い、元宮をしっかりと見つめている。
「そうだ、蛸。理由は、聞かなくていい。」
「お前、ただ一つだけ頼みがある」くぐもった声で蛸は言う。
「私をおもちゃにして、お前の欲を満たすのは一向に構わない。」
まるで何か悟りを開いたかのように「ただ、一つだけ頼みがある」
「もしもそれで私が死んだら、私の中にある墨で一筆、書いてもらえないだろうか。うまくなくても構わない。」
「まぁ、考えておこう。で、蛸。なんて書いてほしいのだ?」
「犠牲、と書いてくれ。」

七十分刻みの、遊戯が始まった。




散文(批評随筆小説等) 蛸。 Copyright 仲本いすら 2006-02-13 19:54:55
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